中島三郎助と蝦夷桜_11,幕末,箱館戦争

中島三郎助 ,幕末維新の人々<幕末_WITH_LOVE,箱館戦争< 中島三郎助 と蝦夷桜<宮古湾海戦に至るまで,フランス海軍:ニコール,アボルタージュ作戦,回天艦長_甲賀源吾の決断,ストンウォール号の構造, 山内六三郎 の記憶,安藤太郎「美耶古能波奈誌」,ガリアの騎士道と日本の武士道,堺事件とコルベット艦,ニコールとコラッシュ,榎本軍,【楽天市場】


中島三郎助と蝦夷桜

幕末_WITH_LOVE玄関 中島三郎助 と蝦夷桜(現在の頁)
中島三郎助 と蝦夷桜
No.1 No.2 No.3 No.4 No.5 No.6 No.7 No.8 No.9 No.10 No.11 現在の頁 < No.12 (完)
中島三郎助 (諱:永胤)文政4(1821) - 明治2/5/16(1869/6/25),幕臣,蝦夷では「箱館奉行並」,享年49



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中島三郎助 と蝦夷桜_No.11
中島三郎助 えとせとら資料】: No.1 No.2 No.3
急転直下

この前の部分から読む: No.10 中島三郎助 と蝦夷桜:


あの日、鰐蔵が言った言葉、
『大シケの予感』。
彼の予感は、まさに的中した。
事態は急転直下。

内地に放っておいた密偵が帰着した。


なんと、新政府は、ミカドから榎本軍に対する「追討令」を正式に授与した。
その内報を、この優秀な密偵は逸早く入手の上、急ぎ報告してきたのである。
それは、三月四日付で発布されたという。

当時のことだ。いかに急いでも情報を入手して、密かに帰還する迄には、数日かかった。
これでも、当時としては猛烈に優秀。生きて帰るだけで神業だった。

その上、ストンウォール号艦が、この度正式に官軍に手渡され、いよいよ幕軍征伐に動き出すという。

外国は榎本達に対し、正式に 「デ・ファクト」 としての存在を完全に認めようとはせず、
老獪に「局外中立」を装い、幕府が、アメリカに発注した最新鋭のストンウォール号は、
長らく引き渡されずに停泊中だったのである。
いうなれば、諸外国は、ついに、その本性を発揮したのだった。

ストンウォール号は、敵軍「新政府軍」に引き渡され、「甲鉄」とネーミングされた。
なんたることぞ!榎本の怒りは爆裂した。


理想と現実のギャップ


嘆願書に書かれた「榎本の人道的措置」は完全に踏みにじられた。
何回送ったところで、岩倉具視が握り潰して、ミカドに届くわけなどない。

「禄を失った徳川家臣の為、生きるに与えうこの土地を許したまえ。自ら開墾を厭いません。
迫り来る異国の脅威に対して、北辺の守りを誓います。」


松前の400人以上の捕虜を処刑することなく、釈放&送還、青森に送った。
長州の堀真吾郎他及び、福山兵等、怪我人を救い、高松凌雲の病院で治療を施し、
傷が完治するまで保護した。拿捕した敵艦、軍艦高雄の船将:田島圭蔵、井上干城 他は、
送り返すまでの間、給料も与えた。・・・全て、愚かな徒労に終わった。

ニヒルな男は、かつて、こう言った。
「幾つ描いたところで同じさ。所詮食えもしない紙っ切れにさ。
 文字どおり、絵に描いた餅なんざ、誰だって、食いつかねえさ!」


榎本の言う『人道的措置』、それらは、全て、夢、夢、夢!!
土方歳三が言うとおり、悲しきかな現実社会。
そんな生易しい夢物語など、この世にあるわけなどなかった。



五稜郭には不穏な空気が充満した。

明治2年(1869年)三月十四日、榎本は幹部を集め、咬菜園 にて最期の宴を催した。
・・・ 3/14_咬菜園、終焉の宴:詩詠 ◆関連 土方歳三の追憶:あの夜、土方と中島


