中島三郎助と蝦夷桜_9,幕末,箱館戦争

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中島三郎助と蝦夷桜

幕末_WITH_LOVE玄関 中島三郎助 と蝦夷桜(現在の頁)
中島三郎助 と蝦夷桜
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中島三郎助 (諱:永胤)文政4(1821) - 明治2/5/16(1869/6/25),1849与力拝命,幕臣,蝦夷では「箱館奉行並」,享年49

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中島三郎助 と蝦夷桜_No.9
中島三郎助 えとせとら資料】: No.1 No.2 No.3
中島三郎助 と春山弁蔵


春山は、中島より4つ年上の文化14(1817)年生まれ。

鳳凰丸の建造といい、慶応2年(1866)に完成した「千代田形」といい、全て彼の
高度な造船技術による賜物だ。中島と共に、海軍操練所の教授方としても活躍したのも彼だった。

それになんといっても、安政2年(1855)8月には、長崎に開設された海軍伝習所、第一期生として
共に浦賀を発った仲間なのだった。

春山は、天保6(1835)年、18歳で浦賀に士官して現れた。

この頃、国内は外国船打払令下にあり、迫り来る世界の恐怖に、要の浦賀は日一日と強化体勢だった。
台場構築のみの発想から徐々に、造船技術、砲術の強化と焦り始めている頃だった。

浦賀奉行所の数多い仕事の一環として、そのひとつには、「船の修理や管理」の分野もあるわけだが、
これは船大工顔負けの専門知識が必要とされる。それに時代は急旋回している。
造船技術が猛烈に問われる状態だった。

ご時勢柄、口には出せないものの、本来の造船技術うんぬんの生易しいものではなく、発想は
軍艦の必要性の目覚めであり、動力は蒸気機関、砲の製造にあたっても従来のものでなく、
断トツなる進化が必要とされている。

口に出せない理由は、この後、4年後の1839年(天保10)年「 蛮社の獄 」という形で弾圧沈下された
「尚歯会」 の水面下の活動による開眼だった。

弾圧された彼ら、先進派では、早くも蒸気機関や軍艦の必要性が打ち出されていた。
抹殺されて、隠蔽されていただけのことなのだ。

早くも春山は頭角を発揮していた。
春山の活躍を目の当たりにした少年中島は、そんな彼が眩しく目に映ったものだった。
与力の家柄の子が、この段階ではまだ同心以前の身にすぎない春山に対して眩しいと感じる。

それは、なんとも奇妙な現象に他ならないが、しかし、中島特有の観点からすると、
それは、不思議と、神々しい存在に見えてしかたないのだった。

従来的な造船発想からぐんと抜きん出た彼ならではの天性や知識は、同じく機械好きの中島にとって、
年月を経るに及んで、ますます強烈な刺激となっていった。

春山が現れた頃、中島は14歳。少年期に於ける、18歳と14歳はえらい違いだ。(別説有:同年齢説)

一方は充分大人社会であり、中島はいかに天才少年と謳われようと、やはり子供なのだ。
専ら、国を守るには修行一筋と信じて、朝から晩まで稽古に余念がない。

この時期、中島は、剣術は天然理心流修行中であり、砲術については、幕府鉄砲方_田付流と荻野流を
学習している最中だ。機械好きの中島は射撃そのものより、構造に興味を持ち、より一層高度な砲の
開発が必要だ・・・程度のことしか思いつかなかったのだから、やはり子供だ。

しかし、その2年後、少年中島は、大人への第一歩を踏み出し、その証拠に焦り始めていた。
中島16歳、春山20歳の年、1837(天保8)年。アメリカ商船 モリソン号浦賀到来 騒ぎ の際には、
追い出し砲撃を指揮した中島は「砲術の天才」と奉行から表彰されたものの、内心煮え切らない。

銘コンビで同じ年の友、香山栄左衛門と二人、ぼやいていた。( 中島三郎之助を鏡写し_幕末あれこれ年表

「褒められたはいいが、射程距離が短かすぎる。外国の砲ならもっと遠くまで飛ぶはずだ。
あの黒船から、もし、撃たれたら、やられてしまう!!急いでなんとかしなくては!!」


そんな中島は、年月と共に、近代的造船技術や力学的な発想に秀でる人物として、春山と共に
一目おかれる存在になっていった。

安政2年(1855)8月、中島34歳、春山38歳 (年齢異説有) の年、二人は共に、長崎に開設された海軍伝習所の
第一期生として長崎へ向かったのだった。
この時、既に中島は、堂々与力だ。一方、春山は同心である。
・・・
中島にとって、春山の思い出は尽きない。


・・・そして、今、蝦夷の最果て、身を置く中島。

「なんと!なぜゆえに!友よ、友よ、
我が友、春山弁蔵よ!

