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解説:園内道???「カンキツ栽培省力化対応モデル事業」とは 「何たって、みかんを運び出すのに急傾斜の園内をキャリーを抱えて歩かないかんようでは、今時の若いモンが、カッコウ悪くて後継者になる訳はない。」と言うことで、何とか楽に仕事の出来るみかん園にすることが、今からは大切なわけです。 そこで、国では「リンゴわい化栽培等緊急対策事業」で、園内道に補助金を出すことになりましたが、県でも園内道の設置に加え、そこで楽に仕事が出来る機械まで対象にした補助事業を行っています。 仁尾町では、今年度は曽保地区の農家を対象に事業を行うことになり、現在11名の実行組合を結成して計画を進めているところです。主な事業内容は1.園内に80㎝~2m幅の園内道をつけ、コンクリート舗装又 は簡易舗装をする。2.その園内道を使って楽に作業が出来る汎用運搬車を導入する。 です。12月までの事業の進捗状況は、各園の園内道の設計、運搬車の購入、舗装計画の立案まで終了しました。年明け早々に、購入した運搬車を使って共同で舗装を実施することになっています。ここで、曽保の地形と作業体系に一番適した運搬車のバージョンアップを紹介します。○キャリーが3個×2段運搬できる荷台○サイドから楽に積み降ろしが出来、荷崩れしないサイドバー○トラックの荷台にキャリーを直接滑り込ませるリフト機能付き○空荷の時、移動時間が節約できる前後それぞれ2段変速ギア○肥料散布機や他のオプションが装着可能なフルフラット荷台なお仁尾町では来年もこの事業に取り組むそうです。
2003年06月30日
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かわらなきゃ ロックン・ノー・ヘヴン 大阪でAPECなんてーのが終わり、農産物の自由化も玉虫色の決着をみたっていうけど、日本農業はどこへ行くのやら皆目分からん時代になってきたよな。そんな中で、オレんちの町のみかん農業の状況について、独断と偏見とチャランポランな文章で綴らせて貰っちゃおうというわけだ。 さて、香川県の補助事業で「カンキツ栽培省力化対応モデル事業」なんてーのがあるんだな。これはみかん園の中に作業道なんかをつけて、農作業を楽で能率のいいものにしようという事業で、平成六年度からやってる。なんたって二分の一を補助してくれるというんだから、農家にとってすごくラッキーな事業なんだよね。 隣町辺りを見てみると、当初二○○○万、実質四○○○万で去年は事業を終えている。平成七年度には当初二○○○万、実質三五○○万で事業を計画してるらしい。これに比べてオレんちの町では、平成六年度はぜーんぜんのゼロ、平成七年度においては当初五○○万、実質一二四○万の事業が今進行中ってわけだ。それから、実は予算が不足しちゃって、その不足分を埋めるのに別の事業(三分の一補助)をもってきてるんだよな。で、カンのいい人はもう気づいたと思うけど、この二年間で隣町との差が六三六○万にもなってるんだよな。この差はいったいなんなんだって言いたくなるよね。 県内においても、仁尾町はなぜ事業が行われないのかっていう声をよく耳にするんだけど。これでみかんが仁尾町の基幹作物だって言うんだから笑っちゃうね。こんなことやってたら仁尾のみかん農業は国際化はおろか、産地間の競争にも取り残されるね、ゼッタイ。 問題点を整理してみると、 ① 平成七年度事業において、当初県へ提出した五○○万円という金額がどこでどのような過程で算出なされたのか。 ② 他町では二分の一補助事業で完了できるものが、何故本町では三分の一補助事業を使わないとできないのか。 ③ 当初、測量見積りされた際に、当然補助対象となるべきものが、関係者に相談なくどうして除外されてしまったのか。あげていくと切りがないんだけどさ、最低限、以上三点についての明確な答えがほしいんだな。 だいたいみかん農家だっておかしいんだよね。新しいことをやろうとしないし、生産者の組織もシャキッとしないし、それに後継者を育てようとしないんだから。 今年度のみかん全国大会で話題になったことなんだけど、国とか県はウルグアイラウンドがらみの色々な事業を計画してるらしいんだ。で、一部行政団体の担当の中には自分の仕事が増えるもんだからそんな事業を無視しちゃうって言うんだよね。従って農家も様々な方面から情報を集めて、もっと積極的に取り組むべきだって言うんだ。 幸いオレんちの町には優秀なスタッフが揃っているから、仕事が減れば楽しいとか、仕事が出来ようが出来まいが給料には影響しないとか、年かさ積めば給料が上がる、なんて思ってるイカレた奴はいないね。少なくともオレは信じてるよ。だから農家に対してできるだけ有益な方法を指導して頂きたいよね。本町のみかん産業を他産地に負けないものに導いて頂きたいんだよ。それから、みかん作ってるみんなももっと外側に目を向けるべきだと思うよ、オレは。
2003年06月29日
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*曽保みかん史(昭和3年~15年) 年号 曽保みかん史 * 相対日本史 * 相対世界史 * 文化・その他 *--------------------------------------------------------------------- 1928 不景気の波しのびよ 普選法による初の総 国民政府軍北京入城 『放浪記』林芙美子* (S3) る みかん安い 選挙 パリ不戦条 張作霖爆死事件 野口英世ガーナで病* 約調印 死 *--------------------------------------------------------------------- 1929 大長視察 ニューヨーク株価大 『蟹工船』小林多喜二* (S4) S4~5年になると 暴落 世界恐慌始ま 『武器よさらば』* 生産量増え県内販売 る ヘミングウェイ *--------------------------------------------------------------------- 1930 から阪神方面へ出荷 世界恐慌による不景 ロンドン軍縮会議 『王道』マルロー * (S5) 先が変わる 気深刻化 失業者四 田山花袋没 * 十万人に達す 内村鑑三没 *--------------------------------------------------------------------- 1931 農村恐慌(豊作飢饉) 満州事変 『大地』パールバック* (S6) 生糸・米価暴落 北里柴三郎没 * 全農全国会議結成 *--------------------------------------------------------------------- 1932 七宝出荷組合結成 五・一五事件 日本 上海事変 満州国建 『大言海』刊行 * (S7) (組合長浅野義正) ファシズム連盟結成 国宣言 * 失業者五十万人を越す *--------------------------------------------------------------------- 1933 大長視察 財田村黒 この年大豊作 独ヒトラー内閣成立 小林多喜二拷問によ* (S8) 川缶詰工場視察 ルーズベルトニュー り死亡 * 県果樹の集団生産奨 日本国際連盟脱退 ディール政策開始 新渡戸稲造没 * 励計画(第三次果樹 宮沢賢治没* 増殖計画) 西日本 吉野作造没* 柑橘協会結成 *--------------------------------------------------------------------- 1934 マル金組合結成(土 この年凶作 軍需景 ヒトラー総統に就任 直木三十五没 * (S9) 井伊三郎 浅野吉太 気を中心に景気上昇 ソ連国際連盟に加入 * 郎) 伊予中島視 室戸台風 日本製 * 察(七宝) 讃岐柑 鉄株式会社設立 * 橘出荷連合会結成 日米間無線電話開通 *--------------------------------------------------------------------- 1935 大阪みかん共進会で 相沢事件 コミンテルン(人民 『蒼ぼう』石川達三* (S10) *入賞(七宝) 天皇機関説問題化 戦線戦術採用) 『雪国』川端康成 * 七宝共選朝鮮京城へ 東北地方の凶作地娘 *全国に青年学校開設 初出荷 身売り問題化 (軍事教練課す) * *--------------------------------------------------------------------- 1936 日本果物大会品評会 二・二六事件 ロ 西安事件 メーデー禁止 * (S11) 入賞(七宝) ンドン軍縮会議脱退 国会議事堂完成 * 県果実検査規則公布 米穀自治管理法 *--------------------------------------------------------------------- 1937 動力噴霧器導入(浅 重要肥料業統制法 盧溝橋事件(日中 第一回文化勲章 国* (S12) 野義正) 軍需工業動員法施工 戦争)南京大虐殺 体の本義(文部省)* 『路傍の石』山本有三*--------------------------------------------------------------------- 1938 柑橘指導地参観デ 国家総動員法公布 * (S13) *ー開催 農地調整法 『麦と兵隊』火野葦* 近衛声明「国民政府を相手にせず」 平 *--------------------------------------------------------------------- 1939 大干ばつ 独不可侵条約 『怒りの葡萄』スタ* (S14) 曽保の稲は凶作 米穀配給統制法公布 独軍ポーランドに侵 インベック * 第一回興亜奉公日 入 ノモンハン事件 岡本かの子没 *--------------------------------------------------------------------- 1940 七宝組合評価点方式 日独伊三国同盟成立 仏独に降伏 『誰が為に鐘は鳴る* (S15) 導入 大政翼賛会発足 』ヘミングウェイ * 飲食店の米使用禁止 *
2003年06月28日
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【連載】曽保みかん百年史(第四回) 香川県果実検査規則が公布されたのは昭和十一年四月で、このときから、階級の大きさが県内統一規格になった。ここでも三豊が県をリードした訳じゃ。「さ」級のミカンとは二寸二分から二寸四分やったから、今の規格では「L」(六十七ミリから七十三ミリ)になる。「き」級は一寸八分から二寸(今の「S]は五十五ミリから六十一ミリ)今の方が一ミリ増えただけで、昔からミカンの規格はほとんど変わっとらんのじゃ。しかし、「ん」級のミカンは今の「4S」じゃから、昔の方がミカンは小さかったんじゃ。摘果の技術もまだなかったもんで、「年ぎり」(隔年結果)は全国的な傾向やった。昭和十四年が過去最高の生産量で全国で一億二千万貫(四万五千トン)、そのうち香川県は百三十八万貫と全国の一%少々の生産量やった。その前年の昭和十三年は八十六万貫、昭和十二年は百二十九万貫、昭和十一年は八十八万貫という具合やった。 昭和十一年十一月十六日には観音寺町郡農会事務所で、果実検査標準品査定会が行われ、翌十七日に「七宝果実出荷組合」を視察して選果荷造りの規格を統一する事になった。階級は「天特さぬきみかん」やったが、等級を「月・雪・花」として「月印」(特別品)は果梗部の凸出無く全部着色し、しかも橙色。外傷なく病虫害無し。「雪印」(普通品)は七分着色以上で僅かに充実を欠くもの。病虫、外傷軽少のもの。「花印」(梢悪き品)とは、果形甚だしく不正。五分着色以下にして未熟と認むるもの。病虫、外傷見苦しき程度にあるものを不合格とし、以上を「花」とする。と言うように決められたんじゃ。この頃のミカンの生産は県内でも三豊郡が中心で、たとえば昭和十二年三月の農産物配給改善資料第五号によれば、昭和十一年度の生産量は香川県全体で八十八万一千七百六十貫のうち三豊郡は五十一万一千四百六十貫じゃからほとんど六割を占めている。その中でも仁尾は十九万貫と郡内の四割近い生産量を誇っているわけじゃから、この時期から仁尾は香川のミカンを引っ張る機関車役をしとったのがよう解るじゃろう。 