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rururu77さん
「しろ」さん病院から電話がかかってきたのは、10日の水曜午前8:00ごろでした。
血圧が低く、意識もない状態になったため、できるだけ早く来てほしいというものでした。
母を連れて病院に着くと、父はぐっすり眠っているように見えました。ここ数日は、いつもほとんど眠っていて、そのうち何度か目が覚める・・・という状態だったので、「意識がなくなった」と言われても、あまりピンとこなくて、またしばらくしたら目が覚めるんじゃないかと思える感じでした。
主治医がいらして、脈はまだしっかりしているから、今すぐということはないけれど、今晩あたり・・・という話でした。急いで今日からのレッスンの休みを連絡し、仕事からかけつけた妹も合流してこの日はずっと3人で父の側にいました。
父はもう痛みを訴えることもなく、苦しそうにするわけでもなく、酸素マスクもつけず、気持ち良さそうに眠っています。
午後、リハビリの先生が新人Nくんを連れて「顔見にきたよ~」と来てくださいました。痛みがひどくなって、リハビリができなくなってからも、毎日病室に来て父の様子を見にきてくれていました。そういえば、前日には新人のNくんが一緒で、そのときほとんど意識のなかった父が、彼を見るなり「おぉ!!Nくん」と大きな声でしっかり名前を呼んだのでした。
リハビリ室で若いNくんに世話になる話は、以前から聞いていました。きっと孫とだぶって思えたのか、このNくんがお気に入りだったようなので、わざわざ先生が病室まで一緒に連れてきてくれたのです。
もう意識がしっかりしない状態で、自分のことをしっかりわかってくれて、Nくんは「うれしいです」と言って泣いてました。かわいい・・・
この日は残念ながらもうNくんの名前を呼ぶことはなかったけれど、きっと父はわかってくれてたんじゃないかな。リハビリの先生とNくんに今までの感謝を伝えました。
夜は、母と私が泊まることにして病院のすぐ近くに住んでいる妹は帰宅。眠れない夜を過ごしました。
11日の朝、父の状態は変わらず・・・とっても気持ち良さそうに眠っているのです。目は開けてくれないけれど・・・
一晩まったく眠っていない母が疲れきっていたので、妹に迎えに来てもらって母は自宅へ。
戻った妹と、日中はずっと病室にいました。仕事帰りにだんなも来てくれて、面会時間ぎりぎりまで3人で父の横で話していました。楽しいこともいっぱい話してた・・・聞こえていたらいいな・・・
父の様子は変わらず。看護師の妹が不思議がります。ここまで血圧が下がっているのに、低い血圧のまま安定しているのがわからない・・・と。次の日の昼に、息子が来ることになっていました。妹は息子の到着を待っているんじゃないかと言います。結婚式に出られないことをずっと気にしていたので、謝りたいのじゃないのかと。そうかもしれないと私も思いました。
この日の夜は私一人で付き添うことに。前日あまり寝ていない私は、消灯と同時に熟睡。夜中に何度もナースが来ていることも気づかず、12日の朝5:00母が病室に入ってくるまで、父の寝息を聞きながら、ぐっすり眠っていました。
母が来たので、一緒にコーヒーを飲み、私は1度家に帰ることにしました。2日間病室に泊まったせいか腰が痛くなったので、できれば接骨院に寄ってこようなんて思っていました。頭のどこかで、息子の来るのを待っているのだから、息子が来る昼までに戻ればいいなんて勝手に思い込んでいたのです。
家に帰り洗濯そうじを済ませ、接骨院に向かう途中、「早く戻ったほうがいいかも」という妹のメールを読んで、接骨院行きは中止、そのまま病院に向かいました。この時、すぐ病院に戻って本当によかった・・・
私が病室に戻り、家族が全員そろった直後のこと。
妹が「そろそろだよ」と言います。呼吸が浅くなってきたから・・・と。私も母もあまり違いがわからず、そうかなぁ、という感じでした。妹と2人で父の手を取りながら様子を見ていると、病棟のナースも来てくれました。先生呼びましたから・・・って。
そうこうしているうちに、私でもわかる浅い呼吸になり、でも全然苦しそうでもなくて、最期は、なんともあっけなく眠るように、本当にすぅ~っと、呼吸が消えてなくなりました。多分もう心臓の鼓動も聞こえないのだろうけれど、妹と2人、父に声をかけながら主治医が来られるまでそのままでいました。母は静かにその様子を見ていました。
10:22 主治医が死亡確認。
多発性骨髄腫とわかり、重篤な状態から一度は復活し、壮絶な痛みにも耐えながら、4ヶ月もの間がんばってくれた父は、最期は静かに旅立っていきました。77才でした。