いくら嘆いたところで、亡き友の命はかえらない。それでいながら、思えば、思うほどに、
春山が惜しくてならない。あの男がもし、居なかったとしたら、海軍操練所に於ける生徒達の
教育も、鳳凰や千代田形の建造もレベルは、余程低俗なものに終わっていたことだろう。


「祈りなど、所詮迷信じゃ!
あれほど、祈った奇跡は、ついに成らぬか!
春山は死んだ!この日の本から完全に、死んで消え去ったのじゃ!


馬鹿な官軍共め!自分で自分の首をしめていることに、今だ気付かぬのか!
あれほどの男を失って・・・馬鹿!馬鹿!大馬鹿者じゃ!」



兄、弟、春山兄弟


そして、妻の手紙には、こうあった。

導火線ともいうべき瞬間、立ち上がった若者とは、
どうやら、春山の弟ではないか・・・
そう言われているのだそうだ。

咸臨丸に乗船していた陸軍系の兵の一人。
それは春山の弟だったという。

熱血漢の鉱平が、この屈辱に煽られて
爆発したのが導火線だった
かもしれないとあった。

鉱平は勇猛果敢な陸軍人。

無抵抗であることを知ったが故の「卑劣な暴力」
武士の風上どころか、風下にさえ置くに値しない!!



血を流しつつも、ひたすら耐え続ける兄の姿。
執拗なほどの屈辱的行為の連発。


挙句の果てには、武士の顔に唾を吐き付けられて!!

そうなれば、もはや、爆発など、当然ではないか。
・・・堪えに堪え続けた屈辱が、ついにぶち切れたのだ。

それを止めることなど、たとえ神とて、できはしまい!


中島の体内を蝦夷の竜巻がうねくり返して、巻き上げていった。


※このSERIESは49歳にもなる中島、本来冷静な人物が、どうしてここまで感情が
鬱積していったかを描いてゆきます。当事者の立場としては怨恨爆裂。念の為 【注】 ご参照。



笛の音、風の音



無意識に炊いたお香の香り。
それは、吹き荒ぶ風の音に混じって、
どこからともなく聞こえてくる
あの笛の音が妙に気になって、
気分を紛らすために炊いたはずだった。


se.jpgしかし、今こうしてみると、それは、あたかも
己は、我が友、春山の死を予測したがごとく、
そう思えてしかたない。
お香の煙がたちこめたこの空間。
知って招き入れたがごとく、己は、今、亡き友、
春山の霊魂をここに呼び入れたのだろうか。

香盆の上に残った燃え尽きた灰。

その灰色の粉は、なぜか不吉にも、
焼け焦げた死者の骨の残片を
連想させていた。


我が友、春山弁蔵よ!


すっかり夜更かしをしてしまった。知らず、知らずに夜が明けてゆく。

同じ浦賀の仲間なのだ。中島は与力。春山は同心。されど、そんなことは関係なかった。
切っても切れぬ固い友情。共に未来を語り合った。一晩中、海防論を語ったあの頃。


気がつくと、その時も、地平線の彼方、朝日が昇り始めていた。

絶対に失いたくない男だった。

中島は及ばずして逝き遅れた我が身の拙さを句に詠んでいた。








やがて、風のたよりに聞き知った。清水次郎長が、子分達を動因して、仏を
葬ってくれたのだそうだ。・・・水面下で、山岡鉄舟が動いたからだ。そうも聞く。

娑婆の空気と、中島三郎助と高松凌雲


翌日、何を思い立ったのか、中島は、突如、出かけることにした。
玄関先で、当直掛の兵が中島に駆け寄ると、あわてて行き先を訪ねてきた。

「はっ?お出かけですか?どちらへ?」
中島は、以外と明るい表情で言う。
「おう、ちょいとばかり、娑婆の空気が吸いたくなってのう。」
「はっ?娑婆?!」


気がめいる時、中島の行く先といえば、せいぜい高松凌雲の病院か、孤山堂無外の邸宅だった。



高松の病院には、部下の柴田伸助が居る。老齢の柴田は介護掛として病院勤務。
入院中の彼の倅、真一郎の介護をさせてやりたいがゆえ、中島が送り込んだ。
しかし、訪問の理由は、他にもあった。

長男の恒太郎なのだ。原因不明の腫れ物が悪化して高熱が続いた。
艦長松岡の配慮で、ひとたび船を降り、陸軍の砲隊に移籍された。実は養生である。
気配りの松岡は、手遅れにさせまいと、迅速に対処してくれた。