栽培面でも昭和十二年に新設柑橘指導地が四カ所作られたが、密植整理改善指導地には曽保の吉田喜一郎はん、経済栽培指導地には北草木の浪越鷹太郎はん、若木園模範栽培指導地には曽保の浅野茂樹はん、新植栽培指導地には北草木の、曽根勝はんが選ばれた。今でも富士夫さんは家の上のミカン園を「指導地」と呼んどる。 それら新しい指導地を見てもらおうと昭和十三年十二月二日には「柑橘指導地参観デー」が開催された。午前中は各指導地を現地で案内説明して、昼からは会場を仁尾小学校に移し、遠藤技手の「柑橘園改善策」山西技手の「柑橘悪性害虫駆除法」の講演会と、柑橘に関する試験成績、実物見本展示、柑橘相談所も開設した。また同時に「七宝果実出荷組合」では共同選果荷造りの状況説明も行った。県内から六百人あまりの参加者があってなかなか盛況やった。 この頃になると市販の農薬が充実してきて、昭和七年からマシン油の市販品や、松脂合剤、ソーダ合剤の市販品が出回り始め、農家で農薬を調合することが無くなってきた。しかしボルドーはまだ自家配合をしよった。動噴が最初に曽保に入ったのは昭和十二年で、浅野義正はんところやった。この動噴はバカに大きいやつで、戦後まで家の納屋の横に据えてあった。しかしほとんどの農家では手押しのポンプで防除をしよった。 それから忘れられんのが、昭和十四年の大干ばつじゃ。梅雨明けが早く夏の間は一滴も雨が降らずに、大池の土手で雨乞いの焚き火をしたりしたが、結局九月一四日まで降らなんだ。小学校辺りの水田では稲穂が真っ白になって、一粒も米が取れなんだんじゃが、ミカンは小玉ながら、豊作やった。味は良かったのじゃが、当時はまだ味より大きさの方で市場が評価しとったので、大阪の市場情報でも「香川産は『み』印以下の小玉多く特に品質の優良をもって知られたる七宝産が著しき干害を被り甚だしく品質を低下させる。」と報じられとる。当時のミカンの値段は一箱(約七貫入り)「天」で六円十九銭、「特」で五円五十四銭、「さ」で四円八十五銭、「ぬ」で、四円四十九銭、「き」が四円八銭、「み」が三円八十六銭、「か」が三円七十二銭、「ん」でも三円二十五銭やった。(昭和十四年産大阪中央市場・香川県平均) この頃は日本が長い戦争に入っていく時期で二・二六事件や蘆溝橋事件、南京虐殺、三国同盟などが主な事件やったが、そんな世相の中で曽保のミカンの歴史を振り返ってみると、最初に輝いた時期やった気がしてのう。こんな題を付けた訳じゃ。トンネルも無事開通してオラの住みかもまた元のように静かになったわい。ほんなら、そろそろお休み。
2003年06月27日
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【連載】曽保みかん百年史(第四回)第一次黄金期(戦前)の巻 昭和七年の暮れに「七宝果実出荷組合」が出来て曽保地区での共販体制が始まったわけじゃが、この組織にも問題点はあった。組合員は親戚縁者の集まりみたいなもんで、親戚以外の者に広く門戸を開放したわけではなかったんじゃ。そこで、昭和九年に土井伊三郎はん、浅野吉太郎はんが中心となって「マル金組合」を作った。この組合は市場形式で、生産者は組合へミカンを運び込み、仲買人はこの組合へ集まりセリで値段を付ける訳じゃ。今までのように個人的に商売人と値決めをして売るより公平な値段がつくし、商売人にしてもいろいろな農家をまわる手間が省けると言うことで参加者も増え、四十数人の農家が加入しとった。マル金組合の名前は、土井伊三郎はん所が「金陵園」という名前で出荷しとったのが由来じゃ。この組合は、おトメはん所のそばに建てられとって、今でも西宏さんの家の南に残っとる。 さて、これで曽保には「七宝果実出荷組合」、「マル金組合」の二つの出荷組合が出来たわけじゃが、これから昭和十六年十二月までの八年間が曽保のミカンの第一次黄金期と言うても良い時期やった。お互いの組合は主な出荷先を一方は大阪、もう一方は地場に置きながら競争しあい、それによって栽培のしかた、販売のしかたも次第にうまくなっていったんじゃ。 たとえば「七宝果実出荷組合」の方では、昭和八年十月二十日に十六名で大長を視察に行ったのをはじめ、十二月三十日に財田村黒川の缶詰工場を視察に行ったり、昭和九年には二月十七・十八日に伊予中島と道後の河野さんのミカン園を、四月一日にはもう一度大長を視察に行ったりして、栽培技術や加工品の販売まで勉強しよった。昭和十年の一月二十九日には仏生山の農事試験場へ菊地秋雄博士の講演を聴きにも行っとる。 また、品評会で曽保のミカンが認められたのもこの頃じゃった。主なものでは、昭和十年十一月二六~二八日高松市公会堂での第二回園芸出荷記事共進会で一〇団体出品した中で最高の「優等賞」。昭和十年の大阪みかん共進会で三十箱出品して入賞、賞金三十円。昭和十一年十一月十四・十五日の大阪高島屋での帝国農会主催「日本果物大会品評会」では三十二団体出品した中で特別優良七団体の中に選ばれた。この表彰状は「みかんの里」に展示されとる。大阪中央市場での評価も次第に上がり「市場での最優位は中島で、七宝はほぼこれに準ずる優秀品と認められている」と言われるようになった。 この時期になると、県の出荷組織も急速に整備されて来た。昭和九年三月一五日に讃岐柑橘出荷連合会が結成された。「七宝果実出荷組合」も入会金四十円を払って参加しとる。この組織は県内のミカン共同出荷組合が県外、満州、朝鮮へミカンを出荷するために規格の統一や、出荷時期の調整をするために結成されたもので、仁尾、勝間、和田、五郷、紀井、高室、麻、上高瀬、松山が参加した。会長は安藤熊太郎と言う人やったが浅野義正はんは副会長になっとるので、その組織の中心やったんじゃ。これを見ても当時から三豊が共販体制の先進地やったことがようわかるのう。翌年から県外への出荷規格に「天特さぬきみかん」の階級分けを使いはじめ、これは戦後まで続いとった。たとえば昭和十年十二月一日に「七宝果実出荷組合」から朝鮮京城へミカンを初出荷したり、その後満州へも出荷しとるんじゃが、そのときもこの規格を使うとる。
2003年06月26日
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アメリカ果樹研修報告(2)〈まとめ〉 今回の研修旅行に参加するまでは、「アメリカの農業は強い」と言うイメージが強かったのですが、置かれている環境は結構厳しいものがあるということが解りました。●園主が高齢化して、後継者が育っていない。リバーサイド校の老教授のお話でも、専門分野に進んだ学生が農業に就職する率が非常に少なくなってきている。分析する能力はあっても、実際の経営はダメと言う厳しい指摘もありました。●水問題は特に今年の渇水で興味があった点ですが、潅水無くしてカリフォルニア農業は成り立たない。通常は地上水の85%を農業用に使っているが、干ばつになると生活用水が優先されるので、都市の人たちとのトラブルもある。そこで自家用の井戸を掘って対処しているところが増えている。水代も20年前と比べると約10倍に値上がりしていて、南カリフォルニアでは水代が高すぎて農業経営が成り立たず、メキシコや中央平原に生産の比重が移っているとのことでした。飛行機から見おろしたとき大地は緑と茶のコントラストがはっきりしていて、水をかけない所は何も緑が育たないのがよくわかりました。●都市化の波が郊外の農業地帯へと拡大し始めている。都市の治安の悪化などが進み、少しでも都市から離れようという人たちが増して、農地を手放す人も出てきているそうです。●年々、環境汚染が進み、農薬などの使用基準が厳しくなって次第に農業がやりにくくなってきたそうです。 しかし全人口の2.2%の農業者たちが、国内需要、輸出全てを担っていると言う点には改めて驚かされました。視察させてもらった経営者は共通に「農業は経営であり、儲からなければいけない」という哲学を持っており、前向きに農業に取り組んでおられました。研究機関も、徹底して農家の儲けになることしか研究しないという方針が貫かれていました。分業化が進んでいて、サンキストでも収穫労力の斡旋事業もやっているとのことでしたが、日本でもそのようなシステムが導入できれば、今後の規模拡大も考えられると思いました。 また、流通機構の整備されたアメリカで「みかんの里」方式の直販所があったのには驚きました。生産者と消費者とが、直接ふれあえるこの施設をもっと有効に利用できるように考えていかなくてはいけないと思いました。それから、アメリカ農業でも成功しているのは血縁関係で結ばれた農場が多いようで、日本で現在農林省が勧めている法人化の問題も、基本的には家族経営を中心にした法人化を目指した方がいいのではないかと思いました。そこにはアメリカにない日本の家族の良さが生かされるのではないでしょうか。 日本の農業における主婦の位置は、経営主である夫の協力者であると共に、家庭においては育児、家事、近所づきあいと、一人何役もこなしています。その点アメリカでは、女性はハウスキーパーの立場に専念していて、農業を夫と共に体を張って頑張っているという勇ましい姿は見られませんでした。経営者の妻として、労働者(社員)の管理や経理を担当しているようでした。日本においては年間を通じて雇用体勢が取れるのはまだまだ先のことでしょうが、農業を一つの企業と考えると、将来の方向はこのような分業になるのではないかと思います。まず小さい一歩から家庭内分業を試みているわが家ではありますが、まだまだ主婦が忙しすぎるようです。
2003年06月25日
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昨年九月、世紀末農業婦人部の皆さんがアメリカ合州国の農業を視察して回った。曽保では農業婦人が研修で海外に出たという事はこれまであまりなかったことだ。そこで彼女たちの一人にお願いして研修旅行の感想を綴ってもらうことにした。(95年10月)アメリカ果樹研修報告(1)(アメリカ合州国はこんなかったよ) ミズ・キョンシー オレンジが自由化になり、その後ジュースも自由化になって、「国際化」と言うことが農家の主婦にとっても他人事ではなくなってきました。今回アメリカの農業を見て、「この大規模な農業と同じ土俵で相撲を取るのが国際化なのだ」と肌で感じとった思いがします。 今度の研修を次の四つに分けてまとめてみました。 ①生産農家 ②パッキングハウス ③青果市場 ④スーパーマーケット ①生産農家を訪れてまず感じたことは、経営規模が日本に比べてとてつもなく大きいことです。柑橘の専業ならば最低32ヘクタールは必要だそうです。また、雇用労働が不可欠で、レーガン時代に政府がメキシカンの不法入国を厳しくしたとき、経営危機に陥った農家がたくさんあったそうです。 ナカタ農場(45ヘクタール・主にリンゴ、ナシ)では、経営者が高齢にもかかわらず何事にも意欲的に取り組まれ、次々と新しい品種に挑戦して成功されていました。試食させていただいた「世界一」は、素晴らしいおいしさでした。水代の高騰で、上から散水せず、下からスプリンクラーで潅水するようになったそうです。 コウズキ氏(120ヘクタール・主にリンゴ、ナシ、ブドウ)はまだ若く、兄弟三人で共同経営をしており、毎年10%は新しい品種に更新をするつもりだと話されていました。表面上の売り上げは大きいのですが、労賃が非常に多額になり、それに加えて土地代の支払、高い税金で、暮らしは楽ではないと言っておられました。弟たちの嫁は先生をしていて兼業農家だと言うことでした。メキシカンの労働者に支払う賃金が時給5ドル程度で意外と高額なのに驚きました。水は自家用井戸から汲み上げていました。雨が降らないので防除回数は少ないそうです。 ウオタ農場(96ヘクタール・主にネーブル、バレンシア、レモン、マンダリン)はバカンス中で留守だったので外からの視察だけに終わり、詳しいお話が聞けませんでした。今回の視察のメンバーに柑橘部門が多かっただけに残念です。ウオタ農場の近所で見た農園のネーブルは樹間が約6メートルもあるので、日当たり良好で丸刈り剪定。近くによってよく見ると、小玉で、スリップスの被害だと思われる白キズがいっぱいの果実がたくさん鈴なりしていました。日本で言えば二級品の果実でした。 ②パッキングハウスでは、四カ所を視察しました。 スクーカム共同選果場は水の中にリンゴを流し、洗浄、防腐剤処理(基準にあったもの)をしていました。ワックスも本当にピカピカにしっかりつけて出荷されていました。等階級のばらつきが大きく、小玉果が多かったのが印象的でした。水を使って、リンゴを運ぶ方法は、初めて見たので驚きましたが、長いラインでも果実の傷みが無いので、なるほどと感心させられました。 カシ果樹選果場では、大きな冷蔵庫を持っていて、選果前に追熟を止めるようにしていました。