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今回の竹原紹介はここまでです。呉線の「瀬戸内マリンビュー」に乗って帰ります。竹原から呉に向かう電車は1時間に2本程度しかありませんので、意外と込み合います。そんなときにこのマリンビュー、有料の指定席があってゆったりと座って帰ることができます。大した金額でもないし景色もよいし最高でした。さて、時期は多少前後しますが次はインドを紹介します。インドとはいっても、いまやシリコンバレー以上に盛り上がるインドのIT都市、バンガロールです。正直なところはそれほどの話題があるなんて期待していませんでした。人口が600万人ということですので日本の大きめの都市程度だろうと予想していました。いくつかで予想は的中し、いくつかで大きくはずれました。書くことはたくさんあるものの、写真がホテルの中ばかりです(笑)ホテルとはいっても大きなホテルですから、植物園並みに楽しむ事ができましたけどね。そんなインドに興味を持っていただけるとありがたいです。しかし、本当に写真が無くなってきたなぁ…
Sep 19, 2010
帰る時間が迫ってきました。両親に娘をまかせっきりであまり遅くまで滞在するわけにもいきません。名残惜しいのですが帰路につくことにしました。思ったより活気のある町ではありました。祭と言うこともあってか、子供たちもたくさん走りまわっていました。日本は過渡期にあります。現在の日本の国力で人口拡大を続けて行くことは無理があります。昔は仕事があって人が足らなかったから人口が増えました。需要と供給のバランス。しかしアジアの学力が一気に向上して安価な労働力が比較的近いアジアで手に入るようになりました。つまり仕事が亡くなったのですから同じく需要と供給バランスで人口は減ります。今後長い時間をかけて日本の人口は減ってくるでしょう。戦争による人口減少とは違い平和で緩やかな変化ですが一部の方に経済的な負担がのしかかるのは間違いなく、その対象者は増加の一途でしょう。私も他人ごとではありません。今は変化の初期ですから、正直不安もありますし法律を含む仕組みが付いてくるまでひどい苦痛を伴うでしょう。この状態があと何十年続くのかはわかりません。それでも落ち着く日が来るとは考えています。インターネットの発展で、地方都市はある程度復活するとは考えています。生活費が安くて済みますからね。竹原も復活の時まで活気を持って頑張ってくれることを期待します。
Sep 17, 2010
黒壁の町…そのままでは殺風景です。だからと言って派手な装飾で着飾れば古い町並みの魅力を失ってしまいます。町の飾りつけ方も歴史を重ねて、住民さえ気がつかないうちに絶妙なバランスで洗練されていくのではないでしょうか。売っている小物までも町のバランスを考えているようです。日本には古くからお土産の文化があったはずです。お土産を買う側も贈られる側もうれしくなるお手頃商品がいろんなところで売られています。値段が高すぎれば貰ったときに気が引けるものですが、それほど高価でもなくお返しがしやすいという意味で値段のバランスも優れています。海外に行くとマグネット、ボールペン、あまりセンスのない小物や極端に値段が高いものでがっかりすることがあります。特にインドはひどかった(笑)素敵だったのはとっても小さな和服飾り。古い和服のリサイクル商品でしょうか。観光客の皆さんが足を止めてみておられました。人形の服なのでしょうか、それとも飾りでしょうか。ペットの服にするのであればマウス位にしか使えません。竹取物語の町ですが、昔話つながりで一寸法師の服かな?写真ばかり写して、何一つ買って帰りませんでした。申し訳ない。
Sep 15, 2010
先日、新聞で「昔の人がうらやましいと思うこと」というアンケートがあって、子供たちの回答上位に「昔は地球環境がよかったのでうらやましい」とありました。いつを「昔」と表現しているかわからないのですが、本当にそうでしょうか。少なくとも日本の環境は悲観するほどに悪くなっているでしょうか。私が子供の頃、日本は公害大国で、海は魚さえ泳げないほどに汚れ、生きていても奇形となり、川面は泡だらけ、空気も排気ガスで灰色でした。子供が「奇形魚魚釣り大会」をしていたほどです(研究所が買ってくれるから)。ガメラと言う映画の敵に「ヘドラ」という怪獣が出てきた位です。道が十分に舗装されていなかったから埃もすごかったですし、分煙も進んでいませんでした。地球環境はともかく、少なくとも生活環境はよくありませんでした。木材も伐採され山ははげ山でした。昭和という時代は全般的にそうだったのでしょう。現在の40~60代にがんが多発する原因となったかもしれません。その前だったらよかったのか、環境は良かったかもしれませんが日本が戦争に明け暮れていた時代です。その前は差別の嵐の時代です。正直なところ日本人が築いてきた今こそが平和で環境の良い時代だと感じています。気持ちの良い太陽の下、それが多少昔より暑いとしてもおいしい空気の中で町中を散策できる環境こそ日本人の努力の成果です。日本は温暖化ガスの抑制にも優れた国です。確かに世界的に見れば環境は悪化しています。温暖化より緊急に対応が必要なことはたくさんあります。日本の素晴らしい環境技術を世界に広げていかなければいけません。
Sep 13, 2010
明治維新で極端な人気者、坂本龍馬…司馬遼太郎さんの「竜馬が行く」のおかげです。私も大好きな小説ですが、坂本龍馬のあまりの人気で明治維新とそれに続く明治時代がわかりづらくなる事もあります。明治維新は坂本龍馬より早くはじまっています。頼山陽は明治維新のきっかけとなった人です。「日本外史」は「竜馬が行く」と似た部分があり、歴史と言うより歴史小説のようです。日本人を励ますような志向があるそうで、尊王攘夷につながっていきます。その頼山陽が生まれたところは広島市です。では竹原と何の関係があるのか…頼山陽の父親が生まれた場所が竹原なのです。ちょっと遠い…。もちろん父親の里帰りなどで山陽も竹原を訪れているようです。竹原は頼山陽のゆかりの物を集めています。各地が「坂本龍馬ゆかりの地」として売り出しているのと同じです。頼山陽が明治時代にはそれほどの人気があったということが分かって面白いですね。今でも本当の明治維新ファンにとって頼山陽や吉田松陰はヒーローです。美観地区の入り口には銅像もありました。
Sep 11, 2010
風水は日本の都市計画に大きく影響を及ぼしましたが、個人の家にはあまり浸透していません。これは日本では風水が学問として限られた人のみが扱う技術であったためでしょう。今でもそうです。中国の方など風水の羅板が携帯に入っている、つまり誰でもが風水を理解して日常的に使っている文化とは異なります。つまり日本では個人邸の設計に風水を取り入れられるだけの風水師が存在しなかったのでしょう。その一方で日本の気候には大きな特徴があります。一日の温度差は少ないものの、年較差、つまり一年を通しての温度差が激しく、湿度が高い事です。エアコンがない中で自然と湿度を調整してくれる、土塀、木材、そして障子などの紙が建材に利用されてきたのはそれなりに理由があるはずです。そして壁を開閉する印象がある障子とふすまという存在がありました。玄関が引き戸になっている、つまり解放できるのも同じ理由です。風の通り道を作れる構造になっているのです。古い家屋では全てのふすまを開ければ縁側から筒抜けで裏庭まで見えるような家がたくさんありました。庭と居間はあたかも一体となるような設計でした。このような家はあまり気温が上がらないヨーロッパでは見かけられません。アジアでは壁の無い家をよく見ますが、冬場に気温が下がる日本では、気温が低いときに外気と室内を遮断する必要があります。つまり空気の流れをコントロールできる構造が必要だったわけです。日本家屋は日本の気候い合わせた進化の結晶です。涼しい一方でどこからでも入ってくるゴキブリには困りますけどね。
