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Queyrac,2016.8.27-Memoirs17(回顧録17)、Please make marriage to my wife _ story (4212)2016.11.30I will up day by day the several sketches drew in long journey to this blog for memoirs,today's sketch is "idle" because too much hot.【Memoirs17】2016.8.26(Fri) Royan(ロアイヤン)からQueyrac(ケラック)→near Chambres d'Hotels(45°21'25.51",0°57'27.77")まで。**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第4報告(8/26-9/1)の第2項を参照ください。**今日の目的は「Medocの名で知られるワインの産地を歩く。」であったが、一向に葡萄畑が出てこない! ナント郊外でも葡萄畑を見たが、今回のは規模が違い地平線までも360°葡萄畑一色。と予想したのであるが甘い夢を見ていたようだ。Royan(ロアイヤン)から朝一番のフェリーで向かったVerdon(ヴェルドン)は一大石油基地。ボルドーに東から流れ込む川Garonne(ガロンヌ川)、La Dordogne(ドリュドーニュ川)が合わさって海のように広がる海域を作り、Royan(ロアイヤン)で大西洋に出る。海峡の距離は6km。その海域に沿う町々の車は、ボルドーまでの100kmを迂回するより、Verdon(ヴェルドン)からフェリーでRoyanまで渡った方が得だといわんばかりに多数の車がそのフェリーを利用する。何百台もの車がフェリーから脱出する様は壮観でもある。一列になって市内に吸い込まれていく。対岸のVerdonに着いた。さぞかし賑やかな港町だろうと思ったのに、半島の付け根あたりに位置するためか、閑散としたものである。しかも歩き始めて580mで道に迷う。竹藪に前途を阻まれる。原因はGoogle MapとOpen Street Mapとの違い。半島の西側がビーチになっているためリゾート用の住まいが集まる一角で行き止まりをくらってしまう。しかたなくD1215を行くが、自動車道では面白くない。支線に入り当初予定した箇所に戻る。Maison Carrée近傍のGoogle MapとOpen Street Map左図、bとc間に道がないのだ。cまで別のルートから到達。さてここでも更なる問題が。ここに3本の道があるとしよう。どちらに進む?Maison Carréeの三叉路左が正解。これは砂道である。馬が通るような道が前途に伸びていた。結果として3kmの砂道! 足が砂に取られ歩きずらかった。前途多難な1日の始まりとなった。そこを抜けると今度は炎天下。山も木陰もなく農地が延々と続く。D1E4では助け船が出た。水をくれる農家があった。巡礼スタイルであったので声がかかったのだろう。リュックを背負って歩くひとなどめったに居ない地域であったようだ。ビバークを予定したポントまでの34km、どこまで行っても荒野と寒村。途中Barでの食事を除いて、店など一軒もなく忍一文字の旅であった。 Map: Between Royan via Queyrac (ロアイヤンからケラック郊外(テント泊)まで徒歩34km)徒然の記■映画「僕の妻と結婚してください。」昨年このblogで映画(2014年に舞台化、15年にドラマ化もされた放送作家の樋口卓治による同名小説を映画化。)の予告をしておいた。2015.12.10の日記織田裕二と吉田羊、原田泰造のキャストの映画に、我らが市民響が出演したのだ。遅ればせながら、今日その映画を観てきた。近年これほど泣いた映画はない。しかし根底にあるテーマは「すべてを笑いに変える」であり、これほど笑顔の場面が絶えない映画も珍しい。全員無邪気に笑っているのである。内臓がんのため余命半年と告げられるところは涙であるが、それを「笑い」に変えていき、未来までも演出していくという物語である。示唆にとんだ映画でもあった。もし小生が余命宣告を受けたならこうあるべきだと思えるほど寛容であることには疑問であるが、若い身空であればめそめそするのではなくこうであるべきではないかと考えたりもする。さて肝心のオケ出演は冒頭の6sec。新世界4楽章の演奏シーン。トライアングルのチーンのシーンがクローズアップされる。その一瞬前にオケ全体の映像が映り、turbo717が0.2sec出ていたことは誰も気づくまい。昨年12月10日に撮影したのだ。
Nov 30, 2016
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Royan,2016.8.26-Memoirs16(回顧録16)、carefully_story(4211)2016.11.29I will up day by day the several sketches drew in long journey to this blog for memoirs,today's sketch is "Royan".【Memoirs16】2016.8.26(Fri) Rochefort(ロシュフォール)郊外のÉchellais(エシレ)からRoyan(ロアイヤン)まで。**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第4報告(8/26-9/1)の第1項を参照ください。**朝早くÉchellais(エシレ)の町ある森を抜け出し、一路Royan(ロアイヤン)に向かう。早朝の閑散とした道は気持ちがよい。朝日を浴びながら南下していく。近道を取り損なって大廻も車が少なければ苦にはならない。D733の街道に入る手前で大休止。合流のための三角地帯が綺麗な芝生となっている。テントと寝袋を広げ天日干し。その間昼寝。さて、D733の車道を使って南下を試みるも、3kmでgive up。D733の歩道幅が1mしかなく、車がビュンビュと迫ってくる感じ。Street Viewでは下図のような感じでしかも殺風景。運河地帯なので車道が少なく一か所に集中するからであろう。D733Cadeall(カダイユ)で退散。Barで聞くとRoyan(ロアイヤン)へ向かうバス停はすぐそこだと教えてくれる。ただバスは国道に沿って走るのではなく人の住む住宅街を結んでいく形で時たま国道に戻るという形であるので、バス停があるだけで喜ばなくてはならない。これを外すと、次の四辻ではバス停がないかもしれないのだ。歩行ルート上で言う「17km」分をパスし早めにRoyanに到着。港町と坂の町なのでたっぷりと市内観光。明日はボルドーに向けて対岸のVerdon(ヴェルドン)に渡らねばならないためフェリーの時間を調べにまずは波止場に向かう。Royan町風景(180°、18:07)蔦の絡まる家が通りの奥にあった。坂道からスケッチ。Royan港風景(190°、20:24)漁港の雰囲気、この右側(西)にVerdon(ヴェルドン)行のフェリーの桟橋がある。向かいのレストランからスケッチ Map: Between Échellais and Royan via Cadeall (ロシュフォール郊外のエシレからロアイヤンまで徒歩19km、バス17km)徒然の記■慎重に!日曜日に突然孫たちがやってきた。宮ケ瀬ダムに向かっている時に雨が降り出し、Uターンして我が家に寄ったというのが真相。この子供たちが帰る時には、泊まっていくと言って聞かないのであるが、学校もあることだしなだめすかして帰らせる。さて、みんなで絵を描こうということになりパソコンからF1の写真をプリントアウトしてそれをスケッチすることになった。孫はゆっくり丁寧にスケッチしている。こちとらは10秒で完成である。5歳の孫娘が叫んだ ”おじいちゃん。もっと慎重に!”よくぞそんな難しい熟語を知っているものだ。きっと家で両親が使っている言葉なのであろう。かって末娘が小学校のときに、TVをみていて、”画質がわるい”と言ったのと似ていて、子供が喋る熟語ではないような感じで面白い。
Nov 29, 2016
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Rochefort--Échellais,2016.8.25-Memoirs15(回顧録15)、ginkgo_story(4210)2016.11.28I will up day by day the several sketches drew in long journey to this blog for memoirs,today's sketch is "Scene of Yves".【Memoirs15】2016.8.25(Thu) La Rochelle(ラ・ロシェル;人口7万人)郊外のキャンプ場Camping Les SablesからRochefort(ロシュフォール;人口2万人)郊外のÉchellais(エシレ)まで。"Roche"という同じスペルを持つ都市が40kmをおいて対峙する形。なにか関係があるのだろう。**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第3報告(8/20-8/25)の第6項を参照ください。**今日の行程もテント泊であった。この日ほど走った日はない。17:00までの熱波の予想なるも日陰がなく炎天下をととぼとぼと歩く。休憩をしていた田舎の景色がスケッチの絵である。この街道は自転車人がずいぶん通っていく。大きな地図をもってこんな田舎によく来るものだと呆れていたが、水路が多い地域なので道路が少なく、ボルドーなどへの南下コースではこの道しかないという感じ。ためしにMaps.Meで、Barを探してみてもあるわけがなく・・・。あった! なんと高速道路E602側に目立つように建てられている郊外型のレストランHôtel restaurant L' Air Marin(ラ・マリン) というのが歩いてすぐのところにあったという驚くべき展開。近くのインターから降りてやってくる人たちで、駐車場はどんどん埋まっていく。当然ここで日中の時間を過ごすことにした。昼時で立て込んできたため、オーダーした食事がなかなか順番通りに運ばれてこない。それを待たねばならずかえって気兼ねなく長居することができた次第である。メインディッシュが来るまではサラダバーが食べ放題で、スイカなどのおいしい果物を食べるために何回足を運んだことだろう。2時間くらい粘って退出。しかし頭上真上の太陽が容赦なく降り注ぐ。34kmの道のりのうち、23kmのポイント通過が17:26である。11kmも残っているのにもうフラフラである。日陰の度に休憩をしていたらずいぶん時間を取られた。リュックの食料品は底をついている。進行方向にスーパーがあることは確認済みである。閉店時間は19:30と考えられないほどの早い時刻。そこまでは6km 1km15分のspeedでやっと閉店時間に間に合う。手ぶらであれば何でもないほどの遅いspeedでも、重い荷物を背負った身としては走るレベルのspeedである。小走りに走ってLa Charente(シャラント川)を跨ぐD733用の大きな橋に到達した。円弧を描いた巨大なアーチ型の橋でわずかな隙間の歩道を上がっていく。20mほどの高さは下を大きな船が通れるように作られているようである。息が切れそうになり何回も立ち止まっては休むが、時間との勝負である。もっと時間的に余裕があったのなら、400mほど上流にあるPont Transbordeur de Martrou (マルトウの運搬橋)を利用できたかもしれない。Pont Transbordeur de Martrou (マルトウの運搬橋)これはスペインのPortugalete(ポルトゥガレテ)のBizkaiko Zubia(ビスカヤ橋)とそっくりの運搬橋で、人と車を吊り下げて川を渡る。さて週報にも書いたように、19:30にSuper Uに到着した。玄関は閉められようとしている。最後の客たちのレジはまだopen。この状況で中に入って買い物が出来ないかを交渉。ブルターニュのCap Fréhel(フレーエル岬)の帰りにも同じようなシチュエーションがあったが、その時はガードマンが強硬で絶対に中に入れてくれなかったのである。シャットアウトを食らったのは僕だけではなく10人ほどいたが全員断られていたのである。今回は、店員の皆が協力してくれた。ある人はパンに走り、ある人はサラダを買うために、缶詰もと。とにかく広い店内を探し回る余裕はないのである。全員走りながら注文に応じてくれる。テント泊のためには夕食と、朝食は最低限getする必要がある。水はあまりにも遠い場所にあったので諦める。ここで、getした大きなメロンを駐車場のスペースを借りて試食。といいながら全部食べてしまった。汗が引くのに1時間も要したからだ。さて歩行は続く。Échellais(エシレ)の町外れに達した。地元民しか通らない道で閑散としている。そこに広がっていた広大な農地は休耕田のような形。低地に向かってスロープとなっている。ここが良いかもしれないと坂を下りだした時である。その地主の家であろうか。はるか先の敷地から犬が数匹、吠えだした。これはまずい展開である。テントは犬が吠える場所では不向きである。その家まで上がって行ったところちょうど庭に人が居た。犬をなだめてもらいつつ、さきほどgetしそこなった水を所望してみる。なんと水以外に、炭酸水1Lまでも持っていけと。"巡礼人”の恰好をしていたためであろうか過分の接待を受ける。しばらく行っても設営場所がないため再度先ほどの森に戻る。森には電波塔があり、保守用の道がそこまで通されている。一番奥のスペースでテントを設営。就寝。それこそ真っ暗やみ。周りは森と電波塔のみ。最も安全な場所ではないだろうか。Yves(イヴ)の風景 Map: Between Camping Les Sables and Rochefort--Échellais 34km徒然の記■外苑のイチョウ並木記憶では12月3日が紅葉の特異日と思っていたのが、もう全盛を過ぎ散り始めているという。ただ青山通りに面する木一本だけが青かったという。カミさんが散策してきたので報告を受けた。小宅の橡(くぬぎ)は11月22日が特異日で、この日に葉っぱが黄色く透ける。くぬぎの木の最も美しい瞬間である。これ以降は葉っぱが茶色く変色し、反り返って落葉するか木にへばりついたまま年を越す。木々が色づいて最高の季節なのに、今年ばかりはこの色合いをめでている余裕はない。この回顧録をまとめ上げるのが先決となっているからだ。高校同窓生の古代文字展覧会も欠席します。すみません。
Nov 28, 2016
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La Rochelle→Camping Les Sables,2016.8.24-Memoirs14(回顧録14)、Beethoven Symphonie Nr.6"Sinfonia pastorale"_story(4209)2016.11.27I will up day by day the several sketches drew in long journey to this blog for memoirs,today's sketch is "Gare de La Rochelle".【Memoirs14】2016.8.24(Wed) Les Huttes(レ・ズテル)からMarans(マラン)、La Rochelle(ラ・ロシェル)を経てCamping Les Sablesまで。**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第3報告(8/20-8/25)の第5項を参照ください。**今日の行程は48km!テントを朝早く抜け出し、D137を南下。途中からChaillé-les-Marais(シャイエー・レ・マレ)の町を目指して町中に入っていく。運河橋でちょうど夜明け。このタイミングを狙って近くのBarで朝食を注文しながら粘る。Marans(マラン)から鉄道便を利用するつもりでいたのに、もう駅はやっていないのだという。衝撃的な情報。La Rochelle(ラ・ロシェル)までの22kmは公共交通機関でパスする積りでいたのでショック。自転車競技のコースに当たっていたので沿道には多数のポリス。その一群に聞いてみた。皆、互いに相談し始めた。バスがよかろうと。バス停の場所(Pl.du Marqyuis d'Aligré)を教えてもらうも交通は40分ほど遮断されたままだ。ここでは自転車優先なのである。先の交差点を一団が通り過ぎるまで根気よく待つのである。ようやくバスがやってきた。La Rochelle(ラ・ロシェル)は14:00と。バスの到着が遅れたとは言え、22kmを歩くことと較べると断然早いのである。La Rochelle(ラ・ロシェル)でのテント泊は、この先6kmにある海沿いのキャンプ地、Camping Les Sablesを選んだ。プールが2つと池もある巨大なキャンプ場であるが、テントを張りたいといったら一番奥の池の側が良かろうと。すでに一張りのテントの先客がいた。あとで豪華なキャンピングカーも横づけ。しかしテントの中に入ってしまえば快適な我が家。寝袋にくるまってぐっすり寝る。テントが2泊も続いたので明日はホテル。La Rochelle(ラ・ロシェル)駅・・豪華な造りの駅舎である! Map: Between Les Huttes andCamping Les Sables via La Rochelle (レ・ズテルからラ・ロシェル経由レ・ザブレ キャンプ場まで地図 徒歩26km、バス22km)徒然の記■田園今日から半年ぶりの市民響復帰。来春の第75回定期演奏会にむけての練習が始まった。2017年5月14日(日曜日)於:府中の森芸術劇場、13:30 開場、14:00 開演。皆さん予定を開けておいてください。定期の曲目は、ベートヴェン 交響曲第6番「田園」、レスピーギ:ローマの松、ムソログスキー:禿山の一夜今日は、ベートヴェンの田園の譜読み。今日の指揮者は団員のクラリネト奏者であるが前回演奏した時はまだ学生であったという。あれから34年にもなる。以前から演奏したいと思っていた曲であるので、定期で再び取り上げられたのはうれしい限りである。この曲は5楽章からなるが、第4楽章は、Allegro で「雷雨、嵐」を描写している。。昨年ドイツで経験した突然の暴風雨がこの「田園」を彷彿とさせるものであったので一層注目の楽章である。ヘ短調の暗いイメージでベースとチェロが演奏し始める。ティンパニの炸裂が雷を、Violinの激しい音のスケール(階段状に半音階で上がっていく音形)は激しい風雨を、Violaの刻みは中低音でそれらを支える。それが去って太陽がさんさんと輝きだし小鳥が鳴く情景をフルートが高らかに歌うという構成。落雷から静寂へと戻る描写にたったの155小節。時間にして僅か4分弱しか割いていない。ベートヴェンも大変簡素化した描写に徹っしたものだ。まあ田園風景の一部としての構成だからしょうがないのであるが、昨年7月4日(土)に、ドイツはGrasberg(グラースベルク)で経験した暴風雨は時間にして30分。(その日のblog(回想録)は ドイツ・Grasberg(グラースベルク)の嵐)ティンパニーに例えるなら、太鼓の膜が破れるほどの最強打だし、Violinにしてみれば弦が切れるほどの最強音、最速音だし、Violaにしてみればこれも今まで弾いたことのないほどの激しい音を立てて欲しいと思ったのであるが。これを表現するには、この楽章があまりにも短いのではないか。2,3回繰り返して演奏しないと、実際のドイツの激しい嵐の描写にはならないのではないかと感じた次第である。ただオケでは、短時間の凝縮した演奏でいかに聴衆を魅了するかが勝負所。毎日諳(そら)んじるほど練習をしなければならない。
Nov 27, 2016
