欧州フットボールの空間

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Mar 3, 2004
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ヨハン・クライフ


ヨハン・クライフ


 1950年代はじめ、オーストリアの専門家ヴィリー・メイスルが開発した「渦巻き」理論は、同等の能力を持った11人が渦を巻くように激しくポジションを入れ換えながら攻撃と防御を行うという戦術だった。 この戦術は20年後、「トータル・フットボール」として世界を驚愕させることになる。 しかし、その渦巻きの中心にいたのは他の10人と同等の資質どころかありとあらゆる才能すべてを兼ね備えた、稀代の天才児だった。
 ヨハン・クライフはオランダ史上最高の選手であるだけではなく世界のサッカー史上、最も偉大な選手の一人として傑出した存在である。 ペレ、クライフ、マラドーナ、ディステファノらはビッグ4と呼ばれその業績を称えられるが、サッカー戦術の進歩にも貢献したという意味では他の3人を凌駕しているとさえいえるかもしれない。
 そのクライフの栄光の人生は彼の母親の頑張りから始まっている。アヤックスのクラブで掃除婦として働いていた彼女はクライフがまだ12才のときに何としてでも彼をユースの部にいれてほしいとクラブのコーチ陣に頼み込んだのである。 これがサッカーの歴史を変えるきっかけになるとは彼女も予想だにしていなかったに違いない。
 17才でトップにデビューしたクライフは、コーナーキックがゴール前に届かないほど非力な少年だったが、優秀なコーチ陣のもとその豊かな才能をじょじょに開花させていく。 クライフは当初センターフォワードで、そのポジションですらペレに匹敵するほどの才能を見せたが「第2のペレ」ではなく、「第2のディステファノ」への道を歩ませたのが71年からアヤックスを率いたルーマニアの名将ステファン・コバチであった。
 グラウンドのいたるところに出現し、GK以外のありとあらゆるポジションを難なくこなす。アヤックスはこの年から欧州チャンピオンズカップ3連覇を達成した。 だが、世界が決定的にクライフの偉大さを知るのはまだ先の話である。
  1974年W杯西ドイツ大会、クライフ27才の時であった。
得失点差でかろうじて予選を突破したオランダは、大会数ヶ月前に監督の交代劇が起きる。主力選手のリタイヤもともなって、 ミケルス監督が選択したのは、65年からアヤックスに浸透させてきた新時代のサッカーだった。
 後に「トータル・フットボール」と呼ばれるこの戦法は選手どうしの激しいポジションチェンジと果敢なボール狩り、積極的なオフサイドトラップが特徴で、オランダは次々に強豪をしとめていった。ニースケンスとともに、その中心にあったクライフは最初センターフォワードの位置にいながら少しもじっとしていることなく、ウイングから攻撃的MF、ボランチ、センターバックとありとあらゆる仕事を完ぺきにこなしていった。

 大会のダークホースにすぎなかったオランダはまたたく間に優勝候補にのぼりつめ、前回優勝のブラジルを準決勝で一蹴。華麗なジャンピングボレーで王国をしとめたクライフはペレのいない大会にあって彼のあとを継ぐスーパースターとして認知された。

