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職人が消えてしまう。 最近、建築業の人から聞いた話だが、天然木のいい木が手に入ってもそれを製材できる職人がいなくなってしまったらしい。さらに浄化槽に設置してあるモータだが30年間回り続けているので、そろそろ新しいものに交換しようとして業者に連絡すると、いまそんなモータは手に入らない、すぐに壊れるモータしかなくなってしまったから使えるだけ使った方がいいと言うことだった。 知り合いの不動産屋と話しても、今の設備はすぐに壊れると嘆いている。良いものが作れる職人もそれを直せる職人も急速に消えていってしまっている。大企業で働いている腕のいい職人は年をとり、金儲けしか考える能力のない、とんでもないお偉いさんに放り出される。これでいいのか?いいわけはない。政治は期待できない。職人上がりの政治家はいない。威張ることと金勘定しか脳のない人間に職人仕事はわからない。マスコミも一緒だ。イエスキリストは大工だし、弟子は漁業者やらテント職人やらの職人集団だった(税務署上がりの人間もいるが)。 さて、そこで職人集団を復活させようと思う。その規則決まり手順を書き連ねていこうと思う。賛同する職人たちにちょっと手伝って貰いたいと思っているのだが!Onitsuka Tiger by Asics オニツカタイガー シューズ 靴 スニーカー 運動靴 Onitsuka Tiger by Asics オニツカタイガー Appian - Dark Blue/Dark Blue
2018年07月31日
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神は歴史上の存在ではない。天国は絶対であり、数の存在しない世界だ。釈迦の説いた無我、空と通じイエスキリストはそれは実践で示したが、数に拘束されるこの世を表現するのは難しいし、それを読み解く我々は一層の注意と緊張が必用だ。一神教がどうの、多神教がどうのと見当違いの方向を向いてお気楽に論を述べて、ガラスを爪で擦るような雑音を世の中に垂れ流しているのは本当に困る。ナイキ NIKE キャップ 帽子 スナップバック ロゴ メンズ D-F TR TWILL ADJUSTABLE CAP 729507-100 -WHITE- ホワイト/白 _FAIR
2018年07月29日
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新たに出発。とめどもなく出発。 そこで、今日は台風なのだが、あまり風がない。被害が発生してから人は焦り出す。それは自分も例外ではない。なぜ早く避難しなかったのかなどと言えるものではない。 とりあえずどこかに災害が発生し始めている。自分の所かもしれない。日本かもしれない。地球かもしれない。宇宙かもしれない。 世界はアイディアで変わっていく。かな? アイディアは実現するだろうか。などとは言わないでとめどもなく書いていこう。 腹が出てきて、立ち上がるのも難儀になってきた。そこで筋トレの王様スクワットをやることにして、スクワットのやり方をネットで調べた。50回を一日に5回やれば3ヶ月で成果がでる的なこんちきしょう的なものは最初からあいてにはしてあげないので、自分でやり方を考えた。すなわち5回を一日2回やれば、その日から成果でるということに決めた。すると、なんということだ。一日で太ももが、筋肉痛になった。これはまさに自分の言ったことが正しいという証明ではないか。腹の出たみなさん、私の考えたスクワット方法をやってみましょう。1回1分一日2分で終わり。素敵!
2018年07月28日
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途中から腰砕け的だらだら書き「巡礼の道」も100回になりました。そして歩きの旅も終了です。到着し荷物を片付け、大聖堂に向かう前に、バス停を探しに町の中を歩きました。たいして迷うこともなくバスのステーションを見つけました。頻繁にリスボン行きが出ています。これで一安心です。取りあえずここのバス停に来ればリスボンには行けそうだと思いました。驚いたことにPARIS行きと書いたバスがあったことです。時刻表のどこにもそんなバスはありません。思わずこのバスに乗ればパリまで行けちゃうんだ、そうすれば一気に日本が近づいてくると心の中で歓声をあげました。☆1 しかしこのバスはいったいなんなのでしょうか。切符売り場の時刻表にもネットでも調べてもそんなバスはないのです。本当に何千キロも離れたパリにこのバスは走っていくのでしょうか?トトロのネコバスじゃないのかなと思ったほどです。こう言う言い方は失礼だと思いますが、何か人生に疲れた人が暗い室内に入っていくような感じがしました。そうであれば僕も乗る権利はあるのだぞと思ってしまいます。しかし、飛行機が出るまで後一ヶ月あります。今パリについてもどうしていいか分かりません。取りあえずはリスボンでいいのだと、無思考的に判断をしました。☆2それから大聖堂広場に向かいました。そこはとても広い場所で、前には伝統的な教会が後ろにはモダンな巨大教会が建っていました。伝統的教会に向かって左側には野外教会と右側には案内所的博物館的一寸分からない建物が建っていました。野外教会ではミサを行っていました。そこに一寸居てから、伝統的教会に入りました。誰かがお膳立てをしてくれたかのように、ちょうどミサが始まるところでした。ミサの中に居るととても安心できます。国も民族も超越して心が通じていきます。なんだか不思議です。ミサが終わり教会の中を見学しました。教会前方の両翼にルシア、フランシスコ、ヤシンタの棺がありました。 ルシアは天に召されてまだ10年しかたっていません。☆3 野外教会の横に沢山ローソクが立っている場所があって、多くの人がローソクに火をつけて立てかけていました。これはなんだか分からないけど、やってみようと思いローソクを売っているところを探したら直ぐに見つかりました。大小様々あって適当な大きさの取ってから箱にお金を入れました。さて少し並んでロウソクに火を点けて端の方に立てかけました。ローソクから出てくる煙を頭や顔や痛みが出ている膝になすりつけました。もちろんそんなことをしている人は誰もいませんし、誰からも気にもされていませんでした。☆4 さて夜は、歩き巡礼の達成ですから、ホテルのレストランで一人パーティーをしました。フルコースで二人のウエーターがつき(最初他にお客さんがいなかったので)、途中でシェフが料理はいかがですかと聞きに来ました。すばらしい料理でした。飲み物まで付けて千円ちょっとでした。本当にこんな値段でいいのかなと思いました。外のレストランでステーキランチみたいなものが800円位ですから、この値段はビックリです。 ☆5 さて、残念ながら写真が容量を超えてしまったので掲載できなくなりましたので、ここでひとまず終了させていただきます。本当に長い間、尋ねていただきましてありがとうございました。 尚この話しはライブドアブログで行っていますので、もしよろしければそちらでご覧いただければ嬉しいです。http://yonaco.blog.jp/
2014年08月05日
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※ ごめんなさい。 画像容量がなくなってしまいました。 いよいよ歩き巡礼の最終日です。10kg以上の荷物(最後は12kgくらい)を担ぎ2ヶ月間約1150kmを歩きました。スポーツはだめ、重いものは持てない。10m以上走ると足がもつれる。どんな山道でもエスカレータを一応探してみる。ニワトリでさえ間違えない道を必ず間違える。交通機関の切符を買うための正しい列を見つけることができない。等々の性癖をもっているぼくが、一人でポルトガルのファティマまで来られた。これは、ぼくにとって奇跡以外のなにものでもありません。☆1 聖母出現の場所として、ルルドとファティマは知っていましたが、そこに行くことなど絶対にないと思っていました。ルルドはフランス、でもファティマは世界のどこにあるかも知りませんでした。それがサンティアゴ・デ・コンポステーラに行く途中にポルトガルであることを知りました。ポルトガルに行くことは全く考えていなかったことでした。 そのファティマに今日辿り着きます。恐ろしいほど不思議な出来事でした。☆2 早朝からバルのご主人に朝食と昼の弁当として、二つのボカディージョを頼むと「いいよ、ちょっと待ちな」と言って手際よく作ってくれました。それから出掛ける前に消防署の人にお礼の挨拶をして、スタンプも貰いたいのですが言うと、それでは「ついてこい」と言って、消防署の事務所に連れて行ってくれて、スタンプも押して貰うことが出来ました。☆3 バルのご主人と別れを告げて、消防署を左から回り込むように坂道に入り込んでいきました。すると直ぐに巡礼矢印を見つけることが出来ました。山道に入って行きました。 サンティアゴ・デ・コンポステーラのガリシア州を歩いているような感じでした。最後の最後でやっと巡礼路にもどれたと思いました。人と会うことはありません。山道からやがて森の中に入っていきました。ファティマは目前でした。しかし気が急いていたので、歩いても歩いても森からでることができないように感じました。荷物の重さが肩にのし掛かってきました。やがて森を抜け道路にでました。道路の向こうに巨大な駐車場が見えました。ファティマ到着でした。ネット予約したホテルを目指しました。一人祝いで一泊5千円もする高級ホテルを三泊予約していました。町は人がたくさんいました。みんな車で来ているのです。☆4 やがて立派なホテルに辿り着き、朝食付に変更して貰い部屋の鍵をもらい、部屋に入りました。とても綺麗な部屋で、日本だったら、とてもこの値段では泊まれるような部屋ではありませんでした。さっそく風呂に入り、バスタブで洗濯をして、美しく広い風呂場に洗濯物をほすと、さっそく大聖堂にむかいました。☆5
2014年08月01日
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昨夜は寒かった上に水風呂に入ったので、頭と喉が痛くなりました。何カ所かでファティマの巡礼矢印を見つけて、いよいよ近づいてきた感じがします。道はなだらかな上り坂で、大きな車が頻繁に走っている道ではないので、恐怖感はなくなっていました。回りは低い山が連なっています。久しぶりにオリーブ畑も見ました。オリーブ畑をみるとなんだかホッとします。しかし人に会うことはありません。もちろんバルはありません。田舎の道を歩いて行くだけです。こんな田舎の村の三人の幼い子供に聖母マリアが出現しました。☆1 この場所で、虚言を吐くことも、幻覚をみることも全く考えられない場所でした。それはこの巡礼を歩いてきて得られた、実感です。本当に大切なものは理論や理屈では得られない、それは星の王子様が、大切なものは目に見えないと言うことに繋がると思います。 三人の子供達、ルシア、フランシスコ、ヤシンタのうちフランシスコとヤシンタは聖母マリアの預言通り、間もなく死んでしまいます。ルシアは10年前に97歳でなくなりました。☆2 さて、昨日の村(町)よりかは大きな町に辿り着きました。この町にも宿はないのです。わざわざここに泊まりに来る人はいないのでしょう。通りを歩いていたご婦人に消防署の場所を尋ねると、直ぐに分かりました。大きな通りの角を曲がったところにありました。 中に入り、どうも1階に人がいなかったので、勝手に二階に上がっていきました、そこの会議室のような所に消防士さんがいましたので、 そこでまた紹介状の紙を見せると、廊下を歩いて先の集会室に通されて、ここを使いなさいと言われました。シャワーはありませんでしたが、昨夜よりは家の中の部屋的だったので安心しました。その集会室には毛布が沢山あったので、ここで巡礼者が寝ることもあるのだろうと思いました。ここからファテイマまでは17kmです。きっとここから巡礼をはじめる人が多いような気がしました。その後町を歩いても開いている店は見つかりませんでした。車がならんで三台ありましたが、そのうちの一台がススキでした。スペインでもそうでしたが山の田舎町ではよくスズキの車を見掛けました。☆3 さて、消防署の中に社員食堂のような感じでバルがありました。そこは消防署に関係ない町の人も入ってきてコーヒーを飲んだり、ビールを飲んだりしています。ぼくはそこで早めの夕食でボカディージョとコーラを頼みました。するとそこにおじさんが近づいてきて「どこから来たの」聞かれたので、日本ですと答えました。するとそのおじさんは、私らが、あんたの国に鉄砲を教えてあげたのだよと言いましたので、まさにそうですね。あるがとうと言いました。個人的には、鉄砲よりもカステラのほうが有難いと思っているのですが、ポルトガルの人はカステラはあまり知らないと思います。エッグタルトはポルトガル中満ちあふれています。日本中にある饅頭よりもポルトガル中にあるエッグタルトのほうが遥かに多いと思います。☆4 そのおじさんとはすっかり仲良くなってしまいました。おれは車を二台持っているが二台ともトヨタだと言いました。その後、バルにいた消防士さんや店の鬚をはやしたおじさんに旧知の仲のように、ぼくを紹介してくれました。ポルトガルの人はシャイな人が多いので、知り合いになるととても親切にしてくれます。バルのおじさんも次の日の早朝に朝食用と昼飯用のサンドイッチを作ってくれました。 さてこの日の夜は、犬の遠吠えも、梟の鳴き声もなく安心して寝ることが出来ました。 ☆5
2014年07月31日
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しばらく坂を登っていくと、ちょっとおかしいと思い、通りすがりのご婦人にSANTAREMの案内所で書いてもらった紙を見せたところ、今来た道を指さして何か説明してくれました。一本道ですから見過ごしたのは明らかでした。唯一知っているポルトガル語オブリガードを何回も言って、道を戻るとバルの前に大きな消防署がありました。☆1中に入って、紙を見せると、話は伝わっていたらしく、劇場に入るような大きな階段を上ったところの体育館で寝ろと言われました。シャワーを使ってもいいよと言われましたので、今までの習慣ですぐにシャワー室に行きました。10くらいシャワーがありましたが、蛇口がついているのが二つくらいしかありませんでした。 しかも水しか出ません。あまり使われた形跡のないシャワー室でした。大きな体育館で人の気配は全くありません。夕ご飯どうしたかは覚えていません。☆2多分バルでボカディージョを食べたのだと思います。さて体育館もあまり使われている形跡がありません。湿った古めかしいマットがいくつか積み上がっていました。巡礼前にハウスペグの恐ろしい話を聞いていましたので、心配でしたが寝袋で床の上に寝るのは辛いので、やはりマットを敷いてその上に寝ました。夜になり、人の気配は全くありません。きっと火事なんか千年に一回くらしかないのだと思います。上の方にある窓から灰色の夜が分かります。遠くから犬の遠吠えが聞こえ、屋根の上では梟が鳴いていました。☆3自分の家から遙か遠く、ここが何処かも分からず、人が誰もいない廃墟のような体育館の片隅で横たわっている自分が不思議でした。しかし後2日で聖母マリアが現れたファテイマに辿り着くとは思っていました。探検家の鋼のような心は、もちろん持っておらず、どちらかと言えば、すずめくらいのはかない心臓しかないのですから、眠ることも出来ず、トイレに行きたくなった時の恐怖感は大変なものでした。☆4 それでも勇気を奮い起こし、体育館の扉をあけ、人の気配が全くない廊下をあるき後ろにポルトガルのお化けの気配を感じながらトイレに入りました。きっとこの時火事のサイレンが鳴れば、誰よりも早く消防車に飛び乗ったと思います。 しかしやがて眠りにつき、朝がきました。7時前には消防署を出ました。受付の人にオブリガードと言って、巡礼のスタンプを押して貰い、もう一度オブリガードといって前のバルに行きました。そんな早い時間でもバルは開いていました。消防署の人がコーヒーを飲んでいました。消防署員のために、このバルは早朝からやっているのでしょう。ポルトガルの人はコーヒーと言えばエスプレッソです。消防署の人もカウンターで小さなカップのエスプレッソだけを飲んで店を出て行きます。これで朝食は終わりなのでしょうか? 寝起きの一杯と言うことかも知れません。ぼくは多分、オレンジジュースとチョコレートパンを食べたと思います。さてこの日はMINDに向かいます。もう一度消防署泊になりますが、次の日いよいよファテイマ到着です。これで歩きの巡礼は最後にすることにしていました。そしてパリから帰りの飛行機がでるまで後一ヶ月になりました。やっと三分の二終了です。☆5
2014年07月26日
