殿上人日記

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2008年12月03日
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テーマ: 旅の写真(3473)
カテゴリ: 愛知、三重の旅

知多の5

 清和源氏の嫡流にして、河内源氏の棟梁でもある源義朝は
 鎌倉幕府を開いた源頼朝、牛若丸こと義経や、悪源太義平
 朝長、義門、希義、範頼、全成、義円らの父親で、平清盛と
 渡り合った勇猛な武将であった


知多9

 一説によると、父親の源為義から廃嫡も同然の勘当をされ
 幼くして東国(関東地方)に下向をした義朝は、上総介らの
 庇護を受けて成長し、東国を根拠地にして独自に勢力を築き
 時の権力者である鳥羽上皇や藤原忠通にも接近して、下野守に
 任ぜられるまでになった


知多の4

 それより少し前、白河天皇は、我が子の8歳の堀河天皇へ譲位し
 太上天皇(上皇)となったが、幼帝を後見する為に白川院と称し
 引き続き政務にあたり、堀河天皇が没すると、その皇子である
 鳥羽天皇がわずか4歳で即位した後も、より強固な院政を行って
 治天の君(事実上の国王)として君臨し、天皇は東宮(皇太子)の
 ようだと言われるようにもなった


知多の6

 その白河院の意向で鳥羽天皇が譲位する事になり、わずか5歳で
 皇位についた崇徳天皇だったが、白河院の死後には父親である
 鳥羽上皇に疎んじられて、ついに異母弟である近衛天皇に譲位を
 させられ皇太弟なった為に、院政も封印されてしてしまった

 というのも崇徳天皇は、鳥羽上皇の息子ではなく本当は白河院の
 実子ではないかという噂があり、鳥羽上皇に疎んじられていた
 らしいそうだ


知多16

 その後も実権は鳥羽上皇が握っており、崇徳上皇の不満は募って
 いった。近衛天皇が崩御をすると、皇位継承者をめぐって次の
 院政を狙う崇徳上皇一派と、それを阻止をしたい鳥羽上皇一派が
 反目をした切迫した状況下で、後白河天皇が即位をしたのだが
 渦中の鳥羽上皇の崩御をきっかけにして、保元の乱が勃発をした


知多18

 鳥羽上皇は生前中に、有事に備えて有力な武士らに後白河天皇を
 守るように命じていたので、白河天皇方として源義朝も平清盛らと
 共に戦って勝利し、義朝は褒賞として武士の棟梁にも値する重要な
 官位である左馬頭に任じられた

 ところが崇徳上皇に組した父親の源為義や、弟の頼賢など兄弟の
 多くは、後白河天皇の乳母の夫であり側近の信西などによって
 薬子の乱以来、約200年ぶりに死刑制度が復活され、義朝の
 助命嘆願の甲斐もなく処刑をされてしまった


知多17

 乱後の信西(藤原通憲)とその一族の台頭は目覚ましく、嫡子で
 ある藤原成憲と、若い頃より懇意にしている平清盛の女子(後の
 花山院兼雅室)の婚姻によって、平氏一門との提携を世間に示し
 両者とも、絶大な権力をふるうようになった


知多14

 その強引な政治の刷新を良くは思わない者もおり、二条天皇が
 即位をし後白河院政が始まると、反・信西勢力である藤原信頼や
 源義朝が、平清盛が熊野詣に出かけた留守中を狙い、後白河上皇や
 二条天皇を幽閉し手中におさめ、信西の首は大路を引き回された
 後に検非違使庁の門前に晒され、その息子らも配流をされた


知多8

              触れると幸福になる石

 熊野詣から戻った平清盛は、降伏の意を示し恭順をしたフリを
 しながら、影で藤原経宗らを説得して味方につけ、上皇と天皇の
 奪回を図った。女装をした二条天皇を女房車に乗せて、御所から
 脱出をさせて六波羅の清盛の屋敷に迎え入れた