Sep 9, 2010
日本の家屋、海外に比べると統一性がなく自由奔放、五木寛之氏は自由というより「ごみだめのようだ」と評されています。しかし宗教や風水に強く束縛されることなく自由奔放な家屋の建築は日本の文化であり、その気質が加工貿易を発展させ、質が高く画期的な商品を生み出す国民性が育ったと感じています。「はきだめに鶴」日本の家屋にはすばらしい装飾や工夫がいたるところに見られます。装飾は何らかの実用性を持っている場合もありますが、基本的に強い装飾性、更に芸術性を持っています。例えば襖絵などは海外の壁紙に比べればはるかに粋です。窓ガラスや障子の枠に細かい模様をつけて、大黒柱に過度の加工をすることなく自然な曲線を生かすことも普通に行なわれてきました。窓ガラスや障子の枠は芸術面を気にしながら材質強化に使われています。大黒柱だって柱の目的がある中で無駄な加工しないことによる美しさを求めています。日本では月見窓などの風流な装飾窓があります。窓を大量の花で飾る海外とは異なり、窓枠でまるで絵画の用に景色を切り取るのが日本の美です。廊下にしてもそうです。単に板を並べるのではなく、小さな工夫が来訪者を楽しませてくれる仕掛けとなっています。この家ではトイレまでが派手に彩られていました。家屋の設計段階から美を追求するのが日本の、そして大工さんの技術だったのです。最近の家屋、素材の機能性は向上しましたが芸術性は大きく奪われてしまいました。
Sep 7, 2010
私の生まれ故郷である呉と今回来ている竹原には同じ産業が育ちました。塩田です。瀬戸内海は塩の一大産地でした。天日干しによる塩の製造はすたれてしまい、すっかり消えてしまった産業です。今でこそ塩の値段は一部の製品を除き国に管理され安い値段で手に入りますが、昔は生活必需品だけに、大きな金が動く産業で豪商を生み出しました。その一軒が松坂邸です。広いだけに見える家ですが、細かいところの装飾には驚くべき細かさがありました。この辺りが財産の使いどころだったのでしょう。室内装飾の細かさについては、後日もう少し詳しく紹介していく予定です。明治の豪邸らしい特徴として明治天皇の写真が飾られていました。今の北朝鮮ほどひどい帝国性となったのは五・一五事変後の第二次世界大戦前ですが、明治維新後に制定された大日本帝国憲法によれば主権は天皇に在していた時代です。一方で生き神様であり、商売や家内安全を祈願したのかもしれません。今でも朝の朝礼で天皇陛下にあいさつを怠らない古い企業も少なくないということを思い出しました。
Sep 5, 2010
巨大なお好み焼きを完食するのに格闘していると竹祭りが始まってしまいました。パレードの音が近づいてきます。どうにか間にあって、お店の前あたりで近づいてくるパレードを待つことにします。ゆっくりと雅楽の音色が近づいてきます。笙(ショウ)の音色が特に好きなのですが、パイプオルガンやバグパイプに似たような雰囲気の音がします。基本的に原理は似ているようですね。日本の楽器ですが、元は中国から来ておりアジア各国で同じ仕組みの楽器があるようです。天気の良いことがあだとなります。彫が深い人は目の周りが影となり、そうでなければまつ毛の影が目の下に落ち、まるで「ちび○子ちゃん」が落ち込んだ時のような船が入ってしまいます。人物写真は曇りの日か日陰でレフ板…天気が良すぎて後ろぼけも全くなし…ってそれは写真技術の問題か(笑)竹祭り、雅楽の楽器って竹が多いですね。
Sep 1, 2010
広島に帰ったらご当地グルメ、お好み焼きばかりを食べに行ってしまいます。学生の頃、週に3回は食べていたお好み焼き、広島に帰っておいしいお好み焼き屋があると聞けばすぐに足を運びます。野菜があまり好きではない私にとって広島のお好み焼きはキャベツたっぷりのヘルシーフード、昼ごはんの定番です。そんなに食べると飽きるのでは?と思われるのも当たり前ですが、広島風の場合はいろんな具を中に入れます。ご飯までも入れてしまいますからね。組み合わせは全部で100通りを越えそうなほどです。まあ何を入れても全部ソース味なのは確かですが。竹原でお好み焼きと言えば堀川、元はお醤油屋さんだったようです。その傍らで始めたお好み焼き屋が今やメイン、お好み焼き好きなB級グルメファンが全国…いえ、全広島から集まります。味は自家製ソースで、少々醤油味が混じっているように感じました。サイズは大きいので味だけでなく量も大満足でした。
Aug 30, 2010
写真がなぜ正方形ではなく、円形でもなく長方形なのか。そもそもレンズは円形なのですから写真も円形でもよいかもしれません。写真の原型が絵画であり、それが長方形になった背景なのかもしれません。絵画のキャンバスが丸くならなかったのは丸いと書きづらいからに間違いはなさそうです。ではなぜ、正方形ではないのか。正方形が不自然な形だからではないでしょうか。もうひとつ、人間の眼球が一つではなく二つであり、人間の視野が長方形により近いからではないでしょうか。人間の視野は眼球が二つであっても縦横比率が1:2ではありません。両方の眼の視野が重複している部分があるからです。結果として人間の視野の縦横比率は、いわゆる写真の比率2:3か、テレビ(現在の)の比率9:16が近いように感じます。人間の視界の枠がカメラやテレビの枠のように感じています。この比率に近いのは一般的な窓、パソコンの画面、はがきなどがありますね。昔の写真は枠付きが一般的でした。今はふち無が一般的ですけどね。
Aug 28, 2010
石を持ちあげて願いがかなうかどうかを占う「おもかる石」と言う文化は京都辺りではあまり珍しくないような気がします。しかし、石でできた地蔵を持ちあげて願をかけるという文化は珍しいかもしれません。お地蔵さんなので抱える時に少し気が引けます。竹原にある「かかえ地蔵」は路地のような階段を登った奥、見逃しそうな場所にあります。単に願掛けで始まったように見えるのですが、京都の「おもかる石」の影響で「願いがかなう時は軽く感じる」パターンになっているようです。そもそも願いが強い時はアドレナリンが出ているので火事場の馬鹿力と同じく物は軽く感じ、特に強い願いがなくて気合が入っていなければ重く感じるのは当たり前です…なんて書くと怒られそうですね。私はあまり強い願いや夢がない状態で持ってみましたから、当然重く感じました。正直なところ、このサイズでこのお社の中の石のお地蔵さんですから「軽い」と感じるのはよほどの強い願いです。
Aug 26, 2010
土壁に土間、古い家屋ではよく見かけました。私の曽祖父の家、祖母の家は土壁で作られ、土間がありました。夏場は涼しくてよいのですが、冬場は底冷えがしたような記憶があります。湿度を自然と調整してくれる優れた建材ですが、雨や地震に弱いという弱点がありました。当時は職人さんが多く修繕は難しくなかったのでしょうけどね。最近もときどき土壁を見かけることがあります。ただ多くは外装が雨風で傷んでいることが多いようです。既に人が住んでいないのか、昔ほど土壁を直すことができる左官さんがいないのかもしれません。私の曽祖父と祖母の家もすでに取り壊されています。生け花は日本文化だけあって土壁の家が美しい背景となります。フラワーアレンジメントとは違った世界観を持つ生け花だけに、土壁の家と言う背景がなくなることは大きな損失です。日本文化として土壁の家が、今後100年を超えて生き残っていけるといいですね。今では維持費が高いので個人の家として残していくことは今後難しくなってくるでしょうけど。
