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鎮東路を歩いてサンタナを駐車した場所に向かう。道路の北側は大規模な建設工事が行われている。おそらく新しい観光施設を造っているのだろう。ちょうど作業が終わったところだったらしく、道路わきの現場では同じ色の作業服を着た20人くらいの作業班が2列に並んで点呼を取っている。しかし、建設現場にはまだまだたくさんの人が動いていて、コンクリートミキサー車も出入りしている。「工事は夜中もやっているのかな?」とwhさんに訊いてみた。「工事は遅くまでやります。たぶん11時くらいでしょう」古城の中はあくまで古いまま保存され、古城の外はどんどん新しく変わっていく麗江の活気が感じられる。鎮東路は少し上り坂になっていて、道路わきでは籠に入れたミカンや、キノコを売っているおばさんたちがいる。荷物をいっぱい載せた自転車を押している男性がいる。屋台で茹でたトウモロコシを売っている。そして、何をするでもなくたむろしている人たちがいる。古城から左に向かって歩けば近代的な街並みがあり、右に歩けばそんなごく普通の中国の下町の風景がある。この落差もtetywestが中国に魅せられている理由の一つなのだ。おそらく後10年もすれば、こんな生活感の溢れる街角の風景は見られなくなってしまうのだろう。定員5人のサンタナに6人が乗り込んで10分で到着したのは、駐車場完備の郊外型レストラン「曲靖」だった。古城を出るときwhさんから、「羊の肉は大丈夫ですか?」と訊かれていたので、夕食は羊肉料理だとはわかっていた。もちろんtetywestも家内も羊肉はOKだ。店の入り口には「新鮮火鍋第一家」と書かれている。日本ならまず「ジンギスカン鍋」を思い浮かべるところだ。ちょっと話が逸れるが、この「ジンギスカン鍋」は中国と日本の食文化の違いがよくわかる料理の一つだろう。以前「北京旅行記(17)」にも書いたように、中国の「火鍋」のルーツは蒙古族の羊肉料理なのだ。遊牧の民である蒙古族は今でも羊を主食としている。そんな蒙古族が戦場で料理をするとき、兜を鍋代わりにして羊の肉を料理した。実際に食べたことはないのだが、羊を一匹丸ごと茹でてみんなで好きな部位の肉を手掴みで食べるという豪快な料理もあるのだそうだ。ところがこのジンギスカン鍋が黄海を越えて日本へ伝えられたときに、何故だか兜の使い方が反対になっている。日本では外側に肉を貼り付けて「焼肉」状態で料理するのが「ジンギスカン鍋」なのに、中国では兜の中に湯を入れて「しゃぶしゃぶ」状態で食べる。それに日本の調理器具がなぜ「鍋」と呼ばれるのかtetywestは不思議でならない。大辞林(国語辞典)には、「鍋」=【食物を煮るのに用いる金属製または陶器製の器。釜(かま)より浅く、取っ手・つるなどをつける。】とある。あれはどう見ても「ジンギスカン鉄板」のほうが正しいように思うのだが・・・こんなときはネット検索に限る。つまらないtetywestの疑問にもちゃんと答えてくれるサイトがあるからありがたい。(http://www4.ocn.ne.jp/~mutton/tanijin1.html) -------------------------------------ジンギスカン鍋とは!?ジンギスカン鍋の名付け親は、1912年に満州鉄道に入った駒井徳三というのが定説らしい。「成吉思汗料理物語り」によると、駒井はのちに満州国総務長官となるが、札幌で生まれた長女が「蒙古草原、羊群、義経のイメージ、それにリズム感、とくに父は名前をつけることが大好き」と語っている。草原の武将のイメージの連想から、日本の羊肉料理に『ジンギスカン』の名を冠したといわれる。東京の料理店「春秋園」が32年、庭で成吉思汗料理を出していたという記録があり、この名証は北海道に限らず、以前から広く使われていたらしい。しかし、ジンギスカン鍋という名前の響きは、北海道の乾いた風土にぴったり合った。この命名がなかったら、本道の爆発的なブームはなかったという人が多い。たれメーカーが「成吉思汗のたれ」を一般家庭向けに発売した。当初の販売が振るわず、その後、鍋の普及に取り組む。たれを購入したお肉屋さんに鍋を配り、それをお客さんに貸し出すことで消費の拡大をはかった。 -------------------------------------日本の「ジンギスカン鍋」の歴史はかなり新しかったようだ。それに、料理の普及に「鍋」が一役買っていたというのも面白い。
2003年10月31日
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tetywestは「北京旅行記(10)」にも書いたように、以前に「故宮」を訪れたことがある。故宮の面積は7.2ヘクタールなので、「木府」はその半分よりも狭い。しかし建物の配列は唐朝の様式をそっくり真似ていて、故宮とほとんど同じだった。ただ建物のいたるところに青い塗料が使われていて、そこに白い模様を描き込んでいるのがいかにも雲南らしい。特に軒を支える斗【木へんに共】(ときょう)が幾重にも重なった雲肘木(ひじき)なのが印象的だ。雲南省だから雲肘木という訳でもないのだろうが・・・その派手さは「日光東照宮」を彷彿とさせる。故宮になくて木府にある建物は三清殿だ。玉音楼までは同じ高さの敷地に建てられているのだが、三清殿は獅山の中腹にあるので階段を登って行かなくてはならない。「わ~~凄い!」三清殿に到着したとき、再びtetywestは思わず喚声を上げてしまった。それは三清殿の建物にではなく、そこからの眺めに対する喚声だった。四方街で「山の上から麗江古城を眺めてみたい」と思いながら果たせなかったtetywestの希望が偶然にも叶えられたのだ。眼下には麗江古城の瓦屋根がパノラマで広がっている。これをまさしく「甍(いらか)の波」と言うのだろう。tetywestはどこまでも続いている瓦葺の屋根を見たとき、麗江の「豊かさ」を、そして「優しさ」を連想してしまった。三清殿からの眺め(南東)三清殿からの眺め(東)三清殿からの眺め(北東)なぜ「豊かさ」なのかというと、日本で庶民の家に瓦が使われ始めたのはようやく江戸時代になってからなのだ。それもほとんどが桟瓦葺き(さんがわらぶき)で、丸伏せ瓦を使った本瓦葺き(ほんがわらぶき)はお寺くらいのものだ。tetywestの住んでいる仁尾町は本瓦葺きの民家が多く残っているのだが、これは江戸時代に土佐藩の茶の専売免許で裕福になった商人が多かったからだ。庶民の家まで瓦が葺けるのは、そこが繁栄していた証拠だろう。麗江は「茶馬古道」の要に位置している。チベットやネパールから帰ってきた旅人は、無事に麗江に到着したとき石畳の街のたたずまいにホッと安らぎを覚えたことだろう。今から旅立つ人たちは、ここ麗江で最後の中国の香りをしっかりと記憶に留めたに違いない。ここから先には都市らしい都市はなく、命がけの旅が待っているのだから。緑の山に囲まれた麗江古城の街並みを眺めながら遠い昔に思いを馳せていると、急に細かい雨が降り始めた。昼過ぎには太陽が顔を見せていたというのに、高山の天気は変わりやすい。tetywestたちは木府の中を入り口に向かって引き返す。近くでよく見ると建物の青い塗料が剥げかかっている箇所がある。夏の気温は低いとはいえ、ここは亜熱帯なのだ。山の緑が活き活きとしているのは結構湿度が高いのだろう。世界文化遺産を維持していくのはなかなか経費がかかるようだ。時間は5時半を過ぎていたので木府の中はほとんど誰もいなくなっていた。幸い雨はすぐに止んで、tetywestたちはもと来た「七一街」を「四方街」へ抜け「東大街」を通って麗江古城を後にした。
2003年10月30日
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tetywestたちはガイド嬢に案内してもらわなかったので、その時は「木府」の歴史など知る由もなかった。しかし興味があれば帰国してからでもインターネットで調べることが出来るのだから便利な世の中になったものだ。(http://hk.geocities.com/lniok/cn/tour/mufu.htm) -------------------------------------木府納西民族の首領である「木」氏は、「木元朝」が1253年に世襲の麗江土知府(知事)になって以来、元・明・清の三代・22世・470年の間、西南諸土司の中で「詩を知り書を好み礼儀を守る」と有名であった。「木府」は古城の西南の隅にあり、明代にはその繁栄の絶頂を極め、徐霞客(明代末の旅行家、シュショークー)は「木府」のことを「官室の麗、王者に擬る」と称えている。残念ながら大部分の建物は清末に兵火に焼かれてしまい、幸いに残っていた石造門も1966~1976年の「文化革命」によって破壊されてしまった。1996年の大地震の後、世界銀行から「木府」再建のための多大の援助を受けて、麗江市は3年の歳月と精心の設計施工で木府を現代に蘇らせた。木府の面積は46畝(約3ヘクタール)中軸線は369メートルの長さである。建物は西から東へと整然と配置され、「旭日を迎え、大気を得る」。木造門の上には「天雨流芳」の大書が掲げられている。これは納西語の「読書去」の諧音(当て字)で、納西族が知識の探求を崇拝する性質を表している。(※昨日の日記の写真です)石造門は全て石造りで、3層構造、これは国内石建築の精品である。(※これも昨日の日記の写真です)議事庁は端整で広く、気勢恢弘としている。これは土司が政治をした建物である。議事庁万巻楼は2千年の文化遺産を集めている。千巻の東巴経、百巻の大蔵経、六公土司詩集、その他名士の書画など、みんな希少で学術的宝である。万巻楼護法殿は后議事庁とも呼ばれ、これは土司が家事をした建物である。護法殿光碧楼とその後ろの花園門楼は昔「称甲【さんずいに真】西(この地方一番)」と称えられた建物である。玉音楼は接待と歌舞宴楽の場所である。玉音楼三清殿は木土司が道教を崇拝した精神的産物である。獅山の古い森深く、木土司の祭礼が行われる場所である。このように木府は納西族の多元文化の開放精神を十分に体現している。三清殿木府は一座輝煌の(とってもすばらしい)建築芸術の建物で、明代の中原(漢族)建築様式を帯びながら、同時に唐宋代の中原(漢族)建築のうち、素朴な風流の余韻を持っている。その西から東への配列や、府内を縦横に巡る水溝、活き活きと水が流れるような配置にも、納西族の伝統文化の精神を見ることが出来る。 -------------------------------------※以上、tetywest和訳。写真はtetywestが撮影したもの。
2003年10月29日
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水車のある「東大街」の橋の上は相変わらず観光客でいっぱいだったが、そこを通り過ぎて「新文街」の入り口でタクシーを降りる。whさんの同級生の案内で、路地をあっちに曲がりこっちに曲がりながら歩いて行く。新文街から狭い路地に入ったとき、餐庁の入り口に納西族の民族衣装を着たドア・ガールが立っていた。tetywestはゆっくりと観賞したいのにみんなはどんどん先へ歩いていく。仕方がないので写真に撮って後で見ることにしようと、歩きながらシャッターを押す。納西族の民族衣装を着たドア・ガール遅れないようにとみんなの後を追いかけていくと、さっき軽い食事をした大石橋の袂に出た。そこから中河沿いに下って七一街を通り、さらに七一街から南へ折れる。その路地も両側は土産物屋が並んでいて多くの観光客が歩いている。七一街より一段と道幅が狭く、通りを挟んで2階同士でおしゃべりが出来そうだ。屋根の軒の真ん中がゆがんで下がっていて、瓦には雑草が生えている。もっと時間があればこの通りもゆっくり散策したかったのだが、みんなはどんどん歩いてく。もう一つの路地やがて路地の前方に木造の門のような鳥居のような建物が現れる。門の上には「天雨流芳」の額が架かっている。きれいな水が流れている麗江では、そのまま素直に「天からの雨は芳しく流れる」と読める。しかし、「流芳」には「りっぱな名声を後世に伝える」という意味もあるのだ。ひょっとして門の反対側は違う文字が架かっているかも知れないと振り返ってみたが、こちらも「天雨流芳」だった。路地の終点にある木造の門門をくぐるとその先は広場になっている。右手に大きな白い石造りの門が建っている。どうやらここが目的の場所のようだ。その門があまりに大きいので、tetywestには奥に何があるかわからなかった。whさんが、「ここは、昔の政府です」と教えてくれる。白い門の奥にはさらに木造の門があり、正面に「木府」の額が架かっていた。「北京の『故宮』みたいなものだね」「そうです」「木府」前の広場と石造りの門時間は5時5分前だった。hxyさんが入場券を買って渡してくれる。門の入り口には青い上着に白いズボンの若い女性が大勢控えている。「木府」の中を案内してくれるガイドさんなのだが、有料だそうだ。「木府」のガイド嬢
2003年10月28日