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Les Huttes,2016.8.23-Memoirs13(回顧録13)、体力_story(4208)2016.11.26I will up day by day the several sketches drew in long journey to this blog for memoirs,today's sketch is idle because of too much hot.【Memoirs12】2016.8.23(Tue) Chantonnay(シャントネ)からLes Huttes(レ・ズテル)まで。明日到達のLa Rochelle(ラ・ロシェル)に向けて歩行。**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第3報告(8/20-8/25)の第4項を参照ください。**Chantonnay(シャントネ)からはD949Tを真南に進む。その後は直線コースとして控えているRue du Bazar(バザール通り)を南下しD137に合流する。La Poiserit(ラ・ポワゼリ)の町ではRue du Charpre(シャルプル通り)を取って町中に入り、St.Hermine(サン・テルミンヌ)に至る。ここからは農道のような細い道に分け入る。Chemin de Trougnard(トルーニャール通り)というように「Rue」ではなく「Chemin」という1ランク下の狭い道になる。名前からして心細い道である。トウモロコシ畑が延々続く農道で背の高い林の間の小道をひたすら進む。なにせ一辺が800mと長いので、境界線が遥か先に見えるという具合である。農道が完全な耕耘機用の道となったりはっきりしない部分もあるため歩数を正確に測定しながら、コンパスとにらめっこの歩行となる。日陰がないため頭上の太陽が痛いほどだ。こういう場所は別の意味で地獄である。もとよりBarなぞなく、まして水もないため生命線はリュックの持ち物だけという状況。道行く人や車もなくポカーンとした孤独の中にいる。Route des Estuaires(エスチュエール道路)という名前を持つA83という高速道路を跨ぐ。ここなどまさに最果ての場所のような乾いた土地。さらに暑くなる。もう限界である。日陰を見つけてマットを敷いて一休み。寝入っていたら車が止まった。女性の運転する車である。大丈夫かと聞いてくれる。あまりに暑いためここで休んでいるのだと説く。オレンジやグレープフルーツで喉を潤せているので大丈夫なのだが。本当はヒッチハイクでもしたいところではあるが。そこまでは手を差し伸べてくれない。次の村、St.Aubun-la-Plaine(サン・トーバンヌ・ラ・プレンヌ)ではじめて人に会う。教会の補修を皆でやっているのだ。Naliers(ナリエ)の手前500mに農家の大きな敷地。ポプラ並木さえある広大な庭。ここでへばっていたら、あるじが心配げにやってきた。家に入れという。冷たい水に青いミントのエキスを垂らしてくれて風味を付けてくれる。その美味いこととといったら。大きなトマトをお土産にもらった。ナリエのBarで大休止。今日はテント泊であるため急ぐ必要はない。ゆっくり時間をかけて休養を取る。Naliers(ナリエ)はすこしばかり大きな町であるが、その一軒のBar以外は住宅街で静まり返っている。線路をくぐると、広大は放牧地が展開され始めた。運河が縦横に張り巡らされ、平坦な大地がどこまでも続く。日没が迫る。運河に沿った道は21:00ころから真っ暗になり始めた。テント場を見付けようにも、運河以外は全部柵があり入り込む隙間がない。ところどころにある住宅も垣根をつくっているためビバーク用のスペースがない。ようやく運河の十字路に、空き地があった。これも一辺が800mくらい。車道から離れてどこまでも進む。灌木が境界を作っている場所まで来た。満天の星の下にテントをそっと張る。道路を行く自動車のヘッドライトが時々光る以外は静寂。犬が遠くで吠える。かれらは少しの変化でも吠えるのだ。・・という暑い日のバテ気味の強行軍のためスケッチは不作。これは言い訳。 Map: Between Montaigu and Les Huttes(シャントネからレ・ズテルまでの地図 徒歩33km)徒然の記■体力あぁ 重いものを担いで長期間、長時間歩くとはいかなることになるのであろうか。身体へのダメージは目に見えないものから見えるものまで様々な変化をもたらした。体力の恢復に努めながら徐々に元に戻して行こう。12月いっぱいには完全回復を図りたい。立ち食いのステーキ屋にも毎日通うべきではないだろうか。橋本のアリオの中にもその店があった。Lucky。
Nov 26, 2016
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Chantonnay,2016.8.21-Memoirs12(回顧録12)、Tablet_story(4207)2016.11.25I will up day by day the several sketches drew in long journey to this blog for memoirs,today's sketch is " Chantonnay" after 80km from Nantes France.【Memoirs12】2016.8.22(Mon) Montaigu(モンテギュ)・テント泊からChantonnay(シャントネ)へ。**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第3報告(8/20-8/25)の第3項を参照ください。**Chantonnay(シャントネ)はナントから南へ80km。ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏のヴァンデ県のコミューンで、人口9000人弱の小さな町である。Montaigu(モンテギュ)から一貫してD137という道に沿っていくが、途中にいくつか大きな町Saint Fulgent(サン・フルジャン)→Saint-Vincent-Sterlanges(サン・ヴァンサン・ステルランジュ)を通る。当初は37km目でテント泊の予定であったがもう少し先に行くとChantonnay(シャントネ)があると気づいたので、宿を取った次第だ。ロワール川の南部にあたり肥沃な土地を好む葡萄の産地なのであろうか。シャントネという名前のワインが有名であるが。自転車24H耐久レースのル・マンからは440kmという位置にあってこの町を通る。印象としては非常に平坦で山が見えない地域にあたる。町への入り方を誤り、ジャンクションを遠回りすることになろうとは。しかし入り口に大きなスーパーがあったので買い物をしてからホテルに直行。距離は長くても朝五時から歩いているので夕刻には到着。町を散策したのち、ホテルで夕食。ホテルがレストランを兼ねているというパターンが多いが、客以外にも近所の人たちでレストランは賑わっている。移動距離が少なくてすむので一番効率がよい。レストランが閉まった後の、部屋への入り方は、玄関にある暗証番号キーを操作する。そのメモを失くしたら入れないためしっかりと保管。Chantonnay(シャントネ)の広場 Map: Between Montaigu(モンテギュからシャントネまでの地図 徒歩39km)徒然の記■タブレット旅行中故障したタブレットが、修理して戻ってきた。画面はLCD FPC(Flexible printed circuits)を組み立て直したら解消したという。充電不良は再現しなかったが、WiFiが接続できないという状況があったらしく、Main Board交換という事態に。ストレージは、「初期化しました」という。内臓メモリでも工場サイドであれば付け替えて使うようであるが、ご丁寧に「初期化」というステップを踏むのが常らしい。データーが残ったりしてしていると、間違ってユーザーを取り違えると大変ななことになるという意味もあり、消してしまうのであろう。これでフランスのパリからボルドーまでの写真は全部消え去った。残念!LineとMessengerで配信した画像だけが、現存する。しかし世の中うまくできているもので、StreetViewをみればスケッチポンイトからの映像はほぼ再現でき、記憶に甦る。ネットにも数多くの映像が存在ので困らない。
Nov 25, 2016
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Montaigu,2016.8.21-Memoirs11(回顧録11)、snow_story(4206)2016.11.24I will up day by day the several sketches drew in long journey to this blog for memoirs,today's sketch is " River of Sévre Nantaise " after 11km from Nantes France.【Memoirs11】2016.8.21(Sun) ナントから南へ。Montaigu(モンテギュ)でテント泊。**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第3報告(8/20-8/25)の第2項を参照ください。**巨大都市ナント。駅前のロータリを上がり鉄道を跨ぐと真っ直ぐ大通りが南の方向に延びている。都市部の歩道は10m以上もありすがすがしい気分だ。大通りは名前を目まぐるしく変えていく。Avenue Carnot(カルノ通り)、Avenue Jean Claude Bonduelle(ジャン・クロード・ボンデル通り)、Boulevard Général de Gaulle(ジェネラル・ド・ゴール 通り)、Boulevard Emile Gabory(エミール・ガボリ通り)と。一貫して太い道路が続く。Bras de Pirmil(La Loire)(ブラ・ド・ピルミル(ロワール川))を渡すPont Georges Clemenceau(ジョルジュ・クレマンソー橋)を通り、立体交差を上がっていくと、いきなりの小道進入。自作の地図(My Map)通りに道を取るには勇気がいる。今までの立派な道から一転、幅8mほどの狭い生活道路Rue de la Gilarderie(ジラールドリー通り)に入るからだ。両側に家が立ち並ぶ地元民のための道路でこのようによそ者がずかずかと歩いてもよいのだろうかと一瞬思うのであるが、ここを通らないわけにはいかないのである。公園までの最短ルートであるゆえ。蛇行するLa Sévre Nantaise(セーヴル・ナンテーズ川)に沿って数々の公園や、トレッキングコースがあり、別天地のような場所。途中からもう隣の町:Vertou(ベルトゥ)に入っている。現地からの週報にも書いたがここで道を取り違えている。今後何回もある現象であるのだが「行き止まり」という標識にたじろいで別の道を取ってしまったのだ。あくまで自動車用の標識であり、行き止まりの場合でも階段や細い道があり歩くことが出来る場合もある。もちろんフェンスで遮られて行き止まりとなっているケースもあるが。500mばかり遠回りをさせられている。さて、10kmごとに休むという歩行計画なので、この川に架かる橋を渡った箇所で休憩。川にカヌーを組み立てて今から川に浮かべようとしている人たちをスケッチした。この後は炎天下の中を南へ南へと。ボルドーに向けて過酷な歩行が続いている。La Sévre Nantaise(ナント近郊・セーヴル・ナンテーズ川の風景) Map: Between Nantes and Montaigu(ナントからモンテギュまでの地図 徒歩34km)徒然の記■雪11月に積雪! 「悪天候の方が、ウェアを含めてあらゆるものの性能検査に都合が良い。」とはいつも言っている言葉であるが、今日など最高のコンディション。トレッキングソックス(ウイックロン)、ファイントラック(finetrack)のパワーメッシュ、TheNorthFaceのHybrid Delta Zipup、雨具としてmont-bellのトレントフライヤー、サブポーチとして、PaaGooWorksのPathfinder それにトレッキングシューズ、手袋と帽子。こういう態勢でみぞれが降る町へ。雪が多少積もった歩道を駅前まで走る(4.3km)。問題点が2つ見えた・・まずは「手袋」。雪や雨でも使える暖かい手袋を探しているのだが未だに良いものに出会えない。今回は皮手袋という町行きのスタイルで望んだが、指先は案の定冷たくなる。(先の巡礼中のある寒い朝一度だけ某社の”OutDryレイングローブ”を使ったが、インナーの布が指の途中で引っかかりきっちり装着できないのだ。不満100%。企業側のだれもがグローブの装着を試していない商品と見た。)続いて「歩道」に問題が。雪道では少しの傾斜も危なく感じる。歩道が車道より高い場合にはのバリアフリーとかで、各戸の入り口と、道路の間にスロープを設ける。歩道が1m以下の幅だと、スロープ自身が急坂になる。これを歩道側から歩くと、スロープがない場合は問題がないが、スロープがあると道路側に身体が曲がって行き、ついには車道に達してしまう。車がやってきたら危ないことになる。車イスだって、スロープがある都度に傾くはずだ。歩道が狭い場合は家の前にいちいちスロープを設けないようにする等。■西欧との違い日本に帰ってからいつも頭にあるのが「何が違うのだろうか?」という目ですべてを見ている点だ。一番の違いは、人口に比例して存在するというBar(バル)やCafé-Barが日本には無いことではないだろうか。コミュニケーションの一環として町中の人たちが集まる場所。或る者は朝からカウンターで酒を飲み、或る者はエスプレッソを呑みながら新聞を読む。そういう場所は日曜日でも開いていたのである。これが日本には都心以外はなく何か寂しく感じる。また玄関の「上がり框(かまち)」に座り込みじっと外を眺める人達が日本にはいない。みんな家の中である。よそ者が歩いているという情報が共有され、誰かが車で見回りにくるのだ。何事もなく通り過ぎてくれることを一図に願っているかのように。こういう”おせっかいな場面”、いや言い方を変えれば”観察眼” 場合により”人なつっこい”側面 は日本にはない。ポーランドからスペインまで6200km。みな同じような感じ。日本との違いをこれからじっくり考えていきたい。
Nov 24, 2016
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Nantes,2016.8.20-Memoirs10(回顧録10)、F1_story(4205)2016.11.23I will up day by day the several sketches drew in long journey to this blog for memoirs,today's sketch is "Nantes"【Memoirs10】2016.8.20(Sat) フランスはブルターニュ地方の最南部の大都市ナントへ。ロワール川の中州を埋め立てて造られた貿易港もあり、中世以降大発展をした都市である。**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第3報告(8/20-8/25)の第1項を参照ください。**Plouézec(プルエゼック)の知人宅から車でSaint Brieuc(サン・ブリュー)に向かい、予め予約してあったBlaBlaCarに乗る。乗り合いタクシーのような感じで個人経営ながらバックに強大なSNCFが付いている。4人が便乗すれば御の字という。今回は3人なのでまずまずというところか。TGVだと60€以上するのに、BlaBlaCarだと13€程度とお得。ただTaxi運転手には英語を喋れない人が殆どで交渉には闊達なフランス語が必要になる。予約は信用取引となるためアイデンティティを証明するために個人名登録のFacebookが必要となる。今回はHouze夫妻のご子息でSaint Brieuc(サン・ブリュー)に住むKelingさんが全部交渉をやってくれお金まで払ってくれた。彼は4年前の7月に一緒に富士山登山をした男性である。8/16にSaint Brieuc(サン・ブリュー)駅前で夫婦と再会した後、市内に住む氏の家に足を運び、シャワーを頂戴しつつ皆で夕食を食べたのである。その席でBlaBlaCarが話題になり、その後で交渉してくれていたのだ。日程と行程がはっきりすればnetでBlaBlaCarが検索できる。運転手の経歴や年齢が表示され、その中から自由に選ぶことができるのだ。アイアンマンだった彼は富士登山のあと数々の大会に出場し頭角を現している。8月26日(金)開催のCCC(クールマイユール・シャンペックス・シャモニー・ウルトラ・トレイル Courmayeur - Champeix - Chamonix)に出場した。ナントの勅令(Édit de Nantes)で有名なナントであるがそれ以外に何も知らない小生は、ナント駅前から孤独な旅が始まった。午後は時間の許す限り歩き回ることだ。ナント島にも足を延ばし、Les Machines de l'île (マシン・ドゥ・リル)を見学。Cathédrale Saint-Pierre-et-Saint-Paul at Nantes(ナント・サンピエール大聖堂 と門)左側の緑は、サン=ピエール(Cours Saint-Pierre)広場の街路樹Château des ducs de Bretagne at Nantes (ブルターニュ公爵城) Rue des Ètats(エタ通り)からスケッチRue des Carmes and Rue des Halles --Le Café Cult',Amour de Pomme de Terre (カルム通りとハルム通り、赤いパラソルのカフェ クルと赤い天幕のアモール・ポンド・テのある景色)赤い傘が目立つ。caféでは路上桟敷に溢れんばかりの人たち。路上演奏を聞いたりしている。 Map Between Saint Brieuc and Nates(サン・ブリュー、レンヌ、ナント)徒然の記■孫の8歳の誕生日11/22生まれの孫のところへみんなが集まった。プレゼントに持っていったのは PS用のRacing Wheel(自動車ハンドルとアクセル、ブレーキのset。) 。PS本体とTVのディスプレイにつないでハンドル操作をする。アプリではラリーとF1コースなどの種類があり20以上の実際の競技場が再現される。ラリーではアルプス越えなど。季節や時間によって路面の状態が変わる。搭乗する選手も選べるようだ。ベルギーのコースがお気に入りで一周7kmほどを3周する時間は許されているらしい。小生もやって見たがハンドル操作を誤り車は大破し、カバーが外れ、最後は谷底に落ちて火を噴いている。ガードレールまでもがグニャリと曲がっている。こんなリアルなゲームがあったのだろうか。彼の勉強机はF1一色。ヘルメットは手作りの段ボール。実際のサーキットで着る服までも持っている。学校ではF1を語る友達がおらず孤独のようだ。教科書に沿って勉強をする普通の子供のほうが良かったのであるが・・。ピアノは上達しているようだ。爺さんからのお願い・・妹思いの優しい少年に育って行ってほしいがどうだろう。もう少し様子を見よう。
Nov 23, 2016
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Paimpol,2016.8.19-Memoirs9(回顧録9)、F1_story(4204)2016.11.22I will up day by day the several sketches drew in long journey to this blog for memoirs,today's sketch is "fishing port of Paimpol"【Memoirs9】2016.8.19(Fri) フランス・ブルターニュの旅 Plouézec(プルエゼック)の知人宅から歩いてのPaimpol(パンポール)までのトレッキング。往復20km。**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第2報告(8/13-8/19)の第7項を参照ください。**海沿いの地域なので家から北に1kmほど歩けば、GR34のトレッキングコースにぶつかる。サンマロから何百キロも続くコースである。遠浅の海ではタイヤ付きの漁船が何台か。潮が引いた後は、遠浅の海をタイヤで移動し牡蠣の養殖漁業に活躍するのだ。断崖から海辺へ、砂浜から陸地へ、葦の原から池のある公園へ、と周囲は目まぐるしく変化する。急坂あり、磯の岩だらけの道あり という感じで一瞬たりとも気が抜けないコース。この中にも、仕掛けが用意されていた。Abbaye de Beauport(ボーポール修道院)である。海浜の開けた緑地にひっそりと建っている。庭は綺麗に手入れされ花が咲き乱れている。小さな半島を高度を上げながら上がっていく。ちょうど先端部分で、反対側にある港から上がってきたのだろう、可愛い汽車型観光バスが到着していた。乗客たちはそこを降りると岬の先端まで歩いて海を眺めている。今日は港町のPaimpolではお祭りの日で、その一環としてここまで遠出をしてきているのではないだろうか。Paimpolは遠洋漁業の拠点でもある。奇数年はもっと大きな祭りになるという。殆どがブルターニュの伝統である青の縞模様のTシャツ。Paimpol(パンポール)の港 Map Paimpol(パンポール)へのトレッキングルート。徒然の記■プレゼント 孫たちに何をプレゼントするか? いままで何をプレゼントしたか?をExcel表で管理することにした。記憶があいまいな分助かる。いつ何を贈ったかを正月、誕生日、クリスマスなどが主なイベント毎に、子供ごとに、記帳できるようにする。兄妹のそれぞれのイベントでも、手ぶらというわけにはいかないので、「おまけ」が付くがそれも記帳しておこう。エデュケーショナルな切り口などでは、シリーズ物などに利用できる。最近は親から”こんなの喜ぶかしら”とヒントがLineで送られてくるので、楽ではあるがそれでは主体性が欠けてしまう。さて、明日の誕生パーティにもっていく品物。PS4用のRacing Wheel for PS4。おそらくハンドルとアクセル操作で時速300-500kmのコーナリングが体験できるのではないだろうか。こんなメカが小学校2年生に必要なのかと。いやそうではないかも知れない。90を超える大学では今F1クラブがあり部品を1から組み立てて性能を競い合っているのだという。こういうマニアックな世界もあるのだなぁと感心しつつ、父親が息子の寝た後楽しむ姿が目に浮かぶ。