榎本軍の人道的措置:怪我人の治療,釈放&送還,捕虜に給料,平和交渉,死者の埋葬&墓の建立

現実と理想ギャップ『人道的措置』:脆くも崩れ去る。
  • 小杉雅之進「麦叢録」:いよいよ決戦告示。1869の1月中旬の事。
  • 其情実ヲ明ニシテ之ヲ嘆願セシムニ却テ国賊ナリトシテ征伐ヲ加ヘントス。
    之ニ因テ武門ノ習ヒ、止ヲ得ス防禦ノ備ヲ設ケ、之ヲ待ント決定ス。
    「ここまで人道的に頑張った我々を、なんと国賊と呼ぶか!!」・・・それが現実だった。
緊急会議


榎本達、徳川脱走軍軍としては、なんといってもあの「開陽」を
失った後だけに、打開策に必死だった。

ストンウォール号は、優れた軍艦であるばかりでなく、ガトリング砲(当時としては
最先端、連続射撃ができる砲)を搭載している。

実は、沈んだ「開陽」にも、そのガトリング砲が一台積み込まれていたのだ。
山内六三郎 の活躍だった。幕府時代、ストンウォール号の引取り掛でもあった彼は、
持ち前の冷静さと語学力を活かし、巧みにアメリカ船員に交渉を為して、
ぷかぷかと浦賀に艦が停泊していたあの頃、至極初期のうちに、さっさと入手に成功。
そのまま速攻で開陽に載せ変えたのだ。この手際の良さは天才的だ。

しかし、今それを言ったところで、後の祭り、海の藻屑だ。今頃、江差で、沖の鴎が嘲笑っている。

この後、史実は、フランス士官ニコールの発言から、事態は強烈な展開へと運ばれることとなった。


ストンウォール号奪還作戦会議
海軍士官_ニコール、大熱弁


緊迫の五稜郭。鳩首して、幹部全員が策を練る。
しかし、良策、名案・・・気が焦るばかりで、誰の脳にもまともと言える「策」
など、浮かばない。これといった名案もなく、そのまま、じりじりと時間だけが流れた。

静粛を破って、思いかげず響いた声は、なんと、いきなり外人の声だった。
ブリュネ以下10名の元フランス士官のひとり、ニコールである。

しかし、瞬時のことで、皆聞き取れない。苛立つ彼。興奮のあまり、目を血走らせている。
しかし、もう一度、皆の為、彼は、大声で立て続けに同じ言語を、繰り返し連発した。

「アボルタージュ!アボルタージュ!アボルタージュ!!」

語学に秀でた者の多い榎本ブレーンではあるが、ニコールの口述は別だった。
彼も平素、日本語を多少話すのだが、なんと言っても、非常に理屈っぽい。
しかも、興奮している上、言わんとする内容が極めて複雑とくるから、日本語を
含めながらのサービスモードでは、本人が対処できない。

しまいに、そんな自分に苛立った彼は、母国語オンリー状態になった。
当然、誰一人ついてゆけはしない。

ブリュネお抱え通詞の田島金太郎(後の応親)が飛び出し、彼の真横に立った。
途端に立て板に水。猛烈なスピードでしゃべり出した。

ニコールのしゃべる速度が早いから、当然、田島のピッチも速くなる。
田島の口から次から次と、言い伝えられる言語の山。
しかし、そこに描き出される壮烈なドラマが皆を釘付けにした。


アボルタージュとは、敵の艦に乗り込み、乗っ取り、奪取を行う戦法である。
歴史上現実にあった話だと、ニコールは言う。その為、皆が吸いつけられた。
安藤太郎「美耶古能波奈誌」

「我がフランス海軍は、1861年の南北戦争の際、たったの50人で、見事、イギリス軍艦
を撃ち破り、なんと一気に300人以上を同時に捕虜にしたのであります。」


皆は息を呑んだ。堂々と胸を張り、ニコールはさらに語る。

「たったの50人です。六倍以上の敵を、ものの見事に打ち砕き、我々の勇気と巧みな戦法は、
その勝利を導いたのであります。その戦法とは、まさに、アボルタージュ!!
各々方、今こそ、立ち上がるのです!勇気です!勇気は正義の証!
正義の為、万事、恐れるべからず!