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whさんの大学時代の同級生を携帯電話で呼び出しているとのことなので、橋の袂の歩道沿いにある花壇の縁に座ってしばらく休憩する。hxyさんは食事のとき食べ切れなかったヒマワリの種をまだ持っていて、花から種だけを取ってtetywestたちに渡してくれる。こういうことをするのはお行儀の悪い観光客だと思うのだが、歩道に座ってヒマワリの種を食べるのはなぜか楽しい。行き交う人たちが珍しそうにtetywestたちを眺めているのがわかる。歩道には10mおき位にゴミ入れのポリバケツが置かれているのでヒマワリの殻で街を汚す心配はない。と、突然若い女性から声をかけられた。そのときの状況から判断すると、「それってどんな味?美味しいの?」もしくは、「へ~、生のヒマワリの種って食べられるんだ」中国語なのでもちろんtetywestにはわからないのだが、その程度の意味だったのだろう。にっこり笑って手の中にあった種を彼女に差し出すと、「謝、謝」と嬉しそうに受け取って、グループに追いつくために走り去って行った。彼女たちも街角のどこかに座ってヒマワリの種を食べるのだろう。ひょっとしたら、将来「街角でヒマワリの種」が麗江の夏の風物詩になるかもしれない。しばらくするとwhさんの同級生がやって来た。「私たちは大学時代に、4年間隣の部屋同士でした」と紹介されたその男性は、肌の色が浅黒くとても背が高かった。彼は納西族で、麗江市の農業局に勤めている。whさんと再会するのは卒業以来11年ぶりなのだそうだ。背の高い女性も一緒に来ていたので、「彼の奥さん?」と訊くと、「いいえ違います、友人です。旅行社に勤めているので、宿を紹介してくれます」とのことだった。彼女の案内で、さっそく現代的な麗江市の方へ歩き出す。whさんは久しぶりの再会で、歩きながらも旧友との話が弾んでいる。歩道がきれいに整備された広い道路を10分ほど歩いて、入り口に大きな門がある通りへと道路を横切る。横断歩道はあるのだが、走っている車はそれほど多くなく信号は全くない。渡った側の道路も歩道がきれいに整備されていて、お洒落な店が並んでいる。オレンジ色のチョッキを着たおばさんたちが箒で道路掃除をしている。麗江は本当に綺麗な街だった。綺麗な麗江市街道路掃除のおばさんしばらく歩いて、通りを少し入ったところにある酒店(ホテル)に到着した。店の間口は3mくらいしかなく、左手にカウンター、右手にソファー、真ん中に低いテーブルが置いてあるのでとても狭く感じたのだが、そこを通り抜けて裏に出ると広い庭があり2階へ上がる階段があった。建物の1階はテナントとして他の店に貸し出していて、2階が全部ホテルの部屋になっている。部屋に入ると、「ここで少し休憩します」と言われてtetywestたちがお茶を飲んで休憩している間に、whさんは友人とどこかへ出かけて行った。30分ほど経って帰ってきたwhさんに、「さあ、出かけましょう」と言われるままにホテルを出る。しかしtetywest夫婦はどこへ行くのか見当もつかない。「どこへ行くの?」「友人がもう一度、麗江古城を案内してくれます。そこは5時半まで開いています」あれほど古城を堪能したはずなのに、tetywestたちはまだ何か大切なものを見逃していたらしい。時計を見ると4時30分を過ぎている。ホテルの前から2台のタクシーに分乗して再び麗江古城へと向かう。
2003年10月27日
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食事の後、「中河」沿いを散策する。水路のある風景はそれだけで絵になるのに、周りは800年の古い家並みが続いているのだ。いたるところにセンダンや柳の木陰があって直射日光を遮ってくれる。麗江古城はただ当てもなく歩いているだけでも魅力がいっぱい溢れている。家内はその上にショッピングの魅力も堪能していた。家内やhxyさんがショッピングをしている間tetywestは店の外で写真を撮って待っていたのだが、ある民芸品店でバッグの品定めをしていた家内がtetywestのところへやって来た。「このお店に気に入ったバッグがあるんだけど、ちょっと高いのよ」「いくら?」「68元だって」え~と・・・15×70=・・・・「それ、1000円ちょっとだよ」「そうなの?1万円かと思ってたわ。じゃ絶対買う」さらに値引きしてもらって、65元でお目当てのバッグをゲットした家内は上機嫌だった。「あんなに安いんだったら、もっといっぱい買えばよかった。あの店、センスのいいのばっかり置いてあったのよ」しかしtetywestは、そうやって安いからと買い漁るのは日本人観光客の悪い癖だと思っている。そんな光景を一緒に旅行しているwhさんたちが見たら、決していい気持ちはしないだろう。それに、旅の土産は本当に気に入ったものを選ぶところに「思い出」としての価値があるのだ。「中河」沿いの散策(大石橋の下流)「中河」沿いの散策(大石橋の上流)「中河」沿いを上流に歩いていくと「東大街」に出る。この通りは、いわば「麗江古城」のメインストリートで、道幅も広く建物も立派だった。両側にずらっと土産物屋が並んでいる。しかし、今まで細い路地の風景にすかり魅了されているtetywestにとっては整然としすぎていてあまり感激が湧かない。それに歩いている人も多すぎる。「東大街」を北に向かって歩いていくと、大きな2連水車がある橋の袂に出た。突然、麗江古城の夢幻の世界から現実の世界に引き戻された感じだった。tetywestたちにとってはここが麗江古城の「終点」だったのだが、おそらく普通の観光客にとってはここが麗江古城の「入り口」なのだろう。橋の上はものすごく大勢の観光客で溢れていて、水車を背景に次から次へと記念撮影をしている。中国の人はみんなが同じ場所から写真を撮りたがるようで、少し手前の水車を正面から見る場所はガラガラなのが面白い。水車のまわりはきれいに整備されていて、江沢民の筆による「世界文化遺産 麗江古城」の壁文字が見える。橋の向こうは、広いアスファルトの道路と近代的なビルが建ち並ぶ「現代の麗江市」だった。麗江古城入り口の水車麗江古城入り口の橋の上。左手に水車が見える場所めちゃ大胆な試みなのはわかっているが、麗江古城を敢えて3つの言葉で表現するならば、「歴史」、「街道」、「水路」だろう。帰国後、麗江の姉妹都市が「高山市」だとわかって、tetywestの「藪睨み」もあながち的外れではなかったかなと思っている。
2003年10月26日
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ヒマワリの種を食べているうちに、ピーマンの炒め物、豚肉とニラの炒め物、茹でた中国野菜、豆腐のスープと次から次へと料理が運ばれてくる。スープが運ばれてきたときに、もうこれで最後だろうと写真を撮ったのだが、実はこの後もう一品肉料理が運ばれてきたのだ。何の肉だったかはもう忘れてしまった。tetywestも家内も一通り味見した程度で満腹になってしまった。どの料理にもトウガラシがふんだんに使われていて辛い。ただ、豆腐のスープだけは薄い塩味だった。これほどの料理を食べ切れる筈がないと思ったのだが、後の3人の食欲は凄いものがある。楽しそうにおしゃべりしながら1時間でほとんどたいらげてしまった。これが「軽い食事」?満腹になったtetywestは、3人の会話に加わることも出来ないので水路の向こう側の通りを行き交う人々を眺めていた。この通りは中国の団体観光のルートになっているらしく、旗を持ったガイドさんの後をぞろぞろついていく人たちがよく通る。個人旅行をしている家族連れや、カップルも通る。しかしtetywestたちが座っているカフェへ入ってくる中国人はほとんどいない。その代わり白人は結構やって来る。どちらかと言うと外国人が好むスタイルのカフェなのだろう。何人かのウェイトレスはちゃんと英語で応対している。ふと気づくと、日本人らしい若い女性が入って来てtetywestのテーブルの2つ向こうに座った。、外見ではほとんど中国人と日本人は区別ができないのに何故「日本人らしい」と思ったかというと、料理の注文にやけに時間がかかっていたからなのだ。家内にそっと、「あの人はきっと日本人だよ」と目配せする。年齢から推測すると大学生のようだ。女性の独り旅なのだから当然中国語が話せるのだろうが、それでもウェイトレスは何度も訊き返している。やがて、ノートを取り出して筆談を始めた。ようやくウェイトレスが理解したらしい。大きく頷いて笑っている。「やけに苦労したけど、一体何を注文したんだと思う?」「さあ、何だろう?」「たぶんチャーハンかラーメンだよ」ありがたいことに、これでwhさんたちの話題に加われなくても、暇つぶしの話題が出来てしまった。興味深々でtetywest夫婦が注目していると、やがて運ばれてきたのは「炒飯」と紙コップに入った「コーラ」だった。コーラにはストローが付いていた。whさんに、中国の方言のことを訊いてみる。「麗江の方言はよくわかりません」「えっ?whさんでもわからないの?」「特に、老人たちが話しているのは全然わかりません」何事も経験とはいえ、あの女性が注文に苦労したのも無理はないかもしれない。それに比べてなんと恵まれた旅をしているのだろうとwhさんに感謝するtetywestだった。その後も時々様子を窺っていたのだが、その女性は食事が終わるとノートに何やら書き始めた。そしてtetywestたちが店を出る頃になっても、まだそれを続けていた。もしかしたら、どこかのHPに彼女の麗江旅行記があるかもしれない。
2003年10月25日
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tetywestたちが座っている水路の向こう岸を、旗を持ったガイドに案内されて団体さんが歩いていく。よほど暇なのか土産物屋の若い女店員が水路縁まで出てきて、カフェのウェイトレスと水路越しにおしゃべりをしている。石橋の上は記念撮影をする観光客で相変わらず賑わっている。大石橋をバックに記念撮影しようと、カフェの入り口の橋へやって来る若い女性の二人連れがいる。このように通りを行き交う人々を見ながら、麗江古城のど真ん中でまったりとした時間を過ごすのは最高の贅沢だった。民族衣装を着て竹の籠を背負ったおばあさんが、手にヒマワリを持って売り歩いている。やがて橋を渡ってtetywestのテーブルにやって来た。サンタナの運転手に買わないかと話しかける。「いくら?」「3元」「2元にしときなよ」「ええい、それじゃ2元でいいよ」おそらくそんなやりとりをして、結局ヒマワリを買うことになったようだ。しかし、おばあさんが手に持っていたヒマワリを渡そうとすると、サンタナの運転手は、「ダメダメ、もっと他のも見せてよ」と言ったのだろう。おばあさんは背負っていた籠の中のヒマワリを取り出している。運転手はその中で一番大きそうなのを選んで、おまけに隣にいたhxyさんが種にしっかり実が入っているかどうか試食してからお金を払っている。う~ん、tetywestなら2元と聞いただけで、「安い!」と思ってしまい、そこまでチェックはしないだろう。中国のショッピングはなかなか奥が深いと感心してしまう。実はtetywest夫婦はスイカやヒマワリの種は大好きなのだ。前回アモイへ行ったときの土産の中で一番好評だったのもヒマワリの種だった。なぜスイカよりヒマワリだったかと言うと、殻が割りやすく、中身が倍以上あるというのがその主な理由だった。ところがおかしなもので、tetywestの近所のスーパーにも殻を剥いだヒマワリの種は売っているのに、家内はそれを買おうとはしないのだ。最初から殻を剥いであったのでは、あの「苦労しながら手に入れる幸せ」が味わえないからだろう。2元(約30円)のヒマワリは、テーブルの上に置いてみるとびっくりするほど大きかった。放射状に規則正しく並んだ種は自然の創った芸術といえるほど美しい。一瞬食べるのがもったいないような気持ちにもなるが、これも初体験の誘惑には勝てず、すぐに食べ始める。大きなヒマワリtetywest夫婦はこのときまで、生のヒマワリの種が食べられることを知らなかった。おそらくあまり乾燥してしまわないうちだけの季節限定商品なのだろう。殻は柔らかくて爪で簡単に剥くことができる。「美味しい。これ日本へ買って帰ろうよ」と、家内はすっかり気に入ってしまったようだ。しかし、このままの姿で日本に持ち帰ると植物検疫で引っかかると思うし、第一食べられる部分は30%以下だろう。炒って袋に入っている方がずっとコンパクトだ。「生の種は現地でしか味わえないから、わざわざ中国へ旅行する値打ちがあるんだよ」と家内の提案を誤魔化すtetywestだった。
2003年10月24日