ところが行ってみると、居たのは柴田と高松だけなのだ。
しかし、ほっとした。父親譲りの頑張り屋、恒太郎はさっさと自分で退院を決め、出て行った。
高松は、そう言って笑う。どうやら、回復の様子である。

その一方、真一郎は、追い出されたも同然。犯人は父である柴田らしい。
「これごときで、なにごとぞ!気で治して、死ぬ時には、必ず戦場で死ね!」
哀れ、追い出された真一郎だが、暫くは通院らしい。 咲けよ!夢花_天に咲け!_浦賀同心:柴田伸助

客人の茶を口実に、高松は、現場を柴田に任せ、早速中島を別室に案内した。

傍目はいつも眉間に皺を寄せて、いつも多忙の高松。
しかしながら、医師とは孤独な立場だ。愚痴る相手もなければ、
患者達のたてまえ、下らぬ冗談のひとつも言えやしない。人である以上、たまには息抜きもしたい。

高松にとって、中島はぐんと年上。その上、立場が違う。時代が違う。
違いすぎるから、逆にそれが、ちょうど良い。あたりさわりが無いからだ。
強面の中島ながら、結構、高松の前では冗談を言う。
運命とは皮肉なものだ。この段階、高松も丁度、「束の間の平和」。特別な時期だった。
まさに、嵐の前の静けさとでもいうべきだろうか。

中島が来れば、病院の客間が、高松にとって、喫茶店みたいな存在に化ける。

「昔の爺共ってのは、馬鹿も馬鹿。とんでもないぜよ。」
中島の話は前後になんら関係ない。突如、自分の世界で勝手にしゃべりだす。

「外国船が、浦賀に来るとよぉ、馬鹿丸出しさ。だってよう、幕府にゃ、『外国船打払令』
ってのがあったらしくてさ、聞いた話だけどナ。古臭い砲でよォ、ボンスカ、ボンスカ
それ狙って撃つのさ。てんで届きもしないさ。もったいない。全部海にザボンじゃ。」


高松は、こんな中島のペースには、もう慣れている。柴田伸助の昔話も聞かされた。
適当に相槌を入れる。

「ほう、いつの時代の事ですかね?」

「いやあ、フランス帰りの最新派、先生から見りゃ、まるで馬鹿みたいな話でしょ?
今は昔よ、そやつら、今頃、じじいになっちょるわ。」


高松が吹き出した。

「いやあ、昔の砲隊なら、そんなもんでしょ。きっと。
だけど、中島さん、彼らは、もう、爺さん程度でないでしょう?
もう、とっくに亡くなっておられますでしょうよ。」

「それがよう、とんでもないさ。その爺さんとやら、今だ、生きとるんじゃ!!」


真顔の中島が突如、高松を振り返った。
・・・高松、内心、しまった!!・・・

焦った高松の表情を見るなり、中島、手を打って、大喜び、大爆笑だったという。
じじいとは、中島本人のことだった。 (・・・コレ、大脈本当の話:高松回顧談)


高松は玄関口まで、律儀に中島を送ってきた。

また、いつもの顔で、いつもの仕事をせねばならない。
内心、中島が羨ましかった。奥医師の世界に暮らした高松。幕府時代は、典型的な医療界独特
の陰険、そのものだった。対して、部下の柴田を見るうちに、ますます、中島が羨ましい。

中島が、草履を履いていると、大真面目で高松が言う。

「中島殿、私の年で申すはご無礼なれど、・・・
・・・中島様の周囲は、本当に爽やかでござります。お世辞ではありませぬ。
ご人徳でございましょう。心底、貴殿をお慕いなされるお方が、大勢お集まりで・・・。」


折角ハイテンションに巻き返したつもりの中島。
高松の言うのが、事実であるが故、胸に沁みた。陰謀と駆け引き、幕臣界、即ち泥の世界に
居ながら、確かに、浦賀衆の仲間達、それは全く例外だった。事実、中島の世界に、
策略という言語は、ついにあてはまるものがない。
一つ釜の飯を食う間柄。誰一人として裏切りがない・・・。
それどころか、今ここ、蝦夷に暮らす彼らは、皆、己の為に命を厭わぬ者だけの集団なのだ。
なんと、恵まれたことだろう。あらためて痛感した。まさに天幸かもしれない・・・。

中島は、見栄を張って、冗談モードで返答をした。

「さては、あの馬鹿正直男、柴田のやつが、先生に余計な事、しゃべったんでしょうな。
年寄りは年寄り。適当にあしらって下され。おっと、年寄りは、
あやつだけじゃなかったのう・・・。おう、くわばら、くわばら!」