Nov 22, 2016
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Île de Bréhat ,2016.8.18-Memoirs8(回顧録8)、主婦業_story(4204)2016.11.21My recent job is house-keeping(prepare breakfast ,baked bread ,washing dishes, washing clothes also receiving Co-op weekly delivery goods so on everything with gusto and passion . It is my pleasure to walk as housewife right now after long journey.Today's memoirs is about 18th Aug(Thu) .We went Île de Bréhat via La pointe de l'Arcouesr at west Bretagne and trailed about 20km.【Memoirs8】2016.8.18(Thu) フランス・ブルターニュの旅 Plouézec(プルエゼック)からÎle de Bréhat(ブレア島)往復、ブレア島トレッキング。**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第2報告(8/13-8/19)の第6項を参照ください。**Houze(オーゼ)夫妻の家があるPlouézec(プルエゼック)から14km離れたLa pointe de l'Arcouesr(ポワント・ドゥ・ラルクエスト)へ。そこからフェリーに乗って1km北にあるÎle de Bréhat(ブレア島)へ向かう。潮の満ち干により船着き場が変わるという。長いスロープはその分を考慮して作られているが、さらに潮位が下がると、歩道が現れずっと先のpointになるという。合計3箇所の船着き場が用意されている。島は2つに別れ、その間は橋で結ばれている。道が縦横に張り巡らされているが、農耕者を除いて車が禁止されている分レンタル自転車が頻繁に通る。我々はさらに海ぎわの、潮が引いたばかりの浜辺、時には海藻の上を踏みながらトレッキングしていく。時々は陸に上がったりしながらup-downを繰り返す。夫婦は10回以上も来ているというが毎回別の道筋のようである。地名は「Ot Plat」「Phare du Paon(パオン灯台)」「Le Port Clos」「Ti an Douristed(Office de Tourisme)」などブルターニュー語(ブルトン語(Breton))で書かれている(時にはフランス語と併記)。この地域はもっともブルターニュー語を喋る人口が多いという。婦人のフランソワの両親がブルターニュ語を話すという。ミシェル氏自身も2年間学習して身に着けたという。それぞれを解説してくれる。最北端にある灯台を見たらUタウンである。島を半周して帰路についた。今回はGeographicaでGPSログを取りながら進んだが、その肝心のデーターはタブレットの中。そのタブレトは今修理が終わり手元に戻ってきつつある状況である。データが残っていれば写真なども含めてこの回顧録に掲載できるのであるがどうだろうか。ディスプレイは一応直ったようである。(ボルドー以降北の道のVilalbaまでは文鎮と化していたが捨ててこなくてよかった。)島はアガパンサスのコレクションではヨーロッパ一という。(注:アガパンサス属、日本ではムラサキクンシランをよく見かける。単子葉植物で一本の突出した茎に6月ころ多数の紫色の花が球状になって咲く。日当たりがよいと年々株が増えていく。)ブレア島全体が植物園のように草花が豊富であるが、南島にアガパンサスだけを集めた一角があった。自由に入れるようであるが個人所有の敷地なのであろう。教会と隣接しており静かな空間。Îl de Bréhat(ブレア島)で遊ぶ。Chapelle Saint-Michel サン・ミッシェル教会(ミッシェル氏と同じ名前の教会である。)の高台から(220° 12:22)Îl de Bréhat(ブレア島)の引き潮船が打ち捨てられたような感じ。満潮時には元に戻る。 Map Île de Bréhat(ブレア島)のトレッキングルート。徒然の記■主婦業・・生協のお姉さんが叫ぶ「お正月早期割引きのチラシが入っています! ご注文の方宜しくお願い致します。」「たった5%?」「はい。正月用食材は高いのが多くなっていますので5%でもお得ですよ。」「12月の2週、3週に注文をいただくと、5週目に配達します。」別のおばさん。「野菜類は全部取りましたので、あとはお宅。」「不揃いたねなし柿」ってうちところでしたか。・・・注文書の控えをチェック。たしか「不揃い」専門になんでも安く手に入れている。その一環として「柿」までもが不揃いとは。別のあばさん・・「足にワセリンのような軟膏、これいいですよ。すべすべして。」と。もうすっかり主婦になりきって月曜日正午にやってくる「おうちCOOP」のトラックに集まっている自分。3ヶ月ぶりのデビューである。カミさんは外出中であるが、家に居たとしても。トラックからの荷下ろしと、屋内への運び入れは当方の係りである。今やこのCoop係りも仕事の一つになっているのだ。
Nov 21, 2016
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Ploumanac'h,2016.8.17-Memoirs7(回顧録7)、難しい断捨離_story(4203)2016.11.20【Memoirs57】2016.8.17(Wed) フランス・ブルターニュの旅 Plouézec(プルエゼック)からPloumanac'h(プローマナック)往復**Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第2報告(8/13-8/19)の第5項を参照ください。**Houze(オーゼ)夫妻と共に5日間を過ごした。その2日目・・自宅のあるPlouézec(プルエゼック)から50km離れたPloumanac'h(プローマナック)へ行き、トレッキングを楽しんだ。遠浅と奇岩が織りなすブルターニュ特有の景観。海岸を20kmばかり歩いた。今から思えば、毎日20kmくらいの歩行を三日間連続で! ヴァカンス中の夫婦がよくぞ付き合ってくれたと感謝でいっぱいである。最高の”おもてなし”。こんな接待を受けれるなんて なんと贅沢なことだったのだろうか。翌週の月曜日から、シャモニーであるトレッキング大会に出る息子さんの応援に駆け付けなければならない時にだ。1日あればシャモニーへの旅行のパッキングができるためOKだとは言ってくれていたが、土曜日の朝まで、火曜日のSaint Brieuc(サン・ブリュー)駅前での再会から数えて5日間のお付き合い。感謝感激である。まずは皆でPloumanac'h(プローマナック)へ向かう。この時のOnsiteReportは第2報告にある通りで、びっくりしたのは泥海に放置されたボート群。実は引き潮で置いてけぼりにされた無数の船たち。これは心配に及ばないという。満ち潮になれば元のとおり静かに海に浮かぶからと。干満差10m以上もあるこの地域独特の風景であるという。Ploumanac'h(プローマナック)で遊ぶ。昼食を岩の上で食べた。子供連れの家族も別の岩の上。子供たちは元気に遊んでいる。上の女の子はお転婆のようだ。岩と岩の間に足を置いて登ってこようとしている。大きなカモメが食事の残りを欲しそうにだんだん近づいてくる。潮力を利用した水車小屋の遺産があちこちで見られた。 Map Betweeen Saint BrieucからPlouézec(プルエゼック)。Plouézec(プルエゼック)からPloumanac'h(プローマナック)までの地図、Ploumanac'h(プローマナック)のトレッキングルート。ブルターニュの俯瞰地図とともに。徒然の記■五か年計画・・カミさんが宣う。「75歳前に車やめようかしら。」と。高齢者の運転事故が絶えないため恐ろしくなったようである。車をやめるということは、駅に近いマンションに住居を移すことを意味する。このためにはピアノを引き連れて引っ越しをしなければならない。容積が1/5以下になってしまうため今ある家のほとんどを断捨離しなくてはならない。それを5か年計画でやってしまおうという裁断。友達が家を引き払い介護付き老人ホームに引っ越したという話も参考に。さて個人別に許容する持ち物を例えば2立方mまでに限定してそこに詰め込めないものは捨てるといった英断が必要になる。スーツなども1着くらいは残してあとは全部処分!いやぁ、大変なことになってきた。引っ越せないものの山の中で、小生が一人、野良坊菜(のらぼうな)を育てている図式が浮かんでくる。こちらは毎日マラソンでマンションと”別荘=アトリエ”を往復し、Violaを弾きながら絵を描き、畑仕事に勤しむとか。これでは今と変わらない。カミさんだけが物理的に引っ越して行く。結局断捨離などできないのではないかと。
Nov 20, 2016
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Saint Brieuc,2016.8.16-Memoirs6(回顧録6)、日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会の集い【Memoirs5 】2016.8.16(Tue) フランス・ブルターニュ キャンプ地 Camping Plage de St.Pabu(サント・パブ・ビーチ・キャンプ場)からSaint Brieuc(サン・ブリュー)→Plouézec(プルエゼック)まで。Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポートは第2報告(8/13-8/19)の第4項を参照。)Camping Plage de St.Pabu(サント・パブ・ビーチ・キャンプ場)を早朝抜け出して、Saint Brieuc(サン・ブリュー)を目指す。途中のスケッチポイントCoquinet(コキネ)や、クレープの店Creperie Des Greves は、なんとこれから会うHouze夫婦が昔住んでいた所とわかりその偶然に驚愕。下記スケッチの絵を見るなり、ここCoquinet(コキネ)!と叫ぶ。Saint Brieuc(サン・ブリュー)手前10kmの地・Coquinet(コキネ)1Saint Brieuc(サン・ブリュー)手前10kmの地・Coquinet(コキネ)2Saint-Brieuc Cathedral Saint-Étienne de Saint-Brieuc (サン・ブリュー)大聖堂 Map Betweeen Camping Plage de St.Pabu and Saint Brieuc(キャンピングサイト・パブ・ビーチからSaint Brieuc(サン・ブリュー)までの地図)徒然の記■日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会の集い・講演会2016.11.19 九段教会にて、総会・会の集い・講演会、懇親会、二次会に参加して今帰ってきた。なんと、「Turbo717 Long Camino Journey 2015-2016 Onsite Report」と題する一冊の本が出来上がっていた。302ページにも及ぶ大判の冊子。Nakanishiさんが編集してくれたのである。Facebookであげた写真もそのなかに織り込まれた大作。頭が下がる。これに今書いている回想録や、スケッチを加えて将来なんらかの形でパブリッシュできればいいかなぁと考えている。ありがとうNakanishiさん。
Nov 19, 2016
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Cap Fréhel,2016.8.15-Memoirs5(回顧録5)、山谷ミニコンサート_story(4201)2016.11.18【Memoirs5 】2016.8.15(Mon) フランス・ブルターニュのキャンプ地Camping Château do Galinée(ガリネーキャンピングサイト) から Cap Fréhel(フレエル岬)を経由して、次のキャンプ地 Camping Plage de St.Pabu(サント・パブ・ビーチ・キャンプ場)へ。今回のブルターニュへの旅は、6年前のCamino Francés(フランス人の道)で知り合った夫婦との出会いから始まる。とにもかくにも一回ブルターニュにおいでと強く誘われていたからだ。40年前にもボース平原を車で飛ばしどこまでも麦畑が続く道を西へ西へと行き、ついに海岸に辿りついた思い出がある。海岸の断崖にへばりつくように黒い屋根の家が重なり合っていた様子が忘れられない。そういう思い出も含めて、夫婦の活動拠点であるSaint Brieuc(サン・ブリュー市)に行って再会を果たしたいと頻繁にメールでやり取りした結果、こういうところがいいだろうと紹介のあった場所の数々。パリからSaint Brieuc(サン・ブリュー市)に至るまでに紹介されたところは自力で歩くというスタンスで行程を決めていったのである。そこでまずはサン・マロが候補に上がりそこから歩き始めようと思ったのだ。サン・マロからSaint Brieuc(サン・ブリュー市)までは徒歩で70kmの行程であるが、Dinárd(ディナール)とCap Fréhel(フレエル岬)の2箇所を追加すると、94kmとなり、2泊3日の行程となったという次第。1日目はDinárd ディナールの町と絶壁、丘陵地帯に続く田園風景を楽しめ、2日目は最大のViewポイントであるCap Fréhelを中心とするトレッキングルートを堪能するというスケジュールを組んだ。up-downの厳しい長丁場かも知れないがともかく次のキャンプ場には受付時間の19:00には入りたいとして、Camping Château do Galinée(ガリネーキャンピングサイト)を朝早く出発。キャンピングの人たちを起こさないようにそっとテントを撤収し身支度。星が輝く夜道を、田園地帯をまっすぐ西に抜けていく。Matignon(マティニョン)の町からはD787に沿って北上。フレミュール川が湾内を流れるといってもほとんど遠浅の海に残された葦だけの平坦な大地が見えるだけ。陸と海の境界が定かでないないような場所を横目で見ながら丘の上を進む。一旦は海岸べりにを歩くがすぐり崖の上にあがり、半島の先端に向かう。殆どの車は先端にあるCap Fréhel(フレエル岬)を目指しているようで、目の前がどんどん開けてくる。ここで期待した土産物屋、食堂、Barなどの構造物は資料館を除いて一切無いということが分かりショック。日本とは違うのだ。フレエル岬は凡そ60mの断崖で、灯台や要塞が建つほかは岩石が織りなす絶景美。散歩道がどこまでも続く。車の道とは違い相当なup-downであるが、紫色の小さな花で埋め尽くされた斜面や遠くの岬が眺望でき実に気持ちがいい。いたるところに砂浜が展開され、そこで遊ぶ人の姿が真上から眺められる。皆は手ぶらか小型のリュック。こちらは大きな荷物にストックという出で立ち。次のキャンプ地までもVallée de Dianeヴァレ・ド・ディアンヌという大きなビーチを有する町がありメインストリートには夏のヴァカンス真っ最中の人たちが行きかう。Cap Fréhel-1(フレエル岬-1)Cap Fréhel-2(フレエル岬-2)Cap Fréhel-3(フレエル岬-3) Map Betweeen La Chabossaye・Camping Château de Galinée and Camping Plage de St.Pabu(ラ・シャボセイユ郊外のガリネーキャンピングサイトからサント・パブ・ビーチ・キャンプ場までの地図)徒然の記■山谷ミニコンサート1年ぶりに山谷ミニコンサート(於いて:台東区日本堤2丁目 神の愛の宣教者教会)におじゃました。ギャラリーとしておじさんたちの呼び込みなど。今回で第76回というからもう足掛け8年も続いているボランティアのコンサートである。本日は天気もよく30人ほどが教会に集まってくれた。童謡や演歌など10曲と、12月がお休みの分のクリスマスソングや正月の歌など凡そ1時間。チェロ、フルート、ヴァイオリン、電子ピアノなどで伴奏しながら謳っていく。小生も1月から復帰を宣言したからにはViolaをもっと弾かなければ! あぁ時間が欲しい!
Nov 18, 2016
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2016.8.14-Memoirs4(回顧録4)、等々力渓谷map_story(4200)2016.11.17【Memoirs4 】2016.8.14(Sun) St.Malo(サン・マロ)からキャンプ地 Château do Galinée(ガリネーキャンピングサイト) へ。 Real Report(現地からのリアルタイム・レポートは第2報告を参照。)サン・マロの波止場から対岸のDinárd(ディナール)まではほんの1km。湾と橋を利用した一周コースは10km。フェリーを利用するのが一番であるが、時間があれば景観を歩行で楽しみたい。フェリーの日曜日の出航は10:00を過ぎる。これでは余りに遅い。今から徒歩で湾を一周する場合と、出発時間の遅いフェリーで対岸に渡る場合とは到着時間であまり差が無い。というわけで予定通り徒歩でDinárd に向かうことにした。ブルターニューでの歩行の開始である。Saint-Servan-Sur-Mer(サン・セルヴァン・シュル・メール)の地区へ坂道を上がっていく。日曜日でもパン屋は開いている。通りをみれば必ずパンをぶら下げている人が通るので店がopenしているということがわかる。GR34というトレッキングコースがブルターニューの海岸線に沿って存在するということを初めて知った。なんと1000kmにもおよぶルートでほぼブルターニュー半島を一周している。サン・マロの市内からもこのルートへの小道があり海岸林の険しいジグザグの道が始まる。このジグザグにはまってしまうと、距離はあるのに、一向に前に進まないというジレンマに陥る。山道の常として行きつ戻りつするからである。こちらのように30数キロを歩く身にとっては森の中の道ほど辛いものはない。Briantais(ブリアンテ)ピークとBrebis(ブレビ)ピークを結ぶ箇所に700mくらいの長大な橋が架かり遥か下に釣り糸を垂らす男性達5,6人。潮の流れが激しく恰好の釣り場となっているようである。対岸からもトレッキングルートが続き、丘へのぼりつめるルートが用意されている。高度差は50mくらい。なかなかしんどいものがある。ディナールのPlage de l'Écluse(レクルーズビーチ)には素晴らしいプロムナードがあり、これに岩礁が続く。ここにもトレッキングコースが続く。実はこれが問題でそんなこととは露とも知らず、何百mもこのコースを辿って行ったのであるが、歩数カウントがまだ甘く、地図をよく見ていなかったせいもあり曲がるべきポイントを見落とした。曲がるというのはトレッキングコースから外れるということで、すべて急峻な階段で50mもの断崖絶壁を登らなくてはならないということを意味した。手すりがついてはいるものの垂直に近い階段をのぼりつめるというのは相当の勇気がいる。都市空間が丘の上に展開され、いきなり別世界。My Mapにも書いていない場所から予定コースへ合流という試練を経なければならなかった。この場合もMaps.Meが大活躍をし複雑な経路もコンパス頼りに1,2kmで合流できている。あとはひたすら田舎道を紆余曲折を経ながら30kmも歩く。キャンプ地に辿りついたが、ここは別の意味で別天地。外部とは隔離された町となっているのだ。プール、レストラン、ミニコンビニ、なんでも揃っている。キャンプ用として宛がわれた敷地には自動車用のコンセントしかなくアダプターは25€だという。共同スペースに普通のC型コネクタがあったのでそこで充電。洗濯機もキャンプ場固有のジトンを使うようになっており両替をしなければならない。何泊もするには都合がよかろうが、外国人にはきついキャンプ場である。こちらに来てから初めてのテント張りとなった。Landscape of Dinard from Baie du Prieuré;(ブリュレ湾からディナール市街を眺望) Map Betweeen St.Malo and La Chabossaye・・Camping Château de Galinée(サン・マロからラ・シャボセイユ郊外のキャンプ地-シャトー・ガリネまでの地図)徒然の記■等々力渓谷・・先日世田谷区にある等々力渓谷を散策した。例のようにMy Mapを作成すると以下のような4kmのコースが一枚の地図になる。散策はこれに2時間をかけた。巡礼でのspeedの半分以下である。僕のような”せかせか”歩きは、健康によいのであろうか。この地図は1万分の1(2cmが200m)のサイズであるが、これでも道が判別できる限界である。今回使用した地図のなかに2cmが500mというのがあったが、これではほとんどの道が消えてしまい歩行には支障をきたす。彼の地で使う前に日本で地図サイズを検証した筈であるが、1万分1ばかりでは膨大な枚数になってしまうためついつい2cmが500mという地図を間に挟んだ結果、現地で泣くという事態に。おめおめ地図は省略してはならないという教訓である。逆に言えば、こういう地図をもって外国を歩いてきたわけで生還できたことは奇跡のような感じ。(?)Between Nikotama and Todoroki Valley;等々力駅から二子玉までの散策ルート