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ゆっくりと「七一街」を散策して、今度は「中河」沿いの路地を歩く。この路地は「食べ物横丁」とでも言うのだろうか・・・いろいろな食べ物を売っている店が多い。雲南珈琲の店もあって、飲んでみたい誘惑に駆られる。しかし白雲空港で苦い思いをしているtetywest夫婦は、自分達から「コーヒーを飲もう」とは言うまいと決めている。水路に架かった板橋を渡りながら歩いていくと、また「大石橋」の袂まで戻って来た。水路に面してオープンカフェがある。うまく木陰を利用して、ピンク色のテーブルクロスを掛けたテーブルが並んでいる、かなりお洒落な店だった。こんな店でゆったりとした時間を過ごせたら素敵だろうと思っていると、whさんが、「今から、軽い食事をします」と言う。tetywestはぜひともこのカフェにしたいと主張した。橋の袂の階段を下りると、そこはカフェの中だった。このカフェへ入るには、大石橋の少し川上にもう一つ橋が架かっている。我々が案内されたのは、その橋の袂の一番水路に近いテーブルだった。歩きまわって少し疲れたので、椅子に座るとホッとする。木陰を渡る涼風が心地よい。空を見上げると、いつの間にか太陽と青空になっている。朝方大理で雨の心配をしたのが嘘のようだ。大石橋の袂のカフェで休憩「何が食べたいですか?」時計を見るとまもなく午後2時だ。「あまりお腹がすいてないから、少しでいいよ」家内は、「さっき見たコンニャクが食べたいわ。あれならお腹にもたれないし・・・」納西族の民族衣装を着たウェイトレスが注文を取りに来る。whさんは、「○○(tetywestには何かわからない)と、○○と、○○と、○○と・・・」ええっ、さっき米線を食べたばっかりなのにそんなに食べるの?と驚くほどの品数を注文している。民族衣装を着たウェイトレスお茶を飲みながらしばらく待っていると、まず家内のリクエストのコンニャクが運ばれてきた。トウガラシとニラでトッピングしてある。いかにも辛そうだ。コンニャクそのものの味を確かめるために、tetywestも家内もトウガラシの影響の少ない端っこのコンニャクをつまみ上げる。一口食べた家内が、「味はちょっと日本のとは違うわ」確かに見た目はコンニャクそのものなのに、枝豆のような味がする。whさんが、「これは日本のコンニャクとは違います。豆で作ります」と教えてくれた。しかしそれ以上詳しいことは中日辞書にも載っていないようだ。帰国後インターネットで調べてみると、麗江名物の鶏豌豆(エンドウマメの一種)の粉で作った涼粉だった。固めのトコロテンと言ったほうが判り易いだろうか。ものすごく辛そうに見えたトッピングも、あっさりとしたコンニャクと一緒に食べるとそれほど辛くないから不思議だ。これも初体験!「雲南コンニャク」
2003年10月23日
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昨日の日記のtetywestの疑問点について、cjjさんから書き込みがありました。なるほど・・・記念日の日付を通りの名前にしているとは知りませんでした。------------------------------------- なぜ「五一」や「七一」なのかは不明だし、「四一街」や「八一街」はない。「五一」:五月一日はメーデー「七一」:七月一日は中国共産党成立記念日「八一街」のある町も大分ある、中国軍隊の「建軍節」 -------------------------------------「四方街」は「麗江古城」の真ん中にある広場で、ここから放射状に「五一街」や「七一街」が延びている。広場の周りは民芸品や漢方薬を売っている土産物店が並んでいる。「四方街」はたくさんの観光客でごったがえしていた。東洋人に混じって、西洋人の観光客も結構いる。木陰に座り込んでいる人、土産物屋を覗いて歩く人、記念撮影をする人、旗を持ったガイドさんの後をついていく人・・・団体旅行のメンバーは同じ色の野球帽を被っているのでよく目立つ。「四方街」の西端には家と家に挟まれるように3階建ての門がある。その後ろは獅子山が迫っていて傾斜地になっている。tetywestが最初に見た家並みはその獅子山の中腹まで続いていたのだ。門をくぐると細い路地が山の上方まで続いていた。その路地を少し登った所に「納西族民芸店」という土産物屋があったので覗いてみる。しかし置物やアクセサリーの店だったので、tetywestはあまり興味がない。家内もぐるりと見渡して早々に出てきた。さらに山の上に登るのかと思ったら、whさんたちは「四方街」の方へ引き返す。tetywestは山の上から「麗江古城」を眺めてみたかったので、ちょっぴり残念だった。しかし、「四方街」の南西角にももっと広い道が山に向かって続いていた。今度はその道を少し登ったところにある土産物屋に入った。ここもアクセサリーの店だったのでtetywestは外で待っていることにする。家内は店の入り口にあった藍の絞り染めの布を見つけて、ちょっと興味を示していた。whさんが、「何か欲しいものはありますか?」と家内に訊いている。「これはいくらなの?」whさんが民族衣装を着た店のおばさんと交渉してくれて、「20元です」店のおばさんは、何枚かの藍の絞り染めの布を広げてくれる。「テーブル掛けにするにはちょっと小さいわ。もう少し大きいのはないの?」生憎、その店にはもっと大きいのはなかった。別に土産をあわてることはないだろう、古城全体が土産物屋さんみたいなものなのだから・・・民族衣装を着た土産物店のおばさんtetywestは今度こそこの道を山に向かって登るのだろうと思っていた。ところが予想に反して四方街の南側を引き返して、「七一街」へと歩いていく。「七一街」はそれこそ「土産物屋通り」だった。人通りも「五一街」よりずっと多い。しばらく歩くと、藍の絞り染め専門の土産物屋さんがあった。家内は当然のようにそこに入って品物を物色し始める。tetywestは待っている間に、デジカメで「七一街」の雰囲気が表現できるアングルをいろいろ試していた。「七一街」
2003年10月22日
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tetywestがその風景に感激したのは「五一街」と呼ばれている通りで、古城の中心から東へ延びる街道だった。麗江古城には他に「七一街」、「四方街」、「東大街」、「光文街」、「新文街」、「新華街」というメインストリートがあるのだが、なぜ「五一」や「七一」なのかは不明だし、「四一街」や「八一街」はない。そして、古城の北の入り口で「東河」、「中河」、「西河」と呼ばれる3本に別れた水路が、さらに無数に枝分かれしながら古城の中を流れている。「五一街」に架かるアーチ型の石橋まで来たとき、whさんが、「これは有名な石の橋です。ここで記念撮影をしましょう」と教えてくれる。そう言われて見回すと、観光客はみんなこの橋の欄干に座って記念撮影をしている。ほんの10メートル程の長さの小さな橋なのだが、橋の袂の看板には「大石橋」と書かれている。おそらくかなり古い橋で、古城の中では一番大きな橋なのだろう。長崎の眼鏡橋と同じように真ん中に橋脚があり、半円を二つ並べた形をしている。水の流れに浸かる部分が船の形をしているのは福建省泉州で見た洛陽橋と同じだった。観光地を訪れるたびに思うのだが、中国人は記念撮影をするのが好きだ。昔、海外旅行で首からカメラをぶら下げているのは日本人と決まっていたのだが、今やそれは中国人なのだ。凄いのになると、首にはコンパクトカメラをぶら下げ、右手にはビデオカメラを持って、おまけに腰にデジカメを携帯しているというツワモノもいる。それも1人や2人ではなく、結構いっぱい見かける。実はtetywestの観光地での楽しみの一つは、中国の人たちが記念撮影をしているのを見ることだったりする。何故かと言うと、彼らは「あんたはスターか?」と突っ込みたくなるようなポーズでカメラに収まるのだ。whさんにシャッターを頼んでtetywestと家内のツーショットをあっさりと撮り終えた後、サンタナの運転手、hxyさん、whさんはお互いに記念撮影を始めた。1人で、ツーショットで、それもメンバーチェンジしながら・・・欄干に腰をかけて、次は欄干の前に立って「はいポーズ」・・・なかなか終わらない。tetywestは待っている間に、橋と水路と街並みを一枚の写真に収められる場所がないだろうかと探しに出かけた。橋の手前にちょうどそんな場所が見つかったので、かなり気合を入れて構図を決める。家並みが続いている街道を強調したかったので、ズーム機能を使って遠近感を少なくする。わざわざ今回の旅行のために、デジカメをオークションで落札したのだ。うん、我ながらいい写真が撮れた・・・・「大石橋と五一街」ついでに、石橋と反対方向も一枚カメラに収める。「五一街」思い通りに撮れたかどうか、写真をその場で確認できるのがデジカメの便利なところだ。しかし、デジカメには致命的な欠点があることを思い知らされることになろうとは、そのときtetywestは夢にも思っていなかった・・・・
2003年10月21日
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「わ~~凄い!」いくつかの路地を曲がって、少し広い通りに出たとたんに目に飛び込んできた光景に思わず喚声を上げてしまった。どういうわけか、めちゃ懐かしい光景なのだ。石畳の道の両側にベンガラ色の古い家並みが続いている。石畳の道は微妙にカーブしていて遠くの先を見通すことが出来ないが、正面にある小高い山の麓までずっと丸伏せ瓦の屋根が幾重にも重なっている。両側の家は土産物や駄菓子、日用雑貨などを売っている店が多い。どの店も何故か赤いちょうちんを軒先にぶら下げている。「麗江古城の五一街」家内が、「この雰囲気、どっかで見たことない?」実はtetywestも見た瞬間から同じことを考えていたのだ。「そうだ!これは『千と千尋』の街にそっくりだと思わない?」「うん、うん、それ、それ。宮崎さんもあの映画を作る前にここへ来たことがあるんだわ。絶対そうよ」それが事実かどうかはさておいて、麗江古城はこの写真に写っている風景だけでtetywest夫婦をすっかり魅了してしまったのだ。家並みの古さから、tetywestは日本の江戸時代よりは以前の街並みだろうと想像していた。帰国後調べてみると、何と鎌倉時代だったのだ。日本なら鎌倉時代の建造物は国宝に指定されるくらい価値がある。しかも、現在もそこで人々が生活しているのだから凄いことなのだ。世界文化遺産に登録されても当然だろう。麗江古城のことをコンパクトに説明しているサイトを見つけたので紹介しておこう。(http://www.unnantour.com/reikou/kojyou.htm)-------------------------------------世界文化遺産に登録された少数民族の町「大研鎮」とも呼ばれる麗江古城は、南宋時代(12~13世紀)につくられ、約800年の歴史がある。古城の西に獅子山があり、北に金虹山があるから、東南に向かっている。西北方向から寒い気流を避けて、東南の暖かい風を迎えることができる。それに、雪山氷河が融けて形成された玉河泉水は城に入ってから、一から三、三から九、九から更に無数の渓と分流し、300以上もの石の橋が架けられ、城全域を流れるから、古城の大通りも小さい巷も全部川か渓の辺にあり、とても清潔で、生気に富んでいる。生活用水もとても便利である。伝統的なナシ族の「三房一白壁」と言われる四合院は「四方街」を中心に東西南北に延びている。これプラス石畳の細い路地、木橋、石橋、及び各家の庭の中の草花、泳ぐ魚、鳴く鳥、琴碁書画、古城はとても美しく見え、郷愁を感じさせる。麗江古城の形成、特にその独特な構えが歴史上の「茶馬古道」と密接な関係があると言われている。麗江古城は中原文化の作った都市の構えに似ていない。例えば、権力機関を核心に、中軸線を形成してから、厳しい等級制度に基づいて、東西南北、上下左右、大小尊卑で順序よく並んで、左右対称の町並みが見えない。欧米の影響もちっともない。麗江古城は四方街広場を中心に、大小様々な道が放射状に延びている。中軸線もないし、対称の現象も存在していない。それに中国の古城によくあ る城壁もない。歴史上、麗江の支配者だった木土司の官邸は城の南の隅にあり、木を城壁で囲むと「困」の字になることを忌み嫌ったからと言われている。-------------------------------------ここで、「茶馬古道」について少し説明を付け加えておこう。(http://www.pekinshuho.com/2002-45/2002.45-china-3.htm)-------------------------------------忘れ去られた古代の道「茶馬古道」は長い時間をかけて2本の主要ルートが形成された。1本は、今の雲南省・シーサンバンナ、思茅などの茶産地を起点に西北に向かい、現在の同省・大理や麗江、迪慶を経てチベットのチャンド、リンチ、ラサに至った後、さらにラサから南下してそれぞれミャンマー、ネパール、インドなど南アジアや西アジアに到着するコース。いま1本は、今の四川省・雅安を出て、凉山を経由した後に麗江で前者のコースと合流し、さらに迪慶やチベットなどを経てネパール、インドに至るコースだ。いずれも漢族とチベット族が交流した古道であり、世界的に知られる中で地勢の最も高く険しい商品交流のルートである。完全に人と馬の脚力に依存し、生命を賭して敷かれたルートでもある。馬隊商の列はこの峻険な宿場道沿いに、絶えずチベットに茶や砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは馬や牛、羊、毛皮を持ち帰ったことから、専門家はこの道を「茶馬古道」と呼んだ。古道は中国と外国との文化交流のルートであり、中華文明とインド文明の間に架けられた橋梁でもある。-------------------------------------
2003年10月20日
