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1月2日は言葉たらずで、おわかりにくい箇所も多々あったかと思います。整理します。1.天智天皇率いる日本国と孝徳・斉明天皇率いる倭国とで抗争していた。2.天智天皇は大阪の孝徳天皇を破り、近江の大津に遷都した。 大阪を避けたのは飛鳥に逃げ込んだ斉明天皇に山と海からの挟み撃ち攻撃に備えてです。3.7年の抗争の末、斉明天皇も敗れ、日本国は倭国の吸収合併に成功しました。4.天智天皇は孝徳天皇の妃=乳娘(ちのいらつめ)を後宮に加え(おそらく美女だったのでしょう) 遠智郎女(おちのいらつめ)の尊敬語の「お」をかぶせ昇格させた。 おちのいらつめには連れ子 (うののさららのひめみこ=持統天皇・大友皇子=弘文天皇・あべのひめみこ=元明天皇)がいました。 天智天皇はおちのいらつめにゾッコンだったのでしょう。 弟分の大海人皇子=天武天皇の妃にうののさらら=持統天皇を、自分の後継者に大友皇子=弘文天皇を指名し 日本・倭の融合をはかりました。5.天智天皇失踪(後日詳細を説明。崩御でなく)後、近江政権のトップになった弘文天皇でしたが、25歳の若さ で病死。後継者問題が発生しました。6.もちろん弘文天皇に気を使って吉野に隠遁した大海人皇子も後継者候補に挙手しました。 おそらく天智天皇の皇子成人まで後見人を買って出たのでしょう。 三種の神器も受け継ぎました。 ここに大海人皇子は天武天皇として初めて「天皇」という称号を使いました。7.しかし、倭国の復活を期するうののさららのひめみこは言葉巧みに夫の近江行きを引き留めます。 妻は正当な倭国の後継者、夫は任那系王族の末裔ですが、すでにほろんだ国の王族の末裔では頭があがりません。8.うののさららのひめみこは、こうして天武天皇に飛鳥浄御原宮を造営させます。 飛鳥浄御原宮は飛鳥板葺宮跡ですからうののさららのひめみこは斉明天皇宮跡地を復活させたのです。9.では近江朝には誰が残っていたのでしょう? 私の想像は若き日の藤原不比等ではなかったかと考えます。 藤原不比等は政界への登場が遅く、前半生は謎に包まれていました。 おそらく日本書紀は近江朝の存在を抹殺していたので、不比等の前半生も抹殺されたのでしょう。10.天武天皇死後、藤原不比等は近江朝を裏切り、天武天皇のあと即位したうののさららのひめみこ=持統天皇に ついたのでしょう。 その後、孫の聖武天皇は大仏建立しました。 仏教徒である倭国民の戦意高揚をはかったと思います。 しかし融和政策も忘れず、皇女の井上内親王を天智天皇の孫白壁王(のちの光仁天皇)に嫁がせています。11.不比等去ったあとの近江朝には誰がいたのでしょう? 成人した天智天皇の皇子たち(施基皇子)を中心とするメンバーと思われます。 錦の御旗(三種の神器)は飛鳥朝廷に奪われていたので、目立った動きは控えていたかもしれません。 飛鳥朝廷側も、天智天皇の皇子を攻撃すれば、バックの唐・新羅が脅威となるので、こちらもうっかり手を 出せない。 こうしたにらみ合いが藤原仲麻呂の乱まで続いたと考えます。12.藤原仲麻呂=恵美押勝は当初、孝謙天皇を傀儡として実権を握る予定でした。 ほぼ達成されましたが、道鏡の出現で彼は焦ります。 舎人親王の皇子=大炊王を天皇につけるよう画策し、成功しますが、道鏡も退けようとした途端、女帝の 逆鱗に触れます。 仲麻呂は敵対していた勢力=近江朝と手を組みます。 しかし、史実の通り仲麻呂は敗死。 近江朝崩壊の危機に瀕します。13.しかし、女帝の道鏡寵愛を面白くない各豪族(藤原氏・吉備氏・大伴氏)は女帝を裏切ります。 道鏡が天皇になったらこの国はどうなるのだ?という思いもあったでしょう。14.戦闘の末、孝謙天皇=称徳天皇は道鏡とともに下野へ逃げます。 白壁王軍も深追いはしませんでした。15.しかし、禍根を断つため白壁王は聖武天皇皇女の井上内親王とその子他戸皇太子(おさどこうたいし)を 処刑します。 ここで倭国伝統の女王制は消滅しました。 皮肉にものちの400年平安な時代が訪れたのです。※ 現代の我が国も一党独裁になったことで平安が訪れるかもしれません。 ただ、平安時代庶民の生活は貧困を極め一部の皇族・貴族のみが栄華を極めていました。 庶民の貧困の上に成り立つ平和ではたしてよいのでしょうか? 歴史は繰り返すといいますが、学んだほうがいいと思うのは私だけでしょうか?