Nov 17, 2016
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2016.8.13-Memoirs3、年賀ハガキ_story(4199)2016.11.16【Memoirs3 】2016.8.13(Sat) Chartres(シャルトル)からSt.Malo(サン・マロ)へ今日(8/13)はサン・マロへの移動日。昼の電車なのでシャルトルの町を再度探索。部屋でスケッチの準備をしようと思ったら肝心のスケッチブックも含め道具一式が無くなっている。はて?やはりお酒を飲むと注意が散漫になるらしい。昨夜はシャンジュ通りのレストランで食事をしながら大聖堂を描いたのだが、その後で隣の椅子の下に置いておいたのがまずかった。立ち去るときに道具一式が入ったサックを忘れて置き去りにしてしまっていた。その直前で隣のテーブルからガラスコップが落ち、ウェイトレスが掃除したりして慌ただしかったことも注意が散漫になった理由かもしれない。さて?どうする。まずはその場所に行ってみることだ。あれだけ賑やかだった通りが閑散としている。沢山あったテーブルが片付けられガランとし、清掃車がそこを綺麗に水をまきながら進んでいた。パン屋の車が朝いちで各レストランやBarに出来立てのパンを配達している最中であった。藁をもすがる思いでBarのドアをノックしてみた。コックが一人出てきた。朝のカフェを準備している最中であったようだ。窮状を訴え忘れ物が届いていないかと。このコック大きく頷き、奥へ引っ込んだ。昨夜からの申し送り状が届いていたのであろう、忘れ物を引っ提げてニコニコしながら現れた。あぁ、やった! 感謝のお礼を述べその足で、目星をつけておいたスケッチポイントへと。寸描を時間の許す限り弾丸のごとく描き進む。リュックを持っていない身としては大変気軽な町散歩となった。下記はその一部。最初のがスケッチブックを忘れたときに描いていた寸描で、食卓で絵具を使うのを控えたため殆どデッサン画となっている。描いた時刻と方角が今後のスケッチに追記される。Short Skech of Chartres 1-Cathedral from Rue des Changes(シャルトル寸描1;シャンジュ通りからの大聖堂(pm7:26 267°))Short Skech of Chartres 2-Place de la Poissonnerie e Office de Tourisme(シャルトル寸描2;ポワッソヌリ広場と観光案内所(am7:37 90°))Short Skech of Chartres 3-L'Eure from Pont Bouju(シャルトル寸描3;ブシュ橋からユール川(am7:55 323°))Short Skech of Chartres 4-église St Pierre from Pont Taillard(シャルトル寸描4;タイヤール橋からピエール教会の尖塔(am8:16 162°))Short Skech of Chartres 5-Cathédrale Notre-Dame de Chartres from Rue de la Guillaume(シャルトル寸描5;ポルト・ギヨーム通りから大聖堂(am9:44 291°))さて、午後の一番でSt. Malo(サンマロ)へ移動。Chartres 12:09 --Le Mans 13:24 、Le Mans 14:06-Rennes 15:20、Rennes 15:45--St Malo 16:35と2回の乗り換えを経て、サンマロに移動。到着時の気温は25℃。暑い日差しを受けてまずはユースホステル(Youth Hostel Ethic Étakes)へと急ぐ。途中にあったスーパーに目星をつけあとで買い物。ユースホステルは町の中心から離れている分、長い砂浜を見ながら旧市街へと行けまことに観光気分である。ビーチはぎっしりと人で埋まり、遊歩道も海水浴客で溢れており、それに面するリゾートホテルやレジデンスから出入りするする人たちも加えごった替えしている。なかなか夏らしい雰囲気である。さすが大観光地だけのことはある。旧市街地は高い城壁で囲まれ中は暗い。しかしネオンなどで煌々と照らされ狭いメインストリートはさながら不夜城のように輝いてまぶしいくらいだ。町の中心にあるカテドラルをまずはスケッチ。夕陽を見るためには高い城壁の回廊部分に上がる必要があり、上がれば市街地と違って開放感を味わえる。日没をレストランのテーブルから拝めるような店を探す。Crêperie Le Corps de Garde(クレープの店)がちょうどいい場所に建っていた。満席のようであったが、入り口の一テーブルが一つだけ空いていたので案内される。ブルターニュ名物のガレット(そば粉を生地にしたものが「ガレット」、小麦粉を生地にしたものが「クレープ」とこちらでは区別している。)を戴く。生地はそば粉と塩が使われていてこれだけで十分主食になるほどで、その上に卵2個などとトッピングしていき、4隅を折りたたんで小さくしたものがでてくる。真ん中には半熟の卵が入っておりナイフに切り分け乍ら口に入れていく。デザートに甘いタレがかかったクレープを戴いたりと。Cathedrale Saint Vincent of St.Malo(サンマロ大聖堂(pm7:18 68°)) Crêperie Le Corps de Garde and Salle Sainte Anne ,Hôtel San Pedro (サンマロ・クレープの店(クレープリー:コープ・デ・ガルディ)とホテル群(pm8:21 0°))赤い天幕と奥の木枠のガラス窓が、Crêperie Le Corps de Garde 。 Map Betweeen Chartres and St.Malo(地図:シャルトルからサンマロ(電車移動))サン・マロは、モン・サン・ミッシェルとは直線で40km弱しか離れていないが、前者はブルターニュー、後者はノルマンジーに属する。徒然の記■年賀ハガキ緑区にある橋本郵便局に別の用事で行ってきた。入り口そばの天幕では、年賀ハガキを声を枯らして局員数人が"定価"で販売していた。そこから距離にして500m。JR橋本駅前では金券shopが200枚単位の場合で47円、端数の場合は48円で販売。この事実をどう見たらよいのだろう。定価で買ったほうがお年玉抽選に当たる確率が高いのだろうか。または寄付金額が付いた「A番号」を買えるのだろうか。金券shopは、少し前までは47.5円とちょっと高かったようである。値下がりする要因はどこにあるのだろう。netで調べると、プリンター消耗品のインクと抱き合わせでもっと安く買えたりもするようである。不思議な日本。
Nov 16, 2016
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2016.8.12-Memoirs2、明治神宮御苑_バルバッコア_story(4198)2016.11.15【Memoirs2 】2016.8.12(Fri) Cathédrale Notre-Dame de Chartres(シャルトル大聖堂)Auffargis(オウファルジ)のCatherine家を立ち、いよいよ最初のLong trail開始。Chartres(シャルトル)までの37kmは、D150という県道をひたすら歩くという単調な歩行。途中にある町々に近づく度に、市道に入るためほっと一息つく。シャルトルの13kmあたりの手前から、麦畑の向こうにいつも2本の塔が見え隠れする。すでにシャルトル大聖堂の2本の塔が見えていたのである。最初は町々の教会の塔かと思うも、次第に大聖堂に違いないと確信を持てるようになった。方角と照らし合わせてみても間違いはない。そこへ一目散という形。Orphin(オルフィン)の町から道はD32と名前を変え、Gallardon(ガラルドン)に到達する。町の中心部はいきなり細い石畳。そこを抜けると再びD32と合流し、南西に向かう。シャルトルのMetropole(メトロポル)空港の広い敷地に張られたフェンスを見ながらVoie de la Liberté(リベルテ道路)をまっすぐ進む。もうここではシャルトル市内で、自動車道とは分離された快適な散策道路にかわる。Rue de la Croix Thibault(クロア・ティボ通り)の上部にある公園から眺望した教会をスケッチ。淡い緑色の屋根が印象的。1979年ユネスコの世界文化遺産に登録。Cathédrale Notre-Dame de Chartres from entrance of Town,町の入り口からシャルトル大聖堂道は町中に入っていく。2本の川を渡るように見えるが、L'Eure(ユール川)に長細い島が横たわっているためである。道はどんどん狭くなり一方通行の旧市街地になっていく。川のほとりにあるのが、Église St Pierre(サント・ピエール教会)で、目指すホテル Saint Pierre Appart Hotelはすぐ見つかった。リュックを置いて迷路をなす丘を上がりシャルトル大聖堂へ。青のステンドグラスを見る。スペインのレオン大聖堂の赤のステンドグラスと対比して、青のステンドグラスのシャルトルが語られるほどこの聖堂のステンドグラスは青が特徴。ただ窓に描かれる物語はそれぞれの色をもって輪郭や面が描かれるため赤色や黄色なども多種の色があるが全体としては青いのである。Blue Stained glass ;教会内部のステンドグラス二つの尖塔の右側は、高さ105mの角錐(1174年~)であり、左側は、高さ113mの後期ゴシック・フランボワイアン様式(火焔式)の塔である。front of Cathédrale Notre-Dame de Chartres Map Betweeen Rambouillet and Chartres;地図:ランブイエからシャルトル徒然の記■明治神宮御苑・・今日は歩き塾の仲間が原宿のバルバッコアで帰国祝いをしてくれた。お肉を食べて英気を取り戻そうという趣旨である。ただその前に明治神宮を散策しようではないかということになり広い境内を皆で歩く。ちょうど2020年の神宮鎮座100年に向けての社殿の屋根の修復に使う銅板の奉納という行事をやっていたので参加。「¡ Buen Camino !」「歩き塾」という文字を2列に書き奉納。4年後までに屋根に裏返して葺かれ、表に緑青が出たあとも永代この文字が屋根銅板に残るという。頑張らねば。神宮参拝の後、御苑に寄ってきた。紅葉はまだすこし早いものの、そこそこに欅が色づき、菖蒲園のさびた感じがなんとも言えない晩秋の雰囲気を醸していた。末端にあった、清正井(きよまさいど)は渋谷川の源流とされ、いまだこんこんと清水が湧き出る様に感動。Power Spotであろう。■バルバッコア→ネパール米産ブラックアンガス牛の肉を中心に多種多様な部位を戴く。Contra File(サーロイン)、Picanha(ピッカーニャ(イチボ))、Alcatra(アルカトラ(ランプ))、Fraldinha(フラウジィニア)、その他、、ソーセージ、ローストチキン、豚肩ロース、ラムレッグ、ペッパーステーキ、焼きチーズ、焼きパイナップルなど。サラダバーには100種類くらいの食材が並ぶ。これに飲み放題メニューなどを付けて大いに食べ、飲んだ2時間。すっかり酔ってしまった。その後は、神宮前1丁目にあるネパール喫茶へ。驚いたことに重宝した「旅の指さし会話帳」のネパール版が置いてあった。ただし現地の文字が読めないため我々には使えない。こんな感じである。तर यो तपाईँले भाषा पढ्न सक्दैन प्रयोग गर्न सकिँदैन। यो जस्तै छ।(せめて以下のように、ローマ字などで発音を書いてほしいものである。)Tara yō tapā'īm̐lē bhāṣā paḍhna sakdaina prayōga garna sakim̐daina. Yō jastai cha.■こむら返り巡礼中も、帰ってからも、悩まされているのが、足のこむら返りである。キーンと足が硬直し、えも言われぬ苦しさ。七転八倒の挙句、しばらくこの世のものと思えぬ苦しさが経過し(1分程度であるが)、これを我慢するとうたかたのごとく痛みは消えていく。右足も、左足も。靴を履くときにつったたり。様々な場所でも起こりうるが、大体は寝ている時である。これに効く薬の一例。・協和発酵の「アルギニンEX アミノ酸」・・錠剤は袋に6粒入っているが、これを毎日2錠飲んでいる間はこのくむら返りは無かった。錠剤が30日で無くなってしまった後からくむら返りが始まった。よってこの錠剤にはこむら返りを抑えるなんらかの効能があったのではないかと思う。・ツムラ漢方甘草湯(かんぞうとう)・・こむらがえり、筋肉のけいれん、腹痛、腰痛に効能ありと謳う。・大正漢方胃腸薬・・これでも効くと 友は言う。
Nov 15, 2016
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2016.8.11-Memoirs 1-2、パン_story(4197)2016.11.14【Memoirs 1-2】2016.8.11(Thu) その2:ParisからRambouillet(ランブイエ)へ。Monparnasse(モンパルナス駅)は近郊へのローカル線と郊外の主要都市を結ぶ長距離線など数種類の専用ホームがあり多層階を形成する。電光掲示板を見て飛び乗った電車が、運悪く各駅停車のローカル線だったらしく南西に50kmも離れているRambouillet(ランブイエ)へごとごとと70分もかけて各駅停車でゆっくりと進んだ。急行なら30分というのに。6年前の2010年の巡礼で知り合ったフランス人がRambouillet(ランブイエ)近くのAuffargis(オウファルジ)に住む。シャルトルの大聖堂を観たいと思い、パリから歩くコースを練っていた時に、この近くに住むということが分かり2年前から連絡を取ってあったのだ。昨年はパリ止まりであったため会えず、今年はぜひというメール。しかしながら当初は、8月はビジーで、11月にパリで会えればという消極的なものであったが、8月の予定が空いたというので「ではぜひに。」というそういう調子で話が進んだのだ。待ち合わせ場所としたのが、Rambouillet(ランブイエ)駅前。会う前に、すこし町の様子を知っておきたいと思い2,3時間かけて街を散策。当初はここから南に1kmほど離れた場所のホテルからシャルトルまで35,6kmを徒歩で向かうべく、ホテルまで予約してあったのであるが事前にキャンセルをし、Auffargis(オウファルジ)の自宅にお邪魔させてもらうことにした。この城でも御多聞にもれず改修中。その城の一角をスケッチ。Château de Rambouillet;ランブイエ城ランブイエ城(Château de Rambouillet)はフランス大統領の別邸となっており首脳会議が開かれたりする。城の前にJardin Anglais(アングレ庭園)が広がり池にはボートガが浮かぶ。ランブイエ自身も広大な25平方kmにもおよぶ森の中にあり、さらにランブイエとパリの間にはParc naturel régional de la Haute Vallée de Chevreuse(オート・ヴァレ・ド・シェヴルーズ自然公園 )があり、ここは”森の南西イールド・フランス”と思っても間違いはない。さて、約束の16:00となった。駅前でそわそわしながら会うべき婦人Catherineさんを待つ。6年前と変わらず駅に現れし。自宅はこの広大な森の中にある町Auffargis(オーファルジ)の教会通りに面している。さっそくお庭を拝見。ワイン蔵になっているという納屋をスケッチ。Barn in Auffargis;オーファルジの納屋Map Betweeen Paris and Rambouillet;地図:parisからRambouillet徒然の記■パン・・帰ってきてからの手順を書いておいたが、2度目のパン作りでひとつ抜けている材料に気づいた。「スキムミルク・・大匙一杯」を忘れていた。味にはあまり支障がなく違いがよく分からなかったが風味などに多少の影響があったのではないだろうか。3ヶ月の空白とはこのような次第で多少ボケている ということが立証された。■ぼや外出から帰ると消防車が沢山来ていて、自宅までの通路が塞がれていたとカミさんが言う。ウィンドウを開けて聞いたらしい。「自宅でしょうか?」と。向こうの応えは「いえ違います。」と。カミさん。どうして私の家を知っていたのだろうと、首をかしげる。交通止めは自宅から曲がり角3つもいれて200mくらいもあったというのに。ここで面白いのが、質問の仕方である。普通「自宅でしょうか」と聞くものであろうか。
Nov 14, 2016
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2016.8.11-Memoirs 1-1、府中市民交響楽団_story(4197)2016.11.13From now,I want to put may image of this year's long journey on the blog,and write some day-to-day diary.【Memoirs 1-1 】2016.8.11(Thu) その1:Paris2番地下鉄のAnvers(アンヴェール駅)にほど近いLe Régent Montmartre Hostel (ル リージェント モンマルトル ホステル)は、Gare du Nord(パリ北駅・ガール・デュ・ノール)からほど近く、RERを北駅で降りてRue de Dunkerque(ダンケルク通り)を西に真っすぐ行きさえすればよかった。このHostelを予約したのには訳がある。前回訪れることができなかったBasilique du Sacré-Cœur(サクレクール寺院)にぜひ行ってみたいと思ったからである。早朝の5時は、夏のパリでもまだ薄暗く、Boulevard de Rochechouart(ロシュシュアール通り)の大きな道もまだ車はそうは走っていない。そこを斜めに横断し、狭い路地をとにかく北向きに上がっていく。Saint-Pierre(サン・ピエール)通りの向こうはSquare Louise Michel(サクレクール・ルイ・ミシェル)公園で、サクレクール寺院を見上げるように広がる。西側にはケーブルカーが設置され開業の準備をしていた。階段をのぼりつめるとそこにライトアップした寺院がそそり立つ。下では徹夜で騒いでいたであろう若者たち。そろそろ引き上げる時間か。暗い境内であるが、ライトアップを頼りに寺院をスケッチ。そろりとPoliceの車が目の前に止まった。数人が降り、若者たちのところに向かう。何も起こらない。若者たちは散会するようだ。急に静かになった寺院でスケッチを続ける。高台からはパリの街並みが夜のしじまに浮かび上がり幻想的。light-uped Basilique du Sacré-Cœur ;早朝のサクレクール幾多の路地を通って下に降り、ホテルに戻って朝食を食べる(7時30分)。その後リュック姿となりチェックアウト。(現地報告(real日記)第14報(第14報)で書いたようにこれがまずかった。ホステルで短時間、預かってもらうべきであった)。同じ地下鉄2番線のBarbès-Rochechouart(バルベル・ロシュシュアール駅)から目指すPère Lachaise(ペール・ラシェーズ駅)へ。2番線は大変便利で、観光路線のような感じ。円弧を描きながらも乗り換えることなくペール・ラシェーズ墓地へと運んでくれる。ショパン、バルザック、ピアフの3名のお墓を詣でるのが目的。入り口に索引と地図が出ているのでそれをもとに歩を進める。1km四方もある広大な墓地は、中心部が迷路、周辺部は矩形の路地となっているものの、奥まったところにある墓はなかなか見つけるのに苦労した。墓地は静かなもので閑散。東西に2か所しかない門。特に東門へは相当の距離を歩くことを覚悟しなければならない。全体は西に向けて丘を下っているので、東門から入ると坂道を下る形となる。これを済ませ次なるは、3番、4番を乗り継いでChâtelet(シャトレ)へ。Tour Saint-Jacques(サン・ジャックの塔)を訪れる。Rue de Rivoli(リヴォリ通り)とAvenue Victoria(ヴィクトリア通り)に南北を挟まれた形の公園の真ん中に、目指す塔が建っている。高さは52m、フランス革命で取り壊された教会(サン・ジャック・ドゥ・ラ・ブシュリー教会)の遺構で唯一残ったとされる。建築様式はゴシック・フランボワイヤン。フランス国内を発する巡礼街道の一つトゥールの道の起点である。1998年に巡礼路関連遺産として世界遺産に登録。見学は7月上旬~9月中旬の金土日10:00-17:00.Tour Saint-Jacques(サン・ジャックの塔)その後はノートルダム大聖堂へと。(これは第14報に詳しい)2016.8.11 Paris Access map徒然の記 ■栃木OB会: 2016.11.12(Sat)16:00-18:15 京王線府中駅の南にあるデパート9階の「風流日本料理 歌行燈 」 毎年平均年齢が1歳づつあがっていくタイプの会社OB会。宇都宮時代の人たちが17人集まった。万年幹事は唯一現役の人事部長。54歳。あとは平均70歳を超えるのではないだろうか。怖い話が2件ほどあった。交通事故の話である。信号無視と暴走。新聞を賑わす事故は、こうした身近にも存在した。不必要にぶらぶらと外に出ないことが肝心か? アクセルとブレーキを踏み間違えても自動車側がうまく処理するようなAI機能の開発と搭載の義務付け。■府中市民交響楽団第74回定期演奏会:2016.11.13(Sun)14:00-15:45 於いて 府中の森芸術劇場どりーむホール曲目:デュカス 交響詩「魔法使いの弟子」、ビゼー「カルメン組曲」、サン=サーンス 交響曲 第3番 作品78「オルガン付き」・・今回は聴衆として。なかなかの熱演。オケ復帰を決意。Violaを月1くらいで習うことにする。■華の舞:2016.11.13(Sun)16:15-18:30 演奏会の後は毎回のように府中にいたころの会社の仲間が集まる。巡礼の報告会を兼ねて大いに盛り上がる。面白かったのは先輩の話、昔のパリ。あまり英語が通じなかったころの話である。「Do you Japanese?(あなた。日本人ですか?)」「Yes. I do Japanese(はい。"日本人"をやっています。」今は教育が行き届いているので、5歳くらいでも英語はしゃべれる。ポルトガルではほとんどの人が英語が喋れた。
