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心配していた雨は4日間全く降らず、暖かい気候の中ですばらしい旅行が出来ました。こんなに思い出に残る旅行が出来たのも、cjjさん、福建省農業庁果樹科の皆さん、厦門市農業改良普及センターの皆さん、そしてshmさんのおかげです。本当にありがとうございました。それこそ書きたい事が山のようにあるのですが、これから少しずつ書いていくつもりです。とりあえず、無事帰って来たお知らせです。
2003年02月28日
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アモイの温度は14度~19度天候曇り、旅行の後半は雨かも・・・一応傘は準備しました。では、また帰国後に・・・それはもう3月なんですね・・・
2003年02月25日
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2月23日あと2日・・・。一緒にアモイへ行くJA香川県の園芸部長が見つけてくれた資料にも目を通す。--------------------------------中国における近年の柑橘類の生産・流通状況1.生食用柑橘類 (1)生産量 2002年の生産地域における気温は概ね良好であった。2002年初頭には多少の霜害が報告された。また、一部地域では春先に雨が降らなかったが夏が近づくにつれ降雨があり、湖南省及び湖北省(2001年の柑橘類生産量では3位と7位)に洪水をもたらした。業界関係者は開花期に一部の地域では長雨による生産に悪影響があったと報告している。浙江省と広東省(同2位と6位)の沿岸地域は台風に襲われたが、柑橘類産地の損害は前年並みであった。2002年後半の天気は穏やかなままに推移した。これまでのところ、降雪の報告はほとんど寄せられていない。省別の柑橘類の栽培面積及び生産量(単位:1,000ha,1,000t)省・市・自治区 1999年 2000年 2001年 面積 生産量 面積 生産量 面積 生産量----------------------------------------------------------福建省 149 1,589 138 1,306 164 1,810 浙江省 133 2,120 125 972 124 1.638湖南省 246 1,497 248 1,259 254 1,588四川省 152 1,162 155 1.328 164 1.498広西壮族自治区 105 1,062 110 880 116 1.321広東省 79 836 82 811 94 1,135湖北省 102 993 99 946 98 1,072重慶市 60 527 63 584 69 599江西省 178 539 169 283 254 434上海市 4 134 5 102 4 137貴州省 34 113 33 101 33 128雲南省 18 89 20 92 22 102江蘇省 3 62 3 43 3 55陜西省 11 30 12 35 14 42河南省 5 14 5 21 5 22海南省 1 11 2 14 3 15安徽省 2 7 2 5 3 9甘粛省 1 2 0 2 0 2-----------------------------------------------------------合計 1,283 10,787 1,272 8,783 1.324 11,608(出所:China Agricultural Yearbooks and China Statistical Yearbooks)2002年の生食用柑橘類の生産量は、隔年結果の裏年に当るため減少する見込みである。同年の生産量は約1,010万tと予測されており、これは栽培面積が1,324千ha、生産量1,160万tと報告された2001年を約13%下回っている。柑橘類の生産量は2003年には1,200万t、2005年までに1,300万tを超えると予測される。但し、これは生産者が管理技術を向上させ、優良品種を栽植して、厳しい天候による損害を回避できるかどうかによる。 (2)栽培面積 柑橘類の栽培面積は過去数年間僅かに減少してきたが、2001年の栽培面積は前年より5万2千ha増加した。増加が著しかったのは、福建省(2万6千ha)、四川省(9千ha)、重慶市(6千ha)、広西自治区(6千ha)、湖南省(6千ha)、の各省であった。福建省は歴史的に柑類(マンダリン類)、ポンカン、雪柑、レッドリバーオレンジ及びブンタンを栽培している。四川省と重慶市はレッドオレンジ、ネーブルオレンジ、錦橙、ブンタン及びレモンの大産地である。広西自治区は柑類、蕉柑及びブンタンを生産してきた。湖南省は大量の柑類とキンカンを生産している。江西省が唯一栽培面積を大幅に減少(1万5千ha)させた。江西省はネーブルオレンジとキンカンを生産している。 (3)品種構成 中国の柑橘類は、現在のところ、生産及び栽植面積の約55%を桔類(タンゼリン類)、柑類及び温州ミカンが占め、残り30%がオレンジ、10%がブンタン及びグレープフルーツ、5%がレモンとキンカンで構成されている。ほとんどの取引業者、生産者及び政府関係者は、現在の柑橘類の品種構成が望ましいものではないという点で一致している。多くの関係者は、桔類の割合が今後10年間で半分程度まで低下すると見ている。また、生産者は生食と果汁共用のオレンジ品種の栽植を奨励されている。レモン、キンカン及び他の柑橘類の栽培面積も増加する見込みである。桔類の抜根とオレンジの増加は既に始まっている。国内の柑橘類の75%が11月中旬から1月中旬に収穫される中生種で、20%が10月~11月中旬に収穫される早生種、残り5%が1月以降に収穫される晩生種である。政府関係者は、今後、早生と晩生の柑橘類を増やし、その割合が早生20%、中生種40%、晩生種40%となるのが理想的との意向を示した。 (4)収穫後管理 現在、中国の収穫後管理技術では、柑橘類は収穫後3~4か月間市場に出回ることが出来る。しかし、その品質は収穫後の最初数週間で急速に劣化する。従って、ほとんどの柑橘類は一切加工されずに生鮮のまま市場に出荷され、全てがほぼ同時期に出回る。一部の生産者は貯蔵や過剰処理をする代わりに、バイヤーが生産地域に回ってくるまで樹上に果実を放置している。他の生産者は収穫し、防かび剤を噴霧し、卸売市場に出荷する。選果・荷造り前に洗浄やワックスかけは中国ではほとんど行われていない。中国のある柑橘類研究所では、商業用果樹園の栽植密度を半減させ、1畝(6.5a)当り30本から40本(ha当り450本~600本)に抑えるよう勧めている。この地区の生産者は栽植密度を減らせば生産量が増加し、果樹の生産期間を延ばすことが出来ることを理解し始めている。しかし、この研究所は、この密度を減少させることは従来の農法と相反するため困難だと報告している。栽植密度が高いにも関わらず、柑橘類の反収は米国、ブラジルその他主要な柑橘類生産国に比べて低い。業界関係者はこの最大の原因を品種と台木が手に入らないことにあると考えている。次いで、生産管理が不十分であることがもっとも顕著な問題のようだ。ほとんどの果樹園管理は果実価格によって左右されることが多く、価格が低いときには生産者は果樹園に手を入れないことが多い。 (5)生産コスト 中国では柑橘類の生産コストは比較的低く、最大の生産コストは殺虫剤、防かび剤、肥料及び植物の生長調整剤である。ほとんどの商業用果樹園では、違法な収穫を防ぐための警備員を雇用する費用が必要となっている。中国のある柑橘類研究所の推定によると、商業栽培の若いオレンジ果樹園では、収穫や輸送費用以外に、ha当り3,150~4,800元(8.265元=1米ドル)がかかるという。フル生産している古いオレンジ果樹園では、運営費はさらに高く、ha当り6,300元~9,600元である。 (6)主要病害虫 中国の柑橘類生産に最も影響を与えている2大病は依然として潰瘍病とグリーニング病である。しかし、ある専門家によると潰瘍病は福建省とその近隣にのみ発生しているとのことだ。トリステザ、疫病、エクソコーティス病、黒星病、ミカンハダニや黄ダニ/蜘蛛も発生している。中国の研究者は病虫害防除方法に関する研究の多くを中国語で発表している。また中国の研究者は情報の発表や研究にインターネットを駆使している。2.加工用柑橘類の生産・流通状況中国では収穫された柑橘類の約5%が加工用に回される。もっとも多いのが柑類缶詰で、これに果汁、ジャムが続く。柑橘加工品に関する正式なデータは限られているが、業界筋では、柑類缶詰が25万t、ワイン千t、そして果実キャンディ800tと推定している。80年代後半から90年代初めに柑橘類加工産業が発展し、今では80万tの加工製品を産する能力を有しているが、現在はその半分が利用されているに過ぎない。柑類缶詰の加工は主に浙江省で行われており、中国最大の生産及び輸出省となっている。2000年に同省で20万tの柑類缶詰が生産され、うち16万tが輸出された。中国では1.2~1.5tの生鮮柑類から1tの缶詰が生産される。柑橘類の缶詰生産は中国内外共に需要が安定し、2002年度も大きな変化はなさそうだ。また、濃縮オレンジ果汁も生産しているが数量は極めて少ない。ある専門家は2000年の濃縮果汁(65°Brix)の生産量を、1,500t(ほとんどがオレンジ果汁)と推定している。生産は重慶市、四川省、江西省そして福建省周辺の数少ない工場で集中的に行われている。オレンジ果汁の商業用プラントがないため、果汁生産は品質及び数量共に成長できない。現在、中国の果汁事業は安価な低級オレンジを使って果汁製品を生産しており、その製品は国内で消費されるか柑橘フレーバーのソフトドリンクを生産する原料として使用されている。1tの濃縮果汁を生産するのに中国では最大15tのオレンジを必要とするが、これに対して米国などでは10tである。しかし、浙江省、湖南省、重慶市、広東省及び福建省の各省に柑橘類の果汁工場を建設する予定がある。一方、桔類果汁の生産は少なく、グレープフルーツ果汁の生産は全くない。--------------------------------
2003年02月24日
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昨日は雨。あと3日後にはアモイなのに、まだなにも準備が出来ていない。ANAからは19日にツアーバッチやシティガイドが送られて来たが、全然見ていなかった。雨で仕事もできないのでアモイのシティガイドをパラパラめくっていると、ふと目にとまったのは「鄭成功」だった。「明の再興を企図して兵を挙げた鄭成功の巨大な像はアモイの街のシンボル」と書いてあるではないか。tetywestは「鄭成功」は知っていたが、それがアモイと関係があるとは知らなかった。早速インターネットで検索する。こんなときは実に便利がいい。その結果、何と去年「鄭成功」をモデルにした映画が日中合同で作られていた。その題名はズバリ「国姓爺合戦(こくせんやがっせん)」。映画の解説によると、----------------------------近松門左衛門も戯曲化した「国姓爺合戦」 清への帰順を決意する父と、明に忠誠をたて父と対立する鄭成功の苦悩、夫と子の狭間で苦しむ母の物語は、この作品の骨格をさらに太いものにし、観る者を深い感動に誘わずにはおかない。そのエピソードは、近松門左衛門の脚色によって書き下ろされた近世日本文学の金字塔「国姓爺合戦」でつとに有名である。鄭成功の死後53年たった1715年(正徳5年)11月、大阪・竹本座においてその戯曲は浄瑠璃として初めて上演され、翌々1717年(享保2年)の3月にかけ、なんと3年に渡って17ヶ月にもおよぶ大ロングラン興行が打たれた。その後も人形浄瑠璃や歌舞伎で幾度となく上演され、鄭成功の名は民衆に広く知られるところとなり、「国姓爺合戦」は不朽の名作として名をとどめることとなった。-----------------------------とある。残念ながら一部の地域を除いて公開は終了しているようだが、そのうちVTRやDVDで発売されるだろう。ついでに、「鄭成功とは」もそのまま引用させてもらうことにしよう。-----------------------------国姓爺鄭成功(こくせんやていせいこう) 国姓爺(こくせんや)の名で知られ、台湾と中国の共通の英雄として名高い鄭成功は1624年、長崎県・平戸市に生まれた。父親は明の福建省で海商を営む鄭芝龍(ていしりゅう)、母親は長崎の豪商、田川七左衛門の娘マツ。父の故郷、福建省の「福」と母親の名前マツから「松」を取って福松と名づけられた。福松は7歳の時、父・鄭芝龍に呼ばれて明の国へ渡る。福松は中国名として鄭森(ていしん)と名を改め、官吏登用試験の「科挙」を目指し、教育を受ける。彼はこのころからすでにずば抜けた才能を発揮していたという。15歳の時、最高学府の南京大学に進み、21歳にして北京の国立大学「国子監(こうしかん)」に学び、文人として名を馳せた銭謙益(1582~1664)からも学問を受け、将来は国を背負う人間になることを嘱望されていたが、時代は明が清の侵略を受け、明王朝は事実上、崩壊しつつあった。鄭森は明の復興を果たすために父のいる福建省に帰る。当時、明の勢力下から外れた南方地域で政権が樹立され、その一つ、福建省に擁立された唐王朱聿鍵(隆武帝)に彼は抜擢され国姓である「朱」を贈られる。と同時に名前を鄭森から鄭成功に改める。本来なら朱成功、となるはずだが、成功自身が国姓を名乗ることは恐れ多いとし、鄭姓を通した。以来、民衆の間では「国の姓を名乗るべき偉人」と言うことで、国姓爺の名で親しまれることになる。鄭成功は傾きかけていた明に最後まで忠誠を尽くすが、それはこのときの恩義を忘れないからであると言われており、こうした日本人的な武士道精神が、日本でも人気の高かった理由であろう。一方、平戸で別れてから15年ぶりに海を渡ってきた母親マツと成功は再会の喜びに浸るも、それもつかの間、打倒清のため、出陣しなければならなくなる。父鄭芝龍は衰退する明の前途に見切りをつけ、清に投降する。成功は泣いて止めるも聞き入れられず、これ以来父と子は別々の道を選ぶことになる。1647年、鄭成功は“抗清”の狼煙をあげ、水軍を中心にして清へ攻めこむが、兵力の不足と清軍の堅い守りにあい敗退する。そこで彼は東を目指し、拠点を台湾に定める。当時、台湾はオランダの支配下にあったが、オランダ軍と戦い勝利し、プロビンシア城、ゼーランジャ城を開場させ、鄭成功は台湾解放に成功する。台湾の開発を促進した鄭成功は中国人としてはじめて開拓事業に取り組み「開土王公」と呼ばれ民衆から尊敬されるが、わずか4ヶ月後の1662年4月、39歳の若さで死去。その後、中国大陸においては清と戦い、台湾においては台湾をオランダから開放したアジアの英雄として神格化され、53年後の1715年、日本で近松門左衛門が「国姓爺合戦」として戯曲化し大ヒット、日本でもいっそう人気が高まり、現在でも人気の演目として残っている。-----------------------------なるほど・・・これでアモイへ行く楽しみがまた一つ増えたぞ。