Aug 24, 2010
大阪の街を歩けば、昔からあった小さなお店にはシャッターが下がっており、そのシャッターは錆ついていてもう開きそうにありません。その一方で巨大なモールがいくつもできて大量の人を集めています。年寄りがやりがちな「昔はよかった」的、良し悪しの判断など無意味であり、時代の要求に応じた流れです。企業の買収劇を見ていても小さなところは生き残ることができず大きな企業に集約されつつあります。資本主義社会の末期的な姿なのかもしれません。最近でも山洋電気という名前が消えて行きました。そういう私が勤めていた会社も10年ほど前に吸収合併されてしまいました。竹原も歴史保存地区を除けばシャッター通りでした。小さな店はどう対策しても減っていく時代なのかもしれません。竹原でも保護区でなければ生き残ることが難しいのかもしれません。そんなお店の中に大学生が開いている模擬店のようなレストランがありました。若い人が小さな店でも頑張ってみようという挑戦がいいですね。小さなお店も日本の文化、大切に守っていかなければいけないのかもしれません。もしくは回顧主義ではない「流れを変えること」が重要です。模擬店のようなお店、小さなお店でなければできないサービス、小さな店舗こそしっかりと考えないといけませんね。
Aug 22, 2010
速足で歩けば5分ほどでしょうか、気がつけば竹原の古き良き街並みの端っこに到達してしまいます。小さな町ではありますが、街全体が明治時代のままに保管されている街は珍しいのだとか。そうはいっても、この小さい町に観光に来る機会が作れる人は多くなさそうです。町の端には恵比寿堂と呼ばれる小さなお堂があり、その背後には大きめのお寺がありました。尾道は映画の町として有名ですが、いくつかの映画はこの竹原でも撮影されたそうです。この恵比寿堂も時をかける少女の撮影に使われたのだそうです。この辺りには小さなギャラリーや昔ながらのお煎餅屋さんなどがあります。竹祭りのパレードが始まるまでまだ少し時間がありますので、この辺りの街並みを散策してみることにしました。祭りとは言いますがこの辺りには平凡な一日の時間が流れているように見えます。ただしいつもよりは圧倒的に観光客の数が多そうです。
Aug 20, 2010
世界最初の宇宙SF物語と言われる「竹取物語」をまじめに解釈してみます(笑)光る竹を切ると出てくるかぐや姫。光る円筒から出てくることから宇宙船の脱出装置かもしれません。そもそもかぐや姫は月から来ているのですから宇宙人であることを「宣言」しています。しかし不可解なほど美しいことを除いて宇宙人が人間と同じ形をしていることから、もう一つの可能性は「タイムマシン」が考えられます。宇宙人説には無理があるので、とりあえずタイムマシン説で話を進めましょう。ちなみに星新一さんは宇宙人説、「月を経由」という表現を使っています。かぐや姫が最後に羽衣(宇宙服?)を着て記憶を消されるところも宇宙人ぽいのは確かです。かぐや姫は急激に成長します。女性成人の平均身長が140cmくらいだった時代、現代では小学校6年生、12歳でそのくらいの身長に成長します。10歳で平安時代に到着したのであれば2年間で身長がすごく伸びることはありますね。平安時代と言えば14歳程度で結婚する時代、そんな子供にプロポーズしてもおかしくはないでしょう。未来から何らかの機械を持ちこんでいれば急に金持ちになることも可能だったでしょう。かぐや姫は牛車に乗った月からの迎えが来て帰っていきます。月に人がいないことは証明されていますので、かぐや姫は「嘘をついた」事がわかります。タイムマシンが牛車と表現されていることから考えられます。事実、かぐや姫は犯罪を犯し当時の地球に島流しにあっていたと本にも明記してあります。おじいさんとおばあさんが貰った不死の薬は単なる抗生物質だったかもしれません。いずれにしてもかぐや姫が竹原の発祥だとは上記推測と同じ程度に非現実的です(笑)
Aug 18, 2010
子供の頃…夏休み。真っ黒に日焼けすることがヒーロー/ヒロインの条件でした(笑)褐色に色づいた肌は、綺麗に褐色になるまで焼けるため2~3回は皮がむけるまで頑張ったものです。そんな太陽光線が眩しく感じるようになったのはいろいろ弱ってくる世代になったからかもしれません。5月の紫外線は真夏よりも強かったりしますし、熱射病が深刻な被害を与えるのは油断をしている5月や6月が多いのだそうです。2010年は数年ぶりの超高温の夏で、さすがに真夏の方が被害甚大でしたね。家の中でまで熱射病になる人が出たほどです。私が竹原を訪れた日も快晴でした。写真にとって快晴は最適に思われるかもしれませんが、実際には強烈な光線が逆光になりやすく、日陰と日向で強いコントラスト差を作るため絞りの調整が難しく失敗写真が多くなります。子供の頃であれば素直に喜ぶ快晴ですが…そこまで若くないようです(苦笑)
Aug 16, 2010
昭和という時代は長く、しかも激動でした。関東大震災後の恐慌から始まり、第二次世界大戦へと突っ走っていきます。司馬遼太郎先生が「理解できない時代」と評したほどです。その後の戦後復興は資本主義洗脳の言うと過激ですが、戦前とは別の国のようです。本当に私たちが住んでいるのは日本なのでしょうか。わたしもいつの間にか歳を重ねてしまい、強い記憶が残っているのは高度成長からオイルショックの時代です。既に朝鮮戦争は終結し、ベトナム戦争の疲弊にアメリカ住民さえもピースを叫んでいた頃のことです。この頃で日本の道路の舗装率は20%程と言われていました。オイルショックから日本はバブルにつきすすみ、世界第二位の経済大国に成長します。しかしそこをピークにバブルは崩壊し日本は衰退していきます。平成の時代が訪れるのです。昭和の時代には土と草の香りがしていたような気がします。今のような安全ではなく危険な香りさえ残っていました。しかし今よりも活気があったことは確かですね。日本は年老いてしまいました。さて実家に帰ってきます。台風の影響があるかもしれませんが、それも旅の一つの光景です。台風に苦しめられた沖縄の旅を思い出します。
Aug 11, 2010
竹原の酒造 竹鶴、ニッカ・ウヰスキーの社長の生家としても有名です。造り酒屋の息子がウヰスキー、いろんな家族模様があったのではないかと憶測してしまいます。そんな家族模様はこの古い造り酒屋からは想像ができません。交じりっ気のない「和」があふれています。広島は酒蔵が多い場所です。私の実家からは千福という日本酒工場が見えますし、私が大学に通っていた西条(東広島)にはたくさんの造り酒屋がありました。一番有名なのは賀茂鶴ですが他にもたくさんあります。広島は日本酒造りが盛んな場所です。そんな広島に住んでいても古い造り酒屋に入ってみる機会はあまり多くありません。竹鶴の店の中は豪華な造りで、繁盛していたことがわかります。すっかり過疎になってしまった竹原の中でしっかりとした経営を続けられているようです。とてもよい香りが漂っていました…酒好きには。
Aug 10, 2010