Nov 13, 2016
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日本にて_story(4196)2016.11.11I am now Japan,I take a rest more calmly in my house,I hesitate to look everything so mini-size .久しぶりの日本。家にあるごちゃごちゃしたものが全てミニチュアサイズに見えてしまって困っている。シャワーのノズルなども含めてすべてが小さい。大きかった西洋のものは一体何だったのだろう。30cmx30cmものシャワーの天井ノズルなど巨大なものばかりを見てきた後は、なにかおもちゃのような感じ。さて昨日からいつものように台所仕事が始まった。もたもたし「手順」が思い出せないでいると、「貴方、大丈夫?」とカミさんのヤジが飛ぶ。ポット用のお湯を沸かすことからすべてが始まるのだ。コーヒの準備ではカミさんのは小匙大盛り3杯、小生のは1杯で十分。濃さが違うがこれで十分。違う濾過器を2set用意。自家製パンはすでに出来ているのでスライスしてトースターに。朝食開始の5分前にスイッチを入れる。バナナ、リンゴ、キャベツなどを準備するが、キャベツなどは早めに自分の分は食べ始めておく。バナナには食べやすいように皮に切れ目を入れておくのを忘れてはいけない。フライパンを十分熱し目玉焼きを作る、ソ-セージを加えて少し水を垂らし、蒸気が沸き上がったことを見計らって蓋をし火を止める。余熱調理である。(カディスのホステル、宿の女将も自分たち用に同じ台所を使って料理をしていた。見ると最後まで火を通しており余熱利用の文化が無いのではと思うほど無駄にエネルギーを消費していた。別のアルベルゲでは、自転車の付き添いママたちが茹で卵を作っていたがこれも30分ほどぐつぐつと茹でていた。これも余熱で半分は時間が節約できる筈である。パンが別に厚いのが一枚残っている。これをフレンチトーストにしようということになった。(スペインのcamino「北の道」では、これを頼んだつもりが、普通のトーストが出て来きたのだ。)寝る前に、ボールに卵を割り入れ砂糖と共に攪拌し、厚切りパンを浸しておく。朝方十分生地を吸い込んだパンをフライパンで焼くのである。フライパンを温めたあと一旦布巾の上などで冷まし、バターを溶かしてから再び火にかける。パンの4面を少し焦げ目が付く程度に焼き、朝食のオプションとして添える。ヨーグルトも忘れてはいけない。パンは明日の分が1枚以下になれば自家製パンを製造しはじめないといけない。強力粉250g、砂糖大匙2杯、塩小さじ1杯、水180mLをsetし電源を入れる。ドライイースト小匙1杯(3g)を所定の容器に入れるが当方のはドライイーストが自動的に落ちていかない障害を持っている。機械が稼働するタイミングで箸で押し込むことも忘れてはいけない。・・・さて、日常としての今後の方針。・マラソンとスケッチの継続・いろんなイベントへの参加・本blogの継続(毎日の徒然を書き、回想録として、day by dayでスケッチを掲示していく。合わせてコース分析(実際の歩行ルートの検証と高度グラフ))を行いたい。注・・コース分析は困難を極めそう。Geographicaなどを利用しなかったために本当に歩いたルートや、テントを張った場所などの検証を行わなければならないため。あぁこういう時のためにGeographicaのトレースログを取っておきたかったのであるが旧型のスマホでは電池容量が足りず断念した経由がある。モスクワ上空の雲。
Nov 11, 2016
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The14th final Report(4th(Fri)-7th(Mon)Nov.) from France,Spain,Portugal. I reached to Gibraltar finally ,I could not enter to the gate of Gibraltar without crying in collapses. I finished my trip (over 3500km for 3 mounths) at 5th Nov.Now I am CDG aerport to Narita.Japan.I must say thanks to every persons,one of them as follow.name:meet-spot ,(nationality)Catherine:Auffargis,Rambouillet,Pais(F),Michel & Françoise :St.Briuex,Pouezec or Plouha(F),François and Blanche:Arsac-Bordeaux(F),Bénesse:Capbreton(F),Guillemind,Tato,Fabian:San Sebastian (Ar),Marc(マーク;speed walker):Zumaia--La Isla (F),Mark,Roland:Elexalde-Arratzu(Hr),Syds,Irma,Denzel,Eleonore,Lee Minww:Bilbao(Hr,Ch),Annick,Martin:Portugalete(F),Shimmy,Eva:Santoña(Is),Christine Winter,Eleonal,Joan:Güemes(F,D),Giacomo(ジャコモ;speedy walker),Javier,Anna,Golico:Llanes(I,S,D,D),Igor Alberto Gomes:Rebadesella(Br),Jacque:Villaviciosa(F),Juan ,Pepin,Jose:Gijon(I),Georg:Aviles(Pa),Dariusz(8000km walker from Porland ):Luarca(Pr),Ogawa,Gloria:Ribadeo(J,Sp),Karmen(カルメン;artist ) :Maariz(Sp),Annemarie(Shikoku-Junrei at end of March 2017):Vilalba(Sw),Golling Sedges,Poco Ruana:Pontedeame(F),Mario Pozzati(Egyptlogy visiting Professer ),Tipolo,Fernand,Lola.Emilio,Eidi,Simina Toni,Arriva:Betanzos(I),Fred Gaudet,Oliver:Santiago de Compostela(USA),Oscar Rivera:O Pino(Co),Annika Pfeiffer,Robert Sturgess:Santa Eulálla de Mós(D),Steliyan Vasilev:Vilarinho(Bg),M.Ozaki:São João Madeira(J),Cal:Fátima(F),K.Watanabe :Sevilla (J),Antonio Leon( helpfully in forest ):Huelva(Sp),Maria Rosa,Jose and their friends (artist ):Cádiz(Sp),Victor Quitanilla:La Línea de la Concepcion(Sp) And all Hospitalero.All stuf of Hotel,Hostel,Hostal,Arbergur,super-mercado's staff,polices,Bar's counter,And all Japanese friends.Thanks lots for my encouragement ,you will be my forever friends.From here I will up my drowned skechs to my Blog,"http://plaza.rakuten.co.jp/turbo717 ",or you can search by "turbo717".4th(Fri) Nov.Vejer de la Frontera +9km--Tahivilla-- Casas de Porro--La Costa--Tarifa(タリファ)カディスからジブラルタルまでの途中のVejer(べヘール) の町は丘の天辺に位置する。展望台から遥か下を国道が走る。その国道まで急斜面の遊歩道を転がるようにして下りた後、深夜の国道を9kmまでは歩いたが限界。国道のすぐ脇という恥ずかしい状態でのテント。まぁ完全なビバークである。ところが夜半から小雨が降り続く。国道の交通量を計って見ると3時台が最も少ない。殆どゼロだ、4時台でぽつぽつ、5時台からカディスやセビーリャに向けて北上する車が増え出す。車のライトを受ける時はテント内が明るくなるのでよいのであるがそれ以外は漆黒。弱めのヘッドライトで作業をする。4時起床。まずは嵩張っている寝袋を仕舞う。この旅では最後のテントとなった。諸物に感謝である。昨日はテントを張るギリギリまで歩いていたので歩行用の行動服を全部着替えてテント内に干してある。テントの梁が内側なので天幕と梁の隙間に衣服の端を挟み干すことができる。高さ90cmと上の方はかなりの余裕。万艦飾とまではいかないが身体の前後に吊るされている。これで車のライトが和らげられぐっすりと寝ることができた。テントの下を長い草たちが何千本も身を屈めてくれているのでフカフカ。最高の下地となった。そこを4時半起床。朝御飯はツナ缶詰(こちらではAtunと「A」を付けなければ通じない。)、サラミ、トマトの薄切り、白い葡萄、バナナなどを水と共に喉に含んでいく。食事に相当な時間を要するため早めの開始が望ましい。それが済むと戦闘態勢に移行。服を着替えザックに全ての物を詰め込んでいく。ザックカバーと雨具、反射板付きの蛍光上っ張りというスタイルで出発の準備。6:01 テント撤収(テントからマットを除き全てのものを外に出す。2本のポールは中央でジョイントされている最新型。入口にあるポール受けからポールを外す。テントはぺしゃんこになっても人間がまだテントの中にいる。ポールを折り畳んでいくのはテントの中でも出来る。サックに仕舞うところまで済んだら次に靴を履く。マットのクッションを利用して膝まずけるので最高。マットを外に出しテントを畳む。ベンチレータ用の支えの部分がテントを巻く時に平行になるように調整し縦方向に4つ折りし巻いていく。この時下地の草や土を巻き込まないようにマットの上で作業を行う。慣れれば10分で終わる。) 6:20 出発。今日は元々の長丁場に加え昨日の未達成分3kmを加えて凡そ40km。最後の最後で一番の長距離となった。4.2km(4000カウント)の単位で、長丁場を括っていく。1. 7:02 count 4000 小雨 国道N-340は120度の方向。山を回り込む最後の北向のカーブ。--7:08 2. 7:54 count 4000 小雨 風力発電基地(ジブラルタル海峡に吹く風を受けているのだという)一列何十台もが何列にも並ぶ。道は120度。--8:063. 8:50 count 4500 雲 Tahivilla(タイビリャ)の町。教会あり。町は右側の丘の上に展開、国道筋には気のきいた店は何も無い。赤いものがあるとBarの椅子ではないかと期待が膨らむが裏切られることもしばしば。少々休憩。無風状態であるがゆっくりと風力発電の羽が回る。景色は牧草地。前方左右に低い山々が連なる。154度。Policeの車通過 、もうお咎(とが)めはない。--9:004. 9:41 count 4000 中規模の山裾半分に白い家屋群。日本によくある石灰が露出した山裾に映った。Facinasの幻想的な町。暑いので雨具を脱ぐ。食事休憩。太陽128度。道123度。この国道脇の溝。食べこぼしたパン屑を蟻達がせっせと運んでいる情景に気が付いた。蟻の気持ちになって見てみよう。「わぁ。パンが一杯落ちている。一つ戴いていくとするか。大きい奴がいいなぁ。石ころだらけで歩きにくいが頑張ろう。深い穴に一本棒が横たわっている。落とさないように慎重に。先まで行ったが断崖絶壁。天井にどうしたらとどくだろう。後ろ足4本をぐるぐる回転させてみよう。もうアクロバットだ。だめだ。持ち方を変えてみよう。やや端が天井にひかかった。パンを利用して180度、回転の大業だ。よいしょやっと難所を切り抜けた。やや。漁夫の利を狙ったずるい蟻。引っ張りこだ。協力してくてないのか。こっちも負けずにたたかわないと!」そんな蟻達が口々にパンや菓子屑を大事そうにせっせと運ぶ。面白い光景だ。--10:47 5. 11:32 count 4500 11:17にアフリカ大陸が見える。2,300mの高さの山が目の前に。道は200度。太陽は156度。薄曇りながらまた暑くなってきた。今までの登りをこれから一気に解消していく。緩い南東方向への下りカーブ。--11:396. 12:20 count 4000。道は190度。太陽190度。南の方向は確かにアフリカ。12:237. 12:30 25kmにして初めてBar -Restaurante "Rioja"あり。512歩で中断し反対車線のBarへ。ここで今日はじめて顔を洗う。髭ずらが気になるが大量の水での洗顔は贅沢にすら感じる。水の補給とバッテリーへのチャージ。カウンターのガラスケースにあったアラカルトを注文。1.ensalada ruza 2.pipiranade langostinos 3.ensalada de melva de tarifa con pimientos asadosiの3皿とペプシx2 もう立派な昼食だ。パンはカステラ風のカットで、茶色。この辺りのBarでは乾パンのような小さな個片が10個ほど付く。9ユーロ。Tarifa まで直線11km。頑張れそうだ。4kmカウントをあと3回すれば到達できる。--14:0714:37 count 4000 道129度。太陽 207度。8.15:20 count 4000。道114度。太陽 218度。緩い右カーブでTarifa の町に入っていく。右手に海やキャンプ場、左は牧草地と風力発電。--15:269. 16:11 4000 。2km手前から既にTarifa。なんとピタリとHotelに到着。count4000は最近では4.2km相当。かなり早く飛ばしたことになる。Hotelで寝袋とテントに風を通すべく広げておく。3日ぶりの洗濯。大スーパー「Sol」で果物、パン、缶詰などを購入。ここでザクロをまた買った。兎に角今身体はビールと何か腹ごなしを求めている。Hotelに隣接するBar El Torreónで一息つく。この後は港を見学し、旧市街の郷土料理店 Morillaへ繰り出そう。スケッチは今日は夜の景色。パエーリア(Arroz con vardura 2人からが基本であるが野菜パエリアは一人から準備出来るという。)、ビール(Tanque Cervesa)、ジュースなど。18ユーロ。Hospedaje Villanuevaイベリア半島最南端の町タリファ。モロッコへの1日観光が40ユーロ。ドックに入る商船に関税を掛けたらことからtarrifの語源になった町としても知られる。アフリカ、或いは海峡を渡る風を利用した何千もの風力発電は一見の価値。旧市街は城壁に囲まれ入場はトンネルのような場所でアーチをくぐる。Whale Watchingの基地として、サーファーの基地として、色んなレジャーが展開される町である、宿のご主人、可愛い女の4人姉妹(11,10,5,3歳)と美しい奥さんがいた。5th(Sat) Nov.Tarifa --El Bujeo--Peleyo--Algeciras(アルヘシラス)-- La Lí nea de la Concepción)(ラ・リネア・デ・ラ・コンセプション略してラ・リネア)--Gibraltar--La Línea5:00前に起床。テントと寝袋を仕舞う。食事は"ザクロ"。ひとつ分を食す、種を出す。と書いたが熟したものは種もそのまま食べる。スプーンと言ったが手で房を裏返すようにして粒を出していくと良さそうだ。ハムは買ったときは厚みがあると思ったが騙された。一枚一枚が恐ろしく薄い。上手に1枚を剥がしてパンに挟む。ジュースはマルチジュースの1L。オレンジ100%のは2-3ユーロもするが非常に美味しい。マルチは安い分水代わりといった感じであまり美味しくない。今日も国道を行くので昨日同様4000カウントを一括りにして歩行。7:08出発。1. 7:44 2500 雨具とヘッドライトを外す。道 46度。右カーブに差し掛かる。振り向くと222度の方向にアフリカの最西端北が眺望できる、Tarifa から南21kmしか離れていない。1. 8:01 日の出 3062 8:12 count 4000 道 38度。--8:132. 8:59 count 4000 道 107度、太陽 129度。完全な山岳コース。道は登り続けている。小休憩。----9:083. 9:46 3532 72度の方向にGibraltar の岩山(ザ・ロック)を眺望。苦節3ケ月。ついにジブラルタル!9:53 count 4000 。道 53度、太陽 143度。 Algeciras nまで8km。町が見えはじめている。湾の向こうにジブラルタルの山々とつきだした岬が眺望される。下り坂に掛かっている。もう上りはないであろう。---10:014. 247 10:07 食事休憩。8km先が町だとするとリュックの食料もゼロベースにしてもよいかも知れない。ハムや夏ミカンなどは食べつくそう。--11:2312:01 count 4000 。道74度、太陽 167度、いまだ坂の途中。周囲はユーカリの植列で見通しが利かない。--12:08 5.ロータリ手前からAlgeciras(アルヘシラス)の市内に入るため細心の注意。12:42 count 2000で丁度28_01_007 b point のpoint 。ここで国道から外れて、市内に入る。蛍光色の上っ張りを脱ぐ。Bar-Restaurante Los Pastoresでコーラ休憩+充電+水補給。ここから4.3kmでMy Map は終わっている。Algecirasを最終ゴールと決めてあったためだ。ところがスペインにはもっとジブラルタル寄りに国境の町 La Lí nea de la Concepciónが有ることを知ったのはセビーリャのバスターミナルである。セビーリャまでのバスは La Lí neaが始発になっていたからだ。ジブラルタルに行くためには La Lí neaから徒歩で向かう。Barの位置からLa Lí nea de la Concepciónまで行く方法を模索。10km以内であれば歩く。しかしMaps .Me による検索は恐ろしく時間が掛かっている。長大なルートを計算しているのであろう。ここは諦めBarの人に La Lí nea de la Concepciónまでいくバスに乗るには?(Dónde puedo coger el autobus a la Líne de la Concepción? )と聞いてみた。Autobus COMESへ行けと。Hotel Octavioにあると。重要な情報がgetできた。Algeciras 駅の近くにある、それこそ最短コースを検索すると途中までMy Mapの設定コースのままである。15:20出発。北向の進路。市内中心街を通り抜けていく。Maragaに行く方向。My Mapによるアクセス。