2012/11/03
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カテゴリ: 古代史系の妄想

昨日は、「天武天皇の年齢研究」の著者様にすっかりご馳走になってしましました。

ありがとうございました。 

次回作、「継体大王の年齢研究」も期待しております。

昨日の席でオープンカレッジの資料を拝見しましたが、

その中の怨霊は奈良(平安?)以降だったという説にやや疑問を抱きました。

梅原猛氏は「聖徳太子怨霊説」を唱えているので、飛鳥時代にもあったのではないか?

確か、井沢元彦氏の「逆説の日本史シリーズ」では、「徳」がつく天皇はこの世に未練(恨み)を残して死んだ、説を展開されています。

聖徳太子(天皇ではないですけど)、孝徳天皇、称徳天皇、崇徳天皇、安徳天皇、順徳天皇などなど。

その井沢氏は「扶桑略記」の「天智天皇死亡記事」記述にかなりの信ぴょう性を見出しており、その小説「日本史の反逆者~私説壬申の乱」 においては、天智天皇が大海人皇子に暗殺されたとしています。

ならば、ここで、天智天皇はなぜ怨霊にならなかったのでしょう?

それは天智の皇子「弘文天皇」大友皇子にも言えます。

私は、山科の地にて天智天皇は殺害されたのではなく、新羅(文武王救援)か鹿児島(枚聞神社伝承)へ逃走したと見ます。

仮に譲って、扶桑略記の記述を遵守すると、天智天皇は怨霊となりその祟りで、天武系の皇統は断絶したのかもしれません。

だったら「天智」でなく、「天徳」とか「智徳」とかっていう謚になったと思うのです。

ずばり天智の叔父に「孝徳」がいたわけですから、「天智」は怨霊ではないということになります。

ですから、扶桑略記をはじめとする「天智天皇山科にて失踪」は暗殺ではなかったと結論づけたいです。

ところで、壬申の乱で敗れ、自害した大友皇子は怨霊になったのでしょうか?

息子の大友与多王は父の鎮魂の三井寺を建立しましたから、怨霊阻止の念はあったかもしれません。 






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Last updated  2012/11/03 06:22:50 PM コメント(2) | コメントを書く


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