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SANTAREMの宿は朝食がついていて、オーナーの人は起きては来ませんでしたが、アルベルゲの朝食のように食堂にビュッフェスタイルでいろいろ並んでいました。 そういえば昨晩の夕食は、宿の主人に教えられたレストランに行ったのですが、夕方なのに店を閉め始めていた入れませんでした。それで宿のそばのピザ屋にいって食べました。安くてなかなか美味しかったと思いますが、日本のピザ屋さんの簡易版のような店でした。☆1 SANTAREMはポルトガルを歩いてきた町の中では最も大きな町でした。ここからサンティアゴ・デ・コンポステーラへ行く道と分かれて山側の道に入り、ファティマに向かいます。今、Google mapで歩いた道を確認したらものすごく懐かしく、こみ上げてくるものがありました。mapで見ると19.6kmとなっています。日本を出て2ヶ月が過ぎ、この道を歩き続けているなどと日本を出るときは想像も出来なかったことです。さて大きな町を抜け出すときは、道を探さなければなりません。残念ながら巡礼の矢印は見当たりませんでした。昨日方向を確認してありましたので、途中雑木になっている坂道を下りながら町を出て行きました。小さな道路を渡ると、遠くに大きな川が見え、さらに狭い下りの階段が続きます。☆2 やがて鉄道の踏切の所まできました。そこに自転車公式スタイルの逞しいおじさんが4人踏切の開くのを待っていたので、せっかくなのでファテイマの道はこの道であっていますかと聞きました。おじさんが4人いれば、その中の一人は巡礼に詳しい人がいます。以前にも道路沿いのバルに入ったところトラック乗りのおじさんが3,4人いて、そのうちの一人が、リュックのホタテ貝を見つけると、他の仲間に、こいつは歩いてサンティアゴ・デ・コンポステーラに行くんだと語っていたので、いやいやファティマに行きますと言いました。☆3 この踏切前の自転車乗りのおじさんの一人も巡礼に詳しい人がいて、サンティアゴ・デ・コンポステーラにいくんじゃないのかと言われたので、そこはもう行ったので次にファティマに行きますと言いました。するとその逞しいおじさんは、踏切を渡って右に行けばファティマだと教えてくれました。たしかに荷物無く自転車で突っ走ればわけなくファティマに着いてしまうでしょう。しかし僕はあと二回消防署にとまってやっとファティマに到着になります。しばらく待つと、目の前をポルトガルの列車が通過していきました。その時ビックリしたことが起きました。線路脇の小屋からご婦人が出てきて、手巻き式レバーを巻き上げて、踏切を開けたのです。自転車乗りのおじさんは、あの小屋にご婦人が身を潜めていたのをご存じだったのでしょうか。☆4 人通りがなく、たまに自転車乗りのおじさんと、極たまに怪しげな東洋人の巡礼者が通過するしかない踏切脇の小さな小屋に、ご婦人が身を潜めて列車を通過するのを見ているのは、何かお伽噺の国に来たような感じです。写真を撮る間もなくソソクサとご婦人は小屋に入ってしまいました。きっと百年も前からあのご婦人は、あの小屋から出ることも無く、この踏切を上げ下げしているような感じさえしてきます。 さらにしばらく歩き、ガソリンスタンドのバルで菓子パンとコーラを頼み、さらに山道を登っていき、この巡礼旅ではじめての蛇と遭遇しました。多くの聖母マリア像は蛇を踏みつけているので、ファティマは確実に近づいているの感じながら、やがてちょっと村的な雰囲気のあるところに入って行きました。右側にバルがあるのを眺めながら、左側は見ず、したがって左側の消防署は見ないでそのまま坂をへろへろと登っていきました。☆5
2014年07月12日
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この日の道も巡礼道ではなく、国道の脇を歩くことになります。SANTAREMからは巡礼道になります。田舎の国道で特にカーブしているところでウサギ耳型サイドミラーの巨大トラックとすれ違ったら完全にアウトになります。もうこれはかけになります。エイと歩いて巨大トラックが来ないことを祈るばかりでした。雨も降りはじめてしまいました。途中にちょっとした町がありました。そこのバルでカフェコンレチェと一寸したものを食べたように思います。非常食としてスニッカーズを買いました。コカコーラとスニッカーズはスペインでもポルトガルでも多くの店に置いてありました。トイレを借りて出発しましたが、後どの位、どんなところを歩けばいいのか分からない状態だったと思います。とにかく国道があるだけですから道に迷うことはなかったと思います。☆1 SANTAREMは大きな町です。入り口に装甲車と兵隊さんのモニュメントがありちょっとギョとしました。ギョッとしたまま町に入っていくと、とても美しい町でした。バルでコーヒーを飲んでいる、暇そうなおじさん達にどこかに案内所がありませんかと聞きました。暇つぶしの種が飛んできたようなものですから、いろいろ聞かれました。日本から来た巡礼者だということは伝わったみたいで、ぼくと同程度の、ようするに出鱈目英語で案内所のある場所を教えてくれました。出鱈目英語同士だと英語は通じるのです。☆2 商店街のなかに案内所はありました。そこにいた若い女性は英語ができるのですが、とても分かりやすい英語といっても、単語での会話になりました。宿を頼むとオールドスタイルかニュースタイルかというのですが、ニュースタイルは安いと言いました。それはきっとドミトリーのことだと思いましが、やはりその通りでした。それから巡礼地ファティマに行くには後2日泊まらなければならないのですが、その間に宿はありません。そのことを伝えるました。ぼくの後ろに若いカップルが順番を待っていましたので、長くなりそうだったので、この人達を先にしてくださいと言ったのですが、そんなこと気にしなくてもいいのよと言いました。若いカップルも笑いながら気にしないでくださいと言いました。 今回の旅で感じたことは、自分の順番や座席の権利は激しく守るということです。これはどこでもそうだったように思います。店の人と客が世間話をはじめても、後ろに並んだ人はそれを気長に待ちます。日本だったら大変なことになりそうです。☆3 さて案内所の人は、電話を何カ所かに掛けたくさんポルトガル語の早口でしゃべっていました。そして紙に住所と名前を書いたものをわたしてくれました。そして、説明はなんとパソコンのグーグル翻訳で日本語に直しながら説明をしてくれました。二つの村の消防署と話したので、そこで泊まりなさいということでした。これで野宿は回避されました。☆4 お礼を言って、案内所のそばのドミトリーの宿にいきました。そこも案内所の女性が電話を入れておいてくれました。SANTAREMは町も綺麗で人も親切です。ポルトガルは SANTAREMは外せない場所です。さて宿の人も親切で、最近日本人が泊まったよと言って記録ノートを見せてくれました。サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指してリスボンから歩いている人がいるようです。明日から巡礼道はファティマへの道になります。☆5
2014年07月07日
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AZUM BUJAの宿はドライブインのようなところでしたから、駐車している車の間を通って道路に出て、道路を歩いてCARTXO に向かいました。まったく巡礼道から外れていきました。CARTXOの町ではネットで探しても宿は1軒しかなく、AZUM BUJAの宿で聞いてもその宿を進められたので、AZUM BUJAの宿の受付けのアルバイトのような若い女の人にその宿の予約を取ってもらいました。☆1 途中の道は全然覚えていません。これを書くのを完全にサボっているので一年以上が過ぎてしまいました。前の日のことも覚えてないのに、1年以上も前のことはもう幻になりかけています。日記には、月曜日だったので車がたくさん走っていて、人には会わなかったと書いてあります。途中雲が出てきたけれど、たいした雨が降らなくて助かったと書いてあります。道路の脇の雑草が汚く生えているところに座り込んだことがあったので、たぶんこの時かもしれません。 もうほとんど歩くのがイヤになっていたのだと思います。☆211時過ぎにCARTXOにつきました。普通の田舎の町で、昨日に引き続き面白味のない宿でした。高校生くらいのスポーツチームが試合をしにきたような感じで泊まって居ました。 英語で話していたので、イギリスから来たのかもしれません。声は掛けませんでした。荷物を部屋に置くと、町外れの宿から町中に行き昼食をどこかで食べようと思いました。 何軒かのバルを外から見ると、なかで男が数人集まってカードゲームをしていました。 月曜日の昼間から、のんびりしている所だなと思いました。このカードゲームがカルタの原点なのかどうかは分かりません。町のことを案内するようなところは、全くありませんでした。町中の入りやすいバルにはいり、ジュースとボカディージョを頼みました。☆3 隣のテーブルの人がスペイン・ポルトガルの定番のフライドポテトと目玉焼き二つというのを食べていたので、これにすれば良かった思いました。この店のおばさんとアルバイトの学生さん(多分)は、めずらしい東洋人に親切に対応してくれました。この学生さんにカルタのことを聞いたと思うのですが、分からないと言われたと思います。 結局夕食も、この店に来て、フライドポテトと目玉焼き二個を食べました。このメニュー名が分からないので、ノートにへたくそな絵を描いたらすぐにわかってくれました。☆4 昼間いたアルバイト学生は友達の男の子と女の子とで、客としていました。挨拶をすると、どうも僕のことを友達に説明していました。ポルトガル語なので分かりませんが、多分日本からきた巡礼者だということを話してくれていたのだと思います。フライドポテトと目玉焼き二個を食べていると、なんだそれが食べたのかと言うように、笑っていました。 サラダを頼んだのですが、それはなくて野菜のない1日になってしまいました。食べ終わって店をでるとき、学生さんと挨拶をしました。宿の部屋は覚えていません。部屋にシャワーとトイレはついていたと思います。朝食付でした、バイキング形式で高校生は真ん中の大きなテーブルで僕は窓際のテーブルで一人で食べると、すぐに宿をでました。☆5 今日はSANTAREMに向かいます。巡礼道に戻ります。大きな町であるはずです。この町から、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道から別れて、ファテイマの巡礼道にはいり、山に向かいます。しかもこの町の先から宿はありません。野宿になってオオカミがでたらどうしようなどと、不安がよぎりました。
2014年07月06日
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2013年6月16日(日) 昨日は土曜日でしたので、夜教会へ行きました。すばらしい教会でした、ポルトガル語のミサ曲を聞いていますと、ポルトガル語はスペイン語をまろやかにしたような感じをうけました。そしてどの教会も、ミサ曲を歌う人の声の美しさと声量のすばらしさに驚きます。さらに教会の構造が、パイプオルガンと歌声を効果的に反映する仕組みになっているのだと思いました。☆1 さらに昨日の昼間入った小さなバルに揚げ物があったので、それを昼食にしようとその揚げ物を2種類ほど頼みました。なんとそれは薩摩揚げだったのです。多分テージョ川の白身魚の煉りものを揚げたものだと思います。ポルトガルの人が種子島に鉄砲を伝えただけでなく、薩摩揚げも伝えたのかもしれません。夜はホテルの近所のレストランに行きました。アンティックな立派なレストランで、家族連れや仲間同士で賑わっていました。一人は僕ぐらいでした。しかし、ウエイターの人はポルトガル的優しさで丁寧に対応してくれました。☆2 サラダに焼き魚、最後にデザートを頼みました。飲み物は多分ワインをたのんだと思います。それはどれも美味しかったのですが、回りを見ると、どのテーブルも皿に垂直に伸びた30センチ位の柱にサラミのようなものが刺さっていて、それをたのんでいるのです。グループで一つか二つ置かれているのですから、どうも僕が注文出来る雰囲気のものではありません。いったいこの料理はなんなのでしょうか?この料理を食べなかったのが心残りです。次回来たときには、まず最初にこれを絶対に頼むと心に固く誓ったのでした。 さてこの日の朝、ホテルの主人が、この道を歩いて行くのであれば、黄色の安全チョッキを着ていかなければだめだと言いました。☆3そのホテルにで、安全チョッキを売っていましたから、巡礼者が泊まるホテルだったのです。500円位だったと思います。それ以来僕は安全チョッキを着て歩くことになりました。なんとその安全チョッキは道路工事の人トラックの運転手さん等がまったく同じものを着ていました。歩きながら、そのような人を見掛けるとすごい親近感がわきました。その黄色のチョッキを着た僕の姿は、そのホテルのホームページのアルバムから見ることができます。なんとそのアルバムに東京からきた年配の女性が巡礼スタイルで一人で写っていました。多分一ヶ月か二ヶ月前に一人で歩いていたのだと思います。不思議な人もいるものだと、つくづく思いました。☆4 ホテルの前の道がたぶん巡礼路でしたから、ホテルを出て北に向かい町をでました。ホテルの主人がAzum Bujaのホテルを予約してくれました。ホテルは朝食付きでした。 国道3号線を歩き、途中3kmで右に入ると日記に書かれています。多分Azum Bujaの町の手前3kmのところでホテルの看板を見つけて右の道に入ったのだと思います。 ロッジのようなホテルでした、食堂が併設されていましたので、そこで食べたのを覚えています。明日は巡礼路から大きくそれて、CARTXO に向かいます。この町から日本にカルタが伝わったのだ、このときは思い込んでいたからでした。でもそれは違うようでした。☆5
2014年06月07日
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2013年6月15日(土) 帰りの飛行機がパリの飛行場から出るのに、まだ一ヶ月以上ありました。この巡礼が終われば、パリに向かい飛行機が出るまでのんびりしたいところですが、世界で最も有名な観光地だけあってホテルが高いのです。安いホテルでも一泊1万円近くします。アルベルゲであれば15泊は出来てしまいます。パリにはやく着いたらば、大変なことになるという気持ちが強くありました。ところが昨日の休憩日にネットでパリの宿を調べていると、なんと一泊20€で朝食付きという宿が見つかったのです。日本円でその時のレートで2200円位だったと思います。☆1それで本日VILA FRANCA de XIRA FRORA BARというホテルからパリに電話をしたのですが上手く繋がらないのです。しかしこのホテルのwifiは良好だったので、パリの宿がやっているブログの掲示板に宿泊したい旨を書き込みました。すると折り返し返事がきて、10日間の予約が取れてしまいました。ものすごく気楽になりました。最後の10日間の過ごし方が決まりました。「スーパーでパンと水を買ってボケーッとする」という夢のような世界が最後に待っているのだと思うと気持ちが楽になり、歩く力も沸いてきました。☆2 さて、本題にもどします。連泊したホテル(民宿)の費用は事前に払っていましたので、出発する日の早朝は受付に誰もいませんでしたし、声を掛けたのですが誰も出てくる気配がなかったので、鍵を置いてVILA FRANCA de XIRA に向かいました。出発する道は、大きなスーパーの先の道を、国道から外れて右折し線路を越えて多分産業道路のようなところを歩くことに決めていました。これらのことは、全部グーグルの地図を見て決めていました。とにかくファティマに行く。道は適当に歩く。巡礼道は時々歩くことがあります。それは矢印を見つけて、ここは巡礼道だったんだと気がつきます。☆3でも巡礼者を見掛けないどころか人を見掛けない場所もたくさんありました。一度団地の中を歩きました、どこをどのように歩いていいのか分からないので住民の人に聞いたところ、そこの脇道のところを、みんな歩いてますよ言われました。つまり巡礼で歩いている人はいるのです。僕は、人が歩いていないタイミングをずっと引きずりながら歩いているのかもしれません。その道は団地の建物と屛のわずか1m幅程の道でした。日本の団地と全く一緒で、すなわち地元の人がショートカットするための隠れ道のようなところです。エッ!ここが巡礼の道なのと感動しました。その先が草ボウボウの野原で向こうから大きな放し飼いの犬が歩いてきたときは緊張しました。挨拶してもいいのですが、相手が挨拶だと思わなかったときは危険です。お互いに横目で見ながらすれ違いました。☆4 さてこの日は元気になったと言っても、体調は万全ではなく10キロメートルほどの行程で、VILA FRANCA de XIRA に到着しました。テージョ川に沿った町で、駅もそばにあり、町はまさに東京ディズニーランドです。走っている電車も東京ディズニーランド風でした。ポルトガルの人の色彩感覚はとても夢があります。町に到着し、取りあえずコーヒーショップに入り、コーヒーとお菓子で一息入れた後、ホテルを探しました。警察官が歩いていたのでホテルの場所を聞きましたら、ここだよ言われました。ホテルの前でホテル場所を聞いたのでした。やはり体調は万全でなく、そうとう頭の具合も悪くなっているようでした。さて、ホテルにチェックインするとそこの支配人の人がやはりポルトガル的いい人でいろいろ心配をしてくれました。☆5
2014年05月19日