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12時を回っているのでおそらく食事場所を探しているのだろうが、麗江古城の古い家並みが続く路地をあっちへ曲がり、こっちへ曲がりしているうちに、どうやら道に迷ったらしい。細い路地へ入っては、民家の門で行き止まりになって引き返してくるというのを2、3度繰り返して、ついにサンタナの運転手は地元の人に道を訊いていた。ようやく行き先がわかったらしく、どんどんと歩いていく。道の傍らには水路があり、きれいな水が流れている。水路の向こう側には民家が並んでいて、窓もドアもない部屋が道に向かって開放されている。ちょうど昼ごはん時なので、水路の脇でコンロを使って料理をしている。ジャガイモを揚げている家庭がある。緑色のコンニャクを焼いている家庭がある。小学生の子供たちが10人くらい集まっている家もある。たぶん給食の代わりに、他の家の子供の食事も世話する家があるのだろう。我々は、どんどん古城の中心街から遠ざかる方向に歩いていき、ほとんど街外れの食堂に入った。床はコンクリートで室内は薄暗く、あまり清潔そうな店ではなかったのだが、それより驚いたのはテーブルと椅子だった。四角い木のテーブルは高さが60cmくらいしかない。椅子の高さは25cmくらい。5人で1つのテーブルを囲んで座る。まるで幼稚園の教室だ。「ミーシェンを食べます」と言われても、tetywestにはどんな物やらさっぱり想像も出来ない。whさんがノートに、「米【糸へんに浅の右】」と書いてくれる。それでもtetywestにはイメージが湧いてこない。店の奥さんがところどころホーローの欠けたコップにお茶を入れてくれる。tetywestが座った場所からはちょうど調理場が見えた。店の主人がビニール袋からハルサメのような白いものを取り出して量を測っている。どうやらそれが「米線」のようだ。しばらく待っていると、隣に座った小学校低学年の子供とお母さんのところへ皿に大盛りのチャーハンが運ばれてきた。家内が、「あれを2人で食べきれるの?」と驚くほどのボリュームだった。tetywestも気になったので時々覗いていたのだが、全部きれいにたいらげてしまった。主にお母さんが・・・程なく「米線」が運ばれてくる。それを一目見て、「な~んだ、米ラーメンのことだったのか」しかし、tetywest夫婦は米線を食べるのは初めてなのだ。興味深々で食べ始める。麺は若干細めの「うどん」とよく似ている。しかし歯ざわりはラーメンに近い。スープはコクがあって美味しい。トンコツのような味だ。具は豚肉とネギだった。「米線」初体験!whさんたちはトウガラシの味噌のような調味料を入れていたが、tetywest夫婦は店のオリジナルな味のまま食べた。家内がwhさんに訊いている。「whさんたちは、これをよく食べるの?」「はい、そうです。毎日食べます」tetywestに向かって、「これじゃ、日本にいるとき讃岐うどんでは物足りなかった筈だわ。スープのコクが全然違うもの」「ねえwhさん、讃岐うどんはあまり美味しくなかったでしょう?」「はい。でもラーメンは美味しかったです」昆明から大理、そして麗江へのドライブで車窓からずっと水田を見てきたtetywestは、雲南省は当然「米」文化なのだろうと思っていた。しかし、まさかそれをラーメン化しているとは・・・・雲南省恐るべし・・・※帰国後、TVでベトナムの話題を放送していました。そこにも「米線」が登場したので、雲南省の「米」文化は隣国ベトナムと同じだったことがわかりました。今までのtetywestなら何気なく見過ごしてしまうTVの情報も、実際に経験するととてもよくわかります。だから旅行って面白いんですね。
2003年10月19日
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さて、tetywestたちは麗江にいる。結論から言ってしまえば、今回の旅行のメイン・ディッシュは「麗江」だったのだ。tetywest夫婦はもちろん、後の3人も麗江は初めてだった。そして翌日の午後麗江を去るときには、全員がすっかりその魅力に取り付かれてしまっていた。鎮東路の坂を上ったところの駐車場にサンタナを停めて、「超中国文化衝撃的厠」でトイレを済ませてから「麗江古城」の散策に出発する。tetywest夫婦は「麗江古城」が1997年に「世界文化遺産」に指定されていたことなど、その時は全く知らない。ただ3人が歩いていく後をきょろきょろと付いて行くだけだった。幅2m足らずの細い路地を下っていく。両側は丸伏せ瓦、白壁、土塀、石垣の古い建物が隙間なく連なっている。路地は石畳が敷き詰められていて、急に直角に曲がっている。曲がるたびに路地は少し表情を変えながら、それでもどこまでも続いている。建物と建物の間に1m足らずの水路がある。どの家も相当古いのだが、今もそこで生活している気配が感じられる。「麗江古城」の路地突然、ソロバンを手に持った小学生の一団が路地を上ってくるのに出会った。ちょうど12時を少し過ぎた時間だったので、昼食に帰宅しているのだ。「あのソロバン、上の玉が2個と下の玉が5個あるんだよ」と、そっと家内に教える。ソロバンを持って帰宅する小学生次から次へと小学生の帰宅グループに出う。少し広い路地に出ると3輪自転車が走っている。振り分け荷物を背中に載せた馬が繋がれている。古い街並みのなかでそんな光景に出会うと、まるで別の時代へタイムスリップしたような錯覚を覚える。曲がるたびに表情を変える路地今度は幅の広い水路に架かった橋を渡る。橋の袂では画板を持った学生が絵を描いている。その後ろでは暇そうなギャラリーがそれを覗き込んでいる。tetywestは以前、蘇州でも水路のある風景を見たことがあるのだが、どことなく雰囲気が似通っている。しかし、蘇州の水路の水は殆ど動いていなかったのに比べて、麗江の水路は勢いよく流れている。しかも、きらきら光る波間を通して川底の石が見えるほど透明できれいな水なのだ。夏場に雨の少ない香川県に住んでいるtetywestにとっては、こんなにきれいな水が豊富にあるのは羨ましくて仕方がない。きれいと言えば、中国の町に付き物の路上のゴミが見当たらないのも驚きだった。そう思って注意していると、自宅の前を掃除している人をそこかしこで見かける。麗江は名前のとおりの「綺麗な街」というイメージを創るために住民みんなが努力しているのだ。水路のある風景
2003年10月18日
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南詔風情島を出発して走ること2時間半、午前11時過ぎにサンタナは麗江へ到着した。大理から麗江までは国道214号線が走っている。これは、別名「【さんずいに真】蔵公路」と呼ばれ、昆明からチベットへと続いているのだ。ちなみに昆明から大理まで走った国道320号線は、「昆明・ビルマ(ミャンマー)公路」と呼ばれている。また昆明から南へ国道213号線を下ればそこはラオスだし、国道326号線を南下すればベトナムへと続いている。雲南省は3つの国と国境を接しているのだ。大理から麗江までの200kmの間は山と盆地とだけしかない風景が続いている。大きな街は一つもない。水田の広がる盆地から次の盆地へ行くには必ず峠を越えなくてはならない。tetywestは、「木曽路は山の中である・・・」で始まる島崎藤村の「夜明け前」を思い出していた。長野県は峠が多いことで知られているのだが、雲南省の場合はそのスケールがもっとでかい。峠越え・見事な棚田大理までの風景と違っていたのは、葉タバコの畑が増えたことだった。tetywestは、雲南省の葉タバコ生産量が中国で一番多いということは以前から知っていたのだが、昆明から大理までの道中では殆ど見かけなかったのだ。タバコの葉はようやく収穫が始まったところで、所々の畑で農民が葉っぱの摘み取り作業をしていた。普通は6月に収穫が行われる日本とは栽培ステージが違っている。日本では水田の裏作に葉タバコを栽培するのだが、雲南省では畑で葉タバコを栽培していた。中国のタバコは専売制ではないので、それぞれの地方、地方に銘柄が存在する。雲南省には多くの銘柄があり、その中でも「雲煙」は高級銘柄なのだそうだ。tetywestは日本で1カートンwhさんから「雲煙」をプレゼントされたのだが、如何せんニコチン・タールがキツイ。中国では「light」とか「super light」などというタバコは邪道なのだ。確かタール含量が12mgくらいだったので、これを1本吸うとtetywestが普段吸っているタバコの6本分に相当する。軽いタバコに馴染んだtetywestは中国タバコを不用意に深く吸い込んだりすると頭がクラクラしてしまう。幾つ目かの峠を越えて、眼下にひと際大きな盆地が広がったとき、whさんが、「あれが麗江です」と教えてくれた。山と山との距離が大理の3倍以上ありそうな盆地の真ん中に、白っぽくビルが密集しているのが見えた。この時点で、tetywest夫婦は「麗江」が今日の目的地だと言うことは知っていた。南詔風情島を出発した時whさんが、「今日はリージャンに行きます」「ふ~ん・・・?」tetywestが全然反応しなかったので、通じていないと思ったのだろう。tetywestのノートに、「大理 白族 【麗の鹿を省略】江 納西(なし)族」と書いてくれた。tetywestはようやく麗江は「リージャン」と発音するのだとわかったのだ。と同時に、麗江には納西(なし)族が多いのだと言うことも・・・麗江は正式には「麗江納西(ナシ)族自治県」と呼ばれ、面積は20600平方km(香川県の11倍)、人口は109万人(これはちょうど香川県と同じくらい)である。私たちが何気なく「麗江」と呼んでいる町は、正式には「大研鎮」といい、「麗江納西(ナシ)族自治県」の中心である。「大研鎮」の総人口はおよそ32万人と言うから、これも高松市とほぼ同じだ。麗江県は平均海抜が2400mで、山地が95%を占めている。なぜ「麗江」なのかというと、「美麗的金沙江」に因んでいるのだそうだ。「金沙江」は麗江に源を発し、雲南省と四川省の省境を成しながら北上し、重慶市の上流で他の川と合流して長江(揚子江)となる。では雲南省に源を発する河は全て長江へと流れているのかと言うとそうではない。ベトナムへもラオスへもミャンマーへも流れている。このことからいかに雲南省の標高が高いかがお解かりいただけるだろう。さすがにチベットへは流れていないのだが・・・
2003年10月17日
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湖面は相変わらず穏やかだった。島の方向から眺めて初めてわかったのだが、【さんずいに耳】海の西側は平野が広がっているのに東側はすぐ山が迫っている。従って農地と言えば狭いトウモロコシ畑くらいで水田は殆どない。たくさんの船が湖に浮かんでいるところから推測すると、ここに住む人々は半農半漁の生活をしているのだろう。先のとがった麦藁帽子を被り、船の艫(とも)に片膝を立てて長い釣竿を操っている漁師がシルエットのように湖面に浮き上がって見える。その姿はまるでムーミン谷のスナフキンのようで思わずシャッターを切ってしまう。【さんずいに耳】海のスナフキン陸に近いところでは若い夫婦が仕掛けてあった網を上げている。瀬戸内海でカニやタコを獲るのと同じ網なので、ひょっとしたらカニ漁をしているのかもしれない。夫が網を引き上げ、妻が中をチェックして網をたたんで積み重ねている。それほどたくさん獲れているようにも見えないが、それでも幸せそうな光景だ。今の日本で、夫婦一緒に同じ仕事が出来る家庭は一体何パーセントあるのだろう?【さんずいに耳】海の漁師夫婦今回の旅行中にtetywestはいろいろな田舎の生活を見た。稲の収穫はコンバインではなく、鎌を使って手で刈っている。稲刈りをするときは、家族総出で働いている。ひょっとしたら家族だけではなく親戚も手伝っているのかもしれない。一枚の水田に10人以上の人が働いているのだ。稲を刈る人、運ぶ人、人力の機械で脱穀する人、稲藁は水田に鋤き込むのではなく、乾燥させるために束ねている。まるで戦後間もない頃の日本の農村風景だ。トウモロコシの茎も家畜の餌にするために運んでいる。それも軽トラックではなく、手押し車や馬車だった。農民はその服装から判断しても、生活は決して豊かではないだろう。しかし、どの顔もどの顔も表情は明るい。若い兄ちゃんが、「俺はこれを引かせたら村一番なんだ」と言わんばかりの表情で荷車を引いている。中国の農村には「未来に対する夢」が溢れていた。そしてもう一つ中国の農村に溢れているものがある。それは人だ。村々の辻では必ず数人がたむろしている。何かの農作業をするときも決して一人ではない。将来、中国の発展が成功するか否かの鍵は、おそらく農村の過剰人口問題だろう。現在のように過剰に単位面積あたりに労働力を投入していては、労働生産性が上がらない。日本の農産物との価格競争で優位に立っている中国農産物なのだが、その優位性は安い労働力の存在に頼っているに過ぎない。USAの大規模農業とは根本的に違っているのだ。中国の農業は、かつての日本そのものなのだ。やがて中国が発展して労働賃金が上昇すれば、同時に農産物価格の優位は保てなくなってしまう。そのとき中国の農村は今の日本の農村と同じ問題に直面することになるのだろう。・・・ただ、それはもう一世代先の事なのだが・・・雲南省の農村に溢れる人を見ているうちに、tetywestにはふと、「ひょっとしたら日本や中国のような水田のある農村風景を保つためには、たくさんの人手が不可欠なのではないか?」という疑問が沸いてきた。たとえば水田の水管理にしても、上の田で使った水を下の田が再利用するシステムなのだ。また、水源地からの水路は毎年定期的なメンテナンスが必須なのだが、このような作業は一人では出来ない。日本の農村に人がいなくなり、そのうえ米の減反政策が30年以上続けられた結果、今や水田は虫食い状態になっている。どんなにハイテク産業が発展して日本の国が豊かになったとしても、tetywestには青々と風に靡く稲田が無くなった風景に「豊かさ」を感じることは出来ない。ところが、同じ農村を見ても家内は全く別の思考回路だった。「雲南省の農民と比べたら、我が家の収入が少ないと文句を言うのは間違っているのかもしれないね。あの人たちは日本へ旅行することなんか夢にも考えていないだろうし・・・」ううっ・・・果たしてこれはtetywestに対する慰めの言葉なのだろうか?