16:16 Gibraltar 入国!16:30発のCity Center行きのバスに乗る。ともかく中央部へ、飛行場を横断していく。英語の通じる国に入った。4分で北駅。10分で中央駅。山の高さは426m、南北5km、東西1.5kmの要塞がジブラルタル。La Lí nea de la Concepciónへ戻る。ホテルの予約を昨日している。 C型コンセントが使えない国のため戻ったほうが正解であった。19:40 ホテル到着。外は雨。6th(Sun) Nov.La Lí nea de la Concepción)(ラ・リネア)--Algeciras --Jerez --Sevilla 5:00起床。日記を読み返す。メモ帳に毎日書いた記述。思い出して書き加えた部分もあるが大半はreal timeで1秒先が闇という状況下である。読み返して見るとまぁ実に細々と書いたものだと本人も呆れている。■シャワーLa Línea de la Concepción)(ラ・リネア)のHotel Miramar(ホテル・ミラマール)のシャワー、最初の4分が水だ。あまりの遅さに時間を計ってみた。これでは熱湯の配水管が100mくらい先ではないかと思うほどである。「歩き」の場合は最初の水の部分が重要で所謂「icing アイシング」に使えるのだ。どこでもそうであるがシャワーのノズルを足元から膝の部分を冷やす。徐々に温度が上がっていくので身体の上部に当てていく。心臓は最後である。22度以上であれば心臓も大丈夫であるが最初から全身に水を浴びる勇気はない。日本のように浴槽に張られたお湯が最初から準備されている場合は別である。そいう例は皆無。シャワー10分で浴槽のお湯の量に匹敵するという。なんという無駄であろうか。シャワーは効率が悪いのである。このホテル、暖まるまでに浴槽分の水を消費したことになる。5分間もアイシングしていると身体が冷えきってしまうのだ。目一杯赤いマークに合わせているのだが時々あるように逆の場合かなぁと青いマークに合わせたりするものだからますます水が暖まってこない。ぜひ改善してもらいたいものだ。今日は半日このホテルで寛ごう。"歩き"用途に使った「戦闘服」はもう着ることはない。昨日最後の洗濯をしタオルでプレスしてあるのでほどなく乾くであろう。青空の下、ビーチを散策。にちようびであるからだろうか。閑散としている。砂浜でジブラルタルの岩山とアフリカ大陸の山々をスケッチ。色んなアスレチックの道具が並んでいた、マラソンついでに腹筋を鍛える男性、カップルで体操をしながらヨガのような逆立ちの姿勢、スケートボード用フィールドで競う男達、ここはジブラルタルを望む楽天エリア。秋寒むの晴れた一日を皆が外に出て楽しんでいる。スペインでは兎に角"外"が重要。自分を晒し、議論をふっ掛け、自己主張し、フェンスkに囲まれた安全地帯とその外の往き来こそが人生。よそ者をとことん観察する姿勢は見事である。よって怯んではいけない、笑顔で挨拶すれば同調間違いなし。スペインとはそいうお国柄である。スペイン語はマスターしたい。燃え尽き症候群にならないように次の目標を立てろと息子からメール。Maraga、Granadaなど今回パスした多くの町々をペラペラのスペイン語で闊歩したいものだ。スケッチしたりゆっくりしている間にまた小腹が空いてきた。パキスタン人が店を構えるケバブの店。チキンカレーがあったのでオーダー。ふと時計を見ると13:00に近い。ホテルのチェックアウトの時間を1時間もオーバーしている。荷物など広げたままだ。走りに走りホテルに謝りながら自室へ。杖はクロスしてリュックに仕舞えている。戦闘服などをてきぱきと取り入れスタッフザックに入れていく。部屋を3回転し"ワン"と。忘れ物が無いことを最終チェック。13:05ホテルを飛び出しそのままケバブの店に。熱々のカレー。辛さを抑えて貰ったので舌への影響を最小限に出来た。Sevilla 行きのバスは15:00。まだ1時間ほど余裕。スケッチ2枚。彫刻家が声を掛けてきた。有名な方らしい。多くの友人から日本に行けと言われていると。典型的スペイン手法との融合を期待されているのかも知れない。Sevilla 行きのバスは定刻の15:00出発。以外と乗客が少ない。La Línea からは2人、Algeciras から10人。モロッコから到着したばかりの人のようだ、アフリカの香りと肌色。スカーフが似合う。15:37 出発。15:41 昨日利用したBar を通過。Tarifa へ小生が歩いた道を辿っていく、全て覚えている景色を逆走。今日は激しく風力発電の羽が回っている。バスからはもっとはっきりアフリカが見渡される。南側の風車は鉄塔に羽が付いている。古いタイプであろうか。北側のは電柱タイプで新しい。牛が喰む牧草地は鞣し革のような色と質感。1600 Tarifa 到着。5人が乗り込む、苦労して歩いた距離はバスだと19分! 16:02出発。この状況ではSevilla まで殆んど小生の歩いた町々を線で結んでいくのでは。16:22 Thivilla 0人、16:39 Vejer の町の崖下の町-La Bahara de Vejer のバス停10人、トイレ休憩。バスの外に出て新鮮な空気を吸う。17:03 Conil (コニール)4人、17:05 出発。17:26 Chiclana de la Frotera(チクラナ・デ・ラ・フロンティア) 3人、カディスをパスするだけで殆んど小生のコースである!違う道は無いのかと言いたい。17:43 Puerto Real (11/2に通る予定であった都市。) 1人、降りる。この後は高速を飛ばしてSevilla へ。18:36 Sevilla まで26km。高速の所だけ思いきり木を植えた感じ。中央分離帯も10mの巾で木が植わっている。要するに下界からは無粋な建造物である高速が見えないようなシステム。音はすれど姿見えず これがスペインの施策でこれ見よがしの日本の高速との違いであろう。バスで4時間の距離を10日かけて歩いたことになろう。なんと贅沢に時間を使わせて貰ったものだ。camino 道を"世界で一番贅沢な散歩道"と呼んだ人がいた。まさにその通りだろう。足の持つ限り歩きたいものだ。19:05 バスターミナル到着19:23 10日前に3泊も泊まったHostel Grand Luxe Hostel へは18分。102号室も同じ。6Bedsに2人。豪勢だ、シャワーを浴びるも今日は洗濯無し、明朝は4時出発としている。飛行機が6:30発のParis行きだからtaxiを呼んである。屋上に上がり大聖堂の夜景を観賞。これほど凄い夜景はない。見事な景観である。鐘塔のライトアップは力強い。教会の十字の建物は僅かにくすんでいる。それでも丸い塔が美しくハイライトで輝く。回廊の上に設けられたライトは白く真珠のように煌めく。こんな夜景をホステルの屋上から独り占め。この光景は手前にある古い建物が黒くシルエットを作り夜の黒とはまた別の黒がお互いに共鳴し大聖堂をもり立てている。ピコスという乾パンを肴に1ユーロのビールを飲んで更に観賞。この時間はスマホの充電を行うのに使っている。外でビールをがぶ飲みする分を一杯余分に飲んでおく。さて最後のセビーリャの夜である。スケッチしたかった近くの通りに繰り出す。絵を2枚ほど仕上げた。レストランLa Subastaがある通りはレストランがカーブをなして連なり独特の雰囲気。ゴッホの「黄色の夜景(?)」のように寂しくはない。天幕に取り付けられた電熱器の赤い灯りを受け客達が色ずく。通りをそぞろ歩きをする多くの人をスケッチに入れて此方は賑やかに。すぐそばのレストランRoblesの天幕からご婦人が歩いてきた。絵を見せてくれと言う。色付けする前と後の2回、足を運んでくれた。今回の旅では時間の関係で夜景を描くことも多く新しい出合いがある。そのレストランでアンダルシア名物のPaellaを戴く。ビールのお代わりはなしで安くついた。作戦は成功。さて日本では老人達は冬の寒い風呂場でよく亡くなる。タイルの冷たさと風呂のお湯との温度差が原因。このレストランの天幕に取り付けられた電熱器(ブランドは"Heliosa")のようなものがあれば暖かくて良いのではなかろうか。我が家でも欲しいくらいだ。蛍光灯のような形をしており反射板がついているので暖かい。乾パンがここでも出てきたので名前を聞いてみた。Picos(Horno camperos)というのだと。7th(Mon) Nov.Sevilla --Paris --Auffargis(オーファルジ) 今日は大変重要な日。ノートルダムで巡礼手帳に印を貰うのだ。3:30 起床。Hostel(Grand Lux Hostel)の102号室。"町スタイルの服装"は全てシャワー室の前に吊るしてある。同室の人が起きないように別室で装着。靴を履いたり忘れ物チェックにはヘッドランプで確認。3:45フロントへ。3:50 呼んでくれていたTaxiが到着。18kmの距離があるたやむなくTaxiを利用したのだが高くついた。29.8ユーロ。空港に4:05到着。4:30に空港がopenする。VuelingのLCCであるが3社のシェア便となっている。手荷物は1個までというのを持ち込み1個と勘違い。リュックを預けるべきであった。リュックが大きいので手荷物チェック機械の穴にすんなり通らず引き出さなければならなかった。しかも中には太陽パネルが入っていたため別室で開けてチェックをさせられた。誰が言ったのだろう。"機内持ち込みしなければ追加料金を取られる"と。誰も一銭も払っていない。到着後荷物クレームを通らずすぐ外に出れるというメリットがあるが。手ぶらで搭乗ゲートに進めるというメリットは大きい。リュックが座席の上のボックスに入るのか心配であったがこれはok。7:05 マドリッド上空を通過。黒の生地にオレンジの数珠で刺繍したように美しい町並み。所々にある黒い部分は森か公園。桜模様の縁取りは高速道路。マドリード郊外の町は雪の結晶のような形で薄いオレンジ色で漆黒の中に点在する。朝焼けの茜が差してきた。機はこれからSan Sebastian に向かいBordeaux 上空へ。なんと今回の旅のspot を辿る道のりである。キャサリーヌが今度はRambouillet (ランブイエ)でなくパリで待っていてくれている。初っぱな失敗した(*;下記)ノートルダムのスタンプを貰うためにリュックを自家用車に納めてくれることになっている。巡礼のスタート地点はノートルダムに近いサンジャック塔。そこで会おうということになっているのだ。7:32 下界は雲ってきたが日の出が近い。真っ赤な幾つもの線が雲の上端に現れだした。その中央が膨れ出した。閃光が出始めたが飛行機は動く。雲の輪郭を追うように太い赤が移動していく。太陽の上昇は速い。ついに真っ赤な太陽がばぁーと顔を出した。時刻は7:36。(*)正直な話間違えば8/10 パリのパリは厳戒体制が敷かれ全交通機関が止まったかもしれないのだ。志摩サミットの当日渋谷のコインロッカーの前に置かれた一つのバッグもしかり、バルセロナの全地下鉄をstopさせた一つの鞄、それと同じ状況であったからだ。すなわち大きなリュックを背負った男、ノートルダムに入場するためには厳格な荷物検査があるため最少の手荷物だけにしなけれならない、入場を待つ列は長蛇。重い荷物をどうするか。周囲に聞こうとしたがその時点ではPoliceはいなかった。ドイツでリュックを盗まれている男はやにわに東新宿で仕入れた超強力チェーンを取りだしノートルダムの黒い柵にがんじがらめにして鍵まで掛けて列の最後尾に並んだのだ。さて10分がたち男は列の前のイタリア人家族に了承を取って荷物が大丈夫であるか見に行った。何事もなし。そいうことを2、3回繰り返していたのだ。30分ほどが経過した。突然列が進まなくなってしまった。何か様子がおかしい。Police の車が集まり出し列は封鎖されている。どうもリュックの回りが慌ただしい。「それ僕のです。この通り鍵を持っています。はずしてみましょう!衣服とスケッチブック、ソーラパネルしか入っていません。」Police達は本部に連絡。あのアホな巡礼が----。大いに注意をされたことは言うまでもない。。持ち物に人が付いていないものは全て不審物になり爆弾処理の対象になるのだと。このParisではあり得ない状況であったと。コインロッカーかホテルに預けないかぎりノートルダムの入場はあり得ないと。まったく浅はかであった。ドイツで「盗まれた」一件も爆弾処理班が処理したか誰かが警察に持っていったのかも知れない。横の連絡が悪く情報が伝わらず翌日になっても出てこなかったという事由ではなかったか。要するに不審物となるような"チェーン処理"はあり得ない時節なのだ。スペイン北の道の最後のほうの町Vilalba の郵便局から日本に送り返す第一番目の荷物になったことは言うまでもない。このあと直ぐにRambouillet に向かう列車が出るモンパルナス駅に走ったが巨大過ぎる駅は地下鉄を含め多層階をなす。コインロッカーさえも荷物検査があるという物々しさ。ロッカーのKey操作も難解。という訳でついにノートルダムには戻れずに旅を始めてしまっている。スーパー等ではリュックは見ててもらうか、預かってもらうか、小さければロッカーが利用できる。いかなる場合でも"不審物"ではないという主張が必要。スーパーでは加えて別な解釈。袋ものの持ち込みは厳禁。商品を入れても分からずに出てこられるからだ。スケッチブックのサックすらも店員に預かってもらうのだ。そいう心遣いがヨーロッパでは必要である。長々とした説明を後人殿が参考にして戴ければ幸いである。8:55 パリ・CDG空港に到着 9:26 RERでパリ市内に。さてParisは小雨。気温5度、南国から真冬の国へ!RERは、Parisへの直行便で10ユーロ。Garu du Nord 、Châtelet-Les Halles、Saint-Michel-Notre-Dame、---。等に止まる。 St Jacques towerで待ち合わせなので試しに Saint-Michel-Notre Dameで降りてみた。5番出口がNotre Dame に近いという。地上に出てみるとセーヌ川の南側。Dameとtowerの2つが実に近く迫ってくる。空港よりも寒く気温は3℃ほど、みぞれ混じりの重い雨が降っている。パリはすっかり晩秋の雰囲気。雨の空と紅葉と街並みがしっくりと融け合っている。スケッチしてみたくてうずうずする。ここでは全てが絵になるのだ。10:25 フロックコートや厚手のオーバーを着た人々が足早に通り過ぎる。セーヌを渡り St Jacques towerの方向に進む。南西角にあるBar 「IN」で暖を取る。朝食はSevilla でも食したが、ここでもプティ・デジョネ・クラシックを注文。出てきたパンはこの世のものと思えないほどの美味しさ。すぐボロボロになってしまった かの国のパンと全く違う。10:55 もうそろそろかなと電話するとキャサリーヌも近くのBarに居ることがわかった。外に出てみると手を降っている。という訳で3ケ月振りの再会。彼女はこの間北の道を完歩している。お互いに労をねぎらいつつ談笑。リュックを地下駐車場に止めた車に仕舞う。その足でノートルダムまで印をもらいに行く。月曜日は休みの筈であるがちゃんとopenしていた。特別な週間であったのかもしれない。よしんば締まっていてもスタンプなら事務所で貰えることは3ケ前から確認ずみ。孫たちへの土産物は郊外型の大型Shopがパリ市内よりも安かろうと、途中にBoulogne(ブーローニュー)の森の中にあるFondation Louis vuitton(ルイ・ヴィトン財団館)で開催中の「Icônes de L'art Modern (近代美術へのアイコン))"La collection Chtchoukine(チチョウキン・コレクション)"に立ち寄る。Chtchoukine はロシアの富豪であるがパリでまだ其ほど名前が売れて居なかった時代のピカソの絵など多数を購入しロシアに持ち帰ったのであるが、死後全コレクションが国に移管されモスクワやペテルスブルグの美術館に分散されている、その絵画群が一気公開だという。2年前に完成した超モダンな財団館で展示が始まったのだと。雨で寒いので余り並ばなくても良いのではないだろうかということで足を運ん次第。Netで時間を予約した人の列とそうではない人の2列。50分待ちというが30分ほどで入れた。地下を含めて5層の建物にゴーギャン、ピカソなど多数の作品が展示されていた。美術全集でも見たことがない作品群に驚愕。昨年はゴッホの墓へ、今年は展覧会へと、似たような展開である。一例を挙げると、Paul Gauguin(ゴーギャン)--Self Potrait.Tahitians in a Room.Aha oé feii(What .ar you jealous?),Sunflowers,Man picked fruit from tree,Ruperupe(Tahiti is a wonderful land),Landscape,Women on the seashore,Scene from Tahitian life,Vairaumati,The ford--など多数。以下同じ。Paul Cézanne(セザンヌ)--Self PortraitJames Paterson(パターソン)--The Enchanted CastleSir Frank William Brangwyn--MarketCamille Pissarro(ピサロ)--Place du Theatre-Français.SpringClaude Monet(モネ)--Seagulis,River Thames in London,Steep Cliffs near Dieppe,Cliffs at Etrwtat,Vetheuil,Meadows at Giverny,Lilac in the Sun,Luncheon on the GrassAlfred Sisley--Village on the SeineHenri Matisse(マティス)--Luxembourg Gardens,Bois de BoulogeHenri Rousseau(ルソー)--In a Trpica Frest.Paul Cézannr(セザンヌ) --Mont Sainte-Victoire seen from Les Lauves,The AqueductAuguste Renoir(ルノワール)--Woman in BlackなPicasso(ピカソ)Auffargis(オーファルジ)へ。シャンパンで乾杯。8th(Tue)Nov.Auffargis(オーファルジ)--Saint-Rémy Iès-Chevreuse--Paris・CDG(Aeroflot Rusian Airlines 11:50)--Narita(9th(Wed)11:40)4:30起床。衣服は全て洗濯し乾燥は完了している。パッキングしたり装着したりと。昨日は2つのBig-Shopを訪れている。孫たちの土産を物色するためだ。面白いのは女の子のコーナ。まぁ驚くなかれ。人形だらけ。風景が一転する華やかさである。キッチン道具のコーナーや食器類のコーナーもあり"フランス人の女の子"になるための要素が全部詰まっていた。まぁ日本と似ている一面も。木のおもちゃはスウェーデン製とか。車が外につくようなF1車はひとつもない。高学年用の"おもちゃ"はもう領域を外れるのかも知れない。物色もなかなか面白い。camino 仲間からfacebook で忠告があった。最後まで気を付けてと。忘れ物、盗難、怪我、---。弛緩はゆるされないのだ。心して掛からねば。6:30 出発、近くのRERの終点駅からCDGのターミナル2(終点)へ直行。チェックイン。WiFi環境があれば通信を試みる。杖は縮めてたすき掛けとしリュックに納めた。マットは何時もと違って側面に固く結わえつけてある。土産類は食料のように上に積みAllinoneとした。ショルダーバッグのみの軽装で機内に入る予定である。■追記町の道路によく見られた膨らみは、仏語では「casse-vitesse」(速度抑止ブロック)という、スペインでは3M製のゴムのブロックを幾つか並べたものが多かった。何回その上を歩いたことだろう。■ファーブの香りがする草花Fenouil(フヌイ)--丈は1m--2m。先に黄色い小さな花をつける。camino 道や車道に沿って沢山見掛けた。塵が散らばった汚い道でもこの雑草は育つ。芳香に幾度 救われたことだろう。■痛い草イッチと悲鳴をあげるのがこの草。Ortiga(オルティガ)という。可愛い白い花を房状につける。葉にはギザギザがあり、茎の部分に小さなトゲがある。背丈は30-40cm。皮膚に直接触れると飛び上がるほど痛い。細かなトゲが突き刺さるからだ。目にはみえない。スペイン中北部のあらゆる所に生えるため草地に入る場合は注意が必要。ただこの草。料理に使ったり肥料になったりと優良植物ということである。■オリーブの実黒く熟したオリーブの実、ピクルスやオリーブオイルのもとにになるこの実。かじってみた。飛び上がるほどの不味さ、辛さ、酸っぱさ、あらゆるマイナスの要素があった。これがあのピクルスになるのかと。実にびっくり。########完########旅のconclusion第1段・・・2015.5.10-8.9 ポーランド--パリ第2段・・・2016.8.10-11.9 パリ--ジブラルタル年が相違するが月日は継続する。シェンゲン条約(どの6ケ月をとっても滞在総日数が3ケ月を越えてはならない。)のため2期に分けてたのだ。######################拙い文章を長々と読んでいただき有り難うございました。数々のトラブルに見舞われながらもほぼ最初の計画通りParisからGibraltar まで旅を続けることができました。ひとえに皆様の激励の賜物であります。無謀な旅を2年に亘ってやらせてもらったカミさんと家族に感謝します。オフラインマップのMaps.Meには随分助けられました。Google Mapや、Open Street Mapを基にして作ったMy Mapに、Google Earthによる計測結果を書き込んだ地図は1000枚を越えますがこれを旅の「指示書」として活用できました。そいう意味で"放浪の旅"ではなく"計画通り"の旅を"ストイック"に実行しましたが、パソコンによる作業でしたので計画変更への対応に問題を残しています。これらについては今後の課題とします。描き貯めたスケッチブックは2册で凡そ200枚。日程の地図と一緒にupしていきます。