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2013年6月13・14日(木・金) お腹の調子がおかしく、あまり眠れないまま朝をむかえ、しかしYHを出て16kmを歩きました。昨日確認していたので、国際博覧会場までは、迷うことなく歩き、さらに川に沿って北上しました。昨夜、ネットで調べてVerderha de Baxio のホテルに予約を入れていました。体調がおかしく、テージョ川に掛かる橋の手前から国道を歩くことにしました。しかし、国道に歩道はありません。部分的にわずかにあるのですが、ほとんどありません。☆0 歩いている横を巨大トラックがものすごいスピードで走って行きます。怖いなんて言うものではありません。重たいリュックを担いでいる上に、目が悪いのでよろけることもありますが、ここでタイミング悪くよろけたら大変なことになります。疲れたからと言ってリュックを下ろしてて休む場所もありません。取りあえず耐えて前に進んでいくと言う状況でした。☆1その長い時間を耐えた後、多分サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道に向かうであろう脇道に入っていきました。しばらく歩けばその道に合流 するはずでした。人気の無い工場通りを歩き、雑草が背丈まで伸びている原っぱを歩き、やがて原っぱの途中に柵があり、その柵の先に巡礼の矢印が見えたので柵を開いて、刈り取られていない麦が雑草のようになったところしばらく歩きました。まもなく予約したホテルに到着するはずでした。しかし人が住んでいる場所などどこにもみあたりません。雑草の生えている広っぱだらけでした。体調もよくないまま、疲れ果てて原っぱに荷物を下ろしへたり込んでしまいました。☆2 その原っぱでジョギングをしている人がいました。その人の車が原っぱに置いてありました。その人に、ネットで予約したホテルの住所を書いたノートを見せて尋ねました。すると、自分の携帯電話で電話をし始めました。しばらく電話をした後、車に乗るように言われました。ポルトガルの人は、控えめな人が多いのですが、ホンワカとして、とても親切な人達です。その人の車もトヨタでした。☆3 だいぶ車で走りました。歩いて辿り着けただろうかと思える距離でした。親切なポルトガルのおじさんはしばらくホテルの主人と笑いながら話していました。ほんとにオブリガードでした。取りあえず2泊したいと申し入れ、体調を整え、洗濯もしたいと思いました しかし、歩かない限り先に進みません。巡礼途上で一ヶ所に留まることは、それはそれで不安でした。夕方は近所に、素敵なレストランがありましたので、そこでサラダ、魚の塩焼きを食べました。白身の魚で多分テージョ川で捕れたものだと思います。美味しく頂きました。その料理を食べていた人は多かったので名物料理なのかもしれません。 次の日は、ただひたすらのんびり過ごしました。近所に大きなスーパーがあったので、そこで、菓子パンやトマトやチーズを買いました。ここでも山羊のチーズを買いました。山羊のチーズは値段も安く、とても美味しく元気がでます。☆4 さて元気になったので、さらに次の日早く、ホテルを出てVILA FRANCA de XIRA FRORA BAR に向かいました。このホテルをネットで予約しました。☆5
2014年05月17日
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昨日リスボンのカテドラルで、スタンプを押してもらっていました。早朝、Golden Tram 242 Lisbonne Hosteのスタッフの人に挨拶をして、出発しました。いよいよファテイマにむけて出発です。荷物が重たくなっていました。昨日道は確認してあったので、カテドラルまでは問題なく到着。☆1その後の黄色い矢印を追っていきます。細い路地に入り込んだりしながら、意外なところに矢印を見つけたり、町の坂を登ったり下ったりして、こんなことなら海岸沿いを歩いた方が楽かもしれないとか思いながら、荷物の重さを感じながら歩き続けていました。町のアスファルトの坂は気が重たくなります。この日は14kmくらいですから、たいした距離ではありませんが、かなりヘタッテいました。☆2 それでもどうにか、りスボン国際博覧会会場(パスコ・ダ・ガマのインド航路開設500周年で1998年につくられた)に到着しました。そこは美しく大きなマリーナがあったので海だと思ったのですが、テージョ川でした。水平線の見える大きな川でした。 この、ファテイマ巡礼の道は、カミーノ・デ・テージョと言うらしいのですが、途中まではこの川沿いをつかず離れず歩いて行くことになります。名所旧跡だらけを歩いてきましたので、海のような広い川とモダンなマリーナがある場所はとても新鮮でした。☆3 さて、この近辺にあるユースホステルに朝電話をして、泊まることにしていました。日本を出る前に、一応ユースの会員にも入っていたのでそれが役立ちました。ところがどこにユースがあるのか皆目見当がつきません。何人かの人に聞いたり、売店のおじさんに聞いたのですが、完全に分からないので困り果ててベンチに座っていました。巡礼者も観光旅行者もいないところで、いったい何やってるんだろうねというのが、そのまま疲労感につながっていきました。それに、家出しているわけでもないのに、ますます異国の地で家から遠ざかっていくような変な気持ちにもなっていました。帰るに帰れないしねと、思っていたところに、さきほで聞いたおじさんが戻ってきて、この車に乗れと言ってくれました。車の中でいろいろ話しながら、マリーナから離れて国道に出てそこを少し曲がったところにあるユースホステルに連れて行ってくれました。こりゃ絶対に分からないわと思いました。オブリガードと天使のようなおじさんに挨拶をし、ユースホステルに入ることができました。☆4しかし、アルベルゲとユースとでは絶対的に雰囲気が違います。そこでは単に観光旅行者です。同室になった人は同年齢のおじさんで、これからドイツにいる娘を訪ねてから帰ると言っていました。やはり、一人で観光旅行をしているようでした。どこの国の人だったか忘れてしまいました。巡礼には全く感心がないみたいでした。それが観光旅行者の世界標準なのかもしれません。さて食事の時間になり食堂に行きました。食堂はビュッフェスタイルでした。ユースですから若者が多いのですが、花も恥じらう乙女が何人かいて、その乙女の大皿の盛り方が半端ではありませんでした。☆5コップにジュースを入れながら一気飲みしてまた入れて、これでもかと言うぐらい皿に盛り、デザートも一山取って、ぼくは心の中で悲痛な叫びをあげました。太るなんて生易しいものじゃないぞ、アドバルーンのように脹れあがるゾ。しかし心の中で日本語で叫んでも、伝わるはずはありません。☆6マッ!いいか。アドバルーンになるのが将来の夢かも知れないしと思い直して、食べ終わると直ぐに部屋にもどり、次の日の作戦を考えました。しかしその時からお腹の調子がおかしくなってきて、夜眠れなくなってしまいました。次の日はとても大変なことがおこりました。
2014年05月07日
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昨日、駅からホステルに行く途中に、カステラが食べられる「パウロのカステラ」というお店に行きました。ポルトガル人のご主人は日本でカステラを習ったそうです。カステラの逆輸入になるのでしょうか。カステラの原型になるお菓子はあるのですが、日本のカステラはないようです。奥さんは日本のかたで、久しぶりにストレスなく言葉を交わすことができました。☆1和食風創作料理もあります。どれも美味しそうでした。この店でカステラを食べた後、帰りがけにカレーパンを買いました。先程ネットでホームページをみつけました。先日この店は閉じられたようです。京都でポルトガルのお菓子の店を開店するようです。機会があれば行ってみたいと思います。さてリスボン二日目、巡礼のスタンプを押すノート、クレデンシャルを貰えるところがないかと思い、近くの教会で朝のミサに出た後、神父様にお聞きしました。クレデンシャルを発行している教会を教えてもらえたのですが、残念ながらその教会は開いていませんでした。☆2それでサンティアゴ・デ・コンポステーラで購入したポルトガル巡礼の本の後ろのノートになっているところにスタンプを押してもらうことにしました。巡礼の出発地のカテドラルを探すと、そこは簡単に見つかりました。後で知ったのですが、そこでクレデンシャルを発行していたようです。リスボンは立派な教会がいくつもあります。マリア信仰が強いように思いました。ポルトガルは聖マリア出現の地を訪ね歩く巡礼と位置づけていましたから、何か導かれているような気がしました。☆3カテドラルはとっても大きな教会で、観光客もたくさん来ていました。さて明日ここからどのように歩き出せばいいのかと、教会の回りを歩くと、直ぐに黄色の矢印を見つけることが出来ました。リスボンは矢印は沢山ありました。さて、昨日の駅の方にもどり、そこは海沿いで、近所の大衆食堂に入りました。☆4適当に魚定食のようなものを頼みました。もしかして、これは天ぷらかもしれないと思い、店主に天ぷらですかと聞くと、日本人と分かったらしく、そう天ぷらだよと教えてくれました。天ぷらにオリーブオイルをかけ食べました。ビールを飲みながら、海風を感じ、天ぷらの原型を食べ、すっかりポルトガルに馴染んでいましたが、そこには巡礼者は一人もいない、道を語れる人はいないのだということに、まだ気がついてはいませんでした。 そういえば、リスボンには日本人の観光客も沢山いましたが、なんだかみんなすまし顔でした。それとも僕がホームレス的東洋人に見えて警戒されたのかもしれません。☆5 明日、ファティマに向け巡礼に出発します。まさかファティマに行けるなんて夢にも思いませんでした。何千人もの前で奇跡が起きた場所です。その中には新聞記者もカメラマンもいて、その時の記事も写真も残っている聖地です。僕にとっては、ファティマに行けることが奇跡でした。もちろん辿り着ければですが。
2014年04月29日
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早朝ポルトのホテルを出て、カンパニャン駅へ向かいました。昨日切符を買いに行っているので道を間違えることはありません。途中、パン屋さんが開いていたので、そこでエッグタルトともう一つ菓子パンを頼んでカフェコンレチェを飲みました。ポルトガルはお菓子の国です。店一杯に様々なお菓子が並んでいます。田舎のバルでも同じです。エッグタルトはどこにでもあります。こんなにお菓子を並べて売り切れるのか心配になるくらいです。さて駅に着きましたが、座席指定の場所がホームのどの辺だか分かりません。そこに、世界共通サラリーマンスタイルの人がビジネスバッグを持って立っていましたので、切符を見せて聞きました。とても親切に案内してくれました。今回の旅で、世界共通サラリーマンスタイルの人に尋ねたことがありますか、みなさん親切に対応してくれました。 バルセロナですれ違いざまに、「ブエンカミーノ」の言ってくれた人も、世界共通サラリーマンスタイルの人でした。☆1 さてリスボンの駅に着き、昨日ネットで予約した、Golden Tram 242 Lisbonne Hostelへ向かいました。ネットで予約する条件をそれまでの経験で次のように決めていました。その1低価格である。 その2 駅から近い その3 推薦ランキングが10段階の8以上であること。その三つの条件がこのホステルはクリヤーされていました。それどころか、推薦ランキングは9を越えていました。二段ベッドですが、リスボンへ旅行するのであれば、このホステルは最高だと思います。もし運良くリスボンを訪れる機会があればここに泊まろうと思います。二段ベッドの部屋も美しく、この日は一人だけでした。☆2 そういえば、リスボンの駅からマドリッドの日本人の経営している宿に電話をしてみました。電話の仕方がよく分かりませんでした。スマホでしてみると、なんと通じて日本語で話すことが出来ました。6月の下旬か7月の初めに泊まりたい旨を話すと、大丈夫なので日が決まったら再度連絡するように言われました。それから、その時NTTdocomoから電話が掛かってきて、ネットの費用が上限に近づいているのでどうするかと言うことでした。5万円かもう少し高かったと思います。WIFIが使えないところでも結構つかっていました。これからもネットに入れないと心配なので上限を上げてもらいました。ところでこの電話代が心配でしたので聞くと、この電話は無料だと言うことでした。☆3 スペインの田舎を歩いているとき、金融機関から電話が掛かってきて、ここはスペインの田舎ですよと言うと、あわてて電話が切れました。とにかく、携帯は相手がどこにいるかを確認して掛けた方がいいと思います。もちろんネット電話だと、どこでも無料なのでこちらを使えばいいと思います。先日フェースブックのネット電話でニューヨークの知人と話したのですが、時間のずれもなく全く快適に使えました。今の時代は、電話代が必要なくなりました。☆4 さて、Golden Tram 242 Lisbonne Hosteのスタッフの人、多分学生だと思いますが、これからの計画の相談にのってもらいました。ネットで調べ、詳しく紙に書いてくれました。 この計画通りには行きませんでしたが、とても役にたち助かりました。巡礼道から大きく外れた所がありますが、それは僕の責任で、CARTAXOという場所は、ポルトガルから日本に伝わったというカルタに関する何か資料があるのかと思い行ってみたいと思ったからです。それは僕の全くの思い込みで関係ありませんでした。☆5さて、おおよその計画は次の通りで歩く距離は最高でも20kmです。スペインの最後でおみあげを買ったのでリュックがずいぶんと重たくなっていました。 Lisboa→Torre→Verderha de Bixa →Azambuja→Cartaxo→Santarém→Pernes →Mind→FATIMA ☆6
2014年04月28日
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前日のの夕食は、ホテルのそばにフードコートがあり、そこで食べました。今日の夕食もそこで食べました。フードコートの一角に洋食屋さんがあったので、結局を二回利用しました。最初行ったときに、帰りがけにお寿司屋さんを見つけ、店の人は日本人らしかったので、今日はそこで注文しようと思っていたのですが、残念ながら休みでした。☆1 さて、朝一番で、歩いてリスボン行きの電車が出るカンパニャン駅をホテルのおじさんに聞いて、歩いてきました。おじさんは遠いからバスで行った方がいいよと言ってくれましたが、普段歩いている距離を考えたら遠いうちにはいりません。次の日の朝のリスボン行きの特急座席券をシニアで購入できましたので、その足でポルトの世界遺産のポルト歴史地区にむかいました。☆2まさにポルトはポルトガルの古都、日本で言えば京都にあたるところです。その素晴らしい町並の真ん中の世界遺産的建物にマクドナルドハンバーガーが入り込んでいましたので、そこでハンバーガーセットを頼みました。値段は日本と変わりがないのですが、パンのサイズがやたらに大きくそこにレタスやハンバーグが挟み込まれている感じでした。やはりオリーブオイルと酢をつけてくれました。そこを出て、レストランが立ち並ぶドウロ川沿を歩きました。そこのイメージがとてもヨーロッパ的で、レストランやお土産さんの雰囲気もヨーロッパの煌びやかさと華やかさを持っていました。食事はハンバーガーを食べてしまったので、レストランに入りポートワイン(ポルトワイン)だけを頼みました。☆3 この日は町歩きをたくさんして、フードコートで夕食を食べ、その隣の大きなスーパーでカステラの原点なのかなと思えるような、甘食のようなものをパック入りで200円位で買って帰りました。どうもカステラは、日本で洗練されたお菓子になったようです。 明日は、リスボンに向かいます。そして、リスボンから途方もない、巡礼者がだれもいない苦しい旅をはじめることになります。それは、スペインの旅とは全く違う巡礼の旅でした。10日間近くを全く一人で歩き続けました。しかし振り返ると、この旅をして良かったと思います。巡礼者として自分と向き合う日々でした。歩き進んで行くところがどんなところかも全く見当もつきませんでした。しかし歩き続け、前に進まなければならない日々でした。誰もいない草しかはえてないところを歩き、人を見掛けない倉庫の建ち並ぶ道を歩き、歩道のない巨大トラックがスピードを出して走る道の路肩を怯えながら歩き、ホテルのない村では消防署の古屋で夜フクロウの鳴き声を聞きながら寝かせてもらい、しかしポルトガルの人はどこでも温かく接してくれて、色々なところでいろいろなかたちで助けてくれました。☆4 さて、年なのにも関わらず、仕事依頼がいくつか来ました。有難い話ですが、その分忙しくなってきました。時々は、ポルトガルの巡礼の話を進めていきますが、今は仕事が軌道に乗るまで、そちらに時間を割こうと思います。ありがとうございました。
2014年04月20日
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さて、バスが動かなくなったのは、バスの休憩所だったので助かりました。トイレも食堂もありました。僕はペットボトルの水を飲みながらアップルパイを食べていました。ポルトへ行く途中の停留所の飛行場へ向かう人達は困っていましたが、タクシーを呼んでそれに乗っていきました。しばらくすると、バスが一台やってきて、それに乗ってポルトへ向かいました。ポルトのどんなところに着いたのかは思い出せません。道路脇の停留所のようなところに停まったのだと思います。そこからスマホのGPSを使って、歩き始めました。バスがどんなところに停まったか今思い出しました。モダンなショッピングセンターだったか、駅だったか、まあそんな感じのところです。ポルトの世界遺産の町並みとは逆の方に坂を登るようにして歩きました。☆1とにかくGPSは変な道を歩かせます。ショートカットしなくていいから、まともな道を教えろと今散歩するときでも思います。しかしGPSのこのアホクセは世界中で発揮されます。瓦礫だらけの脇道を歩かされ、ビルとビルとの隙間を歩かされ、いったい僕は何処を歩いているのでしょうという感じになります。やがて広い道に出て、回りをキョロキョロしながら歩いていると、目的のホテルらしきものが見つかりました。とにかく最低価格のホテルを選んだのですから文句は言えません。受付のおじさんはポルトガル語しか話せません。日本語以外だったら、何語でもいっしょなのでそれもかまいません。地下倉庫のような窓のない部屋でしたが、それでもかまいません。値段が安ければそれでいいのです。☆2おじさんはフレンドリーで、観光案内図をくれていろいろ説明をしてくれました。土曜日でしたので、カトリックの国ポルトガルのミサ初体験をしたいと思い、オブリガードだけのポルトガル語でその旨を伝えました。おじさんは、ありがとうの日本語だけでいくつかの有名な教会を教えてくれました。ホテルに一番近い教会に行くことにしました。ありがとうを知っているポルトガルの人は多いように思いました。☆3オブリガードとありがとうは接点があるのです。もしかすると、ありがとうはポルトガルから伝わって来た言葉かもしれません。それまで日本では「かたじけない」と言っていたのでした。と、ちょっと断定してしまいます。ちなみにネットでみると、ポルトガルから日本、日本からポルトガルと両方の考えがあります。両方関係ないと言うのはもちろんあると思いますが、ようは日本とポルトガルはその位深い接点が考えられると言うことです。しかもありがとうが接点であれば、とても友好な関係です。☆4 さて、その教会に行ってみると、まさに待っていました言うようにミサが間もなく始まるところでした。ポルトガルの教会は美しいタイル張りの教会が多いのです。ミサ曲は、ものすごく歌声の美しい女性と神父さんで歌われます。一流のプロが歌っているようでした。ミサ曲ですがら、コンサートホールで歌われるよりも、教会のミサで歌われるのが本来のありようですから、とても感動しました。