2003年10月16日
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雲南省形式のレンガ色の鳥居をくぐると、そこは島の西端だった。目の前に、南北に細長い形が耳に似ているところからそう呼ばれるようになった【さんずいに耳】海が広がっている。広い湖と広い空とを、霧に包まれたように霞んだ藍色の山々が隔てている。空には乳灰色の雲が低くたちこめ、それを映す湖の色も同じだった。向こう岸の連山は中腹から上が雲に隠れて、どこまでが山でどこからが雲なのか区別がつかない。見渡す限りここには「雲」と「湖」と「山」以外は何もない。その墨絵のような単色の風景の中で、赤や薄紫のブーゲンビリアがひと際鮮やかに咲き誇っている。tetywestはこのような雄大な風景に出会うと感動してしまうのだ。それぞれの場所でそれぞれに感動したのでとても難しいことなのだが、今回の旅行中に感じた雲南省のイメージを一番よく表している写真を一枚だけ選ぶとしたら、おそらく↓下の写真になるだろう。南詔風情島から【さんずいに耳】海を望む【さんずいに耳】海を眺めながら島を巡る小道を歩いていると、初めて他の観光客と出会った。湖面に下りる道があると教わってそちらへ進む。【さんずいに耳】海の湖面はとても穏やかだった。その湖面の岩の上に水浴びをしている2人の女性のオブジェがある。そのブロンズ像はかなり大きいのだが、この雄大な風景の中ではとても小さく見えてしまう。湖岸は人工的にぐり石をコンクリートで固めてあるので歩きやすい。漁女沐浴的形象そこを過ぎると、湖岸沿いにも小道が整備されていた。時計盤の8時の方向まで歩いてくると、古代白族の民族館があった。入り口に誰もいなかったので、「入場料は要らないのかな?」と余計な心配をしながらそのまま塀に囲まれた敷地内に入る。塀の中には庭と木造の二階建ての家があった。家は中央に2階へ上がる階段があり、左右対称の形をしている。階段の下にはタバコを吸うパイプや古い漁師の道具が展示されている。家を掃除していたおばさんが出てきたのだが、whさんがどのように交渉したのか結局無料で見学させてもらえることになった。二階に上がると、大きな部屋が1つ、両脇に小さな部屋が1つずつあった。床は板張りだった。庭に面した側には大きな窓があるが、反対側には小さな小窓しかなく、それも閉まっている。運転手が開けようと試みたのだが開かなかった。部屋の中は丸木で作ったベッドが全部で10個くらい並んでいる。ベッドにはちゃんと布団が敷いてあった。昔の白族は大家族で生活していたのだろう。庭に面した中央の窓の傍のベッドは、庭が見下ろせるように他のより高く、ひと際豪華だった。家内に、「ここはきっと家長夫婦のベッドだよ」と説明したのだが、両脇の小部屋にも4つずつのベッドがあることがわかった。結局2階にはベッド以外には何もないのだ。「これは子供たちが宿泊学習で使うための場所じゃないの?」と家内。tetywestもそっちの方が正解だろうと思う。階下に降りて庭を散策する。柱だけの建築中の二階建ての家がある。その木組みの方法は日本の家と全く同じだった。庭にはリンゴの木とミカンの木が植わっている。ミカンがあると、たとえそれが庭に植えられたものでも見に行ってしまうtetywestなのだが、果実がまだ濃緑色で固い晩生品種の温州ミカンだった。庭には昔の船も置いてある。島に渡るときに見た漁師の船と同じ形で、こちらは木造だった。今はグラスファイバー製に変わってはいるが、この地方の漁師は昔からの船の形を継承しているのだ。庭の奥には小さな池が造られていて、その周りにテーブルと椅子が置いてある。池の奥には「屋外厨房」との看板があるので行ってみると、キャンプ場にある炊事施設だった。やっぱりここは子供たちが昔の白族の生活を体験しながら宿泊学習する施設だったようだ。管理人のおばさんにお礼を言って、塀の外に出る。さらに湖岸沿いに岩の間の小道を進んでいくと、最初に見た「沙壹母群雕」の場所に戻って来た。ここが時計盤の6時の位置にあたる。これで「南詔風情島」を一周したわけだ。来たときには閑散としていたのに、広場には結構たくさんの観光客がいた。船着場から船に乗って島を離れたのは8時35分だった。
2003年10月15日
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帰国後、「本主」に関連してもう一つ興味深いことがわかった。tetywest好みの美人だったからかも知れないのだが、tetywestは「○○王の夫人(正確に思い出せない・・・汗)」が気になっていた。このまま名前も知らずに別れるのは名残り惜しい(笑)そこで、「本主」名簿(?)で女性の名前を調べてみると「柏浩夫人」だとわかった。彼女は鄧【貝炎(だん)】詔王の妻で、「美貌機智、就企図納嫁為妃、柏浩夫人忠貞不屈、将丈夫安葬之后、跳入【さんずいに耳】海」とある。やっぱり美人だったのだ。そして夫の葬式をした後、自分も入水自殺している。これを読んでtetywestは、もう少し詳しいことが知りたくなった。こんなときインターネットは実に便利がいい。ちゃんと詳しい日本語のサイトがあった。以下は、そのサイト(http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/guanguang/jieri/200203/200203.htm )から抜粋したものだ。-------------------------------------雲南省大理 白族・火把節炎が邪気を焼き払う旧暦6月25日、雲南省の大理白族自治州の白族は、火把節(たいまつ祭り)を祝う。火把節の由来は、字のごとく火と深い関わりがある。 唐の時代、大理には、六詔(六つの集団)が割拠していた。六詔の中で、もっとも強大だったのは、ピールオグが率いていたモンショ詔で、他の詔を取り込もうとたくらんでいた。ピールオグは、当地の伝統祭の名を借りた宴を張る計画を立て、各詔の長たちを松明楼(マツヤニをたっぷりと含んだ木材で作った建物)まで呼び寄せた ドンダンも呼び出された長の一人だった。ドンダンの美しく聡明な妻・バイジエは、ピールオグの野心を見抜き、夫に招待を断るよう勧めた。しかし、彼の暴威を恐れたドンダンは、招待を拒否できなかった。夫がまさに出発しようとしていたとき、バイジエは、鉄のブレスレットをプレゼントした。 五詔の長たちがモンショ詔に着くと、主人であるピールオグは松明楼で接待した。宴もたけなわの頃、ピールオグは理由をつけて席をはずし、彼の配下が計画どおりに松明楼に火を放った。五詔の長たちは、大火の中でひとり残らず命を落とし、彼らの家中の者が駆けつけたときには、誰一人判別できない状態だった。 バイジエは、手に傷ができ、鮮血が流れるのもいとわずに灰燼の中を手で探り、爪を赤く染めた。そしてついに、焼けて変形したブレスレットの残骸を見つけ、夫の亡骸を確認した。 ピールオグは、若く美しいバイジエを見初め、妃にしたいと考えた。しかしバイジエは死んでも屈するものか、と死んだ夫への貞節を誓い、湖に身を投げた。 バイジエの貞節を守る不屈の精神を記念しているのが火把節で、燃えさかる火把の前で、様々な活動を行う。 火把節の数日前、白族の若い女性と子供たちは、ホウセンカで爪を赤く染める。これは、バイジエが夫の亡骸を見つけるため、爪が血で真っ赤になるまで探した故事を記念している。同時に、白族の両親は、すでに嫁いだ娘、特に嫁いだばかりの娘を呼んで団らんする。しかし娘の夫がこの団らんに参加することは禁忌とされている。 火把節で、もっとも重要なのは、火把をつくる作業だ。子供は薪を束ねて小火把(小さいたいまつ)をつくり、大人は村の広場で大火把(巨大なたいまつで、火把節の「主役」になる)を束ね、最後に地面に立てる。各家の玄関先にも小火把を配置し、村の数カ所に大火把を立てる。 大火把は、長さ10メートル前後の松の木を軸にする。軸の外側に、一層ずつ松の薪をくくりつけ、通常12層、うるう年に限っては13層の火把を作る。一番外の層には、麦わらとマツヤニを多く含んだ木を用い、点火しやすいよう工夫している。また、大火把には、手の込んだ彩色上絵をほどこした縁起物の紙を貼り付けた木製の斗を飾る。その斗の四つ角には、「国泰民安」「人寿年豊」「風調雨順」などの豊作や平安を祈る言葉が書かれた色とりどりの小旗を突き刺す。そのほかにも、「火把梨」や「花紅」などの地方特産の果物や爆竹、花火などを、カラフルな縄で大火把の周りにくくりつける。火把が燃える時には、爆竹の音が響き、火花が輝き、その華やかさに目を奪われる。 若者や子供にとって、この日は一年で一番楽しく、日常を忘れられる祭日だ。白族の村々は熱気に包まれ、お祭りに陶酔する。叫び声や笑い声が響きわたり、火の海の中に溶けていく。この火は、白族に未来への光明や深い愛情をもたらし、守護神や祖先の平安を祈る力をもたらす。-------------------------------------tetywestはこれを読んだとき「どこかで聞いたような話だなあ」と思った。日本人にも「柏浩夫人」に同情して、それを崇拝するのと同じような感性がある。やはり、雲南省と日本はどこかで繋がっているようだ。それに、「火把節」が夏の盛りに行われるのは稲作文化と関係があるのではないかとも思う。ちょうど松明の灯りが「誘蛾灯」の役目をして、稲の大敵である「ウンカ」を駆除できるのかもしれない。
2003年10月14日
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島の真ん中は一番高くなっていて、おそらく標高は30mくらいだろう。そこは広場になっていて、船からも見えた白い「観音像」が聳えている。高さは17.56mだそうだ。whさんが、「ここで写真を撮りますか?」と訊いてくれたのだが、tetywestにはあまり興味がない。そのまま時計盤の12時の方向に進むと、あの白いホテルだった。tetywestはあまり行きたくなかったのだが、島の反対側へ行くにはどうしてもホテルの中を通らなければならない。入り口には金文字で「南詔行宮」と書かれた額が掛かっている。ロビーを素通りして、一箇所だけ開いている横手の通路からホテルの裏側に出る。そこは石畳の広場だった。湖に向かって段々と下がっていくように3つの広場があり、一番下の広場には雲南洋式の大きなレンガ色の鳥居が建っている。ホテルに近い側には人物の像が3体と、虎と鳳凰が並んでいるのだが、どうしても中央にある戦士の像に注意が惹きつけられる。それは鎧を着て左手に剣を提げ、右手を前方に突き出している若き戦士だった。「最高本主是一尊被称為『中央本主』的人物、名叫『段宗榜』、是大理国開国皇帝段思平先祖」と書かれている。要するにこれも「建国の祖」なのだろう。しかし、わざと荒削りに仕上げられていかにも現代風なのだ。体の後ろでマントが風に靡いているというのも「動」を強調しすぎてお世辞にも「古典的」とは言い難い。家内が、「まるで、アニメに出てくる宇宙戦士みたいね」と言う。確かにその表現は的を得ていて可笑しかった。広場の両側には南詔時代に実在した人々の像が10ほど並んでいて、それぞれに英語と中国語の説明があった。こちらは古典的な彫刻だった。tetywestはこっちの方がずっと落ち着いた気分になる。その中には女性もいて、「○○王の夫人」と書かれている。ううっ・・・・写真がない時代の人物はどのようにでも創れるのだから当然と言えば当然なのだが、かなりの美人だ。「南詔行宮」ホテルの裏にある広場そのときはこの程度の感想しか持たなかったホテル裏の広場だったのだが、帰国後調べているといろいろと興味深いことに出会うものだ。まず、tetywestが気に入らなかったホテルだが、これは唐文化とチベット文化が融合した大理独特の建築様式にのっとって造られたものだそうだ。つまり、「屋根は唐朝、壁と窓はチベット文化で、これは大理の民家の外観や色彩の基礎になっている」という。そういわれて写真を見直してみるとラサ宮に似ていなくもない。また、この湖の畔にはかつて南詔王が避暑に訪れる「行宮」が数ヶ所あったのだそうだ。なるほど、それでホテルに「南詔行宮」の看板があった訳が解ったのだが、この島にあったとはどこにも書かれていない。漢民族の文化とチベット文化に加えて、大理は「白族」の文化の影響を多く受けている。その中で特徴的なものが「本主」信仰だそうだ。「本主」とは白族の村を護る神で、「私たちの主人」という意味がある。一人一人に「本主」が存在する。村ごとに「本主」を奉る「本主廟」がある。「本主」は地方によって様々で、「大理には五百本主がある」と言われている。神はもちろんのこと、実在した人物や大きな石、犬や鳥や猪も「本主」となるらしい。その中で一番尊敬されている「本主」が、広場の中央にあった「宇宙戦士」だったのだ。この説明を読んだときtetywestは、「♪村の鎮守の神様の、今日はめでたいお祭り日。ドンドンヒャララ、ドンヒャララ、ドンドンヒャララ、ドンヒャララ、朝から聞こえる笛太鼓♪」の歌を思い浮かべてしまった。雲南省は日本文化のルーツだという説があるのだが、稲作文化といい、「本主信仰」といい、雲南省を訪れると何故か懐かしい故郷に帰ったような気分になるのはtetywestの思い過ごしなのだろうか?
