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2017年3月17日に2016年1月5日のつづきもないものだと思いますが、天智天皇暗殺説に私は不賛同なので、久々妄想言及したいと思います。有名なのは扶桑略記の一節です。「(天皇)駕馬幸山科郷、更無還御、永交山林、不知崩所、只以、履沓落處爲、其山陵以、(途中意味不明)、山陵山城國宇治郡山科郷北山(天智天皇は山科の郷に遠乗りに出掛けたまま帰らず、山深く入ってしまわれ、どこで亡くなったか分からない。ただ履いていた沓(靴)が見付かったため、その場所(宇治郡山科郷北山)に山陵を作り葬った。)」と書かれています。井沢元彦氏は、大海人皇子(後の天武天皇)が黒幕で実行犯は栗隈王、遺体を舟にのせ、川を下った。とかなりリアルな検証をされています。私は、大海人皇子がそこまでリスクを犯して天智天皇を暗殺するメリットがあるかどうかだと思っています。また小松洋二氏の著書の引用ですが、氏は「日本国誕生」において、そうのような緊迫した状況下において、天智天皇の警備が手薄になるわけがないと言われてみれば納得という持論を展開されています。良くある説は、大海人皇子は斉明天皇と前夫・高向王との間に生まれた「漢皇子」で中大兄皇子=天智天皇より4歳年上という説です。この説が本当だとすれば、年上の大海人皇子からすれば、天智天皇の自然死を待てないので、暗殺したとすれば辻褄が合います。私は大海人皇子=漢皇子説には賛同できませんし、天智天皇と天武天皇は兄弟ではなかったと思っています。ただし、義兄弟的な極めて近しい関係であったと推測します。かねがね申し上げていますが、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの蹴鞠のシーンは武烈王=金春秋と金ユシンとの出会いと同一であること。当時倭国には蹴鞠が輸入されていた確証はなく、苦し紛れに日本書紀は「鞠を打った(蹴ったではなく)」と記述していること。蹴鞠は日本では平安時代に貴族の間でブームだったこと。当時の新羅は唐の属国であったことから唐から輸入されていたであろうということ。(その後新羅は唐と袂を分かち日本よりになりますが)長々しくなりましたが、上記以外の理由からも新羅武烈王と天智天皇は同一人物であると結論づけました。私は今も天武天皇は鎌足の息子定恵ではないか?と考えています。鎌足=金ユシンであれば武烈王=天智天皇の恩人の息子(義理の息子?もしかすると定恵は孝徳天皇の息子?)を義理の弟として可愛がるのは自然だと思います。話をもとに戻しますが、天智天皇暗殺説に賛同できない理由を列挙します。1.緊迫した状況下で警護もつけずうかつに馬で遠乗りするには無理がある。2.鹿児島県枚聞神社には天智天皇が移り住んだ伝説がある。3.近江朝廷幹部は百済人に占められておりできれば死を装い逃げ出したかった。4.天智天皇は大海人皇子を殺害する機会は何度となくあったが、殺していない。それは実は大友皇子 でなく大海人皇子に後を託したからである。
2017/03/17
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約1年ぶりの気まぐれ復活です。若干のネタバレになりますが、小松洋二氏は、文武天皇と新羅文武王は同一人物ではないけれど、同時期に日本におり、文武天皇を陰から支えたのが、新羅文武王だと言及しておられます。以前私も同様の妄想をし、「同一人物」説には無理がありますと、あまり突っ込んで調べようとはしませんでした。https://plaza.rakuten.co.jp/systemwelware/diary/200903170000/ところで文武天皇の和風諡号は二つあり、「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)があります。小松洋二氏は25歳で崩御した文武天皇の和風諡号に「豊祖父」とつくのに違和感を覚えると言及しておられます。これは新羅文武王を意識した諡号なのだと。私も文武天皇と文武王が同一人物であるとは思いませんでしたが、文武朝における陰の為政者であるという小松氏の仮説には気づきませんでした。小松氏と私で意見の違う部分は、氏は天智天皇を百済系渡来人の可能性が強いと言及し、私は天智天皇=新羅武烈王と比定しているところです。新羅文武王は新羅武烈王の息子ですから、私は日本国を建国もしくは大国にした父の後を追い、密かに日本を訪れ時の文武天皇にアドバイスを与えていたとなれば古代史のロマンが広がります。
2017/03/16
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