オランダに降り立ったのは去年の2月でした。世界遺産に指定されているキンデルダイクの風車群に感動を覚えました。現代でもオランダやデンマークには無数の発電用風車があります。日本に水車はありましたが風車の文化はあまり聞いたことがありません。ヨーロッパのように常に偏西風を受ける国と異なり、一日の中で何度も風向きが変わり、日によって風の強さが変わる日本で風車は効率が悪かったのでしょう。風車と書いて「かざぐるま」と読めば子供のおもちゃになります。日本には凧があり、風で遊ぶ文化がある事があります。風で遊べるほど日本の風は穏やかだったのです。さらに竹原がある瀬戸内海は太平洋や日本海沿岸の地域に比べれば風が弱く、風車で遊ぶ時は「持って走る」のが基本でした。ここ竹原で出会う竹細工の風車は部屋に飾れば涼しさを運んできてくれる装飾として大人の魅力を感じます。被写体としても映えてくれます。それぞれの店先に飾られており、まるで招き猫のようにお客を引き付けていました。この風車はいくつかの店で売っていましたが、旅行かばんに入れて持って帰るのは少々難しそうでした。
Aug 8, 2010
軒下は殺風景です。軒下という言葉で連想するのは雨宿り、そのせいもあってか言葉に湿り気と困惑さえも感じます。竹原の写真を見ていると子供の頃を思い出してしまうのですが、私が子供の頃は軽くて安い傘など無く、傘をなくすのが嫌だったので雨が降る寸前の空の下をダッシュで通学したことを覚えています。今でこそ夕立があっても近くのコンビニに入ったり、常備している三段折り畳み傘を使ったりするため軒下に潜りこむことは減りました。しかし軒下にきれいな花が飾ってあれば雨宿りも楽しいかもしれません。軒下に一人だったら花に話しかけたりして(笑)地球温暖化、日焼けは健康の敵と言われ始めて久しく、軒下は依然と役割を変えて直射日光を避ける日陰と一瞬の涼を求めて利用することも増えました。時代が変われば軒下の光景も変わってきます。この日は天気が良すぎるほどで、5月とはいえ暑い一日でした。軒下の湿気が心地よい、それが現代の軒下の魅力なのかもしれません。
Aug 6, 2010
無料開放されていた旧笠井邸、おばあちゃんとお孫さんがお出迎えです。お母さんは二階で掃除機をかけていました。私の案内役は5歳くらいの孫、いろんなところに連れて行ってくれるのですが、まだ幼児との境目、教えてくれるのは5月人形やこいのぼりばかり(笑)ふすま、障子、庭。竹原は私の生まれ故郷の呉と距離が近いせいか、造りが祖母の家に似ています。柱の掛け時計も懐かしく、子供の頃よくねじを巻いていた事を思い出しました。時計のねじまきは意外と重労働でしたね、子供にとって。二階では琴のコンサートが行われるのでしょうか、たくさんの琴が窓際に立てかけられ準備が進んでいました。襖絵は一般的な家庭には少々似合わない美しさで、豪邸であったことが想像できます。琴のコンサートに興味はありましたが、後数時間はスタートしそうにありません。両親に娘を任せてきていますからあまり遅くなるわけにもいきませんので次に向かいます。
Aug 4, 2010
日本というのは面白い国で、明治維新を境に急激に西洋文化を取り入れたかと思うと、そこでいったん西洋化を止めてしまい、明治時代も、大正時代も、そして昭和初期までも街並みがあまり変化はしませんでした。再び大きく変化し始めたのは昭和後期なのですが、それでも長い間、日本家屋は「日本文化」を守りました。五右衛門風呂、土間、縁側、小さな庭、畳の間、障子にふすま、かぎのない家。私が子供の頃、いえ高校生の頃まではこんな家が残っていました。小学校と言えば木の机に木の椅子、給食にご飯なんてありませんでした。日本がまだ完全な島国だった時代です。最近の日本の家の話は棚に上げておいて、古い家屋に出会ったとき、江戸の後期から昭和の初期までのいつ頃に作られた家屋か判断が難しいことがあります。竹原の街並みは江戸時代から明治時代に作られた家屋が中心ですが、昭和の時代を生き残りに見えてしまいます。今も使われている現役の家屋だから少しモダンに見えるのでしょう。まるで祖母の家に遊びに行ったような気分になりました。
Aug 2, 2010
広島県に住んでいれば竹原はタケノコが有名で、竹細工の町である事は耳にした人が多いでしょう。この日は竹祭りで、かぐや姫?も含めて竹が町にあふれた祭が楽しめました。ただこの時間は準備段階で町は静かです。気を惹かれたのは竹を使って花を飾っている軒下の花瓶です。飾られている花は名前さえも知らないのですが、見慣れた、道端で見かけるような花ばかり。高価な花や洋風な花はほとんど飾られていません。この思慮深さが日本にいる事を実感させてくれます。大阪、いえ京都さえからも消えてしまった、日本らしい…昭和のような街並みです。売っている小物も手作りが多く、もちろん竹を用いたものも少なくありません。竹という素材は実に優れています。天然素材ですが植物ではありえないほど成長が早く、折れにくいのに縦には割れやすいので加工しやすい、おもちゃ、籠、家具、楽器、いろんな使い道があります。そのうえタケノコはおいしく、炭はいろんな使い道があります。これから竹の魅力の一端を見て行きましょう。
Jul 31, 2010
広島県に著名な都市は多くありません。世界的に有名な広島市は別格ですが、「ポニョ」のモデルとなった町がある福山市、私の生まれ故郷であり戦艦大和で有名な造船の町…呉市、映画の町…尾道市。これらの都市に比べて、竹原を知っている人は多くありません。広島の東南にある呉市からJR呉線に乗って東に小一時間進むと到着するのが竹原市です。京都の下賀茂神社の荘園であったことから長い歴史を持ち、安芸の小京都と呼ばれる街です。小京都はいろんなところに存在しますがその中の一つです。竹原は人口三万人程度、徐々に減少している過疎の町です。町の目の前には瀬戸内海が広がり、自然が多く残る素敵な街です。でも「引っ越してはどうか」と聞かれれば引っ越さないかもしれません(笑)仕事が少なくなっている町で、電車も1時間に1~2本しかありません。しかも祭の日だと言うのに駅前の商店街はほとんどの店がシャッターを閉めています。都会慣れしてしまった私にはつらい生活かもしれません。故郷の呉でさえもつらいのですから。果たしてこんな町で祭などやっているのか…そう、私は竹原の竹祭りに来ています。
Jul 29, 2010
何の変哲もない通りですが、私にとっては思い出の詰まった通りです。楽しかった思い出、ほろ苦い思い出、写真には全く写ることのない、自分の記憶の中だけでセピア色をした高校時代の風景が残っています。寂れているように見えるかもしれませんが、私が高校のころから寂れた通りで、あまり変わりません。自分ながら情けない話ですが、高校のころまでは少し暗い少年でした。後ろ向きの部分が多くて「はじけた」大学生活と友人がいなければ今の自分はなかったように思います。大学時代はすでにこの呉という町からは飛び出していました。ただ後ろ向きの性格は街のせいではありません。呉にもはじけた人はたくさんいました(笑)誰にでも思春期の思い出の風景はあるはずです。そしてその多くの風景がどうしても学校の近くと地元の商店街ではないでしょうか。私の高校はこの場所から離れた場所だったのですが、ある理由があってこの場所、別の高校の周りの方が記憶に強いわけです。あとバス停とかね(笑)さてそれでは初めて訪れても不思議に懐かしいオランダの紹介を再開します。次はキンデルダイクです。
Jun 27, 2009
彫刻というと小学校のある一日を思い出します。多くの人が同じような記憶を持っているかも知れません。小学校の図工の課題で彫刻刀を使って熊を(なぜか覚えています)掘っていたのですが、皆さんの予想の通り親指にグスッっと…。2cm位、深さ1cm位も行ってしまいました。今でも傷跡が残っています。傷跡のことを私の家の周りでは「きっぽ」というのですがこれが方言であることを知ったのは結婚後のことでした…あ、脱線。さて話は彫刻に戻ります。立体を平面に記述する絵画の方が「技法」としては高度のように感じますが、単なる立体以上の美しさがいくつかの彫刻には宿ります。ミロのビーナス、ニケ、そしてロダンなど。実に写実的ですがよく見ると不自然な美しさがあったりするものです。彫刻の魅力は「あり得ない立体」と感じています。また見る角度によって姿を変えることです。日本は彫刻や銅像芸術、そう仏像の文化では世界に誇る歴史があります。特に法隆寺の「阿修羅」などは世界でも有数の立体美であり、ニケ、ロダン、ミロのビーナスにも負けないと感じています。展示場所をもう少しどうにかしてほしいところです。先日東京で展示されましたが、その価値が十分にありますね。阿修羅は周りを一周してこそ魅力がわかるような気がします。私など自分の指を彫ることしかできませんが(涙)