(外気温より1℃~2℃下げる)また、国内産のリンゴが切れる12月~4月にブラジルのリンゴを輸入して扱い、トータルで500種類の品を扱っているそうです。輸入品もどんどん取り入れる経営者の感覚は、さすが自由の国アメリカだと思いました。 ロブ・ブラザーズ選果場では、バレンシア・ネーブルのみの選果をしていて、35の集荷場を持っています。出荷量のシェアは7%で、サンキストに次いで2位だそうです。日本向けにネーブル50万箱、バレンシア15~20万箱を出荷しています。赤外線で、大小を9階級に選別し、人手で等級を選別して、バキュームのパッキングマシンで箱詰めしていました。この機械は人間の8倍の能率だそうです。選果場がとてもきれいなのが印象的でした。 サンキスト協同組合は、今から101年前、生産過剰を改善するために農民達が作った組合で、果実の安定供給に役立っているとのことでした。サンキストの名前は日本でもよく知られていますが、会員は6500名で、平均40エーカー(16ヘクタール)の栽培面積です。説明を受けた副社長自身も20エーカーの農園を持っていると話しておられました。大規模農業のアメリカでは意外に少ない面積だと思いました。 どの選果場も国内向け、輸出向け、加工の三本柱で経営しています。最近はアジア、特に日本と台湾が御得意様だそうです。 ③青果市場 サンフランシスコで、屋台形式、オークション無しというちょっと変わった市場を見ることが出来ました。ここでは農民が付けた値段で販売していて、わが町の「みかんの里」風の販売形式です。自分の売場にいろいろな種類の果物を並べてありました。流通経費を節減することで値段がスーパーの半値くらいだそうです。また、日本と同じように有機農法(無農薬栽培)が増えていますが、値段は特別に高くはないそうです。 ④スーパーマーケットでは、カット野菜が目に付きました。果物も鮮やかな色とりどりの果物がカットされ、そのままテーブルに出せる状態で売られていて、思わず買いたくなったほどです。その他の果物はトレーに乗っているのではなくて、丸ごと盛り上げられていました。アボカドの熟れ頃のものだけに赤色のシール[READY TO EAT」を貼ってわかりやすくしていたのが面白いと思いました。果物の種類が豊富で、等階級による価格差が少ないのも印象的でした。
2003年06月24日
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《表紙画》 チコ・マグダレナ ちょっと待って下さい。ボクは文章を書いてるんだから。 今飛び込んで来たのは村山首相辞任のニュース。ふーんってな感じかな、うん。いいんです、どっちでも。なぜって、この原稿明日にはちゃんと印刷されてミニコミの1ページを飾るんです。〔例題1〕地下鉄サリン事件、南太平洋核実験、米自由化、みんなが新聞の一面を狙って頑張るほど新聞はアートじゃないってこと。そう、メリハリの効いたBGMってとこかな。ボクは飢えたことがないし、人が殺し合うのを見たこともない。寒さに凍えたこともないし、暑さに倒れたこともない。だから、新聞が惨劇を並べ立てれば立てるほど、それらは平和を陳腐に美化するためのアクセサリーに見えてくる。エロ・グロ・イノセンスにクリスタルが少々っていう感じ。〔例題2〕リアリティーとしてのカップラーメン。 真夜中のキッチンは郷愁に満ちている。暗闇で冷蔵庫を開いたときの新鮮なオドロキ。惣菜屋のコロッケ、冷凍ピラフ、缶コーラ。なんて無機的でクールなノスタルジアか。シュールレアリストの笑みを浮かべてボクはこうささやく。愛を語る前に腹を満たそう。かくして長い年月の3分間を越えて、カップラーメンのフタを取る時がきた。このユゲとカオリにボクは人生のうちで一等純粋な野心を感じる。そしてちょっと熱っぽくなる。萩原朔太郎風に、再び、のすたるぢあ、なんです。原体験のないボクにとって大人たちのやってることは滑稽きわまりない。彼らの言葉をリアリティーとして捉えられない以上、ボクにとってそれらはネチネチとひつこいだけ。ボクが学校で教わったのはHIJKの順番。(んー、どっか訂正しないと)よりによって?そう、よりによってなんです。よりによって、こんな灰色の空の下であの果実はどうしてあんなに暖かな色をしているんでしょう。まるで真夏に受けた太陽をじっとため込んでたみたいですね。(やっぱりなんかヘン)ルーヂャというその響きにゾクッとしてしまいます。何と悪魔的でわい雑な響きなんでしょう。はじめて聞いた時ボクはこの言葉が一日中頭から離れなかった。ちょうど音楽会に行ったんです。その時思ったんですね。あの甘ったるい歯の浮くようなマーラーのアダージョよりずっといいってね。
2003年06月23日
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ルーヂャ第4号も終わってしまったのですが、まだ枇杷の収穫は終わりません。今年の枇杷は、収穫直前の5月30日に、5月に上陸した台風としては38年ぶりという台風4号の被害を受け、重苦しいスタートとなりました。それでも、その後の天候は枇杷にとってなかなか好都合に推移したために、過熟になることなく終盤を迎えています。tetywestの産地は、明治36年(1903年)に枇杷が栽培され始めて、今年が記念すべき100年目になります。100年間ずっと「茂木」という品種が栽培され続けていることに今更ながら驚かされます。しかも100年1日の如く「袋をかける」という方法で栽培しているのですから、農業の進歩なんて枇杷に関する限りまったく無いようなものです。しかし、今まで続けてきた栽培方法の中で、今年から変更したことが一つだけあります。それは、袋に包む枇杷の果実を「3個」から「2個」にしたことです。単純に考えれば、「それでは収穫量が3分の2になり収入も減るじゃないか。一体何を考えているの?」となるのですが、実際はそうではないのです。近年、スーパーでの枇杷の売価は1パック398円が相場になってしまっています。それもLサイズの枇杷の価格で、Mサイズになると298円になってしまうのです。そうすると、農家の手取り価格も同じように100円とは言いませんが、それ近くまでMサイズの値段が下がってしまうのです。これでは一生懸命木に登って袋をかける作業労賃も償えません。そこで「傾向と対策」として、できるだけLサイズの枇杷がたくさんできるような栽培方法に変更したのです。本当はこんな乱暴なスーパーの価格設定に文句を言いたいんですけどね。その結果、今年の天候のおかげもあるのですが、70%以上の枇杷がLサイズ以上になりました。100年目の思い出に、ぜひこれだけは記録に留めておきたかったtetywestです。さて、そこで・・・やっぱり日記を書く時間が取れそうにないので、引き続いて「ルーヂャ第5号」に登場してもらうことにしました。「ルーヂャ第5号」は1996年1月5日に発行されました。4号から1年半が経過しています。information 廣瀬和榮先生来町 1月30日(火) 午後2時 仁尾町福祉会館プロフィール:廣瀬和榮 農水省果樹試験場興津支場長を経て、日園連技術主管として現在にいたる。「高糖系温州の栽培」など多数の著書がある。-------------------------------もくじ ページアメリカ合州国は こんなかったよ 2曽保ミカン百年史 6曽保ミカン史年表 9かわらなきゃ 10解説-園内道??? 11特別蛇足企画袋とじ 12燃えるグラサン男 15誰が為に金は成る 16映画案内 ペシミストのひとり言 18アヴァンギャルドの方法 19-------------------------------
2003年06月22日
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《編集後記》◆目くそ鼻くそどんぐり同志 仲良く生きればいいはずなのに出来ぬ理由(わけ)あり 我身かわいく (恥骨)◆前号から一部百円のカンパを頂くことにした。べつにくれと言うたわけではないが、なかにはくれん人もいた。そんな人をみてみると、肩書に「○○長」とつく人、公務員、マスコミ関係者。ろくな奴じゃない。くれた方々、どうもありがとうございました。 (みかんのサド)◆のどかで美しい曽保の風景に爆音がこだまする。真夜中の爆竹花火に、休日の水上スクーター。おまけに土日は集団路上駐車が延々続く。諸悪の根源は・・・と見渡すと、ビーチーチービビチ(因数分解せよ)が一番クサい。自分たちが商売をすることによって地元住民にどれほどの迷惑をかけているか、公害を根本的に解決しないからあきれてしまう。 (正義のパンチ)◆「シンドラーのリスト」をみた。スキのないストーリーの展開とドキュメント風の白黒の映像が巧みに涙を誘う。ラストシーンはカラー映像でイスラエル建国を語る。そこにはユダヤ人によるパレスチナ人の大量殺傷という事実は全く無視され、ユダヤ人への涙が劇場にあふれる。さすがにアカデミー賞だと思った。 (尾骨)◆今年の甲子園は暑い夏をよりクソ暑くした。四番にバントさせたり、ワンサイドゲームなのにスクイズでせこく点を取ったり、一点をおしむあまり何点も取られたり、たかが野球なんぞに命なんか賭けるんじゃない、もっと楽しめ、勝っても負けても君達は幸せ。 (星 一徹) ◆異常気象がないのが異常なほど、毎年異常気象が起こっている。去年は冷夏、長雨でうっとうしい天気だったのに、今年はカリフォルニアもまっ青のカラカラ天気。去年は米がないと大騒ぎしたが、今年は米が余るそうだ。農家の嫁不足も異常気象のようにいかないものだろうか? (Y・T) 広告募集!本誌に広告を載せることが出来ます。大きさは、七センチ×一四センチ、一四センチ×一四センチ、二三センチ×一四センチの三種類。お気軽にご相談下さい。 ☆ ☆ ☆【記事協力】 みみずのたわごと マダム・コンプレイン マダム・クレーム スパイス・ミー 平 民永 アーメン曽保民 日枝神社の狸【スタッフ】 世紀末農民倶楽部 【表 紙】 チコ・マグダレーナ ☆ ☆ ☆一九九四年八月三十一日発行通巻第四号 九四 秋企画・編集/世紀末農民倶楽部 (香川県仁尾町曽保)※一部百円のカンパをお願いします
2003年06月21日
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ペシミストの独り言 (第二回) スパイス・ミー僕達が解ケル秋 実は二回目にして早くも暗礁に乗り上げてしまいました。そう、こうして執筆している今も私は迷える小羊なのです。 沢田教一の「安全への逃避」のように然り気無く、しかし強烈に心のひだに染み入る映画はないかなあということで選んだ作品が「バーディ」です。煽情的映画「プラトーン」が公開されたときに妙な義務感にかられ観に行ったのですが、私みたいな小心者の偽善者には重すぎて、さりとて一二○○円がおしくて途中で席をはずすこともできず、同時上映だったB級コメディ「サボテン・ブラザーズ」が心のよりどころとなったものです。 病室の窓を悲そうな面持ちで見つめるバーディ。彼はついに昔からの夢だった鳥になった。それは戦争による現実からの逃避というかたちで。いや、彼のほうで現実に見切りをつけたようにも思える。一方、学生時代の友人アル。彼もまた戦場で傷を負った一人だった。超イケズな精神科医にせっつかれ、バーディの正気を取り戻そうと必死で学生の頃の出来事を語りかけるアル。無反応なバーディに時折怒りと侘しさを覚え罵声をあびせかける。アルははたしてバーディの為だけにこんなに必死になれたのか?そんなアルが最後の最後に初めて自分の弱さを、恐れを、世の無情さを悟ったとき、バーディは・・・。というストーリーなのだが・・・。 実はこの原稿を書くにあたって数年ぶりに観返したのですが、初見とのあまりの視点の違いに戸惑いと驚きを覚えました。戦争の悲惨性より、互いの人生の機微にふれるという心象的なものへ、繊細で純真なバーディへの思い入れから繊細さ故のわがままで現実をシャットアウトしたバーディにふりまわされるアルの優しさに目を向けている自分がいる、おそらく一致することのないかつての自分と向き合って、ましてや今の自分が人間としての深みが増したとも成長したとも思われないけれども、当り前に微妙な問題を内包していることを苦渋に満ちた思いでいる私がここにいるということにしよう、ウン。 この作品を観て色あせぬ想い、それはバーディを見事に演じたマシュー・モディーンのスバラシさ。マシューの魅力に開眼していただけた方が一人でもいらしたなら、マシュー研究会副会長の私といたしましては光栄のいたりです。 過去なんて振り返らないぜ!というポジティブな貴方、たまには何かを媒介に昔の自分と向きあうのも新鮮なものですよ。そう!バーディとアルのように僕たちが解ける秋にしよう!!!