2016/01/05
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今年は少々、妄想日を増やそうと思っています。よろしくお願いします。今年は、昨年末に引き続き、壬申の乱架空説を展開したいと思います。壬申の乱には納得しがたい(こじつけ)が多々散見されると思います。1.天武天皇は圧倒的不利な状況から大逆転したとされる。 さらに天皇に戦いをしかけることは逆賊行為であり、諸豪族が次々味方するとは考えにくいのです。 日本書紀は壬申の乱の項で、すでに大海人皇子を天皇よばわりし、大友皇子はあくまで天皇になっていないと 言い張ります。 それはそれで「勝てば官軍」ですから仕方ないとしても、天智天皇崩御後半年も天皇不在という状況は不自然 です。 日本書紀はその前に伏線をはり、斉明天皇崩御後、中大兄皇子は7年も天皇にならず称制と称して政務をとったと 主張しています。 しかしよくよく斉明紀と天智紀を比較すると、かなり記事が似ているのです。 一例は 「斉明天皇・七年六月、伊勢王死ぬ」(661年) 「天智天皇・七年六月、伊勢王死ぬ」(668年) 従来の考えでは、これは二人の同名の伊勢王がいて、7年おいて死んだのだとされていました。 しかし皇族で全く同じ名を持つ王が2人存在するのには無理があります。 ここは同一人物で、倭国側と日本国側で重複記録されたとみるのが自然です。 大友皇子を称制とするために、天智天皇が称制の先駆けを行ったとしたわけです。 ですから半年でも大友皇子が天皇になっていなかったとするのは不自然ということになります。 もし戦闘があったとすると、各豪族は逆賊承知で大海人皇子にこぞって味方したことになります。2.天智天皇の皇子は大友皇子以外みんな生きていた。 川島皇子・施基皇子は吉野の会盟において序列は低いのですが、皇位継承順3位と6位を与えられています。 吉野の会盟事態を架空と説もありますが、お隣中国においては、将来の禍根を断つために一族皆殺しが当たり 前でした。 その後の日本においても、源頼朝は将来の禍根を断つために、義経と静御前との間に生まれた子 (赤ん坊=男子)を殺害しています。 また、平清盛も頼朝に情けをかけたことをいまわのきわに後悔しています。 このように戦いに勝利した場合、恐れたのは仇討です。 特に大友皇子の子、葛野王は生きていて持統天皇の側近でもあったので、これは天武天皇側からの視点でも 葛野王側からの視点でも冷静に相手に接することは無理です。 ということは、天武天皇が大友皇子(弘文天皇)を敗死させたことに疑問を持たざるを得ません。 以上から壬申の乱において天武天皇(大海人皇子)が弘文天皇(大友皇子)と戦い、勝利したという図式は 甚だ疑問です。A.ではなぜ壬申の乱としての記録が必要だったのか? 日本書紀が完成したのは天武天皇死後34年の720年です。 このころは平城京遷都10年後で、私の仮説ではまだ倭国・日本国並立の最中です。 あくまで倭国が日本国に国名変更しただけである、と主張する日本書紀においては倭国・日本国並立は都合が よくありません。 あくまで倭国が国号を変更しただけなので、日本・新羅・唐連合国による倭国侵略(白村江の勝利)はなかった ことにしたいのです。 なぜ侵略の事実は不都合なのか? 当時日本国民は少数派で、倭国民が大多数を占めていました。 実は現在もそうなのです。国民の大多数は仏教徒ですが、天皇家は神道にて各儀式を行います。 私もお墓はお寺さんにあるので、倭国の末裔かもしれません。 それはさておき、天武天皇は日本国化を推進したことは事実でしょう。 持統天皇も皇后として協力したかもしれません。 一代前の弘文天皇(大友皇子)は倭国王の血を引きますから(実の父親は孝徳天皇)日本国・倭国の友好の象徴 だったかもしれません。 天武天皇(大海人皇子)は天智天皇の命を受け吉野に隠遁し、弘文天皇を監視していたと私は考えます。 当時の近江朝の重鎮は蘇我氏や物部氏など旧倭国豪族で占められていました。 しかし、乱後蘇我氏・物部氏は許されて(というか乱中に裏切ったり)平城京の重鎮になったりしています。 ということは、単純に弘文天皇と中臣金だけ暗殺したと仮定するとそのあたりの疑問が払拭されます。 昨年最後の総括で弘文天皇病死か?とも記述しましたが、いずれにしろ弘文天皇崩御で近江朝は人材を失い 崩壊したのかもしれません。B.ではなぜ天武天皇は近江朝の支配者にはならなかったのか? これも疑問です。 通説は壬申の乱において壊滅したとされます。 仮にそうだとして、なぜ飛鳥の山中でなければならなかったのでしょうか? 飛鳥板葺宮に都をおいた先輩はいました。斉明天皇です。 大化の改新の舞台は飛鳥板葺宮です。 飛鳥という地形は外敵からの防御には最適の場所ですが、平和な時代には山中はなにかと不便です。 海外からの賓客を出迎えること一つとっても効率的な場所とは言えません。 斉明天皇は天智天皇との抗争に備えて守りやすい飛鳥に拠点を置いたのです。 天武天皇も同じ理由でないとつじつまが合いません。 それでは天武天皇の抗争相手とは? 私は近江朝だったと思います。 つまり天武天皇が弘文天皇に勝利し、その政権が盤石のものだったら、もっと外交・貿易等に有利な大阪湾 あたりに都したはずなのです。 飛鳥に都をおくということは、某かの抗争相手が存在しなければなりません。 近江朝の重鎮をヘッドハンティングしたまではよかったのでしょうが、近江政権はしぶとく存続していた のでしょう。 すみません 続きは次回
2016/01/02
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