Jun 25, 2009
宮島から戻り、いよいよ2009年の正月を迎えています。みんなでYouMeタウンというモールに遊びに来たのですが、そのあとタクシーで帰る中、人数制限で私は歩いて帰ることになりました。呉は小さい街ですから30分程度のお散歩コース、問題は上り坂というだけです。その途中に通りかかったのが呉美術館通りで、日本の道100選の一つです。京都の哲学の道などに比べれば驚くほど短い、100mほどしかない道なのですが、ところどころに彫刻があります。御堂筋などにも彫刻はあるので珍しくなさそうですが、御堂筋も100選の一つであることを考えると選者が彫刻に弱い?(笑)場所はJRの呉駅の近く、入船山記念館の横の通りです。入船山は美術館ではないと思うのですが、なぜか美術館通りと名前が付いています。いろんな不思議があるものです。それとも向かいの建物は美術館だったのかもしれません。商店街から離れており、ほとんど人通りはない、閑静な道です。
Jun 23, 2009
世界の七つの海はつながっています。沖縄の海だって、大阪の海だって、そして瀬戸内の海も一つにつながっているのです。一つにつながっているのに海には不思議なほどに個性があります。海の近くで生まれ育ち、仕事の関係で常に海に近いところに住んでいる私にとって海が見える景色は大好きなのですが、そんな中でも瀬戸内のように目の前に島が見える海には故郷を感じてしまいます。廿日市は電車で回れば呉から少し距離があるのですが、海の上の直線距離にすれば遠くありません。宮島と呉の音戸の瀬戸はどちらも平家とゆかりがあり、平家が宮島から因島あたりまでをホームグラウンド(地面はありませんが)にしていた事がよくわかります。つまりこのあたりは「一つの海」であったのです。大人になって旅をしてみればゴールドコースト、沖縄、アドリア海など瀬戸内海ではかなわない魅力あふれる海がたくさんありました。しかしそれでも多島海である瀬戸内は国定公園に指定されるほどの美しい風景であり、見慣れているから魅力に気がつかないだけで、多くの人を魅了する景色なのかもしれません。親の影響か、子供達も海が好きです。それでも泳ぐのは怖いようです。魚(沖縄など泳いでいると魚が来るので)、泳いでいるときに足に絡まる海藻(広島近海では当たり前)、そして深さが苦手なようですね。
Jun 21, 2009
タイトルが悪い…広島で育った私にとってお好み焼きは単品なのにセットメニューであり、ランチの定番です。大阪風、関西風お好み焼きといいますが確かに正確ではありません。韓国のチゲを含め、メリケン粉に具を混ぜて焼くクレープ状の焼き物は日本各地にあるようです。一方、広島でお好み焼きは階層構造に具材を乗せるタイプの食べ物です。これは広島以外にはあまり存在しないようです。それであれば、大阪を含んだ広島以外の焼き物を「お好み焼き」という方が正確であり、広島のお好み焼きは広島風なのでしょうね。広島風といいますが、正確には広島市を中心にした30km位の範囲にしか店がなかったそうです(いまはもっと広がっています…全国にあるというのが正確でしょうか)。その上、商店街の表通りで見かけることは少なく、商店街の裏道、横道や住宅街で見ることが多い、つまりお好み焼きは「まかない飯」だったです。商店街の人たちが昼ごはんとして食べるための店なのです。宮島のような観光地でお好み焼き屋さんはお土産屋街の中にあるので見つけやすいですよ。私たち親子は百々商店に入ってみました。おいしかったです。お好み焼きを鉄板で押しつけてつぶすお店は邪道ですが、ここでは大丈夫でした。あと宮島といえばアナゴのちくわ、も食べましたよ。アパタイザーです。おいしいと喜んでいた息子ですが、さすがに広島のお好み焼きは少し大きすぎたようであまっていました。
Jun 19, 2009
宮島は島自体が御神体です。その島への結界として鳥居が海に浮かび、島を拝むための本堂が海に張り出しているわけです。島全体を神とするわけですから海の上から拝むのが自然な姿だったわけで、決して建物の美しさを目的として海の上に回廊を造ったわけではありません。宮島、つまり弥山自体が御神体であることを知らない観光客は多いかもしれません。しかしまあ、美しいですね。本来は山を拝むための本殿ですが、みんな本殿前の舞台や回廊に立つと神様にお尻を向けて海の方を向いています。もちろん、鳥居の方向ですね。反対ですよ~(笑)もちろん私も息子も海のほうばかりの写真を撮影しています。日本人は山に対する畏敬の念を忘れてしまったのでしょうか。弥山自体も紅葉の美しい山であることも確かです。もみじ饅頭はここからきているのですから(たぶんですが)。しかし宮島の失敗は意図しなかったとしても人造物、つまり厳島神社が御神体以上に美しくなってしまったということですね。もちろん観光客の私たちにとってはありがたいことです。宮島がなければ広島への観光客は今よりもはるかに少ないでしょうね。さておなかが減ってきたので息子と食事に向かいます。
Jun 17, 2009
厳島神社は美しさが有名ですね。広島出身者の贔屓目かもしれませんが、日本三景の中でも突出した美しさです。特に鳥居の神々しさ、水の上に浮かぶ本殿の美しさは感動的です。今は本州側の近代的な建物がどうしても背景に見えてしまいますので、夜の方が一段と神々しく感じるかもしれません。しかし宮島は日本の歴史の中で非常に貴重な存在でもあります。宮島は海賊(中国文献ではそう呼ばれますが実際には海軍、もしくは海洋民族)の支配者であった平清盛が厳島神社を今の容姿に仕上げたという逸話は有名です。平清盛が呉の音戸の瀬戸という海峡を「一日にしてつくった(さすがにそれは無理と思う)」事でも有名です。とにかく平家の力の巨大さと、平家が神(天皇家)に極限まで近付いていたことが実感できる場所です。しかしそんな強大な平家でも敗れました。盛者必衰とは人間の歴史で逃れることができない因縁であり、その代表的な例でもあります。その後天皇家の力さえも弱くなり、京都の弱体に影響を受けて宮島も衰退していきます。宮島を復活させたのは毛利元就です。その後、再度衰退していきますが、伊藤博文、長州藩、つまりが毛利の家系が復興に一役買ったそうです。その後に海軍の要衝である呉、江田島から戦場に赴く前に宮島が天皇家を象徴した戦場へのゲートとして用いられたことは悲しい歴史です。宮島は血なまぐさい歴史を見てきました。宮島の鳥居は原爆のきのこ雲まで眺めてきたのです。これ以上の不幸を宮島に見せないことが私たちの使命かもしれません。
Jun 15, 2009