2003年02月23日
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日本のお正月に欠かせないのが「おせち料理」ですが、その中身はというと、数の子 97%はアメリカ、ロシア、カナダなど車えび 90%はインドネシアやタイなどお煮しめのネギ、シイタケ、豆類、レンコン、ゴボウ、ニンジンはほとんど中国とアジア諸国からついでに、年越しソバの蕎麦粉の81%がアメリカやカナダからこれが、今の日本の食べ物の実態なのです。おせち料理という最も伝統的な日本の料理の食材まで、どうして外国から輸入しなければならないのでしょう。皆さん何かおかしいとは思いませんか?3日間連続で、堅苦しくて難しい問題ばかり書き並べてしまいました。読んでいて、「そしたら、一体私たちに何ができるの?」と、思われた方もたくさんいらっしゃることでしょうね。誰だって「ここが悪い」「あれが悪い」と欠点を指摘することは出来るのですが、「じゃ、自分はどうなの?」とか、「何かいい方法あるの?」と反論されたとき、それに答えるのはなかなか難しいものです。でもtetywestは、自分が問題提起しておいて答えないのは無責任だと思いますので、今からそれを書きます。ただし、これがベストだとは限りません(汗)tetywestはこれらの問題を解決するためには、「自給率の向上」しか方法はないと考えます。現在の日本の食物自給率は、カロリーベースで40%です。農水省もこれを45%にするという目標は掲げています。しかし、その具体策ははっきり言って何も示してはいないのです。ところで、その農水省のHPによると、「我が国の食料自給率は、昭和40年度から平成10年度の間に供給熱量自給率は73%から40%、穀物自給率は62%から27%へといずれも大きく低下」(※平成11年度農業白書)しているのですが、この年の白書では同時にその原因を分析しているのです。供給熱量自給率の推移と自給率低下の要因寄与度左側のグラフの大きな谷は、まだ皆さんも覚えていらっしゃることでしょうが、平成5年に起きた「米騒動」です。右側のグラフはどうして自給率が減ったかの原因を調査したものです。それによると、昭和40年~平成10年の減少分33ポイントのうち、「主に食生活面の要因」が3分の2を占めているのです。昭和60年~平成10年までの減少分13ポイントのうちでも、まだ4割は、「主に食生活面の要因」が占めています。この2つのグラフからどんなことが読み取れるでしょう?まず1つ目は、戦後の経済成長の中で日本人の食生活が変化し、肉類や油脂などのように日本で作られていない食べ物を多く食べるようになったのは言うまでもありませんが、平成になっても依然として日本人の食生活はその方向へと変わり続けているのです。そして2つ目には、農業の生産現場は、昭和40年から一貫して他産業との所得格差が広がり続け、高齢化・後継者不足によって生産能力を減らし続けているということです。しかし、本当に農業の生産現場は生産能力がないのでしょうか?ご存知のようにコメの減反政策は今や全部の水田面積の3分の1以上に及んでいます。減反政策をやめて全部の水田にコメを作れるのなら今すぐにでも自給率は5%以上増えるのです。もし国民一人一人が、大豆、小麦、トウモロコシ、肉類のような輸入に頼る食材ではなく、コメ、野菜、果物、魚のような、今でも自給率の高い食材を多く食べるようにすれば、現在の生産現場の能力でもじゅうぶん自給率は上がるのです。そして、「主に食生活面の要因」が先に変われば、それに伴って「主に生産面の要因」も変わってくるのです。かつて、日本がUSAで行った「Eat More Rice」というキャンペーンがありました。「日本に『コメを自由化しろ』と圧力をかけるより先に、もっとアメリカ人に自国のコメを食べてもらおう」と、家電メーカーが炊飯器を提供したり、コメを使ったレシピを配布したのです。その数年後にもう一度キャンペーン対象者を調査したところ、コメを食べる習慣を身につけていたのは高学歴の人たちだったという結果が出たのです。彼らがコメを食べる一番の理由は何だったと思います?それは「健康に良いから」なのです。つまり、アメリカ人がコメを食べ始めたのは「舌」で味わったからではなく、頭で味わったからなのです。それ以来USAでは次第に日本食を食べる人が増えています。もう一つエピソードをご紹介しましょう。ある飛行機にUSAの団体と日本の団体が乗り合わせました。機内食の時間になって、スチュワーデスが、「ビーフとチキン、どちらにしましょう?」と訊きながら食事を配り始めました。日本人の団体は、ほぼ全員「ビーフ」でした。アメリカ人の団体は、ほとんどが「チキン」でした。でも、その中に数名「要りません」と言う人たちがいました。彼らはベジタリアンでした。日本人もそろそろ「何を食べるか」を、頭で決めてはいかがなものでしょう?tetywestは25年間、朝はパン食でしたが、去年の夏からは柑橘を中心にした「朝フル」を実践しています。
2003年02月22日
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「私は国産の食べ物しか買わない」という信念を持っているいる人でも、たとえば味噌、醤油、食用油、豆腐を自分で作る人はあまりいないはずです。これらの原料となる大豆の自給率は、何と3%なんです。パン、スパゲティ、パスタ、ラーメン、餃子の皮から讃岐うどんにまで使われている小麦は昨日も書いたように自給率9%。「肉は和牛しか食べない」とおっしゃる方も、その餌になるトウモロコシは100%輸入に頼っているのです。漬物、干物、缶詰、ジュースなどの加工食品に至っては、ほぼ100%外国産ですし、コスト競争の激しい外食産業やスーパーのお惣菜コーナーに使われる野菜もほとんど中国産や韓国産です。今や「国産より安いから」と世界中から食べ物を買い漁っている日本。それも消費者が知らないうちに・・・tetywestは最近、この実態に唖然としています。さて、ここからが本題なのですが、農作物を作るのに、絶対必要なものは何だかわかりますか?それは水です。コメを1トンを作るのに、2500トン豆を1トンを作るのに、1000トン牛肉を1トンを作るのには、7000トンの水が必要なのです。日本は1年間に3000万トンを超える農産物を輸入しています。つまりそれは、外国の水資源を580億トン以上消費していることになるのです。「水なんてタダ同然なんだから、別に問題ないでしょう」と思われるかもしれませんが、それは日本だけで通用する概念です。日本の平均降水量は年間1700ミリです。しかし、世界の陸地の平均降水量は700ミリしかないのです。1700ミリといってもピンと来ないでしょう。日本の陸地に降った全部の雨を重さに直すと4,200億トンになります。私たち日本人が日常生活に使う水の量は1人1日平均339リットル。日本全体では1年間で171億トンです。これ以外に工業用水150億トン、農業用水約587億トンを使っています。つまり日本中にあれだけ多くのダムや溜め池を作って、ようやく雨水の22%を利用していることになります。少し乱暴な計算ですが、もし今の雨水の利用率のままで日本の降水量が700ミリだったら、使える水は373億トンになります。そうすると生活用水と工業用水に使ってしまって、農業用に使える水はほとんど残っていないことになるのです(実際はその逆で、工業用水や生活用水が足りなくなるでしょうけど)。逆に、もし今の使用量を減らしたくなければ利用率を53%に引き上げなくてはならないのです。もう一つ別の方法で計算してみましょう。コメは10アール当り平均600キロの収穫が出来ます。それを雨の水だけで作ろうとすると、1年間に1500ミリの降水量が必要なのです。日本はなぜ「瑞穂の国」と呼ばれているのか、おわかりいただけたでしょうか?水がなければ農産物は作れません。それどころか現在アジア・アフリカを中心に30ヶ国以上が生活する水さえ足りないことに苦しんでいます。さらに「21世紀のための世界水委員会」では、2025年には48ヶ国で水不足になるだろうと予測し、そのために食糧難が起きることを憂慮しているのです。日本人が食糧を輸入するために使う580億トンの水があれば、発展途上国では15億人分の生活用水(※これは日本人の平均使用量の4分の1)がまかなえるのです。日本の食料自給率を向上させることは、世界の飢餓で苦しむ人たちを救うことにもつながるのです。中国では今年から、将来の自国の食糧を確保するために「南水北調」という国家的プロジェクトに着手しました。これは揚子江の水を、慢性的な水不足に悩む黄河流域へ導く歴史上始まって以来の大工事です。最近、膨大な食糧を輸入し続ける日本に対して、こう言われ始めているのを皆さんはご存知でしょうか?「日本は他国の水資源を搾取している」と・・・
2003年02月21日
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昨日の日本農業新聞に恐ろしい記事が掲載されていました。干ばつで米大凶作豪州前年度比71%減見出しを読んだとき、tetywestは「まさか・・・何かの間違いでしょう」と思いました。てっきり、記者が勘違いして「3割減」をこのように表現したのだろうと・・・ところが、そうではなかったのです。-------------------------【シドニー18日共同】オーストラリア農業資源経済局は18日、同国を襲った大規模な干ばつの影響で、2002年会計年度(02年7月~03年6月)の穀物生産が1982年度以来の低水準になるとの見通しを発表した。特に、今後収穫シーズンに入る米は、かんがい用水の不足などにより生産量が37万トンと前年度(128万トン)比71%減の大凶作となる見込み。これを受けてオーストラリア米生産組合は同日、ニューサウスウェールズ州とビクトリア州の2つの精米所を操業停止し、従業員200人を解雇すると発表した。 主な穀物生産量は小麦が940万トン(前年度2490万トン)、大麦330万トン(同840万トン)など、前年度の半分以下にとどまる。-------------------------記事を読み終えたとき、tetywestには最初に感じたのとは別の恐怖が湧いてきました。それは「小麦」の生産量です。讃岐うどんの原料となる小麦は、主にオーストラリアから輸入されているのですが、その小麦が「63%減」なのです。全世界の小麦の生産量は5億8,360万トン(2000年)で、中国 17%インド 13%アメリカ 10%フランス 6%ロシア 6%カナダ 5%が主産国です。しかし、貿易用に取り扱われるのはそのうち2割に過ぎません。輸出量、1億1,681万トン(2000年)の内訳は、アメリカ 24%カナダ 16%オーストラリア 15%フランス 15%の4カ国で全体の7割のシェアを占めています。一方、輸入国のトップは何と、生産量の一番多い中国で847万トン(2002年)、続いて日本の552万トン(2001年)なんです。日本が輸入する552万トンの内訳は、アメリカ 52%、カナダ 27%、オーストラリア 21%で、完全にこの3カ国に頼り切っているのです。ちなみに小麦の自給率はたった9%(54万トン)です。日本はオーストラリアから毎年116万トンもの小麦を提供して頂いているのです。普通の年なら1750万トンの輸出能力のあるオーストラリアですから、これは1割にも足りない量です。しかし、今年は減収分だけで1550万トンなんですから、どう考えても輸出できるのは200万トンしかないんです。そのうち半分以上を日本によこせと言うのはちょっと虫がよすぎるんじゃないでしょうか。これでは今年のオーストラリア産の小麦の値上げは必至でしょうね。そのために「讃岐うどん」が値上げになって、せっかくの大ブームに水を差さなきゃいいんですけど・・・・えっ、干ばつだけに、差したくても水がないだろうって?
2003年02月20日
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本州最南端、潮岬の先端にある「観光タワー」で昼食を摂った後、バスは田辺市までひたすら海岸線に沿って走りつづけることになる。車窓から振り返った潮岬は深緑の絨毯のように繁った木々に覆われ、灯台がシルエットになって浮き出している。太平洋に太陽がきらきらと輝いているのが印象的だった。潮岬串本海中公園、夫婦波の恋人岬、日本童謡の園、ガイドさんの説明を聞きながら車窓から眺めているうちにいつの間にか眠ってしまい、気が付くと「梅甚」という梅干専門店の駐車場だった。どうやら田辺市に着いたらしい。バスを降りて店内に入ると、まさに梅干尽しだった。大梅、小梅、減塩、カツオ風味、シソ風味、ジューシーなものから、カラカラに干したものまで、それこそ色々な種類の梅が並んでいる。どれも試食できるのだが、さすがに梅干を何個も食べようという気にはならない。値段はどれもしっかり高い。店の隅には梅ジュースの試飲コーナーがあり、冷えた梅ジュースが何杯でも飲めるようになっている。バスの中が暖かくてちょうど喉が乾いていたところだったので、これはありがたかった。tetywestは時間当てクイズで梅干をゲットしていたので、ここで梅干を買う必要がなかった。しかし、皆さんの買いっぷりのよさには感心してしまう。1kgパックだと3000円、4000円という値段なのだが、それを3個も4個もまとめ買いしている。一人平均5000円のお買い上げだとしても100人で50万円!!店にとっては笑いが止まらないだろう。団体さんはこれだから、旅行社にバックマージンを払っても来てもらいたいわけだ。バスの大きなトランクは、お土産の袋で一杯になってしまった。再び動き始めた後は、ビデオタイムになる。ガイドさんが、「洋画1本と邦画2本があります。洋画がいいと思う人手を上げて」と言うので手を挙げたtetywestだったが、たぶん1人だけだっただろう。結局その後も誰も反応がなくて、「釣りバカ日誌8でいいですかね」ということになった。それでも誰からも反応がなかったからだろうか、突如ガイドさんの独断と偏見で、「こっちの洋画の方が面白いので、これにしましょう。『ラッシュアワー』です」と勝手に決めてしまった。「ラッシュアワー」なら、tetywestはそっちの方が断然観たい。クリス・タッカーは「フィフス・エレメント」のオカマ役で初めて見たとき、「なんじゃ~、こりゃ~」と驚いたのだが、「ラッシュアワー」の方がずっとハマッていた。ジャッキー・チェン(中国では「成龍」)がかなり歳をくってきたのは、まぁしょうがないか。ストーリー展開がスピーディですっかり夢中になっていると、いつの間にか名塩のサービスエリアだった。いったんビデオを中断して弁当を積み込むと、また走り出す。誘拐事件が解決してハッピーエンドとなった頃には夕食も食べ終え、バスはもう岡山を走っていた。あたりはすっかり暗くなっている。瀬戸大橋を渡れば楽しかった旅も終わり、明日からまた日々の仕事が待っている。※これで「南紀への旅」は全部終わりです。いや~、1泊2日の旅行をここまで延ばすとは、tetywest自身も全く予想外でした(笑)長い間お付き合いしてくれたみなさん、ありがとうございました。
2003年02月19日
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橋杭岩はまさしく自然が創り出した芸術だろう。何となく瀬戸大橋の橋脚を坂出の番の州から見上げた風景に似ている。これを見れば誰だって弘法大師が大島に向かって橋を架けている工事中なのだと言いたくなるだろう。残念ながらこの橋は建設途中で放棄されたのだが、向かいの大島へは1999年9月に「くしもと大橋」が完成し、1200年後にようやく陸続きになった。橋杭岩からもその白いアーチが見える。これも弘法大師の御利益だろうか。海岸の傍にはどうして橋杭岩が出来たのかを説明する図解のパネルがあった。それによると石英粗面岩が熊野層群の頁岩(けつがん、泥が固結して堆積した岩石の一種)の割れ目に板状に貫入した。貫入された熊野層群の頁岩(けつがん)は柔らかく石英粗面岩は硬いので、柔らかい頁岩が波によって侵食されたのだそうだ。海岸に転がっている大小の岩は石英粗面岩が風化して崩れ落ちたものだ。ちょうど干潮だったのか、橋杭岩の近くまで歩いていくことが出来た。海岸はほぼ平らなのだが砂浜ではなく、これも石英粗面岩だった。つまり橋杭岩は地盤と一体形成されていて、橋脚としては最高の強度を誇っているわけだ。弘法大師も途中で工事を投げ出すとは、返す返すももったいない話だ。橋杭岩の駐車場には売店がある。ウナギの寝床のようながらんとした建物の中に入ると、両側にずらっと一人当り2mくらいの幅で地元のおばさんたちが土産物を並べている。まるで中国の自由市場のような光景だ。おばさんたちが積極的にお客に話しかけて来るのも、何となく中国っぽい。「この青真珠のネックレス、奥さんのお土産にいかがですか?2万円の品を今なら1万3千円にお安くしますよ」「ほら、お客さん。どうです、綺麗でしょ?お買い得ですよ」「それ、ホンモノなの?」とでも訊こうものなら、待ってましたとばかり、「ほら、お客さん、こっちがニセモノ、これは2千円。ね、全然違うでしょ?」「う~ん、どこが違うかわからないなぁ」「お客さん、ニセモノは傷がないの。こっちはホンモノだから、よく見ると傷があるんですよ」うううっ、綺麗に見える方がニセモノで、そうじゃないのがホンモノというのは確かに説得力がある。しかしそういう説明を聞いた後で、それでも真珠のネックレスを買おうという勇気のある人はどれくらいいるのだろう?生半可な知識しか持ち合わせていないうちは真珠には金輪際手を出すまいと思ったのはtetywestだけだろうか?不景気の波はこの自由市場にも押し寄せているようで、売上もイマイチなのだろう。店を閉めている区画がやけに気になるtetywestだった。 結局何も買わずにバスに引き返したtetywestだったが、後からバスに乗り込んでくる人たちはそれぞれに「イカの一夜干し」や「アジの味醂干し」を買い込んでいた。酒を飲まないせいかも知れないが、どうもtetywestは干物には興味がない。
2003年02月18日
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バスが串本町へ入ると、ガイドさんが橋杭岩の話を始めた。「その昔、弘法大師と天邪鬼が賭けをしました。弘法大師は串本から大島までたった1昼夜で橋を架けることが出来ると言うのです。弘法大師は次から次へと橋脚になる杭を海の中に打ち込んでいきます。もう少しで大島まで届きそうになりました。それを見た天邪鬼は慌てて鶏のときの声の真似をしました。朝が来たと勘違いした弘法大師はそこで杭を打つのを止めたために、未だに未完成のままです」tetywestは、弘法大師の伝説が日本全国いたるところに500を数えるというくらい多いのは知っていたが、ここで出会うとは思わなかった。「香川県出身者でいちばん有名な人を挙げよ」と言われたら、ダントツで「弘法大師」だろう。2位は「大平正芳」か「平賀源内」だろうが、tetywestは香川県の西の方に住んでいるので「大平首相」にしている。それはさておき、弘法大師は香川県の善通寺で生まれた。現在の「善通寺市」の名前の由来は弘法大師の建てた「善通寺」という寺なのだが、実はこの「善通」は弘法大師の父親「佐伯善通(さえき・よしみち)」の名前をそのまま使っているのだ。それは村の名前になり、やがて町の名前、市の名前になり、おまけに自衛隊の駐屯地(※有名なところでは日露戦争の乃木将軍の指揮した第11師団です)の名前にもなって、1200年たった今でも我々は弘法大師のお父さんの名前を唱え続けているのだ。何という天才、何という親孝行なのだろう。弘法大師については、これも司馬遼太郎氏の「空海の風景」に詳しいのだが、西暦804年、31歳のときに遣唐使船で唐に渡った空海は、首都長安(いまの西安)で密教の秘法の伝授を受け、2年後、仏教経典や、詩、書、工芸品など唐代文化の精髄を携えて帰国する。 この本を読んだとき、tetywestは今まで想像したこともなかった新しい空海像が見えたような気がした。それは伝説の人でも、弘法大師でもなく、生身の人間としての空海だった。唐代文化の精髄を携えて帰国したと言っても、それはあらかじめ持参した多額の金塊で買い集めてきたものだし、第一、本当は20年間帰って来れない遣唐使の決まりを破って、たった2年で帰国しているのだ。確かに唐に滞在中、空海が表わした文章の見事さ、華麗さには、唐の高位高官たちも舌をまいたとか、空海は中国語を自在に操ったばかりか、古代インドのサンスクリットにもよく通じていたといわれるように、まれに見る天才だったには違いない。しかし帰国後の政界への進出方法や最澄との密教をめぐるやり取りなどは、「まるで『山師』じゃないの」と思わせるフシが多々見受けられるのだ。まあ、凡人のtetywestが伝説の弘法大師を批評すること自体ナンセンスなので、これくらいにしておこう。同じ香川県人だし・・・・バスは国道42号線沿いの駐車場に停まった。橋杭岩はすぐ目の前だった。大小40ほどのの奇岩が大島に向かって一列に850mほど連なっている。昼食までには時間がたっぷりあるので、ここでバスを降りてゆっくりと散策する。橋杭岩
2003年02月17日
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土産物店に戻ってお土産を物色する。那智と言えばまず「那智黒石」が思い浮かぶ。tetywestは那智黒石を使ったもので何か気のきいた物がないかと探してみた。囲碁をやっている友人に言わせれば「黒の碁石は那智黒石が最高」なのだそうだ。しかしtetywestは囲碁はやらない。書道もやらないので硯にも興味がない。店内にはそれ以外に那智黒石の恵比寿様や大黒様があった。しかし、手彫りにしては値段が安すぎる。石膏のように粉末にした石を流し込んで固める方法でなければ、この値段では不可能だろう。そう考えるとどんなにいい顔をした観音様でも買う気にはならない。いろいろ見て回った結果、那智黒には違いないのだが飴にした。バスに戻ると、先ほど那智の滝で撮影した写真が出来上がっていて乗車口で販売していた。自分がどんな風に写っているのかは気になるもので、買うつもりはなかったのだがちょっと確かめてみた。意外にもそれは縦型の写真だった。鬱蒼とした杉の巨木の向こうに朝日に照らされた那智の滝の全景が写っている。皆の顔はフラッシュを使って撮影しているので明るくはっきりとしていた。右上には「神にませば まことうるはし 那智の滝 虚子」の句が浮き出ている。写真の枠の下には「JA香川県 観音寺支部専門部会」と、団体の名前まで入っていた。写真のレイアウトやアイデアが気に入ってしまったtetywestは、今までの主義をコロッと変更してこの写真を買ってしまった。どういう訳か3号車はこの写真が気に入った人が多かったようで、少なくとも20人は購入していた。そのせいかどうか、バスが出発するときには写真屋の黄緑色のジャンバーを着た人達が並んでお見送りしてくれた。バスの後ろの方で誰かが、「しかし、半分の50枚売れたとしても6万5千円やで。全然元手が要らんと、1時間でこれだけ稼げる商売は他にはないで」と、羨ましそうに話していた。確かに美味しい商売だが、これも那智の滝があるから成り立つのだ。きっとあの写真屋さんは飛滝神社へ毎年多額の献金をしていることだろう。走り始めてしばらくすると、ガイドさんが、「いまから、昨日の時間当てクイズの結果発表と表彰式を行います。名前を呼ばれた方は昨日も言ったように3万円以下の賞品を差し上げますからね」「正解は4時7分でした。4時10分と書いてくれたM像さん、おめでとうございます」「それから、惜しくも4時01分だったK保さん、それに15分と書いてくれたM鍋さん。以上3名の方に賞品を差し上げましょう・・・・え~と・・・・・・」しばらくごそごそやっている。「あれ~、M鍋さんのは5時15分やった・・・・あ~間違うてしもたわ。・・・・これは一番ハズレとるがな」また、しばらくごそごそやっている。「それでは、訂正します。4時19分と書いてくれたtetywestさん、おめでとうございます」まさかtetywestに賞品をくれるとは夢にも思ってなかったので、これは嬉しかった。「では、M像さん、箱に入ったものとビニールに入ったものと、どっちがいいですか?」M像さんは「ビニールがいい」と言い、沢庵の漬物をゲットした。「K保さん、乾いたものと湿ったものと、どっちがいいですか?」K保さんは「乾いたものがいい」と言い、饅頭をゲットした。「tetywestさん、・・・・残りものです」と渡された賞品は梅屋の低塩梅の「梅干」(500g)だった。これでこの先お土産を買わなくても、もう2つも出来てしまった。まさに「残りものに福」なのだ。ここで、バスの後ろの方からクレームが出た。「何べんも名前呼ばれて何ちゃくれんのでは、M鍋さんが可哀想やないか」ガイドさんの方も抜かりがない。「M鍋さんには『一番ハズレたで賞』を差し上げましょうね」と、那智黒飴をプレゼントしていた。こんなとっさのハプニングにも対応できる準備をしているとは、さすがにプロだ。
2003年02月16日
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2月13日の日本農業新聞の1面にtetywestの産地の「袋かけミカン」の記事が掲載されました。--------------------------完熟小玉ミカン販売好調 JA香川県観音寺支部高級戦略ズバリ・M級キロ600円多くのミカン産地が年明け販売で苦戦する中、JA香川県観音寺支部管内で生産する越冬袋がけのブランドミカン「マル曽・ふるーつ物語」の販売が、味の濃さを売りに好調だ。M級以下の小玉を越冬させた完熟物で、糖度は15~17と極めて高い。出荷ピークを迎えた現在でも、東京・大田市場でM級のキロ価格が600円台を維持している。「ふるーつ物語」は、糖の乗りやすい「宮川早生」の小玉果を選び、11月に袋をかける。出荷前の園地調査で糖度13度以上、クエン酸0.9%以下が見込める園地の出荷分だけを、ブランド品に扱う。特徴をアピールするため、茎と2~3枚の葉をつけて出荷する。出荷期間は1月下旬から今月下旬まで。同ブランドを扱う三豊みかん共同選果場は、光センサーを配備するが、葉付きのため使わず、農家が手選別で箱詰めしている。高品質ミカンとして、市場では高価格で取引されている。主力の大田市場では、M級(表記は「大」)で、出荷当初は7キロ入りケースが6000円。価格が中だるむ今でも4000円台半ばを維持する。「干ばつ気味で価格の落ちるS~2S級が多いが、最終の総平均でキロ500円~600円は見込めるのではないか」(三豊みかん共同選果場・担当)と手応え十分だ。写真のコメント:袋から出してチェックし、再び袋詰めする「ふるーつ物語」--------------------------せっかく1面に掲載してくれたのはありがたいのですが、農業新聞は業界紙ですから一般の消費者にはこのニュースは伝わりません。それで、tetywestのHPで宣伝しようという魂胆です。「袋かけミカン」については、1年前にtetywestのHPで紹介したように、全国で一番最初に取り組んだのはtetywestの産地です(※1986年のことです)。昨年12月の「市場回り」にも、「個性化商材」として「袋かけミカン」のことを書きましたが、そのときshilfy1さんやROSE13さんから、ぜひ「ミカン公開」を再度やって欲しいという嬉しい書き込みを頂いていました。tetywestも今年の袋かけミカンの糖度にはかなり自信がありましたので、再度の公開をやるつもりでした。しかし荷造りを始めてみると、新聞記事にも書いてあった通り、思ったほどミカンが大きくなっていないんです。その上、今年は鳥の被害がものすごくありました。山に鳥の食べる果実が少なかったのでしょう。ミカンに袋をかけてあるにも拘らず、まずヒヨドリがその袋に穴をあけて中のミカンを食べるんです。ヒヨドリは集団でやって来るのですが、少しミカンを食べると次の袋に、また少し食べると次の袋にと、どんどん穴をあけていきます。その後にやって来るのがメジロの集団です。ヒヨドリが開けた穴から首を突っ込んで、中身を全部食べ切るまで毎日通ってきます。まあメジロは自分では袋に穴をあけませんから可愛いもんですけどね。食べるのに夢中になってますから、人間がすぐ傍まで近づいても逃げません。そんなわけで、出荷出来る「袋かけミカン」は最初計画していた箱数には遥かに足りませんでした。産地としての数量確保は市場出荷の鉄則ですので、計画数量に足りないときは出荷できるミカンを全部出荷するのが組合員の義務です。それにtetywestは果樹部会の役員ですから、残念ながら今回のミカン公開は中止します。期待されていた皆さんごめんなさいね(涙)またいつか、きっとやりますからね~。これに懲りずに宜しくお願いします。
2003年02月15日
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那智大社の拝殿の横を通って、階段を5段ほど下りると、もうそこは青岸渡寺の境内になる。昔は神も仏も一緒に信仰していたのだから別に不思議ではない。いかにも古そうな本堂だ。青岸渡寺は「西国三十三所観音巡礼」の一番札所になっている。ちなみに2番は紀三井寺だ。しかし、tetywestは地元四国の「八十八ヶ所巡り」をする気にもなっていないのだから、こういうことにはまるで興味が無い。ぼんやり本堂を眺めていると、甲高い声が聞こえてきた。「御本堂は、太閤豊臣秀吉によって建てられました~。ですから、屋根のてっぺんには豊臣家の家紋がつけられていま~す。お寺ではここだけですよ~」「本尊は如意輪観音様で、西国三十三ヶ所の一番札所になっていま~す」「そのまま、土足で入って結構ですよ~。ど~ぞ、お参りして行ってくださ~い」「本堂と、那智大社の本殿と、那智の滝の滝口は全部同じ高さになっていま~す」「お参りした後は、あちらの広場から滝を見てくださいね~」どうやら本堂の前で御守を売っている店のおばさんのようだ。周りが静かなせいか声がよく通る。休むことなくしゃべりつづけて疲れないのだろうか、喉は大丈夫かと心配してしまうのだが、おかげ様で青岸渡寺について一挙に物知りになってしまった。本堂でお参りを済ませて、先ほどおばさんが教えてくれた広場へ向かう。ここからはちょうど正面に那智の滝が見えるが、思ったよりロングショットだった。深い緑の原生林の中に、1ヵ所だけ岩肌が表れ白い滝の水が落ちている。同じ那智の滝なのに間近で見たときとは印象がずいぶん違うものだ。近くで見た滝は「動」のイメージだったが、ここからだと山全体の「静」のイメージが強く、滝はワンポイントの「アクセント」になっている。「もう少し滝が近くに見える場所があったらいいのに・・・」と思いながら広場を滝の方向へ歩いていくと、広場の左手に道があった。時間はまだたっぷりあるので、tetywestは単独行動に出ることに決めた。道路は思ったより広くて、歩いていくと土産物屋や食べ物屋もある。もう少し行くと、何とそこには広い駐車場があるではないか。那智大社や青岸渡寺は、わざわざ石段を467段も上らなくても車で楽に来ることができるのだ。そうとわかるとなんだか御利益が半分に減ったような気分だった。「金毘羅さんには、こんな『騙し』はないぞ」と思ってしまうのは、やっぱりtetywestが香川県人だからだろうか。しかし、道路は道幅が狭く急カーブが多いので、大型バスは通行できそうもなかった。結局「団体さん」でここを訪れる限りは467段が待っているわけだ。もう少し行くと、道路の下に三重の塔が見えた。道路は大きく山を迂回してカーブしているのだが、階段の近道があったのでそこを下る。三重の塔は本堂よりかなり滝に近い所にあるので、階段の途中から見た滝はさっきよりずいぶん大きかった。それに山の緑と滝の白に三重の塔の赤が加わるので、写真を撮るにはベストポジションだった。那智の滝と三重の塔時々近道の階段を下りながら、道路に沿って広い道路まで戻る。一番下まで下りてわかったのだが、この道路への入り口には料金所が設けられていた。有料道路だとわかると、さっき半分に減ったと感じた御利益が4分の3くらいに復帰したような気分になった。
2003年02月14日
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明日はバレンタイン・デーですね。「ものの始まりなんでも堺」という言葉があるんですが、バレンタインにチョコレートというのもひょっとして・・・と思って検索してみました。さすがに堺ではなかったですが、これも関西でした。「モロゾフ製菓のHP」によると、「チョコレートに愛を託して伝えるバレンタインデーの習慣・文化をモロゾフが初めて日本に紹介したのは昭和11年(1936年)のこと。 この年の2月12日付け英字新聞『ジャパンアドバタイザー』に、ヨーロッパ各国のように、愛の贈り物としてバレンタインデーにチョコレートをお選びいただこうと、ファンシーチョコレートを広告しています。」 と謳ってありました。しかし、もう少し色々検索しているともっと面白いことが出てきました。地元神戸では「コスモポリタン」が発祥の地だと言う説もあるそうです。昭和8年 (1933年) に新聞広告で「チョコを贈ろう」と宣伝したのだと。その辺の事情については、司馬遼太郎氏の「街道をゆく・神戸・横浜散歩」に書かれてあって、要するに「モロゾフ」=「コスモポリタン」なのです。ややこしい話ですが「個人名」と「商標」という関係でそうなるようです。司馬遼太郎氏の本には「バレンタイン・F・モロゾフ」という人が登場します。「モロゾフ氏は両親とともにロシア革命から避難してきた。父君以来『チョコレートのモロゾフ』氏であったが、その商標使用権はその後、他に移った。 法律というのはおもしろいもので、モロゾフは自然人としての姓ではあっても、法人には冠せられなくなり、戦後、コスモポリタン製菓を興し、その代表取締役になっている。」結局「バレンタイン・F・モロゾフ」という個人が始めたことだったんですね。名前までが「バレンタイン」では、これで決まり過ぎでしょう(笑) ところで、最近はしっかり西洋の文化も取り入れている中国では、もちろんバレンタイン・デーもあります。それは「情人節」と呼ばれています。「情人」というのは「恋人」と訳すのがいいでしょうね、「愛人」という日本語ではちょっとどぎついですから。ちなみに中国語の「愛人」は「奥さん」のことです。そして「情人節」は「二人の愛を確かめる日」ですからやっぱりプレゼントをするのですが、日本とはちょっと違っています。贈るのは「女性」→「男性」じゃなくて「男性」→「女性」です。贈るものは「チョコレート」じゃなくて「花」です。「義理花」はありません。(笑)tetywest: 「それじゃ、何の花を贈るの?」友人: 「【王父】【王鬼】(めいくぃ)です」tetywest: 「ン?・・・何それ?」友人: 「英語ではROSEです」tetywest: 「ああ、薔薇(とてもこの漢字は書けませんでした・・・涙)ね」友人: 「真っ赤な【王父】【王鬼】(めいくぃ)を1本だけ贈ります」tetywest: 「え?1本だけ・・・どうして?」友人: 「999本でも大丈夫(笑)」tetywest: 「おいおい、そりゃいいだろうけど、お金が足りないよ」友人: 「1本は【イ尓】是我的唯一で、『アナタだけ』という意味があります」友人: 「999本は天長地久で、『ずっといつまでも続く』という意味です」tetywest: 「2本はダメ?」友人: 「2本は、アナタのほかにもう1人好きな人がいるからダメです」tetywest: 「じゃ8本は?」友人: 「8本はお金のときはいい数ですけど、情人節では良くないです」tetywest: 「じゃ、1本か999本で、それ以外は無いの?」友人: 「9本も大丈夫です。やっぱり長く続く意味です」うううっ・・・やっぱり1本だな、こりゃ・・・・・友人: 「日本の習慣の方がいいですよ」tetywest: 「それはアナタがもらえるからでしょう(笑)」友人: 「そうです」tetywest: 「でもね、日本じゃ3月14日に『ホワイト・デー』というのがあって、もらったら贈り返さなくてはいけないんですよ」友人: 「それでもいいです。中国は贈るだけですから」あ~ぁ、日本人の男で良かった・・・・(笑)
2003年02月13日
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フリータイムといっても、ほとんどの人は青岸渡寺と那智大社へ向かう。土産物屋「蓬莱閣」の店先では青竹で作った杖を無料で貸し出してくれる。「参拝が済んだらうちの店でお土産物を買ってね」というわけだ。杖には店ごとに違った色のテープが巻かれていたり、ペンキが塗ってある。これは香川県の金毘羅さんと全く同じシステムだ。tetywestは仕事柄、坂道を上るのは慣れっこになっている。それにメンバーの中で最年少なのだから、杖などは意地でも使わないのだ。ガイドさんが、「どちらへ行くにも、467段の石段を登らなくてはなりません」と脅しても、金毘羅さんの本宮まで785段、奥社までなら1368段の石段を、県外からの知人が来る度に案内しているtetywestにしてみれば、「たかだか金毘羅さんの半分じゃないの」くらいに軽く考えてしまう。参道の幅は金毘羅さんの半分くらいしかなく、狭い感じがする。金毘羅さんの石段は最初はなだらかで、上に行くにつれて次第に傾斜が急になるのだが、ここは最初から最後まで急傾斜だった。参道の両脇には土産物屋が並んでいる。しかし急傾斜に家を建てなければならないという制約上、間口はどうしても狭くなる。そうすると陳列できる品数も限られる。那智黒石を使った縁起物の彫刻や饅頭などが置いてあるのだが、どの店も何となく風雪に耐え忍んだ年月を感じさせる。というか、あからさまに言ってしまうとあまり商売が繁盛しているようには見えないのだ。そうするとなおさら購買意欲が湧いて来ない。それに金毘羅さんでも同じだが、土産を買うのは上りではなく下りの時と相場が決まっている。わざわざ荷物になる土産物を持っての山登りは誰だってやりたくない。しかし、下るにしてもこの石段はかなり厳しい。結局、杖の無料サービスと無料駐車場を提供できる、広い道路に面した土産物屋がお客を囲い込んでいるのだろう。4分の3ほど上って来た所で、石段が二又に別れている。左へ行けば那智大社、右へ行けば青岸渡寺となる。tetywestは那智大社へ向かった。那智大社の境内に入ったとたん、どういう訳か参道の幅が倍くらいに広くなった。真っ直ぐに赤い鳥居まで続いている最後の石段を上り切ると、そこに那智大社の拝殿があった。那智大社への石段「那智」とは、「河・江」という意味のサンスクリット語に由来するのだそうだ。拝殿はそれほど古くはなさそうだった。神社なので、二礼二拍一礼でお参りする。(※那智大社の詳しい説明は、「那智大社のHP」にあります。興味のある方はどうぞ)那智大社の拝殿
2003年02月12日
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那智の滝を堪能して引き返そうとした時、杉の巨木の間にふと目に留まったものがある。神社ならどこにでもある御手洗(みたらし)だった。水鉢は50cm四方くらいの小さなもので、清水が溢れ、柄杓が2つ置いてある。水鉢の正面の石には白いプラスチックパネルが懸けられていて、あまり上手とはいえない文字でこう書いてあった。お手水延命水では有りませんが飲めます。なんとも面白い表現だ。この看板を読んだ時、人はどういう反応をするだろう?tetywestはめちゃ儲けたような気がした。せっかく「延命長寿の水」で有名な那智の滝へ来たのだから、その水が本当に「延命長寿」に効果があるかどうかというような医学的な問題ではなく、土産話にでも「延命水」を飲んでみたいのが人情だろう。しかし先ほどの柵の先端から先へ行くには、値段は知らないが入場料(参拝料)が要るのだ。そして、お金を払った人だけが滝壷から流れ出る「延命長寿の水」を飲むことが出来るようになっている。つまり「延命長寿の水」は有料なのだ。ところが「那智の滝に極めて近い場所」に、わざわざ「延命水ではない」と断った、しかし無料で「飲める」水がある。こういうシチュエーションに遭遇した人の心理を考えてみると、①「な~んだ、『延命水』じゃないのか・・・じゃ飲んでも無意味だね」と、その水を飲まない。②「飲めるんだったら、とりあえず何でも飲んでおこう」と、その水を飲む。③「これは『延命水』に違いない。結界の外側なので『延命水』と呼ばないだけだ」と、その水を飲む。④「看板が胡散臭いから、『飲める』というのはウソかも・・・」と、その水を飲まない。くらいのパターンが考えられる。しかし、「延命水では有りませんが飲めます」という日本語の表現方法はとても不思議な魅力を持っている。この御手洗を見つけた人は、10人中9人までこの水を飲んでいた。「この水で飲んだら、もっとよ~効くかも知れんな」と薬を取り出している人もいるくらいだ。tetywestも飲んだ。その心理状態は当然のことながら③だった(笑)。塩素の含まれていない、ミネラルたっぷりに違いない「延命水でない水」は冷たくて美味しかった。ああ、はるばる那智の滝へ来た甲斐があったぞ。これで死ぬまで長生きできるのは確実だ!!長い石段を登って、バスの待つ駐車場へ引き返す。次は青岸渡寺と那智大社へ参拝するのだ。歩いても300メートルそこそこだったのだが、何故かバスで移動し、蓬莱閣という土産物屋さんにバスを停めた。ガイドさんから、「出発時間は1時間後の10時です」というアナウンスがあり、今回の旅行中唯一のフリータイムになる。
2003年02月11日
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那智の滝の駐車場でバスを降りると、朝の空気がひやりと冷たかった。周りを杉の巨木に囲まれて、石段が滝壷の方へと続いている。バスの号車ごとに案内してくれる人の後に続いて石段を下っていく。那智の滝を背景にした記念写真を撮るためだ。どこの観光地にもよくある、「買う買わないは出来上がりを見てからお決め下さい」という写真だ。しかし1枚1300円は高すぎる。まっすぐに石段を下りていく間、那智の滝は見えない。わざとそうしてあるのではないかとも思える。もし滝が見えれば、当然そちらに目を奪われる。すると石段を踏み外すかもしれない。石段は上から下までの距離がかなり長いので転がれば怪我をする。石段を下りる時には足許に専念できるようにとの優しい配慮なのかもしれない。石段を下りきると、いきなり杉木立の間から那智の滝が見える。ほんの100メートル先にその全容を現すのだ。これはちょっとした感動だった。おそらくこの演出は昔から変わってはいないだろう。昔、京都から20日以上かけて熊野の山中を歩き通した人々がこの滝を見たときの感動は、おそらくtetywestの比ではなかっただろう。天皇だけでなく「蟻の熊野詣」といわれるほどに一般庶民が熊野を目指したのは、ここに「那智の滝」があったからに違いない。那智の滝記念撮影を終えて、もっとよく見ようと滝に近づく。滝まで50メートルくらいのところに柵があって、滝壷へ行くには料金を支払わなくてはならない。tetywestは柵の手前まででやめた。落差133mの滝はさすがに見事だった。この滝を見ているとtetywestは何故かカリフォルニアのヨセミテ・ホールズ(滝)を思い出してしまう。どちらもその国のナンバー・ワンの落差を誇る滝だ(※ヨセミテ・ホールズの落差は754mです)。滝の雰囲気は何となく似ている。しかし、その違いを敢えて比喩するなら「那智の滝」は「女性的」なのだ。このような比喩は「男女共同参画社会」と言われる現代には誠に不適切な表現かもしれない。tetywestが「女性的」と感じた印象を別の言葉に置き換えると、「控え目」、「繊細」、「調和」になるだろうか。逆にヨセミテ・フォールズの方は「誇示」、「雄大」、「独立」とでも表せるだろう。「控え目」と感じた一番の要素は那智の滝の現れ方だ。ヨセミテ・フォールズの、公園内のどこからでも見えるロケーションではなく、那智の滝にはある特定の場所からしか見ることの出来ない奥ゆかしさがある。おまけに杉木立のベールを通してと言う、まさに「チラリズム」の極致みたいな滝なのだ。「繊細」と感じたのは、滝の水の変化と水量だった。水量に関しては雨量との関係で変化するのだろうが、tetywestが見た那智の滝は、三つに分かれた滝の水が一つに纏まり、白い筋になって絶壁を落ちていく。そして白い筋は次第に拡がり、滝壷に到着する直前ではほとんどが霧になって空中に舞いあがっている。滝壷の付近は白いベールに覆われているようだ。「調和」のイメージは滝の周りの樹木が与えるのだろう。ヨセミテ・フォールズには滝壷付近には樹木があるが、それより高いところは岩壁と空と水しかない。一方那智の滝は滝の頂部にも、岩壁の周囲にも、そしてtetywestたちが見ている場所との間にも樹木がある。滝を見ているうちに、ふとtetywestの頭に浮かんだ言葉は、「山は富士、花は桜木、滝は那智」・・・ン?ほとんどそのまんま、やんか・・・・(汗)
2003年02月10日
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1月25日午前6時45分。目覚めると、同部屋の3人はTVを観ていた。もう朝風呂にも入って来たのだそうだ。tetywestにしてみればこんな時間に起きることは滅多になく、普段はもっと遅い。7時から昨日と同じ「宴の間」で朝食だった。もう朝風呂に行く時間はない。午前8時にバスに乗ってホテルを出発する。この手の旅行でいつも感心させられることがある。ほとんどの人が大量のお土産を買うことだ。おそらく近所や親戚へ配るのだろうが、帰りのバスのトランクはお土産の入ったホテルの手提げ袋で一杯になる。tetywestは基本的に土産は家族用に1個だけと決めているので、ホテルでは買わなかった。バスは九十九折れの坂道を登っていく。両側は杉林だ。樹齢100年を超えたような見事なものもある。これを熊野杉と言うのだろう。実は、tetywestの家は築70年という古さなのだが、材木はほとんど熊野杉が使われている(ひょっとしたら吉野杉だったかもしれない・・・汗)。いずれにせよ、祖父から聞いた話では、tetywestの曽祖父がわざわざ和歌山まで材木を買いに行ったのだそうだ。当時は材木が安かったとはいえ、それでも熊野杉(あるいは吉野杉)はかなりの値段だったらしい。おかげ様で今でも障子の建てつけが狂うようなことはない。今となってはこれだけの材料を揃えることはtetywestの収入では全く不可能なので、当然建て替えの予定はない。大げさに言えばtetywestは毎日和歌山(あるいは奈良)の大自然の恵みに包まれて生活しているのだ。バスは那智の滝へ向かっている。ガイドさんが那智の滝の説明をしてくれる。「滝の落差は133メートルで、これは日本一です。滝壷の深さは10mもあります。滝全体が『ひろう神社』、飛ぶに滝と書いて『ひろう』と読みます、『飛滝(ひろう)神社』の御神体となっていて、日本3大瀑布の1つです」滝の水は「延命長寿の水」と呼ばれているそうだ。日本には「延命長寿の水」が3ヶ所ある。一つはこの那智の滝、一つは奈良の東大寺、もう一つはその東大寺のお水取りに使われる水を汲む福井県小浜市の神宮寺だそうだ。「そして、地図で『那智の滝』と奈良の『東大寺』を結んだ直線上に小浜市の『神宮寺』があるんです。これは単なる偶然とは思えません」というガイドさんの話に、またまたtetywestの想像力がくすぐられてしまった。-----------------------東大寺と言えば、昨日道成寺で見た「髪長姫」の子供、聖武天皇が奈良時代に造った寺だ。聖徳太子より150年ほど歴史が下る。聖武天皇が仏教によって国を治めようとしたのは藤原氏と反藤原勢力が激しく対立する政界に心を痛めたこともあるのだが、奈良時代に大流行した疫病(天然痘など)や自然災害(旱魃や水害)を仏法によって除去することが目的だったと言われている。早い話が仏教の経典や原理はどうでもよく、仏教に付随する実際的な効用の方を重視したわけだ。これは、宣教師が南米や東南アジアへキリスト教を布教した手段と同じようなものだろう。宣教師はまず教会を立てる。そこで子供たちに知識を教え、大人たちには農業のやり方や、医療などを教え、地域全体を豊かにすると同時に布教活動を広げていくのだ。奈良時代の仏教も、最先端の医学や農業土木学(たとえば溜め池や川の治水工事)とセットになって導入されただろう。そのために中国からは遣唐使と共にかなりの人数の僧侶たちが日本に帰化したのではないだろうか。そして、帰化した僧侶たちは日本海から太平洋に至るあらゆる地域に分散し、その地方、地方の生活を改善することに力を注ぐのだ。もちろんお互いの情報交換は頻繁に行われた筈だ。一直線に結ばれた『那智の滝』、『東大寺』、『神宮寺』は、その僧侶たちの知識に「測量」技術も含まれていたことを意味する。そして、それを東大寺の「お水取り」の行事に結び付けることが出来るほど、天皇家に対して影響力を持っていたことになる。奈良時代までの日本は、今考えられている以上に中国から帰化した人達のシンジケートの上に成り立っていたのではないのだろうか?-----------------------旅行から帰った後で、高速道路のサービスエリアでもらった地図を広げて確認してみたところ、まさに寸分の違いもなくその通りだった。
2003年02月09日
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宴会は6時15分からだった。この中途半端な時間設定は大相撲初場所のためだ。風呂から出たのはtetywestが一番遅かったのだが、他の3人はしっかりTVに釘付けだった。宴会場は「宴の間」で、席には支所ごとの立て札が立っていた。100人以上が一度に集まるので会場はかなり広い。大相撲中継が終わった頃にみんながどっと集まり、時間どおりに始まった。JA幹部の挨拶があり、乾杯があり、後は食べて飲んでしゃべって・・・といういつものパターンになる。酒の飲めないtetywestの宴席での楽しみは何といっても料理だ。どんな温泉でも、そこでしか食べれない料理を必ず1品は用意してあるものだ。那智勝浦町は漁港なので海の幸は豊富だろうと予想していた通り、マグロ、イカ、エビ、サザエ、タコ、ウナギといった新鮮な魚を使った料理が美味しかった。膳の上には珍味、お造り、向こう付け、小鉢、蓋物と並んでいて、鍋物は宴席が始まるとすぐに点火してくれる。揚物、蒸し物は温かいのを運んできてくれる。鍋物を食べ終わると、今度はステーキを乗せてもう一度点火。最後にはご飯とお吸い物、漬物が出て、その後メロンとイチゴのフルーツという、会席フルコースだった。これだけ品数が多いと最後のご飯は食べたくないくらい満腹になるのだが、かつうら御苑の料理は最後のフルーツまで食べ終わって、ちょうど心地よい満腹感が味わえる量だった。宴会が始まってまもなく、水色のスーツの制服のコンパニオンがステージの前にずらっと並んで挨拶する。あまりの数の多さに、思わず人数を数えると12人だった。しかし、よく考えると我々は100人以上いるのだ。8人に1人なら妥当なセンだろう。tetywestの列の担当は、少し彫りの深いマスクの背の高い女性だった。どことなく神秘的な雰囲気も漂う。ひょっとしたら熊野マジックにかかっているのかもしれないと、「あなたは日本人離れしてるけど、何系?」と、あてずっぽうに訊いてみた。返ってきた答えは、「ブラジル系が4分の1です」だったので、びっくりしてしまった。両親がブラジルから東京に帰って来てそこで生まれたのだが、中学の時、こちらへ引っ越して来たのだそうだ。それも仕事の関係での引越しではなく、両親がこの町を気に入ったからなのだそうだ。「う~ん、この地方にはよその国からの人を温かく受け入れる風土が2000年以上前から培われているのかもしれないぞ」と思ったのだが、それ以上深く詮索するのは止めた。昼間の仕事はバスガイドをしているとの事だったので、昼間から疑問に思っていた「王子(おうじ)」のことを訊いてみた。「王子とは昔、天皇が『熊野詣』をされた時の休憩所や宿泊所のことです」とのことだった。「熊野詣は平安時代に始まり、『蟻の熊野詣』といわれるぐらい盛んになりました。京都から1回の往復に20日以上もかかったんですよ」なるほど、なるほど。宴会はちょうど2時間で終了した。これ以上長かったら時間を持て余すところだった。農家が100人いるといっても、栽培する品目が違っているのでtetywestの知り合いはほとんどいない。同年代なら作目が違っても顔くらいは知っているのだが、おそらく今回の旅行参加者の中でtetywestは最年少だろう。この歳で最年少ということは、いかに農家の高年齢化が進んでいるかの証拠でもある。悲しいかなこれが日本の農業の実態なのだ。tetywestは料理が運ばれてくると黙々とそれをたいらげ、専らJAの支所長や営農部長と話をしていた。さて、時間はまだまだ8時半なのだ。夜はこれから・・・tetywestはさっそうと温泉街に繰り出した・・・と言いたいところなのだが、そうではなかった。部屋に帰って「千と千尋の神隠し」を観てしまったのだ。この不景気の折、鄙びた温泉街へ繰り出すよりも、こっちの方がよっぽど感動を味わえる・・・・と言うのも何かヘン?観終わった時、同部屋の3人は完全に夢の中だった。
2003年02月08日
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部屋割りカードに従って307号室に入ると、海に面した和室だった。地区ごとに部屋を割り当ててあるようで、307号室は4人とも同じ地区の役員だった。浴衣に着替えて、早速温泉に入る。大浴場「滝見の湯」と名付けられた温泉は、全面の窓ガラス越しに太平洋が見える。ガイドさんの話では勝浦温泉には多数の温泉源があり、泉源ごとに湯の種類が違っているのだそうだ。「かつうら御苑」の温泉は若干塩分を含んでいる硫黄泉だということだったが、塩辛くもなかったし硫黄臭も感じなかった。ガラス戸で仕切られた外側には露天風呂がある。外に出ると、湯に浸かって火照った身体に冷たい風が心地良い。露天風呂は2つあるので、まず大きな方に入る。到着時間が早かったからか、風呂に入っているのは我々の団体だけのようだ。露天風呂には先客が2人しかいなかった。垣根の向こうはすぐに海だ。かつうら御苑は海に張り出した半島の先端付近にあるので、正面の海は太平洋といっても湾内になる。そのために波は静かだった。海は右手に向かって広がり、その先は水平線が海と空を隔てている。地球は確かに丸いということが実感できる。左を見ると、手前は濃緑の、そして遠くなるにつれて霞んだような群青色に変化していく幾重もの山々が連なっている。空を見上げると、夕日のあたる側だけ朱色に輝いた白い雲の一団がゆっくりと南から北へと流れていく。今ここには、湯に浸かったtetywestとゆったりと流れる時間と海と山と空しか存在していない。まさに「大自然の恵みに身を委ねる」心境だ。何が恵みなのかと言うと、やっぱり「温泉」なのだ。こういう時には「日本人に生まれて良かった」と思ってしまう。アメリカ人にこの気持ちは到底理解できないだろう。tetywestは今までに、たとえばグランドキャニオンのような、これよりもっとスケールの大きな風景の中に身を置いたことはある。しかし、グランドキャニオンを見ながら温泉に浸かることは出来なかった。もしアメリカ人がこの心の贅沢を理解できるのなら、グランドキャニオンには絶対温泉がある筈だ。話が飛躍するが、tetywestは「日本人の温泉好き」は「世界の変態ベスト10」にランク入り出来るくらい奇妙な風習だと思う。温泉に含まれる薬効成分による「病気の治療や滋養効果」とか、湯に浸かることによる「リラックス効果」は、西洋でも古代ローマ時代から認識されていた。しかし、風呂に入る時に何の躊躇もなく人前で全裸になるのは、おそらく日本人だけだろう。ヨーロッパにも中国にもこんな風習はない。日本に住んでいるアメリカ人が、「もしUSAで、『一緒に裸になって、温かいプールに入りませんか』と誘う人がいたら、次の日からなるべくその人とは口をきかないで済むような対策を考えるでしょうね」と笑っていたが、「江戸時代までの温泉や銭湯は男女混浴だったんですよ」と言うと、「OH MY GOD!とっても信じられない」と驚いていた。中国では「湯に浸かる」という習慣さえほとんどなく、普通はシャワーだ。なぜ日本人は人前で平気で裸になって温泉や銭湯に入れるのだろう。tetywestにもよくわからない・・・が、これだけは言える。それが日本の文化なのだ。
2003年02月07日
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新宮市を過ぎると、車窓には海が広がる。太平洋だ。いつも瀬戸内海しか見ていないtetywestは、「太平洋」に一種の憧れをもっている。第一、大きさが違う。海の大きさもさることながら、波の大きさも違う。天気予報では毎日のように「香川県の波の高さは50センチ、高知県の波の高さは2メートル」というのを聞かされているのだ。別に「大きいことがいい事」ではないのだろうが、自分に無いものは羨ましいものだ。tetywestが初めて太平洋を見たのは小学校の修学旅行だった。坂本竜馬の銅像を見た後、桂浜に降りて行くと、そこは太平洋だった。「ザッバ~ン、ザッバ~ン」と打ち寄せる波のサイクルが瀬戸内海とは違っていた。波は白い泡を立てながら砂浜を5~6メートルも駆け上ってくる。桂浜では、何度も何度もその波を追いかけては、また波に追いかけられて時間を過ごした記憶がある。そして、もう一つ瀬戸内海にないもの。それは対岸が外国だということだ。小学生当時のtetywestにとって、外国は「♪海にお船を浮かばせて、行ってみたいなよその国♪」という完全に未知の世界だった。引率の先生の「太平洋の向こうにはアメリカが見えるかも知れんぞ」という言葉を冗談だとは知りつつも、tetywestは桂浜の沖を一生懸命眺めていた。その時は、10数年後に本当に太平洋を越えてUSAへ行くことになろうとは夢にも思っていなかった。後に司馬遼太郎の「坂本竜馬」を読んだとき、太平洋を見て育った環境が、竜馬にUSAへの関心を抱せた一番の原因ではなかったかと感じたものだ。そして、ロス・アンゼルスに住んでいる日系の漁師は和歌山県出身者が圧倒的に多いということもUSAで知った。しかし、新宮市で見る太平洋はtetywestのイメージの中の太平洋よりずっと静かだった。ただ、海の色は瀬戸内海よりずっと濃い青色だ。船に乗っている友人から、「海にはそれぞれの色がある。『黒潮』は名前の通り『黒い』のだ」と教えられたことを思い出した。太平洋(新宮市付近)新宮市で国道42号線に入った時、バスの時計は4時少し前だった。ホテルが近くなってくるに連れて、バスの中は到着時間の話題で賑やかになる。ガイドさんが発表したところによると、予想は4:30付近に集中していて、一番早い人は4:01、次が4:10なのだ。バスの後ろの方から、「こりゃ、着くのが早すぎるが。お~いガイドさんよ~、小便がしたいきにその辺で停まってくれんかの~」と小細工を提案する者もいるのだが、ガイドさんもしたたかなもので、「新宮市から那智勝浦にかけての国道42号線は、トイレ駐車禁止になっております」と受け流す。tetywestは宿泊するホテルの名前も全く覚えていなかった。自分が企画しない旅行の場合、どこへ行くのか本当に「アナタ任せ」になってしまう。那智勝浦町に入ってからホテルまでは意外に近く、「かつうら御苑」に到着したのは4時7分だった。tetywestの予想はかなりハズレてしまったわけだ。残念・・・・
2003年02月06日
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さて、HPのトップに「ミカンと中国の話題です」と掲げてあるtetywestが、このまま新宮市を素通りするはずがないと訝ってらしたアナタ・・・鋭いです(笑)せっかく新宮市まで来て「徐福」のことに一言も触れずにホテルへ着くわけにはいかない。徐福伝説とは、紀元前219年、秦の始皇帝の時代に童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、仙人と不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った一団がいた。それを先導したのが秦の始皇帝からその命を受けた「徐福」だったというものだ。この伝説の根拠になっているのは、中国の最も古い歴史書である「史記」にこの一団の話が書かれているからだ。「史記」は紀元前100年頃に完成されたもので、非常に高い学術的権威をもった大著とされている。徐福の事件は「史記」の完成わずか100年前の出来事である。「史記」には「徐福または徐市(じょふつ)は斉(せい)の国琅邪(ろうや)の人なり」と書かれている。徐福が実在したかどうかは日本では確認不可能だろう。何しろまだ文字がなかった時代なのだ。中国でも今まで調べられたことはなかった。しかし1982年、徐福の子孫が住む「徐福村」(現在の中国江蘇州かん楡県徐阜村)が発見されたのだ。これによって「徐福」は伝説の人から歴史上の人物になった。「徐福伝説」は日本各地にあるようだが、新宮市には江戸時代に造られた徐福の墓がある。それに日本最初の歴史書である古事記には「神武天皇が八咫烏(やたがらす)に案内されて熊野から大和に入った」と書かれている。そして、その後の天皇の「熊野詣」と来れば、tetywestの想像力はいやがうえにも膨らんでしまう。以下は勝手なtetywestの空想の世界である。----------------------------今から2200年程前、中国から亡命集団が南紀熊野に漂着した。そのリーダーは徐福だった。徐福は医者だった。秦の始皇帝から不老不死の薬を探すように命じられるほど優秀だったが、徐福は始皇帝の圧政に批判的だった。「そのうち私も始皇帝に殺されるだろう。それなら、いっそのこと海外逃亡だ」しかし、徐福は用意周到だった。一人で逃げたところで所詮野垂れ死にするのは目に見えている。そこで一族を説得し、みんなで新天地を目指したのだった。ちょうどメイフラワー号に乗ってUSAへ最初に入植したピルグリム・ファーザーズ のように・・・徐福の一族は南紀熊野一帯を基盤として次第に繁栄し、何世代かが過ぎていった。そこへやって来たのが若き神武天皇だ。大阪の地方豪族に負けて怪我をしていたのかもしれない。医者の血を引く徐福の子孫なら、神武天皇を介抱しただろう。神武天皇も怪我の療養中に、この地方に今まで見たこともなかった文明が存在することに驚く。医学はもとより、政治学、農学、土木工学、そして儒教に基づく社会秩序もあったかも知れない。孔子は徐福より300年も前の人なのだから・・・そして神武天皇は、日本統一という自分の夢を一族に熱く語っただろう。そのためには徐一族の助けがどうしても必要だとも。一族はその理想に共鳴し、協力を約束する。怪我も回復して元気になった神武天皇は、熊野から大和を目指すのだが、何しろ険しい山ばかりなのだ。どこをどう進んでいいのか全く見当がつかない。そこで早速、徐一族は道案内を引き受けるのだ。八咫烏(やたがらす)は古来中国から伝わった鳥で、帰化人のシンボルのようなものだった。こうして、神武天皇は日本統一を成し遂げ、大和朝廷が生まれる。もちろん、それ以後も国政の運営には徐一族の知恵が大いに役に立ったことだろう。徐福は秦の始皇帝の中国統一を知っていたのだから。徐一族は都に招かれ、手厚い待遇を受ける。この神武天皇と徐一族の話は代々天皇家に極秘に語り継がれ、「熊野」は天皇家にとって聖地となるのだ。後の天皇が何度も「熊野詣」に出かけるのも、そう考えれば納得できる。聖徳太子と京都の秦氏(はたし)との友好関係は有名だが、くしくも「秦」は始皇帝が創った国の名前なのだ。さらに進んだ中国の文明を取り入れたいという聖徳太子の願望によって、小野妹子が隋へと派遣されるのだった。----------------------------
2003年02月05日
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バスは熊野川に沿って下っていく。山半分が削り取られて、見事な柱状節理が剥き出しになっているのが見える。熊野灘の海岸線は柱状節理の地形が多く見られるので、それが山の中までずっと続いているのだろう。いまさら理科の復習でもないのだが、ガイドさんが柱状節理の出来る理由を話してくれた。ぶ厚い溶岩がゆっくりと冷えると、体積が収縮する。そのとき割れ目は冷却面に垂直に低温側から高温側へ、つまり外から内側へ伸びる。こうして柱状節理が出来るのだが、断面は基本的に6角形になる。tetywestが柱状節理の6角形の断面を初めて実際に見たのは中学2年の時で、場所は東尋坊だった。船に乗って海上から蜂の巣状になった岩を見上げた記憶がある。ただし、その時はどうしてそうなるのかはわかっていなかった。熊野川の柱状節理 しばらく熊野川を下っていくと、一本の川が合流する。その川は北山川で、上流には「瀞峡(とろきょう)」があり、瀞八丁(どろはっちょう)とも呼ばれている。熊野川と合流した地点から500メートルほど下流の「志古」という所からジェット船に乗って観光できるそうだ。国道沿いに「瀞峡ジェット船乗り場」と書かれた建物があった。北山川をもう少し上流に行くと、「全国唯一の飛び地の村」=「北山村」がある。村の周りは奈良県と三重県に囲まれているのに、何故か和歌山県なのだ。(※なぜ飛び地になったのかは「北山村ホームページ」に書いてあります)去年の夏、tetywestが「京都への旅」で「保津川下り」を書いている時に、和歌山県出身のshilfy1さんから教えてもらったのだが、ここには「筏下り」がある。ライフジャケットの着用が義務付けられ、健康保険証を携帯していなければ参加できないという、かなりワイルドな川下りらしい。それを知ってからというもの、ぜひ機会があれば体験してみたいと思っているtetywestだったので、地理的な目星がついただけでも来た甲斐があったというものだ。しかし、実際にここまで来るとなると、香川県からはかなり遠い・・・いや遠すぎる(涙)やがてバスは熊野川から逸れ、トンネルに入った。そして、短いトンネルを抜けると、そこは「新宮市」だった。道路の両側は家並みが続いている。川と山と空しかなかった風景が一変して、急に人間臭くなった。「新宮市は『熊野速玉大社』、『徐福の墓』、『浮島の森』が有名です」とガイドさんが説明してくれる。熊野速玉大社の神木は「ナギの木」で、その葉脈が特徴的なのだそうだ。細い葉脈がたくさん平行に走っていて切れにくいために、縁結びにご利益があるといわれている。「新宮市の国道42号線沿いの街路樹にも使われています」とのことだったので、どんな木なのか、またどんな葉っぱなのか興味深々だったのだが、残念なことに見つけられなかった。バスはあっという間に新宮市を抜けて、一路今夜の宿泊先である那智勝浦町へ向かう。
2003年02月04日
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今回の「南紀の旅」はいきなり「道成寺」から始めてしまったので、tetywestがどうしてバスに揺られているのかをまだ説明していない。実はこの旅行も「JAがらみ」なのだ。JA観音寺支部には生産される農作物別に専門部会がある。思いつくままに並べてみても、レタス、イチゴ、ブロッコリー、タマネギ、露地ミカン、ハウスミカン、キウイ、花、畜産・・・と、かなりの数になる。専門部会は農家の代表が役員になって、生産や販売に関するいろいろな事がらを決定する。tetywestは「果樹部会」の役員になっている。専門部会の役員の任期は3年で、今年は最終年度にあたる。「役員の皆様、ご苦労さんでした」という慰労を兼ねて、3年に1度JAが「専門部会役員研修旅行」を企画している。したがって旅費はタダなのだ。今回の旅行の参加者は100人を超えている。果樹部会からは5名の参加だった。役員はそれぞれの支所ごとに3台のバスに分乗し、JAの管理職も同行している。一応「役員研修旅行」という名目なのだが旅程表に研修先はなく、もろに慰安旅行だった。バスの中でビール、酒、コーヒー、ジュースが飲み放題なのはJAの旅行では常識のようだ。それぞれのバスにガイドさんが1人ずつ同乗して、バスが通過する地方、地方の歴史や文化を説明してくれる。車窓の風景を眺めながらガイドさんの話を耳を傾ける旅というのもなかなか楽しいものだ。中辺路のふれあいパーキングでトイレ休憩をした後、「今から、時間当てクイズをしましょう。ホテルに到着する時間を書いてください」と、ガイドさんから紙が回ってきた。「正解された方には3万円以下の賞品を差し上げます」との説明に、バスの中が急に盛り上がった。「ホテルまでは約70kmあります。ホテルに着いて運転手さんがサイドブレーキを引いた時の時間を当ててくださいね」と言う。そのときの時間は午後2時だった。tetywestは、この山道ではいくら国道でも平均時速は35km/hくらいのものだろうと、4時19分と書いた。山の中の渓流に沿って上っていたバスは、峠を越えて下り始め、やがて大きな川に突き当たった。熊野川だ。ここからは国道168号線になる。「イロハ」国道とは覚えやすい。上流に行けば熊野本宮大社がある。さらに上流に行くと奈良県の十津川村へと続いている。しかし、バスは熊野本宮大社には行かないで下流に向かって走る。熊野川は川幅が広いので、山の中を走っていたときより空が大きくなったように感じる。熊野川所々で護岸工事をしている。去年大雨が降って、熊野川はかなり水位が上がり、岸が削られたのだそうだ。ガイドさんが十津川村を襲った洪水の話をしてくれた。明治22年の洪水で十津川村はものすごい被害を受け、翌明治23年に村をあげて2500人が北海道へ移住したのだそうだ。そして「新十津川村」が出来た。明治23年といえば、偶然にもtetywestの産地に初めてミカンが植えられた年と同じだった。今から115年前のことだ。(詳しい資料は新十津川町ホームページの新十津川開拓史にあります)
2003年02月03日
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「安珍・清姫」の話を聴き終わってバスの駐車場へ向かっているとき、いつもの癖でtetywestには意地悪な考えが浮かんだ。「この話がホンマに1000年も語り継がれるほどありがたい話なんやろか?」平たく言ってしまえば「男女の痴情関係のもつれ」が引き起こした事件に過ぎない。この程度のことなら日常茶飯事とはいかないまでも、いつの時代でも珍しい話ではないだろう。それを女人禁制の寺がわざわざ取り上げるのも変な話だ・・・と、ここまで考えてハッと気づいたことがある。この話は「女人禁制」のお寺の坊主に聞かせるための説教なのだ。仏の道に入った坊主でも、最も迷いやすいのは女性だろう。tetywestの同級生にも坊主がいるが、確かに「女好き」だ。そこで、「女は怖いぞ、焼き殺されるぞ」と若い修行僧達に言い聞かせたのだろう。一方的に女性側が迫ってくるという設定も、そう考えればなるほどと納得できる。もう一つ、住職さんは説明を省略したのだが、巻物の下巻の最初にはやけに詳しい髪長姫から始まる道成寺の成り立ちが描かれてあった。この事といい最後の結末といい、巻物の本体は「道成寺のCM」なのだ。これを1000年やり続けたのだから、道成寺は有名になって至極当然だろう。さすがにそこまで露骨にCMをしなくても十分有名になった現代では、「西方浄土」を「妻寶浄土」と言い換えて、「妻を、そして家族を大切にすると、家の中が平和になっていつもにこやかに過ごせますよ」という説教でまとめている。「説教は世につれ、世は説教につれ」ということだろう。今日予定されている観光は道成寺だけだった。バスは国道42号線をひたすら南へ走る。普段は夢の中にいる早朝からバスに乗り続けているtetywestは、この後知らぬ間にうとうとしていた。気がつくと、バスは山の中を走っていた。ガイドさんが車窓の風景について説明しているのをぼんやり聞いていると「おおじ」という言葉が何度も出てくる。どうやらバスは田辺市から国道311号線に入って「中辺路(なかへち)」の辺りを走っているようだ。「もう少し先に『安珍・清姫』の清姫が生まれた所があります」というガイドさんの声で、ようやく頭がはっきりしてきた。バスは清流に沿って上っていく。この辺りは山がかなり深そうで、杉やヒノキの林ばかりだった。やがて、橋を渡って右折するときに、「清姫の里」と書かれた看板が見えた。清姫はこんな山奥出身だったのか。確かに、嫉妬でヘビに変身する女性の出身地が、奈良や京都のような大都会だったのではどうもしっくりこない。こんな草深い田舎出身だった方が「さもありなん」という気がするから不思議なものだ。
2003年02月02日
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中国では「春節」と言って、今日がお正月です。特別な日ですからtetywestも「南紀への旅」はお休みします。昨日の会議でショッキングな話を聞きました。「日本人が1年間に食べる米の量は次第に減少して、64kgになっています。1日に換算すると175g。1合ちょっとです。もしコシヒカリ級のお米を買っても、それに使うお金は1日たった66円です。自動販売機でジュースを買っても120円要る時代に、主食であるお米にはたった66円しか使っていないのです。そして消費者は『それでも高いから、もっと安い米を』と言っているのです」皆さん、この話をどう思われますか?おそらく農業に関心のある人なら誰でも、お米の一人当り年間消費量が64kgだということはご存知でしょう。そして、米の価格維持政策が政府の手を離れて、市場原理にゆだねられようとしていることも。でも、これだけ身近な数字を示されると、改めて「お米って安い」と感じたのではないでしょうか。ミカン作りのtetywestには直接関係ないことだと思われるかも知れませんが、これが今の日本農業の一番根底に共通した問題なのです。消費者にすれば、「買う物は安ければ安いほど良い」に決まっています。今や電気製品や衣料品等の製造業は価格競争に打ち勝つために東南アジアや中国へその生産拠点を移しています。しかし、お米は工業製品ではありません。日本で作ると人件費が高いからといって日本の農家は中国で米を作ることは出来ないのです。このままでは日本の稲作農家はほとんどなくなるでしょう。「辞めた農家の土地を集めて規模拡大すれば、もっとコストを下げることができるじゃないの」とお考えの方もいらっしゃるかもしれません。理論上はその通りです。でも、実際に10ha規模で稲作をやっている方はこう言います、「水管理が大変なんだよ。こっちの田圃はこの池から、あっちの田圃はあの川から水を引くと言うように、水系がバラバラなんだ。水を引く時間も決められてるから、夜も眠れやしない」日本では1000年かかって、限りある水資源を最大限に有効利用する稲作体系が出来上がったのです。これは田舎の文化そのものと言っても過言ではないでしょう。昔の人は言いました、「お米は88回手間がかかってるんだよ。だから八十八と書いて米と読むんだ」「もっと安い米がほしい」という消費者の欲求は、狭い土地をみんなが力を合わせて濃密に管理してきた田舎文化を破壊することなのです。そして田舎文化を破壊して、無理をして10haの規模に拡大出来たとしても、所詮USAの100分の1程度の規模なのですから国際競争に勝てるはずはありません。しつこいようですが、これは稲作に限らず、ミカンも、野菜も、ニワトリも、すべての日本農業に共通した問題なのです。では、どうすれば田舎の文化が守れるのでしょう?それは、消費者が「1日66円支出しているお米代を、明日からは88円出してもかまわない」と考えることなのです。米は八十八なんですから。
2003年02月01日
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