素人の日本史考察

素人の日本史考察

PR

プロフィール

はぐれっちだぜ

はぐれっちだぜ

カレンダー

カテゴリ

カテゴリ未分類

(0)

日本史

(94)

コメント新着

コメントに書き込みはありません。

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2024年04月15日
XML
テーマ: 日本の歴史(1064)
カテゴリ: 日本史
​​ 【近代化ができなかった朝鮮】
朝鮮半島は1392年、高麗から李氏朝鮮が誕生しています。
幕末から明治維新という大変革を迎えた日本ですが、李氏朝鮮は変革ができずにいました。

まず日本は、明治新政府となり王政復古したことを、対馬藩を通じて朝鮮に文書で知らせました。
しかし、李氏朝鮮は中国でしか使用が許されない「皇」(天皇)の字が入っていることなどで、受け取りを拒否。(1870年には5回も日本は使者を派遣)
そして、1871年7月に廃藩置県により対馬藩が消滅。対馬藩にある朝鮮駐在事務所(李氏朝鮮が建てた)を、大日本公館として外務省に管理させます。この措置に朝鮮は怒り、公館への食糧供給の禁止と、日本人による貿易を停止させるという報復行為をします。(1872年9月)

ところが、1874年に日清互換条款が結ばれます。これは琉球人が台湾に漂流して原住民に殺害されたのを発端として、日本の台湾出兵を受けたもので、琉球人が日本人であることを認めさせたものです。
清相手に満額ではないですが賠償金を支払わせ、国際的に琉球が日本領であることを認めさせたことに驚いた李氏朝鮮は、ようやく国書を検討したいと言います。
日本は1875年2月に外務次官をソウルに派遣するも、洋式の大礼服を着ていたことで、江戸以来の服装ではないと、またも揉めてしまいます。


◎江華島事件(1875年9月20日)と日朝修好条規(1876年2月26日)
そんな折、起きたのが江華島事件です。

よく、 ペリーのように日本も砲艦外交をしたと云われますが、アメリカのように大艦隊を出したわけではありません。早く朝鮮とわだかまりを解消して、条約を結んで近代国家同士との付き合いをしたいという思いでした。
ところが 李氏朝鮮側が、近代国家になることを拒否して、今までのような清への従属外交を望んだのが、日本・李氏朝鮮のお互いにとって不幸でした。

そして、この事件を受けて結ばれたのが 「日朝修好条規」 でした。
※李氏朝鮮の独立を謳った点
※片務的領事裁判権(ただし江戸時代の頃より、朝鮮での日本人の犯罪は対馬藩で裁いていた)
※関税自主権の喪失

いわゆる、日本が当初列強と結ばされたような不平等条約でしたが、これは清と対等条約を結んでいた以上、清の従属国である朝鮮との条約では仕方のないことでありました(清との摩擦を回避)。
ただし、 独立国と謳えたのは大きかったのです。
そして、日本の援助の下(軍事教官を迎えるなど)、近代化へと舵をきったかと思われました。


◎壬午軍乱(1882年7月)
当時の李氏朝鮮内では、幕末の日本同様、鎖国派と開国派で対立が起きていました。
宮廷内では、幼い皇帝:高宗の父: 大院君(=鎖国派) が権力を握っていました。
彼は攘夷の方針で、フランス人宣教師や、アメリカ船員などを皆殺しにするなどして強硬派でした。
高宗と妻の閔妃が成長していくと、開国派となり大院君を引きずり下ろします。
1873年11月のことでした。

そんな力を失った 大院君が盛り返すためにクーデターを起こしたのが「壬午軍乱」 です。
閔妃派の要人や日本の軍事教官、公使館員を殺害。日本公使館を焼き討ちします。
​閔妃は逃げて、清に助けを求めます。清が軍隊を派遣して大院君を幽閉。この事件を機に、李氏朝鮮は、より清への依存度を深めます。​
1882年10月、朝清商民水陸貿易章程を結ばされ、李氏朝鮮が属邦であることを明記されられます。
3000の兵を朝鮮内に駐留させ、閔妃の傀儡政権を樹立。日本式改革を捨てさせ、清国司令官管轄の軍隊を創設。そして清の人の居住、営業、旅行の自由を獲得。
のみならず、日本をけん制するために、清は次々に列強(米英独伊露仏)と朝鮮に不平等条約を結ばせます(1882年~84年)。日朝修好条規とは対照的です。
中国は今も昔も変わらないのです。

一方の日本。同1882年10月、李氏朝鮮は日本へも謝罪。賠償金50万円を5年かけて支払いすることになりましたが、日本は朝鮮のわがままを聞き入れ、朝鮮の発展のためと10万へ減額。汽艇1隻と山砲2門を贈与しました。
そして、 ​​ 李氏朝鮮の独立党を援助して、朝鮮近代化を更に後押しするのです。 ​​
お人よしの日本も、今も昔も変わらないのです。


◎甲申政変(1884年12月)と天津条約
独立党が日本公使援助の下、王宮を占拠。事大党を排除しようとするも清の介入で失敗します。
ここで再び、朝鮮は日本への賠償と、公使館護衛の駐留権を確認します。(1885年1月)

【天津条約】
そして 日本は1885年4月、清と「天津条約」を結びます。
日本は公使館護衛の駐留権を得ていました。清も壬午軍乱以降、駐留をさせていました。
朝鮮を独立させたい日本と、あくまで属領として近代化をはばむ清とで、偶発的な衝突が起きないよう下記を確認します。
・4か月以内の日清両軍の朝鮮からの撤兵と、出兵の際にはお互いに通告をし合うこと
・朝鮮は第三国支援の下、軍隊を教練して自ら治安維持をする(日清は朝鮮の教練に絡まない)

しかし、 清は袁世凱を通商事務全権委員という名目でソウルに留まらせ、中国人街を形成して清国商人を庇護。日韓両国の商人を圧迫しました。
更に4か月以内の撤兵を謳いながらも200余名の兵商を密にソウルに残留。
天津条約の骨抜きを図り、日本を追い出しにかかります。


東学党の乱:甲午農民戦争(1894年3月)
東学党とは、キリストの西学に対して儒教・仏教・道教の3つを混同した宗教団体のことです。
清に自国を売り渡す事大党に対する不満を爆発させ、乱を起こしたのです。
背景に、失脚した大院君がいたと云われます。
全国に波及していったので、袁世凱は閔妃に圧力をかけて出兵を要請させ、またも介入してきます。

天津条約の元、清は日本に出兵を通告。日本も天津条約と、公使館護衛の駐留権を理由に出兵します。
慌てた閔妃は、急遽東学党と和解しますが、日清両軍はにらみ合いの展開になります。


日清戦争開戦(1894年7月)
そしてついに、日清開戦となります。
両軍の宣戦布告を見てみると
◆日本
「朝鮮は我が国が誘って列国にした独立国なのに、清国は常に属国として内政干渉する」

◇清
「朝鮮は我が大清帝国の藩属たること二百年。毎年朝貢している国である」

日本が国際法に則った秩序で外交をおこなっていたのに対し、清はあくまで華夷秩序で外交をしていたことがよく分かる宣言文です。

日清戦争は、
◎あくまで華夷秩序を固辞して近代化を阻む・約束を守らない清
◎強い方に流れ、国を売り渡す朝鮮
が原因で起きた戦争です。​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024年04月15日 21時57分38秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: