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15歳の夏。女学校で予科練の軍服のボタン付けをしていました。7つボタンが綺麗でした。ただ軍服のサージの生地が厚くてなかなか針が通らず、力を入れ過ぎて針が折れたり指に刺さったりして、指から血がにじみました。指ぬきはとっくに軍隊に接収されていました。結婚指輪も出す時代でしたから。鉄砲の弾にしたんでしょうね。血で軍服が汚れないように、また指ぬきの代わりに布を指に巻きました。ひとつでも金ボタンが無くなると大騒ぎになり、全員が手を止めて必死に探しました。見つかるまで。お国の大切なものですから。女学校は戦争中、授業どころではありませんでした。もっと勉強がしたかったですね。 15歳の少女の体験した戦争は、厚いサージの生地との戦いでした。 白く小さな手に、針が刺さり血が滲む中、 「金ボタンが綺麗だった」と追憶なさる焦点が少女らしさを物語り 健気さと切なさを感じます。 貴重なお話をありがとうございました。 文責 デイサービスさくらんぼ 柳靖子
2014年08月27日
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デイサービスさくらんぼのさくらんぼ女学院では 来年終戦70年の節目を迎えるに当たり 終戦記念日となった8月15日に時系列を併せて 《文集》を作り始めました。 敢えておばあさまがたの記憶に定めたのは 戦場ではなく日常生活の中にあった戦争に対して 少女たちの瞳は何を見つめ何を考えていたのかを 記録に残す必要性を感じたからです。 私の母は昭和16年生まれ(74歳)。 終戦が4歳です。 戦争の記憶は、3月10日の東京大空襲を 浦和の疎開先から眺め 「夕焼けよりもきれいだった」ことしか 覚えていないと申します。 昭和11年生まれの父(79歳)でさえも 信州の松本で生まれ育ったので 「ほとんど空襲も無く 空腹を感じることもなかった」と振り返ります。 学徒動員で出征した兄も無事に帰ってきましたので 身内の戦死の悲しみも体験していないということでした。 今85歳以上のかたでないと もう戦争のお話は聞けなくなり 90歳以上のおじいさま方が かろうじて学徒動員の記憶などを語ってくださいます。 デイサービスでの新たな役割を感じています。 今しかお聞きできない・・・ 来年では間に合わない・・・ そんな想いの中で丁寧な聞き取りを始めました。 ご本人の許可をいただいた貴重な追憶文を 連載で掲載いたします。 デイサービスさくらんぼ 施設長 柳靖子
2014年08月27日
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「終戦の日 どこで何をなさっていましたか・・・?」 「女学校で軍服のボタン付けをしていたの。 15歳。金のボタンが綺麗でした。 紺の生地が厚くて針が通らなくて・・・ 勉強したかった」 「車掌さんが兵隊に行かれて 代理で切符を売っていました。 飛行機から乗っていた電車が狙われて... 田んぼに隠れたの。白いセーラーが泥だらけに・・・」 「軍医の父が戦地に向かう潜水艦で戦死の知らせを 疎開先の寄宿舎で聞きました。 女医になれたのは疎開先の先生と母の苦労のおかげでした」 「夫が戦死。2人の子供がいました。 戦争が終わった・・・と思いました。 だけど中学2年の弟が《悔しい》と庭の石の上で 泣いて泣いて・・・その姿が終戦記念日の記憶ですね」 「繰上げで小学校に先生に。 17歳です。ぽっかりと心に穴が開いて 教室のオルガンで《海行かば》をぼんやり弾いていたら 校長先生に叱られました。 前の日まで戦争だったのに・・・」 「19歳で従軍看護婦に。 終戦の前日に終戦の情報が入り 傷病兵を乗せられるだけトラックに乗せて藁をかぶせて 助からない兵隊さんには手榴弾を配ったの。 トラックは走れる限り走りました。 次から次へと後ろの橋が爆破されました。」 何時間も語りつくせない一日。 終戦記念日というけれど戦争は終わっていないのです。 私の介護施設が特別なのではなくて介護施設の数だけ お年寄りの数だけ終戦の記憶が日本中に あるはずなのです。このまま忘れてもいいの・・・?まだ間に合うかもしれない・・・。 少女たちの戦争の記憶が聴ける そして記録に残せる最後の世代が今の85歳~90歳の おばあさまたちなのです。 「無駄な戦争だったわね・・・」 「勉強がしたかった・・・」その一言一言が重く本当は一番きれいだった一番楽しいはずだった青春の時間。でも誰も 「返して!」とおっしゃらないのです。そんなことを言っても命も時間も帰ってこないことを知っているからなのでしょう。 淡々と受け止めて淡々と生き抜かれている大和なでしこのデイサービス。 私は少しでもその青春に報いたいと誓いました。 松戸市 デイサービス さくらんぼ 施設長 柳靖子
2014年08月16日
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