全9件 (9件中 1-9件目)
1
晩唐の詩人于武陵「勸酒」花発けば 風雨多し 人生別離足る井伏鱒二の名訳「ハナニアラシノタトヘモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」三春町、福聚寺山門傍の掲示板です。25日は坐禅会でした。
2016/04/25
コメント(0)
警策の 響く音のみ 坐禅堂 掲示板に芭蕉の句が貼り出されておりました。「古池や」の句の音に着眼して捻ってみました。この日は遠くは青森から坐禅に来られる方がありました。坐禅が終わるのが午後9時、それから茶話会が3~40分ありますので遠方からの方は近くの宿に泊りとなります。今回の方は、ぬる湯旅館に一泊だそうです。ここの坐禅はおすすめしますと行ってみたいと云う方はけっこうおりますが、実際に足を運ばれる方はそんなに多くありません。ここの計約2時間ほど座りますと話しますと恐れをなすのでしょうか。過去には30分座って帰られた方もいます。しかし遠方から足を運ばれてくる方は心構えがちがいます。縁ある人は足を運ばれるでしょう。福聚寺の参禅会 どなたでも予約なしで参加できます。毎月25日午後7時~9時 ※1月だけは25日でなく元旦朝5時からです。福島県三春町御免町194東北南部の梅雨入り発表 1951年以降で最も遅い梅雨入り(福島2015/06/26)今年は平年より21日遅いそうです。 ちなみに昨年は、6月5日でした。
2015/06/26
コメント(0)
室町時代に、夢窓国師と呼ばれた禅僧がおりました。 夢窓国師の残した言葉に、《極楽に行かんと思う心こそ、地獄に落つる初めなりけり》 という句があります。「極楽に行きたいと願う心が、この世での苦しみになる」 人間の欲は、はてしなく際限がなく、ついには来世のことにまで欲をかくようになる「欲心こそが苦しみの根源である」と諭したものですが、 まぁ「明日のことを思い悩むことなかれ」ということです。そうは云っても凡人には難題である。 ・うまくいかないのが人生と悟れば、どんな窮地に立っても肚が据わる ・悟った者はさらに一歩を進め、悟りに磨きをかけよ http://www2.tokai.or.jp/g-arakawa/title/z10.htm悟りとはhttp://www.eonet.ne.jp/~eternity/sub34.html
2013/07/25
コメント(0)
25日午後7時からは恒例の坐禅会でした。三春町の福聚寺で2時間ほど座ります。5分間の休憩を挟んで25分を4回座ります。桜がまだ咲いているので早めに出かけようかななどと考えてはいましたが、あれこれとあり結局はやはり5分前の到着となりました。同上写真は、坐禅を終えて般若心経を唱えているところ坐禅中に禅の言葉の解説があります。今回は、禅語『落花流水太茫々-らっかりゅうすいただぼうぼう-』 花が散り落ちて、それが川に流されていく光景ですが、「茫々」とは果てしなく流れていく様子です。無心に流れに逆らわず、身を任せて生きたらいいという例えです。「 大丈夫、それでいいのだ 」花が落ちた時に、その場所の川の水と出会う、その落ちる時というタイミングが縁ということになります。縁起と観音力。最新刊:「流れにまかせて生きる 変化に応じる「観音力」の磨き方」思い込みにとらわれることはないのです。もっとはるかな遠い着地点を心に描いて、大きな流れに沿っていって欲しいのです。それで大丈夫ですから。「流れにまかせて生きる」とはただ流れるままに他に委ねて生きるということではなく遠くの着地点を頭に描いて流れにまかせて生きるということですね。2009.2.25発刊の観音力を大幅加筆修正し改題しての今回の発刊。興味と関心があれば時間をつくり両方の本を手元にして、どこがどう変わったのか読み比べてみるのもいいかもしれません。命には宿命と運命がありますが、宿命は「とまる」、運命は「うごく、運ぶ」ということになります。玄侑さんは「川端康成の場合は、男女の出会いに例えたということです」と言われたのでweb検索してみましたら昭和41年に「落花流水」という題名で随筆集を出していたことを知りました。禅語「落花流水太茫々」の出典は碧巌録からのようです。そこで碧巌録を検索していましたら「碧巌録と棟方志功」という興味深いものが目に入る。彫刻家・棟方志功は陶芸家の河井寛次郎に出会って碧巌録のことを教えられたようです。 それも40日間にわたって河井寛次郎は碧巌録を棟方志功に講義したとのことです。当然、その教えが棟方作品に精神的な深みとなっていったわけです。なぜ今回の禅語は落花流水であったのだろうか、ちょうど季節は桜の花の散る季節です。また玄侑さんのホームページ開いてみましたら最新刊に「流れにまかせて生きる」とありました。それも以前に出版した観音力に手を加えたもの。3.11の震災で私たちの生き方のありようにも変化が起こったと言えるでしょう。
2013/04/26
コメント(0)
明日26日は 旧暦では2月15日です。お釈迦様の入滅の日だそうです。お釈迦様は仏教の開祖であります。その生みの親が入滅された日ですからお寺では、釈迦の教えや徳に感謝する「涅槃会(ねはんえ)」が、各地のお寺で行われるそうです。今から約2500年ほど前に、仏教の開祖であるお釈迦(しゃか)様が、数え年80歳で生涯を閉じました。その日は旧暦の2月15日。新暦では3月26日です。今日はお釈迦様の入滅の日の前日にあたり、この日だけ、福聚寺ではお釈迦様が亡くなった時の姿を描いた『涅槃図』を 本堂に掲げるのだそうです。右上に雲に乗った母親が二女を伴ってやってきて薬袋を投げおろしたのですが木にひっかって下に届きませんでした。鼠がそれをみて私がとってきますと走り出しましたら、本能的に猫がネズミを追いかけて、じゃましたので約50種類の動物の中に猫は描かれていないとのことです。涅槃図に近づいて眺めましたらミミズまで描かれておりました。周りにいる人の髪の毛をみると中国人のように見える人たちがいます。この涅槃図は中国で描かれたものを模写したのだろうか。お釈迦様は亡くなる前に故郷はどちらの方向か周りの人に尋ねて、北にある故郷の方に頭を向けて西を向いて横になったということです。薬がひっかかった左側の4本の沙羅の木は花が咲いています。右側の4本の沙羅の木は枯れて描かれています。すなわちこれは陰陽を表しているのだそうです。右側が陰で左側が陽、陰と陽が合わさって命が生まれるという太極の世界を表現している。お雛様も左側に男性(陽)右側に姫(陰)が並ぶ陰陽のルーツはここからだということです。約30名の方が座禅に集まりました。
2013/03/25
コメント(0)
毎月25日は三春町の福聚寺にて参禅会でした。午後7時~9時までの2時間。25分を4回坐ります。2回目の坐禅の初めに、住職の玄侑宋久さんが禅の言葉「八風吹けども動ぜず天辺の月」を解説されました。「 八風吹けども動ぜず、天辺の月 」八風とは、人間関係に例えられます。利(リ)、衰(スイ)、毀(キ)、誉(ヨ)、称(ショウ)、譏(キ)、苦(ク)、楽(ラク)の八つである。八風とは、人の心を惑わす8つの要素です。「利・哀」とは、意にかない、意に反する。「毀・誉」とは、豹変して陰でけなす、陰でほめる。陰でほめられることは、いちばん浮足立つ、「称・譏」とは、面と向かってほめる、面と向かってけなす。風に善し悪しがないように、世間の評価も出くわした時に動じない心を持ちましょう。「苦・楽」とは、文字通り苦しいこと、楽しいこと。逆風に舞い上がってはいけない、意に反すること、陰でけなされる、面と向かってけなされても動じない。月があるじゃないか、月が仏性、月はどんなことがあってもきれいなまんま。他人の評価はいろいろ、ようは何を志しているのか、大地にに生えた木のようなもの、揺れますが根を張って生きています。根っこがどこに生えているのか。根っこが生えたつもりでお座りくださいと、、、。私たちの人生は、この八風に翻弄されています。人にほめられれば喜び、馬鹿にされれば傷つき、喜怒哀楽の感情に振り回されてしまいます。私たちが生きるということは、いわば毀誉褒貶(きよほうへん)や苦楽という表裏一体の風に吹かれながら歩み続けることだといわれています。風向きが変わるたびに動揺しないように、確固たる信念を持つことが肝要ですね。坐ることによって平常心を養い、心根をしっかりと張れるようにしたいものです。なお、世の中には坐る代りにトイレを磨いている人もあります。人それぞれ、その人にあった心根を養う方法があります。たのしみは 坐禅会にて 腑に落ちる 禅の言葉を 耳にしたとき青山俊董著より禅の言葉「八風吹けども動ぜず天辺の月」