国宝だらけの厳島神社にあって、最も有名なこの宮島の鳥居は国宝ではありません。もちろん重要文化財ですけどね。ただ、すごいところは強烈な台風で本殿が崩れ落ちる中、この海に浮かぶ鳥居がびくともしないところです。日本の技術は本当にすごいですね。鳥居は固定されずに船のように浮いているのです…って有名な話なのでこれ以上は解説しませんが…。残念ながら8代目、明治の建造という事で国宝までには至っていません。鳥居は結界であり、門です。しかし仏教や他の宗教の門と大きく異なる点は、閉ざすことができない、扉もなければ周りに壁もないことです。完璧なまでに解放されたゲートであるのに、なぜか私たちには神聖な場所との「はっきりとした境目」に見えますよね。日本人の血に刻まれているのではないでしょうか。神の社である神社、日本は八百万の神というだけあって神社ごとに神の使いの動物は異なります。ここ宮島の場合は奈良の春日大社と同じく「鹿」が神の使いです。奈良の鹿に比べると宮島の鹿はいたずら者で、食べ物を持っている人を全速力で追いかける姿を何度も見かけます。息子も食べ物を食べているときはかなりビビっていました。食べ物を持っていなければ人懐っこくて、飼い犬のように一緒に散歩してくれますよ。ただ小鹿だけには要注意です。親に怒られますから触らないように。ちなみに宮島の鹿はGHQのハンティングで一度絶滅し、今の鹿は奈良から連れてこられたのだとか。
Jun 13, 2009
年内は関東に十週間の出張、まとめて言われるとつらい気もしますが、去年は例外としてその前はもっと関東に出張に行っていたことに気がつきました。結局、個別に言われるかまとめて言われるかの差であることに気がつきました。それならまあ、たいしたことはないのでしょうか。最近は結構いいホテルに泊まっていますしね(笑)鹿を見てすっかり機嫌を取り戻した息子は元気いっぱい歩いていきます。さて鹿の写真は今後、いくらでも出てきますが、まずは料理の話。宮島で有名な料理といえばアナゴ飯です。そして広島で有名なのは、牡蠣、お好み焼き、もみじ饅頭。これらの広島名産は私が広島に住んでいたころから変わりません。久しぶりに宮島を訪れてみれば宮島名産にも進化が見られました。穴子まんじゅうなど見たこともありませんでした。おもしろかったのはもみじ饅頭のフライ、息子が頼んだものを一口食べてみましたがおいしいというより、面白い味でした。他にも歩きながら食べられる簡単なジャンクフードがたくさんありました。港から厳島神社までは約15分程度の道のり、その行程を楽しい時間にしてくれるお土産屋さん。テレビでは宮島の過疎化が大きな問題として放映されていましたが、観光地としてはずいぶんと進化していたように感じました。単に最近は従業員が本州側に住んでいるということなのでしょうか。さてジャンクフードを食べていると鳥居が大きく見えてきました。
Jun 11, 2009
嫌がる息子を連れて宮島に向かいます。世界遺産だからということでしぶしぶ向かうことになりましたが、遠いのが嫌だったようです。もうあまり父親と旅をしたくないのだろうなぁとも感じています。私など父親と二人の旅など(いまのところ)生涯に一度もないことです。息子と二人旅をした父親比率はあまり高くないかもしれません。海外では12歳、15歳が成人、元服ということもあるようです。11歳になった息子に対して私も父親としての第一段階の役割は終了しつつあるのでしょうね。ちなみに母親には買い物でもついていきます。ここが父親と母親の自然な役割分担のようにも感じています。確かに原爆ドームの前から宮島まで市電で1時間以上はかかります。移動が好きではない息子にとってはあまり楽しい旅ではないでしょう。ただ、宮島には魅力がたっぷりです。厳島神社は有名ですが、鹿、食べ物など楽しさ満載です。到着さえすれば楽しんでくれることは分かっていました。不機嫌な息子も宮島に到着して少し機嫌が戻ってきました。さてまた、出張に行ってきます。今回は明日の深夜に戻ります。
Jun 9, 2009
原爆の怖さは理解できたような息子ですが、その被害を正確に理解することは難しそうでした。広島市民の皆さんが今でも苦しめられていることに風評被害があります。近藤真彦さんの発言(「広島の女の子は原爆のにおいがする」)は今でも忘れない方は多いと思います。もちろん彼は謝罪されましたし彼に問題があるとは思いませんが、そういう風に考えている人がいるのだなと気付かされました。原爆について正確に伝えていく中で、子供達が広島やチェルノブイリの方たちなどに差別的な意識を持たないよう正確に教えていくことが必要です。原子力発電はCO2が出ないエネルギーですが、安価なエネルギーでもなく、安全なエネルギーでもなく日本が「軍事目的」抜きに開発していると考えている国は存在しないでしょう。過剰な投資や国策による保護に違和感があります。海外から客観的に見て誰だって不思議に感じるはずです。千羽鶴の祈りがアメリカ、ロシア、中国など列強国ばかりでなく日本の政府に届いてくれることを祈っています。北朝鮮だけを責めるのは一部のアメリカ系国家を除いた世界一般から見れば「日本は自分勝手だ」と言われてもおかしくありません。被害の過小評価として「劣化ウラン弾」があります。放射能は無い、核兵器ではないとアメリカ政府も日本政府も行っていますが、明らかな放射能被害が出ています。日本の原子力発電所も放射性廃棄物は「平和利用だから原爆には転用できない」なんて言っていますが、核兵器にしなくても核廃棄物をH2ロケットに積んで撃つことは数日あれば可能です。海外から見れば日本は海外を攻撃できる原子力兵器を持つといって過言ではなく否定できないのです。だからと言って原子力の利用に反対しているわけではありません。今のような政府と直結した安全性無視の強引な開発体制ではなく、民間による経済性、環境配慮を考慮した開発が良いと感じています。息子には原爆ドームを見つめる旅が原子力について正確に理解するきっかけとなってくれたことを祈っています。
Jun 7, 2009
原子爆弾の威力を正確に伝えることは広島出身の私にとっても簡単ではありません。そのあまりに強大な威力は他に比較対象がなく正確に伝えることが難しいのです。今回は原爆の恐怖を「どのようにすれば正確に伝えることができるか」ということを考えてみます。少なくとも原子力に従事する方は知っておいてほしいですね、私にとってはここ10年ほどの日本という世界唯一の被爆国で起きた数々の原子力に関する事故や過ちの原因は教育不足ではないかと考えています。広島の人間が原爆の威力を実感する時に地理感が役に立っています。「どこ町まで直撃被害があった」「どこの島でもガラスが震えるほどの振動があった」などという表現が原爆の威力をわかりやすくしてくれます。広島の地理感がなければ被害の範囲をわかりやすく伝えることは難しいですね。具体的には地形により変わりますが一次被害は爆心地から2~3kmです。たとえば広島から30km程度も離れている呉出身の私の両親に原爆の一次被害は全くなかったのですが、それでも原爆の後遺症などを聞かれることがあり、被害が過大に印象付けられているようです。原爆の怖さは一次被害以上に目に見えない二次被害、いわゆる放射能による被ばくです。黒い雨も有名ですが、原爆投下後、亡くなられた方を広島市内に探しに行って被曝された方がたくさんおられます。放射能評価はアメリカなどいまでも過小評価と感じています。その一方で100年は草も生えないと言われた広島の復活は早く、被害の過小評価にも過大評価にも注意する必要があるのです。これは最近起きた新型インフルエンザの被害にも言えることですね。原爆ドームだけではやはり被害を正確に伝えることが難しいですね。直撃なのに建物が残っていることからも過小評価されることさえ恐れがあるのです。続きます。
Jun 5, 2009
