2009/03/10
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カテゴリ: 古代史系の妄想

こんにちは

古代史妄想コーナーへようこそ

今日は、天智天皇の父とされる舒明天皇について気がつくままに述べます

推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日) 

(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。 

これが舒明天皇の生没年とされる年

建武王

栄留王(えいりゅうおう、生年不詳 -642年)は、高句麗の第27代の王(在位:618年 -642年)。姓は高、諱は建武、または成。先代の嬰陽王の異母弟であり、父は第25代陽原王。618年9月に先王の死去に伴い、王位に就いた。『三国史記』高句麗本紀・宝臧王紀では、諱のままに建武王と記される。

唐が高句麗を討とうとしていることに対して、国内の体制の再編を図る必要があると考えた淵蓋蘇文は642年10月にクーデターを起こし、栄留王は100名以上の臣下とともに殺害された。『三国史記』高句麗本紀・栄留王紀には埋葬地も諡も記されていない。

高句麗の建武王は臣下に殺害されています

百済の武王は

武王(ぶおう、580年? - 641年)は、百済の第30代の王(在位:600年 - 641年)。28代の威徳王 (百済王)の子。諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余璋(余は百済王の姓)の名で現れる。

在位42年にして641年3月に死去し、武と諡された。この後に使者を派遣して唐に報告したところ、太宗は哭泣の儀礼を以て悼み、武王には〈光禄大夫〉の爵号が追贈された。 

 この当時の3国の王は641-642年にあいついで

お亡くなりになっていますね。

とても殺伐とした世の中だったんでしょうね。(おしまい)

って、ちょっと待ってください。 

確かにこのとき百済と高句麗は協力して新羅を攻めています。

だからといって、建武王と武王は名前が似すぎていませんか?

さらに舒明天皇の年表を見ると 

 舒明天皇12年(640年)

4月 - 伊予から帰り、厩坂宮(うまやさかのみや。橿原市大軽町)に滞在する。

10月 - 百済宮に遷る。

舒明天皇13年(641年)

10月9日 - 崩御。

10月18日 - 宮の北に殯をした。

 高句麗王はなぜ殺されたかが記録され、

どこに葬られたかの記録がありません

 百済王も舒明天皇もいつ死んだかは記録されていますが、どこでどのようにという記述がありません。

なんか3人の記録を合体されると、ひとつの記録になるのですが・・・・ 

本当に舒明天皇は日本列島内の百済宮で崩御されたのでしょうか?

かといって百済宮が朝鮮半島内だと決め付けるのもどうかと思います。 

当時の百済王と高句麗王は「田村=でんそん=天孫」として日本(倭)にいたのではありませんか?

それを蓋蘇文(別名=いりかすみ)に殺されたのです。

淵蓋蘇文 泉蓋蘇文 泉蓋金 とも記される。『日本書紀』には 伊梨柯須彌 (伊梨柯須弥、いりかすみ)として現れる。
いりかすみ?いりか?いるか?蘇文の蘇といりか・・・
もしかして舒明天皇=建武王=武王は蘇我入鹿に殺された?
日本書紀はその事実を対抗者の山背大兄王襲撃に置き換えたか、入鹿は舒明天皇ののち、山背王も亡き者にしたか、どちらかでしょう。
そうすると大化の改新のときに、中大兄皇子が
「鞍作(入鹿)めは天孫をことごとくほろぼしやがって・・・だから誅殺した」
といったことと合致します。
ところで、話はそれますが、「大兄」って日本では
「おおえの」とよび、一族の年長皇子をさしますが、
もともとは「だいけい」で高句麗の官職名だそうです。
じゃあ山背大兄も中大兄も高句麗の人?
それも早急な意見です。
高句麗の官名をもっていたからといって、その国のひととは限りません。
いままでさらっと流してきた、大化の改新の名場面
「天孫」「韓人」は意外な事実を伝えているのかもしれません・・・・





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Last updated  2009/03/16 12:59:25 PMコメント(0) | コメントを書く


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