2003年06月20日
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もし未来があるのなら アーメン曽保民 はたしてこの国の国是なり法律は国民の意志により決定されているのか?善悪・道徳・謙譲によりて最善の方法を議論し選択し内外に示しているのか。外国からの強要(外圧)によりて決まっているのではないのか?地球的規模で物事を考えるのは今の御時世当然ではあるが、国にはその国なりの歴史や文化があり、それを下敷にして絵を書くのでそれぞれの国で違う絵が出来て至極当り前。しかしこの国は政府も国民も下敷のある場所も書きたい絵も分からないのではないだろうか、だからあっちの国でオロオロこっちの国でウロウロ。なら絵を書く前にまず歴史を訪ねて旅でもしませんか、二十一世紀が来る前に。
2003年06月19日
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やれば出来る神話を はきだめに 蹴落とすと一人一人が やすらかな幸福を得られる方程式を 提示しよう アーメン曽保民 世の親達が子供を叱た激励するときに必ず言う言葉は「やれば出来る、お前はまだまだ努力が足らない」「他人が一時間やればおまえは二時間、二時間やれば四時間、人の二倍三倍やれば必ず出来るのです」。こんな恐怖に満ち満ちた悪魔のささやきに似た言葉が他にあろうか、言っている本人は「ああ、これぞ親の愛」などと思っているのだから困ったもんじゃのお好み焼き。いつの頃からかこの非論理的かつエゴイスティックな考えに世の親達は囚われだしたのだろう、無駄とは思うが邪教に囚われた親達に反論をば一つ。 「やれば出来るのだ」とおっしゃった貴方、子供に言う前に貴方自身どうでしょう、やれば出来ますか?総理大臣になれますか?宇宙飛行士は?F1ドライバーは?皇太子妃は?第一買わなきゃ当たらない宝くじだって当たったことないでしょう。もっと小さいもので言えば生徒会長とか級長とかキャプテンとか、なに!やったことがある?それは貴方、レベルの低いところでの話でしょう(失礼)。もうお判りでしょう。彼らはある才能と運とを持って生まれているのです。努力という台を足場にのせると目的にとどく、とどかせうる足場に相当する運と能力を持ち、ある時期にそれを自覚し最大限利用した結果なのです。誰でも努力しだいで出来るなどと言う事では決してありません。足場のないところにいくら努力の台を置こうとしても決して届かないばかりか、無駄な努力を強いるあまり、その子が本来持っている別の才能を理不尽にも貴方自身がつぶしているのです。子どもの可能性を信じ気長く見守る事しか親には出来ないのではないだろうか。 「人の二倍や三倍やれば出来る」スーパー・ウルトラ無茶苦茶理論、この鬼の様な非人道的な命令を貴方は子供にしてはいないだろうか。その様な事が可能なのだろうか?いや可能という前にその様な事を他人(厳密に言えば子供も他人)に強要できるとお考えなのだろうか?冷静に考えてほしい。貴方自身他人の二倍三倍仕事でも何でもやったことはおありか、他人が二時間残業をやれば四時間六時間やっているのか。 もしそれに耐えてやりなおせたとしてもAさんの1時間とBさんの1時間は決してイコールではないのです。そこにはおのずから集中力という密度の問題が生ずるのです。それからやり方という最短距離を走るためのクールな分析力も違っているのです。二倍や三倍やれば出来るという「巨人の星」的な根性論では長続きしない。小さな心と体に大きな荷物を背負わせて坂道を登らせムチで打つというサド・マゾの世界です。 もう「やれば出来る」とか「もっと努力を」などと言う、手かせ足かせスーパー・ウルトラ・ナンセンス理論をおやめなさい。貴方達が自分に出来ない事をもし出来たとしても貴方と子供はまったく別の人格なのだから、そういう事を子供に課す愚かさに目覚めたとき、子供は自立し自らの能力に目覚め、初めて無限の可能性が生まれるのです。学校から帰ってきた子供の尻を叩き進軍ラッパを吹くよりも、心休まる温かい場所にしてあげて下さい。しっかり休んだ戦士はまた戦場に出て行くのです、いつでも帰る場所があるから。迎えてくれる人達がいるから。
2003年06月18日
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【連載】曽保みかん百年史 栽培の方は、大正二年に多吉つぁんとこの宮の前の二十アールが県農事試験場試験地に指定された。県の方もそれまでは高松市内に小さな果樹園があっただけやったのが大正四年に綾歌郡端岡村に二ヘクタールの果樹試験地を作った。この試験場は以後三十年以上、昭和二十四年に占領軍試験研究機関整備統合命令によって廃止されるまで県の果樹試験を一手に受け持っとったんじゃ。今トンネルの入り口になっとる所の日枝神社の持ち山を入札して開墾が行われたのは、ちょうどその年やった。また大正八年には一ヘクタール以上の開墾地に五十%の補助がでる「開墾助成法」が出来て、仁尾でもこれを機会に開墾が進んだのう。こうして産地としての形が整っていった訳じゃ。その頃、多吉つぁんとこの園はさすがに県内でも見事なものやった。大正七年の香川県果物同業組合主催の第一回果樹園品評会で一等賞になり、県知事から表彰状が送られたりしとる。 こうして、振り返ってみると曽保の産地の方が県の施策より一歩先を進んでいたのがよう解るのう。 それからこの時代で忘れてはならんのは、ミカンの病気、害虫が発生した事と市販の農薬が登場した事じゃ。県の報告では大正八年に土庄町で初めてイセリヤ貝殻虫被害が発生し、翌九年に香川町で初めてヤノネ貝殻虫が発生した。その後大正末期に各地でルビーが発生しとる。これらはミカンの三大害虫と言われ、曽保地区でも平二さんが大正九年八月に初めて手押し噴霧器を二十七円二十五銭で買うとるきに、同じ頃に害虫が発生したんじゃろ。農薬と言うても、それまでは石灰硫黄合剤とマシン油しかなかったが、大正十年から硫酸ニコチンが発売され、粉状ヒ酸鉛が大正十二年に発売されるようになった。その他に名前は忘れてしもうたが、デリス根や除虫菊を原料とした農薬も発売されたのう。貝殻虫に効く松脂合剤は、自家製で作った。これが出来るまではルビーを見つけては線香で焼いて殺しとったんじゃから、のんきな時代やったのう。 そんな事をしながらも、ミカンは順調に売れていたのが大正時代やった。まだまだ産業としては新しく、県としても大正十二年に第二次果樹増殖計画を立てて、ミカン、柿、ブドウ、リンゴ、クリの五種を重点に増やそうとした。その時、初めて枇杷をミカンの防風林として奨励したのが記録に残っとるのは面白いのう。余談じゃが枇杷は明治三十六年に浅野吉太郎はんが茂木から苗木を取り寄せて植えたのが最初なんじゃ。ほんだきに曽保ではもうその頃には防風林に枇杷は常識やった。しかし、果樹産業も順風満帆で伸びて行った訳ではないんじゃ。明治四十三年に設立された香川県果物同業者組合が大正十二年に取扱い数量の大幅減で解散し、以後は県農会が販売を斡旋するようになった。時代は常に動いとるのを、この時もつくづく感じたものじゃった。 この時代の曽保の話題と言うと、 大正十三年四月二日、四国水力による曽保地区電灯工事が完了し、曽保にも文明の灯火がともった。 昭和三年一月二十六日日枝神社の拝殿、弊殿建築を流岡の横田大工が、四千八百九十円で落札し、オラの住んどる日枝神社も新しく建て替えられる事になった。 そうして、連載第一回の七宝出荷組合設立へと話は続いて行く訳じゃ。今回はようけしゃべったのでオラも疲れた。そのうえ、トンネルの工事は二十四時間休みがないんで、睡眠不足なんじゃ。ほんだら、お休み。
2003年06月17日
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【連載】曽保みかん百年史(第三回)黎明期(大正)の巻 時代は移って大正になると、曽保のミカンも結構ようけ成るようになってきた。仁尾村史によると、大正一年に二千貫(約七.五トン)やったのが、大正十五年には十万貫(約三百八十トン)に増えとるきに、何と五十倍になっとる訳じゃ。その頃には栽培面積が、はや四十町になっとった。明治の四十年代に植えたミカンが実をつけだしたんじゃのう。 そこで、出来たミカンをどうやって銭にするかと言う事が皆の関心事になってきた。量が少ないうちは「木だて」と言うて樹に成ったままのミカンを「一反なんぼ」で売る方法やった。買いに来とったのは、室本の八百屋の菊さん、八百屋の勘さんやった。そのうち自分で収穫して商人に売る方法も始まった。こっちの方が銭は余計に取れたが初めないは全部のミカンを自分で収穫するんではなかったのう。両方の方法を併せて売っとった。この頃には観音寺の岩田、高松の岸叉、造田の丸十、大阪の石井も来だした。岸叉は牛車か汽車で高松へ運び、丸十(多田重太郎)はダットサンのトラックで買いに来とったし、石井は浦の谷の土井伊三郎はんとこを本拠にして住友汽船で大阪へ運んで売っとった。 ミカンの値段は初め「青切り」と言うて高いんじゃが、収穫が始まると安うなる。それが年が明けてまた上がってくるという相場の動きがわかってくると、次第に農家も売るのが巧者になってきて、「青切り」を大体一貫目五十銭くらいで売りはじめて、二十五銭ぐらいに下がると収穫をはじめてそれを全部貯蔵するようになった。また「青切り」の頃は丸亀の重元「かねセ」の方が地元の商人より十銭位高いと知るようになると丸亀通いが始まった。これは猫車に大抵「大イギ」を五杯宛積み込んで重元まで運び込むんじゃ。重元には五~六人の商人がおって、重元の綾さんと言う親方と袋の中に手を突っ込んで指で値段を知らせ、綾さんはいちばん値段のええ商人に売る訳じゃ。丸亀通いをしたのは義正はん、平次さん、文明さん、良弘はん、精一っあん、徳隣はんやった。朝の三時過ぎに家を出て、吉津、汐木、白方、多度津経由で丸亀へ行くか、あるいは吉津から下高瀬、大見、鳥坂、金蔵寺、を通って丸亀の事もあった。白方の所まで来ると下りの一番列車とすれ違うたものよ。これは銭にはなったが重労働で毎日通う訳にはいかなんだ。それでも元気な人は一日置きに通うたもんじゃ。ある時猫車を引っ張って帰んりょったら、どうにも前へ進まんのでように見ると田圃の「いで」に落ち込んどったという笑い話もあるくらいじゃ。ミカンの値段が四十銭を切るようになるまで大体年に七~十回位丸亀通いをしとったのう。 また曽保のミカンを初めて県外へ出荷したのは大正九年十一月四日で、このときは清水港から船積みで三百二十二貫のミカンを岡山へ出荷した。平二さんが一緒に船に乗って行ったのう。そうは言うても大正末期から昭和の初期まではまだ県内販売が中心やったが、昭和四、五年頃からは次第に生産量が増え、出荷先も阪神方面へと変わって行った。しかし、神戸のマル孝へ出荷したミカン代をもらう前に店が倒産して、取立に行ったが満州の方へ逃げてしもうた話もあったりで、苦労はあったのう。七宝出荷組合が出来てすぐに大阪の市場へ出荷して成功したのも、それまでに神戸や大阪へ個人でミカンを送った経験で、箱詰めの方法などを知っていたのと、大阪の石井が前から曽保のミカンを送っとって、大阪での知名度があったのとが大きな原因やと思うのう。何事も「ローマは一日にして成らず」と言う事かいのう。
2003年06月16日