2014年04月15日
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ポルトガルにいくことになりました。日本を出るときには、ポルトガルへ行くとは思ってもいませんでした。フランス、スペインに行くといっても、最も重要な地は、クリスチャンの巡礼者として、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ行くことでした。したがって、スペインのマドリッドやバルセロナに行く予定もありませんでした。☆1ポルトガルについては、古くから日本と交流があって、カステラ、天ぷら、鉄砲を伝えてくれた程度の知識しかなく、当然ポルトガル語は全く分かりませんので、新たに出鱈目ポルトガル語を作り上げなければなりませんでした。ネットでありがとうをオブリガードと言うことを知って、オブリガードを連発していました。ありがとうとオブリガードは似ているような気がします。スペインでオブリガードは意味が変わってしまうので、安易に使わない方がいいということは後で知りました。スペイン巡礼で知り合った人達は、誰もがポルトガルはいいよと言っていました。☆2 さて、昨日相当神経質に道を確認しながら、ホテルまで辿り着いたので、バスターミナルに行くことは容易でした。したがってまたパン屋さんの横を通ります。さてまたアップルパイを買ったのでしょうか?当然買いました。☆3 バスターミナルには一時間以上前に着いたと思います。なんと、そこで巡礼中ヨシオと何回も叫んでくれた、オーストラリアの女性と再会することができました。しばらくそこで話をしました。彼女はそこからバスでサンティアゴ飛行場に行き、オーストラリアに帰るとのことでした。そのとき、スペインの巡礼も終わってしまい、めぐり逢った人達とも、もう会うことはないのだと思うと淋しさがこみ上げてきました。☆4さて巡礼仲間と別れ、ポルト行きのバス停を探しました。もうすでに沢山の人が居ました。並ぶということはなく、ただゴチャッといる感じでした。荷物をバスの下に放り込みバスの窓側に座りました。バスはトイレ付きですから安心です。こちらのバスやトラックはサイドミラーが折れ曲がっているウサギの耳のようでなかなかオシャレでいいのですが、日本に帰ってきて八ヶ岳の観光地で同じ耳型のサイドミラーのバスを何台も見掛けたのでウサギ耳型サイドミラーは世界的流行なのかもしれません。さてそのバスは、ポルトガルに入り間もなく故障して動かなくなってしまいました。次回です。ありがとうございました。
2014年04月14日
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その頃、ネットでホテルを予約するサイトを見つけていました。世界的に有名なサイトがいくつかあって、その一つのようです。日本語で使いやすいので、それからのホテルの予約はそのサイトをつかっていました。世界中のどこの町でも、町の名前で検索すると、いくつものホテルが出てきます。価格順や町の中心地からの距離などで検索できるので便利でした。予約は簡単に出来ますし、そのホテルの最低価格帯で予約することが出来るので、飛び込みでホテルに入るよりかは値段はずっと安かったはずです。試しに日本のホテルを調べて見たら、同じように使えそうでした。それでサンティアゴ・デ・コンポステーラのホテルは予約しました。町の中心地から少し遠かったので探すのに苦労しましたが特に問題はありませんでした。☆1 さて、昨日下見をしておいたので、特に問題はなくバスに乗り込むことは出来ました。切符も女性の運転手さんから買うことが出来ました。こちらの運転手さんは大変です。何から何まで一人でやるのです。切符を売り、釣り銭を出し、クーポンを確認し、乗客の数を確認し、わけのわからない乗客に説明し、客の大きな荷物をバスの下の荷物置きに入れさせ、そして当たり前ですがバスの運転もします。☆2 まだ夜が明けきらない内にバスが到着し、少し明るくなってきて出発しました。途中はあまり停まらずに五日間掛けて歩いたところを、2時間と少しで走り抜けていきました。歩きはフィステーラ回りでしたから、1.5倍から2倍の距離を歩いたのだと思います。歩いた町を車窓から見たときは、先週のことなのに、とても懐かしい気がしました。サンティアゴ・デ・コンポステーラの大きなバス停に到着しました。今日は、ここのホテルで一泊して、明日このバス停からポルトガルに出発します。国際便のチケット売り場を探し、明日のバスの切符を買いました。☆3シニアで買うと安いと言うのを、確か坪内さんのFBで見ていましたから、シニア、シニアと叫びました。多分かなり安くなった思います。それ以来、長距離のバスや電車はどこでもシニア、シニアと叫んで買うことにしました。とにかく持久戦ですから、お金は無駄にできません。サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かうのですが、距離が離れていますので、人に聞きながら歩きました。さらに明日この道を逆に辿って来なければいけないので、曲がり角などの目印を確認しながら歩きました。教会が近くなってきた頃、パン屋さんのショウウインドウにアップルパイが飾られていて、一つ百円くらいだったので七つ買いました。アップルパイの目利きと嗅覚は超能力を持っていますから、まず間違いはないと踏みました。ホテルまでは待てないので、すぐそばの公園で一つ食べました。 断言できることは、サンティアゴ・デ・コンポステーラでアップルパイを食べなかった人は、日本に来て立ち食いそばを食べなかったくらいの、痛手をこうむっています。(写真はパン屋さん)☆4 さて、大聖堂の前まで来ますと、今日辿り着いた人達が、握手をし、抱き合い、写真を撮りあっています。僕は浦島太郎になった気持ちでした。もう誰も知り合いはいないのだろうと思っていました。バルの前を通ると、中からヨシオと叫んでくれた人がいました。顔を見ても思い出せないのですが、笑いながら大きく手を振りました。 もう、その頃には疲れていて早くホテルに入りたいと思っていました。途中本屋さんがあったので、そこでホテルの場所を聞きました。観光案内の地図で丁寧に教えてくれました。そこの本屋さんで、英語で書かれたポルトガルの巡礼道の本を買いました。結局その本が唯一の道しるべになりました。明日はポルトガルの古都ポルトに向かいます。その町の様子は和田さんがFBでアップしてくれていました。☆5
2014年04月13日
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ムシアで連泊した二日目、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼はこの日をもって最後としました。明日は、スペインで初めてのバスに乗ることになります。歩くことは、猫でもダンゴムシで行っていますから、僕でも出来ますが、バスにお金を払って乗ることは猫でもダンゴムシでも僕でもなかなか難しいことです。バスは昨日夕食を食べたレストランのそばから早朝に出ますので、どんな具合だろうと、朝早くアルベルゲを出てバスを見に行きました。そこで、お会いしたのが長濱さんでした。日本の女性で一人で歩かれている方は、それまでいなかったのでどこの国の方かなと思いました。お互いにそう思ったようです。しかし直ぐに日本語が通じたので、しばらくぶりに日本語の会話を楽しみました、坪内さんや和田さんとはすでにフェースブックで繋がっているようでした。長濱さんのFBから後日マドリッドの様子を知り助かりました。☆1 アルベルゲのそばに大きなスーパーがあったので、そこで果物とチーズを買ったように思います。山羊のチーズを最初に買ったのがここだったかもしれません。山羊のチーズがとても美味しいものだとはじめて知りました。それからスーパーがあると良く買うようになりました。牛乳のチーズにくらべても山羊乳のチースのほうが安かったと思います。後日、日本のスーパーで見たら、その値段の6倍以上していたのでビックリしました。ヨーロッパへ行ったら、スーパーで山羊のチーズを買えば、それだけでヨーロッパに来て良かったねと、思えます。☆2 さて、再度岬に行きました。空は曇っていて風も吹き始め、今にも雨が降ってきそうでした。しかし、落ち着くける場所でこれまでの巡礼旅を振り返りながら岩に座っていました。何人かいた人もいなくなっていました。大きな岩の影をみると、巡礼者の女性のものと思われる赤いリュックがそこに置いてありました。あたりを見渡しても人は全くいません。置き忘れてどっかへ行ってしまったのかなと思いましたが、置き忘れていくような代物ではありません。それに、今まで担いでいたようで、時間がたっている感じがしないのです。☆3ここに荷物を捨てていくのもおかしなことです。教会の裏手に管理小屋のようなものがあったのを思いだし、そこに行けば人がいるだろうと、尋ねたのですが、誰もいません。ようするにこの場所には海と岩場と教会と僕と取り残された赤いリュックが存在するだけなのです。不安な気持ちが襲ってきます。巡礼の最後がこれでは困ります。ぼくはしばらく教会の前にいようと決めました。風が強くなり、不安と寒さでいたたまれなくなってきました。その時、なんと先ほどの岩場の影から女性が現れたのです。そしてあの赤いリュックを担いでいました。どこからこの女性が現れたのか皆目見当がつきません。ぼくはその女性に声を掛け、とても心配していたと出鱈目英語で言いました。すると女性は何回も謝って、町の方に向かって去って行きました。☆4とにかく本当にホッとしました。あのまま待たずに町に戻っていたら、今でも不安な気持ちを抱えたままになってしまいます。 ぼくも一人で町に向かいました。途中のホテルのバルが開いていたので、そこでレモンジュース入りビールとボガディージョを頼みました。夕食は昨日入った小さなレストランは閉まったままで、開く雰囲気もなかったので、その先のキティーの人形が飾ってある雑貨屋のさらに先のバルが開いていたので入りました、中年の女性が一人できりもりしている店でプレートとビールを頼むと、プレートの上に野菜を中心にこれでもか!というぐらいいろいろ乗せて笑いながら出してくれました。あいそのいい感じのいい人でした。 明日はいよいよバスに乗ります。そして全滞在をしなけらばならない日数のちょうど真ん中でした。もう安いアルベルゲはありません。予定をしていたお金も残り少なくなってしまいました。☆5
2014年04月12日
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ムシアに到着した日の夕方、岬の突端に行きました。美しい教会 舟のマリア聖堂のあるところです。そしていくつもの大きな岩で出来ている海岸は、映画『星の旅人たち』のラストシーンを飾るところです。本当に巡礼の最後がここで良かったと思います。しかし、次の日再度ここに訪れたときとんでもなく心配な出来事にめぐり逢ってしまい、巡礼の最後に心配を残したまま終わりたくないと思いがつのり、心底困った事態が発生してしまいました。☆1ムシアは連泊することで、アルベルゲが了解してくれていましたから、明日また来ようと、黄昏れる前に引きあげ、アルベルゲに近い方の海沿いのレストランが並んでいるところに行きました。その中の一番小さく、暗めでお客さんの全然入ってないレストランに入りました。性格上そういう店に引かれていきます。類は友を呼ぶという現象だと思います。☆2 そこで、やはりタコとそれからシシトウを頼みました。ところで僕の好物のシシトウですが、シシトウを焼いて鰹節をのせて醤油を垂らして食べるというのは、和食の末端を彩るものだと思っていましたら、とんでもないスペインから明治時代に日本に入ってきたものだと言うことが分かりました。☆3 スペインへは15世紀にコロンブスが南米から持ち込んだようです。タコに続きアップルパイに続きシシトウまでとは!ますますスペインには畏怖の念を与えられ、ハハーッという感じになりました。シシトウの上にオリーブを掛けて食べるのですが、これもレストランでよく食べました。 この暗めの店は美味しく、店を出る頃にはお客さんで一杯になっていましたので、僕が入るのが早かっただけでした。次回です。ありがとうございました。☆4
2014年04月11日
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リレスのバルでくつろいだ後、ここはアルベルゲはないので民宿を探しに行きました。途中韓国から来たもう一人の女子大生に会いました。彼女もここまで歩き続けていたようです。終わり間近になって次々と一緒に歩いてきた人と巡り会える機会を得ることが出来ています。☆1 さて、最初に目についた民宿に入ることにしました。民宿の人はよい人だったのですが、部屋の構造に欠陥があり苦労しました。シャワールームの水はけがよくないのです。水が抜けていく穴の方にむかって床があまり斜めにいないので、水が部屋になだれ込んでしまいます。これに気づかずにシャワーを浴び続けたために、部屋が水浸しになってしまいました。このようなことは他でもう1ヶ所ありましたが、それがどこだか忘れてしまいました。なんとか、部屋に入り込んだ沢山の水を処理すると、夕食を食べに坂を登っていきました。そこにはバル併設のレストランがありましたので、野菜たっぷりの美味しい料理が食べられました。その近辺にも民宿が何軒かありました。☆2 さて次の日にムシア、スペイン巡礼の最終の地に向かいました。民宿の人に外から声を掛けたのですが、だれも起き上がってくる様子がなく昨日のうちに会計も済んでいるので夜明けの美しい景色を眺めながら出掛けました。 途中矢印がよく分からなくなり、海岸線に出ようと思ったのが、どうも間違えだったようで大回りをしてしまったようです。景色もよく歩きやすい道だったのですが、小さな村はあるのですが、バルがあるような規模ではなくて、方向も違っているようでとても疲れました。途中でムシアからフィステーラに向かう人とすれ違ったので、この道を辿る人もいるのかも知れないと思いました。気持ちの問題で、この道であっていると思って歩くのと、不安で歩くのでは全く疲れ方が違います。☆3 さらに、坂を登るようにしばらく歩くとやっと黄色い矢印を見つけました。やはり大きく遠回りをしたようでした。やがて車の走る広い道路に出て、海が広がってきました。 フィステーラとは違う雰囲気でした。フィステーラは海岸リゾート地といった感じでサザンオールスターズの「チャコの海岸物語」が聞こえてきても、結構似合うかも知れないと思いましたが、こちらはもっとシックです。砂浜ではないからかも知れませんが、しかし一番の理由は、海沿いの突端に素晴らしい教会があるからです。昨年の暮れ、この教会が焼失してしまったという報道に驚きとともに悲しさがこみ上げてきました。1日も早い再建を望んでいます。☆4 さて、やっとの思いでムシアの町に入っていきました。ムシアのアルベルゲの評判は良かったので、何か安心していたところがありました。最初に目に付いたアルベルゲが一見ホテルと思えるような立派なものだったので、もうすぐにそこにしました。多分公営ではないと思います。そこに入ると、アルベルゲの人はとてもフレンドリーですぐに「ヨシオ」と言って、すきなベッドを選んでいいよという感じでした。それから、ここに何日でも泊まって居なさいとも言ってくれました。シャワールームやトイレも綺麗でとても快適でした。そのアルベルゲオリジナルのTシャツと身体障害の方々の作業場で作っている巡礼者のシンボル貝の飾りを購入しました。その貝の飾りは今、バッグに付けています。次回です。ありがとうございました。☆5
2014年04月10日
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海沿いのバルで坪内さんとお会いすることができました。言葉が話せるのはとても楽なことです。久しぶりに日本語を話すことができました。それにしても坪内さんの速さには驚きます。僕は明日からムシアに向かいますが、情報を教えてもらい明日はリレスというところを目指すことにしました。☆1 その後、一緒に岬の突端まで行き、そこのバルでビールを飲みました。その日も快晴で、気持ちのいい日でした。地元の海産物が食べられる店を紹介してもらえることになり、夕食の待ち合わせ時間と場所を約束しました。岬からもどる時、カナダから来ている大学生と会うことが出来ました。彼女もここまで歩き続けていたのだと思うと嬉しくなりました。最初に会ったのは一月も前になります。その後いろいろなところで会い、最後のフィステーラで会うことができました。☆2 一度ホテルにもどりチェックインして、休憩しました。昨日のアルベルゲではよく休めなかったのでホテルでホッとします。原則アルベルゲでは連泊ができないきまりです。公営のアルベルゲはこのきまりを守っているはずでした。ホテルは30€で朝食なしですから、3300円位で朝食なしは、巡礼で毎日泊まるのには厳しい価格です。☆3 夕方といっても7時位だったと思いますが、坪内さん紹介の店に行きました。海外沿いの食堂といった感じです。大皿に盛られた、貝や魚は新鮮で美味しかったのですが、何よりもこの美しい海でとれた、採れたての食材が目の前にならんでいるのが、なんとも贅沢な気がしました。ワインのボトルを2本空け、とても楽しい時間を過ごしました。☆4 次の日、ホテルを早朝に出て、近所のバルで朝食をとり、ムシアの方向に向け海岸沿いを歩き始めました。巡礼道に入るまではちょっと迷いました。矢印はムシアに向かうものと、ムシアからフィステーラに向かうものの2種類があります。太陽の位置で方向を確認することをよくおこなっていました。やがて、リレスに辿り着きました。入り江になっている海は静かで、人はあまりいないところで、そこの海沿いに綺麗なバルがありました。そこでビールを飲みながらゆっくりとした時間を過ごしました。この日は、このあたりにあるはずのペンションに泊まる予定にしていましたから、時間はたくさんありました。次回です。ありがとうございました。☆5