2013/02/26
コメント(2)
朝5時からの元朝坐禅会です。大晦日から寒波襲来との天気予報でしたが、福島県中通りは、前回ほどの積雪にはなりませんでしたが、氷点下2℃でしたので一部道路はつるつるでした。1ヶ所だけ気になる急坂の下りがあるのです。軽トラックが1台道路の中央にあり、凍結防止剤をスコップで播いていたのでギアをローギアにチェンジしてスローダウン走行でした。会場には5分前に到着でした。今朝は約25名ほどの参加でした。今朝は警策は使わず、30分を3回坐りました。3回目はつけていた石油ストーブを消して坐禅をしていた本堂の引き戸をすべて開け放ち、冷たい氷点下2℃の外気が入ってくる中で座ります。冷たい風が入ってくるのです。4回目は開け放った引き戸をまた閉じて般若心経等の御経本をみんなで読誦です。本堂の坐禅が終わると緋もうせんが牽かれた庫裡に移動して御屠蘇・お雑煮・お抹茶をいただきました。庫裏は400年前に福聚寺に移築された雪村庵です。年に1回だけ400年前からの建物の中での新年御茶会です。通路は積もった雪をすっかり掃き清められてきれいになっています。(am4:55)お雑煮は関西風仕立てで白みそです。ご住職の奥様のお母さんが四国の出身だそうです。大根とにんじんも丸切りです。とっても美味しくいただきました。天目茶碗にお抹茶が入れられてあり、副住職がお湯を注がれ、住職の奥さまが茶せんでお一人お一人お茶をたててくださいました。茶菓子は鶴と松葉の砂糖菓子です。緋もうせんが敷かれた庫裡で御抹茶をいただきました。(am7:25)(am7:49)※一昨年、2011年の元旦坐禅会のようすはこちら坐禅会の帰り道、三春図書館のウィンドーに「道」の詩が目にとまりました。現役101歳の詩人、柴田トヨさんの詩です。年を重ねてもやるべき仕事を持っている人は元気です。大晦日のミニFM放送で三春町に隣接する郡山市西田町に97歳の今でも毎朝新聞配達をしている鈴木トメさん。96歳でデコ屋敷の人形づくりをしている西田町大黒屋のおばあちゃん橋本ミヨシさん。西田町には元気で達者なお年寄りが多いとのこと。 茶話会を終え坐禅仲間と斎藤の湯(下の湯)へ寄りました。ここの風呂は、この界隈では一番あたたまる鉱泉だと思います。(am8:13)言葉は使ったように、その方向を示すものです。だから言葉は方向指示器ともいえるのです。元旦、朝の三春、下の湯にて風呂上がりに目にとまったものです。出羽三山のおみやげであろうか、言葉についてふれています。「言葉はこころの鏡です」出羽三山とあります。多くの場合、心のありようが、そのまま言葉となって出てくるわけですね。ですから、どんな言葉を使っているかをみれば、その人の心うちが推測されます。風呂から上がって汗がひくのを待ちながら待合室のTV(石原裕次郎43歳のころ徹子の部屋)の番組でを見ていましたら獅子舞がやってきました。旅館になっているので館内を一周して御払いをしておりました。地域の青年団の方々が獅子舞を演じています。(am9:40)田村神社(am10:43) 所在地:福島県郡山市田村町山中字本郷135 (am10:55)■ お正月休みなので1時間ほど散歩をしました。阿武隈川の支流である笹原川沿いを歩いていると雉が対岸の川原のよしの茂みから飛び立ちました。そしてその次はカラスが河原から入水して身をかがめ羽をふるわけながら水浴びをしています。外気温5℃位です。真冬でも水浴びをする姿をみてビックリです。■ トイレのドアノブのストッパーが故障してしまい、トイレの中に閉じ込められてしまいました。運よく携帯電話を持っていたので2階に居た妻に電話して外から開けてもらうことにしました。30年使っていると金属疲労を起こすわけです。もしも携帯電話を持っていなかったら。もしも一人住まいだったら。鍵が壊れてトイレの中に閉じ込められるという想定外のことが起こります。対応力と創造力はどんな場面においても必要とされます。午後5時、孫たちがやってきました。今年小学校へ入学する杏ちゃんがおもしろい。とっても個性豊かで、このままのびのびと育ったら吉本入りも可能かもと思わせるくらい、、、家族みんなで元旦から大笑いでした。子供の創造力にはかないませんね。