2003年10月13日
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ですから、中国紀行はちょっとお休みして・・・・今日は朝から「ちょうさ」と呼ばれる太鼓台の組み立て、御神燈の組み立てをやりました。午後はちょうさを引っ張ってtetywestの地域を一周します。心配していた雨も降らずに、かえって暑いくらいの一日でした。その後、軽い打ち上げをしてたった今帰ってきたところです。祭りの本番は明日ですから・・・太鼓台のほうは、以前にHPに写真をアップしていますので、今年は御神燈をお見せします。tetywestの自治会の御神燈は「回り灯籠」です。図柄は大名行列ですが、内部も外観も全部手造りなんですよ♪御神燈以前は2日前の夕方に組み立てていたのですが、次第に人数が集まらなくなって今年から宵祭りの朝に組み立てることになりました。明日の夕方には片付けてしまいます。夜になると3色の光が交互に点滅してとてもきれいです。これが本当の「ワンナイト・ショー」ですね。御神燈
2003年10月12日
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改札口を入るとすぐに半裸の女性の彫刻がある。獲った魚を槍に突き刺して左手に持ち、水際に倒れた古木に座っている。右手は汗を拭おうとしているのだろうか、軽く額に当てている。衣服は腰巻だけで、首には勾玉のような飾りを巻いている。その女性を取り囲むように男性が彫られた10個の石柱が立っている。傍らの石にその説明が中国語と英語で書かれていた。家内は、「英語で書いてくれてるから、なんとなく解るわ」と言うのだが、tetywestは漢字の方がずっとわかり易かった。この彫刻は「沙壹母群雕」で、真ん中にいる女性が「沙壹」という南詔王国の生みの母なのだ。 「哀牢山のふもとに住む沙壹という名の婦人が、水中の沈木に触れて感性し、10人の男子を産んだ。沈木に化していた龍が水中から出てきた時、九人の子供は龍を恐れ逃げたが、ただ一人、末子は逃げずに龍の背に座り、龍から頭を舐められた。そのことで『九隆』と名づけられ、後に長じて南詔王となった。九隆の兄弟はそれぞれの部族の長となった」大理地方には、後漢書にも記録されている「西南夷列伝(哀牢九隆伝説)」がある。これは、九龍伝説とも言われ、龍に関する感性伝説なのだ。インターネットでは更に詳しい説明もある。後に長じて王となる九隆(ジュウロン)の名の由来は、哀牢人の言葉とあわせ、『後漢書』で紹介されている。「沈木が龍に変わって現れたとき、哀牢夷である沙壹という名の女性と、龍の子供である9人の子供は逃げたが、末子は龍の背に乗り、龍はその子の頭を舐めた。沙壹は鳥のような声で話し、「背中」を「ジュウ」と呼び、「座る」という動作を「ロン」と言うので、この末子の名前は「ジュウロン」と名づけられた。九隆は、父である龍に頭を舐められたので兄たちから賢いと信じられ、長じた後、王になった。附近に10人の娘をもつ夫婦がおり、この娘たちを九隆兄弟が娶り、これらの子孫がそれぞれの邑落の小王となった。」つまり、「沙壹母群雕」は南詔国の創世神話なのだ。しかし、その彫刻の母はいかにも現代的で艶めかしい。まるでロダンの「考える人」の南詔バージョンだ。「南詔風情島」には島を巡る小道が整備されている。我々は時計と反対廻りに進み始めた。小道の両側は名前のわからない木々が密生している。時計盤の4時から3時の地点にはロッジが5~6棟建っていた。そこを通り過ぎて、島の中心の方へ行こうとしたとき道端にバナナの木があった。しかも美味しそうな実がいっぱい成っている。「ちょっと待ってよ・・・こんなに涼しいのにバナナ?」あわてて写真を撮る。曇っていたせいか、半そでシャツの上にジャケットを羽織ってちょうどいいくらいの温度なのだ。真夏でもクーラーが要らない大理でバナナが成っているのを見るとは想像もしていなかった。whさんにこの地方の標高や平均気温を訊いたのだが、よくわからないそうだ。ただし、さすがに経済栽培するには温度が不足しているようで、よく見ると果実が着果しているのは4段だけだった。大理でバナナ?帰国後調べてみると、大理の年間平均気温は15℃。最も暑い7月の平均気温は19℃、最も寒い1月でも平均気温は9℃ある。ちなみに「日本の地中海」と呼ばれる香川県高松気象台の年間平均気温は16℃と大理とそれほど変わらない。しかし、7月の平均気温は26.6℃、1月の平均気温は5.4℃なのだ。大理は夏は涼しく冬は暖かく、まるで地上の楽園みたいな気候なのだ。これは、日本よりずっと南にありながら標高は【さんずいに耳】海の湖面で1972mという高地にあるためだが、それでもバナナが出来るのには、ちょっと温度が足りない。おそらくこの島だけは湖が湯たんぽの役目をして、冬の最低気温が零下に下がることがないのだろう。
2003年10月11日
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船は島と陸の間を進んでいく。岸壁から見たときには白いホテルと観音像以外何もなかったのに、島に近づくといろいろな建物が建っていた。「加快旅游産業発展,提高人民生活質量!」と書かれた赤い横断幕が掛かっている。日本語に訳すと「観光産業でみんなの生活を向上させよう!」と言うことなのだ。地方自治体の考えることは中国も日本も同じらしい。やれやれ・・・・それにしても島蔭の湖面は鏡のように静かだ。漁師の夫婦が仕掛けていた網を上げている。乗っている船が、まるで丸太舟のような形をしているのが面白い。いったい何を獲っているのだろう?【さんずいに耳】海に浮かぶ島と鏡のような湖面tetywestの予想に反して、我々の乗った船はどんどん島の桟橋に近づいていき、舳先から桟橋に着岸した。たった5分の船旅だった。tetywestはもう少し乗っていたかったのだが、こうなったら降りるより仕方がない。桟橋にはスーツケースやリュックを持った白人の団体が船を待っていた。陸から島に渡るのはtetywestたちが一番乗りだろうから、この団体は島のホテルに泊まっていたのだろう。桟橋の階段を上がると、そこは遊園地の入り口のような改札口だった。傍らに入場券売り場がある。売り場の反対側には金文字で「南詔風情島」と彫られた大きな大理石の原石がある。昨夜、ヘッドライトに照らされて読んだ看板はこの島のことだったのか・・・hxyさんがみんなの入場券を買ってくれる間、大理石の前で再会を記念してwhさんと家内のツーショット、tetywestとのツーショットを撮る。島の入り口でwhさんとの記念撮影大理石の原石はまるで牛のホルスタインのような模様をしていた。「大理石」の名前の由来は、ここ「大理で採れる石」と言う意味なのだが、もちろんtetywestはこれほど大きな大理石を見たのは初めてだった。では、なぜ「大理」なのだろう?これは帰国後に調べたのだが、7世紀に雲南の部族を統一して出来た「南詔国」は、738年に本拠地を大理に移した。その11代目の王の時の国号が「大礼国」だったのだそうだ。「礼」は「理」と同じ音だったので、「大治大理、富国興邦」という意味を込めて「大理」とした。その後、西暦937年に段思平という人が「大理国」を打ち建てて以来、ずっと国号とされている。現代でこそ雲南省の省都は昆明だが、1253年(元の時代)に、フビライ汗の率いる12万のモンゴル軍が雲南に入り大理を攻め滅ぼすまでの500年以上の間、大理は雲南の中心だったのだ。「南詔風情島」とは、日本ならさしづめ「飛鳥の風情を味わえる島」ということなのだろう。
2003年10月10日
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湖の畔まで歩いていくと、昨夜コンクリートの岸壁だと思ったところは船着場だった。一緒に付いてきてくれた宿の主人が、一隻の船に乗り込んで船頭さんを起こしてくれる。船頭さんは船で生活しているのだ。しばらくすると船から姿を現した船頭さんが、我々を別の船に案内してくれる。我々5人が乗り込むと、船頭さんは船尾に剥き出しで備え付けられているエンジンを始動させ始める。このエンジンは、ヤンマーの7馬力農業用ジーゼルエンジンにそっくりだった。左手でデコンプ・レバーを押さえ、右手でクランクのハンドルを3~4回廻す。弾みがついたところでデコンプを戻すと、パン、パン、パン・・・・とエンジンが始動し始めた。エンジンとスクリューの間にはギアがあるのだろう、最初船はバックして岸壁を離れ、次に前進して目の前に浮かんでいる小島へと向かい始めた。船頭さんはジーゼルエンジンの横に座っている。速度調節はエンジンのスロットルの開閉で行うのだし、エンジン自体を廻して進行方向を変えるからなのだ。島は緑の樹木で覆われている。そして、その木々より高く聳えているのは昨夜写真で見た真っ白な建物だった。島の中央には、これも真っ白な観音像が聳えている。それ以外に目立ったものは見えなかった。【さんずいに耳】海に浮かぶ島何度も書いているように、今回の旅行は「ミステリーツアー」なのだ。この先どこへ行くのかtetywestは知らない。船から島を眺めながらtetywestが予想したのは、「あの白い建物はたぶんホテルだろう。観音像もホテルのオーナーが造らせたものだろう。どちらもまだ出来て3年そこそこしか経っていない。・・・ということは島には見るほどのものは何もないだろう」ということだった。「従って、我々は見るべきものがない島へはおそらく上陸しないだろう。船はぐるっと島を回って戻ってくるだろう」と思っていた。実はtetywestは、喩えそれがどれほど大きくて立派でも、観光地にある新しい建物にはあまり興味がない。・・・と言うより、それが美しい自然を押しのけるように存在している場合は嫌悪感を覚えることさえある。目の前に見える白いホテルと観音像はまさしくそういう存在だった。目前の島から話題が逸れるのだが、「観光」を地方振興の柱にしようと目論んでいる自治体は日本にも多くある。特に次第に過疎化が進む田舎では、「オラの町を活性化させるには都会から観光客を呼ばねばなるめえ」と考える。そして何故か温泉を掘る。tetywestの住んでいる香川県は日本で一番小さな面積の県なのだが、今や10を超える温泉があるのだ。これだけ多くの温泉があれば、過当競争になって客の取り合いが起こるのは当たり前だろう。「讃岐うどん」がフィーバーしているとは言え、香川県に来る観光客の数はそれほど増えてはいないのだ。おまけに、隣の愛媛県には日本最古の温泉といわれる「道後温泉」がある。高速道路でたった2時間の距離なのだから、普通の人なら香川県で「讃岐うどん」を食べて「道後温泉」で泊まるコースを選ぶだろう。そうすると、やがて香川県にある温泉はみんな赤字経営に陥ってしまうことになるのだ。tetywestは、「さあ、これもありますよ、あれもありますよ」と与えられなければ満足できない日本人の「観光」はまだまだ「発展途上」だと思っている。京都や奈良のように、町中に文化遺産が溢れているような恵まれた町はともかく、何もないからと言って「温泉」を掘ろうなどと考える必要はないのだ。何も造らなくても田舎には田舎の素晴らしさがある。何も造らなければ大勢の観光客に訪れてもらう必要もない。その素晴らしさを味わいたい人にだけ満足してもらえれば、それが一番いいことだと思う。何もない田舎が何もないことを誇れる時代が来たとき、本当の「地方の時代」が来るのだろう。ただ、tetywestが生きている間には無理かもしれないのだが・・・(汗)tetywestが島に聳える白い建物に嫌悪感を覚えた背景説明が少々くどくなってしまったようだ。日本の「観光」でさえこんな状況なのに、中国の観光開発についてとやかく言える立場ではないのだが、tetywestは中国にも出来る限り美しい自然を大切に残して欲しいと願っている。
2003年10月09日
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9月5日(金)朝6時に目覚めると、やはり外は薄暗かった。しかし心配していた雨は降っていない。6時半になると、突然どこからともなくかなり大きなボリュームでロック音楽が聞こえてくる。それも英語の歌詞だ。すぐに終わるのかと思ったらいつまでたっても終わらない。そのうちに中国独特の、ふわふわした旋律の民俗音楽に変わった。窓を開けて見回してみると、丘の上に屋外スピーカーが設置されていて、音楽はそこから集落全体に向かって放送されていた。tetywestにとって、これはあまりびっくりすることではなかった。実はtetywestの地域にも全く同じ放送システムがある。それは「農事放送」と呼ばれていて、昭和35年頃に作られたのだが、今も現役で活躍しているシステムなのだ。tetywestの地域ではJA出張所に放送本部があり、自治会の集会の案内や、葬式のお知らせなどを放送している。屋外で農作業をしていても聞こえるのでとても便利なのだ。このシステムが出来た当初は、大相撲のラジオ中継や、美空ひばり、橋幸夫などの歌も放送していたことがある。tetywestが小学生の頃、夏休みのラジオ体操といえば集会所の前に集まって農事放送から流れてくる音楽に合わせてやるものだと思っていた。世の中が変化して、いわゆる「個人の権利」がやかましく言われだし、「聞きたくない人もいるのだから」と言う理由でいつの間にか大相撲中継もラジオ体操も放送されなくなってしまった。今振り返ってみるとあの頃の経済的に貧しかった農村は、それとは逆に人情が豊かだったのだと懐かしく思えるのはtetywestが歳をとったからだろう。中国の湖畔の村で「農事放送」に出会ったとき、tetywestにはそこで暮らす人たちの豊かな人情を一緒に思い浮かべていた。15分ほど音楽が流れた後放送はピタリと止み、後は静かな時間だけが流れて行く。ホテルの部屋の窓からは湖が見えている。空はどんよりとした雲で覆われ、向こう岸の連山の山頂も雲の中に姿を隠している。もし晴れていれば、連山は昇ってくる太陽に照らされて刻々と表情を変化させることだろう。その雄大な自然の芸術を見れないのは残念だったが、雨が降っていないのだから贅沢は言えない。窓の直ぐ下の道を一匹の白い犬が歩いている。歩き方がどことなく可笑しい。鼻を地面すれすれにくっつけたまま歩いている。まるで掃除機が歩いているようだ。「ちょっと、こっちへ来て見てごらん」と家内を呼ぶと、その格好は家内にも大受けだった。「よっぽどお腹が減ってるのかな?」その犬は窓の下を右から左へと通り過ぎ、しばらくすると行き止まりになった道を引き返して来てまた右手の方へ去って行ったのだが、その間ずっと地面を掃除する格好で歩いていた。7時にスーツケースを階下へ運びおろしたのだが、後の3人は誰もいなかった。昨夜食事をした部屋はシャッターが開けられて、直ぐに道路に出られるようになっている。道路から大きな泣き声が聞こえて来る。1歳くらいの男の子が青い民族衣装を着たおばあさんに抱かれて大声で泣いている。おばあさんと目が合うと照れたようににっこりと笑う。こちらも精一杯の笑顔をお返しする。その後ろから例の犬がやっぱり同じ格好で一緒に歩いていた。船家客桟みんなが揃ったところで、昨日と同じテーブルで朝食だった。運転手の友人夫婦とその運転手の姿が見えない。ホテルに泊まったのは我々5人だけなのだと、その時ようやくわかった。昨夜whさんから、「牛乳と卵は大丈夫ですか?」と訊かれたのでメニューに卵と牛乳が出るのは予想していたのだが、tetywestはUSAの朝食のようなものかなと思っていたのだ。しかし出された料理を見てびっくりした。2個のゆで卵が温かい牛乳の中に沈んでいる。朝食は牛乳と卵tetywest夫婦は、もちろんゆで卵も牛乳も食べる。しかし、このようなコーディネートは考えたこともなかったのだ。牛乳は砂糖が入っていて甘かった。そして、朝食はこれだけだった。「whさんの故郷でも、これを食べるの?」「いいえ、食べません」どうやら、大理の郷土料理のようだ。whさんにTVが映らなかったと報告すると、「私の部屋も映りませんでした」とのことだった。おそらく買ったばかりで、まだケーブルに接続していなかったのだろう。「さっき音楽を放送してたでしょう、あれは誰がやってるの?」「小学校です」その答えを聞いて丘の方をに目をやると、丘の上には校舎があり登校している子供たちの姿が見えた。