息子と歩く広島、最近は息子と二人で出掛けると娘が「連れて行ってくれなかった」と苦情が激しくなりました。その上息子は最近塾で忙しく、年齢も進んできたことから二人で一緒に出かけることは難しくなりました。これからは娘と二人で出かける機会が増えますが、娘はどうも私とは趣味が違います。私が好きな場所に行ってくれるでしょうか。もう機会が少ないであろう息子との二人旅、今回は実家に帰る途中で立ち寄った広島と宮島です。そろそろ原爆の恐怖も冷静に向き合い、判断できる年齢ですから原爆ドームに行くことにしたのですが、息子としては単に世界遺産だからという事で行きたかったようです。ただし残念ながら正月前ですから原爆記念館が開いていません。ゴールデンウイークに帰ってもフラワーフェスティバルがありますから開いていないし、お盆に帰っても開いていないし、原爆記念資料館は近くて遠い存在です。さてそれでは広島の街を歩いてみます。
Jun 3, 2009
子供のころ、私の「世界」は呉市だけでした。広島市にもほとんど出た覚えがなく、呉の商店街が子供の私にとっては大都会でした。商店街は中通、レンガ通りとも呼ばれました。銀座デパートという今で考えればスーパーマーケットにも満たないような店があり、その屋上が私にとってのテーマパークでした。子どもにとっては巨大に見えたお店でしたが、今は小さな駐車場になっています。そんな町にジャスコなどのスーパーマーケットが進出してきた時は衝撃でもありました。大都会になったような小さな誇りさえも覚えました。高校のころまで、この商店街を歩いているだけで自分が大人になれたような気がしたものです。時は流れ、世界中に出張し、品川などで仕事をする中で、自分の世界がここまで狭かったことはほほえましい思い出です。私が大学に行ったころからその呉の商店街に力はなくなりました。変化をする力もなくなったようにも見えます。ゴーストタウンにはなっていませんが、まるで古びたパチンコ街のような雰囲気で街がほとんど変化することなく、ただ年老いて残っています。目指せ、世界遺産。商店街から力を奪った呉駅前のそごうでさえも、今は港にある巨大スーパーに客を奪われ力を失っています。10年ひと昔、私が広島を出て20年、確かにふた世代ほど変化していました。
Feb 24, 2009
呉は海で育った街です。それだけに、市民にとっても港を愛する気持ちは強く、「呉みなと祭り」など港に感謝するような祭りまであります。その割には港に行ってみると寂れて、人のいない港に驚かされたものです。呉の港は軍港として発展し、その影響で造船が栄えました。つまり商業港として栄えたわけではなく、フェリーの数もそれほど多くありません。そのために人は集まらない港、それ以上に自衛隊や工場に占拠されている海岸線が多く、あまり人が立ち入ることができる場所は多くありません。海水浴場も多くはないのです。商業施設として関心の薄かったこのエリアに大和ミュージアムを作り、巨大なスーパーを誘致したことは呉市にとって大きな賭けだったのではないでしょうか。それ以上に、ここまで戦艦大和に人気が上がるとはさすがに建設者も予想をしていなかったようです。予想をはるかに上回り、開館後数年たったいまでも人であふれるミュージアムは呉に活気を運んでくれました。その一方で呉には大きく廃れた場所もあるのです。
Feb 22, 2009
自衛隊勧誘のポスターと、学ランで来ると似合いそうな個性的な(とても楽しい)売店を後にして外に出ます。最後に潜水艦を少し見上げてみますが、下から見ると一段と迫力があります。その巨大さは潜水艦のイメージを大きく変えてしまいます。潜水艦にはほっそりした印象があったのですが、実際にはかなりずんぐりとしています。船なので当然なのかもしれませんが、錨もあるのですね。内装型で円形の錨という特殊性はあります。潜水艦となると自衛とはいえ、やはり戦闘や戦略を目的としていますから迫力がありますね。私の父親はこの潜水艦がクレーンで持ち上げられて陸上に設置される時にビデオで撮影し、NHKかどこかで採用してもらっていました。父親はビデオ派で、しかもテレビに投稿するので時々採用してもらっているそうです。ローカルのアナウンサーに名前を覚えられるほど(笑)すべての戦略用潜水艦が展示用になる日が来るといいですね。
Feb 19, 2009
いよいよ潜水艦「あきしお」の中に入ります。先日まで現役で働いていた「ゆうしお型潜水艦」で、まだ現役で使われている同型の潜水艦があることから、一部の場所は撮影が禁止されています。ただし海外の方でも気軽に見学させてくださいますから、それほど機密性が高いとは思えません。もうほとんど最新型の潜水艦に変わっていますからね。中に入ると現役で働いてきた潜水艦のにおいがプンプンしてきます。展示室にあった部屋より実物は一段と圧迫感があります。天井の低さや曲線がそのような印象を与えるのでしょう。広角レンズで撮影していますから少し広く見えるのですが、実際は狭く感じます。しかしそれでも見学者がすれ違えるほどの間隔があり、思っていたよりも広いことも確かです。ただこの中でなんと80名もの方が働いたのだそうです。何といっても窓のない部屋と赤いランプが一段と圧迫感を与えているように感じます。艦長の部屋はどうやら個室…といっても貧乏大学生の部屋や東京のビジネスホテルのほうが広いですね。3畳はないように感じました。やはりこれはつらそうですね。お疲れ様ですとしか言えません。
Feb 18, 2009
潜水艦の中の生活、想像するだけでも遠慮したいです。外に出ることができない鉄の塊の中での閉塞感、特殊な光に特殊な音、潜水艦の映画はよく見かけますがその世界が現実であることを教えてくれます。展示は蛍光灯なのですが、ボタンを押すと潜水艦に特徴的な赤色灯に色が変わります。料理などもすべて赤にしか見えず、いかに料理にとって光というものが大切かわかります。息子がベッドに寝てみましたが息子にとっても狭いほどのスペースでした。夜も休めませんね。現代の若い人にとってはプライベートがないことも大きな障害になりそうです。狭い中での個室のない3段ベッド生活。大学の寮などでも共同部屋がなくなった世代の若い人たちにとって、自衛隊という組織は昔ながらの共同生活や上下関係が色濃く残っている世界で耐えていけるのでしょうか。それでは今日は出張に行ってきます。東京なので気楽です。
Feb 16, 2009
掃海って何?これが平和に慣れてしまった私たちの率直な質問でしょうね。世界中で地雷が問題になっているように、そして時々日本でも不発弾が見つかるように、日本近海には今でも膨大な数の機雷、つまり船舶を破壊するための爆弾が海の中に残っています。機雷は今でも日本近海で船舶の航行を脅かしているのです。この機雷の掃除を掃海と言い自衛隊が行っているのです。ここでは機雷の種類や掃海の方法が紹介されていました。実に地道な活動で、見つかるか見つからないかわからない日々が続き、見つかっても安全に爆破するという仕事です。本当に目立たない仕事ですが、私たちの安全に加え、環境の保全にも貢献していると言えます。タンカーが誤って破壊されれば環境破壊は取り返しがつきません。ここでは機雷の種類やその恐怖、そして豪快な破壊方法の紹介などがあり、メカニカルでマニアックな展示が異彩を放っています。ところどころで案内役をされているのはどうやらベテランの自衛官の方々でやさしい中にもピリッと光る紹介が印象的でした。広島弁だし(笑)次は潜水艦の世界に入っていきます。
Feb 14, 2009
