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日曜日の朝、映画館に出かけて「ディア・ファミリー」を観た。主演は大泉洋さん。観ようと思ったきっかけも大泉洋さん。だけど、出演者全員がまるごと主演のような、平たく言うと「ワンチーム」。スクリーン上の一人ひとりから作品への強烈な思い入れがビシビシと伝わってくる映画だった。とにかく最初から最後まで、ただひたすら胸を打たれ続けて、何度も何度も涙腺が緩くなった。なかでも特筆したいのは、幼少期を演じた子役の皆さん。名前がわかるのは坪井佳美(よしみ)ちゃんを演じた鈴木結和(ゆうわ)ちゃんだけだけど、坪井三姉妹も、病院で佳美ちゃんと同室になった女の子も、誰もが一所懸命で、可愛くて、愛おしくて、素敵だった。結和ちゃんの静かでしっかり者の雰囲気は、福本莉子さんに丸ごと引き継がれていて、映画の中の坪井佳美さんは、ちっちゃい頃から最期まで、しっかりとひとりの佳美さんだった。大泉洋が演じた坪井宣政のモデルとなった社長さんは、きっとものすごく真っすぐで、相当強引で、強気な人だったのだろうな、と思った。世の中の役に立つものは、それを切実に、そして愚直に追い求め続けている人からしか生まれてこない。いくら頭が良くても、アドバイザーとかコンサルタントとか、そういう立ち位置からはリスクを取らない耳障りが良いだけの言葉しか出てこない。わかりきってることだけど、そんなことも改めて感じた。私事ながら、街なかで急に心臓が止まって救急車で運ばれたことがあり、6年前のその記憶が映画を観ながらリアルに蘇った。搬送先で受けた手術は「経皮的冠動脈ステント留置術」。手首から入れたカテーテルで胸の冠動脈までステントを運び、そのステントをバルーンで膨らませて、詰まった血管を広げる手術だった。映画に出てくるカテーテルには鼓動があったので別ものだと思うけど、スクリーンから「心臓」、「カテーテル」、「バルーン」など、そういう言葉が聞こえる度に、当時、全力で僕の命を救ってくれた、たくさんの皆さんの姿が浮かんできた。その姿がまた、劇中の人たちの真摯な姿と重なって、さらに胸が熱くなった。封切り3日目の日曜の朝。通常料金の日だったせいか、映画館はそれほど混んでいなかった。ゆったり観られたのは良かったけれど、この映画はもっともっとたくさんの人に観てほしい。ものすごくそう思う映画だった。
June 22, 2024
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南カリフォルニアにあるサン・クレメンテ(San Clemente)という海沿いの小さな町に、3日間滞在した。青い空、青い海、スペインを思わせる白い壁と赤い屋根の家並み。旅行パンフで目にするカリフォルニアのイメージ写真そのままの景色に360°囲まれながら、穏やかな時間を過ごした。サン・クレメンテはロサンゼルスとサンディエゴの間にあって、どちらからもすごく遠いわけではない。だけど、毎日の通勤となると結構遠い。という立地なので、サン・クレメンテは退職後に暮らす町としてとても人気があるらしい。確かに、海岸や住宅地を散歩している人も、カフェやレストランで食事や会話を楽しんでいる人たちも、比較的年齢層が高めに見えた。そして白人の割合がかなり高い印象も受けた。さて…とここで思った。リタイヤ後に住みたい町、と言っても、今まで暮らしたことのない土地で暮らすことにアメリカの高齢者は不安を感じないのだろうか…?知ってる人のいない土地で暮らすことに抵抗はないのだろうか…?滞在中、この疑問を直接誰かにぶつけたりはしなかったけど、何気ない会話の中から一つの答えらしきものは見えてきた。それは、教会の存在。初めての土地に行っても、教会に行けば「仲間」がいて笑顔で迎え入れてくれる。日曜礼拝や聖書の勉強会など、教会の活動に顔を出していれば、次第に知り合いも増えてくる。だからアメリカの多くの人たちは、新しい土地に移り住むことにそれほど不安を感じないのではないか。ざっくりとそんな推測をしてみた。宗教は、人を孤立や孤独から守るためにはありがたいシステムなのかもしれない、という推測もしてみた。僕は教会には通っていない。でも、いろいろな町で暮らしてみたい願望はある。さて、どうしよう。。。
June 15, 2024
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2024年5月31日、東京国際フォーラムで「中島みゆきコンサート 歌会 Vol.1」を聴いた。(開演前のホワイエ。軽い飲食とか、みゆきさんへの「お便り」書きとか、皆さんそんな感じで過ごしていた)3月8日に中島みゆきさんの公式HPから5/8と5/31のコンサートに応募して、3月23日に「5/31公演に当選!」のメールが届いた。最終日の公演に当選…!!信じられなくてメールを何回か読み返したあと、じわじわと感激した。5月22日にチケット発券開始のメールが届き、ファミリーマートでチケットを受け取った。チケットに書かれていた僕の座席は、5千人収容の東京国際フォーラムホールAの2階席の最後列だった。2階席の最後列…!!!微妙に信じたくなくて、チケットを何回か見返したあとスポーツ観戦用の双眼鏡を探し出し、チケットと一緒の場所に置いた。だけど、東京国際フォーラムの2階席最後列は決して悪い席ではなかった。オペラグラスがあるに越したことはないが、強めの傾斜のある2階席からはステージが良く見渡せて、音もきれいに聴こえたし、ステージとの一体感もしっかりと感じられた。(コンサート会場「東京国際フォーラム ホールA」)この日、みゆきさんは、アンコール2曲を含め、19曲を歌ってくれた。長いツアーの最終日だったためだろうか、冒頭の2〜3曲、声が少し荒れていたが、本人もトークの中で冗談交じりに声の調子に触れたあと、すっかり復活。迫力の演奏とともに中島みゆきさんの力強い歌声が満席のホールに響いた。付け加えると、少し荒れ気味のみゆきさんの歌声にはソウルシンガーのような迫力があって、僕は痺れながら聴いていた。ステージの終盤、「先患い」(さきわずらい)という言い方を、みゆきさんはしたと思う。「先のことを心配して、今、この瞬間を疎かにしてしまうところが私(みゆきさん)にはあるけれど、明日何が起きるかなんて誰にもわからない。こうして皆さんの前に立って、歌っている《今》に心から感謝したい。」めちゃくちゃな超訳で申し訳ないけど、そんな趣旨のことを、みゆきさんは最後に話してくれた。コロナ禍の時、「音楽は不要不急」と決めつけられ、長い間ステージで歌うことができず、その間に長年頼りにしていたバンドマスターが亡くなってしまい、悩んだ末に4年ぶりのステージに立ったみゆきさん。力強い歌声も、歌詞も、そして相変わらず軽妙なトークも、どれもこれもググッと心に響いてきた。これまでその都度頑張ってきたつもりだけど、結果として平凡の一語に尽きる僕の人生にさえ、みゆきさんはステージ上から暖かくて柔らかい光を当ててくれているように思えた。ほんわかと嬉しくて、有楽町駅前のでっかいホールの片隅で、中島みゆきさんから一生分のご褒美をもらえた気持ちになった。「みゆきさん、最高でしたよ、ありがとう」そう思いながら、ほぼ外国語しか聞こえてこないコロナ禍後の夜の銀座を、地下鉄駅までゆっくり歩いた。【当日のセットリスト】1.はじめまして2.歌うことが許されなければ3.倶に(ともに)4.病院童5.銀の龍の背に乗って6.店の名はライフ7.LADY JANE8.愛だけを残せ9.ミラージュ・ホテル10.百九番目の除夜の鐘11.紅い河12.命のリレー13.リトル・トーキョー14.慕情15.体温16.ひまわり“SUNWARD”17.心音18.野うさぎのように19.地上の星(終演後のエントランス)
June 8, 2024
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祖母の母校、北海道庁立札幌高校女学校の跡地に行ってみた。所在地は札幌市中央区北2条西11丁目。今は札幌市立大通高校になっていて、その敷地の一角に「北海道庁立札幌高等女学校」の碑があった。母によれば、祖母は南1条西2丁目、今の丸井今井大通館の場所にあった自宅から女学校まで、人力車に乗って通っていたらしい。「歩いてもすぐなのに」と母が言う通り、道のりにして1.7キロ。「すぐ」ではないにしても歩いて通える範囲ではある。『僕のおばあちゃんは、もしかすると良いところのお嬢さんだったのかな』と思った。そして、碑の隣に建つ説明板には次のように書かれていた。(抜粋)・北海道庁立札幌高等女学校は明治三十五年本道女子中等教育の嚆矢としてこの地に創設された・高潔・清楚・温雅・堅忍の校風に育てられた有為の人材は校庭の楡の大樹を母校の象徴・心の故郷としつつ家庭に社会に多大な貢献をなした(※嚆矢はコウシと読み、「ものごとの始まり」の意だそうです。)「家庭に社会に多大な貢献をなした」という書きっぷりに、戦前の教育思想っぽい雰囲気が感じられて面白い。おそらく明治時代に作られた北海道唯一の女学校には、全道から優秀な女学生が集まってきて、良妻賢母になるための教育を受けていたのだろうと思う。『いつもニコニコしていた優しいおばあちゃんは、もしかすると勉強がよくできる女の子だったのかな』とも思った。母に聞いても、おじさんに聞いても、祖母は自分のことを余り話さなかったそうで、実際のところはわからない。碑の建つ大通高校の敷地の東側には北海道大学の植物園が広がり、南側には国の合同庁舎や裁判所が並んでいる。昔から大通公園の北側は、賑やかな「すすきの」がある南側に比べると静かなエリアだったようだ。
June 1, 2024
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元柳町(もとやなぎまち)仙台の城下町が開かれた当初は、伊達政宗公に付き従ってきた商人や職人が置かれた御譜代町のひとつ「柳町」。その後、武士が増えたため、武家屋敷が並ぶ町となり、町名も「元柳町」となったとのこと。昭和3年に市電が開通し、線路を敷くために元柳町は道幅が広がりました。(市電は昭和51(1976)年3月末に廃止されています。)この写真では、通りの右側に西公園。西公園の奥が広瀬川。広瀬川を渡った先が仙台城内(青葉山)になります。広瀬川を見下ろす西公園の中に「立町/元柳町」と記された辻󠄀標が建っていました。今の広瀬通が立町、旧市電通りが元柳町ということになります。辻󠄀標は元柳町を次のように解説しています。「御譜代町で仙台開府当時大町以北片平丁の東裏におかれ、茶の税を免ぜられた。侍が多くなると寛永初年柳町は移され元柳町と改名、侍屋敷となった。のちには元櫓丁の西端も元柳町とよばれた。電車開設で道幅が広げられた。」(仙台市文化財パンフレット第23集「辻󠄀標のしおり」より)仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」も元柳町を次のように書いています。「仙台開府当時、柳町が置かれた西公園の東側の地を指す。寛永四・五年(1627-28)頃、荒町の移転と共に移された。」かつての元柳町は、今は青葉区大町二丁目、桜ヶ岡公園、立町の各一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)そして、「元柳町」という町名について、「地番入仙台市全図大正15年度最新版」という地図には「本柳町」と書かれているそうです。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕元柳町の範囲はだいたい赤いラインのあたりだと思います。T字路になっているのが不自然ですけど、Tの縦棒にあたる通りに、ここも元柳町であったことを示すサインが立っています。ちなみに西公園の説明板によると、明治8年(1875)に公園になる前は、仙台藩重臣 伊達藤五郎、古内左近介、大内縫殿(ぬい)のお屋敷だったそうです。西公園の広瀬川沿いには「常盤木学園発祥の地」という碑もありました。公園の中のこの場所は、当時「元柳町68番地」という住所だったそうです。昭和3年に設立された後、昭和20年7月10日の空襲で消失し、戦後、小田原金剛院丁に移転。今も私立の女子高としてこの地にあります。(高校女子サッカーの強豪校です。)
May 25, 2024
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「おばあちゃんの実家は大通公園のすぐ前にあってさ。三越から南1条を丸井の方に行ったところにね…」この話を、僕は母から度々聞いていた。母は少し自慢げにこの話をするのだけど、ファミリーヒストリーには特に興味を覚えることもなく、ずっと聞き流していた。だけど、先日、①その実家が「市村染物店」という名前であったこと。②場所は丸井本館の隣であったこと。③祖母はそこから庁立札幌高等女学校まで人力車で通っていたこと。と、話が少し具体的になったので、今度札幌に行ったらそこに行ってみようかな、と思った。そしてこの度、行ってみた。事前に札幌市中央図書館デジタルライブラリーのウェブサイトで古地図(明治43年9月10日発行「札幌区商工新地図」)を眺めてみると、母が話した場所に「市村染舗」の名前を見つけた。そして隣には今井洋物店と今井呉服店(今の丸井今井)があった。ここに違いない、と思い、現地に向かった。その場所は大通公園のテレビ塔に近く、今は丸井今井の大通館が建っていた。古地図によれば、大通館の東側の通りに面した場所が「市村染舗」だった。何か昔の名残はないだろうか…と、大通館をぐるっと回ってみたら、大通公園側にこんなサインを見つけた。「小説家・竹林無想庵生誕地」を示す説明板。あまり期待はしていなかったけど、市村染舗がかつてここにあったことを示すものは、やはりどこにも見当たらなかった。だけど今回、札幌に暮らすおじさん(母の弟)からも、母の話と同じ内容を聞けた。だから、この場所に祖母の実家があったことは間違いないのだろうと思う。そしてこれが、明治43年9月10日に発行された「札幌区商工新地図」の一部。市村染舗の字の上に屋号も書いてある。(札幌市中央図書館デジタルライブラリーより)今のところ、この地図と、母とおじさんの話以外に、市村染舗、あるいは市村染物店があったことを示すものは見つかっていないけど、いつもと違う目線で大通を歩くことができた。楽しかった。
May 18, 2024
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(写真:ロサンゼルス国際空港Bターミナルの2階)小さな失敗を書き残しておくことにした…LAX(ロサンゼルス国際空港)に着いて、手荷物検査を通過すると、搭乗口に向かう途中にお土産やさんやブランドショップが並んでいた。今回は滞在中、お土産を一つも買っていなかったので、ありきたりのもので申し訳ないとは思いつつ、チョコレートなどをいくつか買った。支払いにはいつものようにクレジットカードを使った。だけどこの時は、端末操作の最後に「ドルと円、どちらで支払いますか?」という選択があり、店員さんが円払いを勧めているように感じたので「円」での決済を選んだ。支払いが完了し、レシートと商品を受け取り、買い物は無事終了。。。。。だったのだけど、「円」の選択は失敗だったと後で気がついた。次の店でドル払いした時のレートが154.766円/ドルこの店で円払いした時のレートが162.081円/ドル1ドル154円という円安ぶりにも正直びっくりだけど、免税店でドルを円に替えるレートよりは全然有利だった。知らなかったとは言え、そもそもドル払いに何の不都合もないことをわかっていながら、「円払い」にタッチした自分にじわじわとがっかりした。次回はちゃんと「ドル払い」にタッチしようと思った。
May 11, 2024
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浜田マハさんの小説集「黒い絵」の帯にはこんな言葉が…・禁断の書・アートの世界の闇にうごめく秘め事とは?・衝撃の小説集・禁じられた遊び、爛れたエロス、閃く殺意…。・アートの暗部を炙り出す、禁断の小説集帯を読んだだけでも怪しさが伝わってくるこの小説集には6篇の短編が綴られていて、その1番目に「深海魚 Secret Sanctuary」が収録されている。巻末を見ると、「深海魚」の初出は小説現代2008年5月号と記されているから、2006年に作家としてデビューした浜田マハさんの初期の作品、ということになる。「深海魚」の主人公は、学校でイジメにあって、ほぼ引きこもりになっている女子高生、真央。年齢を重ねた僕がこの女子高生と重なる部分など何もないはずなのだけど、読み始めてほどなく、どうしようもないくらいに僕の気持ちは真央に入り込んでしまった。そのあと、おそらく一週間くらい、僕の心はずっと落ち着きを失っていた。僕自身、それなりに長く人間の群れの中で生きてきて、その群れの中で少なからず嫌な思いもしてきた。だから、小中学生だった頃に経験した嫌な出来事など思い出すこともなくなっていたけれど、「深海魚」を読みながら、子どもの頃の一時期、クラスでイジメのターゲットになっていた記憶が脳みその奥底から引きずり出されてきた。当たり前だけど、イジメの標的になるというのは、ひどく不快で憂鬱な体験だった。だけど、その時の僕は、親や教師を含めて誰にも被害を伝えようとは思わず、相手への抗議もせず、周りに助けを求めもせず、ただ僕の頭の中に、僕だけしか入れない秘密基地を作っていた。「秘密基地」には、僕にしか見えない"お友達"もいて、その"お友達"はいつでも僕と仲良く遊んでくれた。「僕の本当の気持ちは僕だけのもの、誰にも教えてあげない。」そんなことも思いながら、周りに何かを期待することもしなかった。僕がターゲットになった理由は今も良くわからないけど、雰囲気的に僕はイジメやすい存在だったのかもしれない。あるいは、反応が薄い僕の態度を見て、あいつらはムキになったのかもしれない。真央にとって、真央の心の置き場所は「深海」のような場所だった。「深海」は、忘れたと思っていたけど本当は忘れたつもりになっていただけだった僕の記憶を蘇らせてくれた。僕の中にあった「秘密基地」のことを、ある意味愛おしいような懐かしいような、そんな気持ちと共に思い出させてくれた。短くて、だけど強烈に印象的な小説だった。
May 4, 2024
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ロサンゼルス国際空港(LAX)では、アメリカの航空会社以外はほぼターミナルB(トム・ブラッドリー国際ターミナル)から発着している。そのうえ、発着便が集中する時間帯もあるようなので、余裕をみて早めに滞在先を出発し、空港に向かった。幸いフリーウェイの渋滞はほとんどなく、搭乗時間の4時間くらい前に空港に着いた。ターミナルBに入り、まずはスーツケースを預けてしまおうと、航空会社(ANA)のカウンターに行ってみると「出発の3時間前に窓口は開きます」との表示があって、スタッフの姿はなかった。「あと1時間か…」と、つぶやきながら少しぶらついてみたが、搭乗手続きのフロアには飲食する場所やトラベルグッズのお店くらいしかない。ここで何もせずに時間を潰すのももったいないので、帰国便もスーツケースを機内に持ち込むことにした。小さなスーツケースでの旅は、こういう時に楽だ。だけど、預けるつもりだったスーツケースにペットボトルの水を入れていたことを忘れていたので手荷物検査で引っ掛かり、没収された。反省…。出国手続きを終えて搭乗口のあるフロアに入ると、ブランドショップやお土産のお店などが並んでいた。とはいえ、どのお店も品揃えは豊富とは言えない。気の利いたお土産が買いたいなら、空港に来る前に買うのが正解だと思った。ここで僕は、免税店でお土産のチョコレートをいくつか買った。それから搭乗口に向かう途中で、蒸しパンのような大きなパンと、野菜ジュースのようなソフトドリンクも買った。搭乗口の近くに座って、パンを食べたり荷物の入れ替えをしながら搭乗までの時間を過ごした。不慣れなアメリカひとり旅も、あとは飛行機に乗るだけ。しかも飛行機は日本のANA。そう思うと、僕の心は一気にゆるゆるになり、至福の時間になった。意外なことに、アメリカからの出国に際して、LAX空港に着いてから飛行機に搭乗するまでパスポートを一度も使わなかった。特に搭乗口では、チケットも使わず、顔認証でゲートが開いた。(念のためパスポートとチケットを手に持っているようには促されたものの、使うことはなかった。)こんなに簡素化しても乗客の誤進入や悪意のある侵入を防げているのだからすごい、とひたすら感心しながら機内に向かった。
April 27, 2024
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柳町(やなぎまち)仙台藩祖・伊達政宗公と共に仙台に移り住み、代々伊達家に仕えてきた商人や職人の町。いわゆる政宗公お抱えの、由緒ある商人や職人が住む町は「御譜代町」と呼ばれ、柳町は、仙台城下に6つある御譜代町のひとつでした。かつて柳町だったエリアは、今、仙台市青葉区一番町一丁目、片平二丁目のそれぞれ一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕柳町の東端には大日如来があり、境内に辻󠄀標「柳町/教楽院丁」が建っていました。辻󠄀標では「柳町」を次のように解説しています。「伊達氏の御譜代町で茶の税が免除され、裏には茶畑があったという。初めは元柳町に置かれ、寛永初年南町と北目町の間に移され奥州街道筋となった。商人と御職人の町で田善銅壺屋は最も古い店の例である。」(辻󠄀標10番。昭和53年設置。設置場所:大日如来境内)そして、辻󠄀標が建つ大日如来の説明板には、御譜代町の説明がありました。「仙台の大町、立町、肴町、南町、柳町、荒町の6ケ町は伊達政宗公に従って、米沢から岩出山、仙台と移ってきた町人町で、昔は御譜代町と称した。柳町は初め元柳町の地に置かれ、寛永の初めころここに移って今柳町と称した。」辻󠄀標に記されている「田善銅壺屋」は今も「タゼン」として柳町にありました。「タゼンの初代善蔵は、慶長元年、伊達政宗公により御飾職(銅の彫金工)として大阪は田中の在から召し抱えられました。仙台の町づくり、仙臺城築城に際しての功労により柳町(現一番町一丁目)に住まいを賜りました。それ以降当社は〝昔からの銅屋〟としてこの地にて創業を続けております。」(タゼンHP「会社概要」より)かつての柳町は、広い道路(五ッ橋通)で分断され、仙台駅側の柳町には今も商人の町の雰囲気が漂い、一方、広瀬川に近い側を歩くと、学都っぽい静かな雰囲気が漂っていました。横切っている広い道路が五ッ橋通。奥には再び柳町があり、突き当りには広瀬川が流れています。かつての柳町は、概ね赤いラインの範囲。地図上で「片平二丁目」とある一角には東北大学の研究施設が並んでいます。
April 20, 2024
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ロサンゼルスは車社会。だからロサンゼルス国際空港からはレンタカーで移動するのが一番便利、と言われている。だけど、自分がアメリカで車を運転していたのは20年以上も昔のこと。この国の交通ルールにすぐには順応できないことも自覚しているし、道路を逆走しない自信もない。なのでレンタカーは諦めよう、と決めた。かと言って、今回は現地の知り合いに送迎を頼めない。一方でUberのような身元が良くわからない人の車に乗るのも不安。ということで、今回は現地の知人の勧めでカーメル・シャトル・サービス(Karmel Shuttle Service)という会社に、空港から目的地までの往復を頼んでみた。使ってみて感じたメリットは、①空港から乗り場までの移動が不要で、ターミナルを出てすぐに車に乗れたこと。(ターミナルに車を直付けするライセンスを持っているらしい)。②乗り合いではないので、どこにも寄らずに目的地まで運んでくれたこと。③予約時にチップを込みでカード払いしていたので、ドライバーさんとのお金のやり取りが一切なかったこと。④ドライバーさんの身なりも振る舞いもしっかりしていて、到着まで不安を感じずに乗っていられたこと。予約にあたり少し迷ったことは、費用。今回はフリーウェイを1時間以上走る遠い場所が目的地だったこともあり、チップを入れて運賃が片道だいたい300ドル。円安なので日本円で約45,000円。日本の旅行会社で送迎を手配するよりは安いとは思ったが、正直、少し高いかなと思い、迷った。結局、「安全をお金で買おう」と割り切って予約を入れた。次回に向けて対策が必要、と思ったのが、空港に着いてから車に乗るまでのドライバーさんとのやり取り。本来であれは、飛行機の到着と同時に会社からショートメールが届き、そのリンク先に出発準備が整ったことを入力すると、ドライバーさんからショートメールで合流場所が知らされる、という簡単な仕組み。だけど、アメリカ以外のスマホにはこのリンク先が届かないらしい…ということに、LAXに着いてから気がついた。事前のメールに「リンク先が届かない時は、この電話番号にショートメールを送るか、電話を」とあったので、今度はショートメールを送ってみたが、アメリカの電話番号への送り方が良くわからず、送信は失敗した。仕方がないので勇気を出してシャトルの会社に電話をかけて「空港にいるがリンクが届かない」旨を懸命に話したら、「あなたの電話番号はわかっているから、ドライバーから電話します」と言われて終了。しかし、5分くらい待っても電話は鳴らず、「このまま空港に放置されてしまうのでは」と、勝手に不安に陥った。今にして思えば、電話で言われた通りドライバーさんからの電話をおとなしく待っていれば良かったのだけど、この時の僕は目の前の不安に勝てず、空港のインフォメーションデスクのおじさまに状況を伝え助けを求めていたところ、待望の電話がかかってきた。「ターミナルの出口(B6)に車が行く」と告げられ、僕の服装の色を聞かれた。B6と書かれた柱の下に立っていたら、無事、僕を目指して1台の車がやってきた。ドライバーさんと予約名と目的地を確認した後、全身の力が抜けるほどホッとした。十分な語学力があれば何の問題もなかったと思うが、そうではない僕には電話での会話は厳しかった。武勇伝をみやげ話にするために海外に行ったわけではないし、テンパってる僕の姿はかなり傍目に見ても滑稽だったに違いないので、次回はもっと爽やかに送迎の車に乗り込める人になりたい、と思った。
April 13, 2024
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1945年に広島と長崎に投下された原子爆弾を開発した、理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの物語。ユダヤ人への虐殺を続けるナチス・ドイツを倒すために原爆の開発を急いだオッペンハイマー。だけど、実用化に向けた最終段階で、ドイツは降伏。日の目を見ることはなくなった、と思われた原爆はアメリカの政権によって目標が変えられ、未だ敗北を受け入れずに抵抗を続けていた日本の地方都市に落とされた。原爆の投下は、広島と長崎に暮らすたくさんの市民に、余りにも悲惨な事態をもたらした。原爆が完成した時には、仲間と共に喜びに浸っていたオッペンハイマーの心は、原爆が実際に大量殺戮兵器として使われて以降、勝利に酔いしれるアメリカの民衆から離れ、孤立を深め、病んでいった…。…という映画を観ながら、「国家が敗北を認めるきっかけ」について考えていた。この映画を観ても、日本がドイツより早く降伏していれば広島と長崎に原爆が落ちることはなかったのに、と残念に思わずにはいられなかった。自分の知識が正しければ、ドイツが降伏するよりずっと前から日本の敗北は決定的だったのだからなおさら…。だけど、当時の日本は、今のロシアがおそらくそうであるように、「国民は国のためにある」と政権中枢が考えている国家だったから、国民が何万人、何十万人、何百万人殺されようと、戦争の首謀者たちが降伏を考えるきっかけにはならなかったのだろうと思う。もしも「国民のために国がある」と考える人たちだったなら、戦争を辞める理由はいくらでも見つかったに違いないけれど、当時の日本には、一億総玉砕をスローガンに掲げるような軍事政権が居座っていた。アメリカの人たちはおそらく今でも、原爆の投下が戦争の終結を早めた、と思っていて、それは当時の日本を覆っていた狂気に鑑みると、間違いとは言えないと思う。ただそれは、どうしても原爆でなければならなかったのか。たまたまそこにあった原爆を使っただけなのか…。繰り返しになるが、戦争を終わらせる方法は本当に原爆しかなかったのか。このことについては、やはり今の世界の状況も見ながらしっかりと考えなければいけない。今、ストーカーのようにウクライナに復縁を迫るロシアの大統領に、何をどうすれば行動を改めさせることができるのか。攻撃の手を休めると国が消滅すると、強迫観念に支配されているイスラエルの政権に、何をどうすればガザでの争いを終わらせることができるのか。それがわからないからみんな苦しんでいるんだよ、ということなのだけど、やっぱりちゃんと考えなければいけない、とこの映画を観て強く思った。
April 6, 2024
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成田空港を午後5時に出発した飛行機は、日付変更線を越えて、当日の午前10時50分頃、ロサンゼルス国際空港(LAX)に着いた。手荷物を持って、乗客の流れに乗ってしばらく歩いたら、入国審査のエリアに入り、ここで、アメリカ国籍を持つ人たちと、外国人の流れが分かれた。ターミナルB(トム・ブラッドリー国際ターミナル)にはアメリカ以外の航空会社が発着しているので、外国人の乗客が圧倒的に多く、外国人用窓口の列は長かった。ちなみに空港のスタッフが「Visa! ESTA!」と大きな声で繰り返しながら、僕たち外国人を「Non US Citizen」の列に誘導していたので、間違って進むことはなかった。長い審査待ちの列に立っていると「ロサンゼルスへようこそ!入国管理エリアは撮影禁止なので気をつけてね!」という趣旨のアナウンスが何度も流れた。列の長さを写真に残しておきたいな、と幾度か思ったけど、見つかって入国できなくなったら大変なので我慢した。おそらく1時間くらいゆるゆると列が進んだ後、ようやく列の先頭までたどり着き、審査の窓口に呼ばれた。審査に必要な書類はパスポートだけ。ただ、事前にネットで調べたら、外国人の入国管理が近年厳しくなっている、との記載もあったので、①事前に申請していたESTAのコピー、②滞在先の住所、③帰りの飛行機のeチケットのコピーをパスポートと一緒に持って係員の前に立った。(結局使わなかったけど…)係員にパスポートを渡した後、顔写真を撮影。次に両手の指紋を機械で確認。どちらも指示される通りにやれば良く、ここまでは何もしゃべる必要はなかった。(ちなみにここで撮った写真が出国時の顔認証で使われたと思う。帰国便への搭乗が"顔パス"だったのでびっくりした。)その後、係員から4つの質問があった。①どこに行くの?②そこで何をするの?③何日いるの?④帰りのチケットは持ってる?どれも想定内だったので手短に答えたら、「はい、入国していいですよ」と言われ、パスポートが戻された。久しぶりのアメリカだったので前回の記憶があまりないけど、今回はとてもシンプルに終わったように思う。ESTAが導入されたおかげかもしれない、と思いながら預入手荷物を受け取る場所を通り、外に向かった。入国審査のエリアが薄暗かったこともあり、一瞬眼の前が真っ白になるくらい南カリフォルニアの景色は眩しかった。
March 30, 2024
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皇居の大手門のすぐ近くに建つ大手町パークビルディング(千代田区大手町1丁目1-1)脇の舗道に「旧内務省跡」と書かれた千代田区の案内板があリました。内務省とは、ざっくり言って、今の総務省だと思います。江戸時代には譜代大名、播磨姫路藩主 酒井家の屋敷があったこの場所に、明治6年(1873)から昭和8年(1933)まで内務省が置かれていたとのこと。大手町のすぐ隣、丸の内一帯が三菱社に払い下げられたのが明治23年(1890)。それ以前の丸の内は、陸軍が所有する事実上の荒地だったそうなので、三菱社が丸の内の開発に着手するまでの約20年間、内務省の人たちは広大な荒地を横目に仕事をしていたものと思われます。案内板の地図を見ると、まだまだ空き地が目立つ中にも、洋風の建物が建ち始めた明治30年代の丸の内の様子が描かれていました。(赤い丸が旧内務省跡)〔明治30年代の大手町周辺「東京一目新図」武部瀧三郎、1897年、千代田区教育委員会蔵〕(部分)今はビジネス街として一体感のある丸の内と大手町。当時は堀を挟んで大手町が官庁街、丸の内は空き地。それが官庁街と洋風のオフィス街の対比に変わったのはもう少し後。全体がビジネス街に変わったのは更にずっと後のことのようです。
March 23, 2024
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柳町通(やなぎまちどおり)「柳町通」というかつての町名は、今、仙台市青葉区一番町一丁目、中央一・四丁目の各一部(昭和45年2月1日住居表示)、宮城野区榴岡一丁目の一部(昭和63年7月4日住居表示)になっています。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕仙台藩の由緒ある商人の町だった「柳町」に向かう通りだから「柳町通」。仙台駅の西側にある柳町の東端を起点に、仙台駅の反対側(東側)まで続く長い町だったようです。「東七番丁/柳町通」と書かれた辻󠄀標は、柳町から東に歩いて、JR仙台駅の建物とか線路を越えた先、仙台駅東口のヨドバシカメラ東南角に建っていました。(辻󠄀標52番。昭和61年設置。設置場所:仙台鉄道郵便局前)※「仙台鉄道郵便局」は今のヨドバシカメラの場所にあったのだろうと思います。「辻󠄀標のしおり」では「柳町通」を次の通り解説しています。「柳町に通ずる通りで、藩政時代初期は柳町東端からここまでで、寛文期までに東の孝勝寺前へ延び、孝勝寺通とも別称した。明治二十年の鉄道開通で東五、七番丁間がほぼ失われて東西に分断、西部は宮城学院や東北学院、病院、官庁などがつくられ、東部は昭和四十八年以降の再開発で商業地区となった。」※「ここ」とは、辻󠄀標の場所(ヨドバシカメラ南東角)。※「東北学院」の跡地には今、ウエスティンホテルが建っています。※「宮城学院」の跡地には仙台国際ホテルが建っています。もう一つ、仙台市のウェブサイトには柳町通についてのこんな説明も。「柳町大日堂前から、六道の辻󠄀を過ぎ、八塚孝勝寺下馬先まで通っていた通を称す。別に孝勝寺通とも呼ばれた。」(仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」より)ちなみに、孝勝寺まで歩いて、山門をくぐってから振り返ると、柳町通がヨドバシカメラに突き当たって、そこで終わっているように見えました。近づいてみると、交差点で道筋が折れていました。これが通りがここで終わっているように見えた理由。仙台城を起点とする町割りと、若林城を起点とする町割りの角度が一致していないことが、この角度の原因のようです。交差点から先(仙台駅方向)が仙台城下の町割り、手前(孝勝寺方面)が若林城下の町割りになっています。地図で見ると、柳町通はだいたい赤いラインの範囲。明治20年の鉄道開通によって、通りが分断されたことがこの地図から良くわかる…。ということは、戦後の区画整理は藩政時代の町割りをある程度残しているのだと思います。
March 16, 2024
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東京駅と皇居の間に位置するオフィス街、丸の内。今も昔も大企業だらけのビジネス街ですけど、今のような雰囲気になったのは、明治維新からしばらく経った、大正時代以降のことだそうです。そのきっかけは、資金捻出に苦心していた政府に協力するため、明治23年に三菱社が一帯の土地を高値で買い取り、荒れ地の開発に着手したこと。大正3年に東京駅ができ、第一次世界大戦の好景気を追い風に、日本を代表するオフィス街へと成長した、という経過らしいです。千代田区町名由来板「丸の内」には次のような解説がありました。「江戸時代のこの界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いをもった名で、大名屋敷が立ち並んでいました。 明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周囲は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。(中略) この丸の内一帯が大きく変貌を遂げたのは明治二十三年(1890)、陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以降、三菱は大規模な開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。(中略)さらに大正三年(1914)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。(後略)」それでは、なぜ陸軍は三菱社にこの土地を払い下げたのか。。。三菱グループのHPでは次のように説明しています。「(岩崎)久彌が米国留学を終えて三菱社の副社長になる前年、彌之助は丸の内の兵営跡地など10万余坪を陸軍省から購入した。1890(明治23)年のことである。この土地払い下げは、財源に苦しむ政府が、麻布に新兵舎を建設するための費用を捻出しようとしたもので、政府の希望価格は相場の数倍だった。当然買い手がつかない。困り果てた松方正義蔵相が自ら彌之助を訪ねてきて、政府を救うと思って買い取るよう懇請した。国家に尽くすことは三菱の社是である。彌之助は苦慮した末に、高値購入を決断した。契約名義は「岩崎久彌総理代人岩崎彌之助」。(後に商法が整備されてから三菱合資会社が買い取った)。代金は128万円。当時の東京市の予算の3倍というから大変な買い物だった。(中略)東海道線はまだ新橋まで、中央線は御茶ノ水までで、丸の内はまことに不便な地域だった。唯一、日比谷・大手町間に路面電車が走っていた。(中略)東京駅が完成し丸の内が交通の要所になったのは、ずっと後の大正3年である。(中略)ロンドンを彷彿とさせる街並みはやがて「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」と呼ばれるようになった。(中略)煉瓦造りではない現在のようなアメリカ型のビルは、大正7年の東京海上ビルが嚆矢(こうし)である。丸ビルは同12年だった。(後略)」「丸の内」は、そこにオフィスを構える企業にとっても、そこで働く人たちにとっても、おそらく大きなステータス。長年にわたって万人にそう思わせる圧倒的なビジネス街の基礎を築いた岩崎家の財力と、その姿を常に新しく維持し続けている三菱地所の想像力と創造力に、改めて感服しました。
March 9, 2024
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2年前、「52ヘルツのクジラたち」を本で読んだ時の感動を、僕はこんな感じで書いていた。本の感想(2021年5月に書いたもの)はコチラ今日は映画を観てきた。他人の心の痛みがわかる人は、自分も傷ついた(傷つけられた)過去を持つ人。100パーセントそうではないかもしれないけど、同じ傷を持つ人にしかわからないこと、同じ傷を持つ人だけが気づけることは、間違いなくあると思う。52ヘルツの音で鳴くクジラがいて、そのクジラの鳴き声は、周波数が高すぎてほかのクジラには聞こえない。どんなに叫んでも、大半のクジラたちにその声は届かない。でも、同じ周波数で鳴くクジラにだけはその声が届く。見方によっては、肩を寄せて傷を舐め合っている52ヘルツのクジラたち。連勝街道まっしぐらの人ならば、情けない奴ら、とあざ笑いながら、あるいは見向きもせずに通り過ぎるに違いない。だけど、一生負けなしで連勝街道まっしぐらの人は、きっといない。そして、いわゆる普通でノーマルな人にだって、誰にも理解されなくて苦しんでいたり、理解してもらうことを諦めていたりする部分はきっとある。そんなことを考えながらスクリーンを見つめていた。良い映画でした。観て良かった。杉咲花さん、志尊淳さん、桑名桃李くん、そのほかの皆さんも、みんな素晴らしい演技で、しみじみと感動しました。
March 3, 2024
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弓ノ町(ゆみのまち)仙台の中心部から江戸方面に向かうこのあたりは、仙台空襲(昭和20年)の被害を逃れ、道筋も、町の形も、昔のまま残っています。戦後、全国的に行われた住居表示も、この町では行われていないので、今も「仙台市若林区弓ノ町」として、地番が住所として使われています。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕この道の両側が弓ノ町。懐かしい店構えの八百屋さんもあって、突き当りには泰心院の山門が見えました。泰心院と弓ノ町の間には奥州街道が横切っています。弓職人の町だったから「弓ノ町」なのかな…と思ったら、違いました。「寛永10年(1633)頃までに割り出され、弓足軽組の屋敷があった。慶長10年(1605)創建された大安寺には、弓足軽たちの信仰を集めた御弓八幡大菩薩の碑が残っている」〔仙台市HP「町名に見る城下町」より〕弓を使う足軽が住んでいた町だから弓ノ町、なのだそうです。仙台の城下町では、武家の町を「丁」、町人の町を「町」としていると聞いていたので、おやっ?と思ったけど、足軽の町にも「町」が使われていたようです。〔参考:仙台市文化財パンフレット第23集(1990年)「辻󠄀標のしおり」〕勉強になりました。大安寺は、小さな弓ノ町の中にあって、かなり大きなお寺でした。(しかし、御弓八幡大菩薩は見つけられず…)弓ノ町の通りの突き当りに見える泰心院の山門。泰心院は、隣町(南鍛冶町)に建つお寺だし、寺と弓ノ町の間には奥州街道が横切ってるし、そういう意味では縁は薄いのかもしれないけど、この見え方には門前町の雰囲気もあって、もしかすると、大安寺と泰心院のどちらにも、弓ノ町は御縁を持っていたのではないか、と感じる風景でした。
March 2, 2024
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澱町(よどみまち)広瀬川に架かる澱橋の向こう側が、かつての澱町。澱橋が架かる町なので、「澱町」と呼ばれたようです。かつての澱町は今、仙台市青葉区角五郎一丁目(昭和42年11月1日住居表示)と、広瀬町(昭和45年2月1日住居表示)という町の、それぞれ一部になっています。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕澱橋を渡った先の左側が角五郎一丁目、右側が広瀬町。全国的に住居表示がほぼ街区方式で行われたので、ここでも道路を境に町名が分かれています。角五郎一丁目側には、澱橋の下に回り込むように、交通量の割にかなり広いT字路がありました。この道について、こんな趣旨の記載を見つけました。"広いT字路交差点。旧澱橋があった頃は橋とつながる十字路だった。昔の澱橋は明治22年の洪水で流失。川内の軍関係施設と市街地を結ぶ強固な橋を築造することになり、明治25年、鉄橋(旧澱橋)に架け替えられ、この交差点も幅広に。昭和36年にやや東側に架け替えが行われ(今の澱橋)、やがて鉄橋は姿を消し、十字路はT字路に変わった。"〔せんだい市史通信第28号(仙台市博物館市史編さん室・平成24年7月31日発行)より〕なるほど…T字路のガードレール(写真の右端)の先に鉄橋(旧澱橋)があって、元々は広い十字路だったのですね。明治25年から昭和36年まで使われた旧澱橋の跡は、今もこのT字路の先、澱橋の隣に残っています。(対岸にも同じような痕跡があります。この画像では見えにくいですけど…)広瀬川沿いの旧澱町。正面奥で澱橋をくぐっています。旧澱町の通り沿いに建つ「澱不動尊」澱町はだいたいこの赤いラインの範囲だと思います。先ほどのT字路には「中島丁/角五郎丁」の辻󠄀標が建っていたので、角五郎一丁目側の澱町は橋の西側のほんのわずか。このT字路までだったのだろうと思います。
February 17, 2024
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良覚院丁(りょうがくいんちょう)かつて良覚院というお寺があったから「良覚院丁」。今は仙台市青葉区一番町二丁目、大町一・二丁目、片平一丁目の一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕この公園は良覚院の庭園を残すために作られたそうです。公園の東隣は「緑水庵」という茶室。ここにも良覚院の庭園が残されています。公園から少し離れた青葉通の晩翠草堂前には「良覚院丁/元荒町」と記された辻󠄀標が建っていました。(辻󠄀標19番。昭和54年設置)良覚院丁は広い町だったようです。辻󠄀標の資料には、良覚院丁について次のように書いてあります。「本山修験東北一の大先達良覚院の北と西をT字に囲む通りであった。良覚院は政宗以来仙台以北を霞としたが、明治初年修験宗は禁止され実業家佐助が保存して市に寄附した庭園(良覚院丁公園)に名残をとどめている。北側の通りは青葉通に吸収された。」※「霞とした」とは、仏教の修験道で、山伏たちの支配地域のことのようです。そして、公園の説明板にはこのように書いてありました。「良覚院丁は、昔、京都の聖護院の末寺で良覚院という修験の寺があったことに始まる。良覚院の始祖、日林は修験者であって、伊達家の祖、朝宗(正治元年、1199年没)に従って常陸国中村(茨城県)から伊達郡(福島県)に移り、以来、世々伊達家に仕え祈祷の事をつかさどってきた。その後、政宗が岩出山から仙台に居を移した慶長7年(1602年)一緒に従ってきた良覚院の修験者がこの地を賜ったのである。この修験寺は、藩政時代藩内の修験の元締めとして、政治や軍事、事業あるいは日常の吉凶運勢について祈祷をした場所であり、代々伊達家の信頼が厚く一門格の待遇を与えられ、領内山伏の総触れ(連絡や伝達を図る役)として当時は威勢をふるっていたという。明治5年修験道の廃止で廃業」「仙台市の復興事業により、この由緒ある庭園が南北に分断される形で区画街路が計画されたが、地主と市民の間から名園であるので残して欲しい旨の申し入れがあり、計画が変更され公園として残されることになった」伊達家の信頼が厚かったと…。なるほど。良覚院が仙台城にかなり近い場所に置かれた理由がわかったような気がします。そして、地図を見ると「五ッ橋通」が良覚院丁公園を避けるように、ちょっと不自然に曲がっている。これがおそらく、戦災復興事業の時の保存活動の成果なのでしょう。山伏のお寺がここに…勉強になりました。
February 11, 2024
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地下鉄南北線五橋駅から仙台一高や薬師堂に向かって東に延びるこの通りが、かつての連坊小路(れんぼうこうじ)。通りの左側(南側)は戦災を免れたのでしょうか、住所は今も「連坊小路○番地」となっていて、住居表示は行われていません。とはいえ、通り沿いの多くでは昭和50年代に住居表示が行われ、今は仙台市若林区五橋三丁目、新寺三・四丁目、連坊一・二丁目、二軒茶屋(以上昭和57年7月5日住居表示)、木ノ下一丁目(昭和50年5月1日住居表示)という住所になっています。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕地下鉄連坊駅と仙台一高の近くに「連坊小路/長泉寺横丁」と書かれた辻󠄀標もありました。(辻󠄀標35番。昭和58年設置。設置場所:かつてのモリヤ洋菓子店前)今の住所は連坊二丁目、ですね。辻󠄀標の資料には、連坊小路についてこんな記載が…「陸奥国分寺二十四坊のあった木ノ下に通ずるため、この名を持つ。開府の後、足軽町とされ、背後に寺院が置かれた。明治二十年、鉄道が町を横切り、その後、一高・二女高が建った。表通りの商店街も戦災を逃れて活気を増し、近年は道路拡幅が進められて、次第に様相を変えつつある。」〔仙台市文化財パンフレット第23集(1990年)より〕確かに、鉄道(JR東北本線と東北新幹線)が東西に延びる通りを南北に横切っていました。東北本線を跨ぎ、新幹線を潜っているのは「連坊小路跨線橋」そして、仙台市のウェブサイト「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」には連坊小路についてこんな記載が…「東七番丁角から木ノ下薬師堂方面に下る道及び道沿いの町を指す。陸奥国分寺隆盛の頃、門前からこの小路に沿って塔頭24坊が連なっていたことによるという…(中略)。仙台八小路のひとつ。寛永年間に割り出され、足軽や小人が配置されていた。」同じく仙台市のウェブサイト「町名に見る城下町」にはこんな記載が…「(前略)連坊小路から六十人町にかけて住んだ足軽たちは禄(ろく、藩から支給される手当て)が少なく貧しかったため、自宅の庭で野菜をつくり、河原町の青物市場で売りさばいたりした。(中略)内職のためここでつくられる筆は特産品で、町内のほとんどの家が筆づくりをしていたらしい。明治時代には玉光軒という大きな筆問屋が連坊小路と長泉寺横丁角にあり、奈良から職人を講師として迎え、筆づくりの学校を開いていた。今も三百人町などに残る筆屋はここの出身者が始めたという。明治時代以降は連坊小路小学校や第一中学(いまの仙台一高)、東華中学校(宮城二女高を経て現在の仙台二華中・高等学校)ができて文教地区となった。また、東北線が通りを横断したため、町が陸橋で東西にわかれ、五橋寄りの西部を上連坊、東部を下連坊と呼んだ。現在は道路が拡張され車の往来が激しい通りになっている。」比較的新しい案内板にも「連坊小路」の表示があって、学校の名前にも「連坊小路」の名前が使われてました。
February 3, 2024
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六軒丁(ろくけんちょう)今は仙台市青葉区錦町二丁目の一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕かつての六軒丁あたり。「錦町二丁目3」と書かれた住居表示板が通り沿いにありました。六軒丁について「仙台地名考」(菊地勝之助・著 宝文社 1971年)には次の記載があります。「延宝六・八年(一六七八-八〇)製作の絵図では、真中に横丁が通り、幾軒かの小屋敷に割られている。この地を六軒丁といったようである。(中略)現在六軒丁と呼んでいる通りは、北一番丁の南裏、二本杉通の南端、空堀丁の北端から新小路に通じている横丁である。寛文八・九年(一六六八-六九)の絵図によれば、既にこの頃大小数軒の侍屋敷に割られている。(中略)北六軒丁と称している。」六軒丁には幾軒かのお屋敷があったとのこと。察するに、幾軒とは六軒だったのでしょうか。そうすると一軒一軒がかなり大きなお屋敷だったように思います。今も広い区画に大きめの住宅が並んでいるように感じました。JR仙台駅から徒歩圏内なのに、とても閑静な住宅地でした。
January 27, 2024
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六十人町(ろくじゅうにんまち。仙台市若林区)第二次世界大戦中、六十人町周辺は仙台空襲の被害にあわなかったので、藩政時代からの道筋が変わることなく残っています。そして、戦後、全国的に実施された住居表示もここでは行われず、今もこの道筋の両側の町名は、藩政時代のまま「六十人町」になっています。六十人町の通り沿いに城取神社という小さな神社がありました。神社には、おそらく地元の町内会の方々が置いてくれた、六十人町の解説がありました。「六十人町由来」五十人町から百米南に六十人町がある。畳屋町の東端から東に延びている通りである。足軽が六十人居る故に名付けられた。世臣録によれば総数六十人内十九石二十四石各一人他は十六石宛とある。旧東街道から東へ約八十米のところに城取神社がある。城下と旧南小泉村境に祀ったもので寛永三年(一六二六)町割りの綱張りの縄を埋めたので城取明神と称したといわれる。この足軽たちは微禄な生活を補うため野菜類を耕作して河原町にあった市場に売りに出た。身分は士分であったので腰には一刀を差し編笠で面部を押し隠して天秤棒を担いで野菜を運んだという。これら足軽を檀方といい足軽町は檀方町と読んだという。〈郷土史研究家 三原良吉先生講演抜粋〉斎藤悌二 記そして仙台市のウェブサイトには六十人町についてこんな記載があります。畳屋丁※から東に延びる五十人町南側の町。正保年間の地図(1645-1646)では「中間(ちゅうげん。武士の下働きをする者)屋敷」となっているが、その後は足軽が住むようになり、幕末には足軽が町の名のとおり60人住んでいた。町の鎮守として城取神社が祀られている。(仙台市HP 町名に見る城下町)※畳屋丁は「地番入仙台市全図大正15年度最新版」には畳屋町と記載されています。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)〕
January 27, 2024
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北海道江別市にあるJR大麻駅。大麻はタイマ、ではなくてオオアサと読みます。大麻は札幌のベッドタウンとして発展した住宅地。僕の叔父さん一家は、もともと真駒内の近くの社宅に住んでいたけど、大麻に自分の家を建てた。もう40年くらいになるだろうか。いつもは従姉弟が駅まで車で迎えに来てくれるけど、今回はテクテクと歩いてみた。雪道だったせいか、歩くには少し遠いかな…、と思った。この日は風雪が強くて、ちょっと大変だった。年々、バスの本数も減ってきて、札幌まで出るのも大変になってきた、と従姉弟達は言っていた。まち全体で高齢化も進んでいるとのこと。郊外の住宅地は今、どこも似たような感じだよね。全国的に。大麻は、たしか大泉洋さんが育った街でもある。大泉さんが紅白で歌った塔が建っていた野幌森林公園もほど近い。札幌方面に向かうホームに立って、昔のことやらあれやこれやをぼんやりと考えていた。
January 20, 2024
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大泉洋リサイタル…???半信半疑のまま会場に向かい、その混雑ぶりに驚き、結果、思い切り楽しんで帰ってきました。大泉洋リサイタル。リサイタル当日から遡ること3ヶ月くらい。大泉洋さんの「歌」に9,000円というのは、コスパとしてどうなんだろうか、という微かな迷いを振り払ってチケット購入の抽選に申し込んだら幸運にも当選。3階席の片隅でしっかりと鑑賞してきました。驚いたのは客層。割としっかりした年齢層の女性の皆さんがおそらく観客席の8割方を占めていた。皆さんとにかく大泉洋さんのあらゆることに詳しくて、ステージ上の大泉さんがだんだんペ・ヨンジュンに見えてきた。セットリストも観客層に合わせたのでしょう、綾小路きみまろ的な雰囲気と純烈的な雰囲気もちょいちょい織り交ぜながら、大泉洋ワールドに会場全体をどんどん惹き込んでいった。感想としては、コスパはバッチリ。いろんな大泉洋さんを2時間余り堪能してきた。もちろん山ほど笑った。来週の紅白歌合戦で歌う「あの空に立つ塔のように」も披露してくれた。野幌の百年記念塔が、素敵な歌になっていた。先月、僕が江別のおじさんの家に行った時も、百年記念塔の話題になった。おじさんが元気だった頃、おじさんが勤める会社が建てたこの塔に連れて行って貰って自慢話を聞かされたことは今でも良い思い出。百年記念塔は老朽化で取り壊されてしまったけど(できることなら壊す代わりに新しい塔を建てて欲しかった。北海道の歴史だもの…)、大泉洋さんがこんなにいい歌に残してくれたんだから良かったよね、と思いながら聴いていた。紅白も楽しみにしています。
December 23, 2023
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会場は、福島県の浜通りにある、南相馬市民文化会館 ゆめはっと。南相馬市、と聞いてもピンとこなかったけど、きっとかつての原町市。その原町市の中心部にゆめはっとは建っていた。この会場で辻井伸行さんのピアノを堪能した。8月に「辻井伸行✕三浦文彰 ARKシンフォニエッタTOUR 2023」を山形で聴いて、一生の思い出ができた!と心の底から感動していたのに、こんなに早く再び辻󠄀井さんの演奏が生で聴けるとは…一生の思い出✕2!本当に嬉しかった。バッハのフランス組曲ショパンの即興曲ラフマニノフのヴォカリーズラフマニノフの楽興の時そして、アンコールはバッハ。そしてさらに。。。開演前、満席の客席を眺めながらチケット購入権に当たった幸運を噛み締めていた。演奏が始まってからは、僕は今この時を楽しむために生きている、と言い聞かせながらとにかく辻󠄀井さんの演奏に集中した。正直に言うと、客席入口前のホワイエで、タワーレコード郡山店さんが辻󠄀井さんのCDを販売していて、それを例のタワーレコードの黄色い袋に入れて手渡していたものだから、演奏中客席のアチコチから袋のチリチリ音が聞こえてきて、初めのうち心が少し乱れたけれど、目の前で辻井伸行さんが素晴らしい演奏をしているこの貴重なひと時、余計なことに気を取られるのは絶対にやめようと思った。辻井さんのピアノは今回も素晴らしかった。コロコロコロッと軽やかに転がり続けるような独特の音色とか、ピアノは打楽器だ!という力強さとか、心に染み渡るような優しさとか美しさとか、響きの振り幅の広さに圧倒された。目をつぶるとステージ全体から音楽が降り掛かってくるように思えた。それは素晴らしい感覚だったけど、辻井さんの姿をやっぱりしっかり見たいとも思い、両方を繰り返しながら音色を楽しみ続けた。アンコールは、辻井さんの優しさが溢れる時間だった。会場全体、観客の一人ひとりが辻井さんの温かい心に包みこまれ、そして素晴らしい演奏に再び熱狂していた。外に出たら低気圧接近ですごく寒かったけど、あったかくて心地よい気分に満たされながら家路についた。辻井伸行さん、そしてコンサート関係者の皆さん、ありがとうございました。
December 18, 2023
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11月の週末、新さっぽろ駅から北海道中央バスに乗って江別に住む親戚の家に行った。前日から猛烈に雪が降り始めて、この日は朝から強風&時折暴風雪。内地(本州)に暮らしている僕は、当然のように「雪が降れば交通機関は乱れる」と思う。なので、予定のバスを一本早めた。なのに、バスはチェーンを装着しながらも、路面に雪がないかのようなスピードで普通に走った。周りの車も特段速度を落とすこともなくビュンビュン走っていた。結果、目的の江別市内のバス停には予定よりずっと早く着いてしまった。北海道のドライバーは雪道の運転に慣れているのですね、と改めて実感。僕にはムリ。もしこんな雪道を運転したら間違いなく渋滞の原因になってしまう。寒風吹き荒ぶバス停に降り立って、寒さを避けて時間を潰せるような場所もなかったので、30分以上前に玄関のベルを鳴らした。おじさん、おばさん、暖かい家に迎え入れてくれてありがとうございました。楽しい1日でした。
December 10, 2023
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急性心筋梗塞で入院してから満5年。毎年一回、検査のために通っていた病院の先生から、「今回も特段の問題はないので経過観察は今年で終わります。かかりつけ医にはこれからも続けて通ってくださいね。」と言ってもらえた。5年前の日曜日の朝に救急車を受け入れてくれて、すぐに緊急手術をしてくれて、そのあと2週間入院治療をしてくれて、退院後も毎年経過観察をしてくれた病院から、いよいよ卒業。お世話になりました。この病棟も移転新築のためもうすぐお役目を終えるそうです。本当にお世話になりました。街の真ん中で倒れた私のために足を止めて声をかけてくださったお二人連れ。お二人からの通報に応じて救急車を呼んでくださった地下鉄駅員の皆様、改めて心から感謝申し上げます。おかげさまで心臓の損傷は小さくて済み、無事に生きております。
November 12, 2023
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2023年10月8日に谷村新司さんがお亡くなりになった、と報道で知った。家に帰ってクローゼットから谷村さんのLPレコード(ソロアルバム)を3枚出して並べてみた。「黒い鷲」、「喝采」、「海を渡る蝶」レコードの時代はアルバムのジャケットを眺めているだけでも楽しかったな、と思った。黒い鷲の中では「シェナンドー河に捧ぐ」を良く聴いていたな、とも思った。喝采は…「ラスト・ソング〜思い出のライト〜」、海を渡る蝶は確か…「群青」が当時は一番好きだった。そんなことも思い出した。高校時代、アリスのコンサートで終演後の出待ちをして、谷村さんに握手をしてもらったことがあった。とても柔らかい手でびっくりした。大学生の頃には谷村さんのソロコンサートのアルバイトをした。開場前に警備や受付の準備をしている間中、念入りに、それはそれは念入りにリハーサルを繰り返す谷村さんの声が観客席の扉の外までビンビン響き渡っていた。ものすごい声量だった。若い頃の僕は、社会をぶっ壊すとか、反抗とか反逆とか、そんなことを煽る音楽にはどうにも興味が持てなくて、谷村さんの歌と声は心地良く響いた。あまりにも早すぎるお別れ。少し呆然として、時間を追うごとに谷村新司さんロスが心のなかで広がってきている。長い間、心に響く音楽と楽しいトークをありがとうございました。本当にありがとうございました。
October 16, 2023
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(谷中銀座「夕やけだんだん」)散歩が好きで、特に都内の散歩が好きで、朝から夕方まで歩き回っていることもある。ウォーキングではなく、散歩なのだけど、情けないことに午後に入ると足取りはやや重くなり、最後にはヘトヘトになっる。今日の散歩はここで終わり!と決めて、帰り始める時、僕はかなりの確率でペットボトルの甘いカフェオレを買う。今回、日暮里とか千駄木とか、その界隈を歩き回った後にコンビニに入って選んだのはGEORGIAコーヒーの「The Latte」(あ、ラテだ。ラテ…オレ…???)猿田彦珈琲監修の文字が目に入って初めて買ってみた。飲み始めると珈琲の美味しさと程よい甘さが体中に染み渡って、疲労感が流れ出ていく気がした。おそらく、歩くことで消費したカロリーは、このコーヒー飲料を飲むことでリセットされているのだろうけど、身体が甘いカフェオレを求めているのだからしょうがない、と思っている。バナナマン日村さんのウォーキング番組では、最後のご褒美はもっぱら立ち食い蕎麦で、SKECHERSを履いたひむ太郎はとても美味しそうにお蕎麦を食べている。時々咳き込みながら…(笑)僕もSKECHERSを履いているけど、僕のはぶらぶら散歩。そして締めは甘いカフェオレ。幸せを感じます。
October 14, 2023
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青山霊園に初めて行った。北海道に住む親戚のおじさんが、かなり以前から青山霊園にあるお墓のことを懐かしげに話していてくれていた。わりと繰り返しその話を聞かされてはいたのだけど、広い青山霊園のこと、自分が行って見つけられる気もしなかったので、ずっと行かなかった。だけど、おじさんもかなり高齢になり、自分もそれなりの年齢になり、そろそろ行っておこうと思った。乃木坂駅を降りて、墓地に入り、外人墓地の辺りをトコトコと歩いていたら、思っていたよりずっと簡単にご先祖様のお墓に行き着いた。区割りを示す標柱が細かくしっかり立っているのでとても探しやすかった。きっと僕の知らない遠い親戚さんだろう。お墓はしっかりと手入れされていて、お花も供えてあった。「はじめまして」とお参りして、写真も撮った。北海道のおじさんに報告しようと思う。
October 4, 2023
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山田洋次監督の松竹映画「こんにちは、母さん」。舞台は隅田川にほど近い墨田区あたり。そして東京駅にほど近い大手町あたり。どちらも僕の大好きな場所。とりわけ隅田川沿いの風景は、映像を観ているだけで十分に心が癒やされた。吉永小百合さんは、この映画でもとても美しくて、それでいて老いをしっかり演じていて、上手だなぁ…と、いつものことながらそう思った。誰かに似てるよね…とも思いながら観ていて、和服姿のシーンの時に「広瀬すずさんだ!」と思い当たった。違う、逆だ。広瀬すずさんが吉永小百合さんに似てるかも、そう思った。二人は世代が相当違うから異論続出かもしれないけど、僕にはかなり似ているように見えた。そしてどちらもとても美しい。大泉洋さんは大手企業の部長さん。エリート意識が滲み出る聞き捨てならないセリフをこの部長さんはしばしば発する。当然周囲のひんしゅくを買いながらも、大泉さんから出てくる言葉はなぜか可笑しい。そうは言っても、組織に生きるサラリーマンの虚しさ、くだらなさ、やるせなさ、無力さはちゃんと描き出されていて、自分の来し方を否定されたくないベテランサラリーマンたちには、観ていて苦しいものがあるかもしれない。そして永野芽郁さん。可愛らしくも丁寧な演技でこの映画のキーパーソン的な役割をおそらく期待以上に果たしてくれていた。サッカーに例えれば自在にパス出しをするポジション。ボランチと言うのかな?みたいな大事なお役目をしっかりと演じていた。ふぅ~。ネタバレを恐れるとこんな感想文になってしまう。とにかく、あったかくて、面白い映画でした。
September 3, 2023
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真夏の午前中、是枝裕和監督の作品を観た。「怪物 だーれだ」上映時間はおよそ2時間。お昼頃、上映が終わって映画館を出たら外はカンカン照りだった。暗さに慣れた僕の瞳孔は絞りの調節がまったく追いつかず、目の前は真っ白になった。映画の中は豪雨だったのに…と目を細めながら僕は呟いた。それから、豪雨の中であの子たちは大丈夫だったのかな…と思った。あの子たち、つまり柊木陽太くんと黒川想矢くんは本当に心に残る演技をしていた。かわいくて、かわいそうで、だけど、身体全部でこう言っているように僕には思えた。みんなに好かれたいと思うのはもうやめようね。まわりの目を気にするのはもうやめようね。そうすれば、楽しいよ。そうだよね、そうだよね、と心のなかで泣きながら、僕はあの子たちを見つめていた。自分を顧みて恥ずかしくなって、嫌になって、それでいて珍しく自分が愛おしくもなったりして、とても切ない映画だった。映像も美しかった。また観たいと思わせてくれる素晴らしい作品だった。
August 16, 2023
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(とある日の立川グリーンスプリングスにて)軽井沢72ゴルフトーナメントで菅沼菜々プロが見事に初優勝。東京の立川に別宅(子供のアパート…笑)があった時、立川を拠点に頑張っている菅沼プロを知り、以降わが子を見守るように菅沼さんを応援している。プロゴルフの試合なら残り2ホールの2打差は勝ちも同然、そんな気持ちで普段は見ているのだけど、これが(勝手に)わが子だと思うと、「大きく曲げちゃうんじゃないか」とか、「ガツンと打ちすぎるんじゃないか」とか、2打差なんて髪の毛一本くらいの差としか思えなくなって心拍があがる。しかも、今回は金曜日が祝日だったので、土曜日の2日目のラウンドを最終日と勘違いしながら観戦。結果、日曜日のプレーオフが終わるまで2日間ずっとドキドキしっぱなし。優勝が決まった時はもうヘトヘト。大変でした。見ているだけでこれだから、最終日に1日中リードを守り続ける菅沼プロ本人のプレッシャーは想像もできない。しかもこれまで何度もあと一歩及ばなかった念願の初優勝。お疲れ様でした。そして本当におめでとうございました。激闘の舞台、軽井沢のゴルフ場で僕は楽しくゴルフがしたい、と相変わらず夢を見続けている。いつかきっと…
August 16, 2023
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JR山形駅のすぐ目の前に真新しいコンサートホール「やまぎん県民ホール」があった。念願の辻井伸行さんの生演奏。ローチケで情報を見つけた時、山形にある音楽ホールとは、どんなだっけ…?とあまりピンと来なかったけど、ホールの外観を見た瞬間、疑問は消えた。そしてホールの中に入って更に納得した。音響もウッディな雰囲気も、そして客席のシートに使われている和服の反物を思わせる素材までも、なんとも素晴らしかった。ずっと辻󠄀井さんのピアノの音が聴きたくて、だけどコロナ禍前に抽選で買えた辻󠄀井さんのソロリサイタルは、その後の感染拡大であえなく中止になってしまい、ようやく今回、この立派な音楽ホールで、本当にようやく、夢がかなった。演目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。感動した…。辻󠄀井さんの一挙手一投足を見逃すまい。辻󠄀井さんが奏でるピアノの1音1音を聞き逃すまい。こんな機会は二度とないくらいの気持ちで思い切り集中した。そしてアンコールに応えてくれた演奏は、ラ・カンパネラ。あ、ユーチューブで何度も聴いていた楽曲だ。と一瞬思って、その後はひたすら感動していた。短い休憩を挟んで2時間余りの演奏会は大満足の時間だった。開演前の三浦文彰さんと辻井伸行さんのトークによれば、山形には3日前に入り、この会場で新作CDの録音をしていたとのこと。やまぎん県民ホールはそれだけ優れた音楽ホール、ということなのだろう。その存在すら知らなかった自分がちょっと恥ずかしい…。恥を忍んでもう一つ言えば、ARKシンフォニエッタのことも僕は何も知らなかった。今回初めて聴いて、素人ながら彼らの演奏レベルの高さに圧倒された。雑味がない…という言葉が頭をよぎったけど、この表現で言い尽くせているとはまったく思えない。一つひとつの楽器の音が、一人ひとりの奏でる音が、とにかく美しいと思った。開演前のトークでは、辻󠄀井さんとARKシンフォニエッタの演奏は、サントリーホールが本拠地、ともお二人は話していた。今度はサントリーホールで聴いてみたい。そう思いながら会場を後にした期待以上の夜でした。
August 5, 2023
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【公式HPより、あらすじ】芸術の中心地パリ、オペラ座・ガルニエ宮。スシ屋の出前でやってきた青年がエリートレッスン生に見下され仕返しに歌ったオペラの歌真似がプロも驚くまさかの超美声!?彼の名はアントワーヌ。ラップが趣味のその日暮らしのフリーターだ。そんな彼の才能にほれ込んだオペラ教師マリーはバイト先にも押しかけ猛スカウト!次第にオペラに興味を持ちはじめるアントワーヌは、“オペラ座とは住む世界が違う”と思いながらも、内緒でマリーとふたりのオペラ猛レッスンを始めるが――【以下、雑感】平日の昼間、マイナーな作品もたくさん上映している映画館でこの映画を観た。(昔で言うところの「封切り館」ではない映画館。)月に一度の検査通院が思いがけず早く終わり、残りの時間が全部自分のものになって、軽く食事をしたあと映画館へ。幸せな1日…あまりの暑さに家に閉じこもろうかとも思ったけど、それをやってしまうと間違いなく後悔するので地下鉄に乗って街に出た。街なかには普段は出会わないようないろんな人たちがいた。「花火でもするか…」とかファミレスで今夜の時間の使い方を相談してる男子大学生たち。暇で仕方がなさそうだった。こんな日々が自分にもあったかもしれないけど、忘れた…。駅のエスカレーターを上り切ったところで立ち止まり、どっちに行こうか打合せを始めた高齢のご婦人たちもいた。結構危なかったけど、ぎりぎり脇をすり抜けたあと、少し悲しい気持ちになった。もう少し齢を重ねると僕もこうして周りが見えない人になるのだよ、きっと…。ドミノ倒しとか将棋倒しの原因にならないようにくれぐれも気をつけましょう。その他諸々…もっと涼しければ雑踏に佇みながら人間ウォッチングをしてみるのも楽しいかもしれない。映画は、期待どおりシンプルなストーリー展開で楽しかった。そして、寿司の宅配に始まり、多分に日本を意識したと思われる設定は意外だった。日本でのヒットを狙ったのか、そのあたりはわからないけど、その設定にムリヤリ感はなかった。楽しめました。
July 28, 2023
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クアラルンプールの中心部(KLCC)にものすごく大きな国際会議場があった。当日はシンポジウムやセミナーや展示ブースが館内のあちらこちらで開かれていて、最小限の移動だけでも相当な距離を歩いた。広すぎて、施設がどのくらい大きいのか感覚としてつかめなかったくらい大きな会議場だった。正直なところ、どこまでも会議場が続いてるように思えた。たくさん道にも迷ったし。これだけ大きな会議場を一年を通じてイベントで埋めていくのはなかなか大変ではなかろうか、こんな大会議場を地方都市に建てちゃったら大赤字だろうな…と、ふと思ったけど、実際のところどうなのだろう。首都の真ん中のコンベンション施設だから断るのが大変なくらい予約が詰まっていたりするのかもしれない。余計なお世話だったらごめんなさい。そして、ステージ上のパネリストや展示会場の各ブースで説明している人たちはもちろんのこと、あちこちに立つ警備の人たちを含めて、会場内のあらゆる人たちが流暢に英語を話していた。マレーシアってこういう国だったっけ…と呟きながら、なんだか俺たちヤバいと思った。正確な同時通訳装置がタイムラグなしで機能する日が来ない限り、言葉の壁は僕にとっては常に分厚い。会場のざわめきや喧騒に入り込めてるとはとても言えない僕自身が歯痒くて、やっぱりかなりヤバかった。もう少し言えば、会議場だけでなく、クアラルンプールの街を歩いているとどこに行っても皆さん普通に英語を話していたのも僕にはすごく印象的だった。会場で一緒になったマレーシアの男性に「皆さん英語に不自由しないから外国旅行や出張はあまり苦にならないのでは?」と聞いてみた。「日本はすごく便利で、仕事も勉強も遊びも日本語で情報が手に入る。僕たちは外国語を話さなければならないから話せてるだけだと思うよ。」と笑顔で即答された。日本語とそれ以外の言語は構造が違うとか、語学脳の作りが違うとか、日本人が余り外国語を得意としない理由はいろいろ言われてるけど、彼の認識によれば「話さないから話せないのですよ」ということらしい。そうかもしれない…と思った。クアラルンプールはすごく活気に溢れていて、かつて日本が言われた「日の出ずる国」という言葉が滞在中度々よぎった。
July 17, 2023
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クアラルンプールの中心部のムルデカ・スクエア(独立広場)。見上げると見たこともないくらいに巨大な国旗が悠然とはためいていた。マレーシアには1511年からポルトガルとオランダとスペインの植民地となった長い歴史があって、一時的に日本が占領したあと再びイギリスの植民地になって、その後、1957年にマラヤ連邦として独立を達成。それを記念する場所がこの公園だそうです。本当に誇らしげに、マレーシアの巨大な国旗は掲げられていました。滞在中、どこに行ってもマレー系、インド系、中華系などいろんな人種の家族連れやビジネスパーソンや小売店の人たちが行き交っていて、活気に溢れていた。僕が見聞きした限りではあるけど、宗教の違いを含めてお互いを尊重しあって、穏やかに暮らしているように思えた。初めてこの地を訪れた僕のような日本人に対しても、大人も子供もみんなフレンドリーだった気がする。優しい人が多くて、とても居心地の良い街だった。
July 2, 2023
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朝に成田を出る飛行機に乗るので成田に前泊。ホテル日航成田に泊まった。上野からスカイライナーに乗って、成田空港から送迎バスでホテルへ。今や羽田空港が国際線の主流になりつつあるせいか、すべてが懐かしかった。とはいえ、スカイライナーは新線を走っていて、僕の記憶よりものすごく速くなっていたし、ホテル日航成田はリニューアルされてさらに綺麗になっていた。成田利用もぜんぜん悪くないと思った。あと、成田のホテルだからかもしれないけど、宿泊客のほとんどが外国からのお客様、というのもまた懐かしかった。
June 26, 2023
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懐かしい!昔の新幹線だ!と、思ったら、これは東北新幹線開業40周年を記念して開業当時のカラーリングに塗り直したE2系とのこと。車内に入ってみると内装は確かにそうだった。それでも懐かしくて嬉しさがジワジワと。開業当時、乗ってみたくて仕方がなかった割に、初めて東北新幹線に乗った日の記憶は、ほぼない。開業当初のターミナル駅、大宮で乗り換えた記憶もないから、おそらく盛岡〜福島間あたりが自分の東北新幹線初体験だったのだと思う。今の精悍な新幹線も良いけど、懐かしい新幹線もすごく良い。
June 25, 2023
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仙台駅から青葉通りを青葉山方面、仙台城に向かって20分くらい歩くと、広瀬川を越えたところで都市緑化フェアが開かれていた。「都市緑化の意識の高揚」を目的に全国各都道府県を巡回しているイベントのようです。子供の頃、この場所は「追廻」と呼ばれて小さな家がぎっしりと並んでいた。ここに住んでる友達が何人かいて、自転車で走り回ったり、空き地で草野球をしたり、広瀬川の河川敷で遊んだり、路地に座り込んでよくわからないゲームをしたり、日が暮れるまでこのあたりで遊んでいた。昭和20年の終戦後に建ち始めた家が今や全部取り壊されて、こうしてすっかり綺麗に整備された会場を歩いていたら、僕の頭の中はむしろごちゃごちゃしてたあの頃にすっかり戻った。こんなに広かったのですね。緑化フェアが終わったら、ここは何になるのだろう。
June 3, 2023
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念願の真新しい野球場、エスコンフィールド北海道へ行ってきました。JR北広島駅から遊歩道のような道を線路に沿ってだいたい20分くらい歩くと球場に到着。駅から球場まで歩く人がたくさんいたので、迷う心配はありませんでした。対戦カードは日本ハムファイターズ✕楽天イーグルス。開始早々に楽天の小深田がライトスタンドにホームランを打ち、試合が動き始めました。ライトスタンド、と言っても、ホームランボールが落ちた所は日ハム側の投球練習場。甲子園球場にかつてあったラッキーゾーンにボールが落ちたような感じでした。この日、球場周辺は風が強くて、気温も低めで、だけどエスコンフィールドにはしっかりと屋根があって、部分的に暖房も効いている感じがして、観客席のイスは大きめで座りやすくて、そして、スタンドの傾きのせいでしょうか、あるいは座席の向いてる方向のおかげでしょうか、選手の動きもフィールド全体もとても見やすくて、快適に観戦できました。この日、球場に来て特に感動したのは、観客のためのスペースが広々としていること。そしてその広いスペースのどこからもグラウンドが見えること。試合の様子を感じながら、そして観客席のどよめきを聞きながら食べ物やグッズを見て回っても良し、食事をしても良し、ただひたすらブラブラと歩き回っても良し。これぞ野球のテーマパーク、という雰囲気でした。そして、イニングとイニングの間には毎回、子どもたちの心をわしづかみにする彼女たちが登場。キツネダンスだけではないのですね。僕の周りの家族連れも本当に楽しそうに踊ってました。本当に良い球場。課題は、やっぱり札幌からの距離感でしょうか。「遠い💢」と言われるほど遠くはないと思うけど、「今日は野球でも観に行こうか💡」と思い立ってすぐに行けるような距離ではない。例えば所沢に西武の試合を観に行くような、ある意味計画性は必要だと思いました。ちなみに、この日の始球式は寺田心くんでした。相変わらず可愛らしかったけど、大きくなってました。また行きたい。楽しかった。本当にそう思いました。
May 14, 2023
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軽井沢でゴルフがしたい、と夢を描いたのはいつのことだったか…まだ実現してません。スコアも、まだ100を切れていません。そこで心機一転…でもないけど、買ってみました。ゴルフウォッチ。 グリーンオン GreenOn G020W [THE GOLF WATCH (ザ・ゴルフウォッチ) NORM II PLUS(ノルム II プラス)ホワイトこういうギアって、ゴルフ好きのおっさんたちの道楽だよね〜、みたいなことを、長いこと僕は言っていた。確かにクラブやボールやシューズとは違い、ゴルフに欠かせないアイテムではない。けれど、ゴルフを始めて以来、一緒に回る人たちから繰り返し残りヤードを教えてもらっていることにいたたまれない気持ちもあって、価格的にガーミンには手が出せないけど、グリーンオンだったらなんとかいけそう…と思い、買ってみました。さて、ゴルフウォッチを実際に使える日はいつでしょう。とりあえず軽井沢でなくても良いので、ゴルフウォッチを使いながらゴルフがしたい。きっと近いうちに。
May 3, 2023
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日本ハムファイターズの新しいホームスタジアムが北広島に完成。ということで、観戦チケットを買いました。ファイターズの去年までの本拠地は札幌ドーム。すごく観やすくて、好きな球場だったので移転は残念という気持ちは今もあります。移転に至るまで球団と札幌市の間に何があったのでしょう。おそらく球団が札幌ドームの経営までできれば新球場という話にはならなかったのでは、と推察します。でも札幌ドームはサッカースタジアムでもありますからね。札幌市としてはちょっと難しかったのかな。そして、エスコンフィールド北海道が印象としてあっという間に完成。開幕戦をテレビで観たところ、もの凄く立派な球場ですね。気になるのはアクセス。北広島は札幌から近いけど、交通の便は余り良くない気がする。今回はJRと徒歩で行ってみようと思います。何はともあれ、試合の日が今からすごく楽しみ。守備も攻撃も選手たちが走り回る打撃戦だとなお良いかな。楽しみ楽しみ…(^^)
April 1, 2023
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1月半ばの月曜日に東京を出発した引越し荷物が、土曜日に札幌に着いた。東京では15℃くらいだった昼間の気温が札幌では氷点下になっていた。日本は意外と広い…。おそらく荷物は早目に北海道入りしていたのだろう。引越し業者さんの手で手際よく運び込まれて来る荷物たちは、どれもカチカチに冷たくなっていて、なかでも洗濯機ときたら内部に残った水が凍っていて、その日の洗濯は諦めた。窓の外を見ると、地面も空もひたすら真っ白。時折吹雪いて視界も悪し。札幌に暮らす僕の親戚たちは口々に…「なんでよりによってこの時期に北海道に。。。寒いっしょ。札幌が嫌いになったんじゃないかい。」と電話をかけてきてくれた。だけど、なんだろう、千歳に着いてからずっと僕の気持ちはウキウキとしていて、親戚の皆さんにも、「札幌が嫌いになるなんてとんでもございません」と迷いもなく返していた。そのあと、近くのスーパーに買い出しに行く途中で見かけたのがこの風景。美しさに言葉を失った。僕は、生まれてから数年間だけ札幌で育った。そしてわが子は、このたびめでたく就職が決まり、最初の赴任地としてこれから札幌で暮らすことになった。ご縁、と言うのでしょうか。札幌に呼んでもらえたような気がしてすごく嬉しい。子どもも札幌勤務を希望していたらしく、寒さと雪をものともせず生き生きとしている。これからは何度も札幌に来たい。距離的に疎遠になっていた親戚の皆さんともたくさん会いたい。今、そう思っている。札幌勤務が3年なのか4年なのか、それはわからないけど、わが子さん、邪魔にならないようにするので、たくさん泊めてくださいね。
March 1, 2023
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わが子がついに東京を離れることになった。社会人デビューのための引越しなので、もちろん喜ばしいことではあります。だけど結構寂しい…。高校を卒業してから、三鷹〜立川〜国立と、引越しは2回したけれど中央線の沿線で7年近く暮らした。それぞれ違う顔を持っていて、どこも良い街でした。三鷹は本格的に閑静な住宅街。立川はワクワクする賑やかな街。国立は知的な雰囲気のあるコンパクトな街。子どものアパートは親にとっては東京の別宅。何度泊まったことでしょう。とても数えきれない。迷惑な素振りも見せず泊めてくれたわが子には感謝しなければなりませんね。家賃を誰が払ってるのか、という話は別として。僕が学生だった頃は、親は一度も僕のアパートに来なかったもの。というか寄せ付けなかった。それを思うと、やっぱり感謝です。週末の早朝、東京に一番早く着く新幹線に飛び乗って、都内や近郊のいろんなところを歩き回った。新幹線以外にも、時間がある時は高速バスに乗ってみたり、在来線で途中下車しながらのんびり行ってみたり。一度だけ、ぐるっと遠回りして、会津若松から浅草を結ぶ東武鉄道の特急スカイツリー号に乗ったこともあった。本当に楽しい7年間でした。。。。とは書いてみたものの、東京と疎遠になる気は今のところまったくなかったりもする。仕事で歩く東京とぜんぜん違う景色を感じ続けてしまった僕にとって、都内の街歩きは既に習慣に近い。いろいろ理由を作ってこれからも何度も来ようと思う。
February 3, 2023
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本当に久しぶりに文芸誌を買った。わが子の中学時代からの友達が「群像」の編集に関わっている、という話を聞き、読んでみたくなってすぐに買った。とはいえ、本屋さんでは見つけられず、楽天ブックスでも注文できず、しばらくネット巡りをした末にやっと見つけた一冊が今日届いた。あまり部数を出していないのかもしれない。群像に限らず、紙媒体は今やそういう感じなのだろうか。そして表紙のデザインも、自分の記憶にある文芸誌とは趣がかなり違う。さて、中身はどうでしょう。。。今夜から枕元に置いて、ゆっくり読んでいこうと思う。
January 5, 2023
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今回はカタールで開かれているサッカーワールドカップ。毎回のことながら、ワールドカップを観ていると、サッカーは美しいスポーツだ、としみじみ思います。そして毎回のことながら、DVDレコーダーの容量が許す限り試合をたくさん録画して、毎日寝る前に「すごいすごい」と呟きながら各国代表が繰り広げる死闘を堪能しています。今夜はグループH、ポルトガル✕ガーナを観戦中。どちらのチームもサイドチェンジのボールが強いし速いし、それに正確。ピッチがとても狭く見えます。テレビの前に座っているだけで、超一流の選手たちの動きを次から次へと楽しめてしまう。ものすごく贅沢な時間を過ごしています。ありがとうワールドカップ。
December 5, 2022
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映画館では洋画を観たい、といつも思っていて、「これは…!」と思う邦画をたまに観ている。今日観た映画は、新海誠さんの「すずめの戸締まり」。日本のアニメ映画は映像が本当に美しくて、震災という重い重いテーマでありながら、風景のリアルさと美しさに、しばしば見惚れました。僕にとっての東日本大震災直後の日々は、自分自身の無力なところ、非力なところ、卑怯なところが露わになって、亡くなったたくさんの方々に申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。おそらくそのせいで、震災の話題に触れると今も気持が悪くなる。この映画も、観るのは少し危険かな、と思ったけど、なぜか「これは…!」と思ったから観た。結果、観て良かった、とても良かった、と思いました。
November 20, 2022
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一人で歩いていた街の真ん中で突然気を失って、救急車で運ばれて、手術をしてからちょうど4年。一年に一度の診察を受けてきた。普段はこの病院に紹介してもらったかかりつけ医さんで診てもらっている。4年前に手術をしてくれた先生は、別の病院に移られて、去年から初対面の先生の診察を受けている。待合には付き添いが必要な患者さんがたくさん順番待ちをしていて、心臓とか血管の病気は大事(おおごと)だな、と改めて思う。そして、待合の風景を見ながら思うのは不謹慎なのだけど、4年前に通路に倒れた僕をすばやく救急隊につないでくれた通りがかりの方々や、心臓疾患を想定して病院探しをしてくれた救急隊の皆さん、手術の用意をして救急車を待ち構えてくれたこの病院のスタッフの皆さんには、改めて、改めて、改めて感謝の想いが込み上げる。おかげさまで、心筋梗塞の後遺症はほとんどなく、仕事も続けられ、わが子への仕送りもそろそろ終わりそうです。夢に向かって頑張る子供を突然応援できなくなったかもしれないと思うと今でも本当にゾッとする。親らしいことは大してしてないかもだけど、最低限の経済的支援を最後まで続けられたこと、これは一重に4年前の日曜日の朝、助けていただいた皆さんのおかげです。ありがとうございました。皆さまもお体に気をつけて、いつまでもお元気で。
October 24, 2022
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