2014年04月08日
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夕方の7時から岬に向かいました。着いたときには疲れ果てて岬に行くのは明日にしようと思っていたのですが、少し休んだら行く気になりました。夕方の7時と言っても、昼間の明るさですから、困ることはありません。岬の突端から見る海は本当に美しく、空も雲一つない快晴でした。巡礼でここまで来て、新たに生まれ変わる、その気持ちが分かる気がします。昔は今のように道も整っておらず、案内の矢印もなく、泊まるところもなく、森にはオオカミが出て、命がけでここまで辿り着いたのです。しかも、同じ道を辿って家に戻るのです。自分のすべてが祈りに捧げられていたのです。☆1 岬の帰りがけに、お土産屋さんでフィステーラと書かれている袋を買いました。その袋が今、巡礼証明書とクレデンシャルを入れてある貴重品袋になっています。 帰り道、すこし空が黄昏れてきました。岬のところで誰かと会って、話したようなきがします。ハンガリーの青年だったかもしれません。忘れてしまいました。アルベルゲに辿り着いて、すぐに横になったのだと思いますが、梯子と柵のない二段ベットの上でとてもすぐには寝付かれなかったと思います。☆2フェースブックで繋がっていた、坪内さんはすでにムシアに着いていて、明日フィステーラにもとって来られるようでした。それで昼前に会うことにしました。和田さんはすでに、ポルトガルのポルトからポルトかル人の道を歩き始めていました。☆3 次の3日の朝、出発の準備に戸惑っていました。狭い上に人がたくさんいて、ベッドによじ登ったり下りたりしながら荷物をまとめ、やっとの思いでアルベルゲを抜け出しました。そう言えばアルベルゲの前が若者が行くダンスホール、クラブだったような気がします。なにかそんな風な音楽が聞こえていたように思います。海岸の観光地なのです。あの砂浜も本格的な夏になれば賑わうのかもしれません。☆4 昨日予約した斜め前のホテルに行き、荷物を置かせてもらいました。さて、坪内さんはそろそら辿り着いている時間でしたので、外に探しに行きました。次回です。ありがとうございました。☆5
2014年04月07日
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民宿で朝食を取ってからオルベイロアを出発。今日は海を目指します。海を見るのは久しぶりで、しかもスペインの海は初めてですから、ワクワクします。☆1 朝焼けの中を歩き始めました。天気は良さそうです。すぐ先にアルベルゲがありました。そこの入り口のところに何人かの巡礼者がいました。しかし、先の民宿に泊まれて良かったと思いました。食事の心配もなく、気兼ねなくゆっくり眠れました。☆2 以前ほどには巡礼者は多くなく、歩きやすい道だったと思います。いろいろな風景を眺めながら、しかしどこか海を感じられる、光と風になってきました。やがてムシアとフィステーラの分岐点に辿り着きました。前を歩いていた人はみんなフィステーラに向かいました。ぼくは最初からフィステーラに向かうことに決めていましたので、左の道を選びました。坂を下りて途中の町に入っていきますが、そこにバルがあり壁にリュックがならんでいたので、そこにリュックを下ろし昼食にしました。ボカディージョとコーラだったように思います。☆3天気がよく強い日射しでした。海と出会うには最高の天気でした。青く澄んだ空には魚の形のような綿雲が流れていきました。やがて、遙か遠くに海が見えてきました。本当に美しい海の景色でした。山と平原を歩き通し、最後にこの素晴らしい海に辿り着く。最高の演出だと感じました。海が近づいてくると感動がこみ上げてきます。同じ時間に辿り着いた巡礼者は靴と靴下を脱ぎ砂浜を歩いて行きました。☆4ぼくはすでに40キロメートル越えをしていましたから、靴を脱いだらば立ち上がれないように思って、靴のまま砂浜を歩いていきました。広く綺麗な砂浜にほんの僅かな巡礼者が歩いて行くだけです。本当にもったいない風景だと思いました。日本だったら海水浴客でごった返しているのかなと思いました。☆5 やっと砂浜を横切りフィステーラの町に入って行ったのですが、なかなかアルベルゲに見つかりませんでした。やっと見つけたアルベルゲも中には人が居なくて、ベッドに腰掛けて待ったのですが、時間は4時を過ぎていましたから、そこのアルベルゲは諦めて、中心地の公営のアルベルゲに行きました。そこはフィステーラの巡礼証明書を発行してくれます。しかし、今度は逆にギュウギュウ詰めで、上段の狭いベッドがあてがわれました。 フィステーラは連泊をしようと思っていましたから、次の日のために、近くのホテルを予約しました。 夕方、岬の突端に向かいました。次回です。ありがとうございました。
2014年04月06日
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オルベイロへ向けて歩き始めたのですが、疲労は限界に来ていましたから、泊まれる所があれば、どこでも入ろうと決めました。左側に家があり、看板があったので、これは民宿かもしれないと思い、とりあえず門のベルを押しました。とにかく、ここは巡礼道ですし、姿や形はだれでも分かる巡礼姿をしていますし、リュックには貝もぶる下げていますから、身元は明らかで、たとえ民家でも怪しまれることはないはずでした。☆1 しばらくしてやっと扉が開き、年配の女性が出てきました。すぐに、泊まれますかと、自分でも何語だか分からない出鱈目言語で言ったのです。日本語だったかもしれません。すぐに、どうぞお入りくださいと言ってくれました。可愛らしい子供がでてきて、だから開けた方がいいって言ったじゃないのと女性に言っていました。どうも子供は孫のようでした。☆2どうして子供の話がスンナリと理解出来たのかは、今では謎ですが、それが言語の本質でもあるように思います。状況によっては全く知らない言葉でも完全に分かってしまうものです。それでなければ、あまり賢いとは思われないイエスの12使徒が海外に宣教しに行けるはずはありません。☆3 その家はやはり民宿のようでした。部屋は全部あいてて、どの部屋もホテルのように立派でした。どの部屋でもいいと言われたので家の出口に近いところを選びました。もちろんトイレとシャワーは共同ですが、トイレもきれいで、シャワーはいろいろな蛇口があったりお湯の出口も宇宙船のようなデイズニーランド的な不思議な作りになっていました。値段は朝晩おやつ付きで20€でしたから、普通のアルベルゲよりも安くなってしまいます。夕食もステーキのコース料理でワインやビールも出してくれて朝も早くから朝食を用意してくれて、2200円くらいでは申し訳ないような気がしました。子供と仲良くなって、爺さんと孫のように遊んでいたので、おまけをしてくれたのかも知れません。オルベイロアに泊まるならば、この民宿をおすすめします。☆4 ベッドも大きなホテルのベッドと同じですから、ゆっくり寝られて助かりました。明日は40キロ越えで、フィステーラを目指さなければなりませんから、この民宿に泊まれたことはとてもありがたいことでした。次回です。ありがとうございました。☆5
2014年04月05日
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6月1日(土) やっと6月になりました。日本を出て39日目になります。この日、今までになくリュックが重いと感じました。担ぎ上げて背負うまでに努力が必要でした。腰痛も少し出てきてその心配もありました。東京を出てくる前に読んでいた、歩き方の本のウオーキングスタイルを頭に置き、意識しながら歩きました。実際この歩き方のスタイルはとても役に立ったと思います。この姿勢で歩くと安心感がありました。☆1 常連になったバルで朝食をとり、ネグレイラを出発しました。黄色の矢印は見やすく付いていて、歩く道は迷うことはありませんでした。この日はオルベイロを目指します。アルベルゲがうまく見つからず長歩きになりますが、終わりの方は相当辛くアルベルゲを早く見つけようと焦りました。☆2 途中、何か物語りを表すような石像があり、聖書の物語か何かか思い、そばに居た巡礼者、多分ドイツの方だと思いますが、尋ねるとリュックから本を出し調べてくれて、違いますねと言ってくれました。ドイツでは、小さな町の石像にいたるまで、説明されている本が出版されているようです。ドイツ人のこの道への感心の高さと、愛着をつくづく感じました。途中にあった教会の特徴も教えてくれましが、残念ながらあまりよく理解出来ませんでした。☆3 さて、歩数計を見ておおよそ歩いてきた距離を知り、間もなくオルベイロに到着になるというところに、美しいリゾートロッジのような建物がありました。 少し値段は高そうだけれど、これ以上は歩きたくはないと思い入りかけると、中から家族で巡礼をしている人達が出てきて、泊まれないよと言ってくれました。それでも中に入って確認すると、予約していないとだめだと言うことでした。観光客の泊まる宿のようで巡礼者用には対応していないようでした。☆4 そこの道路沿いにあった掲示板を見ても、近所にはアルベルゲや宿泊施設はなさそうでした。しかたないので、後3キロか4キロを歩きオルベイロアを目指します。この時ですでに30キロメートル近くを歩いていました。次回です。ありがとうございました。☆5
2014年04月04日
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巡礼が終わったものは大西洋を目指します。そこで、これまでの自分を捨て新たに生まれ変わるためです。寺に籠もり修行するのに似ているような気がします。高校生のころ、夏目漱石の門を読んで、俺も寺に籠もろうと思い立ち、鎌倉の円覚寺に参禅しにいったことがあります。親には暫く寺に籠もる言って家を出たのですが、次の日帰ってきて親戚中の笑い話になったことがありました。☆1今やまさに、あの寺に籠もる前の心境です。40日の苦難を経て、正に大西洋で悟りの境地に入り、解脱をし、満願成就、極楽浄土につま先ぐらいは入ってしまおうかなという気持ちで、取りあえずは地獄の沙汰も金次第だからと教会のそばのATMでお金をおろして出発しました。日記には朝7時に出たと書いてあります。スペインの大西洋の巡礼地は2ヶ所あります。フィステーラとムシアです。フィステーラの岬の突端には巡礼者が新たな自分に生まれ変わるために、巡礼で履いてきた靴や持ち物を燃やすところがあります。ムシアは宣教に疲れたヤコブを励ますために、船に乗って聖母マリアが出現した海岸があります。僕は時間があるので、その両方に行こうと思っていました。☆2しかし、その両方にいっても140キロメートルですから、まだ一月以上の滞在時間があります。そこで最後をムシアに決め、その後はマリア様が出現された場所を巡ることにしました。ファティマでの聖母出現は有名ですが、そのファティマはポルトガルにあるのだと、確かドイツの人に聞いていました。この巡礼が終わったらポルトガルに向かう気持ちなっていました。そして、それを実行しました。巡礼者を一人も見掛けないポルトガルの田舎を山に向かって10日以上も歩き続けました。その話はまた後日です。 サンティアゴ・デ・コンポステーラを出発したときには、その後そんな厳しい世界が待っているなどとは全く考えていませんでした。☆3 サンティアゴ・デ・コンポステーラのパラドール(高級宿舎)の門番の人にフィステーラの方角を聞きました。パラドールを横目で見ながら、修行僧に関係のない世界だ、などと負け犬のように呟きながら、門番の人が指さした方角に歩き始めました。黄色い矢印が見つかりましたの辿っていきました。やがて、通りを渡ったところのバルが開いていましたのでそこで朝食をとりました。そのお店の人もとても親切に対応してくれました。お店にいた地元のご婦人が日本の記事が出ているわよと言って、新聞を見せてくれました。サンティアゴ空港で日本の飛行機がトラブルを起こしたようでした。大きな事故ではなかったようで安心しました。☆4さて、この日はネグレイラという町まで22キロメートル歩きました。途中からスペインの人と一緒に歩き始めました。この人はネグレイラでホテルの予約を取っていると言っていましたが、僕のためにアルベルゲ探してくれました。さすがスペイン人だけあって地元に人にスペイン語で聞きながら、一寸は迷いながらそれでも直ぐにアルベルゲを見つけ出してくれました。その人はそのアルベルゲでスタンプを押してもらい、僕とブエンカミーノの挨拶をしてホテルに向かっていきました。このアルベルゲでしたが、数人しか巡礼者がいないのでベッドはいくらでも選べました。この時期で歩いて大西洋まで行く人はすくないようです。多くの人が、サンティアゴ・デ・コンポステーラで歩きの巡礼の旅を終えて、バスで向かうのです。ちなみに、僕はバスの乗り方をしりませんでした。☆5さてこのアルベルゲは洗濯をしてくれるので、バケツ一杯の洗濯物を出しました。シャワーに入り、町に出て昼食を取ります。最初に目に入ったバルでボカディ-ジョとカフェコンレチェを頼みました。結局夕食も次の日の朝食もこのバルで取ったので、すっかり常連客になってしまいました。アルベルゲに戻るときに大きなスーパがあったので、ちょっと寄りました。多分何か買ったのだと思いますが忘れました。醤油を売っていたので、そのことはよく覚えています。
2014年04月03日
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サンティアゴ・デ・コンポステーラについて、直ぐに一回教会に入って巡礼者の行う儀式を自分流に(ようするに得意の出鱈目に)、映画でやっていたのをまねして、やったのだと思います。巡礼事務所では簡単な面接があり、どこからどのような方法で辿り着いたかとか、巡礼の目的を聞かれ、クレデンシャルのスタンプを見せながら簡単に話して、承認してもらい、巡礼証明書を発行してもらいました。そこで証明書を入れる筒を売っていたので、それを購入しました。☆1 それから、出来るだけ近くのアルベルゲを探し、そこに入りましたが、残念ながら二段ベッドの上段を割り当てられてしまいました。☆2 少し休むと、昼のミサには早かったので、一人で外に昼食を取りに出掛けました。アルベルゲのそばにレストランがあり、開いていたのでそこに入りました。ショーケースに美味しそうな小皿料理タパスがあったので、その中から3つ選び、生ビールを頼みました。 スペインのタパスは、はずれたことはありませんでした。どれもみんな美味しかったので、スペインへ行ったら地元の人が集っている、さり気ない店でタパスを食べると美味しいものが食べられます。☆3そこの店のタパスも美味しかったので充分に満足して、お店の女性に会計を頼みました。すると、ビール代しか紙に書かれていないので、タパスを三皿食べたことを話しました。すると、その若い女性は、あんたは疲れた顔しているから、宿にもどって寝なさいと言って、両手を合わせて頭に持って行き寝るまねをしました。結局ビール代しか取りませんでした。巡礼者に、優しい町です。☆4 一回アルベルゲに戻ってから、昼のミサに出掛けました。ミサでは、荘厳なミサ曲が歌われる中のボタフメイロを見ることができました。ところがミサが始まる前から、いままで巡礼道で出会い、話しながら歩いてきた人達と次々と出会いはじめ、お互いに再会を歓び、サンティアゴ・デ・コンポステーラに到着したことを祝しました。☆5 ぼくは、サンティアゴ・デ・コンポステーラでしばらくのんびりしようかと思っていたのですが、次の日大西洋に向かって巡礼をつづけることにしました。フィステーラからムシアまで140キロメートルの巡礼の旅になります。次回です。ありがとうございました。☆6
2014年04月02日
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4.5キロメートル 朝は曇っていました。リュックを担ぎモンテ・デ・ゴソのモニュメントまで行き、サンティアゴ・デ・コンポステーラの方を見たのですが、なにも見ることは出来ませんでした。一人で坂を下り出発しました。この計画を立てたとき、サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着けるかどうかどうか、大きな疑問でした。パリまでは何とか辿り着けるだろうとは思っていましたが、そこから先は全て深い霧に包まれていました。僕に取って乗り越えていかなければいけない課題が多すぎました。したがって、考えないことにしました。うまくいけば辿り着けるだろうと思い出発しました。それは、今から振り返ればとても巡礼的だと思います。☆1 さて、最大の目的地ももう目前に迫っていました。でも道を間違えたように思います。絶対に間違えようのない簡単な道を、間違えて逆方向に歩き、地元の若者に逆方法に歩いていると言われたような気がします。この日ではなかったかのかも知れません。 しかし、大きな都に入っていきます。この時はスペインのグループと一緒になりました。彼らは途中どこかの店に向かったので、そこで別れて一人で歩きました。一人でたどり着きたかったのだと思います。教会の裏手からドームをくぐり教会の正面に出ます。教会が厳めしく建っていました。写真でも映画でも何回も見た建物が、薄曇りの中に建っていました。まだ朝の8時でした。巡礼者は数人しかいませんでした。知っている人もいませんでした。しかしそこにいた巡礼者の人に頼んで写真を撮ってもらいました。☆2 巡礼事務所で巡礼証明書を発行してもらうために、事務所を探して見つけました。9時オープンで、まだしばらく時間がありました。僕の前に4,5人がいました。巡礼事務所の前が、高級そうなカフェレストランでした。別に並んで待つ必要も感じなかったので、そのカフェレストランで朝食を取ることにしました。店の中のショーケースの上にできたてのホールのままのアップルタルトがのっていました。ここで、食べ物について告白しますが、僕は無類のアップルパイ好きなのです。これまでにも、スーパーにアップルパイがあると買って食べていました。タコとアップルパイ、この2つが、こんなにスペインに満ちあふれているとは、驚愕、驚喜の知られざる真実でした。☆3 アップルタルトは大きなホールのままで置いてありましたので、これをそのまま買うには大きすぎますし、値段も高そうでした。それで思い切って、これを一切れ、ここで食べることが可能かを聞いてみると、しばらく待てば出してくれることになりました。 これは絶品でした。東京の美味しいアップルパイの店とも互角の戦いが出来るどころか、これはこれで、独自の世界を築き上げているアップルタルトでした。恐るべきサンティアゴ・デ・コンポステーラとつくづく思った瞬間でした。 さて、9時が近づいてきたので事務所にもどると沢山の人が並んでいました。その後ろに並びました。相変わらず知っている人は見掛けませんでした。一人だけ早く来すぎてしまったのかも知れません。まだ五月でした。☆4