「てつのくじら館」は大和ミュージアムの近く、JR呉駅から歩いて10分程度の場所にあります。入場料金は無料です。自衛隊に対しては賛否両論があると思いますが、ここは自然体で自衛隊の活躍を見ていただくのが良いような気がしています。公共の施設なので年末年始が休みですから注意が必要です。広島の平和資料館なども年末年始が休みですから、あまり正月の時期の広島旅行はお勧めできないかもしれません。隣が大和ミュージアムですから、艦船の紹介を避けたのか、ここでは掃海艇と潜水艦の紹介をしています。展示品の詳しい説明は次回以降に回して、呉の他の観光名所を紹介しますね。正直なところ他にはほとんどありません。呉観光は広島観光のついでと考えられており、大和ミュージアムができるまでは観光地ではありませんでした。そんな呉で以前から有名なのは自衛隊の施設、特に潜水艦の船着場は有名です。以前は日本の半分以上の潜水艦が呉にあったと聞いた覚えがあります。今はどうか知りませんが。潜水艦のような軍事目的の船舶は確かになくなるのが一番ですけど、急な無理をするのではなく徐々に軍縮することが重要ですね。もう一つはやはり自衛隊の合法化…これが私には急務のように思えます。
Feb 10, 2009
無事に帰りました。飛行機に乗る前にアムステルダムを少し歩いてきましたが、雨で大変でした。帰る頃になって晴れていましたが…。さて旅行に行っても撮影をしなくなった最近、場をつながないと日記が持たないので呉に帰った時の写真を少し紹介します。ほかにも大阪の写真などを紹介していきます。まずは呉に帰った時に行ってみた海上自衛隊呉資料館、別名「てつのくじら館」ここで「てつのくじら」とはつい先日まで現役で活躍していた潜水艦「あきしお」の事です。呉で育っていると潜水艦自体は珍しくありません。毎日のように見ますからね。そんな呉育ちの私でも驚いたのは陸に上がってはじめてわかるそのサイズ。私が今まで見てきたのはまさに「氷山の一角」だったことがわかります。全長は70mを超え、高さは(深さと書くようですね)10mを超えます。海の中にある時は本当に小さく見えるのですよ。さてそんな実物の潜水艦を中心とした施設を紹介していきます。
Feb 8, 2009
さて、フラワーフェスティバルの雰囲気と共に長々と広島について紹介してきましたがこの辺りで「おしまい」にします。この文章を書いているのは奇遇にも2008年の元旦、場所は広島県の実家です。テレビでは広島ローカルの番組をやっています。広島県呉市、過疎の町ではありますが最近は大和ミュージアムなどの人気、新しいスーパーマーケットの進出などで活気が戻ってきました。一方でかつての商店街だった中通り商店街、通称レンガ通りはかなり寂れているのではないでしょうか。毎年3回呉に帰っている私でさえも、レンガ通りはもう何年も訪れていません。広島も地下街が出来たり、そごうの裏手が再開発されたりと私が広島を出てから変わってきたような気がします。それでも呉市も広島市も以前のような活気にはまだ程遠いような気がします。フェスティバルのときだけ人口が増えるような街ではなく、もっと産業や観光に力を入れて、活気のある街を取り戻して欲しいです。まあ私が広島に戻ってくる気が無いのですが(笑)そういう意味では阪神ファンの私ではありますが、がんばれ広島カープ。それでは広島のパレード、長い間いっしょに見学していただいてありがとうございました。広島の名物、ほとんど紹介できなかったのですが、原則「おたふくソース」をつければ何でも広島名物になりますよ(爆)
Feb 13, 2008
2007年の大ヒット、「千の風になって」という曲は日本の歌謡史にあって異端な存在でしたね。もちろんこの曲がヒットする前兆はありました。クラッシック、オペラ、正統派の音楽の静かなブームが続いています。これは今の歌謡界の音楽が特定のユーザーのみを対象としているため、一般向けのいわゆるポピュラーな音楽が停滞しているからでしょうね。気楽な音楽を望む「音楽を趣味としない方たち」がこのような曲に魅力を感じたのではないでしょうか。徳永さんのリバイバルを集めたアルバムがヒットしているのも、年齢を問わず今の音楽が分かりにくい私のような方たちの要望にそっているためではないでしょうか。多くのリスナーの記憶に残っている、そしてはじめて聞く人にも覚えやすい、メロディーが単純で歌いやすい曲が徳永さんの澄んだ歌声に乗ってヒットしているのではないでしょうか。私は宗教的な色と貴族意識が強いクラッシックに興味はありませんでした。それどころか精神的に嫌悪感さえ持っていた時期があります。しかし年齢が進み、心の棘がなくなり、強い「反社会」精神が薄れていく中で、毎日のようにテレビやラジオから流れてくることもあって、クラッシックに対する愛情がわいてきました。最近は無用の抵抗心なしに気軽にクラッシック音楽を楽しめるようになってきたような気がします。今年2008年もこのクラッシック・ブームが続き、これからもクラッシックをベースとした曲がヒットするかもしれませんね。それともまた新しい潮流が生まれるのでしょうか。日本人は熱しやすく醒めやすいですから。
Feb 6, 2008
ロータリーエンジンは本来、レシプロエンジンの欠点を解消する画期的な発明と考えられていました。最初はスポーツエンジンとして開発されたわけではありません。そのため開発当初は大衆車であるファミリアにまでもロータリーエンジン搭載モデルが用意されました。その後発売されたロータリーエンジン専用モデルのサバンナRX-3やコスモも決してスポーツタイプとは言えませんでした。スタイルも足回りもファミリーカーの延長です。しかし当時の車としては馬力が高かったのは確かで、かなり早かったようです。ロータリーエンジンには特徴があります。良い面が多いことも事実です。小型軽量で有毒ガスの発生が少ないこと、耐久性が高いこと、もちろんこの辺りはすべてマツダの努力で達成出来たことではあります。しかし改善途上の一番困ったことがあります。それが燃費です。私が乗っていたRX-7も通勤で使うことが多かったので1リットルのガソリンで2.6kmしか走りませんでした。高速道路で6km程度でしょうか。しかしかつて確か1970年代に排気ガス規制で日本車からすべてのスポーツカーが消えかけたとき、開発番号をそのまま車の名前にしたRX-7のおかげで日本にスポーツカーの文化が生き残ったといっても過言ではありません。今はまたスポーツカー不遇の時代です。NSXもRX-7も消えてしまいました。GT-Rはすごい車ですがスポーツカーの域を超えています。ライトウエイト・スポーツカーが日本に復活する日を楽しみにしています。
Feb 4, 2008
移住しても県民の間でつながりが強い県があります。そのひとつが沖縄です。広島の場合は北海道に北広島がありますが、県外に出てしまえば広島県民の中でそれほど強いつながりは持たないような気がします。それが広島のあっさりした県民性のように感じます。沖縄の人たちをこれほどまで強く結び付けているものは何でしょうか。方言、料理などもあるでしょうが、そんなものはどこの県にもあるものです。そして何もみんなで集まらなくても方言を使ったり家庭で郷土の料理を食べたりすることは出来ます。みんなが集まらなくては出来ないこと、そのひとつが踊り、沖縄の場合はエイサーではないでしょうか。エイサーは沖縄でお盆の踊りです。昔の沖縄ではお盆の時期以外、例えば結婚式やこんなパレードでエイサーを踊ると怒る方もいらっしゃったそうです。つまりはっきりとした目的を持った儀式舞踊であり、楽しむための踊りではなかったのです。しかし今は沖縄県民を強く結びつける踊りとして儀式を超えた素敵な広がりを見せているような気がします。沖縄でも最近はあまり厳しいことを言う人がいなくなったそうですよ(タクシーの運転手談)。広島にも体が自然に動くような県を代表する踊りがあるといいのですが…フラワーフェスティバルを見ている限りはなさそうです(笑)
Feb 2, 2008
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