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元寺小路(もとてらこうじ)元寺小路と聞くと、仙台駅の近くに昔からあるカトリック元寺小路教会が思い浮かぶ。今の建物は比較的新しいけど、1877年(明治10年)に開設された歴史のある教会だ。この教会が建っているかつての元寺小路は、市街地のかなり中心部を東西に延びていて、その中程を南北に走るJR線が分断している。このうちJR線の西側にあった元寺小路は、昭和45年2月1日の住居表示で、仙台市青葉区花京院一丁目、中央一〜二丁目、本町一〜二丁目という住所に変わっている。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕ここはいわゆる「本町家具の街」と呼ばれている仙台駅西側の「元寺小路」。突き当りにカトリック元寺小路教会の白い建物が見える。一方、線路の東側にある元寺小路は、平成27年の区画整理の町名地番変更を経て、今も住所として使われている。仙台駅東側の「元寺小路」。手前の公園には「X橋車町通元寺小路公園」という名前がついている。辻標「茂市ケ坂/元寺小路」には、町名の由来が次のように書いてあった。「元寺小路」・県庁や錦町公園、白百合学園(※)などがある段丘は、仙台城の鬼門(※)にあるので、定禅寺や満願寺などの寺が並んでいた。・この段丘下に沿った東三番丁から車町までが寺小路で、仙台八小路のひとつ。・寛永14年(※)頃、寺の一部が移され侍丁となると元寺小路と呼ばれた。・小路の名は寺町や侍丁につけられた。※白百合学園は移転し、跡地には東北電力本社ビルが建っている。※鬼門とは、北東の方角とのこと。※寛永14年は1637年。藩祖伊達政宗が没した翌年にあたる。かつての元寺小路あたりを歩いていたら、広瀬通と家具の街の間の公開空地のようなスペースに、案内板「元寺小路周辺地域の歴史」という案内板があり、とても詳しい解説があった。(以下抜粋)「寺小路はこの時代に城下北東段丘面の辺縁部、仙台城鬼門の守りとして伊達由来の社寺を配置し設けられた町である。開府時は西側の段丘辺縁には社寺及び中級藩士・同心等の侍町、東側には主に職人町が配置された。その後、寛永5年(1628年)に政宗晩年の居館若林城(古城=現宮城刑務所)が築かれ、これに伴い市街の東方への拡大(荒町、柳町の移転)が行われた。その後、寺小路東側にあった寺院が八ツ塚(新寺小路)に移転、市街東縁の守りとした。このため旧来の寺小路を元寺小路と呼ぶようになった。(以下略) 本町二丁目街づくり協議会 水野達夫」もともとは仙台城に災いが入ってこないようにお寺を並べた通りだから「寺小路」。後に若林城造営による城下町の拡大でお寺が移転したので「元寺小路」になった、ということらしい。今の道筋に当てはめると「元寺小路」は赤のラインになると思われる。
July 27, 2024
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2026年4月。今年初めてのプロ野球観戦。低気圧の通過後に流れ込んできた冷気と、鉄道が止まるほどの強風で、この夜の体感気温はほぼ氷点下。じっと座っていたら両膝の関節がガチガチに固まった。一塁側のスタンドに向かって高く上がったボイトの打球は、風に押し戻されてファウルグラウンドで一塁手清宮のミットに収まった。名手であるはずのレフト水谷とセンター五十幡は打球の目測を誤った。前田健太がベンチ裏で治療している間、レフトの中島が風を避けようと外野フェンスにくっついてしゃがみ込んでいたのが可愛らしかった。そんなグラウンド上のあれやこれやを三塁側のテーブルシートから見下ろしていた。寒さに耐えながら。楽天の先発は前田健太。寒さと風の中、彼は半袖だった。昨シーズンまでちょっと広すぎた外野。今年はフェンスが少し前に出ていた。そのうちここも観客席になりそうな気がした。ただ、もともと頑丈なフェンスで視界が遮られていた既存の外野席前列が、さらに見えにくいシートになっているのでは…と気になった。夕方の空を眺めていると、ドーム球場が羨ましいと思う気持ちがしばし紛れる。三塁側のカウンターシートの上に、テーブルシートのゾーンが広がっている。簡易なテーブルと両脇のひじ掛けがありがたい。芝生の緑は今年も変わらずに鮮やかだった。それにしても…寒かった。
April 17, 2026
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鉄道の旅が好きな自分だけど、今回は高速夜行バスに乗ってみました。 夜11時過ぎに西国分寺駅前を出発し、翌朝6時過ぎに仙台到着のスケジュール。 深夜の西国分寺駅前のバス停は、近くに駐輪場があるだけでほぼ暗闇。バス停には「一番近いトイレはセブンイレブンです」と書いてあった。 「新宿から乗れば良かったかな…」と少し心細くなっていたら、定刻15分くらい前に誘導スタッフがバス停に到着。10分くらい前にウィラー・エクスプレスの見慣れたバスがネコバスのように現れました。 後はドライバーさんが手荷物の積み込みから、席番号の案内、行程の説明、安全上の諸注意などなど、仙台到着までのすべてをコントロール。 「加藤さん」という方だったと記憶。とても丁寧な行き届いたドライバーさんでした。 西国分寺駅前を出て、バスタ新宿と池袋でお客さんを乗せたら満席。 男性は前方、女性は後方に振り分けられて、私の隣は若いお兄さんでした。 途中、羽生、那須塩原ともう一ヶ所のサービスエリアで合計3回休憩したとのこと。と言うのは、羽生SS以外の2ヶ所は寝てたのでわからない… 仙台駅前到着10分前のアナウンスで目が覚めました。 この日の運賃は4100円。JR在来線より安いし、運転も接遇も丁寧だし、寝てるうちに着く。初体験の高速夜行バスは、正直期待以上でした。 だけど、次の機会にまた使うかどうかはよく分からない。 バスの問題ではなく自分の問題… 寝るときはすっかり横にならないと足がモヤモヤと不快になってくるとか、寝てるとはいえ隣のお兄さんが動くと気になるとか、寝返りがうてないから身体全体がやや辛いとか… この辺とコストの見合いを次の機会に自分がどう考えるか、ですね。 とりあえず今は3列シートに興味あり。
February 13, 2017
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東北新幹線から、札幌へ向かう特急北斗に、新函館北斗駅で乗り換えた。新幹線到着から特急出発までの乗換時間は12分。乗り換えてみての感想は…現役世代ならゆっくり歩いても余裕で乗り換えられる。子供連れやお年寄りでも普通に歩けば大丈夫。とはいえ、新幹線から全員降りるので、混んでいると結構時間がかかる。できるだけ早く新幹線を降りた方がより安心、と思いました。乗り換えの流れは…①新幹線を降りる。②エスカレーターに乗って2階へ上る。③2階に着いたら、札幌方面に行く人も、函館方面に行く人も、次に乗る列車の切符を持っている人は全員「のりかえ」のサインのある改札に向かう。④乗ってきた新幹線のチケット、これから乗る特急のチケットと乗車券を一緒に改札に入れる。⑤特急のチケットと乗車券が手元に戻る。⑥特急北斗が停車しているホームに階段またはエレベーターで降りる。⑦特急北斗に乗車。注意点は…・10両編成の新幹線から降りた乗客が一斉にエスカレーターに向かうので、新幹線をゆっくり降りると、長い列の後ろに並ぶことになる。今回、新幹線を降りるのが遅かったので、ホームに降りてからエスカレーターに乗るまで、本来30秒もかからないところ、数分かかった気がする。10分程度の乗換時間でこの数分は結構焦る。・エスカレーターで2階に上ると、「出口」と「のりかえ口」が見える。大半の人が「のりかえ口」に向かうので、流れに乗って進む。・改札を抜けてホームに向かう階段に着くと、大半の人は函館方面のホームに降りていく。札幌方面のホームに行く人は少ないので間違わないように進む。・特急北斗は函館始発なので、新函館北斗駅の停車時間は短い。今回は、のりかえ口を過ぎたあたりから発車のベルと乗車を促すアナウンスが聞こえてきて、焦った。高齢の親には「急がなくて大丈夫」とか言いながらもできるだけ急いで階段を降り、列車に乗り込んだ。・とは言っても、乗り遅れが出ないように駅員さんが人の流れを後ろの方まで確認していた様子。あまり慌てる必要はなかったかもしれない。と特急に乗ってから思った。新幹線は満席。乗り換えた特急は、密にならないように指定席が割り当てられていて快適でした。
July 22, 2022
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東新丁(ひがししんちょう)伊達政宗公の生母の菩提寺「保春院」の南側に保春院前丁があり、保春院の北側に西新丁と東新丁がある。東新丁は概ね今も地番のまま、住所として使われている。ただ、JRの貨物線がこの町を南北に横切っていて、その線路の東側は昭和50年の住居表示によって木ノ下五丁目に変わった。(町名が木ノ下五丁目に変わっている貨物線の東側)仙台市のウェブサイト「町名に見る城下町」は東新丁を次のように説明している。【西新丁・東新丁】・保春院の東と西に位置する2つの町。・ともに、寛永12年(1635)の保春院創建後に割り出された。・西新丁は寺屋敷が多くを占め、一部に侍屋敷が置かれていた。・東新丁は寺屋敷と「御小人衆(おこびとしゅう)」の屋敷があったという。・いまは貨物線が東新丁を縦断している。歩いてみると普通に閑静な住宅地で、ただ、通りから宅地の中に入る枝道はすべて民地なのだろうか。ほとんど奥で行き止まりになっていた。貨物線をくぐる隧道に「東新丁」の表示を見つけた。
July 26, 2026
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楽天イーグルスのホームゲームを1塁側のフィールドシートで観戦した。試合が始まると、このシートからは一塁ランナーとピッチャーのジリジリとする駆け引きが一直線。真後ろから見ることができたので、かなり興奮した。学生野球をしていた頃、僕は塁に出てからの動きがかなり下手で、牽制球でアウトにならないだけで精一杯。投手にプレッシャーをかけるなんてギャンブル過ぎてできなかった。だから、強豪校の試合や社会人野球があると、だいたいこんな感じの場所に座って、塁上の選手の動きをじっと見つめていた。野球はもうやっていないので学習する必要はないのだけど、何と言っても目の前にいるのはプロ野球選手。気持ちだけ昔に戻って最高レベルの離塁技術を堪能させていただいた。なかでも凄まじかったのは7回に代走で登場した楽天の小深田選手。二塁に向けてスタートを切るかのような仕草を何度もチラつかせては牽制球を呼び込み、投手の集中力を確実に削いでいった。それでいて、投手の警戒をものともせず二塁への盗塁を敢行。その後、やや平常心を失った投手の暴投で三塁へ進塁。併殺崩れの間に決勝点となるホームを踏んだ。試合後半から雨が強めに降ってきたのでカメラに残せなかったことが残念だったけど、投手を翻弄しまくった小深田選手の走塁は、この日の勝因と言っても良いくらい見事だった。(帰塁する楽天の岡島選手と西武のボー・タカハシ投手。一塁手は山村選手)どの走者もぎりぎりアウトにならない自分なりの離塁幅を持っていて、しかもその「ぎりぎりアウトにならない」タイミングは、毎回本当にぎりぎりで、それでいて慌てて帰塁する場面には試合を通して出会わなかった。プロって凄いなぁ…と改めて思い、現役の頃にこれを見ていたら僕ももう少し上手になれたかも…とも、今さらながら少し思った。
July 6, 2024
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澱町(よどみまち)広瀬川に架かる澱橋の向こう側が、かつての澱町。澱橋が架かる町なので、「澱町」と呼ばれたようです。かつての澱町は今、仙台市青葉区角五郎一丁目(昭和42年11月1日住居表示)と、広瀬町(昭和45年2月1日住居表示)という町の、それぞれ一部になっています。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕澱橋を渡った先の左側が角五郎一丁目、右側が広瀬町。全国的に住居表示がほぼ街区方式で行われたので、ここでも道路を境に町名が分かれています。角五郎一丁目側には、澱橋の下に回り込むように、交通量の割にかなり広いT字路がありました。この道について、こんな趣旨の記載を見つけました。"広いT字路交差点。旧澱橋があった頃は橋とつながる十字路だった。昔の澱橋は明治22年の洪水で流失。川内の軍関係施設と市街地を結ぶ強固な橋を築造することになり、明治25年、鉄橋(旧澱橋)に架け替えられ、この交差点も幅広に。昭和36年にやや東側に架け替えが行われ(今の澱橋)、やがて鉄橋は姿を消し、十字路はT字路に変わった。"〔せんだい市史通信第28号(仙台市博物館市史編さん室・平成24年7月31日発行)より〕なるほど…T字路のガードレール(写真の右端)の先に鉄橋(旧澱橋)があって、元々は広い十字路だったのですね。明治25年から昭和36年まで使われた旧澱橋の跡は、今もこのT字路の先、澱橋の隣に残っています。(対岸にも同じような痕跡があります。この画像では見えにくいですけど…)広瀬川沿いの旧澱町。正面奥で澱橋をくぐっています。旧澱町の通り沿いに建つ「澱不動尊」澱町はだいたいこの赤いラインの範囲だと思います。先ほどのT字路には「中島丁/角五郎丁」の辻󠄀標が建っていたので、角五郎一丁目側の澱町は橋の西側のほんのわずか。このT字路までだったのだろうと思います。
February 17, 2024
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皇居のすぐ前、パレスホテルの近くに福井藩上屋敷跡と書かれた説明板があった。「福井藩…。なぜこんな超一等地に福井藩…?」と、歴史に疎い僕はまず思い、説明板を読んでみた。「寛永十年(1633)に江戸城本丸大手門の前に建てられた越前福井藩主・松平忠昌(まつだいらただまさ)の上屋敷跡。広大な敷地に桃山風の豪壮な建物が建っていましたが、明暦の大火により消失(後略)」松平…と言えば、おそらく徳川家の親族。だとすれば福井藩のお屋敷がこの場所にあったことも理解できる。福井市立郷土歴史博物館の資料には次のような解説があった。「慶長5年(1600).関ヶ原の合戦で東軍が勝利すると、天下人、徳川家康は次男の結城秀康(結城城主、10万1000石)に越前国(68万石)を与え親藩福井藩が創設された。(中略)大坂の陣で活躍した2代忠直以降の藩主は、代々松平の姓を称した。(中略)寛永元年(1624)に(中略)高田藩主であった忠直の弟忠昌が越前に入封した。忠昌は北庄を福居(後の福井)と改めた。(中略)家康の次男秀康を初代とする越前松平家は、御三家、御三卿を除く、徳川将軍家の親族として「御家門(家門)」と称し、その筆頭として格式を重んじられた。」〔展示解説シートNo.133(令和2年7月)「福井藩と城下町」より〕要約すると、福井藩は家康の次男が藩祖で、この上屋敷の主・松平忠昌は家康の孫。そして越前松平家は徳川将軍家の御家門の筆頭だった、ということになると思う。知らなかった…。関ヶ原で勝ったとはいえ、まだまだ大坂への警戒が解けない。だから家康は福井を重視したのかな。そんな推測をこの屋敷跡でしてみたけど、この続きは実際に福井の町を歩きながら楽しみたい、とも思った。福井県はこれまで敦賀と小浜に行っただけなので、今度は福井市などほかの町にも行ってみたい。ぜひ。
March 13, 2025
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仙台の昔の町名「本荒町」(もとあらまち)は、昭和45年2月1日実施の住居表示で住所から消えた。今は仙台市青葉区一番町一・二丁目と大町一・二丁目のそれぞれ一部になっている。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕青葉通沿いには、19番目の辻標「本荒町/良覚院丁」が立っていて、本荒町が荒町だった頃の町の様子を次のように説明している。・本荒町は開府当時、岩出山から移ってきた麹屋町であったが、寛永初年、街道沿いのより長く広い今の荒町に移された。・以来、本荒町とよばれ、藩の医者が多く住む侍丁となった。また、仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」では、町名が本荒町になった後の様子について、次のように説明している。・(前略)藩の医者が多く住む侍丁となった。また、乱舞太夫(能役者)が多く居住しており、仙台藩の乱舞頭であった桜井八右衛門(金春流)の屋敷もこの地にあった。そのため太夫小路とも俗称された。「《本荒町》通り」と書かれた標柱が、青葉通との交差点の近くにあった。本荒町の通りを南側の突き当りまで歩くと、町の俗称とされる「太夫小路」の辻標を見つけた。荒町が移転した寛永初年は、西暦では1624年。おそらくこの頃、仙台藩の武士が増えたために城下町が再編され、移転前の町の名前の頭に「元」や「本」が付けられたのだろう。「元」と「本」をどう使い分けたのかはわからないけど、「元」には元々の意味を込めて、「本」には本当の、という意味を込めたような気はする。本荒町は青葉通と南町通を南北に貫くように通る細い道で、今は都心型の高層マンションが数多く建っている。本荒町は赤線のあたりになる。
December 8, 2024
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今から3年前。2018年(平成30年)10月21日の日曜日。時間は朝の8時半頃。 健康だけが取り柄と思っていた僕は、街の真ん中の地下通路で倒れた。 意識が消えたのは、地下鉄を降りて、改札を抜けた後だった。 その日、地下鉄に乗った頃からなんだか喉元に違和感があって、車内が急に暑くなった気がしていた。 目的駅のホームに降りたら今度は気持ちが悪くなってきて、さっさと用事を済ませて家帰って寝よう、と思いながら歩いてたら、ひどい目眩に襲われ、手すりにもたれかかったあたりで記憶が途切れた。 遠くから呼ばれた気がして目を開けたら、僕は地下通路の真ん中にうつ伏せに横たわっていた。 僕の顔の近くを次々と通勤の人たちの靴が通過していく中、紳士と女性のお二人が一生懸命僕に声をかけてくれていた。 「大丈夫ですか。駅員さん呼びましたからね。すぐに来てくれますよ」 「お忙しい時にすみません。目眩がしまして…」みたいなことを四つん這いになった僕が呟いていたら、駅員さんが車イスを押して駆けつけてきてくれた。 駅員さんはテキパキと119番に通報し、僕の様子を詳しく伝えてくれたおかげで、救急車が到着した時には搬送先の病院が決まっていた。 「血中酸素濃度、ちょっと取れないな…」 救急隊員の会話をぼんやり聞いてるうちにサイレンが止まり、救急車の扉が開いて病院の処置室に運び込まれた。 「あぁ、やっぱり」 病院スタッフの声が聞こえた後、矢継ぎ早に検査とか質問があって、お医者さんが家族に電話を入れてくれた後、冷や汗で重たくなった服を数人がかりで脱がされて、早速手術が始まった。 病名は急性心筋梗塞。 心臓近くの血管にステントを入れる手術だった。 術中2回心臓が止まって、2回AEDが使われたそうだ。執刀医の先生が自分の胸にガッと飛びついてきたことと、医療スタッフの皆さんが懸命に僕を呼んでくれていたことは、手術中おぼろげに感じていた。 「頑張りましたね。このまま2週間は入院。病院にたどり着けない患者さん、間に合わない患者さんが少なくありません。ラッキーでしたよ」 「ありがとうございました」 僕が言えた言葉はこれだけだったけど、今生きているのは、忙しい通勤時に見知らぬ僕のために走り回ってくださったお二人と、駅の外なのに駆けつけてくれて、消防に正確な情報を伝えてくださった駅員の皆さんと、その情報だけで心臓血管外科に受け入れ依頼をしてくださった消防の皆さんと、万全の体制で救急車を待ち受けてくださった病院の皆さんの奇跡的な連携プレーのおかげ… そんな思いが込み上げていた。 「僕なんかのために、皆さんがこんなにも一生懸命になってくれて。もったいない、もったいない、とてつもなくもったいない」 集中治療室の中で、僕は心の底からそう思っていた。 あれから3年、「助けた甲斐があったよ」と言ってもらえる僕になれたかは甚だ疑問。だけど自分だけの命ではない、という言葉は正しいと思えるようになった。 それから、「死にそう、死ぬ、死んでも…、死んだほうが…」みたいなワードは言えなくなった。 皆さんへの感謝の思いは日々、そして年々強まるばかりです。 退院後、直接のお礼は駅員さんにしか伝えられてないけど、お名前を伺い忘れたお二人を始め、助けていただいた皆さまに、この場をお借りして心から感謝申し上げます。 本当にありがとうございました。 救っていただいた命を無駄にしないように、しっかりと生きていきます。
October 14, 2021
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(写真:ロサンゼルス国際空港Bターミナルの2階)小さな失敗を書き残しておくことにした…LAX(ロサンゼルス国際空港)に着いて、手荷物検査を通過すると、搭乗口に向かう途中にお土産やさんやブランドショップが並んでいた。今回は滞在中、お土産を一つも買っていなかったので、ありきたりのもので申し訳ないとは思いつつ、チョコレートなどをいくつか買った。支払いにはいつものようにクレジットカードを使った。だけどこの時は、端末操作の最後に「ドルと円、どちらで支払いますか?」という選択があり、店員さんが円払いを勧めているように感じたので「円」での決済を選んだ。支払いが完了し、レシートと商品を受け取り、買い物は無事終了。。。。。だったのだけど、「円」の選択は失敗だったと後で気がついた。次の店でドル払いした時のレートが154.766円/ドルこの店で円払いした時のレートが162.081円/ドル1ドル154円という円安ぶりにも正直びっくりだけど、免税店でドルを円に替えるレートよりは全然有利だった。知らなかったとは言え、そもそもドル払いに何の不都合もないことをわかっていながら、「円払い」にタッチした自分にじわじわとがっかりした。次回はちゃんと「ドル払い」にタッチしようと思った。
May 11, 2024
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今年初めてのゴルフ。天気が良くて、寒くもなく暑くもない週末、青い空とたくさんの木を見ながら一日を過ごした。思い返すと、野球に夢中だった頃の僕はゴルフをスポーツとは思っていなかった。止まっているボールを打って、歩いて、また打って、また歩いて。その繰り返し。服装もスポーツウェアっぽくないし、体型も…。家に居場所がないおじさんたちの道楽、というイメージが強くてやってみたいとも思わなかった。だけど今は、カートに乗って18ホールを回っただけでも、かなり運動した気分になる。止まっているボールを打つことも相変わらず難しい。野球なら打ち損ないはファールになるから、ダメージはほぼない。だけどゴルフは打ち損なうと、下手すると2打も3打も足されてしまう。ゴルフというスポーツを軽く見ていたことを今更ながら反省。100を切れる日がきますように…
July 21, 2026
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マツダスタジアムに行ったその日、広島駅の近くでは、サンフレッチェ広島のトークショーとサイン会が行われていました。会場には紫色の家族連れがいっぱい。サンフレッチェもカープも、市民に愛されている感じがビシビシと伝わってきた一日でした。もし広島に住むことになったら、あっという間にカープとサンフレッチェを応援する人になってしまうかも。いやいやいやいやそんなことはないでしょう。私に限って。きっと…がんばれ楽天!がんばれベガルタ!
February 28, 2010
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ハリーポッターと不死鳥の騎士団 ( Harry Potter and Order of the Phoenix ) を観てきました。公開2日目、そして最初の週末ということで相当な混雑を覚悟して出かけたのですが、意外にもかなり空席がありました。でもこれは、おそらく吹き替え版を選んだからでしょう。先月、パイレーツ・オブ・カリビアンを予習せずに観たらストーリーが余り追えなかったので、今回はパンフレットなどをいくつか読んでいきました。おかげで、とても楽しめました特に映像がとてもきれいで、イギリスにもいつか行ってみたいナァ と思いながらスクリーンを眺めていました。魔法省の典型的に官僚的な統制によって、ホグワーツ魔法魔術学校から生気が奪われていく様子が、いかにもありがちで、皮肉っぽく、しかもユーモアたっぷりに描かれていて、面白かったです。ハリーポッター役のダニエル・ラドクリフをはじめ、出演者はみんな大人になっていて、その分演技も上手になっていました。今回の作品は、面白かったです。もちろんお勧めです。(画像をクリックすると楽天ブックスへ。英語版です。)
July 21, 2007
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立川から多摩川沿いを歩いて国立市に入った。と、見かけた看板が「生産緑地地区」。生産緑地とは普通に言えば農地のことでしょうか、おそらく。農地としては猫の額くらいの狭さで、ここだけで生計が立つとは思えないけど、きっと都市計画でこうでも決めてしまわないと、ここら一帯にことごとく住宅が立ち並んでしまうのでしょう。国立駅と谷保神社の間くらいしか知らなかったので、国立のもうひとつの顔を見た気分でした。
November 30, 2016
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映画化された「ドライブ・マイ・カー」、そして本の表題「女のいない男たち」を含む6つの短い物語が、この本の中にあった。もしもこの6編に女性に縁のない男たちが次々と登場してきたら、最後まで読み通すのはちょっと辛かったろうと思うけど、幸いなことに登場する男たちは女性との縁をたっぷりと持っていた。むしろ羨ましいくらいに。「今は」女のいない男たち。より説明的なタイトルをつけるならこんな感じかと思う。この本に限らず村上春樹さんが描く男性は、たいてい物静かで、知的で、淡々としている。自分の心の内を静かに深く見つめていくような村上さんの作品を読んでいると、気持ちが落ち着き、呼吸が少しずつ静かになってくる。そして四ツ谷とか中央線とか、小説の舞台と自分の記憶の濃い部分が交わったりすると、作品中の男性と自分との境界がほぼなくなっていく。草食系男子の雰囲気を醸し出しつつ、それでいて素敵な女性たちとの接点もある男たちに同化していく僕。。。至福の読書タイム以外の何物でもない。この小説にも村上春樹さんらしい性的な表現が随所に出てくる。読者のギラギラした性的欲望を満足させるような描写ではなくて、セックスは心の交流の一形態だということをしみじみと認識させてくれる。確かにそうだよね、と改めて思う。唇と唇を静かに触れ合わせたり、乳首を舌先で優しく触れたり、秘部を指先でなぞったり。まどろっこしいようにも思える行為を通して男は女性に「心」を送っているに違いない。自分が直接的な快感を得るよりも女性の気持ち良さげな表情や漏れ出る声に、男は喜びと興奮と満足を感じる。そんな男が多いと思う。村上春樹さんの小説には生殖でも征服でもない、心のやりとりとしての性が描かれていて、このこともまた、僕にはものすごく心地よかった。
June 5, 2022
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一人で歩いていた街の真ん中で突然気を失って、救急車で運ばれて、手術をしてからちょうど4年。一年に一度の診察を受けてきた。普段はこの病院に紹介してもらったかかりつけ医さんで診てもらっている。4年前に手術をしてくれた先生は、別の病院に移られて、去年から初対面の先生の診察を受けている。待合には付き添いが必要な患者さんがたくさん順番待ちをしていて、心臓とか血管の病気は大事(おおごと)だな、と改めて思う。そして、待合の風景を見ながら思うのは不謹慎なのだけど、4年前に通路に倒れた僕をすばやく救急隊につないでくれた通りがかりの方々や、心臓疾患を想定して病院探しをしてくれた救急隊の皆さん、手術の用意をして救急車を待ち構えてくれたこの病院のスタッフの皆さんには、改めて、改めて、改めて感謝の想いが込み上げる。おかげさまで、心筋梗塞の後遺症はほとんどなく、仕事も続けられ、わが子への仕送りもそろそろ終わりそうです。夢に向かって頑張る子供を突然応援できなくなったかもしれないと思うと今でも本当にゾッとする。親らしいことは大してしてないかもだけど、最低限の経済的支援を最後まで続けられたこと、これは一重に4年前の日曜日の朝、助けていただいた皆さんのおかげです。ありがとうございました。皆さまもお体に気をつけて、いつまでもお元気で。
October 24, 2022
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大泉洋リサイタル…???半信半疑のまま会場に向かい、その混雑ぶりに驚き、結果、思い切り楽しんで帰ってきました。大泉洋リサイタル。リサイタル当日から遡ること3ヶ月くらい。大泉洋さんの「歌」に9,000円というのは、コスパとしてどうなんだろうか、という微かな迷いを振り払ってチケット購入の抽選に申し込んだら幸運にも当選。3階席の片隅でしっかりと鑑賞してきました。驚いたのは客層。割としっかりした年齢層の女性の皆さんがおそらく観客席の8割方を占めていた。皆さんとにかく大泉洋さんのあらゆることに詳しくて、ステージ上の大泉さんがだんだんペ・ヨンジュンに見えてきた。セットリストも観客層に合わせたのでしょう、綾小路きみまろ的な雰囲気と純烈的な雰囲気もちょいちょい織り交ぜながら、大泉洋ワールドに会場全体をどんどん惹き込んでいった。感想としては、コスパはバッチリ。いろんな大泉洋さんを2時間余り堪能してきた。もちろん山ほど笑った。来週の紅白歌合戦で歌う「あの空に立つ塔のように」も披露してくれた。野幌の百年記念塔が、素敵な歌になっていた。先月、僕が江別のおじさんの家に行った時も、百年記念塔の話題になった。おじさんが元気だった頃、おじさんが勤める会社が建てたこの塔に連れて行って貰って自慢話を聞かされたことは今でも良い思い出。百年記念塔は老朽化で取り壊されてしまったけど(できることなら壊す代わりに新しい塔を建てて欲しかった。北海道の歴史だもの…)、大泉洋さんがこんなにいい歌に残してくれたんだから良かったよね、と思いながら聴いていた。紅白も楽しみにしています。
December 23, 2023
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日曜日の朝、映画館に出かけて「ディア・ファミリー」を観た。主演は大泉洋さん。観ようと思ったきっかけも大泉洋さん。だけど、出演者全員がまるごと主演のような、平たく言うと「ワンチーム」。スクリーン上の一人ひとりから作品への強烈な思い入れがビシビシと伝わってくる映画だった。とにかく最初から最後まで、ただひたすら胸を打たれ続けて、何度も何度も涙腺が緩くなった。なかでも特筆したいのは、幼少期を演じた子役の皆さん。名前がわかるのは坪井佳美(よしみ)ちゃんを演じた鈴木結和(ゆうわ)ちゃんだけだけど、坪井三姉妹も、病院で佳美ちゃんと同室になった女の子も、誰もが一所懸命で、可愛くて、愛おしくて、素敵だった。結和ちゃんの静かでしっかり者の雰囲気は、福本莉子さんに丸ごと引き継がれていて、映画の中の坪井佳美さんは、ちっちゃい頃から最期まで、しっかりとひとりの佳美さんだった。大泉洋が演じた坪井宣政のモデルとなった社長さんは、きっとものすごく真っすぐで、相当強引で、強気な人だったのだろうな、と思った。世の中の役に立つものは、それを切実に、そして愚直に追い求め続けている人からしか生まれてこない。いくら頭が良くても、アドバイザーとかコンサルタントとか、そういう立ち位置からはリスクを取らない耳障りが良いだけの言葉しか出てこない。わかりきってることだけど、そんなことも改めて感じた。私事ながら、街なかで急に心臓が止まって救急車で運ばれた6年前の記憶が、映画を観ながらリアルに蘇った。搬送先で受けた手術は「経皮的冠動脈ステント留置術」。手首から入れたカテーテルで胸の冠動脈までステントを運び、そのステントをバルーンで膨らませて、詰まった血管を広げる手術だった。映画に出てくるカテーテルには鼓動があったので別ものだと思うけど、スクリーンから「心臓」、「カテーテル」、「バルーン」など、そういう言葉が聞こえる度に、当時、全力で僕の命を救ってくれた、たくさんの皆さんの姿が浮かんできた。その姿がまた、劇中の人たちの真摯な姿と重なって、さらに胸が熱くなった。封切り3日目の日曜の朝。通常料金の日だったせいか、映画館はそれほど混んでいなかった。ゆったり観られたのは良かったけれど、この映画はもっともっとたくさんの人に観てほしい。ものすごくそう思う映画だった。
June 22, 2024
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札幌の白石区と豊平区の境目辺りにある「白石こころーど」。この場所に来るといつも少しの時間立ち止まる。今年(2024年)の夏に通った時は木漏れ日がきれいだった。そしてこれは去年(2023年)の冬。雪と青空のコントラストが美しかった。どちらもほぼ同じ場所。ここには昭和48年まで国鉄(JR北海道)の千歳線が通っていて、廃線跡に自転車・歩行者専用道路が作られたのだそうだ。千歳線が以前はここを走っていたことを僕は知らなかった。道幅から察するに、当時の千歳線は単線だったのだろうと思う。冬には「寒いけど、美しい」と思い、春には「爽やかで、きれい」と思いながら横切っていた白石こころーど。今回、夏に来て、「きれいだけど…蒸し暑い」と思った。いつから札幌の夏はこんなに蒸し暑くなったのだろう。数年前まで道内に暮らす親戚たちは「札幌の暑さは精々1週間だから」と言っていて、どの家にもエアコンはなかった。だけど最近訪ねた時には、リビングにしっかりエアコンが付いていたり、取り付け工事の準備をしていた。今、子どもが住んでいる札幌の集合住宅も、新築時にはエアコンを付ける想定がなかったようで、室外機と本体をつなぐ壁の穴もエアコン用の電源もない。だけど今年、大家さんの決断で配管用の穴が開くことになった。「冬があんなに寒いのに、夏がこんなに暑かったら取り柄がないよね、札幌…」と内地育ちのわが子はボヤいている。取り柄がない、とは全然思わないし、札幌は今も素敵な街だと思う。だけど、地球温暖化はあちこちで怖さを増しているな、とは改めて思った。僕たちはこれから何をどうすれば良いのだろう…。何をしてもあまりにも微力な気がしてしまうのだけど、きっと何かできることがあるに違いないと思い続けていたい、とは思っている。
August 10, 2024
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本郷三丁目駅で丸ノ内線を降り、ご先祖さまの足跡を辿ってみた。ご先祖、と言ってもそんなに昔のことではなくて祖父母の頃の話だけど…。母は時折、小学生の頃に東大の赤門近くに住んでいたことをちょっと誇らしげに話す。麻布笄町(あざぶこうがいちょう。今の港区西麻布あたり)で生まれた母が本郷で暮らしたのは終戦前、学童疎開で那須塩原に行くまでの短い間だったようだが、それでもずいぶんと懐かしい場所のように話している。「赤門を下がっていくとウチがあってね…」という言い方を良くするので、まずは「下がる」の意味を現地で確認してみたかった。そこでスタートは東大赤門前。赤門前の大通から横道に入り、母たちが暮らした家のあった本郷四丁目(今の本郷五丁目)に向かうと、たしかに道は下っていた。写真ではわかりにくいけど…祖父母家族の家を含めて、この一帯は昭和20年の大空襲ですっかり焼けてしまったが、今でもこの界隈には車1台がやっと通れるくらいの道が多い。道筋は戦前とあまり変わっていないように思えた。公園に行くと昔ながらの井戸のポンプが災害用に残されていて、本郷の町はあちらこちらに懐かしい風景があった。菊坂通りという商店街からわりと急な坂道を南に上ると、本郷小学校に着いた。母も、母の兄弟もこの学校に通い、当時は「真砂(まさご)小学校」という校名だったそうだ。小学生だった母兄弟が暮らした家があったのは、「真砂小学校」を再び下って菊坂通りの向こう側。東大赤門までゆっくり歩いても5分かからないくらいの静かなところにその場所はあって、本郷5丁目と書かれた住居表示板が貼られていた。文豪もたくさん暮らしていたこの町の空気が、短い期間とはいえ祖父母の家族には心地良く、戦中の苦しい時期でありながらも懐かしい記憶として刻まれたのではなかろうか。静かな住宅街をゆっくり歩きながら、そう思った。
August 24, 2024
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楽天モバイルパーク宮城の三塁側、内野席の上段に「カウンターシート」という席があることに気付いた。今ごろ…。今年新設されたシートだろうか。座席の前に長テーブルのようなカウンターがあるらしい。で、今回はここで楽天✕オリックス戦を観戦した。球場のレフト側にある入口「L8番ゲート」から幅広の階段を上ったところに並んでいる食べ物屋さんで、冷たい烏龍茶を買ってから、小さな階段を座席まで少し上った。ドリンクをカウンターに置いて、「どんな感じだろ…」とシートに腰を下ろしてみると、グラウンドが思いのほか近く見えたので嬉しかった。少し広角で撮るとこんな感じ。実際はもっと近く見える。球場全体が見渡せて、内野手や走者の動きも細かく見ることができた。シートには座面にも背中にもクッションが効いていて、肘掛けは隣との共有ではなく自分専用。しかもカウンターのおかげで前後のシートとも距離があった。快適な座り心地だった。試合開始前、空を見上げると雲が不思議な広がり方をしていた。おそらく台風の影響。ちょっと幻想的な景色だった。この日は雨の予報もあったけど、幸い雨に当たることはなく、少し強めの夜風を感じながら試合終了まで心地良く過ごすことができた。僕にとってのこの日のHEROは、セカンドの小深田選手とセンターの辰巳選手。二人とも打撃も守備も素晴らしかった。特に守備。これもアウトにしちゃうんだぁ…と溜め息が出るようなシーンが幾度もあった。間違いなくヒット、と思ったらアウト。しかもそれがファインプレーに見えないところが凄かった。2人に加えて、石原捕手の強い打球と強肩もすごく魅力的で、球場まで観に来る価値のある面白い選手たと思った。カウンターシートにゆったりと座ってプロ野球を堪能した夏の夜。楽しかった。
September 28, 2024
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仙台の昔の町名「本材木町(もとざいもくちょう)」は、昭和45年2月1日の住居表示で「立町」の一部になっている。そして、かつての本材木町の道筋は、今の立町の真ん中を南北に貫いている。本材木町と本櫓丁が交差していた場所には辻標50番「本材木町/本櫓丁」が立っていた。辻標のパンフレットは、町の読み方を《もとざいもくまち》としたうえで、この町を次のように解説している。・建築用材を集荷供給するため仙台開府当初に割り出され、材木町とも木町とも称した。・その後木材需要の拡大に伴い、北・南材木町ができたので本材木町と呼ばれた。・一部は侍屋敷となったが、なお、材木商・大工衆・指物師が多く住んだ。・明治以降は国道西裏の商店街として栄えてきた。この通りには、辻標だけではなく「《本材木町》通り」と記した標柱も建っていた。仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」は、この町を次のように説明している。・慶長年間(1596−1615)に成立し、程なく北材木町を分出。・城下町建設のための材木市がおかれ、材木商人が居住したことに由来する。今の町割りに当てはめると、立町のど真ん中、赤線の通りがかつての本材木町にあたる。この通りを歩いてみると、残念ながら材木町の名残りらしきものは見つけられなかったけど、町人の町らしい、間口が狭くて奥行きのある土地の形は目にすることができた。こんな風に通りに面する部分は狭くて、奥に長い民家。藩政時代は土地の面積ではなく、通りに面する土地の幅で税金の多寡が決まっていた、と聞いたことがあり、だから町人や商人の町には、間口の狭い家が多かったらしい。広瀬通と定禅寺通の間にあるかつての本材木町には今、たくさんのマンションが立ち並んでいて、その中にポツポツと古い民家があり、おしゃれな雰囲気のベーカリーなど新しいお店もいくつかある、そんな通りだった。
October 4, 2024
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かつての笄町 (こうがいちょう。今は港区西麻布の一部) を訪ねた折に、かつての宮代町 (今の渋谷区広尾) にも行ってみた。今は「広尾北公園」になっているこの辺りが、かつては宮代町だったと思われる。周囲にはいわゆる広尾っぽい高級そうなマンションがいくつも建っていた。そして、公園から坂を下ると日本赤十字社医療センターがあった。すごく大きな病院。母は時々「宮代町の日赤病院で産まれた」と言うので、きっと戦後になって坂の上からここに移転したのだろうな、とその時は思っていた。だけど、病院のウェブサイトを見てみると、1891年(明治24年)に飯田町から現在地に移転して以降、移転はしていない。どういうことだろう…と思いながらウェブサイトを読み進んでみると、「1972年(昭和47年)11月には日本赤十字社産院と統合」と書いてあった。この「産院」が宮代町にあった、ということか…プチ発見を喜びながら更にネット検索をすると、次のような文章を見つけた。「日赤産院は渋谷区宮代町にあって、白亜の高層建築日赤中央病院と隣り合わせであるから同病院の一病棟でもあるかのように見られるが、産院と病院とはそれぞれ特異な性格を持っていて産院はもちろん独立して存在しているのである。」「大正10年4月、日赤本社は直営の産院を設立。」(以上、医学書院1952年2月発行「助産婦雑誌1巻2号」より)「独立して存在しているのである」のくだりから、病院と一緒にされたくない産院側の強い気持ちが伺われるが、母のような一般人から見れば、当時から病院も産院も「病院」だったのだろうと思う。自分のルーツをまた一つたどることができた。