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食について マダム・クレーム 私が食の質、内容に関心を持つようになって以来感じるのは、何を食べるのかはその人個人の感性に強く左右されるのではないかということ。 ある人とは共通の話題について非常に突っ込んだ部分まで話し合えるかと思えば食についてはまるで駄目ということも度々ある。輸入の自由化云々は私と一切関係ないという人もあれば、地球環境がどうであろうと、今現在自分の生活に起こっていることに比べれば取るに足らん問題だという人もある。そしてそう言ってしまえば確かに言ってしまえるのも食の問題だと思うのだ。 私も東京暮しの三十年間、子供が先天性の心臓病で生まれて来るまではそうやって暮らしていた一人である。そういった切実な問題を突きつけられなかったならば、幸か不幸か元気印を揚げられる程でもなし、床につくほど弱くもなしの状態で今も東京で食についてさしたる関心も持たず、暮し続けていただろうことは想像に易い。 思い切って高知に移り住み、食を入り口としていろいろな情報に接していくうち、それが環境の問題、農業の問題、教育の問題、政策の問題・・・とあちこちつながっていることにおそまきながら気づかされた。そして起こっている様々な問題の根っこには一つの共通点があるように私には見えるのだ。それは自然=あたりまえの姿を取るよりは、小手先の細工を加えられた姿に価値があるとみる心の状態が強まっているということ。四季、旬、地域性、それらの希薄な生活感覚に慣れて違和感を感じることもなく暮らせばそれが当り前の姿とされていく、「住めば都、慣れれば結構」という風に。 何故旬なのか、新鮮さ、うまみ、栄養価、価格、どれも食卓に幸いしてくれる。何故四季なのか、寒い時期には身体を暖め、暑い時期には冷やしてくれるものが沢山とれ、身体の調整を図ってくれる。何故地域性なのか、遠いところから危なげな物にまぶされ腐らないようにしたものとなぜとり替える必要があるのだろうか。 これらの恩恵、食の一年の廻りに寄り添う気持ちで暮らすと、不思議と寒さにムキになり、暖房をガンガン入れるとか、暑いからクーラーでヒヤヒヤして過ごそうという気持ちがそがれ、仲良くやろうという気持ちが湧いてくる。 ここ一・二年、私は親しい人達に「今の世の中の流れから降りようよ」と言っている。笑う友もいれば「うん、そうだ、そうだ」という友もいる。焦って人並を唱えるより、人は人、私は私、自分を見失うような生き方はすまいとしきりに思うのは、ちょっぴり年齢のせいもあるかなと思いつつ、作家の灰谷健次郎氏が言っておられる「現在の社会に様々な問題が起きているが、それは教育と農業に持ち込むべきでない競争の原理を持ち込んだところから始まっている」との言葉に大いに共感を覚えつつ暮らしている。
2003年06月15日
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「手の届くものを」 マダム・コンプレイント こどもの頃偏食の多かった私は、親がいかにもおいしそうに野菜類(特に筍・蕗・里芋・椎茸など)を食べるのを横目でみながら、(何であんなものがおいしいんだろう)と半ば小馬鹿にしたように心の中でつぶやいていたものである。 ところが、年を重ねるにつれ、小馬鹿にしていたはずのそれらのものがおいしく感じられるようになったのだ。(今だに椎茸はダメ) 疲れた時に甘い物が欲しくなるように、年齢が、体がそれを要求しているのだな、と漠然と思っていたが、それ以上深くは考えなかった。 ところが、一冊の本が私にその理由を実にはっきりと示してくれたのである。 曰く、「生物は自分の力でとれるものを食べるのが本来なのである。這児は母乳を、乳幼児なら草の実や手の届く木の実を、少年期には昆虫、小動物を、成壮年期には大きな動物をはじめ何でも、そして老年期には体が動かなくなるので楽にとれる卵、魚、野菜をと年齢に応じて食べるものが違う」とのこと。 ナルホド! 今の食生活をみてみると、少年や老人はおろか、幼児でさえも、本来自分の力では手に入れられない牛肉などを日常のように食べるという。一見、豊かなようには見えるが、実はそれは大変不自然なものである事に気付く。 その他にも、洋式の食生活を無条件に良しとする事の愚、栄養の宝庫「海」の食品の大切さ、食べるべき食物の種類とその割合を示す歯、理にかなったすばらしい日本食の話など、どれも思わず深くうなずいてしまった。 何千年、何万年もかかって今の我々の体ができてきた事を思えば、ここ数十年の食生活の急激な変化は、不自然を通り越して、危険すら感じずにはいられない。 社会の変化は日々刻々だが、こと「食」に関しては、我々は百年刻々くらいに、慎重に構えなければならないように思える。新しい物、珍しい物にむやみに飛びつかず、祖先の知恵をもっと大事にし、今あるものの価値を見つめ直そう。 化粧したような野菜より自然児野菜を! 遠洋の切り身より瀬戸内の小魚丸ごとを! そして輸入オレンジより曽保のミカンを!!※参考資料 「日本食長寿健康法」 川島四郎 著 新潮文庫
2003年06月14日
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【連載エッセイ】誰が為に金は成る (第四回)平 民永 近ごろ巷で話題なのは政治不信に異常気象、国際的な不況、地球規模の環境破壊。・・・嗚呼世紀末いきなりスイスの話。雪をかぶったアルプスの山々やそこに放牧されている牛たちの写真でおなじみのスイスは「世界の公園」と呼ばれ、一度は訪れてみたい国のナンバーワン。そしてまた、国民一人当たりのGNPが日本の約一・五倍と言う世界一豊かな国。では、スイス人の主食は何か知ってますか?・・・・答はポテトスイスの農家に一年間留学した人の話では、朝はパンを食べ、昼と夜はジャガイモを食べるんだそうです。料理方法は、ジャガイモを細かくすりおろしてゆでてから油で炒めるのと、ゆでないで直接油で炒めるのがあるそうです。ゆでると味が変わるのかと聞いたら、「私にはどっちも同じだった」と言ってましたが・・・。パンは半月に一度くらい、小麦粉一五キロ分を焼いて冷凍しておくのだそうです。「パンを作るのは大好きだった。パンをこねると手がまっさらになるから。」・・・いったいどんな手でパンを作っていたのでしょう?またまたカルチャーショックな話になりますが、スイスでは、各家庭がこのジャガイモ、小麦粉(パン)、ニンジン、豆等を一定期間貯蔵する義務があります。都会の真ん中のアパートでも地下に食糧の貯蔵庫があって、奥さんはスーパーから買ってきた食糧をまず地下室へ運び込んでいます。毎日の食卓には、ジャガイモの他には、インゲン豆、ニンジンが欠かさず出ます。これは国内で作れるからです。メインディッシュは肉(ほとんど豚、鶏)や魚です。スイス人と食べ物の関係は、歴史をたどれば中世に遡ります。昔スイスは貧乏な国で輸出するものもなく、人々は食べるために傭兵としてヨーロッパ各地の王様に雇われていきました。スイス人の傭兵は忠誠心が強いという評判がたち、今でもローマ法王の宮殿の門番はスイス人でなくてはならないそうです。しかしある時、兄弟が雇われている国同士が戦争になり、戦場で兄弟がばったり出会ってしまいました。しかしここで戦わなければスイス人の傭兵の評判が損なわれてしまうと知っている二人は兄弟で殺し合いをしたそうです。その物語を今に伝え、スイスは永世中立を宣言し、「スイス人の食べ物はスイスで」を基本政策として現在に至っています。それではスイスに肉や小麦粉、ブドウや柑橘は輸入されていないのかと言うと、ちゃんと輸入されています。しかし、ひとたび輸入が途絶えたときは三年間で自給率一〇〇%にできる体制を整えているのです。ちなみに、輸入されている果物類は、ECの価格の約二倍で売られています。一方、日出づる彼方では、エビに代表されるように世界中の食品を買いあさり、食卓には色とりどりのスーパーのトレイ入りお惣菜が並び、一日分の米代がコーヒー半杯より安いのに、もっと安い米を輸入しようとする国がありました。二十一世紀に残っているのは果たしてどちらの国なのでしょう?
2003年06月13日
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もったいない太り みみずのたわごと 「もったいない」という語はしだいに死語となってゆくのだろうか。現に娘の口から「もったいない」という語を聞くことは、まずない。もったいない、とは思わないと言う。それでも自分のうまいと思うものは、残さず食べる。それで我が家では「うまいものは○○(娘の名)に聞け」ということになっている。娘の口が、うまいか、うまくないか、即断を下す。うまくないものは決して食べない。 さて問題は、自分がうまいと思わない場合や、量が多くて余りそうな場合である。もったいないからと言って口に運んでいると、いつしか「もったいない太り」の体ができあがる。我が母然りである。当然、我が家で一番「もったいない」を連発するのは母である。家族の体重は、この「もったいない」の回数に比例しているように思う。 ところで八年前、中国の南部を旅行したが、みごとに太った人には一人も会わなかった。政府の要人の中には太った人もいるようだが、そういう人には会うこともなかったので。九億以上の人口をかかえる国である。町中には人が湧き出て、何時を言わず、ボールのような食器をかかえて、中華どんのようなものを箸でかきこんでいる。この国には食べ物を「もったいない」と表現する語は、まだないのではないかと思った。 我が家に話を戻せば、三代の女は「もったいないから食べる」母と、「もったいないけど食べない」私と、そして「もったいないと思わないから食べない」娘とで成り立っている。あなたの家ではどうだろうか。本当に「もったいない」が死語になりきる時はくるのだろうか。町で「もったいない太り」をした若いお母さんの姿を見ると、まだまだ大丈夫だと思ってしまうのだが・・・・・。
2003年06月12日
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いつの時代でも食料不足というのはちょくちょく起こるらしい。余ったり足らなかったり、食べ物を生産確保するのは昔から大変なことだったのだ。けれども今度の食料不足はちょっとちがう。なんといっても私たち日本人は金持ちなのだから。足りないときは買えばいい、という発想は、作るのはめんどうだからはじめっから買えばいい、という発想にいつの間にかすり替えられる。 もはや日本人にとって食べ物というのは、人が生きることそのものとして飢えを満たすものではなく、娯楽や趣味など生活のアクセサリーとしての方が身近なのだろう。それ故外食が受ける。グルメ大会や大食い大会が受ける。足らなくて困っていてもタイ米は食べない。 これを豊かさの生活・発展段階の先進とみるか、文化的デカダンス・精神の貧困と捉えるかは別として、どうしてもひっかかってしょうがないのは、私たちが大食い大会やグルメ大会のTVをみて笑いころげている間に、世界のどこかに内戦や災害によって飢えて死にかかっている人たちがいるという事実。あるいは、酒を飲み過ぎて宴のご馳走を平気で食べ残す腹のデカいオッサンがふんぞりかえる一方で、やせ細った幼い子が、飢えて立つ力もなく棒のような手足を投げ出してじっと死を待っているという現実が頑としてあるということだ。そしてそんな現実を無視したように平気な顔で流れ動く社会をみていると、いったい何がどうなっているのか分からなくなってしまう。 このような現実の解釈を突飛だと思うかもしれないが、自国の農業を縮小して食糧を輸入している日本にとって、これは日本人そのものの問題だろう。 誰だってまずいものより美味しいものが食べたいし、足らなければ海外からすぐに買えるということも実はスゴイことなのだが、日本の消費社会をみていると、食べ物への認識が何か基本的なところで危なっかしい方向に向いているような気がしてならない。そしてそれは食べ物に限らず、私たちのライフ・スタイル全てにおいても同じことが言える。おそらく便利さを追い求めた社会の中で私たちの意識が変わらなければどうしようもないことなのだろう。 (編集室)
2003年06月11日