クライフ


それは確かに一つの時代の終焉を意味していたのである。決勝で、永遠のライバルともいえるベッケンバウアー率いる西ドイツに破れたオランダは同時にその限界も露呈した。マンマーカーのフォクツにクライフを抑えられ、彼なしでは機能しないチームだということを自ら証明してしまったのだ。
 皮肉なことに、「渦巻き」理論はその当初の思惑とは裏腹に、圧倒的な才能を持つ天才を必要とする戦術として具現化してしまった。
しかも、驚異的な体力とスピードというアスリートとしての資質が全員に要求されたのだ。この「トータル・フットボール」は80年代後半アリゴ・サッキによってACミランで新たな血を吹き込まれる。
 だが・・・それはまた別の物語である。クライフは73年から、ミケルス率いるバルセロナに入団し、同地で「エルサルバドール(救世主)」として称えられていた。
 レアル・マドリードを5ー0で一蹴し、このカタルーニャのチームに栄光を取り戻したクライフはバロンドールを3回受賞した初めての選手となった。後に米国に渡り、2チームを渡り歩いて帰国、ユニフォームを脱いだのは84年、37才のとき、アヤックス最大のライバル・フェイエノールトが最後のクラブとなった。
  しかしクライフの栄光はこれだけでは留まらなかった。アヤックスの監督に就任したとき、必要な資格試験を受けていなかったがその実績はそんなことを問題にもしなかった。 ヨーロッパ・カップウィナーズカップで古巣を優勝させるともう一つの古巣・スペインのバルセロナに赴き国内リーグを4連覇、そして92年に悲願の欧州チャンピオンズカップを制覇する。
 指導者としても超一流のクライフはアヤックスでファンバステン、バルセロナでグアルディオラらを見いだしストイチコフやロマーリオなどの問題児らも統率して、自らが現役時代に体現したような攻撃的サッカーを見事に現代に蘇らせてみせたのである。
 ここにクライフは、選手としてでなく指導者としてもサッカー界に名を残すことになった。

監督時代のクライフ


クライフが理想とするシステムとは、“5ライン”が基本の4-1-2-3(4バック、1人のセントラルMF、その少し前に左右のサイドMF、センターFWと左右のウィングによる3トップ)。この4ラインにGKを入れて、5ラインというわけだ。クライフはいう。


 “ボールのもらい方”については、さすがクライフというような説明がいくつも出てくる。例えば、サイドアタッカーとまわりの選手の動き方だ。
「もしサイドの選手が、足元でボールを受けたかったら、まず後ろに走れ。そのときFWが相手のDFを引き付けるように中央に走る。これでサイドにスペースが生まれたはず。サイドの選手が再び前方に走れば、楽に足元でボールを受けられる」
 サイドの選手が機能しないときは、「責任の半分は、他の選手にある」というわけだ。

クライフの名言集


覚えているのは、自分が一番上手かったということだ


CL三連覇した時の言葉




ベッケンバウアーに言った言葉

フランツは大選手だし、フットボールの大パーソナリティだ。だがわれわれを比較する事を望んでも無駄で、二人の役割は異なる。
彼はリベロでプレーし、一方僕は、フォワードで毎試合、無慈悲なマークを受けながら、最大限のプレーを強いられる


バルセロナの監督になったときの愉快な定義

まずボールをコントロールする、それがすべての基盤だ。もしボールをコントロールできないなら、ボールを追って走る事になる。それは別のスポーツだ


ロマーリオを絶賛した言葉

マラドーナが80年代の王様だった後、ロマーリオは90年代の王様になりえただろう。彼は規格外のプレーヤーで、潜在能力ナンバー1だった。
彼は本当に他のプレーヤーに抜きんでる。だが遺憾ながら彼は消して最高である事を求めなかったし、それにあまりにも人生を享受する事を好んだ


ポゼッションフットボールに対しての持論

ボールを回せ!ボールは汗をかかない!


フットボールでは100mより30mから40mをはやく走ることが重要。だがもっと重要なのは”いつ”走るかだ





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Last updated  Mar 3, 2004 10:16:38 PM
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南町与力@ 無題 ペレ、クライフ、マラドーナ、ディステフ…
玉田より田中使え@ 監督が良かったら勝つの? 色々言われてるけどただの結果論だね。サ…
小野のボランチ反対@ 身の程をわきまえて 単純ですがキープ力、そして単独突破でな…
ネドベド@ Re:第二話・・オフ・ザ・ボールの重要性(03/05) その通り、全くです。上手い選手だけ集め…
今いっとけ@ ミラン衰退の足音か?セレソン化 即戦力は分かるけど30越える選手が多す…

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