2014年03月31日
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前回の続きです。この日は34.4キロメートルを歩いていますから。僕のペースだと8時間以上は歩いていることになるます。時間が余って困っているのに「バッカジャナイノ!」という感じですが、もうこうなったら、取りあえず着いてしまえ!と先を急ぎました。モンテ・デ・ゴソのモニュメントは、人が2,3人いるだけでした。シーズンになればごった返す場所だと思います。天気がよければ、ここからサンティアゴ・デ・コンポステーラが見えるはずだったのですが、雲がおおっていました。☆1巨大なアルベルゲも閑散としていました。時間は朝7時に出発をしていれば、午後4時位の到着にはなっていたはずです。公営のアルベルゲは建物がたくさんあり、しかもその建物の中に沢山の部屋がありました。その日は多分一つの建物しか使っていなかったのではないかと思います。一つの部屋に二段ベットが6つか8つあったと思います。取りあえず下のベッドが確保できました。部屋は一杯になっていました。☆2 次の日は、サンティアゴ・デ・コンポステーラに到着しますが、この教会の有名なイベントにボタフメイロがあります。大きな香炉を教会堂の天井からつるし、大きく南北にブランコのように揺らすのです。しかし、それは特別な日しか行われないと聞いていましたので、見られるかどうか気になっていました。それで、アルベルゲの事務所でいつ行われるか確認すると、昼のミサで毎日行っているとのことでした。残り後4キロメートルですから、昼のミサには充分まにあいます。☆3 さてシャワーを浴び、夕食を取りに外に出ました。階段状になった敷地の一番下が広場になっていて、そこに大きなファーストフード的食堂が二軒あり、そのうちの一軒が開いていました。そこで大きなハンバーガーを食べました。さて、次回はいよいよサンティアゴ・デ・コンポステーラに到着です。ありがとうございました。☆4
2014年03月30日
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34.4キロメートル 50609歩 さて、朝から雨です。そして一日中雨でした。この日はモンテ・デ・ゴソまで歩く予定にしていました。モンテ・デ・ゴソは映画「サン・ジャックへの道 ] での重要な場所なのです。それで、サンティゴ・デ・コンポステーラにたどり着く前に、モンテ・デ・ゴソに泊まろうと思っていました。映画では、そこで鼾の酷い人と会ってしまうので、急遽高級宿泊施設パラドールに泊まることになるのですが、僕はパラドールに泊まらないので、モンテ・デ・ゴソに泊まりました。ここから、サンティゴ・デ・コンポステーラまでは、4キロメートルちょっとです。それでアルスーアに泊まった多くの人は、この日34.4キロメートルも歩かないで、手前で泊まった人がほとんだだったと思います。☆1 朝、昨日夕食を取ったバルが開いていたので、そこで朝食を取りました。いつものカフェコンレチェとボカディ-ジョだったと思います。その時は、朝食メニューは繰り返しで意識していませんでしたが、一年がたつと、あのカフェコンレチェとボカディ-ジョが無性に食べたくなります。 スペイン巡礼を繰り返す人が多いのは、そんなことが意識の中にあるのかも知れません。日本でも似たようなものは、どこでも食べられるますが、カミーノのものは一味違います。その一味が大事なのです。食べ物についてはもう一つ告白することがありますが、それはサンティアゴ・デ・コンポステーラの時に書きます。☆2 さて、歩き始めてしばらくすると、インド系カナダ人(本人がそう言っていました)のロビーさんと会ったので、楽しく話しながら一緒に歩き始めました。「君は、本当の巡礼者らしぞ」などと、持ち上げてくれるので、いい気分になって歩いていました。しかし、スマホを持ち、クレジットカードを持ち、飢えもせずヘラヘラと歩いているのですから、信仰の旅人とはほど遠いように思います。昼を一緒に食べ、さらに歩くと、途中でホテルを予約しているとのことで別れました。☆3 途中から森に入っていきます。ユーカリと松の森は、今までにはなかった風景でした。 今日モンテ・デ・ゴソまで歩いてしまえば、明日最大の目的地サンティアゴ・デ・コンポステーラまでたどり着いてしまいます。全く想定していなかったことです。当初の予定では2回ほど入院して、7月の初めに辿り着ければよいというものでした。最初の頃アルベルゲで会った人達は6月の初めには辿り着くよと、言っていました。それは登山などの経験がある人のことだと思っていました。☆4散歩は趣味ですが、登山などの苦しいことは苦手で避けていましたし、年から言っても、身体もいろいろ故障しているし、それがまさかの5月到着になります。もしはやく着くようなことがあれば(と言っても、6月の終わりか7月の初めですが)大西洋まで歩いてみようと思っていましたが、これでは歩かざるおえなくなってきました。次回です。ありがとうございました。
2014年03月29日
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アルスーアの町を思い出すの一苦労しました。似たような町がいくつかあって、どうも頭の中がゴチャゴチャになっている気がします。大きな平屋のアルベルゲで巨大な会議室のような中に二段ベッドが果てしなく並んでいました。隣のベッドにダミ声でスペイン語しか話さないおじさんがいて、いつも通りダミ声で電話をしていました。サリアからこのおじさんとはよく一緒になりました。何回か話し掛けられたのですが、全く意味が分からないので、ダミ声おじさんは「ダメダこりゃ!」と言うように首を振っておわりになってしまいます。☆1しかし度々よく会うので、サンティゴ・デ・コンポステーラに近づく頃には、時々振り返って、待っててくれるようになりました。もう一人年配のカナダ人で東京に仕事で、しばらくいた人ともよく会いました。この人とは話しながら歩きました。ホテルに予約をして泊まっているようでした。☆2.1 さて、パラス・デ・レイからアルスーアに向かう途中に、タコ料理で有名なメリデという町を通ります。当初はここに泊まってタコ料理をたくさん食べようと思っていたのですが、時間が早かったので泊まらずにアルスーアまで歩いてしまいました。しかしタコ料理は食べました。メリデには有名なタコ料理の店があるのですが、町に入るとすぐにタコ料理の店があったのでそこに入りました。その店に入ったことが大正解でした。実は東京の東北復興市で南三陸の名物タコの小さなマスコットを手に入れてあったので、この祈りの道のどこかに掲げられないかと思って持ってきていたのです。☆2 掲げるならばタコ料理で有名なメリデがいいだろう思っていました。店に入ると、前のテーブルに座っているイタリアの女性の方が振り向いて、話しかけてくれました。その方は「この店のタコ料理があまりにも美味しいので昨日に引き続き来たのよ」と言われたので、僕はタコのマスコットを見せて先の話をしました。その方は東北大震災のことを知っていて、ぼくの出鱈目英語を理解してくれ、店の人にスペイン語で交渉をしてくれました。店の人もすぐに了解してくれて、店の真ん中に飾ってくれることになりました。☆3どうしてこんなに話がうまく行くのか不思議でした。店を出ると、店のそばにメリデの大きな教会があり、間もなくミサが始まるところでした。すると先ほどのイタリアの婦人も入ってこられました。さらにその後から巡礼のおじさんが入ってくると、リュックと杖を置き、奥の部屋に入ると何と神父の服を着て出てきてミサが始まりました。ミサが終わり、イタリアのご婦人と挨拶をして、アルスーアに向かいました。その時、東京大司教区 岡田 武夫大司教からフェースブックの繋がりの連絡が入ったのです。☆4この道は、僕に取って何から何まで不思議な道だと繰り返しつくづく思いました。ちなみにフェースブックですが、この時に、風のように移動していく坪内さんと繋がっていました。多分イラゴ峠越えで満員で断られたときにお会いしたので、FBを聞いたのだと思います。その坪内さんのFBから和田さんと繋がっていました。和田さんは、ピレーネで遭難する前日にお会いした人ですが、そのことを思い出したのは、日本に戻ってきてからでした。とにかく、僕の前に単独で二人の日本人が歩いているのが分かっていて、FBに毎日アップされていたので、ずいぶん参考になり助かりました。この日の夕食も近所のバルで簡単に食べました。次回です。ありがとうございました。☆5
2014年03月28日
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ポルトマリンのアルベルゲを暗いうちに出て、教会前のバルに行きました。ここのバルも何軒か開いていて、巡礼者も朝食を取り始めようとしているところでした。僕もここで朝食を取り、また湖にかかる橋のところまで戻り、つぎの目的地パラス・デ・レイに向かいます。今日も27キロメートル弱を歩く予定にしていました。二日で50キロメートルを越えて行くので、サンティアゴデコンポステーラはあっという間に近づいてしまいます。早くたどりつきたい気持ちと、そんなに早くたどり着いて。後どうするんだという気持ちがいりまじっていました。☆1途中の道で羊の散歩に出会いました。昨日は大きな牛が歩いていました。どうもこの道の主役はこの動物達で、その道を歩かせて頂いているような感じでした。さらに、道の脇の小屋の前に共通のチョッキを羽織った人達がいて、誘われるまま中に入ると、リュックを下ろすのを手伝ってくれてさらに、コーヒーに果物を出してくれました。休憩を終えて、外に出ると、みんなでブエンカミーノと言ってくれました。いろんな人達に支えられている道です。さて、この日も順調にパラス・デ・レイの町に入りました。☆2町に入ると、すぐに中心街に行く道から左に入ったところに、食堂のようなアルベルゲのような建物がありましたので、取りあえず行ってみました。やはりアルベルゲでしたので、すぐにチェックインしました。この道は毎年人気が出てきているようなので、新しいアルベルゲが増えているように思います。同じパターンでシャワー、洗濯をし、町にでます。町では知り合いと出会いますから挨拶をかわして、教会に行きミサの時間を確認し、早く始まるようだとミサに出ます。このパターンは、この数日変わらなくなってきました。この日の教会のミサも早い時間だったので、出席しました。何かの記念日だったのか、イベントがあったのか、結構な賑わいで正装している人も多くいました。カトリックのミサは種々雑多なので愉快です。特に鬚をはやしているおじさんは威張っている人が多いようです。☆3神父さんの朗読の最中は日本では皆かしこまって聞いているのですが、こちらのおじさん達はほとんど、ひざまずき台に靴のまま片足を乗せ、腕を組み 「聞いてやろうじゃネーカ!」的に聞いているのです。その姿を見ると、イエスの一番弟子のペテロも、これから向かうサンティアゴデコンポステーラのヤコブも、このような不遜な態度でイエスの話を聞いていたのだろうなと思い、可笑しくなりました。☆4この日の夕食も、明日の朝食もアルベルゲがバルをやっていたので、そこで食べました。夕食はスパゲッティーを食べたような気がします。今日はここまでです。ありがとうございました。☆5
2014年03月27日
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朝暗いうちにアルベルゲを出発したのですが、通りには何人もの巡礼者がいました。ここから歩き始める人が多いのでしょう。何軒かのバルに電気が灯っていましたので、その内の1軒に入り、カフェコンレチェとクロワッサンを頼みました。その店に次々に巡礼者が入ってきました。朝食が取れたので、気持ちも楽になって歩き始めました。24.5キロ歩きやすい道だったと日記に書いてあります。☆1今日の道の途中で100キロメートルを切れました。今日は道端で野宿をしている人がいました。少しでも昔の巡礼の再現をしようとしているのでしょう。そう言えばロバを連れて歩いている人もいました。後で聞いたところによると、ロバをレンタルで貸してくれるところあるそうです。とにかく、東京から九州までの歩く道が整えられていて、その間に様々な出会いとイベントが用意されている、すごく面白い道なのです。しかもこの道を歩いている限りお金は、家にいるより掛かりません。途中のバルでスペイン風ピザを食べました。そのバルでも何人かの巡礼仲間と会いました。その人達も一月近く同じ道を歩き続けています。☆2 24.5キロメートルを歩き、大きな湖のあるポルトマリンに到着しました。橋を渡ったところに民営アルベルゲがありましたので、そこに入りました。シャワーを浴びてから、町の中心地にある教会へいきました。教会の前で、昨日のオーストラリアから来ている親孝行の青年と会い、石段に座り少し話をしました。特にトラブルもなく順調に歩いているようです。きっとお父さんも満足しているのだと思います。青年はカミーノ歩きを、楽しんでいるようでした。☆3さらに、一緒に峠越えをしたアイルランドの青年とも会いました。彼は以前サリアで彼女と合って一緒に100キロを歩くと言っていました。その彼女も一緒で、紹介をしてくれました。ポルトマリンを通過して次の町まで行くようでした。彼女はお疲れのようで、ちょっとうんざり気味でしたが、この青年は頑固そうでした。ポルトマリンにはレストランが何軒もありました。しかもその看板にタコ料理が出ているのです。タコ好きなので、夕食はこれに決めました。アルベルゲのそばのレストランに入ると、タコ料理とサラダと生ビールを頼みました。もちろんフランスパンはたくさん自動的についてきます。このレストランは大当たりでフランスパンにいたるまで美味でした。☆4 実はフランスパンの味も店によって大分違います。今回の旅で感じたことですが、どこの国の料理がどうのこうのと言いますが、料理は国ではなく作り手で決まるのです。まあそれは日本国内でも同じです。見た目いっしょ。味別物。です。 タコ料理は茹でたての温かいタコにオリーブ油をたっぷりかけ、薄く塩をかけ、ガーリックと一味を多めにふって出てきます。それ以外の秘伝の隠し味も入っているのかもしれません。これは自宅に帰ったら作れるかもしれないと思ったのですが、まだやっていません。とにかに生ビールにあいます。タコでお腹が一杯になるのは、タコ好きにはたまりません。☆5日本のスペイン料理店にこの代表的なスペイン料理を置いてないのは、とんでもない事件です。メニューにある店も知っていますが、まだ行ってはいません。 次回です。ありがとうございました。
2014年03月26日
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トリアカステーラのアルベルゲの写真をとってから出発しました。少し歩くと道が二手に分かれています。僕はサモス修道院を経て、サリアへ行く、左の道に決めていました。 この道については、以前2度目の巡礼に来られていた坪井さんご夫妻に話を聞いていました。その時一緒にスパゲッティーを食べたドイツの人にそのサモス修道院のある町であいました。その町の風景が気に入ったので連泊をすると言っていました。素敵な場所でした。僕はその町のバルで朝食をとると、川にそってさらに山を下っていきました。☆1たぶんその日のことだと思うのですが、別のドイツの方と途中から歩くことになりました。昼近くになり、小さなスーパーがあったのでそこで、フランスパンと生ハムを買い、包丁を貸してもらって長さ二分の一のフランスパンを真ん中から切って、生ハムを一山はさんで食べました。二分の一のフランスパンが約50円、生ハムが約100円でした。店の前のベンチで瓶ジュースを飲みながら食べていると、さらに巡礼者が集まってきました。話が盛り上がっているのですが、僕は理解できないので、挨拶をして一足早くサリアに向かいました。☆2 1時前に、23.5キロメートルを歩いてサリアに到着しました。そこで坪井さんご夫妻に再会して立ち話をしました。僕はサリアに入ってすぐ目についた民営アルベルゲに入りました。多分そのアルベルゲでは最初の泊まり客だったと思います。こぢんまりしていましたが、屋上のある快適なアルベルゲでした。シャワーに入り洗濯をして屋上に干した後、町に出て、土曜日でしたので教会の夜のミサの時間を確認してから、町を散策しました。☆3聖地サンティゴ・デ・コンポステーラ まで100キロメートルちょっと、この町から歩けば巡礼をしたことが認められ、巡礼証明書を発行してもらえます。この町から人が多くなります。この町からだと巡礼ツアーもあるようです。サリアの展望台で景色を眺めていると、オーストラリアから来た青年に話しかけられました。彼は父親がどうしても巡礼をしたいというので、付き添って来たのさそうです。ここからサンティゴ・デ・コンポステーラをめざしますので、不安そうでした。☆4何か気をつけることはないかと聞かれたので、時間が許すのであれば、無理をしないように、お父さんのペースで歩き20キロメートル以上は歩かないで、昼までにはアルベルゲに入った方がいいですよなどといいました。実際混んでくるのでアルベルゲが一杯になってくる可能性があります。ただし、ここからは、ホテル等もあったので、どこかには泊まれるのだ思いますが、夏のシーズンになるとわかりません。☆5 ここでは、ミサに出ようと思っていたので、夕食はまたバルでボカディ-ジョを食べました。朝はトルティーヤ、昼と夜はハムのサンドイッチとウルトラワンパターン食べれれば何でもいいやメニューでした。次回です。ありがとうございました。