現実に我々のその勇気は、勝利を導いたのであります。
敵の艦に飛び移り、その場で、乗っ取り、奪取しようではありませんか!!」


・・・彼の体内を熱く流れる血、それは、まさにガリアの魂が炸裂した瞬間だった。

誰かが呟いた。
「奪取などではない。もともと、ストンウォール号は、我々幕府が発注した軍艦じゃ。
 奪取どころか、奪還ではないか!!」

「されば、なおさらではありませんか!!精鋭達の特訓は、この私、
ニコールが徹底して 引き受けましょう!誓います!!」


猛烈な熱弁、ニコールの大講釈が、やっと止んだ。

皆は、両腕を組み、唸るばかりで、誰一人として声を発することができない。
その大胆不敵な作戦に魅了されて、胸の高鳴りが収まらない。
それでいて、頭の中には、何一つ、冷静に検証すべく材料が無いのである。
・・・・
暫し、沈黙の空気が流れた。


しかし、流石はインテリの榎本。彼の知識が、この沈黙を破った。
「ニコール殿、お尋ねしても宜しいか?その戦法の発祥について教えて頂けぬか?」

いくら榎本でも、記憶は曖昧だった。しかし、そのアボルタージュとは、
現代(=この時代における現代)つい数年前の1861年のことではあるまい。
確か、100年以上も昔のナポレオン時代の伝説ではないのか?
ふと、そう思ったのだ。されば、それは木造帆船時代のことであり、
蒸気船の甲鉄に、榎本軍が保持する同じく蒸気船で、どのように応用するか、
それが、榎本の頭脳の中、争点がそこに絞られてて、今旋回している。

榎本自身、留学中に立ち寄ったセントヘレナ島では、
この島に幽閉されたナポレオンに思いを馳せて、思わず漢詩を詠んだほど、
英雄ナポレオンを尊敬している。その為、たとえ曖昧であっても、皆と異なり、
アボルタージュという言語、どこかで耳にしたような気がしてならないのだった。

臆することなく、ニコールは堂々と、皆に語って聞かせた。

アボルタージュとは、敵の艦に乗り込み、乗っ取り、奪取を行う戦法である。
発祥は、榎本の直感が当たり、確かに、ナポレオンの時代の話だ。ジブラルタル海峡に於いて、
イギリスのネルソン提督が約10分の1の兵力で、フランス、スペインの連合艦隊を一気に撃破した
空前のドラマである。「トラファルガー海戦」において編み出された戦術。

そこで、ニコールは皆の動揺が始まる前に、さらに続けて言う。

「そこで我々、誇り高きフランス海軍はその教訓を、さらに練磨して、アボルタージュ戦法
と呼ぶ。そしてそれを、新たなるこの現代に実証した。あの卑劣なるイギリスを
 撃ち破った実績である。」


・・・しかし・・・
こうした瞬間の日本人の反応とは、西洋人と異なる。しかも、この幕軍は特別な存在だ。

当時の日本人と言えば、一言、 『あの卑劣なるイギリス』  と聞けば、瞬時に
意識はイコール激怒発奮と繋がる。
清国の屈辱、アヘン戦争。国土が穢されて、風紀も退廃、アヘンの魔性に狂わされた国民は
泥の中に埋没。眠れる獅子は有名無実。人々は奴隷同然の宿命を負った。
・・・即、それが攘夷気違いの発祥の元となった。

しかし、奇妙なことに榎本軍は反応が完全に異なる。
いかに諸外国の圧力に屈した結果といえ、総体的バランスで判断した開国派の
幕軍の有能人物とは、やはり、かくも反応が違うものだろうか。ニコールは痛感した。

「何っ!畜生!」・・・とばかり、誰か声を発するだろうと思ったのは完全に予想が外れた。

ここに座する者達、榎本ブレーンは
皆、唸り声を発するばかりで、さらに腕を組み替えるだけなのだった。

「皆さん、まさか?とお思いでしょう?しかし・・と、お思いなのでしたら、
ひとつ、面白い話を教えしましょう。

そのまさか!!が、当時、つまりその時代の人々の間で、一種の造語に結びついた
ほどなのであります。奇跡のことを、まさか!のことを称して、
人々は『トラファルガー』と呼ぶようになったぐらいです!!
奇策を耳にした時、人々は言いました。『まさか、トラファルガーじゃあるまいし!』
そう言われたのです。

我がフランス海軍は、それに留まることなく、さらに深く検証し、かつ改善を加え、
精兵達に鍛錬を施して、この度実証したのでありです!」



榎本の口元で微かにあの八の字髭が動いた。しかし、黙って頷くだけだった。




ニコールについて
ところで、このニコールについて。彼らは、ブリュネを含む他8人とは異なるルートで
別途この軍団に参加した者である。遅れて参加した二人は、ニコールと、コラッシュ。
双方、フランス海軍。脱走して、商人の協力を得て、いわば自力で蝦夷に上陸。
スイス人所有の貨物船「ソフィ・エレン号」にて横浜を脱出している。
七飯の教会に隠れ、榎本軍到着を待ち、ブリュネに参加希望を何度も嘆願したが、慎重派の
ブリュネは拒否。嘆願書は繰り返された。途中、敵側に二人の存在が露見し、敵に勧誘された。
しかし、それを完全に拒否した事実報告が送られ、彼らの熱意ががブリュネの心を打った。
6週間待たされた。ブリュネは彼らの退職手続きをナポレオンに承認させる手続きを行い、
それが完了。やっと迎え入れられたという経緯である。
(コラッシュは宮古湾海戦時高雄乗船、捕縛:処刑を覚悟して: コラッシュの落書エピソード

この二人は、世界を震撼させた堺事件(1868年3月)の後、フランス海軍強化の為派遣された
同国軍艦ミネルバ号乗員であり、明治元年五月に横浜に到着していた。

その為、彼ら海軍は、ブリュネ達陸軍以上に、反幕府側をイコール攘夷気違いとしての認識が強く、
強烈に憎悪していた。また、同国とイギリスとの経緯から、フランスがイギリスを憎むのは
当然のところ、反幕府側であるところの新政府がそのイギリスの支援で動いていることから
その復讐心は、榎本達のレベルを超越していた。(彼らは二人とも普仏戦争参戦したとされる。

彼らの体内には、軍務を超えて、感情的に、八つ裂きにしてもまだ物足りぬ程の強烈な復讐心が
めらめらと燃えていた。心底、この悲壮なる幕軍を応援して、憎い敵を打ち砕かせて
やりたかった。正義の為に命を厭わぬこの異国の英雄達に、勝利を得たその暁には、
英雄にのみ許される尊い『英雄の涙』を共に流したかった。国は異なれど、若き純情である。
ガリアの騎士道と日本の武士道が異様にマッチした瞬間だった。

その原因は、あの堺事件である。

堺事件

堺事件の概要は、国内で言われる内容と、フランス側で言い伝えられる内容とでは、
大幅に差が有る。ロッシュから自国へ送られた報告書には、実に凄惨な事実が克明に
記載されている。

堺事件は、こうして起きた。被害にあったのは、 コルベット艦 の士官及び、海兵だった。
加害者側として処刑対象となったのは、29人の土佐藩士中、20人に及ぶ。
これは、世界を震撼させた『JAPANの野蛮!腹切り!』の元である。

慶応4年2月15日(1868年3月8日)、フランス領事一行が大阪から陸路、堺に入ろうとした
ところ、警備の土佐藩兵はこれを阻み、追い返した。 ところが、同日夕刻、
士官以下数十名の水兵が上陸、市内を徘徊。
怒った土佐藩側は咄嗟に発砲し、フランス人11人を殺傷、海に落として溺死させた。
土佐藩側ではフランス人が迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした。
このへんの描写は、被害者側であるフランスと180度異なる。

ロッシュは、四日後の2月19日、断固、下手人斬刑を要請する。

土佐藩主山内容堂は屈した。自藩の者、20名に切腹を言い渡した。
2月23日、死者11名の犠牲を蒙った被害者側代表のフランス人達立会いのもと、
堺の妙国寺で土佐藩士20人の処刑となった。

しかし、これは、とんだことになった。途中11名で、フランス側が悲鳴をあげて、
処刑は取りやめとなったのである。

フランス側は処刑方法まで日本に強要しなかったのが失敗だったといえば失敗である。
当時日本にはなかった刑法、銃殺を無理強いすれば、こんなことにならなかったのだが、
それは、後の祭り。とんだことになった。

日本側としては、言葉が通じなかった彼らに唯一の同情として、斬首ではなく、武士の名誉、
切腹を許したのである。フランス側としては、それが間違いとなろうことは予測できなかった。