Nov 8, 2016
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The 13th Report(28th(Fri)Oct.-3rd(Thu)Nov.) from France,Spain,Portugal. I reached to Cádiz of "Camino de Cádiz.For the final stage,I am walking to Gibraltar,now near old town Vejer ,Andalucia,Spain.In next report.I will say thanks to every persons .Added Diary of 2nd Nov and some photos■柘榴の食べ方ポルトガルで多かった柘榴。木に実っている場合は割れれば食べ頃。果物屋で売っているのが実が大きくがっしりとしていて割れていない柘榴。この割れていない柘榴の食べ方は-----。先のレポートでネットで調べてから食べる と書いたままにしてあったら読者から質問があった。「その後どうなりました?」インターネットで調べると驚いたことに女性の"妊活"の味方でもあり健康食品だと。実の中の種を食べるべしと。男女で差のある食べ方になる果物であろうか。1.実の上部を切り落とす。2.四等分し食べやすくしてそのままかじる。3.種も食べる。小生の開発した手法。1.真っ二つに割る、2.中の粒々は鞘に納まっているので丁寧にスプーンなどで掻き出す。3.それを一気に口に含み食べ、種を外に飛ばす。女性の場合はそれも食べるか飲み下す。■バッテリーとの戦いタブレットがまだ活躍していたときから、現在の"予備"のスマホまで毎日が電池残量との戦い。50%を切ってくると何かそわそわするのだ。休憩時間内にバッテリーから給電して80%にはしたい。充電効率をよくするために、電源をオフにしているがいつか「再起動」状態のほうが効率がよいと聞いたことがある。プログラムを立ち上げたままでの充電は当方のAndroid の古い機種では少なくとも歓迎されない。さて、多数のアプリを起動したままにしておくと消費電力は大きくすぐ40%を切ってしまう。アプリにもよるが立ち上げたグラムを終わらせる方法がある。Maps.MeなどのオフラインMapは特に消費電力を食うようである。今までは起動した後、電源を切ってプログラムを完全に終了させていた。これでは能率が悪い。Androidの場合は中央のメニューボタンの長押しで起動したアプリの一覧が表示される。1.全部終了させる場合---三にxのマークの付いたアイコンが右下に表示されるのでタップ。2.一部のアプリのみ終了させる場合---該当するアプリを左右の欄外にドラッグ。3.インターネットのブラウザ画面の場合は+10などの表示が上部にあるのでタップして表示させ「-」アイコンをタップして不要な画面を消していく。さてこれらを明日から実行しよう。28th(Fri) Oct.Utrera(ウトレラ)--El Torbiscal--Sacramento-- Las Cabezas de San Juan(ラス・カベサス・デ・サン・ファン)7:20 出発。真っ暗なUtreraの町を南下。なかなかスリルがある。教会を回り込む道など暗すぎて本当によいのであろうかと。石畳の細い道をどこまでも南下。policeの車がやって来るが道を聞こうにもすぐ角を曲がって行ってしまった。広い道路の向こうは更に暗い。荒涼とする原野が待ち構えている。怖くなりあとで合流する車道A-8030 を8kmばかり進むことにした 。その4455歩である。8:35 Policeの車が静しずと接近してきた。「No」というジェスチャー。深夜に歩くなら黄色い蛍光色の服を着ろ、日照を待てと。"危ない"と電話が入ったので見に来たという。ヘッドライトは車からでは小さすぎて認識が出来ないと。nextタウンで買うことを約束。 どんな買い方をすればよいかそれこそpoliceに聞くべきであった。 辺りはすでに明るくなり始めている。歩道0cmでは本当に怖い。さてA-8080の道、綿畑の道。取り入れが終わっていない綿畑があった。背は50cmほどと低い。綿の果実が弾け綿が見えている。触ってみると座布団の綿そのものである。優しい白色。道端にも雑草としての綿が低い姿勢ながら散見される。最初はゴミかと思ったが綿が飛んできて雑草に絡んでいるのと生え残った草が種をつけ綿を弾かせているものなど。辺り一面綿だらけである。9:55 3256歩。 Canal del Bajo Guadalquivirを渡る。 景色は基本的に変わらない。幾つかの畑に別れているが地平線360度まで見通せる。10:13 4746歩。 運河あり。その横で軽食休憩。26_02_003 aから1kmのポイント。男性2人が畑を見回っている。土くれだけをを見て分かるのであろうか。来年の収穫など。さてA-8080の道は"高速"のロータリーに向かい終わっている。しかし車道ながら細い道が続く。My Mapでは線路を渡って向こう側に行く指示。厳重にフェンスで囲まれた線路である。特急が走るからであろう。どこを探しても線路を横断する道などなにもない。踏み切りはこの辺りでは皆無である。困った!細い車道は南に向かうが線路を渡るどころかどんどん離れていく。1kmばかり進んだ。用水路と畑と高速道路のみの殺風景な景観。じりじりと太陽に焼かれる。バイクの男性に聞いてみた、遥か遠くに見える-方向としては東側の丘の町が Las Cabezas de San Jeanであると。運河の道を真っ直ぐ向かうとよいだろうと。Maps.Meでも念のため現在地からの最短ルートを探ってみた。元へ戻って"橋を跨いでいた高速"を歩いて向こう側に行けと。唸りを上げて自動車が通っていた道は高速ではなく一級国道であろう。しかしそんな恐ろしいことも出来ないしと考えあぐねる。しかし見よ。線路を潜る場所に用水が流れている。僅かな隙間に羊が飼われている。泥んこの飼育場所を羊にまじって歩行できなくはない。恐る恐るその泥んこに足を入れた。羊達はいとも静かである。逃げ出した羊であろうか。見せしめに首吊りになっている。と。向こうに犬が見張っている。これはやばい。またもとの道へ上がる。しかし線路の向こうに細い農道が見える。待てよと。な、なんと今まで気が付かなかったが用水路の反対側に工事用であろうか道が通じている。My Mapは正しかった。ただしガードレールを跨いで川そばのその工事用の道に下れ と読めばの話しであるが。しこうして"高速"を歩くこともなく線路の向こう側に行く事ができたのである。camino 道でこんなことが許されるのかと。時間のロスも甚だしい。もう13:00だ。今度はA-471。1mほどの余裕がある。14kmで Las Cabezas de San Juan(ラス・カベサス・デ・サン・ファン)と標識。しかし高速仕様なのか車がやけに速い。A-8080どころの話しではない。車も多い。暑すぎる。13:07 1.418 A471から別れてcamino 道を進むことにする。運河沿いの道となる。14:36 工事現場から2.2km 15:26 出発。15:55 あまりの暑さでダウン。工事用の車が引き返してきた。冷たいバナナと柿の差し入れに感涙。だが再びマット休憩。1.5kmしか持たない!貴重な日影を身体が求めているようである。小さな黒い石が敷き詰めてある。これを利用しない手はない。一眠りしたようだ。時計は16:40。どこまでも、続く堀。ちょろちょろと水が溜まっているに過ぎない。あと2.5kmでA471と交差する。camino 道は国道と交差しこそすれ絶対に国道を歩かないように出来ている。町LasCabezas de San Juan は丘をなす町。教会がtop。そそりたって目の前に展開し始めた。今日スケッチの時間がなければ明日は遅いスタートにしてスケッチをしよう。日照は寝ている間に柔らかくなってきたようだ。16:5517:08 1.2km 綿畑の刈り取り現場に遭遇。17:18 1.9km 228度の方向に道が伸びる。まさにその方向に仰角30度で太陽の最後の輝き。2336歩でA417に合流。camino道でもロータリーまで200m国道を進めとの指示。しかしもう限界だ。A471をそのまま町に3km進む。角の「Alojamiento Temporal Las Cabezas」の筈であるが名前が違っている。「Hostal Las Cabezas」という間口1mのホステル。えーいままよと飛び込んだら「Hiroshi!」と言って男性が飛んできた。18:10着。部屋に入って驚いた。キチン、洗濯機、ベッドルーム2つ、ダイニンにリビング。もう住居のような内装、部屋は町の中央広場の正面に向いているため人の様子が一目でわかる、ATMもスーパーも黄色い上っ張りも100m以内で探せそうだ。ホテルを飛び出して100mでATM、戻って道を右に10mで中国人が経営する「何でも屋」でGilet de Haute Visibilité EN-340/03 EN-471/03 (蛍光色)の上っ張りをget。なんという厳しい1日であったか。29th(Sat) Oct.Las Cabezas de San Juan Lebrija--El Cuervo豪華なペンション風のホステル。6:00起床で朝食の準備。豆の煮炊き、茹で玉子とスクランブルエッグ、Yatekomoのラーメンスープとパン、バナナ、赤葡萄。超満腹。8:30 出発 砂漠でも頑張れるという十分な食料と水をザックに積んでいる。9:46 ロータリーから730歩でガードレールを跨ぎ国道へ。なんと昨日からのA-471だぁ! 心してかからねば。10:17 3139歩に橋。My Map 上3.3km のpointにあたる 。3139は65歩毎に100mとカウントしている。3139の実際の歩数=31x65+39=2054 3.3/2054=1.6 今は63歩数が100mとなっているた。恐らく靴を新調したことによる歩数の違いと杖を勢いよく突くことによる歩幅の延伸が影響している。すこし考慮せねばならない。さて10:26。このまま国道A-471を歩くとしたら例の蛍光色の上っ張りを羽織ってみよう。どれほどの効果があるだろう。A-471こそcamino 道をつぶして敷設したのに違いない。A-471がづっと付いてくる。少しこの景観を説明しよう。原野という表現は正しくない。全てが人の手が入った耕作地。この時期刈り入れが終わっているので耕作の土くれや畝が延びる畑。見渡す限り何もない。広大な大地の起伏のみ。そこを自動車道が町と町を結ぶ。 Las Cabezas de San Juan (カベサス)やこれから向かうLebrija(レブリハ)のように丘をなす町ならば起伏の襞から町が見え隠れしながら次第に近づいてくる。自動車道の断面は台形。上端部分に両側が白線。ストック一本分くらいの幅が我が道に許されているスペース。「auto--」という名前の高速道路以外は人は歩いても許される。問題は台形の傾斜の部分。30cmに満たないものから3m-5mに及ぶものまで様々。橋や沼や牧草地やロータリーなど環境に応じてガードレールが設けられる。その開始と終了が面白い。地面に突き刺さるようにしてゼロベースからスロープを成す。日本のようにパルス状に立ち上がりはしない。ガードレールの外に出るときはそのスロープを利用する。自転車caminoもよくそうやっていた。さて想像して欲しい。遮るものの何もない風景を。太陽がじりじりと照りつける地獄を。夏場だったら40度を超え車道にかげろうが昇るさまを。或は地面が水をうったようになるのを。帽子の衿を折ると視界が狭くなり足元しか見えなくなる危険性を。もうよい。休憩としよう。畦道に入っていくようなときその入り口部分に僅かなスペースが見出だされるのだ。オレンジを切り分けようとしたのにフランスから無くさずに常に携帯していた黒いセラミックのナイフが" 無いふ "。水分補給用に楽しみにしていた赤葡萄もない。 Las Cabezas de San Juanのホステルの台所で最後の最後に使ったものだ。どうも最終チェックにもれたようだ。宿屋からも11:11電話があった。El Cuervo へ車を飛ばしてくれるようだ。しかしそれほどは重要な物ではない。あまりの親切心に感動。丁重にお断り。どして電話番号が分かったのだろうかと不思議。さて蛍光色の上っ張りを着て何か変わったか?二つのパターンで違いが。蛍光色を着ているので道路精通者に違いない。--あまり避けずに車軸を保って通り過ぎる車。(昼間だと逆効果)、蛍光色に気が付いて普通の歩行者同様少し車輪を右側に。極端に右寄りする車がなくなった。蛍光色を着なかった場合は、「人が歩いている、一般人だ、これは多いに避けて通らなくては、」と大きく避けてくれるのではないかと。今日は特に畑を走る兎を多く見かける、野っぱらで狩りをしているので逃げてきたのかも知れない。乾いた銃声、6人が隊列をくんでいる。-11:2012:16 441013:30 やっとLebrija の町のBar Casa Archiveroに辿り着く。時々あるのだ。まったくBarやお店のない町が。中心を「く」の字に曲がった街道筋。その丁度曲がった奥に一軒のBar。14.4km 狭い店内に3,40人の全員が喋っている。そのうるさいことといったら。ビールを飲んだりと。土曜日とて解放感でいっぱいだ。煩いからさらに声高になるようだ。子供が3人。小さいときからこの喧騒だ。Hamburguesa Simple 3ユーロ、玉ねぎとトマトのスライスを一杯挟んでもらう。コーラ2杯、満腹-14:3014:45 26_03_004 b point。ここからしっかりカウント。最近暑さのせいかカウントが途中でおかしくなる傾向、とにかく影があったら休みたくなりカウントが途切れる。しかし今からは1.3kmの間に450m、740mのベンドポイントあり。脇道に入っていく。案の定土道が始まった。15:33 A-471はガードレールの端から道路に入りそのまま横断。少し戻って土道が始まる道を南下。510mで道が左右に別れる。左側を800m進む。農家が点在し犬が吠える。のどかな秋の一日という感じ。15:47 1.5km 南東126度の方向に高さ300m位の山陵が見えてきた。15:55 2004歩。喉からから。暑いが爽やかな風あり。気持ちがよい。オリーブの木陰で昼寝休憩。16:14 目が覚める。オリーブが随分実っている。真っ青な空にオリーブの白い葉っぱ。裏側が白く実がなっていないてっぺん部分が白く、実をつけてたわんでいる下のほうは表側を向いて緑。これだけオリーブを見てきたのだ。絵にしてあげたいものだ。実をよく見ると緑色に光っている実と光っておらず黄緑色のものとがある。収穫はどんな風にするのだろうか。--16:3517:02 Y字分岐26_03_005 b point から1532歩 もうすぐ県道A-8152に合流する。17:07 1752歩でMy Map 上の記載1930mをカウント。17:26 1340歩で1.4kmをカウント。まぁ当たらずとも遠からず。N-4を横断すれば荒れた土道1.4kmを行きなさいという指示。今日の土道は計5.14km。30th(Sun) Oct.El Cuervo(エル クエルボ)--Nueva Jarilla--Guadacacin--Jerez(ヘレス)毎日ホテル住まい。アルベルゲが一つもないためあまりにも高くつくcamino de Cádizであることよ。ホテルでは宿泊客一人という状況が3日も続いた。歴史的建造物や自然的な遺産が少ないためであろう。昨夜のホテルも素晴らしいデザインの浴槽。四角いデザインに統一されている。まわすノブが全て四角。今日の目的地 ヘレスはどうであろうか。入り込んだ道からなにか歴史的建造物が多い都市に映るが。旧市街地に宿を取った。期待しよう。8:25出発。エル・クエルボの町を抜けていく。8:44 26_04_001 a point から620歩で土道が始まった。郊外が農地に囲まれている。朝日が上がる方向に大農場が展開されている。有刺鉄線がずっと何キロも。8:55 1211歩 向かいの傾斜地に朝日が当たり始める。ヘレス空港に降り立つ飛行機が薄い青空に美しい。9:00 2.6kmを歩いたところで行き過ぎに気づく。2.2km point まで戻るもフェンスが張られ大農場の敷地の中の道路が見える。フェンスには潜れるだけの窪みと隙間があるがcamino の靴あとなど元よりなし。途中まで引き返した時点で"Mapa.Meさん"の「(其処)へのルート」という便利な機能に聞いてみよう。そこに示されたのは南東部最初の2.6kmのポイントを右折しろと。そのポイントに再び戻る。ここには立派な門があり開いているがよくみるとその横を土道が一本農場の間を走っている、この道を行ってみよう、9:40start。10:15 26_04_002 b point 高速道路のトンネルを潜る。14歩 自転車5人小生と同じ方向に向かう。10:52 3254 丘の彼方から犬を連れた人達の一群。一列になって近づいてくる。狩りの教室のようである、兎を放ちそれを追いかけるのであろうか。篭を持った人が耕作地の先頭に立つ。10:59 3700 牛のモニュメント。11:10 4359 高速のSAのような箇所26_04_004 a point 11:21 新しいカウント 400 よい日影 最初の休憩。-12:0012:46 557 向日葵畑12:59 1623=1.7km 26_04_005 a point 13:17 陸橋の下の日影で休憩。考えてみればここにcaminoマークがあったことから、別の道から曲がって北上することを示していたのだ。My Mapではここから高速道路沿いに26_04_005 c point まで南下すると指示。出発。しかし3.2kmに達した所で高速を潜るような道はない。Maps.Meに聞いてみよう。なんと指示された場所は藪の中に土管が2つ。そこを行けという。それは無理でしょう。高速のジャンクションを横切って西に行くcamino 道はなさそうである。どうする!方法は2つ。JCTを大きく巻いて一旦東方向に道をとり最終的にJerez の町に行く13kmの道、3.2km戻り高速を跨いで西に向かいそこからJerez の町に向かう14kmの道。後者はひょっとしてcamino 道かも知れないと夕刻迫るなかを決断。この3.2kmの戻りはなんと遠く感ぜられたことだろう。戻りの道をカウントする気にもならずひたすら歩く、なんと長かったことだろう。新しい道は何キロでも平気なのに同じ道を戻る辛さ!15:54 同じ場所の近くに戻ってくる。ロスタイム約2時間 8km。ここで再び小休止。Jerez 空港から小型飛行機が5分置きに飛び立つ。17:10 当初計画した地点に到達。2.5kmの鋪道をJerez 中央に向かって進む。もう意識朦朧だ。18:05 あと800m、もう目一杯だ。20:07 買い物ついでに冷えた缶ビールをあおる。ナイフをやっと手に入れる。これも中国人がやっている所謂「何でも屋」。食材からオモチャまで種々雑多なものが置いてある。パン、缶詰、ピーマン、トマトなどをget、日曜なのに店を開けておいてくれるのは有り難い。部屋に帰ってシャワーに洗濯、タオルでプレスして干す。この一連の所作が完了したのは20:08。今からが自由時間。ここでやっとベッドに横たわれる!寝入ってしまわないうちに、通りの角にあったBarにパエリアでも食べに行こう。大変な一日の締め括りに。本日の土道---17.2+5.2=22.4kmよくもこれだけ土道を残したものだ。乗馬、バイク、ランニングなど多目的に使える。今日の全コースはJerez の町に入るまで店など何もないそれこそ砂漠である。ハイキングの場合は十分な水と食料が必要になる。歩いている人は皆無。パエリアは高くついた。チキンパエリア。久々の温かい料理に舌鼓。31th(Mon) Oct.Jerez--Aqualand Bahia de Santa Cádiz--El Puerto de Marina--Valdelagrana--Campus de Puert Real-- CádizJerezの町、camino ルートが町のやや北方向に位置し東西に貫いている。昨日は其を外れホテルがある町中央部に向けて南側から入った。歩道は両サイド15mくらいもあり超近代都市と映った。四辻ごとの大きなロータリーがなかなか悩ましい。真っ直ぐ行きたいのに、半径30mほどの円を大きく半周しなければならない。