中島は、去って行った。
この足で、ついでに、 孤山堂無外 を尋ねよう、ふと、そう思ったのだった。


古友、孤山堂無外


孤山堂無外は、中島にとって、旧来の俳人仲間である。ここ箱館で奇遇にも、
再会できたのだった。古来の仲間とは、やはり、いいものだ。突然の来客にもかかわらず、
厚くもてなしてくれる。なんと言っても、共に語り、共に詩を吟じる。
心底救われる思いだった。無外が古い話を持ち出した。
それは、天保10年のこと、中島本人もすっかり忘れていたあの頃。
古い友とは、ある意味で困ったものだ。若き日の中島が詠んだ詩を、
きっちり記憶していたのである。

彼が朗々と詠んだ「過去の己の詩」
他人が詠む己の詩とは、なんとも奇妙な心地。三半規管が故障したような感覚だ。
現の己は、今、完全に浮遊している。

僅か十九歳の己が、まるで人事のように浮かび上がる。





朝の蝶 松の雫を こぼしけり

花に月 しばし余念は なかりけり
水際は わけて色よき もみぢかな
都合よき 雨のはしりや 田植詩



中島三郎助 19歳時の詩・・「天保10年発行俳誌:おそざくら」
:この俳誌には、合計26句が掲載されている。
若者らしい感性が絵画のように美しい色彩を捉え、生の煌きが鮮やか。
俳誌名は偶然ながら、おそざくら。

北の大地に咲いて散った「おそざくら」に終焉を見る己の結末など、この時、知るよしもない。


恒太郎と英次郎
中島三郎助が古友、孤山堂無外に打ち明けた「心の傷」


古い友、孤山堂無外は、年頃の倅を、心底案じてくれるのだった。

「・・・して、ご長男のお子は、まだかのう?」

無外に聞かれて、中島は重い口を割った。
「それがのう、一昨年のことよ。ことによると、前世の己の罰が、あやつに飛び火
したのかもしれぬ。」


あの忘れもしない事件。慶応2年、三郎之助46歳、恒太郎19歳の時だった。
中島は、持病の喘息が悪化。当時江戸に居た彼、つくづく、己の限界を痛感した。
後で思えば、確かにこの年、恐ろしい年となった。同年7月、21歳の将軍家茂は他界。
12月、孝明天皇も謎の死。本来なら慎むところ、実は己自身、死の予感を否定できなかった。

実際、この頃、江戸に単身赴任する中島は、妻に悲壮な手紙を送っている。急がねば間に合わない!
鬼の目にも涙 思わず涙、勝海舟 :宿敵ライバル中島ながら、疾病退職ともなれば話は別だ。

身辺整理を急いだ。倅の縁談話は、倅の為なればこそ、己が現職で体裁が良いうちに完了
させねばなるまい。躍起になって、自分で話をまとめあげた。
そして、式までに、与力を恒太郎に継承、倅に花を持たせ夫婦にさせたいとの思いである。


幸い、話は、とんとん拍子。浦賀奉行所与力_太田雄之丞の娘(15歳)との話は
好調に進んだ。年内暮れには嫁入りと決まった。話が決まるや否や、この年の三月に中島は
軍艦頭取出役の辞職願いを出した。原因が病気である以上、許可された。それでいて、
残務処理が膨大。結局12月迄かかった。
同年12月、恒太郎が跡番代を拝命。 どうにか予定をクリアした。
隠居とは束の間、すぐ幕府に呼び戻されるが、
本人はそのつもりだった。
晴れて恒太郎は立派な主の地位を得て、中島は元名誉職の隠居となった。
嫁入りは、予定より少し遅れたものの、翌年早々に、目出度く、花嫁がやってきた。


しかし!突然の事件!!




悲劇の恒太郎!!

19歳と16歳、可愛い夫婦が誕生した。

ところが、なんと!新妻は・・・
・・・輿入れ早々、数ヶ月後に不意の死亡。享年16歳。


あまりにも過酷な運命だった。


中島三郎助 と蝦夷桜
No.1 ・・・< No.7 No.8 No.9 (現在の頁)< No.10 No.11 No.12 (完)
next_car 親の責任:下の倅、少年「英次郎」の未来

【中島三郎助えとせとら資料】

中島三郎助えとせとら

幕軍&松前えとせとら

▼こちら特殊。なんだ?漫画?なんて一瞬思いますが、この画家「歌川国芳」は、かなり意味深男!
本来可愛い御伽草子とされている絵ながら、どうやら、「開国と外国の脅威」を、含み描いてるように思います。

歌川国芳の(金魚づくし)裏事情考察

文章解説(c)by rankten_@piyo
イラスト写真については頁最下欄

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犬達の「もう一度歩きたい!」

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Piece :龍,刀; 薫風館 :和風イラスト


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