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前回は舎人親王の父親天武天皇も、母方の祖父天智天皇も傍系皇統だったのではないか?と疑惑を持ちました。それだけであれば、正式な皇統は持統・元明・元正とつづく女帝が正式皇統であり、舎人親王が天皇になれなかった理由も納得できます。ひとつ残された疑問は息子の大炊王が淳仁天皇になったことです。この事実が、天智天武傍系皇統説のアキレス腱なのです。淳仁天皇はこの藤原氏隆盛期に藤原氏の血を引かない天皇として即位しました。もっとも藤原仲麻呂が自分の亡き息子の嫁(粟田諸姉)をあてがうなどして、操り人形化されてはいましたが、粟田諸姉も藤原氏ではないわけですから、藤原氏は淳仁天皇の子供の外戚とはなりえなかったわけで、理解に苦しみます。ところで、淳仁天皇は舎人親王の57歳の時の子供です。ちなみに、舎人親王自身、天武天皇45歳の時の子供です(天武天皇633年生まれ説を採った場合、622年説だと54歳)淳仁天皇は舎人親王の実子でしょうか?私は大変無理がある年齢設定と思います。天武-舎人-淳仁の親子関係です。私の仮説はこうです。1.舎人親王は天武天皇の実子ではなく、藤原氏の血を引いている。2.淳仁天皇も舎人親王の実子ではなく、正当な皇統の血を引いている。この仮説が立証できれば、A.舎人親王の藤原氏よりの行動B.なぜ舎人親王は天皇になれなかったのかC.なぜ淳仁天皇は藤原氏の外孫ではないのに天皇になれたのか?の疑問が一気に解決します。チャレンジするだけの価値はありそうです。
2013/01/29
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前回は舎人親王の父親の天武天皇について私見を若干述べました。今回は引き続き、その天武天皇と皇子たち&その母親について考察したいと思います。妃・夫人とその皇子1.持統天皇=皇后(草壁皇子)2.大田皇女=天智の娘(大津皇子)3.大江皇女=天智の娘(長皇子・弓削皇子)4.新田部皇女(舎人親王)ここまでが皇族で妃です。次に夫人5.五百重娘=藤原鎌足の娘(新田部皇子)6.大蕤娘=蘇我赤兄の娘(穂積皇子)次に嬪(ひん)7.尼子娘=宗形徳善の娘(高市皇子)最後に宮人・・・奥さんにもずいぶんランクがあるようで、現代では差別として叩かれそうです。8.カヂ媛娘(カヂは木偏に穀)- 宍人大麻呂の娘(忍壁皇子・磯城皇子)つまりこの時代はまず奥さんの出自に高い皇子順に皇位継承順位が決まっていたわけです。大津皇子は天武天皇崩御後、謀反の疑いをかけられて処刑されます。これは草壁皇子を天皇にするための持統天皇のワナだったのではないか?とよく言われます。しかしその草壁皇子も28歳で病死します。当時天皇になれる年齢資格が30歳という不文律があったので、30歳になっていれば天皇になれたはずだ・・・というわけです。順位からいけば、この時点で長皇子が有力候補でなければなりません。たしかに長男の高市皇子は健在で壬申の乱における実績もありましたが、いかんせん血統でははるか下位なのです。実際に天皇になったのは皇后の持統天皇でした。日本書紀はさらっと書いています。もちろん、推古天皇の時も30歳に到達した皇子が不在(聖徳太子が18歳)だったので暫定皇位という意味合いで敏達天皇の皇后が推古天皇になりました。持統天皇即位もこの時と同じ条件である。というのが大方の意見(学会定説?)です。しかしここでもひっかかることがあります。「持統」というおくりなです。血統(皇統)を維持した、という名前だからです。うがった見方をすれば、もし高市皇子なり長皇子に天皇の位が行ったら、皇統を保持したことにはならかったからである(?)となります。天武天皇の出自も謎が多く、正当な皇位継承者ではなかった的な記述はよく見受けます。一般的には、平安以降の感覚からすれば天智系統が正当であり、天智の娘である持統が皇統をつないだのだ的な意見が多いです。では、大江皇女の皇子たち(長・弓削)ではダメだったのでしょうか?またまた一般的な意見で、アンド持統天皇は自分の血を引く者だけに天皇になってほしかった。と結論づけられます。ですから、天智系統は平安以降のあとづけ理由ではないでしょうか。天智娘たる持統でなく、持統そのものでなければ皇統は維持できなかったとするべきではないでしょうか・・・・ずばり私は持統天皇を天智天皇の実子と思いません。持統天皇は645年生まれになっていますが、あの有名な大化の改新が645年でその直近に天智天皇(中大兄皇子)は持統天皇の母親(遠智娘)と結婚しています。1月に結婚して12月生まれならいいのですが、実際は持統天皇の母親は乳娘(ちのいらつめ)=孝徳天皇の妃、で大化の改新よりずっとあと孝徳天皇崩御後にちのいらつめは天智天皇の妃に加えられ、尊敬語の「お」がついて「おちのいらつめ」に昇格したのです。つまりその論理から、持統天皇がつなぎたかったのは天智系統ではなく、孝徳系統となります。持統天皇即位時は天智も天武も傍系皇統であった・・・ということです。
2013/01/22
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今回は舎人親王の父親の天武天皇について私見を述べたいと思います。日本書紀では天武天皇(大海人皇子)は天智天皇の同母弟と記されています。系譜上は天智天武両帝は舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)との皇子ということになっています。だったら「同母弟」という表現はちょいと引っかかります。「同父母弟」でないでしょうか。「同母弟」という表現だと、母親は同じですだけなので、父親が同じとは限りません。まして、現代でも女性は結婚すれば姓が変わりますから、男系重視だったわけです。ということは、1.同母弟だから父親は違う。2.天武天皇の時代までは「母系重視」だった。どちらかになります。1.は斉明紀の序文に「斉明天皇は、初めに用明天皇の皇子、高向王に嫁して漢皇子(あやのみこ)を生めり」というくだりがあります。このことから、天武天皇は天智天皇の同父母弟ではなく、異父兄であり、大海人皇子となる前には漢皇子と呼ばれていた。という説の根拠となっています。2.の説は上古、卑弥呼の時代から実は、倭国は女王が常に君臨していたではないか?という説の根拠になっています。この場合は舒明天皇は斉明天皇の婿さんということになりますから、天武天皇は舒明天皇の実子という可能性も残ります。いずれにしろ、奈良時代は「女帝の時代」といってもいいほど女性天皇を輩出しました。それが桓武天皇平安遷都とともに女帝も仏教重視政策も途絶え今日まで男性でなければ天皇になれない伝統が続いているからです。(江戸時代女性天皇2名輩出されましたが)つまり男系天皇を目指した「天智」女系に揺り戻した「持統」ということになるかもしれません。間に挟まった「天武」は?平安時代以降、無視されています。これが、天武天皇の孫がことごとく臣籍降下したことと無関係とは思えません。やはり天武天皇は天皇になれる資格が不十分だったのではないかということです。やっと本題に戻ります。そんな「わけあり天皇」である天武の皇子が誰一人天皇になっていないことはある意味当然だったのかもしれません。高市皇子初め、舎人親王ら天武の皇子が「太政大臣=臣下として最高位」にとどまらざるを得なかったのではないか?です・・・・
2013/01/20
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前回は舎人親王の血統についてこだわり言及しました。血統の点から(父&祖父母が3人天皇&子が天皇、つまり1親等内に天皇が5人いる)どうみても天皇にならなかったのはおかしい。と言いました。息子が天皇になった時点で天皇と同等のおくりなをされています。しかし、舎人親王自身は藤原氏の血統でないのに妙に藤原氏に味方したり謎の行動も多いのです。確かに、日本書紀の編集方針には藤原不比等の意向が大きく働いていたことでしょう。もともと帝紀と旧辞の編集(日本書紀の原型)を命じたのは川島皇子と忍壁皇子です。これは681年のことですから舎人親王6歳ということになり、到底日本書紀総責任者にはなれません。日本書紀の編集に思いのほか時間がかかり天武天皇の皇子(川島皇子は天智天皇の息子ですが)がつぎつぎ薨去し、皇族の長老たる舎人親王に名誉職が回ってきたと考えるのが大多数の意見です。ですから私が「日本書紀の総責任者」とくどくど言うのは、まとはずれかもしれません。しかも「血統・血統」としつこく言うのも果たして正解なのだろうか?という疑問は常に抱いています。なぜそのようなことを言うかといえば、舎人親王の血統(系図)は正しいのでしょうか?本来は、親族に天皇はいなかったのではないでしょうか?舎人親王は死後「天皇」と「太政大臣」を贈られています。天皇は息子の大炊王が淳仁天皇になったので死後贈られました。死後すぐに太政大臣が贈られました。太政大臣とは臣下最高位ですが、けして天皇にはなれない人物の最高位でした。大友皇子や高市皇子が太政大臣でした。彼らは母親が皇族でなかったために天皇になれませんでしたが、能力があったので臣下として最高位の太政大臣だったわけです。つまり舎人親王はなんらかの功績で「天武」の皇子になれたのではないでしょうか?舎人親王の夫人は「当麻氏」以外の夫人の出自は不明です。生涯、藤原氏の味方だった舎人親王。しかし藤原氏の血縁ではなかった舎人親王。仮に舎人親王が藤原氏の血縁だったとしたらなぜ天皇の親族に改ざんされたのか?(そりゃ藤原氏血縁より天皇血縁のほうがいいにきまってますが)舎人親王の子孫は清原氏として貴族として栄えました。天武天皇の皇子は孫の代にほとんど臣籍降下しています。これは天武天皇の出自までさかのぼらなければ謎にはたどり着けません。きっと。
2013/01/18
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久々の更新です。昨年末に宣言しましたように、今年は日本書紀の編集総責任者である舎人親王について、掘り下げてみたいと思います。舎人親王の父は天武天皇(壬申の乱の勝者=大海人皇子)母は、天智天皇(中大兄皇子)の娘、新田部皇女。つまり父が天皇、母方の祖父が天皇です。さらに天武天皇の父は舒明天皇、母は皇極(重祚して斉明)天皇ですから、父方の祖父母ともに天皇というすごい血統です。さらに舎人親王の死後、七男の大炊王が淳仁天皇になっています。崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)とおくりなされました。聖徳太子がどうして天皇になれなかったのだろう?とよく取り上げられますが、血統的には聖徳太子より舎人親王の方が上です。ちなみに聖徳太子は父親が用明天皇、祖父が欽明天皇ですが、母方は蘇我氏で皇族ではありません。子孫にも天皇になった皇子はなく、どうみても舎人親王の方が血統は上なのです。しかし、舎人親王はお札になっていないので、昭和を生きた年代の人の1万円(5千円)札といえば聖徳太子ですから認知度は聖徳太子の方が、はるかに上です。単純に聖徳太子と比較されては舎人親王もいい迷惑でしょうが、調べれば調べるほど舎人親王が天皇になれなかったことは不思議極まりないのです。聖徳太子の場合は、その偉人伝説に加え推古天皇長寿による影響で天皇になれなかったという悲劇的(判官びいき)状況もあり、ヤマトタケルや源義経のように日本人の心情にマッチするのでしょう。ところで、平城京に遷都した元明天皇は孫の首皇子(のちの聖武天皇)を皇位につけるために、未婚である娘の氷高皇女(のちの元正天皇)に皇位を譲ります。氷高皇女は母は、元明天皇で祖父は天智天皇になりますが、父が皇太子のまま早世した草壁皇子(天武の息子)ですから血統的には舎人親王の方が上です。さらに舎人親王のほうが年長、しかも男だったわけです。これには、藤原氏の意向もあったことは無視できません。首皇子(聖武天皇)は藤原不比等の娘(宮子)の子ですから、のちの藤原外戚政治の先鞭となるわけです。だったら舎人親王が氷高皇女を妻にし(皇后)暫定皇位ということもあったのではないでしょうか?さらに謎なのは、舎人親王は皇族を敵に回しても藤原氏に味方しました。舎人親王自身、藤原氏の血は引いていないのにです。藤原血縁でないのに藤原氏よりで、皇位につけてもらえなかった。とても謎です。もっと違った真実が隠れている気がしてなりません。古代史ファンのみなさんや古代史研究家の諸先生方が、スルーしていた「舎人親王」。掘り下げてみようと思います。
2013/01/17
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