知多12

 また後白河上皇も仁和寺に逃れた後、清盛の策略を知った義朝と
 信頼軍は六波羅に押しかけて清盛軍と衝突。六条河原で激しい
 戦いの末に義朝と信頼は敗れ、清盛の勝利となり、藤原信頼は
 後白河上皇にすがろうとしたが許されず、斬首となった

 これが世に言う、平治の乱である

 敗れた義朝は都を落ち延びて、東国へ向かう途中、知多半島の
 内海(うつみ)で、家来の長田忠致の裏切りにあって、風呂に
 入っているところを斬り殺されてしまった


知多15

 義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとされ
 内海の鶴林山無量寿院大御堂寺(野間大坊)にある源義朝の
 廟には、木刀が山のように供えられている

 義朝の首を洗ったとされる「血の池」は、国に異変があると
 赤く染まると言う伝説があるそうだ


知多11

 義朝の長男であり勇猛果敢で、悪源太とも称された義平も
 捕らえられ斬首をされ、次男の朝長は父親と共に落ち延びる
 途中で自害して果てた

 三男の頼朝(幼名は鬼武者)は、雪の関が原で父親とはぐれ
 捕らえられたのだが、清盛の継母である池禅尼が、早世した
 我が子の平家盛に頼朝が似ている事から、清盛に助命を請い
 死一等を減ぜられて、頼朝は伊豆国の蛭ヶ小島へ配流された


知多の7

 平氏全盛の世になって、それを良く思わぬ藤原成親、俊寛らと
 平氏打倒の密議に参加をした検非違使(判官)の平康頼は、その
 酒席で瓶子(へいし)が倒れるのを「平氏が倒れた」と喜んだが
 密告によって事が露見し、康頼も捕縛され、俊寛、藤原成経と
 共に、薩摩国鬼界ヶ島へ流された

 信仰心の厚かった康頼は流罪にあたって出家をし、藤原成経と
 千本の卒塔婆を作って海に流し、その一本の卒塔婆が安芸国の
 厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の
 中宮徳子の安産祈願の恩赦で、二人を放免をしたそうだ

 帰京後は仏教説話集「宝物集」を記し、源頼朝の推薦によって
 阿波麻殖保司の職を得た康頼の墓が、ここにあるのも因縁か


知多10

 時は流れて戦国時代、本能寺の変で織田信長や嫡男の
 織田信忠が亡くなると、清洲会議では織田氏の後継者は
 秀吉の押した信忠の嫡男の幼い三法師に決まり、信長の
 三男の織田信孝が後見人となり、信忠の領地であった
 美濃国を与えられて岐阜城主となった

 織田信孝は柴田勝家や滝川一益らと結び、三法師を擁して
 秀吉に対して挙兵するが降伏せざるを得なくなり、人質に
 三法師を秀吉に引き渡した


知多の3

          伊勢湾を航行する船を見守り続ける野間灯台

 賤ヶ岳の戦いが起きると、再び信孝は挙兵をするが、次兄の
 信雄によって岐阜城を包囲をされて、柴田勝家が北ノ庄城で
 自害に至り、秀吉に降伏をした後に、この野間大坊に送られ
 自害をしたそうだ


知多1

 最後にお口直し。知多半島の先っぽまでわざわざ来たのは、新鮮な
 チリメンジャコが中にも上にもふんだんに使われたじゃこソフトを
 購入する為で、他にも知多半島には、えびせんソフトも存在をする


知多2

    野間に眠る源義朝や平康頼の憎んだ、平氏も壇ノ浦の海底へ
    織田信孝の憎んだ羽柴(豊臣)も、燃えさかる大阪城と共に
    その栄華は長く続くことは無く、歴史のはざまに消え去った

       祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり
       沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
       驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し
       猛き人もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ


       平成20年9月14日に愛知県知多半島で撮影






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最終更新日  2008年12月03日 23時44分37秒 コメント(47) | コメントを書く


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