2003年10月08日
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昨日の日記について、「果樹部会中国へ行く」ですっかりお世話になったcjjさんから久しぶりに書き込みがありました。cjjさんの日本語はtetywestも舌を巻くほど凄いのですが、現在はtetywestたちが2月に訪れた「アモイ大学」で、「日本留学」のために日本語を勉強しています。tetywestはできるだけ誤解のないように中国のことを書きたいと思っているのですが、中国語が全く話せない悲しさ・・・やはり認識不足は否めません。そんなときにcjjさんの書き込みはとても心強いのです。cjjさん、ありがとうね♪--------------------------------------10.5度と言うのはアルコールの度数のこと?これはアルコールの度数ではありません。中国のビールの瓶に、大きく書いてあるのは「麦芽度」で、アルコールの度数は中国語で「酒精度」で、小さな漢字で書いてある。これについて、よく分からない中国人もだいぶいます。時々、ビールを飲む時、私も中国人に説明します。「麦芽度」10.5度なら、アルコールの度数は3.5度くらい。やはり日本ビールのほうがきついです。私はきついほうが好きです。--------------------------------------夕食が済むと、「ちょっと湖に行きましょう」と店の外に出た。2分も歩かないうちに湖の畔に着いてしまった。湖の手前は広場になっていて、3階建ての宿泊施設が3棟並んでいた。大学生か何かのグループが泊まっているのだろうか、若い女性の賑やかに話す声が聞こえる。コンクリートの岸壁に立つと、真っ暗な湖面にひと際黒く島影が浮かんでいる。水面は穏やかで波の音は聞こえない。島の中にぼんやりとした明りが4つ、5つ灯っているだけで、空には星も見えない。「明日の朝、もう一度ここに来て観光します」とのことだったので、すぐにサンタナまで引き返した。「さて夕食も済んだことだし、後はホテルへ行くだけだな」と考えていると、運転手がサンタナのトランクを開けている。whさんが、「ここで泊まります」と教えてくれるまでtetywestは夕食を食べた店がホテルもやっているとは全く気づかなかった。「船家客桟」の2階は6室のホテルだった。まずwhさんが、tetywestたちの部屋に不具合がないかどうかをチェックしてくれて、明日の予定を説明してくれる。「少し早いですが、明日は7時に朝食を食べます。牛乳と卵は大丈夫ですか?」「大丈夫ですよ」「それでは、ゆっくりお休みなさい」時間は10時10分前だった。ミステリーツアー初日の行程はどうやらこれで終了したようだ。振り返ってみると大移動した1日だった。今朝は広東省の広州にいたのに今は雲南省の大理にいるのがなんとも奇妙な気がする。昆明に到着してからだけでも、ゆうに600kmは走っている。さすがに中国は広い。ホテルの部屋はゆったりと広く、床は大理石張りだった。初日の広州のホテルが散々だったので、家内は、「中国で一番進んでいる広州のホテルがこれなのに、もっと遅れている雲南省は大丈夫なの?」と心配していたのだが、部屋に入って一通り点検した結果、「広州よりずっと清潔できれいだわ」とのことだったので、ホッと胸をなでおろすtetywestだった。湖畔の宿ただし、このホテルにはバスタブがなくシャワーだけだった。部屋には真新しい大型TVがど~んと置いてある。・・・と言うよりそれ以外に家具はなかったのだ。家内がシャワーを使っている間にTVを観ようとスイッチを入れる。しかし何も映らない。操作ミスかもしれないと、何度かトライしたが駄目だった。シャワーを交代するときに家内から、「排水が悪くて水が溜まるよ」と伝言があった。バスルームは広くて、洋式水洗トイレと固定式のシャワーが並んでいる。バルブをひねると湯はちゃんと出る。しかし、その湯が足元に溜まったまま流れていかないのだ。シャワーを使い終わる頃には3cm位溜まっていた。仕方がないので足で排水溝まで水を誘導する作業をしばらくやらなければならなかった。タオルを使おうかとも思ったのだが、生憎一人一枚宛しか備え付けられていなかったのだ。シャワーから出てくると、家内がTVに向かってリモコンを操作している。何度やっても駄目なものは駄目なのに・・・と画面を覗き込むと、何と「テトリス」をやっていた。さすが最新鋭TV、番組は映らないのにゲーム機能は備わっていた。しばらく2人で遊んでいたのだが、ふと「何で中国まで来てテトリスをやらなきゃいけないの」と考えるとアホらしくなって、明日からに備えて早く寝ようということになった。まだまだミステリーツアーは始まったばかりなのだ。
2003年10月07日
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店には他の客はいなかった。我々が店に入ってから、真っ暗だった隣の部屋に灯りをつけて丸いテーブルに案内される。我々5人と、運転手の友人夫婦、それにその運転手の8人だった。あらかじめ予約してあったらしく料理はすぐに運ばれてきた。メニューは、細いゴボウのような野菜と挽き肉、豚肉、トウモロコシとグリーンピース、ソラマメとピーマン、ニラのような野菜とキノコ、豆腐のスープ、魚のスープ、それにご飯だった。夕食のメニューゴボウのような野菜は、独特のにおいがあって歯ごたえもしっかりしている。whさんにその野菜の名前を訊いたのだが、「中日辞典」には載っていなかった。ただ、「薬になるものです」と言う説明だった。家内は帰国後、旅行中に食べた料理について、「どの料理も美味しかったけど、あのゴボウだけはダメだった」そうだ。tetywestも家内よりはたくさん食べたのだが、確かに今まで食べたことのない味だった。今回の旅行中にわかったことなのだが、雲南省の主食は予想通り米だ。しかし、日本人のようにご飯だけをメインに食べるのではない。あくまで他の料理と同じランクなのだ。野菜の味付けは基本的にトウガラシを使っている。どの料理もピリッと辛いので、ご飯がとても甘く感じる。だから、野菜の辛さを和らげるために時々ご飯を食べるのが正しい食べ方のようだ。肉料理はどちらかと言うと甘い。スープは薄い塩味が多い。ご飯とスープと肉と野菜の味の付け方が違っているので、いろいろな味覚が楽しめるというわけだ。また、日本で食べる中華料理より本場中国の料理の方が、野菜をふんだんに使っているということも今回の旅行での新しい発見だった。しかも日本では絶対に思いつかないような組み合わせで色々な野菜を料理しているのだ。これは、できるだけ雲南省の人々が普段に食べている食事をtetywest夫婦が味わえるようにとの、whさんの配慮だったに違いない。ただ、どういうわけかタマネギを使った料理が一度も出てこなかったのは不思議だった。家内も、今度の旅行中には3度3度しっかりと食事を摂ったのに体重が全然増えていなかったことに感心していた。「いっぱい中国料理のレシピを仕入れたから、帰ったら挑戦してみよう」と言っていたのは覚えているのだが・・・以前とあまり変わり映えのしない料理を食べているtetywestなのだ(汗)。サンタナの運転手とその友人は「大理【口へんに卑】酒」という地ビールを飲んでいる。ラベルには大きく「10.5度」と書いてある。家内が、「10.5度と言うのはアルコールの度数のこと?」と訊くので、調べてみたらやっぱりそうだった。tetywestもこんなに度数の高いビールを見たのは初めてだ。これでは日本酒とあまり変わらない。しかも旅行中に食卓に登場したビールはどれも「大理ビール」だった。ただ、tetywestは飲んでいないので、どんな味なのかは不明のままだ。友人の運転手が、大きな筒を口に当てて、ブクブクと音を立てている。筒を口から離すと、煙がもうもうと立ち込める。tetywestはおそらくこれが「水パイプ」だろうと思ったのだが、これも見るのは初めてだった。「これでタバコを吸うと、美味しいし健康にも良い」のだそうだ。しかし喩えそうだったにせよ、この大きな道具を常に持ち運ばなくてはならないと想像しただけで、日本では絶対に使う気にはならない。水パイプ昼と同じように、tetywestと家内は早々に満腹になってしまった。部屋には向かい合わせに大きな写真が掛けられている。どちらも湖と島と遠くの連山が写っている、とてもきれいな風景写真だった。おそらくこの付近から撮影したものだろう。しかし「間違い探し」ではないのだが、よく見ると2枚の写真は少し違っている。一方には島に白い建物が写っているのに、もう一方にはない。反対側の壁まで歩いて行って確かめていると、whさんが、「そちらの写真は、昔のものです」と教えてくれた。なるほど・・・そう言われてみれば一方には2001年8月、もう一つには1997年8月と日付が書いてある。湖の岸辺の建物も新しく増えている。こうして見比べてみると、たった4年の間にこの地域が観光地として開発されたことがわかって興味深かった。夕食が終わったのは、たっぷり1時間後の9時半だった。
2003年10月06日
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whさんから、「夕食は8時過ぎになりますが、大丈夫ですか?」と尋ねられる。しかし、この後どういう予定なのかわかっていないtetywestには、「大丈夫ですよ」と答える以外仕方がない。それにスイカの種と胡桃と月餅を食べたので、それほど空腹感はなかった。7時20分頃に、「それでは、行きましょう」と揃って友人のマンションを出ると、メインストリートにワンボックスの自動車が停まっている。どうやら友人夫婦を乗せる車の到着を待っていたらしい。日が沈むと9月上旬とは思えないくらい涼しい。我々5人はサンタナに、友人夫婦はワンボックスカーに乗って、元来た道を引き返して行く。走り始めるとすぐに運転手がカーステレオのカセットを流し始めた。リアシートに座っているtetywestのすぐ後ろから音楽が流れ始める。♪Hello darkness my old friend, I’ve come to talk with you again・・・「おお!これは・・・サイモンとガーファンクルではないか!」次から次へと流れる音楽は、ビージーズあり、ジョーン・バエズあり、ジョン・デンバーありと、tetywest夫婦にとっては涙が出るほど懐かしい曲ばかりなのだ。太陽が落ちて薄暮に包まれた中国の田舎道を走りながら、70年代のUSAのフォークソングを聴くことになろうとは夢にも思っていなかった。曲に合わせて自然に口ずさんでしまう。「whさん、あなたたちはこの曲を知ってますか?」と家内が質問すると、whさんからは、「これは、サンタナを造っている会社のラジオ番組です」と、見当違いの答えが返ってきた。もう一度ゆっくりと家内が確認すると、「よく知りません」それはそうだろう。whさんはこれらの曲がヒットした頃に生まれたのだし、運転手や隣に座っているhxyさんはまだこの世に存在していなかったのだ。しかし、わざわざカセットに録音したということは、70年代のフォークソングは世代や国境を越えて受け入れられる魅力を持っている証なのだろう。そういう音楽をその時代に生で体験できたことに幸せを感じながら、同時に自分たちが年寄りだという事も再認識するtetywest夫婦だった。サンタナは途中から来たときとは違う道を走っている。道路の両側はトウモロコシ畑が続いていて、今日一日の仕事を終えた農民が家路に向かって歩いている。なんとものどかな風景だ。先導しているワンボックスカーがガソリンスタンドで給油するために停車した。辺りはすっかり暗くなっているのにガソリンスタンドには全然明かりが灯っていないので、最初何のために停まったのかわからなかった。しかも懐中電灯を使って給油作業をしているではないか。そのときようやく気が付いたのだが、中国の田舎は日本に比べると夜が暗い。信号や街路灯はほとんどなく、家々から洩れてくる電灯の明かりも、蛍光灯のはっきりとした冷たい明りではなく裸電球の温かみのある、しかしぼんやりとした明りなのだ。8時を過ぎると自動車はほとんど走っていない。給油のために停車している間に通り過ぎた車の数はおそらく一桁だっただろう。給油が終わるとまた真っ暗な道路を走り続ける。カセットテープが一回りして再び「サウンド・オヴ・サイレンス」が流れ始めても、サンタナはまだ走っていた。ただ、道路の両側には家並みが続き、裸電球だけの店が開いている。飲食店の前には結構大勢の人が集まって座っている。三々五々どこかへ向かって歩いている若者に出会う。「ここはどこだろう?」と手懸りを探していると、ヘッドライトに照らされて「南詔風情島・・」という看板が見えた。・・・と思ったらすぐに食事場所に到着した。あたりは真っ暗で、「船家客桟」と書かれた看板だけがやけに明るく輝いているのが印象的だった。時刻は8時30分だ。
2003年10月05日