2013/01/01
コメント(1)
25日は今年最後の参禅会でした。坐禅の前に腹ごしらえをしたあと、斉藤の湯(下の湯)に寄りで暖まりほっかほっかの状況で福聚寺の山門をくぐりました。ら、なんと現場検証中のおまわりさんがちらほら見えるのです。駐車場での車の接触事故だったようです。開始時間の5分前だったので本堂に直行しましたが、住職が開口一番、「みなさん大変なものを見てしまったかもしれませんが、心を静めて坐禅をしましょうか」といつものように始まりました。本堂には石油ストーブが焚かれて部屋はあたたまっておりました。私は風呂上がりで暖かいので上着は2枚でした。90分間2枚でした。最後の30分は上着を着ました。それにしましてもお腹が満腹、風呂上がりですと睡魔が襲ってきます。やはり坐禅は腹をすかせた状態の方がいいですね。2時間の坐禅が終わるとスッキリした気分になれます。1月25日も坐禅は休みですので、元朝坐禅、朝5時からに来年は参加しましょうか。さもなくば2月25日まで3ヶ月ほどおいとまとなってしまいます。座禅が終わり茶話会で、事故の原因はアクセルとブレーキを踏み間違えたことによるものだそうです。ブレーキを踏むところをアクセルを踏み込むわけですから勢いよくぶつかってしまうわけです。なんらかの状態で足の踏み込みが右側に寄ってしまったのでしょうね。身体の老化現象による事故は老齢化社会になるとふえることが考えられます。先日体験したスバル自動車の自動ブレーキを車に義務化するようになれば、いずれ防止できるようになるでしょう。10年後には実現しているだろうか?今回の坐禅、遠くから参加されたかたは東京と埼玉からでした。ここで坐禅があると聞いただけで行ってみようと2時間の坐禅に足を運ぶ人がいるのです。心が動くと身体が動く人なんでしょうね。たのしみは 元旦朝の 事始め 気持ち新たに 坐禅くむとき
2012/11/26
コメント(2)
毎月25日午後7~9時は参禅会に参加するようになりました。坐禅は、25分を4回坐ります。2回目の初めに「千里同風」を話されました。「君子、千里同風なり、君子豹変」と豹変するから変わらずにいられる。変わりつつ、変わらない。「行雲流水」雲はとどまるところなく流れてゆく世界は動いているみかた、考え方を変化させてゆく。常に変わり続けてゆく。人間の考えは常に考え続ける。一瞬、一瞬柳は緑、花は紅比較のしようがない中で100%咲いている「行雲流水」は、変化し続けることを云っています。思いというのは、同じところにいたがるが(ものごとの事象は)一瞬、一瞬変わってゆく禅語(千里同風・行雲流水・君子豹変)は具体的なもの(雲、風、豹)を例えにだす。 ------------------坐禅は血流を妨げないから痺れない。正座は血流をさまたげるので痺れます。正座して無理してすぐに立ち上がって捻挫したのをみたことがあります。インドネシアの王室には、いろんな坐り方が伝わっている。日常は、あれこれ考える脳の使い方ですが、重要な使い方として五感はハッキリしている中で何も考えない脳を体験を坐禅でできます。酸素はミトコンドリアにふれてエネルギーを出す。食事のエネルギー摂取の数倍あると言われる。脳はエネルギーの3分の1使っていると言われる。瞑想するだけで何日も生きている。最近、冬眠する動物の共通ホルモンが発見された。眠気を覚ます呼吸法:息を鼻から吸って、みけんから吐きだすイメージで目が覚めます。心が落ちつく呼吸法:息を鼻から吸って、臍下丹田から吐きだすイメージで落ちついてきます。あれこれと心を移動させない方法、坐禅のとき視点は目の前2mほどの床に置き視野全体をながめる(一点を見ない)変化しているものに意識を置く。変化しているものの主体がうすれてゆく。ヴィパサナ(観)シャマタ(止・意識をひとつにおく)
2012/10/26
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1