居並ぶフランス士官&水兵の前、次から次と切腹。後に正副の介錯人が立つ。
切腹を遂げた瞬間に、介錯人の太刀が宙を横切り、瞬時に首が討ち落とされる。
連続の人数だから、これは日本人でも辛い。しかし、日本人は、あっぱれ!見事な最期じゃ。
と餞に本人が腹を斬り損なって苦しんで無様な死に様を曝したのでは気の毒。だから、
そうさせないように格好の良い最期を飾らせてやる意味で首を絶つから、この苦しさに
なんとか耐えれるわけだ。思想やら仕来りに由来する。
この場合の介錯は、死者の尊厳なのだ。悪い犯人を処刑するのとは、異なる。

そこのところ、外人さんは、風土が異なるため、たまらない。
これだけでもフランス人としては見るだけで、相当気色悪いものだったが、
義務として、見届けなくてはならない。皆、頑張って嘔吐感に堪えていた。

ところが、6人目からとんでもないことが起きた。
腹を斬ったはいいが、伊達に死ぬのでは、本人達は死んでも腹の虫が収まらない。
なぜならば、彼らの言い分としては、我が国を守るために勇敢に戦ったつもりなのだから・・。
割腹の直後、その張本人が、自ら己の腸を手で掴み出して、フランス人に向けて、
投げつけたのである!!

この一人だけなら良いが、この後、たてつづけにそれが続いた。
この凄惨さに、フランス人達は嘔吐するもの、失神する者、事態が収集つかなくなった。

しかし、立場上、気色悪いから、もう止めてくれとは言えないから、頑張って一応理由はつけた。
フランス軍艦長デュプティ・トゥアールは、こう言った。
「被害者11名と同じ数値、11名のみで、寛大なる我がフランスは特別に大赦を与う。」

先に述べたとおり、ロッシュから自国へ送られた報告書には、実に凄惨な事実が克明に
記載されている。単に殺した、溺死させた・・・ではなかったようだ。
海面で溺れまいと、必死でもがく水兵を、あたかも獲物のごとく、銛のような野蛮な道具で
執拗に突き刺したり、惨殺の後、ばらされた部品が釣り下げられて曝されたような事実が
あったとされている。まさに、攘夷気違いとしか言いようが無い・・・フランスが怒るのも
これでは無理がない。
フランス水兵は本当に気の毒だ。しかし、この頃、全国で似たような事件発生。攘夷気違い
事件とは言い難い、殿様に見捨てられた哀れ殉死切腹強要もある。行列を横断しようとした
外人さんに、「無礼者!控え!」と土下座を申し付けても、言葉が通じない。言語道断、
斬り捨てご免は、当然彼の切腹の宿命に繋がる。

世界に原始的野蛮=JAPANの汚名が轟いた。日本の文化は西洋には理解し難い。
銃殺ならまだしも、刀で斬り刻むは、野蛮の極み、挙句の果ては、腹切りやるは・・・。
余りの凄惨に、肝を潰す・・の言葉のたとえを脱して、それどころか、
現実に、肝が掴み出されて、投げつけられようとは!!


かくして、ミネルバ号海軍士官ニコールは、被害にあったコルベット号の実態を、
同じ海軍である以上、人一倍詳しく知っているが故、復讐に燃えるのは当然だった。
しかしながら、それは、あくまで史実が今日にこうして考察の機を与えてくれただけであって、
当時の榎本軍は、それを考察に加える手段がなかったのだ。



榎本は唸った。

アボルタージュは、約100年間実施されていなかった幻の戦法ではなく、
現実につい最近フランス海軍が行い、成功したというではないか。

ニコールの語るは虚偽であるわけはない。
彼の1861年が事実なれば、文久元年のことだ。それは、父の円兵衛を失った年であり、
丁度、阿蘭陀に留学する前年のことだった。

今、彼の脳裏にあるのは、青い海に浮かぶ
あの堂々としたストンウォール号の姿だった。


回天艦長の「甲賀源吾」


皆の重い沈黙が突如破られた。

以外な人物の声が響いたのである。
声の主は、回天艦長の「甲賀源吾」だった。

彼は黙って、榎本、荒井に対して、一瞬目線を送ると、
今度は、やや俯き加減の視線で机上を見つめたまま、
低く、ふりしぼるような声で、こう言った。

「願わくは、たとえ、回天の一艘なりとて、
我に与え賜うものなれば、我、之を試みんと欲す・・・」


その彼は今、唇を噛みしめ、机上の一点を睨みすえたまま微動たりともしない。
拳を硬く握りしめ、黙として、上官の決断をひたすら待っている。

従来、極めて寡黙。軍事会議でも、立場をわきまえ、滅多に発言することのなかった彼。
握られた両の拳には強く力がこめられている。
それは、あたかも、彼の決意の固さを物語たるがごとくであった。