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サンタナが停まったのは【さんずいに耳】源県の政府の前だった。広い2車線の道路の両側にはグリーンベルトが整備され白い街路灯が整然と並んでいる。赤・緑・白の3色で舗装された歩道まである。両側の建物もきれいで、なんだか映画のロケ・セットのような雰囲気の街だ。まるでUSAの田舎町へ来たような錯覚を覚える。しかし、歩いている人たちは紛れもなく中国人だ。それも青い民族衣装を着た人が多い。顔はちょっと色黒なのだが、何族なのかは見当も付かない。運転手が携帯電話で誰かと連絡を取っていると思ったら、1ブロックほど手前で若い男女が手を振っている。そこまで引き返して、路地に駐車した。whさんが、「男性は運転手の大学の同級生です。最近結婚したばかりです」と二人を紹介してくれる。「あの人は、ここの政府に勤めているの?」「そうです」なるほどwhさんの計画は、旅行先の地元に住んでいる知人を訪ねて行き、その友人に現地の情報を聞いて宿舎や食事の場所を決めるという方法のようだ。挨拶が終わったところで、tetywestは我慢の限界に達していた。「whさん、この近くにトイレがあるかどうか訊いてくれる?」どうやら、その夫婦のマンションへと案内してくれるようだ。サンタナが駐車した路地を30mほど入ると、塀に囲まれた敷地の中に4・5階建ての鉄筋コンクリートのマンションが2棟建っている。入り口には鉄柵の門があり、警備員が見張っている。警備員は入り口の小屋で寝泊りしているようだった。マンションの窓には最上階まで鉄格子が嵌め込まれていた。ここのセキュリティも、日本では考えられないくらい厳重だった。マンションは1階に2世帯が住む形式になっていて、友人夫婦の部屋は門から一番奥の建物の奥側の1階だった。部屋に案内されると、まずtetywestが場所を教えてもらってトイレに駆け込んだ。そこはバスルームと兼用の部屋で、浴槽、シャワー、洗濯機、洋式トイレが備え付けられていた。しかしバスタブは普段使っていないようで、金ダライや化粧品置き場になっていた。すっきりしたところで、ソファーを勧められて奥さんがお茶を入れてくれる。tetywestは中国の家庭にお邪魔するのはこれが二回目だったのだが、家内にとっては初めての経験なので興味津々のようだ。案内された部屋は南北に窓がある建物いっぱいの幅の広いダイニングルームで、ソファーとテーブルが置いてある。床はぴかぴかに磨かれた大理石だった。ソファーと反対側の壁には大きなTVとVTRのセットがあり、鉢植えの観葉植物がさりげなく数箇所に配置されていて、いかにも新婚さんのスイート・ホームらしい素敵な雰囲気だった。壁には結婚式のプレゼントか何かだろう、大きな扇が飾ってある。運転手の友人のマンションバスルームへ行くには、ダイニングルームから廊下へ出るようになっているのだが、その廊下も鉄格子の窓の内側にある。火鉢にそっくりな形をした黒い素焼きの植木鉢が並べられていて、野生ランを10種類ほど育てている。運転手は友人の奥さんに品種の説明をしてもらっていた。雲南省は野生ランの宝庫と言われていて、その趣味のある人にとってはおそらく垂涎の品種なのだろうが、tetywestにはどれも同じにしか見えない。あまりうろうろと歩き回ることもできないのでそれ以外の部屋は確認していないのだが、ベッドルームとキッチン以外にまだ2つの部屋がありそうだった。延べ床面積は150平方メートルくらいだろうか・・・家内はこのマンションがかなり気に入ったようで、「こんなところに一度でいいから住んでみたいわ。それに夏でもクーラーは要らないし」「その代わり、冬はきっと寒いよ」「そうかな、ねえwhさん、この辺は冬に雪が降るの?」「時々降ります。寒いのは香川県と同じくらいです」と言われても諦め切れない様子だった。ご主人が、「これをどうぞお食べください(おそらくそう言ったのだろうと想像するのだが)」と月餅を勧めてくれる。その前に奥さんがスイカの種を出してくれ、ご主人が胡桃の殻を割って中身を取り出してくれる。お茶がなくなるとお湯を注ぎ足してくれる・・・と至れり尽くせりの接待を受けていたのだ。びっくりするほど大きな月餅だったので、家内と半分ずつ頂くことにした。大きな月餅油で揚げてある月餅は初めてだったのだが、中身は胡桃入りの小豆餡で美味しかった。しかし、もともと饅頭が苦手なtetywestなので半分でちょうど良かったのだ。
2003年10月04日
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湖はいつの間にか見えなくなり、次第に山が近くなってくる。いったいどこへ行くのかtetywest夫婦には全然わかっていないのだ。やがて、とある集落にさしかかったとき、サンタナは国道214号線を外れて田舎道へと入っていく。道路の両側は相変わらず水田が広がっているのだが、所々にトウモロコシ畑も見えるようになってきた。それだけ山に近づいたのだ。しばらく水田ばかりの田舎道を走り、また一つの集落を通り抜けようとしたとき、何故か車が前へ進まなくなってしまった。原因は交通渋滞だったのだが、どうしてこんな田舎道で交通渋滞が起こるのかtetywestには理解できなかった。ちょうどサンタナが停まった場所ではニンニクの集荷が行われていた。道端に昔日本でも使われていた分銅秤を置いてあり、その秤の上にニンニクのいっぱい入った袋を2個ずつ重ねていく。10個積み上げたところで秤量して、荷受係りのおばさんがノートに記録している。秤量が終わると、その袋を一個ずつ肩に担いで道路を横切り、倉庫の中に運び込んでいる。袋の重さは25kg~30kgはありそうなのに、運んでいるのは男性だけではなかった。女性も同じように袋を担いで運んでいる。倉庫の入り口には「○○公司」と書かれた看板が懸かっていた。このニンニクが日本へ輸出されているのだろう。ニンニクの集荷依然として車は全く動かない。前方にいたバスが、少し先の広場でUターンして帰って来た。サンタナも同じようにその広場でUターンする。その先は大勢の人夫を乗せたトラックや「田舎のベンツ」でごった返していた。tetywestはようやく交通渋滞の原因がわかった。ちょうどニンニクの収穫作業が終わって、みんなが帰ってくる時間だったのだ。これを読んだ皆さんの中には、「中国では農作業の通勤に自動車を使うの?」と驚かれた方もいらっしゃるかもしれないしれない。しかし、現実には中国の農家は一戸あたりの栽培面積が30a程度と小さく、自動車を持てるほど豊かな人はまだほとんどいない。多くの農家では、家族のうち何人かは都会へアルバイト(出稼ぎ)に出ている。では、なぜ交通渋滞が起こるほどの数の車がこの集落に集まっているのだろう?初めて中国へ行ったときならtetywestにもその答えは出せなかったのだが、今はおおよその見当は付くようになった。つまり、この集落(おそらく鎮だろう)では、「請負耕作制度」によるニンニク生産が行われているのだ。tetywestは、「請負耕作制度」は中国の農業を飛躍的に発展させた要因のひとつだと考えている。まず資本家が優秀な農家に資本を提供する。資本家は農家自身であっても地方政府であってもかまわない。そして優秀な農家は自分の栽培技術や経営ノウハウを生かして、多くの従業員を雇用し農作業をやらせるのだ。交通渋滞が起こるほどの数の従業員が集まっているのは、ちょうど収穫の最盛期なのだろう。こんなときはトラックを臨時にチャーターしているのだ。日本でも、近ごろ農水省が音頭をとって農業会議あたりで「農業の法人化」を推進している。担い手が少なくなった農業の生産性を維持するには、優秀な農家に農地を集積し、優れた経営ノウハウで農業をやってもらおうという腹積もりのようだ。しかし、tetywestは日本ではそう簡単に上手くはいかないだろうと思っている。この農業形態の場合、成功の秘訣は主に輸出できる作物、あるいは市場価格の高い作物を栽培することなのだ。そして何よりも重要なことは、「安い労働力が豊富に存在する」ことなのだが、日本の場合どちらの条件もクリアするのが難しい。ともあれ、Uターンしたサンタナは元来た道を3kmほど引き返して、今度は別の道を走り始めた。次第に両側に山が迫ってきて、谷沿いのスネークロードになる。この先、どんどん山奥に入っていくのかと心配していたのだが、谷沿いの道を抜けると開けた盆地に出た。その盆地の真ん中あたりまで走った所で道が二つに分かれていて、「【さんずいに耳】源温泉」の大きな看板が建っている。サンタナはその温泉の方へ3kmほど走り、太陽が山の稜線に隠れはじめる頃にようやく停車した。大理の市街から1時間半、昆明を出発してから7時間半が経過していた。
2003年10月03日
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資料によると、大理市は「大理白族(Dali Baizu)自治州」と呼ばれ、面積は楚雄と同じくらいで、香川県の15倍の広さがある。人口は330万人で、そのうち少数民族の白族が3分の1を占めている。大理の風景の特徴といえば、何と言っても「【さんずいに耳】海」という南北に細長い湖だろう。雲南省では昆明の【さんずいに真】池に次いで2番目に大きい。その面積は大理市全体の10分の1もある。湖だけで香川県の1.5倍の広さなのだ。大理の市街地はあっという間に通り抜けてしまった。道路が郊外の小高い丘にさしかかったとき、右手に「【さんずいに耳】海」が見えた。左手はなだらかな斜面に高級住宅街が密集している。さしずめ「大理の芦屋」というところだが、真夏の気温が20度ちょっとなのだから、芦屋に軽井沢を足したようなものだ。ここで毎日湖を見ながら生活するのは、さぞかしいい気分だろう。大理の市街地を抜けると、サンタナは国道214号線を北へ向かって走り続ける。車窓には再び田園風景が広がる。道路の両側にはどこまで行っても水田が広がっている。左手は1500mほどの高さの山が連なっている。ただし、大理の標高がわからないので、実際にどれくらいの高さなのかはわからない。山頂は雲に覆われていた。大理平野その連山と湖の間は、およそ5km~10kmくらいの幅で平野が広がっている。ただし湖の方向にごく僅かの傾斜があり、民家は平野と山裾の境界線付近に密集している。大理に多く住んでいる白族の民家は、瓦屋根で白壁という特徴がある。緑の水田と山の中に白い集落が浮き上がっている様子は幻想的ですらある。白族の集落車窓からの風景に見とれていると、突然目の前に大きな門が現れた。料金所だ。サンタナが走っているのは高速道路ではなく一般国道なのに、中国では通行料金を支払わなくてはならない仕組みになっているのだ。これはそれぞれの市の収入になるようで、都市を通過するたびに、どの町にもこのような料金所があった。そして通行料金は何故か10元だった。一般国道にある料金所さて、大理の街を出てから1時間が経過してもサンタナはまだ湖の西側を北に向かって走っている。南北に細長い【さんずいに耳】海なのだが、その端から端まで走破してしまったのに一向に停まる気配がない。この頃になってtetywestは無性にトイレに行きたくなっていた。ガソリンスタンドで給油したのが11時半だったので、もう6時間半もトイレに行っていないことになる。他のメンバーが昼食後に公衆トイレに行ったときには、「まだ大丈夫」とtetywestだけ行かなかったのだ。家内にえらそうなアドバイスをしておきながら早速この始末では我ながら情けないのだが、早く目的地に着いてくれることをひたすら願うtetywestだった。
2003年10月02日
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大理に到着したのは午後4時50分だった。食事に1時間かかったとしても、昆明から5時間のドライブだったことになる。tetywestは昆明から250kmくらいの距離だと思っていたのだが、実際は400km走っていたのだ。日本だと、香川県から名古屋あたりまで走ったことになる。高速道路を降りてすぐに大きなロータリーがあった。ロータリーの中は芝生と花がきれいに植え込まれている。その真ん中には「帆と風車」をイメージした大きなオブジェクトが聳えていた。そして、その後ろにはたくさんの風力発電の風車が並んでいる。大理について何も知らないtetywestはこれを見たとき「風」を連想してしまったのだが、帰国後ガイドブックで調べたところ、それで正解だった。大理には「風・花・雪・月」の四大奇観があり、「下関の風、上関の花、蒼山の雪、【さんずいに耳】海の月」と詠われているのだ。そしてtetywestたちが最初に到着したのは大理市の「下関」地区だった。「大理歓迎【にんべんに称の右、下に心(あなたと言う意味)】」-welcome to DaLi-運転手はロータリーの路肩に停車して、携帯電話で誰かと連絡を取っている。tetywestはすっかり強張った体を伸ばすために車の外に出た。昆明では雨が降っていたが、大理は曇りだった。風車の向こうには高い山が連なって見える。車の数は日本とは比べものにならないくらい少ない。道路が広いためになんとなくゆったりとした印象を受ける。行き交う人たちものんびりとしている。路上で茹でたトウモロコシを売っているおばさんの屋台に人が集まっている。リヤカーを引いたおじさんが歩いている。おお、荷馬車までいるではないか。ちょうど下校時間だったようで、学生接送車(スクールバス)がtetywestのすぐ前に停車して小学生が降りてきた。そういえば中国の学校は9月から新しい年度が始まるのだ。首に赤いスカーフを巻いている子供と、そうでない子供がいるのは、たぶん共産党の下部組織に所属しているかどうかの目印なのだろうとtetywestは勝手に想像する。ランドセルを背負っている子供はいない。教科書はリュックサックやビニール袋に入れている。スクールバスから降りるとそれぞれの方向に歩き出したが、その中で、5~6年生と思しき2人の女の子が歩道に立ち止まり、宿題のプリントらしきものを取り出して何やら話しをし始めた。そんな町の風景を眺めている間に運転手の連絡が無事終了したようで、再び車に乗るとすぐに走り始める。先ほどまで4時間も休憩なしで運転し続けているのに、まだ続けて運転するのだ。そのタフさには驚かされるが、それよりこの先何処へ行くのだろうということの方がtetywestには気がかりだった。whさんが「大理へ行きます」と言ったのだから、目的地はもうさほど遠くないだろうと予想していたのだ。ところが、それは大きな間違いだった。
2003年10月01日
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