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枇杷の収穫で忙しいtetywest。もうこれもパターンになってしまった「困った時の神頼み」ならぬ、「ルーヂャ頼み」です。「ルーヂャ第4号」は1994年8月に発行されました。もう9年も前になるんですね。そういう時代背景を頭に置いた上でお読みください。-------------------------------- もう十年近く前のことになるのだが、フィリピン共和国のネグロス島というサトウキビの栽培で有名な島へ行ったことがある。八十年代に入ってから砂糖の国際価格が暴落し、大規模な飢餓がこの島を直撃した。ジャーナリズムは大々的に報道し、ユニセフはこの島の現実に対して「非常事態宣言」を発していたが、肝心のフィリピン政府は当時の大統領夫人の言葉を借りて言えば「ネグロスの飢えもエチオピアに比べればまだマシだ」という具合いに放置したままだった。 飢餓は四十万人を越すサトウキビ労働者とその家族、とりわけ子供たちを襲った。一ヶ月の間に百人以上の子供たちが餓死した。「一昨日はスープを一皿、昨日は何も食さず、今日は豆を十粒、そして明日食するものは何もない。」子連れの婦人がそう語った。ガイコツのような顔にギョロッとした眼球が潤んでいたのが印象的だった。 ネグロスの飢えは、それが干ばつなどの自然災害によるものではなく、砂糖価格の暴落やアメリカが全く砂糖を買い上げなくなったこと、特にサトウキビ労働者が自分の土地を持たない小作であることなど、構造的な要因によるということに特徴がある。 いまさらという気がしないでもないが、去年の野菜の高騰にはビックラこいた。ネギもキャベツもひどかった。果物だってろくな出来じゃない。極めつけは米。日本人の主食が足りないということは、やっぱり大変なことなのだろう。でもあんましピンとこない。食べ物はそこらじゅうに氾濫しているし、スーパー・マーケットもファミリー・レストランもモス・バーガーもダンキン・ドーナツも繁盛している。べつに米が足りないんなら他に食べるものは沢山あるようだし、それをわざわざ海外から買いつけようという発想はあまりに飛躍していて、閉口してしまう。金を出せば大概のことが始末できるという社会はやっぱりスゴイ。 これが二百年前だとそうはいかない。「食ふべきものの限りは食ひたれど後には尽果て先に死たる屍を切取ては食ひし由、或は小児の首を切、頭面の皮を剥去りて燃火の中にあぶり焼、頭蓋のわれめに箆さし入、脳味噌を引出し、草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有しと也。」(後見草より)というから洒落にならない。一七八二年には津軽地方で二十万、八五年には全国で九十五万の人口減少をきたし、各地で打ちこわしが頻繁に起こった。有名な天明の大飢饉である。このため賄賂好きの老中田沼意次は失脚することになる。 だいたい歴史をみてみると、飢饉、疫病、政治改革はセット・メニューになっている。そのうち仁尾町でもエイズ患者が続出、北朝鮮や中国から爆弾が飛んでくるから避難しろ、ということになるかもしれない。
2003年06月10日
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我が母校では、1年に1回、合同同窓会なるものが開かれています。何しろ100年以上の歴史のある高校ですので、旧制中学校、女学校の卒業生から、新制高校まで年齢層は広いです。まあどうしても、こういう会合に喜んで参加するのはお年寄りが多くなるのですが・・・tetywestがそんな会に参加したのは、別に年寄りだからではありません(汗)「高校の同窓会」で司会の大役を務めたT田さんが、「43年以降現在まで」の同窓会理事になったのです。その就任祝いを兼ねて、幹事会のメンバーが6人集まりました。この同窓会、お世話をする年代があらかじめ決まっています。総会を仕切るのは還暦を迎えた年度の卒業生で、懇親会の方は45歳になった年度の卒業生です。懇親会では、毎年それぞれに工夫を凝らしたお楽しみを用意しているのですが、今年は「おそるべき讃岐うどん」ですっかり有名になった田尾和俊君の学年でしたので、「うどんクイズ」で盛り上がりました。さて、その前の総会を担当した学年には凄い人がいました。「現在日本の科学者の中で、ノーベル賞に最も近い一人」と言われている玉尾皓平氏です。プロフィールによれば、「京都大学工学研究科博士課程終了。京大工学部助手、助教授を経て、93年から京大化学研究所教授。00年4月から2年間は同所長。現在、京大COE「元素科学研究拠点」のプロジェクトリーダーも務めている。昨春、有機ケイ素化学研究の功績で米化学会のキッピング賞を受賞」されたのだそうです。総会の後でわざわざ本人が登場され、専門的な話題や高校時代の思い出も交えながらの講演がありました。tetywestにとっては、全然違う分野なのですが、最先端の話はなかなか興味深いものです。しかし専門的過ぎて全部理解する事はできませんでしたので、その時配布された2003年1月1日付けの朝日新聞記事を掲載します。―――――――――――――――――――――――――――――――――「新反応、日本のお家芸に」炭素を骨格とする有機化合物は、プラスチックや医薬品など、さまざまな形で生活に役立っている。玉尾さんは、新しい有機化合物を作り出す上で、「不可能と思われていた」重要な反応を実現した、と評価されている。最初の代表的業績となった研究の発端は、京大助手になったとき、同じ講座の熊田誠教授(現名誉教授)から「遷移金属化学をやりなさい」と言われたこと。「遷移金属」は、鉄、ニッケル、マンガン、チタン、パラジウムなどのグループ。多様な化合物になったり、化学反応を促す触媒の働きを示したりと、多くの特異な性質を備えている。それまでは「ややこしそう」とかかわりを避けていたが、論文を読みあさり、のめり込んでいった。研究室の大学院生と論議や実験を重ね、72年、狙った2つの有機化合物の炭素の骨格を、ニッケルの助けを借りてつないだ。そのままではうまくつなげない炭素同士を遷移金属を触媒として結びつける「クロスカップリング反応」の誕生だ。「最後は拍子抜けするほど簡単で、本当に未発見の反応なのか不安になったほど。実際、ほぼ同時にフランスから似た反応が報告され、研究の進歩が並行して起こることを実感しました」この成果をもとに、ほかの遷移金属を利用して反応効率を高めるなど、多方面の研究が日本を中心に進んだ。クロスカップリング反応は、医薬品や導電性高分子など幅広い物質の合成に使われ、「日本のお家芸」に育っている。新しい結合を生み出す反応に対し、「安定した結合を何とか切りたい」という思いも玉尾さんにはあった。ターゲットは極めて安定と考えられ、シリコン産業の隆盛につながっている炭素とケイ素の結合だった。83年、有機ケイ素化合物にちょっと仕掛けをして、過酸化水素による酸化で結合を切断できた。これにより、有機ケイ素化合物をさまざまに「加工」することが可能になった。「皆が心待ちにしている時に登場した反応だった」。今では世界中で使われ、「玉尾酸化」と呼ばれている。「結合」「切断」の次は、環状分子の合成を目指し、ケイ素を含む「シロール」と呼ばれる五角形の分子の新しい合成法を、94年に発表した。現在、この物質からは多様な化合物が作られ、大画面化に向いたEL発光素子など、エレクトロニクス分野での利用が研究されている。「化学=公害と言われた時代の中で、長く仕事をした。化学の負の側面は否定しないが、新しい物質を作り出す役割を認識し直してもらえるよう努めたい」―――――――――――――――――――――――――――――――――「シロール」の今後の展開については、紙のように薄いテレビや、携帯電話の液晶に利用されるかも知れないのだそうです。「ノーベル賞に最も近い候補」については、「ノーベル賞候補はものすごくたくさんいます。候補のまま終わってしまう人の方が多いんです。でも、皆さんにそういう話題を提供できて、それで皆さんが楽しんでいただければ十分です」とおっしゃられていました。さて、講演を聴いてすっかり化学に触発されたtetywestたち・・・二次会でガラにもなく「化学」の話題になりました。「何とかして『金』の合成ができんもんやろか?」高校の理科の先生をしているT橋君が、「もう、ロシアで出来とるで。ただし原料は『白金』やけどな」「な~んや、それやったら全然儲けにならんやないか」庶民の化学は、やっぱり下世話になってしまうようです。
2003年06月09日
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中国紀行を書いているとき、日記に書いた内容を確認する必要もあって、頻繁に中国のサイトへアクセスしていました。そのとき、ひょんな事から中国の音楽サイトを発見したのですが、これがおもしろいんです。著作権の保護も何のその・・・・日本の歌手の歌もバンバン聴けます。例えばhttp://game.qd.sd.cn/game/jdyxshow.php?gid=217 では、中島みゆきの「ルージュ」がアニメ付で聴けますし、http://flash.163.com/show_one.php?idno=21401 では、王菲が同じ曲を中国語で「容易受傷的女人」として歌っているのです。このアニメに登場する女性が、また凄い美人ばっかり(笑)最近はすっかりはまってしまっているtetywestです。※しかし、こんな違法サイトイを紹介する事も違法なんやろか・・・・(汗)
2003年06月08日
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旅の終わり30Bの席に座ると急に疲れが出て、いつの間にか眠っていた。気がつくと飛行機はもう雲の上を飛んでいる。園芸部長から、もう一つのハプニングを聞かされた。パスポート・コントロールで危うく中国残留孤児になり損ねた1名(名前は最後まで出せません)は、空港税を支払う時に、それもどこへ仕舞ったのか分からなくなった。必死に探したのだが結局見つからずに、90元をキャッシュで支払ってようやく中国を出れたのだそうだ。手荷物検査の時tetywestはグループの前の方に並んでいたので、後ろで何があったのかは知る由もなかったのだ。全員揃うのが遅れたのは中国側の責任だけではなかったようだ。気分が動転している時は、普通では考えられないようなことが起こるものだ。今回のハプニングでしみじみと、「中国での出国手続きは、時間に充分過ぎるゆとりを持つこと」の大切さを噛み締めたtetywestだった。3時過ぎに機内食が配られる。メニューは↓(下)の写真のようだった。機内食tetywestは一目見て、「ううっ、不味そう」(涙)と思い、一口食べて早くも、「ううっ、中国が懐かしい」と思ってしまった。おまけに乱気流が発生したとのことで、食べ終わった食器はいつまで経っても片付けてくれない。お別れ食事会の時、農業推広中心の孫さんが、「『中国国際航空(エア・チャイナ)』は、『Always Clash』の略です」と冗談を言っていたが、こんな食事を食べた後では「ANAは、『Always No Accident』と言いたいところだけど、『Always Not Available』にしとこうかな・・・」と思ってしまう。4時になってようやく食事を片付けてくれた。飛行機は上海上空を通過して、もう黄海の上を飛んでいる。腕時計を日本時間に戻す。この頃になると帰りの自動車の運転が気になり始め、できるだけ今のうちに眠っておくことにする。うとうとしていると時間が経つのが早い。次に気がつくともう瀬戸内海の上空だった。6時05分、ちょうどtetywestの家の真上を通過したと思ったら、15分後には関西国際空港に着陸していた。やれやれ・・・飛行機で15分のところを、今から4時間かけて帰らなければならないのか・・・・7時に無事全員が通関を終え、関空の到着ロビーに集まった。帰国後まず一番にしたことは、3階の食堂街での夕食だった。誰言うとなく「トンカツ」になったのだが、中国料理を食べ慣れた我々には日本の料理の方がずっと油濃く感じてしまった。リムジンバスで高速艇乗り場へ。ほとんど乗客はいない。寒さが身にしみる。日本の2月は寒くて当然なのだ。時差ボケはないものの、しっかり気候ボケしている。高速艇の待合室9時10分発のフェリーに乗る。客室のTVが天気予報を放送している。「明日は雨でしょう」ああ、よかった。ゆっくり朝寝ができる・・・・※これで「果樹部会中国へ行く」は全部終わりです。連載回数が3桁になったのはさすがにtetywestも初めての経験でした。最後までお付き合い頂いた皆さん、どうもありがとうございました。そして「Special Thanks to cjjさん」
2003年06月07日