横断歩道はさらに奥まった安全地帯に設けられることも多くその分歩数カウントを修正をしなければならないのだ。距離方向に依存しないルートはカウントせず斜めはルート2(1.41・・・)となるようにすこし間引きしながら歩数カウントを行う。緩い坂道が続き標高があがっていく。こんな調子だ。16い、17い、18い、19、20---。この「い」は半歩分を調整しカウントの遅延をさせているのである。どんな町でもこの方法で到達、あるいは脱出を行っている。かだ今日のJerez はとてもややこしい。960mを北に取ってcamino 道に合流する長いルートを選ぶか、ホテルから西向きにジグザグに進み最短コースで町外れにあるcaminoコースに合流するかの選択。昨日から絵を一枚も描いていないのでその要素も加味しコース取りを行わなくてはならない。「あまりストイックになりなさんな。」というクラスメイトの言葉が耳に響く。この解釈はいろいろ出来る。禁欲的になりなさんなーーたまにはタクシーなぞ呼んで楽をすれば。電車やバスを使ってあまり自分を痛めつけないで。もう歩くのをよして帰ってくれば。とか勝手な当方の願望が全部でてしまった。または「そう厳格になりなさんな」歩数カウントが「1」のオーダーまで厳格にするのはやめにしてもっとアバウトにすれば!たまには寝坊するなどして普通の人に戻ってくださいな。あぁ、もともと全コース3500kmの今回の旅を実行しようと考えた段階から「ストイック」なしでは実現不可能であったわけである。もう少し続けさせて欲しいというのが小生の思いである。激励は歓迎。今日はテント。これから合計4回のテント泊が待ち構えている。そろそろ限界がちかい。「あぁ、ストイックでない生活に戻りたい。」あと6日の歩行。頑張れturbo717。10:06 すこしスケッチなどをして時間を潰してしまった。今日も高速にそって道が延びる。26_05_002 b point から300m。土道始まる。10:40 100 26_05_003 b point から1.2kmでコンクリの道に変化。10:47 1424 牛のモニュメントまた現れる。これは何だろう?10:54 1952 歩。で高速に渡す橋が見える。昨日はこれが無かったために3.3kmも戻るはめに。ついでに救急車まで通りかかる。「そこどけ」と。11:01 2.3km point 。26_05_003 c point 。800m(d point )で確かな道がなくなる。c point の曲がり角には黄色い矢印。まずはok。この先800mを注目しよう。11:09 252歩で土道に突然切り替わる。11:18 d point 到着、土管のコンクリ部分に進行方向を示す黄色の矢印。しかしこれでは逆向きの人には分からない。T字路だからだ。そのまま矢真っ直ぐ、つまり印とは逆の方にすすむ。11:40 丘の上。なんとCádizの町や湾を渡す大橋が眺望される。なんともう少しでカディスなのかと。明日はこの湾を一周してカディスに入る予定。まずは何処かで昼食を。12:32 出発。13:32 El Puerto de Marinaの町でコーラを飲む。リュックを担いだままでは最後が苦しい。26_05_005 b 240m次のc point 南国のような雰囲気の公園と道路の交差。緑が濃い!14:08 Macあり。ネットを繋ぎつつ作戦会議。--15:40Cádizまで直線17km。今なら行ける距離である。明日利用するホステルを検索。3ユーロ安く13ユーロで泊まれることが分かった。即予約。ランチョンマットに高速沿道にあった牛の看板と同じ絵があり「この牛肉を100%使っています。」と。さてはあの看板は牛肉の生産地を宣伝するものであったのでは。しかしここで問題が。念のため、Maps.Meさんにも「ホテルまでのルート」を尋ねてみた。暫く考えての答は湾を一周する37km。なんとcamino道通り、大橋が無かった頃のルートを示した。きっと最短ルートを知らないのだ!と高を括って出発。橋を幾つか渡っているうちに、高速道路仕様になっていく。これは不味い展開である。蛍光色を着てみたがどうも様子がおかしい。歩いては行けない道のよう。このまま進んでも二度と下界に戻れないのではと。バッテリーが少くなってきている。広大な潟の広がりの中に歩くべき土道が見える。そこなのだ。私が歩きたい道は。ただし道の西側。今いる場所は東側で雑草と鉄路。どうする?正確な現在位置をMaps.Me で確認。車がいない瞬間に下り方向と上り方向の2つの別々のレーンを横断し広大な潟に近づく。次なる手は上り車線の左側を歩いその潟に延びる土道に下り立つことだ。これはたやすい。ここで驚きの展開、黄色の矢印を発見。橋の渡りか方が間違っていた。ここは右側、つまりcamino側(CádizからSevilla)では正しく左側通行になる場所に専用の橋が設けられていたのだ。小生はわざわざ左側を"取った"ために専用道路を横断する羽目に。さて広大な潟を渡る心細いほどの狭い道。手すりなど何もない海の中の一本道。強風が吹いてどちらかに倒そうとする。右に傾いても左に傾いても海に転落。これが延々何キロも続く。16:36 26_05_008 aから670m point 。潟を右手、高速を左手にみて南下。最後がサイエンス大学。ここに東屋とベンチが。水飲み場で大変な情報が。この先の大橋2つは歩行禁止だという。ここで初めてMaps.Me が正しかったことに気づく。事前にもっと調べておけばよかったのである。バスは2ユーロだという、バスで行くべしと。というわけで最後の7kmは楽チンのバス、18:00にホテルに到達。湾を一周していたらまだ着いていないだろう。ハロウィンで盛り上がっている市場を見物。町中の子供たちが集まっている。仮装して親に手を引かれている。魚屋のブースでは魚の切り身や頭で劇場を模した箱庭。これを見たいがためにぎっしり行列。右往左往の大混乱。Cádizの街並みはSevillaのそれとは対照的。碁盤の目である。セビーリャの迷路を上下左右に引き伸ばして碁盤を作った感じで迷路は残る。真っ直ぐな道はパリ、ボルドー以来だ。狭いので長く感じる。ミニショップが点在するため買い物が楽しい。どの店で買ったかの再現は難しい。今日の土道11.7km。素晴らしい土道に感動。1st(Tue) Nov.Cádiz10/30 3:00am サマータイムが終わり冬時間が始まった。1時間遅くする。7時の場合は6時というように。これで日本とスペインとの時差は8時間になる。その時計の修正を今日11/1まで忘れていた。さほど不自由なことが無かったからであるがひとつ思い出した。昨日10/31Campus de Puerto Realで「バスがもうすぐ来るよ」と言うのでバス停に駆けつけたのに時刻表を見ると行ったばかりで1時間半も待たなけれならない。椅子に座って待つ体勢になった途端、2連のバスがやってきた。こちらから合図もせず他の客もいなかったために通過しようとしたのだ。待てよと。運転手の意味ありげな視線を感じバスを追いかけた。待ってくれよとのサインにようやく先の方で止まってくれた。「随分ルーズなバスもあるものだ」と。これが正しかったのだ。時刻表は変わらない。時計の針だけが変わるのだと。面白いシステムである。昨日と一昨日の日記は夏時間のままとなっている。御了承を。さてCádizの一日が始まる。7:00だと言うのにまだ寝静まっている。スーパーマリオ教授の影響を受けた朝シャワーをしたいが騒音を発する。もう少し待とう。台所があり料理が出来る什器が全て整っている。旧市街のど真ん中。これが13ユーロとは安すぎる。まずは、Plaza Frgelaに出てFallo劇場を仰ぎ見る。San Rafael 通りを南下。Cádisの先端半島の北西。Playa de la Calete(カレテビーチ)にでてCastilli de Santa Catalina(サンタ カタリナ城)へ。Casitillo San Sebastiánへの通路が町から突出する形で西側に750m延びている。10:00 海岸べりの広場 Puerta de la Caletaで寛いでいると、サンタマリアを唱えながらしめやかな隊列。凡そ100人ほど。司祭が一人、大きなローソクを持つ人2人。海に張り出すテラスを周回してい11/1、2は町中が休みでお祭りという。その一環であろう。11:08 半島南側のAvenida Campo通りに沿う岩礁を見て、大聖堂に向かう。さすがに大きい。Catedralに向かったテラスに座るもボーイが飛んでこない。悠長なお店である。Santa Maria地区、Cabrera Nevares、Rosario、José del Toro、Benjumeda通りなど観光・商業地区を散策。スケッチなどしながら寛ぐ。小さな店に入ってはパンや果物を仕入れたりと。午後は部屋でゆっくりする。19:00に人と会う約束。16:40-17:30 Taviraの塔へ。町で一番高いという。てっぺんにつきだした更に高い場所にあるカメラから360度の映像が館内で楽しめるという。その時刻17:10。しかしパスしてホステルに戻る。10人部屋(ベッド5x2段)に一人しかいないようだ。19:00 ホステルから100歩の場所にあるFalla Theatre の正面でMaria Rosaさんとその主人ホセさんと会う。camino仲間が紹介してくれts貴重なカディス住人である。日没はもう過ぎたのかも分からないが西向きに開けたCaletaビーチからの景色は格別であると言って走る。ご主人も走る。当方は朝見た場所である。場所は頭に。夜の光景はまた格別。樹齢何年になるのであろうか。Ficusフィクスという巨大な木が2本植わっていてライトアップされている。前が大学であるという。もう一カップルを加えて5人で喧騒の町へ。お祭りをやっているのだ。アメリカ伝来のハローウインとの関係もこの町ならではという貿易の歴史があるという。セビーリャとカディスの町は複雑さは似ていてもこちらは碁盤状、あちらは納豆の糸。どうしてだろうと聞いてみた。あっちはイタリア、こっちはアラブ+ナポレオンという。頭の良さの違いか。なお最初はもっと小さく貿易で発展するに従い埋め立てて旧市街地が出来上がったのだと。詳しい説明が続く。カテドラル近辺の魚のフライ専門の店で談笑は続く。明日からの行動ではConil de la Frontera (コニールデラフロンティア)へ行くべしと。白い建物の重なりが楽しめるという。2nd(Wed) Nov.Cádiz--San Fernand--Chiclana de la Frotera(チクラナ・デ・ラ・フロンティア)--Conil de la Frontera (コニール・デ・ラ・フロンティア)今日のコースはMaria Rosaお薦めのコース。さてどうなりますかこの40km。8時出発を目指し5:00起床。6:00 朝食の準備 Yatekomoの焼きそば(ポルトガルと違いスペインではどんな小さな店にも「ヤテコモ」有りますか?で通じ棚から出してくれる。大したものだ。カレー味のカップラーメンが一番旨い。沸騰したお湯を規程の線より少し多目に注ぎ3分待つ。あまり長いとラーメンが水分を吸ってしまい美味しくなくなる。just 3分で、固いパンに先程多目に入れたお湯を吸わせるのだ、これほどおいしい"スープ・パン"はこの世にない。目玉焼き(昨日はオリーブオイルを懇願したらカップに半分もの大量のオイルをくれた。これでフライパンは焦げ付かない!)、パン、サラミ、バナナ、白蒲萄、クッキーなど。Chiclana de la Frotera(チクラナ・デ・ラ・フロンティア)までは電車がなさそう。またカディスからバスだと肝心のcamino 道を歩かないことになる、少なくともSan Fernand までは歩いてその先は人に聞いてみよう。My Map27_01_008 a point (26km)に兎に角合流することを目指し、 Maps.Meで最短ルートを検索しScreen Copy10枚を取っておく。7:55出発、8:11 1056歩で海岸べりに出る。8:32 新しいカウント1726で建物の上から日の出。Camino de Cádizはカテドラルから始まりSevilla をめざす、所々に矢印と貝殻マークのモホンが立っている、途中まではこれに沿って歩く。10:57 土道4.7kmでcamino 道から外れる。Sevilla へ行く道は湾の内側。我が方はこれからMaps.Meの 27_01_008 a point (26km)へ向けて東に舵を切る。ここでよい草地があったので土道を少し降りマットを敷く。--11:30 San Fernandの鉄道駅がすぐそこ。駅員に聞いてみた。Maps .Me 上にあったこの先の3つの駅は現在無いのだと。直前の分岐は廃線になっていたし、map上も線が途中で無くなっていたので「やはり」という感じ。 Chiclana de la Frotera(チクラナ・デ・ラ・フロンティア)までの7.5kmを歩けば2時間。バスがあるので利用したらとバス停(Bahía de Cádiz)を身振りで教えてくれる。まぁ特に乗る必要も無いのだがバスの終点で Conil de la Frontera (コニール・デ・ラ・フロンティア)への情報がget出来るかもしれない。面白い婆さんが話し掛けてきた。どこまで行くのだというので、Gibraltar だと言ったら、顔をしかめ猿しかいないのだと。 Conil de la Frontera (コニール・デ・ラ・フロンティア)や、 Vejer de la Frontera(ベヘール・デ・ラ・フロンテラ)はとても良いところだと。M1という市内バスに乗りながら大声で Chiclana de la Frotera(チクラナ・デ・ラ・フロンティア)行きは次のバスだと運転手から聞いた情報を伝えてくれる。 Chiclana de la Froteraまでは1.6ユーロ。さて終点でバスの運転手に聞いてみた。900m戻れと。Mac前のバス停にカディスからのバスが停まると。バスが13:35にやって来た Conil →Vejer (コニール、ベヘール)行きのbusに乗る。同じく1.6ユーロ。このようにローカルバスを乗り継いでいったほうが格段に安い。「白い町」が楽しみだ、バスはN-340を南下。14:20 Conil に着いたらしいが乗り過ごした。終点はここでは無く次のVejer(ベヘール)であったようだ。急いでMaps .Me を立ち上げるも既に遅し。どんどん離れていく。運転手に状況を述べて途中の原野で降ろしてもらう。これが幸いした、絶景が現れたことと、町の全景がつかめたことだ。ついでに野宿の場所など、今日はたっぷり時間がある。閉まっている店も多いが18時になれば開くという。海岸に出てみると大きなレストランが開店中。WiFi も使えるという。スケッチポイントがなかなか見つからない。ゆっくり探索しよう。先ほどの絶景はスケッチ済みであるが。また塔が出現した。今度のはLa Torre de Guzmán と言う。これに登れば下部から町を仰ぎ見ることが出来ようが閉まっている。15:55 軽食休憩。食料はこれで全部無くなる予定だ。3時間前の食事では缶詰のタブが外れてしまい大損。18:00-19:30 浜辺にマットを敷き夕陽を拝む。18:22 薄紫色のベールが水平線に掛かっている。茜色もあるがやはり完全な水平線上の日没は望めない。天空は青空なのに。月齢1日目のような細い細い月がでている。沈んだばかりの太陽から光を受け光っている。一番星も輝きだした。町の方を振り向くとオレンジ色の街灯とライトアップされた家屋が浮かび上がる。夕食に選んだ店はPizza house 、Andalciaの7ユーロは薄い焼き方でパリッとしていてとても美味しい。 あまりにも美味しかったのでMargarita1/4を追加。狙いを付けておいたビバーク場所に戻り設営。21:30就寝。3rd(Thu) Nov.Conil de la Frontera--Vejer de la Frontera--+9kmConil de la Fronteraの丘の上、灌木の間でビバークしたのはよかった。海が一望でき、これから向かうVejer(べへール:標高190m)の町の光が山の上にみえ、星が近い。5:30起床。7:30出発。明るくなり出してからのほうが今日の新規開拓の道には都合がよい、今日もMaps.MeでVejer の町直前のpoint まで最短歩行ルートを検索しScreen Copyを14枚撮っている。これをもとに歩行を行う。My Mapの原案ではN-340を行くようになっているが余りに恐ろしい。7:55 土道が始まる。そこに「Sancha Pérez Bodega Almazara Ecológico」と書いた看板あり。8:08 道は107度の方向に進み、日昇も同じ角度。曇っているがすでに日の出であろう。8:20 1406歩 116度の角度の雲の間から強い日差し。9:09 農道が高速2本(E-5、A-48)、国道N-340の3本を渡る橋に到達。これまでのルートは合っている。このpointでも最初の計画通り国道を行ってもよいのであるが車道が3本では煩すぎる。距離は変わらないようなのでこのまま農道を行く。9:38 橋から1661。農道も草道となりなにか怪しげ。ただ国道が高速を跨ぐか潜る場所にもとからある山がそうさせているのであろ。9:50 怪しすぎる。不安になり地図で確認するが合っている。2261 ok。290mで左折。ここで2つのミス。犬が盛んに吠える方向へ右折。元に戻り今度は舗装道路を思い込みで行って行き止まり。これも500m戻り"正しい"農道をいく、10:26 丘の上に上がりきる。11:50-11:40 五差路のような場所。最初の食事休憩。 27_02_005 b point の合流まであと3km。農道ときどき道路という面白いコース。バイクもその一部分で遭遇するが殆どが一人旅。山道を含めなかなかやるじゃないかMaps .Me ! と言いたい。これがなければ今回は国道ばかりであったろう。バス停の椅子に座って軽食を取っているがあれだけ悩まし続けた蝿や蚊が一匹もいない。ガラス空間が厭なのであろうか。11:49 729 目の前にVejer の町。確かに山のてっぺんにある。教会の尖塔が天を突き刺す。12:07 2154。12:31 合流地点から824。1.4kmの坂の途中休憩。疲れたぁ。周囲の素晴らしい景観を撮影。植栽で気付いたのは刺のある植物が皆無となったことである。雑草に皮膚が触れただけで痛みや、トゲが刺さるということがなくなった。優しい植物達。--12:44 あと少しでVejir !12:56 1750で漸く町の端が見えた。13:18 topに上がりきったら教会は遥か東。その尖塔を少し入れてスケッチしよう。その間バッテリーから充電。58%--66%に改善町は2つの丘を持ち、一つが古城、一つが文京地区。複雑に道がからむ、古城の方の広場にあるBarで大休止。14:28--Bar Penequeで寛ぐ。Barでメニューを貰い検討するも、カウンターにあるアラカルトの方に目が行く。茶色の丸い皿一つにそれらを盛って1.5ユーロの安さだ。肉と玉ねぎを和えたのが格別に美味しい。白いてんこ盛りの料理は.ensalada ruza、それも一皿と。長居とバッテリーへの充電などで消費を率先しビールなども2杯と。リュックを置かせてもらい、すまほにもチャージを行っている間にスーパーで買い物を企てる。シエスタあけの17:00が開店時間。店の前で待つも店主なかなか到着せず。やっと17:18到着。こちとらこれから12kmも歩かなければならばいのだ。さっさと開店して貰いたいものだ。パン、ハムなどをgetし、先ほどの Barに戻る。続いて夕食を食べるほどの時間の余裕はない。肉料理のみを口に含み急いで出発。町を抜け出す方法は2つ。車道と、急傾斜の歩道。困ったことにMaps.Meの地図情報にこの急傾斜の道が載っていないのだ、緑色の塗りつぶしで"フォレスト"を表しているだけだ。その道を下っていく。橋を渡ればいよいよN-340である。高速との違いは道路に有刺鉄線付きの柵があるかないかである。N-340は柵がない。イコール 人が歩いても良い道路なのである。だが歩く人はいない。皆、車であるからである。早速反射板付きの蛍光色の上っ張りを着て歩き始めた。日没後はヘッドライトを付けて。18:00-19:00 この間4kmは何とか見える景観。19:00-20:30 この間5kmは真っ暗。もう危険! しかしビバークする場所がなかなか決まらない。暗くなってからテント場所を探すことほど難しいものはない。いままでは昼間に物色をしておいてそこにテントを張るか明るいうちに到着できるかいずれかであったのに。まして国道脇はずっと有刺鉄線の張られた私有地である。12kmの歩行は諦め時間との勝負のみとしこうなったら国道脇でもよいので平らな草地さえあれば十分。突然優しい草だけの原っぱのような場所が出現した。少し靴でならしビバーク。1mほど下がった場所。道からは2mほどしか離れていない。当然全車両から丸見え。これ以上歩くと車と歩行者双方が危険。そういう意味でのビバークである。正しいのだ。照らさば照らせと。開き直りの境地。テントの幕に草地の映像が映され幻想的。それがヘッドライトが走ると映像も反対方向に走る。眩しすぎるにで、ナノタイルで目隠し。耳栓をして寝袋にくるまればもう快適な我が家。お休みなさい。21:30
Nov 3, 2016
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