2014年03月25日
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昨夜はアルベルゲのそばのレストランで夕食のメニューを食べることができました。夕方早くから、食事を提供していました。 オスピタル・ダ・コンデサのアルベルゲは広い庭がありましたので、みんな洗濯をしたり、上半身裸になって日光浴をしている人もいました。しかし風が強く、暑がりの僕でさえ寒かったので、よくそんなことができるなと感心をしていました。☆1 さて、この日も朝早く一人で出発しました。サリアの町(後100キロメートルの地点) まで歩こうかと考えていましたが、ごつごつとした大きな石を渡り歩くような下り坂のために膝がひどく痛み、途中のトリアカステーラのアルベルゲで泊まることにしました。 ごつごつとした石の坂を痛いひざを我慢して降りていくと、なんとそこを自転車巡礼者も降りていきました。さて、森の中に入っていきました。前にも後ろにも人はいません。いるのは、すぐ前の道を遮るように横たわるワニのような巨大トカゲでした。☆2写真を撮る余裕はありません。飛びかかってきたら、二本の杖でたたきのめしてやろうと、用心をしながらそっと横を通り過ぎました。きっと巨大トカゲも似たようなことを考えていたのだと思います。恐るべき森だと思いながら、さらに下って行きました。ごつごつ石はなくなっていたので膝もそんなに痛くはなくなっていました。道ばたには、小さな可愛らしい花が沢山咲いていました。道ばたの小さい花に興味を持つ人はあまりいないように思いました。そんな花々の写真を撮っていたのは、一緒に遭難したドイツ人のアーントさんだけだったと思います。彼は助かることが確実になった後、道ばたの小さい花の写真を撮っていました。僕は完全に指が動かなくなっていたので、写真は撮れませんでした。一月がたったこの時でも、指の痺れは治ってはいませんでした。☆3さて、更に坂を下っていくと、その可憐な花の写真を撮ったり眺めたりしている、巡礼のおじさんがいました。その花は何ですかと聞くと紙にPRINEVÉREと書いてくれて、フランスでは普通に窓辺に飾る花だそうです。日本でも桜草はベランダに置いてるのでその辺はおなじです。なんとなくスペイン風な桜草です。 さて、この日はどこに泊まったのか、トリアカステーラがどんなところだったのか全く思い出せませんでしたが、書いているうちに思い出しました。☆4この日も一人でレストランで、巡礼者メニューを食べました。ところが、近くのテーブルで食べてた、多分地元のおじさんだと思いますが、その人達が食べていた一品料理のステーキ肉の方が圧倒的にいい肉なので、ものすごく残念な思いをしました。巡礼者メニューの肉は薄ペラな冷凍食品的スジ肉まがいなのに、地元のおじさん達が食べているのは、炭火網焼き肉厚極上ステーキ風で、焼き上げては店の人が地元おじさんの空になった皿に乗せていきます。なんだこの差はと、うらめしく思いながら、冷凍食品的すじ肉的物体に食らいついていました。☆5 明日はサリアに向かいます。そこからいよいよ100キロメートルで目的地サンティアゴ・デ・コンポステーラに到着です。日本を出たのが4月24日。1月が過ぎました。同じ時期に出た、ほとんどの人はあと10日間程で帰りの飛行機に乗ります。次回です。ありがとうございました。
2014年03月24日
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オスピタル・ダ・コンデサ泊 朝6時30分にトラバテロを出発した。と日記に書いてあります。この時間だと、やはり暗い中の一人での出発です。途中でハンガリーの青年と3回程一緒に歩きました。多分1時間前後を一緒に歩いたのだと思います。とにかく僕は自分のペースで歩くことしか出来ませんから、前にも書いた通り、出会ったり別れたりを繰り返しながら進んで行きます。☆1 しばらく歩くと青年が追いついてきました。山に入り込んで行く前に、バルがありましたので、青年とそこに入り一緒に朝食を取りました。その後も一緒にしばらく歩きました。天気も良く、景色がきれいでした。やがてレオン州が終わり、ガリシア州になります。森が深くなっていくように感じました。途中の森で木々の間から、巨大なカメレオンが顔をのぞかせました。50センチメートル近くはあったと思いました。青年はIPADMINIのカメラを向け、僕はデジカメを向けました。あなどれないガリシア州そばと、いった感じでした。後日そのカメレオンの置物をマドリッドのお土産屋さんで見掛けましたので、スペインの名物爬虫類さんなのかもしれません。☆2 オセブレイロの頂上は観光地になっていて、バスで来た観光客が沢山いました。ここの教会は14世紀に奇跡が起きた教会として有名なのだそうです。3週間前にバスクで会った、アメリカのご婦人とそこで再会して、今のこの教会の神父さんもとても人気がある人なのよと、教えてくれました。行列が出来ていたのは、その神父さんと写真を撮るためだと分かりました。僕はミーハージジーですから、ならんで写真を撮ってもらいました。☆3 本当は、僕はその頂上の観光地のアルベルゲで泊まる予定にしていましたが、青年が先に行くというので、時間をみると12時であったことと、そこは、風が強く寒かったこともあり、僕も山を下りることにしました。しかし下り坂で膝に激痛が走るようになりました。後に、アルベルゲで何人かの人と話をすると、多くの人が下り坂が辛いと言っていましたから、長距離を歩いた人に共通に現れる、身体の障害なのだと理解しました。そこで、坂をほとんど下り終わったところにアルベルゲありましたので、青年に僕は足が駄目だからここに泊まると言って別れました。☆42時30分頃でした。そのアルベルゲはまだ空いていたのですが、4時頃たどり着いた人はフルだと言われて断られていました。その村には他にアルベルゲがなかったので、その辛さはよく分かりましたが僕の力ではどうすることもできませんでした。次回です。ありがとうございました。☆5
2014年03月23日
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カカベロスのホテルは朝食が出るので、朝レストランが開くのを待ちました。アルベルゲのように、前日に用意してあるのを勝手に食べるというわけにはいきません。レストランに入ると、武道の免状が額に入って柱に飾ってありました。従業員のものだそうです。 半分が日本語、半分が英語の中に所々スペイン後の単語が入っている免状でしたので、この村のどこかに武道(合気道)の道場があるのかもしれません。☆1 朝食はホテルらしくウエイトレスの人が運んで来てくれました。クロワッサンとフランスパンにジャム、それにカフェコンレチェとフレッシュジュースと籠にいろいろなフルーツが入っていました。フルーツはバナナを選んでカバンにしまいました。受付でカードで支払いを済ませました。お土産売り場は、日本の観光地のオシャレな店とそっくりで、ジャムやワインやお土産用食べ物、グッズが並んでいました。とても親切だったので日本とつながりのあるホテルだったのかも知れません。☆2 さて、荷物を担ぎホテルを出ました。巡礼者で泊まっていたのは、僕だけだったようです。黄色の矢印にしたがって歩みを進めていきました。途中でハンガリーの若者と東京から来られた坪井さんご夫妻に会いました。山道に入っていきます。明日は最後の峠越えになります。今日から上り坂になっていきます。大分高度を上げて行きました。木々の間から国道が遙か下に見えています。ところが途中が下り坂になりました。明日の峠越えに備えてできるだけ登っておこうと思い、頑張って歩いていたのに、がっかりでした。☆3山道の下りは、一面の栗畑でした。そこに、黄色の矢印が見当たらないので不安になりながら、坂を下っていきました。やがて、国道まで下がってきてしまいました。そこの村にアルベルゲがあるらしいので、この村に泊まることにしました。国道を歩いてきた人がいましたが、それが正解でした。登って降りる無駄な労力を使ってしまいました。しかし、栗畑の中を歩くのも一寸は楽しかったようにも思います。☆4アルベルゲで坪井さんご夫妻と再会し、夕方雑貨屋に買い出しに行き、奥さんの作られた野菜サラダ。スパゲッティーをご馳走になりました。今回の旅で一番美味しいスパゲッティーでした。 そのアルベルゲに、やがてハンガリーの青年もやってきました。明日一緒に峠越えをすることになります。次回です。ありがとうございました。☆5
2014年03月22日
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アルベルゲを出発しポンフェラーダに向かいます。山道を下りながら、左前方に白い煙がモクモクと上がっているところがありました。工場か発電所の煙なのかなと思いながら、温泉に入りたくなりました。さらぬ歩みを進めると住宅地になっていきます。日本語の石柱が立っていました。NPO遍路とおもてなしのネットワーク、NPOループ88四国 という日本の組織により設立されていました。カミーノ友好と刻まれていますので、四国八十八ヶ所とのつながりがあるようです。その石柱にポンフェラーダまで6キロメートルを日本語で書かれていました。☆1さらに歩くと、川に沿って長い運動公園があります。スペインもポルトガルも犬が放し飼いで歩いていますから、目つきの鋭い大型犬だとすれ違うとき、結構怖いものがあります。その恐怖感を味わいながら川沿いを延々とあるきやっと橋のところでポンフェラーダの中心地に入り込んで行きました。とても立派なお城のような建物があります。その前におしゃれなパン屋さんがあったので、そこに入り昼食を取りました。☆2フレッシュジュースとパンを4つ買い、二つはカバンにしまいました。さらにしばらく歩くと公園があり、その横は小学校でした。アルベルゲがどこにあるのかわかりません。町でアルベルゲを探すのはめんどくさいので、次の町に行ってしまおうと安易な判断をしてしまいました。ここまでの歩いた距離が12キロメートル強でしたから、次の村まで10キロメートルは歩けるだろういう判断をしたのでした。ここまで600キロメートルを歩いて残り200キロメートル程になっていました。思考力も判断力も忍耐力もありませんでしたから、余計に苦労するという悪循環に陥っていたのでした。☆3しばらく歩き、モダンな他建物を横目で見ながら黄色い矢印を追い、やがて郊外に出て行きました。そのあたりでアイルランドの若者と再会して、次の町まで一緒に歩きました。その町にアルベルゲが見つからないのです。どうもその時期はやっていないようでした。青年は銀行を探すと言ったので、そこで別れました。また絶望が襲ってきました。次の町までまだ6キロメートルくらいありました。しかも昨日とは違い上り坂になっていました。しばらく歩くと、小さな公園があり、そこに何人かの女性の巡礼者いて休んでいたので、ぼくもそこのベンチに座り、カバンからばパンを出して食べました。☆4陽は傾き掛けていましたので、気持ちは焦りはじめていました。しばらく坂を登っていきました。どのくらいの時間が歩いたのかわかりません。町があらわれました。西部劇に出てくるような町でした。町に入ると直ぐにアルベルゲがありましたので、助かったと思い中に入りました。ところがそこは、アルベルゲではなく、高級なホテルでした。それで受け付けの人に断られてしまいました。しかし。身体も心もこれ以上歩くことを拒絶していました。カード支払いが出来ることを確認してから、値段を聞くと47€でその時のレートで5000円一寸です。泊まることに決めると、受付の人はとても親切になり、荷物を持ち部屋に案内してくれて、部屋の説明をしてくれ入浴後はワインとつまみを用意するので、風呂から出たら連絡をするように言われました。☆5久しぶりの湯船にゆっくりと入れました。WIFIも快適に入ってきました。ホテルの夕食は煩雑すぎるので、ホテルのバルでサンドイッチとジュースで簡単にすませ、部屋でゆっくり過ごすことにしました。朝食付きですので、とても恵まれたホテルに泊まれました。次回です。ありがとうございました。
2014年03月21日
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次の村に向かう道のいくつかの風景は、いまも目に浮かびます。なだらかな下り坂なので、体力的に苦しかったことはないと思います。後4キロメートルくらいで到着するという見通しがありましたから、気持ち的にも不安はありませんでした。しかし、そこも満員だったらどうしようとは、少し思っていました。☆1 やがて、次の村にたどり着きました。村にたどり着いて、地元の人か他の巡礼者にアルベルゲを尋ねたような気がします。そんなに苦労なく見つけました。受付をして、夕食について聞いたところ、そばにレストランがあるから、そこに行くように言われました。 アルベルゲはそんなには混んでいなくて、ベッドはあいていましたから、好きな場所を選ぶことができました。しかしアルベルゲの構造が良くなく、蜂の巣のように区切られていて暗い感じでした。すぐにシャワーを浴び、その後昼を取っていなかったので、まだレストランが開く時間ではなかったのですが、レストランを探しに行きました。☆2坂を下ったところに広い庭のあるレストランを見つけたので取りあえず入りました。すると、そこに二人の青年がいて、ワインを持ってきてくれました。まだ食事の時間ではないのですが、飲み物とスナックは頼めるようなのでした。レストランの予約を取ると、庭のテーブルで、二人の青年、南アフリカから来た女性、オランダの人とワインを飲み話をしました。とにかくよく歩いた一日でした。荷物を担いでの40キロメートルの峠越えは、僕にとっては奇跡です。鉄の十字架が支えてくれなければ、出来る技ではありません。 庭のテーブルで気持ちよくワインを飲みながら時間を過ごしていると、食事の連絡が入り、席を移しさらにワインを飲みながら、食事をしました。他のテーブルも巡礼の人で一杯になっていましたが、顔見知りの人も何人かいました。☆3 この中には、先の村で断られて、ここにたどり着いた人もいるのだと思います。世界中から集まった見ず知らずの人が、共通の思いのもと、それぞれの苦労を背負い、和気藹々と楽しく食事をするこの空間は、巡礼だからこそ得られる魅力的な場です。 食事が終わり、アルベルゲにもどると、二人の青年がワインを持ってきて、誘ってくれました。しかし、僕はもう疲労の限界を超えていましたので、お礼を言ってベッドに行きました。☆4 さて、次の日、一人で歩き始めました。昨日夕食を取ったレストランが朝食も提供してないかと思って、一応前を通ったのですがやはり開いていませんでした。 ポンフェラーダに向かいます。ポンフェラーダに泊まればよかったのですが、しかしこれまでの経験で町の前後の村のアルベルゲがとても良かったので、今回も、町を通り越して先の町を目指しました。それがとんでもない苦労を背負うことになってしまいました。次回です。ありがとうございました。☆5
2014年03月20日
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5月20日(月) 朝、アルベルゲで朝食がでました。朝は、それぞれに食堂に集まって食事を取りましたが、だいたい同じ時間に集まって朝食をとることになりました。昨夜一緒に食事を取ったドイツ人の人とは、別々に出発したと思います。朝は一人で出発するのが原則です。出発は大事ですから、自分が納得したタイミングで出ます。そんなふうに思っているのは僕だけかもしれません。飛行機が離陸するときのようなものです。やがて、一緒に話しながら歩き始めました。☆1 しばらく一緒に歩いていると、その横をものすごい速さで抜き去っていく巡礼者がいました。思わずドイツの方を顔を見合わせてしまいました。ドイツの人が、あれ日本人じゃないのか?誰だか知っているか?と聞きましたので、僕もビックリして、あんなに早い日本人はいないのではないかと、訳の分からない返事をしました。またしばらく歩くと、カーボーイと書かれたバルがありました。このバルはフランス映画「サン・ジャックへの道」で出てきたバルです。見て直ぐに分かりました。アル中気味の兄が飲んだくれて倒れ込んだ店です。彼はここに寄っていくと言ったのですが、ぼくは少し歩きになれてきたところだったので、そこで別れて先に進みました。☆2これから、登っていくイラゴ峠の頂上には、鉄の十字架があります。その十字架のもとに、地元からもって来た小石に願いを込めて置くという慣わしがあります。僕も日本から小石を持ってきていました。昨年上映されてアメリカ・スペイン映画「 星の旅人たち」にも出てきたシーンです。 そこに、この日どうしても辿り着きたいと思っていました。そこに行き、もっとも近いアルベルゲに泊まるには、最低でも26キロメートルは歩かなければなりません。峠越えで26キロメートルはきついと思っていました。☆3 なんとか、鉄の十字架な辿り着いたときには感動しましました。そこに持ってきた石を置き祈りました。今回の巡礼の一つの目標でもありました。さてそこから国道沿いの下り坂になりました。1500m以上ある山の上ですから風も強く寒かったので先を急ぎました。下り坂を主に、上り下りしながら高度を下げていきます。最初のアルベルゲに到着しましたが、案内所によるとシャワーがない山小屋でした。実際そこに泊まろうかどうしようかしばらく迷ったのですが、まだ時間があるので、もう少し下ろうと思いました。そこから、さらに10キロメートル程になります。☆4それは、かなり厳しい距離ですが、歩き始めました。途中で、アイルランドの青年とハンガリーの青年と会い三人で歩きました。どうにかやっと10キロメートルを歩き、村に辿り着きました。そこには三つか、四つのアルベルゲがありました。ところが全部満員で断られてしまいました。朝方、ヒューと追い抜いて方がシャワーから出て来られて、それは困ったなと言われました。その方とはスペイン巡礼の終わりの方で再会し、とても素晴らしい食堂を紹介してもらい一緒に食事をすることになります。☆5 さて二人の青年とさらに、歩き続けることになりました。いよいよ峠越えの40キロメートル以上を歩くことになります。僕の能力の限界を超えていますので、二人の青年に先に行くように言いました。休み休み次の村を目指すことにしました。野宿などができるような気温ではありませんし、そのような準備もありませんでした。次回です。ありがとうございました。