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帰国手続き(3)「団体ビザをここに置き忘れたのですが、知りませんか?黄色いファイルバインダーです」tetywestはANAのカウンターにいた受付の女性に尋ねる。「それならお預かりしています。あちらのオフィスにあります」やれやれ・・・ホッとして急に力が抜ける。ビザを受け取って2階に引き返すと、我々のために開けてくれたゲートは他の団体が先に通っていた。それを待っているうちに、ようやく酒を預け終わった2人も上がってきた。さあ、我々の順番だ。先頭の副部会長はパスポート・コントロールの係官にビザを渡している。その後は部会長、tetywest・・・と全員が一列に並んでいる・・・筈だったのだが・・・一人足りない(汗)遅れて来た2名のうちの1人が、列から離れてウエストポーチの中を必死に探している。パスポートが見つからないのだ。顔面は真っ青になっている。tetywestがパスポートを見せる順番が来た。・・・早く見つけないと、今度は1人だけ中国へ置いてけぼりになってしまう・・・カバンの中を捜している・・・tetywestは無事パスポート・コントロール通過。しかし、自分のことよりそっちの方が気になる・・・おお、ジャケットを脱いだ・・・今度はズボンのベルトを緩めている・・・パスポート・コントロールの次は機内持込の手荷物検査と身体検査なのだが、ここも長蛇の列だった。もう「グループ、グループ」は通用しないので、順番を確保するために前へと進まなくてはならない。つい立の陰に隠れてしまって、その後の様子は見えなかった。しばらくすると、全員が揃った。やれやれ、何とか間に合ったようだ。時間は1時45分だ。「補助動力装置に異常が見つかりましたので、出発が10分遅れます」と場内アナウンスがある。しかし、行列は遅々として進まない。後から後から人が増えて、行列はどんどん長くなるばかりだ。異常が見つかっても見つからなくても、全員がここを通過するのは30分では到底無理だろう。本来なら「補助動力装置に異常」と聞けば、「ホントに大丈夫なの?」と気になる筈なのに、「いつになったら出国手続きが終わるのだろう」ということの方がよっぽど気がかりなtetywestだった。手荷物検査の手前では、カウンターに座った係官が空港税を徴収している。手荷物検査の混み具合を見ながら、一人ずつ航空券をチェックして空港税の領収書をもぎってくれる。前に並んでいた人が、「こんなことをしていたら、中国の印象が悪くなるだけじゃないか」と、空港税を徴収している係官にくってかかっていた。これだけ待たされれば、捨て台詞の一言も言いたくなる気持ちはtetywestも同じだった。ようやくtetywestの順番がやって来た。一刻も早く出国手続きを終えたかったtetywestは、デジカメ、タバコ、ライター、時計、小銭入れを全部トレイに乗せて、金属類は一切身に着けない作戦に出た。その甲斐あって一発OKだった。さあ、ついに中国を出たぞ!!!当然のことながら搭乗待合室にも売店がある。他の人を待っている間にぐるっと見て回る。酒、タバコ、お茶、カバン類、民芸品・・・その中で、紫檀で彫られた仏像がtetywestの目に留った。高さ30cmくらいの観音様なのだが、気品に満ちたいい表情をしている。しばらく見惚れていると、店員に声をかけられた。「いいでしょう・・・」「いくらなの?」「20万円です」「えっ、・・・・あ・・・予算が足りないな」「もっとお安く出来ますよ。17万円」「い、いいです。全然予算が足りないから・・・」一体tetywestのどこにそれほどの大金があると見えたのだろう(汗)ようやく待合室に全員が再び集合したのは午後2時を回っていた。飛行機への搭乗はもう始まっていたのだが、tetywestはそれから営農課長と共通の土産を買いに走り、飛行機に乗り込んだのは2時20分、ほとんど最後だった。
2003年06月06日
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帰国手続き(2)厦門空港のパスポート・コントロールと機内持込荷物の検査は2階だった。階段の下で警備員に航空券を提示して2階へ上がるようになっている。その手前が売店だった。tetywestはぐるっと一回り見渡してみた。民芸品、ヒスイや銀の装飾品、掛け軸、硯、木や石の仏像、扇子にキーホルダー、酒も置いてある・・・しかし、買いたくなるようなものは何もない。何度か中国を訪れてみると、空港の土産の値段が高いのはすぐにわかる。それに、ありふれたものしか置いていない。tetywestは、中国土産の醍醐味はその地方にしかない特別なものを探すことだと思っている。たとえば福建省なら烏龍茶だろう。福建省には日本円にして1kg200万円以上するような高級茶もあるのだ。もちろん、そんな幻の銘茶を買うお金は持っていないのだが・・・tetywestは最初から土産はそこそこの値段の烏龍茶にしようと決めていた。ところが厦門へ到着した夜に、李さんから高級烏龍茶をプレゼントされたのだ。それはtetywestが買おうと思っていたのより数倍ハイグレードなお茶だった。この時点でtetywestは中国で買うものがなくなってしまったのだ。他の人たちは・・・と見回してみると、ここぞとばかり土産を買っている。値段交渉もちゃんとやっているようだ。やれやれ、買い物の時間が取れて良かった・・・一足先にパスポート・コントロールの込み具合をチェックしておこうと、園芸部長と2階に上がる。予想通り、そこはかなりの混雑だった。蛇のように曲がりくねって張り巡らされたロープに沿って、大勢の人が並んでいる。しかし、我々は団体ビザなので、その長蛇の列に並ばなくてもいいのだ。「グループ、グループ」と、列を管理している係官にアピールすると、奥側の新しいゲートを開いてくれた。時間は・・・とチェックすると1時半だ。tetywestと園芸部長が2階へ上がったのを見ていた他のメンバーもタイミングよく階段を上がってきた。しかし・・・残る2名がいつまで経っても現れないのだ。園芸部長が、「オレが呼んでくる」と階段の方へ向かいかけた時に、おそらくふっと何かが閃いたのだろう、「ビザはあるよな」と営農課長に訊いたのだ。「いや、持ってないよ。最初に並ぶ副部会長に渡してあるで」副部会長は、「そういえば、荷物検査に呼ばれた時に置いたままじゃ」が~ん!!!!ビザが無ければ我々は日本へ帰れないのだ。咄嗟にtetywestの脳裏に浮かんだのは「更に3日間の滞在延長か・・・」だった。緊急事態発生!!!園芸部長、tetywest、副部会長は階段を駆け下りると、ANAの手荷物カウンターへと走る。カウンターはまだまだ人でごった返している。そこで発見したのは、いつまで待っても現れない2名だった。2人はそんな人込みの中で、酒をダンボール箱に入れて包装してもらっていたのだ。「『酒は出国手続きが終わってから、免税店で買いなよ』と言うてあったのに・・・念を押しといたらよかったなあ・・・」と、園芸部長がぼやいても後の祭りだった。海外旅行初体験の2人にとって、先のことが見える筈が無い。目の前に酒を売っていればどうして買わずにいられよう。たとえそれがどんなに時間を浪費しようとも・・・しかし、今はそれどころでは無い。問題はビザなのだ。
2003年06月05日
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帰国手続き(1)バスの中で、エージェントは淡々と出国手続きについての説明をする。現在、空港ではテロ対策のために手荷物検査が強化されている。特にアルコール類の持ち込みには神経を尖らせているようだ。手荷物として預ける場合でも2本以上はダメ、機内へ持ち込む場合は開封していないと許可されないそうだ。3本までは免税でOKだというのに、ずいぶん乱暴な話だ。12時40分に我々が厦門空港の2階にある出発ゲート前へ到着すると、先に到着していたshmさんがこれ見よがしに出迎えてくれた。李さん、謝さん、K-1ともいよいよここでお別れだ。「本当に何から何までありがとうございました。今度はぜひ、日本へ来てください」部会長が代表してお礼を言い、みんなそれぞれに固い握手をしあう。特に販売課長とK-1の握手には儀礼以上の何かがあったと感じたのはtetywestの思い過ごしだろうか。エージェントは手荷物預かり所と空港使用税の売り場の方向だけを教えると、建物の中にも入らずにさっさと帰ってしまった。金にならない仕事はできるだけ早く済ませたいというのが見え見えで、tetywestのエージェントに対するポイントは更に低くなった。手荷物預かり所に行ってみると、他の団体客にはちゃんとエージェントが付き添っている。しばらく並んで待っていると我々の順番になった。航空券とパスポートを見せてシートナンバーを確定してもらい、スーツケースを預けてクレームタッグを受け取る。普通なら5分で終わる手続きだ。しかし今回は違っていた。スーツケースをX線の機械に通して中身を調べ、酒が3本入ってる場合はスーツケースを開けてチェックするのだ。部会長や販売課長は2本だったので問題なく通過した。しかし副部会長とtetywestは、「こちらへどうぞ」とカウンターの中へ呼ばれた。酒の飲めないtetywestがなぜ3本も酒を持っていたのかについては、ちょっと説明が必要だろう。昨夜街の散策からホテルに帰ったとき、shmさんがtetywestの部屋へやって来て、「日本でお世話になった皆さんへのお土産です」と、酒を5本預かったのだ。そのメンバーの中には販売課長も含まれるので、2本は課長に持ってもらうことにした。ダンボール箱に2本ずつ入れて、割れないようにしっかり包装してあった。tetywestはその箱のままスーツケースの底に放り込んであったのだ。カウンターの中にあるテーブルの上でtetywestがスーツケースを開けると、検査官:「これは何ですか?」tetywest:「酒です」というやりとりだけで検査はOKだった。ところが副部会長のときには、「スーツケースの中には2本しか入れることが出来ない」と、検査官が1本をスーツケースから取り出したのだ。どうするのだろう?没収するのだろうか?と成り行きを見守っていると、ANAのロゴの入ったダンボール箱を持ってきて、1本だけその箱に包みなおしていた。しかし、・・・この差別はいったい何事なのだろう?確かにtetywestの酒の箱は2個なのだが、明らかに大きさが違っているのだ。しかも、X線で3本写っていたからわざわざ検査した筈なのに・・・お役所仕事も、ここまでくると呆れるばかりだ。徒に旅行客の大切な時間を奪っているとしか考えられない。ANAカウンターでの搭乗手続きが終了したのは1時だった。tetywestと副部会長がカウンターの中にいる間に、園芸部長が手際よく全員の空港使用税を買って配ってくれた。この頃になるとカウンターの付近は手続き客でごった返している。早めに手続きをして正解だった。飛行機の出発は2時20分なので、まだ土産を買う時間は十分ある。振り返ってみると、今回の旅行では土産を買う時間がほとんどなかったのだ。昨夜、販売課長から「土産にチャイナドレスを買いたいんやけど、明日の朝にでも時間が取れんかな?」と言われて、「えっ、まさか奥方に買うんとは違うやろな?」と突っ込みながらも、ようやくそのことに気がついたtetywestだった。メンバーの中には初めて海外旅行を体験する人が4名、中国初体験の人が1名いる。おまけに、国内旅行でもバスのトランクが一杯になるくらい土産を買う人たちなのだ。中国に来て土産を買わずに帰ることなど絶対出来ないだろう。しかし、今朝の予定もしっかり詰まっていて土産を買う時間はとれなかった。残されたチャンスは空港だけだった。
2003年06月04日