November 1, 2024
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将軍徳川家康が祀られている日光東照宮に、人生2度目の参拝をした。2度目といっても前回は子供の頃だったのでほぼ記憶はない。雪の残る境内を新鮮な気持ちで歩き回った。テレビで博士ちゃんの解説を感心しながら聞いたりしていたので、予備知識はある程度持っているつもりだったが、実際にその場に身を置いてみると日光東照宮の放つオーラは凄まじく、圧倒的な威厳を感じた。例えるなら「古墳」。東照宮全体が巨大な家康公の古墳のように思えた。江戸時代初期に家康公が掌握していた権力がいかに絶大だったか、そしてその後の徳川家が、家康公の威光を最大限に利用するために東照宮を豪華絢爛に造り、維持し続けてきたのであろうことが、境内の随所に感じられた。そしてここからは余談に近いが、今回日光東照宮を歩いてみて、①雪の量と、②スギ花粉の量と、③石段の数と高さには少々驚いた。①まずは雪3月も半ば過ぎだというのに、東照宮の参道にはまだ雪がたくさん残っていて、日光は結構寒い場所なんだ、と実感した。②次に杉とスギ花粉日光と言えば日光杉を思い浮かべるが、境内周りだけではなく、東照宮に向かう街道筋から何キロもずっと、今や古木かつ巨木に育った杉の木が無数に立ち並んでいた。冬の終わりかけのこの時期、杉並木の1本1本に花粉がびっしり付いているように見え、アレルギー持ちの僕は、黄色い花粉に覆われた杉を見ているだけで体中がムズムズしてきた。マスクと薬を持ち歩いていて良かった。③そして石段日光東照宮は地形をそのまま生かした造りと思われ、傾斜が急でかつ長い石段が少なくない。とりわけ、家康公が眠る奥宮へは200段を超える石段を上った。運動不足の僕の脚は次第にカクカクと震え出し、年配の方々の中には途中で上るのをあきらめる姿もあって、それはとても気の毒だった。世界遺産に十分なバリアフリーを期待するのは難しい。日光東照宮に行くなら若いうちに限ると思った。百聞は一見にしかず。日光を見るまで結構と言うなかれ。まったくその通りだと思った。今回行くことができて本当に良かった。
April 3, 2025
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クリスティー文庫は全部で何冊あるのだろう。たくさんある、ということしか今のところわからないが、「アクロイド殺し」の背表紙には「3番」が振られている。出版は1926年(昭和元年)。1920年代のイギリスがどんな雰囲気だったのか、イメージはなかなかわかないけど、とりあえず英国の田舎町のような風景を思い浮かべながら読み進んだ。すると、主に英国人の登場人物たちが麻雀に興じる場面が出てきて少々驚いた。植民地としてイギリスが世界の各地を支配する中で、中国の文化もイギリスに、しかもロンドンだけではなくてイギリスの隅々まで流れ込んでいた、ということなのだろう。会話の中で「上海倶楽部」という言葉も出てくるが、これはきっと上海で西洋人だけが立ち入りを許された社交クラブのようなものではないか、と推測してみた。もうひとつ、今回の事件の語り部、ジェームス・シェパード医師の家で、ポアロが男と女について静かに語り始めた場面が印象的だった。一部を抜き出すと…「どれだけ多くの夫が妻を裏切りながらも、秘密を胸に抱えたまま安らかに墓に入っていったでしょう。どれだけ多くの妻が夫を裏切り、その事実を夫の面前に突きつけて、二人の人生を破壊させたでしょう。女たちは(中略)ひとときの自己満足とともに真実を告白するのです。」(第17章 パーカー)深い…と思ったし、この頃のどんな体験がアガサ・クリスティーにこの一文を書かせたのだろうか、と思った。
July 16, 2026
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ロサンゼルス国際空港(LAX)では、アメリカの航空会社以外はほぼターミナルB(トム・ブラッドリー国際ターミナル)から発着している。そのうえ、発着便が集中する時間帯もあるようなので、余裕をみて早めに滞在先を出発し、空港に向かった。幸いフリーウェイの渋滞はほとんどなく、搭乗時間の4時間くらい前に空港に着いた。ターミナルBに入り、まずはスーツケースを預けてしまおうと、航空会社(ANA)のカウンターに行ってみると「出発の3時間前に窓口は開きます」との表示があって、スタッフの姿はなかった。「あと1時間か…」と、つぶやきながら少しぶらついてみたが、搭乗手続きのフロアには飲食する場所やトラベルグッズのお店くらいしかない。ここで何もせずに時間を潰すのももったいないので、帰国便もスーツケースを機内に持ち込むことにした。小さなスーツケースでの旅は、こういう時に楽だ。だけど、預けるつもりだったスーツケースにペットボトルの水を入れていたことを忘れていたので手荷物検査で引っ掛かり、ペットボトルは未開封のまま没収された。反省…。出国手続きを終えて搭乗口のあるフロアに入ると、ブランドショップやお土産のお店などが並んでいた。とはいえ、どのお店も品揃えは豊富とは言えない。気の利いたお土産が買いたいなら、空港に来る前に買うのが正解だと思った。ここで僕は、免税店でお土産のチョコレートをいくつか買った。それから搭乗口に向かう途中で、蒸しパンのような大きなパンと、野菜ジュースのようなソフトドリンクも買った。搭乗口の近くに座って、パンを食べたり荷物の入れ替えをしながら搭乗までの時間を過ごした。不慣れなアメリカひとり旅も、あとは飛行機に乗るだけ。しかも飛行機は日本のANA。そう思うと、僕の心は一気にゆるゆるになり、至福の時間になった。意外なことに、アメリカからの出国に際して、LAX空港に着いてから飛行機に搭乗するまでパスポートを一度も使わなかった。特に搭乗口では、チケットも使わず、顔認証でゲートが開いた。(念のためパスポートとチケットを手に持っているようには促されたものの、使うことはなかった。)こんなに簡素化しても乗客の誤進入や悪意のある侵入を防げているのだからすごい、とひたすら感心しながら機内に向かった。
April 27, 2024
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