2014年03月19日
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さて、ムリアス・デ・レチパルの村には苦労はあまりなく辿り着くことが出来ました。なにはさておき、アルベルゲ探しということで、村に入ると、直ぐの家からおばあさんが出てきましたの、アルベルゲをお聞きしました。すると、2ヶ所教えてくれました。「この道を真っ直ぐに行ったところにあるアルベルゲはデラックスなのよ」と言われたので、僕はデラックスが良いのです。と直ぐに言いました。金持ちになったような気分でした。☆1 このおばあさんの言われた「デラックス」の発音はとても気に入りました。今でも耳奥に残っています。アルベルゲは高級でも、最高でも400円ほどしか値段が違いませんし、ベッドは安心安全の幸福感で満たされてきます。それは次の日の歩きに大きく貢献します。 高級なアルベルゲだけあって、入り口から、デラックスムードがあふれ、宿の人も感じの良い親切な人でした。しかも幸いなことに、夕食も朝食も付いていました。値段は普通でした。やはりアルベルゲはデラックスに限るなと、この時もつくづく思いました。☆2 受付のご婦人が親切な方だったので、悩みを打ち明けました。すると、その鍵を見せなさいと言ってくれたので、カバンから出すと、アラアラという顔して、その鍵を受け取ってくれました。夕食の時に、そのご婦人が「鍵は、アルベルゲの方が車で取りに来ることになりました」と言ってくれたので、ホッとしましました。電話で連絡を取り、説明してくれたようでした。何回もお礼言いました。助かりました。☆3 夕食は、一つテーブルを囲みワイワイとみんなで食べました。やはりドイツの人が多かったと思います。ドイツの人は、スペイン好きの人が多いように思いました。斜め前の人と次の日一緒にアルベルゲを出ることになります。その人は、まだ40代前半のように見受けましたが、一日に20キロメートル以上は歩かないことに決めていると、言っていました。長く歩くのには、それは大切なことだと思います。時間は有りすぎていましたので、ぼくもそうしたいと思いました。☆4しかしぼくは、決めたことは直ぐに揺るぎ、目標は定めた後、逆方向に歩いて行くという美的カオス世界に生存しているので、その決まりがぼくの中でどのように実現されていくのは、未知でした。次の日直ぐに崩れました。崩れたどころではありません。今回の巡礼での最長距離40キロメートル越えをしてしまうことになります。続きは次回です。ありがとうございました。☆5お誕生日、敬老の日、お祝い、お見舞いなど最適。イメージも選べるお任せ花束・アレンジ♪バラの花を入れて おまかせ花束 アレンジ・薔薇・ばら・バラ花束・フラワーアレンジ・フラワーギフト・プレゼント・ギフト・花 ・フラワーアレンジメント ¥2625~コース【smtb-k】【kb】
2014年03月18日
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腕を背中に回して、片方を上、片方を下から、右手と左手の手を合わせるという技が今まで出来たことがありません。これは誰でも出来ている技だと思って、ネットで見てみましたら、中には出来ない人もいるようです。僕は身体の構造上の問題だと思っていますので、どんなに手をバタバタしても鳥のように空を飛べないのと同じだと思っていました。☆1 しかし、先週奇異な現象が起こりました。入浴時、右腕を上、左腕を下から伸ばしたところ、右腕の指先に何かグニュとしたものが触るのです。なんだこれ!背中から生えようとしている白い翼の芽か?などと想像を巡らしたのですが、より現実的な結論として左手の指先だと言うことになりました。それならば左手の指先も感じるようなものではないかと思いますが、左手の指先は仰天して、感じるどころではなかったようです。 この歳になってはじめて味わう、不思議な感覚でした。まだまだ身体は変化しているようだという希望が目の前をよぎり、Rシトラウス 「ツァラトゥストラはかく語りき」のラッパの音が高らかに鳴ったように感じました。 単語無記憶脳が解消し、新たな脳が芽生えてくれないかななどと思っているのですが、昨夜チャレンジしたところ、全然指先はつきませんでした。 バラ苗 ショートケーキ 国産大苗6号スリット鉢ミニチュア系パティオローズ 四季咲き中輪 赤系 ☆☆☆☆☆☆☆
2014年03月18日
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ドイツの青年とアルベルゲで別れ、一人アストルガに向かいました。青年の自転車を見てみたい気持ちもありましたが、やはり先を急ぎました。道沿いに黄色い矢印があり、分かりやすい巡礼道でした。小高い丘の登り道を進んで行きました。天気もよく昨夜よく眠れた上に、朝食もしっかり取れているので、気分的には楽でした。今日の予定距離は21キロメートルですので、そんなに大変な距離ではありません。丘に登ると、十字架があり、その先にアストルガの町並みが見えてきました。☆1 アストルガまでは、なだらかな下りの道ですから、歩きも楽でした。アストルガの町に入ると、いくつか由緒のある雰囲気の建物がありましたが、それが何だか分かりませんでした。やがて大きな教会、カテドラルに到着しました。外から見るだけにして、先に進もうかとも思いましたが、時間が早かったので少しだけ見ていくことにしました。入り方がよく分からなかったのですが、美術館の方から入りました。☆2受付で入場料を払うと、係の人が、荷物は見ているから、そこに置いておきなさいと言われたので、受付の横に荷物を下ろし中に入っていきました。受付の人は、とても感じの良い人でした。結局美術館から教会の中も見学をすることができました。受付に戻ると、記念にキーホルダーを購入しました。そのキーホルダーは今使っているバッグに、付けています。さて教会を出ると、町の中心地にある広場の方へ向かいました。チョコレートの有名な町ですから、チョコレートの問屋さんのような専門店が何軒かありました。その1軒に入り、80%の分厚い板チョコを2枚買いました。1枚100円くらいだったと思います☆3それは、さすがだと言うほど美味しいチョコレートでした。広場で、ナポリの人と会いしばらく立ち話をしました。僕が、アストルガの町で泊まらないでもう少し先に行くと言ったら、なぜ泊まらないんだと不思議がっていました。サンティアゴ・デ・コンポステーラで一緒に写真を撮ることを約束して、別れました。巡礼道は商店街を通っていました。その商店街のカフェに入り、昼食にカフェコンレチェとチョコレートパンを頼みました。チュロスも付けてくれました。☆4とても混んでいたので人気店だったのでしょう。さて、ムリアス・デ・レチパルに向かいます。ここからだと、たいした距離ではありません。ポケットに手を突っ込むとなんと、アルベルゲの鍵が出てきてしまいました。郵便局から送り返そうかとか、いろいろ返す方法を考えながら、憂鬱な気持ちで歩きました。この時だれかと一緒に歩いていたような気がします。写真を取り合いました。誰だったのかサッパリ思い出せません。☆5
2014年03月17日
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シャワーから出てきた人はドイツ人の青年でした。彼はドイツの僕でも知っている有名な企業に勤めていました。いろいろな話を聞くことが出来ました。ドイツでもスペインと同様、長期の休暇をみんな取るようです。彼は半分は家族の為に、半分は自分の為に使うのだと言っていました。☆1自転車で来ているとのことでした。前回はドイツからパリまで走ったので、今回はパリから出発したのだそうです。自転車では大変な道があるので、それを聞くと、時間が限られているので、大変なところは走りやすい国道を走るそうです。ヨーロッパの人達の自転車に掛ける情熱は大変なものだと言うこともよく分かりました。 結局、この四人部屋は他には誰も来ませんでした。夕食も食堂でこの青年と一緒に取りましたが、アルベルゲの方も親切で、料理も美味しい家庭料理を出してくれました。サラダのなかに、カニカマが入っていたのにはビックリしました。それから、自家製のお酒も飲ませてくれました。この自家製のお酒は他の場所で飲んだことがありました。そのお店や宿と仲良くなると、小さなコップに入れてそっと出してくれるのです。自家製の薬膳酒のような感じで、なにかとても大事なものを飲んでいるような感じがしました。☆2 昨夜の柵なし恐怖ベッドとは打って変わって、贅沢な宿でしたが、値段は400円ほどしか変わらなかったと思います。トイレもシャワーも室内にあってとても綺麗でしたので、夏休み中のシーズンに入れば、人気が出て混んでくると思います。まだ、開店間際だったのだと思います。それから、ここからもう少し歩くと、アストルガと言う大きな町に入りますので、そこを目指す巡礼者がほとんどですから、この場所は穴場なのかもしれません。 ワインも二人で一本空け、自家製のお酒もいただいたので久しぶりにゆっくり眠れました。次の日は、チョコレートの町アストルガを目指しますが、泊まるのはそこを突き抜けて、ムリアス・デ・レチパルトに向かうことに決めていました。どうも今までの経験で、田舎のほうが、気に入ったアルベルゲに泊まれるように思えていたからでした。☆3次の日も、暗い内に起き、出掛ける準備をしました。青年も起き始めて出掛ける準備をし始めました。僕が起こしてしまったのかもしれません。食堂に行くと、宿の主人がカウンターに入り、コーヒーを沸かしてくれました。青年とコーヒー、ジュース、トーストで食事をすると、僕は一足早く宿をでました。今、日記帳も見返すと、青年の住所と名前が書いてありました。朝食の時に、住所交換をしたような気がします。そのことは、今まで完全に忘れていました。☆4 その後その青年と会ったかどうかも分かりません。その後もたくさんの自転車で来ていると人と挨拶しましたし、顔は忘れてしまいました。さらに自転車で走る人は、一日に沢山の距離を走るようです。さて、この日、アストルガを出たところで大失敗をしたことに気がつきます。この親切にしてくれたアルベルゲの立派な部屋の鍵をポケットに入れたまま来てしまったのです。とても戻ることが出来ない距離でした。それでは次回です。
2014年03月16日
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森の中を歩いていると、やはり何人かはこちらの道を選んで歩いていました。そのうちの一人のお年寄りの女性は、花を摘み帽子につけて歩いていました。帽子がブーケのようになっていました。その女性とは、別の日に2,3回会いましたので、挨拶を交わしました。☆1もう一人ナポリから来た若者と会い、少し話しながら歩きました。ナポリには日本人はいつも沢山来ているよと、言っていました。日本人はナポリが好きなんだよと、返事をしたら、とても納得していました。そのナポリの人も、その後何回か会いました。よく携帯で電話をしながら歩いていました。若い女性の巡礼者ともよく一緒に歩いていました。☆2 さて、34キロメートルですから、森を抜け、町を歩き、道路沿いを歩き、麦畑や葡萄畑やオリーブ畑を歩きと、様々な風景を見ながら。オスピル・デ・オルビゴに到着しましたが、川に長い石の橋が架かっているところですが、その橋を渡りながら、アルベルゲはその橋の手前ではないかと思いました。もう戻る積もりはありませんでした。アルベルゲを探すには疲れすぎていました。☆3橋を渡ったところに、ちょっと営業しているのか、どうかわからないホテルがありましたので、そこに行ってみようと思いました。なにしろ昨夜は柵なしベッドですから、ちょっと贅沢してもいいかなと思っていました。橋を渡って右を見ると、建物があり、その壁にアルベルゲの文字が書かれていましたので、やはり安い方にしようと思い、そのアルベルゲにしました。その選択は大正解でした。出来たての☆4綺麗なアルベルゲで四人部屋に通され、もう一人先人がいて室内のシャワーに入っていました。ベッドも真新しく、木のしっかりした作りで、もちろん下の段を確保しました。やがてもう一人の巡礼者が現れました。今日はここまでです。昨日から仕事が入って、ちょうど一年ぶりの仕事でお疲れ気味になっています。 大好きなのに忘れかけてた・・・。愛されて50年、元祖レモンケーキ!菊家の『サンレモン』生まれ変わりました!サンレモン 8個入☆☆
2014年03月15日
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朝、暗い内にレオンを出発しました。日記と本のスケジュール表を見ると、昨夜からこの日は34キロメートルを歩く覚悟をしていたようです。この道は3回話しになりそうです。僕のペースだと8時間以上を歩き続けることになります。 柵なし2段ベッドから落ちることもなく、起床しました。暗い中トイレに行きます。首から下げたLEDランプは必需品でした。昨夜梯子代わりに置いたイスは、下の人の荷物置き場になっていましたが、その端の隙間に足を置くとそっと降りました。☆1 なんとか、朝の準備、出発の支度が終わると、部屋をでました。このアルベルゲは朝食付きでしたので、朝食が準備されているかどうか確認しに、昨日の受付場所に行きました。受付場所の横の小さな部屋に、飲み物、パンとジャムが置いてありました。先人が四、五名居たように思います。数百人も泊まっているアルベルゲなのに、みんな来ると大変だと思いました。ぼくは、カフェコンレチェとオレンジジュースそれにフランスパンを二切れジャムを付けて食べました。朝食を食べるか、食べないかで、歩きの進む速度、疲労感の違いが、体感として本当によくわかります。そそくさと食べ終わると、すぐに立ち上がり席を空けました。☆2 さて暗い中、外にでました。昨日、カテドラルのところに黄色の矢印を見ていましたから、取りあえずそちらの方に進みました。都会ですから、ここを抜け出すまでが一苦労だと思っていました。右手に大きな歴史的建造物を見ながら、矢印をたどりながら歩いて行きました。その歴史的建造物の一つがパラドールだったと思います。 レオンを去り、巡礼の道に入ってきます。いろいろな道を歩いたはずです。自動車で普通道を走れば、30分以内から1時間までで到達する距離です。今思うのですが、移動することで見聞できるものは、距離に比例するのではなく、時間に比例するのだと思います。☆3この日は8時間以上歩いたはずですが、日本から飛行機に乗ると8時間前後でハワイまで行きます。その時間飛行機の窓から外を見続けて、併せて機内食を食べたりトイレに行ったりする体験が34キロメートルの中に詰まってくるように思います。散歩も旅です。営業は?レアな旅です。松尾芭蕉の奥の細道だって営業だったと言ったら怒られますかね!☆4 ずいぶん話がずれたので修正します。この長歩きで、覚えていることの一つです。道が二股に分かれていて両方とも矢印があった場所がありました、一つは土の道で山の方に向かっていました。もう一方はトラックの走る道路に向かっていました。多分国道です。国道沿いに巡礼道があるのだと思います。土の道の方が次の町までの距離が長いように案内板に示されていましたが、僕は迷うことなく土の道に入って行きました。長い道を歩いていると、土の道が楽なのです。アスファルトは滑らかで、小石やぬかるみや、でこぼこがなく楽のように感じますが、足の疲労や痛みが出てきます。土の道は石を踏んだり、滑ったりしますが全然楽です。後ろを振り向くと、巡礼者はみな道路に向かっていきます。僕は戻ろうとは思いませんでした。今日はここまで、全然進みませんでした。次回は進めます。かな?ありがとうございました。☆5 しっとりとした口あたりに焼き上げたショコラ、フロマージュ、キャラ...価格:525円(税5%込、送料別)
2014年03月14日
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内視鏡の検査を二日間にわたって行いました。その苦しさは人によって随分違うみたいですが、知り合いの中でも、不快感も苦しみもほとんどないと言う人もいます。どうも僕は気が小さいことや神経質なこともあってどうも苦手です。しかし前回おこなったときにポリープが沢山あったので、2年後覚悟を決めて行いました。前回は日帰りで行ったのですが、ポリープを沢山取り除いたので入院することになりました。それで、今回は最初から入院をして行うことにしました。 幸いにして、ポリープはなく処置がなく検査だけ済んだのですか゛、ポリープがなかった為かそれ以外の条件も進化しているためなのか、検査時間も随分短かったように思います。しかし、それにしても入院しながら、自分の今の状況が贅沢だと思いました。 同梱で3150円以上のお買い物なら送料無料!昭和レトロな手づくりスイーツ♪「なつかしのレモンケーキ」おためし6個セット
2014年03月14日
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