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空港へお別れの食事会が終わったのは12時5分前だった。いよいよ中国ともお別れだ。好清香大酒店から出たところで撮った↓(下)の写真が、今回の中国旅行で最後のショットとなった。厦門の街の雰囲気がよく撮れていて、tetywestのお気に入りの一枚なのだ。厦門の街厦門市農業改良推広中心の箱バンでホテルへ着いたのは12時10分。旅行社のマイクロバスは既にホテルで待っている。チェックアウトは朝の出発前に済ませてあったので、フロントのカーゴに盛り上げてある荷物を積み込むと、すぐに空港へ向かって出発だった。孫さんをはじめ厦門市農業改良推広中心の皆さんに慌しくお礼を言って、マイクロバスに乗り込む。この時ちょっとしたトラブルが発生した。通訳兼ガイドの大役を無事に果たしてくれたshmさんも、今日中に広州へ帰る事になっている。飛行機の時間もほとんど同じだった。したがって我々全員が、shmさんも我々を迎えに来てくれた旅行社のバスに乗ればいいだろうと考えていた。ところが、旅行社のエージェントは頑としてshmさんをバスに乗せてくれないのだ。「私の名簿に載っていない人を乗せることは出来ない」というのがその理由だった。shmさんは、自分が怪しい者ではないことを証明するために、そしておそらくは公務員特権をちらつかせるために「共産党員証」を提示したのだが、この「葵の紋所」も旅行社のエージェントには通じない。部会長をはじめ我々も口々に、「あなたの判断でどうにでもなることだろう」「1人くらい増えたところで、何の問題もないじゃないか」「あなたにとってお客である我々が『乗せて欲しい』と頼んでもダメなのか?」と交渉したのだが、エージェントは聞き入れない。結局shmさんは李さんとK-1のサンタナで空港へ行くことになった。エージェントの杓子定規な態度に、みんなは「そこまでやるか?」と驚いている。バスが出発してからも我々とエージェントの間には気まずい空気が漂っている。バスの最後尾に座っていた販売課長が、「彼にとっては、あれが精一杯の公務員に対する抵抗かも知れん・・・」と、ぽつんとつぶやいた。おいおいエージェントに聞こえるやろ・・・まあ聞こえてもかまんけど・・・tetywestにとっては、このシチュエーションも中国で2回目の経験だった。1999年の西安で、苟さんが同じように旅行社のマイクロバスに乗ることを拒否されたのだ。どうも中国では旅行社のエージェントと公務員は仲が悪いようだ。バスの中でtetywestはその理由を考えていた。中国では公務員も旅行社のエージェントも大学を卒業していないと就職できない。つまり両方ともエリートということになる。当然ライバル意識はあるのだろう。両者の大きな違いは給料と特権だ。エージェントになったほうが給料は数倍~10数倍多い。一方、公務員になると「Kナンバー特権」をはじめとする各種特権が行使できる。エージェントにしてみれば、その公務員特権を行使されることが一番気に入らないのだろう。しかし、素晴らしい思い出とともに終わろうとしている今回の旅行に水を注したエージェントには、販売課長だけでなくtetywestも気分が悪かった。中国へ旅行する場合、ほとんどの人はエージェントのお世話になるのだから、彼らの印象の良し悪しがそのまま中国のイメージとなってしまうのだ。残念ながら彼らにはまだその自覚が無い。おそらく日本のエージェントなら、「お客様の要望とあらば致し方ございません」とshmさんを同乗させただろう。tetywestは中国の旅行社のエージェントの露骨過ぎる「拝金主義」は大嫌いなものの一つなのだが、その「拝金主義」が中国へ行く度にエスカレートしているような気がする。K-1の運転するサンタナは、最初の交差点で我々のマイクロバスを追い抜くと、ブッ飛んですぐに見えなくなってしまった。
2003年06月03日
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李さんの論文(6)5.対策と施策5.1今後の見通しと、調整の考え方農業部の「1996年果実生産発展指導性計画」に示された「九五」期間の果実生産指導要領によれば、「面積の増加は緩やかで、質・量は高く、単位面積当り収量と生産効率を上げる」とある。これと、福建省の国民経済増長目標から考えると、果樹産業の発展は、品種構成の調整によって新たな需要が拓かれると考えられる。生産総量が経済成長と歩調を合わせて増加するという前提にたてば、当地の果樹面積の増加速度は3%以下に抑えるのが適当である。そして、発展は質・量と効率を高めることを重点に置く。1979~1996年、我が国と福建省の果実の平均単位面積当り収量は、世界の平均の2分の1に留まっており、果樹産業は粗放型が主流である。この粗放型を集約型に変えて持続していくことを実現し、更なる科学技術の進歩を取り入れ、同時に品種構成の調整を速やかに行う。高品質果実生産目標を達成し、効率を高め、省力化など優れた総合的な栽培技術を普及させて、速やかに果樹産業の生産力を高める。5.2合理的に指導を強化し、再び失敗を繰り返さない社会経済の発展水準から見て、現在の家族経営で分散型の農業生産形態では、品種構成の盲目的な集中が再び起こることは十分考えられる。従って市場経済の発展を基礎にし、政府の方針に従いながらそれを応用する。つまり、市場動向と政府の方針を結合した方式を採用し、市場の発展に伴い次第に市場動向へ重点を移していくのが適当と考える。品種構成は変動するもので、市場の変化に合わせて優良品種へと常に調整しなければならない。各地の農業主管部門で、品種構成の調整企画が研究されているが、「4つの意識」を強力に推進しなければならない。つまり、重点となる優良な主要果樹品種を決め、最大の経済効果を確保するために、以下の意識が重要である。超前意識:市場の定位置を確保し、過去のような盲目的集中を避ける。資源意識:他の地域に比べて有利な自然条件を利用し、品種を合理的に配分する。規模意識:果樹の産業化、集約化の促進を強力に指導する。投入意識:物質基盤を強化して、生産条件を改善し、生産量と効率を高める。5.3優良品種育苗体制の確立と、今後の有望品種の先行試験及び導入現在、品種構成の現状から考えられる問題に対処するには、全省の約3分の1の面積の果樹を品種更新する必要がある。これは長期にわたって継続されなければならない。しかし、その実施は市場動向に対応するだけでなく、優良品種の育苗体制の不備を改善することにもつながる重要な施策である。果実生産発展の全国規模での更新率を2%と仮定すると、福建省では年間1万1500ヘクタールの更新が必要である。さらに、今までの発展の趨勢と品種構成が過剰問題を起こしていることを考え合わせれば、実際の更新率はさらにできる限り高くするべきである。そうすると、育苗資材は相当量必要になる。その実施に当っては、育苗資材の質・量共に保証されなけらばならない。苗木の品質を上げる努力だけでなく、資金を集中して省クラスでの優良品種育成模範園を造ることが必要である。加えて、現在ある市クラスの優良品種育成圃場の整備も必要である。果樹優良品種の先行試験及び導入は長期的な継続が必要である。短期的な経済効果を量るのではなく、潜在的な効率を高めるために重要な基本的施策として考えなくてはならない。有望な品種の先行試験や導入は、今後の果樹産業発展のために重要な意義がある。近年来、台湾海峡を挟んだ両岸の発展が注目されている。福建省と台湾は非常によく似た気候であり、果樹類も基本的に種類が同じである。したがって、積極的に台湾から優良品種を導入することは、果樹産業の品種構成を速やかに優良品種に更新するために大変有利である。原文:福建果樹(1999年3月)和訳:tetywest
2003年06月02日
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李さんの論文(5)4.果実類品種構成の調整についての考察指導原則現実に則し、未来に着眼する。優秀な品質ができる区域分布を基礎とする。市場をリードし、資源の優勢をもっと発揮する。早生・中生・晩生及び加工・生食品種を合理的比率にする。国内消費市場を主体としながら、積極的に輸出及び加工へと発展する全体としての思考:現在の果実類の品種分布を基礎にして、南亜熱帯【門がまえに虫】東沿岸地域と【門がまえに虫】江下流域の竜眼、レイシ、柑橘などの亜熱帯常緑果樹における晩生品種の比率を高める。【門がまえに虫】西北中亜熱帯地域では、晩熟温州ミカンの比率を下げ、ナシ、モモ、【木のしたに示】、柿などの落葉果樹の早熟品種の比率を高める。さらに、それを【門がまえに虫】江、九竜江の中上流域の低海抜地域にまで拡大して、早熟温州ミカン、甜橙(ネーブル)の比率を高める。このような品種構成の調整は、地域の特性を生かしながら、まず外国市場を優先的に考慮しなければならない。柑橘類:面積では全省の28.2%、生産量では46.1%を占める。その中で幼木園の比率は20%である。品種構成の調整方向は、面積はそのままで、早生と晩生品種を増やし、加工が出来る甜橙品種の比率を増やす。この根拠は、中国柑橘所の報告書に「我が国柑橘業の早生・中生・晩生品種の比率は2:5:6、寛皮柑橘と甜橙の比率は7:3を目標に調整する」と示されていることと、福建省の地理的な優勢を併せて考慮した。従って配分率は2:4:4と7:3を目標に調整する。①【門がまえに虫】南及び【門がまえに虫】東沿岸地域と【門がまえに虫】江下流域の沿岸低山丘陵地域の晩熟柑橘品種(岩渓谷晩生ポンカン、夏橙)の比率を上げる。②【門がまえに虫】西北地区の中・晩熟温州ミカンと【門がまえに虫】江下流域の沿岸の福橘の比率を下げる。速やかに、20%ある幼木に高接ぎ更新を行い、20%ある老木を改植する。③【門がまえに虫】江、九竜江北渓、汀江の中・上流域の低海抜地域にある早熟(極早生)温州ミカン(稲葉、市文、脇山)と、甜橙(無核雪柑、ネーブル)の比率を上げる。その他に、外来の消費習慣が普及するに伴い、南亜熱帯地域はグレープフルーツ(世界の主産地であるアメリカ・フロリダ州の年平均気温は21℃以上)や、レモンなども市場の動向を見ながら導入を検討する。亜熱帯果樹:竜眼、レイシ、バナナ、パイナップル等の中で、竜眼、レイシ、枇杷等の優勢な果樹に重点的に取り組む。特に晩熟の生食品種と、生食にも加工にもできる優秀な品種の比率を高め、早生・中生・晩生の比率を1:5:4とする。又、生食と加工(干し果、缶詰用)の比率を6:4にするように調整する。①竜眼は、栽培面積が9万3400ヘクタール(全国の23.3%)、生産量は12万トンであるが、幼木園の面積が3分の2で、主力品種は中熟系である(95%以上)。そのうち、福眼と水【さんずいに張】(缶詰に適する)が65%、鳥竜峰(生食と干し果用)15%、幼木園が増加する現状から見て、高接ぎ更新で晩熟の優良品種(松風本、立冬本)を重点的に増やし、又、生食にも干し果にも缶詰にも適する優良品種(水南1号)の比率を高める。②レイシの栽培面積は3万7000ヘクタール(全国の7.0%)、生産量は10万トンであるが、幼木園の面積が2分の1ある。現在の主力品種は鳥葉、蘭竹、陳紫、元紅で、いずれも中熟品種である。これも幼木園が増加する現状から見て、高接ぎ更新で晩熟の優良品種(東渕1号)を重点的に増やす。③枇杷の栽培面積は1万2900ヘクタール(全国の51.5%)で、生産量は4万3千トン(全国の43.0%)を占める。実生の樹が60%を占めるために、現状から考えて、速やかに優良品種への更新が必要である。特に大果系で、貯蔵運搬に優れた品種を重点に推進する。併せて早生(早錘6号)、中生(長虹3号)、晩生(解放錘)の比率にも注意する。落葉果樹:主なものはナシ、【木のしたに示】、モモ、スモモ、ウメ、柿などの果樹類である。全省の果樹面積の約27.4%を占め、生産量では17.4%を占める。特にナシ、【木のしたに示】、モモ等の品種を調整する必要がある。華南地方は華中地方に比べて落葉果樹の品種更新が遅れている。【門がまえに虫】西北地域はすでに積極的に取り組んではいるが、なお早生品種の比率を高め、生食と加工比率を合理化する必要がある。この他、福建省の市場を調整するために、利用可能な高海抜地域に適当な晩熟品種を導入する。①ナシの栽培面積は1万6500ヘクタール、生産量は6万トンである。幼木園が約2分の1を占める。主に早生品種(新世紀)10%、中生(黄花梨)70%が栽培されているが、特に早熟で品質に優れ、緑色の果皮で大果系(200g以上)、及び貯蔵性に優れた品種を推進し、速やかに早生・中生・晩生比率を4:5:1に調整する。②スモモと【木のしたに示】は、栽培面積が3万7千ヘクタールと3万3千ヘクタール、生産量が18.6万トンと10.6万トンである。幼木園が約5分の2を占める。主な栽培品種は芙蓉李、双華李など、加工用品種が90%を占める。【木のしたに示】の品種では、青い油【木のしたに示】が95%である。今後は優良な早生大果系で、貯蔵や運送に耐える生食李や生食【木のしたに示】の品種へと転換することが必要である。③モモは栽培面積が2万5200ヘクタール、生産量が13万トンである。幼木園は3分の1を占める。栽培品種の90%は水密桃で、早生・中生・晩生の比率は3:6:1である。今後中生比率を下げ、早生比率を高めて、早生・中生・晩生の比率を5:4:1に調整する。
2003年06月01日
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