榎本が重い口を割った。
「皆の者、如何とす。押し黙ってばかりでは、事進まぬ。」


昨年、全員の「夢と希望」の象徴、あの「開陽」は虚しく、江差の海に沈んだ。

今、海軍チームは、正念場にあった。
海軍TOPの荒井を別として、艦長の中で最高地位にあった開陽艦長「沢太郎左衛門」は失意の中、
室蘭方面の開拓方の長として、事実上退いた状態にある。

榎本、荒井に比べ、三歳年下の「甲賀」の肩には、全てが重く
のしかかっていたのであった。


土方は完全に無言である。もともと無言実行派である。
意見を求めたところで、中途半端の状態で、物語るわけなどはない。

中島三郎助も江差のタバ風、「開陽事件」以来、己は海でなく、
陸の者として、断固介入しようとしない。

山内六三郎
榎本の視界の中、或る人物の奇怪な動作が気になった。それは、榎本の付き人として、
たまたまこの場に許され、末端席に座していた 山内六三郎 である。

彼は、今こうして、自分が榎本に見つめられていることも気付かず、
あらぬ方向に目をみすえたまま、脳の中に一種の図式を描いている最中なのだ。
目線が時折、宙を泳ぐ。黙して、記憶を手繰り寄せていた。

突如、榎本に名指しで呼ばれた。

「山内くん、君は確か、何度か、ストンウォール号に乗船しているな。
構造はどうじゃ。記憶しているか?」


名を呼ばれて、初めて我に返った山内、ついに重い口を割った。
極めて慎重派の彼、榎本に求められて、緻密な構造上の話を語り始めた。
それは、けっして、どうしたい、どうすべきだ・・・という話ではない。
厳密に己の記憶を辿りながら、正確な口述が始まった。
回天は艦高があるため、ストンウォール号との落差をふまえ、
一艦のみでは到底不向きである旨も、この時確実に語った。



しかし、この瞬間を皮切りに、それまで沈黙状態にあった皆が、
次から次へと質問を寄せる。 山内六三郎 が、確実に答える。
それをたちまち考察に含めたニコールの具体案が矢継ぎ早に提案される。
早口だから、田島が、またそれを早口で説明し直す。

そこから事態が急遽変貌していった。

皆の意見を取りまとめ、榎本が決断を下した三艦は、回天、高雄、蟠竜である。
山内が語った。落差が最も少ないのは蟠竜。次いでは高雄。
そこで、役割分担としては、回天はあくまで総括司令塔となったのである。



空前の宮古湾海戦が転回される史実はここに発祥した。

敵艦に飛び乗り、略奪する画期的な作戦=アボルタージュ。



寡黙な甲賀の声が、再び聞こえた。

「有り難き幸せ。我、命に換えても、
・・・奮して、之を為さん。」








確かに、開陽事件以来、『海』への発言を辞退した中島だった。
しかし、始終発言しなかった己に、やはり疚しいものはないか・・・ふと迷った。

腫瘍を患った長男、恒太郎は蟠龍から降りて久しい。陸の砲隊に席が或る。
半病人状態の彼が、この作戦に乗艦することはまずない。

次男の英次郎は、榎本の側近として当初は、若いながらも多少良いポジションに居た。
しかし、彰義隊分裂事件で、榎本に命を助けられた大塚鶴之丞の仕事ぶりが良く、
対して、機転不足の英次郎は、若すぎるが故、半ば浮いた。
浮いてはいても、まちがいなく、そこに居る。

榎本に聞かれて、ブリュネは、こう言った。
「残念ながら、私は陸だ。海は解らない。」高齢の中島はその瞬間を見ていた。

中島は、始終腕組みの姿勢のまま、動かなかった。


中島三郎助 と蝦夷桜
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敵への報恩_長州_堀真五郎編

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文章解説(c)by rankten_@piyo
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