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30日奈良へ帰る日。普通車の3人がけ一列が取れず、グリーン車。子猿の席がないので、怒り狂うのではないかと心配したが、グリーン車は2人がけの座席の真ん中の肘掛がでかい。ちょうど子猿が馬乗りになるのに具合が良さそうな感じ。「ほら! ちゃんと子供用の椅子が真ん中にあるわ!」と肘掛にまたがらせると「いいね! これ! いいね!」とご満悦。一旦実家へ寄ってから、クズ野菜を袋に一杯詰め込んで爺猿も一緒に奈良公園へGO! 爺猿が袋からクズ野菜を取り出すと、鹿が寄るわ寄るわ! 撒き散らすクズ野菜をバリバリむさぼる鹿の群れ!夕食は私が希望した婆猿の手作り餃子150個。添え物として熊本から到来の馬刺し一塊、それに大皿一杯の刺身。餃子150個は壮観だった。到来モノの馬刺し(美味かった!)はともかく、刺身は余計だった・・・。食後、子猿がさっさと寝てしまったので、HAKKOから借りたDVD「戦場のピアニスト」鑑賞。収容所脱出までは言葉では表現不可能な衝撃。それに比べて脱出後の逃避行が冗長に感じられるのですが・・・。31日この日は寒かった。味付けは爺猿、焼きは母猿の共同制作による朝飯の卵焼きが美味かった。昼メシは前の晩から餃子150個と並行して仕込まれていたおでん。大鍋に一杯。売るほど・・・。午前中外出していた爺猿が昼前に帰ってきたので子猿の相手を任せてDVD鑑賞。見比べると面白いと言ってHAKKOが貸してくれた「CARMEN」で、ひとつはレヴァイン指揮のメトロポリタン、ひとつはメータ指揮のロイヤルオペラ。違いが分るのかと言われるとよく分からんが、確かに見比べると面白い! オーケストラと指揮者の様子が映し出される序曲だけでも何回見比べても楽しめる!たまにはHAKKOも良いことを教えてくれるのだ。晩メシは母猿の希望により極上和牛1.5キロを鉄板焼。自分で希望したにも関わらず、愚かな母猿は大量のおでんに目が眩んで後先考えずに昼メシを食い過ぎてしまい、極上和牛は早々にリタイヤ。奈良の親猿家では次の食事のことを考えながら、食事をしなければならないという鉄則を未だ分っていないらしい。
2005年12月31日
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28日仕事納め。朝からちょいと挨拶回りだけして、11時ごろから蕎麦屋へ部長以下全員(と言っても10人足らず)集合し、そのまま3時ごろまで呑む。終わった頃にはぐでんぐでん。へろへろの状態で会社へたどり着くと、ちょうど正式な部門の納会が始まるところで、乾杯だけしてそのまま自分の席で寝る。電話が鳴ったので取って「おはようごらいまふ」と挨拶したのは覚えているが、はて、何の用だったのか?とりあえず当日酔いは覚めたようなので、家に戻ると二日酔いに突入。翌朝まで身動き出来ず・・・。29日乗り納め。前日呑み始めたのが昼前、呑み終えたのが夕方前だったので、恐ろしい二日酔いが始まるのも早かったが、覚めるのも早く、爽やかな朝だった。昼頃にクラブへ行って年末ジャンプ大会の新馬戦に参加。高さ60センチ(ホントは60もないだろな・・・)の行って戻るだけのアホみたいな経路。谷野には「シャイニーは後でアトラクションに使うので、さっさと済ませて下さい」みたいなことを言われ、さっさと済ます。アホみたいな経路なのに一箇所失敗。ドリーマー(新馬か? 確かドリで国体予選に挑戦した人がいたような・・・)に負けて2着だけど、賞品はクラブの名前入りフライトジャケットでちょっと嬉しい。アトラクションでは谷野が猛烈なのを跳びまくってるのを指をくわえて眺める。今日は子猿も乗り納めの日。ポニーのココアに乗って「停止」を教えて貰い(ひたすら引っ張る)ご満悦。
2005年12月29日
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書き忘れていた今年最後の乗馬学校。出馬表に知らん馬の名前(マニフェスト?)が書いてあって「そんなヤツ知らんわ」と思っていたら、谷野に呼び止められて「ロイヤルナイトでお願いします」と言われた。そいつも知らんわい。ドン・キホーテのロシナンテもかくやと思わせるような骨と皮だけみたいなロイヤルナイト。お白州へ引き出すようなつもりで洗い場へ引き出してくると、洗い場の枠組みにお尻をもたれかけて腰掛けてやがる! お尻方向に馬体を収縮させて完全に座ってやがる! なんか知らんけど、最近のクラブの練習馬は左が固い馬が多いなぁ・・・とブツブツ思いながら何気なく乗り出すと膠着された・・・。あ! 思い出した! だいぶ前にこいつに乗って膠着され、モリタ君を蹴り倒しそうになったヤツだ! 前へ出そうとすると後蹴りかまされてラチを叩き壊してしまったので、ムチ打ちの刑。しかし最近思うのだけれど、私は膠着された時の対応が悪いようだ。膠着は私が最も嫌いな反抗なので、やられるとカッとなって「反抗するか!」という気になり、さらに強く前へ出そうとするのだが、そこで大喧嘩になってしまう。ちょっと方針を変えて、今度からは反抗するウマが予想していないような意外な対応を取ってみよう。なんのつもりでこのウマを跳ばすのか分らんが、このウマは障碍を跳ぶのはキライではないようです。
2005年12月24日
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すっかり「こいつはアホや」という見方が定着してしまったシャイニー。先日は桝井さんに乗って貰ったらしいけれど、馬上で終始罵り続けていたらしい。乗馬学校が終って、今日は1人でフラットワークだけで済ますはずの天下のアホ馬シャイニーをいつ出そうかなと考えていたら、所長に拉致された・・・。で、先日に引き続き、自馬並のマンツーマン障碍練習となったわけですが・・・。こいつはアホやけどよく跳びます! アホやからこんなに跳ぶのかと思うほど跳びます! 単一の垂直とは言え、ホントに久々(ビアンスー以来、数年ぶり?)にメーター20くらいのをバンバン跳ばせて貰ったけれど、気持ち良かった~! 左右交互に跳び続けたのだけれど、踏切バーのおかげもあって、真っ直ぐ向いてからは何もしなくてOK! オートマチックに近い感じで毎回同じ踏切位置でポコ~ンと跳び上がって、乗り手は跳びについて行くだけでOK! とは言え、跳んで右へ回して、左へ回してというのがやっとで、回転から障碍への入りが悪くて落としたり、着地して手前を出すのに手間取ったり、そもそも乗り自体も決してきれいな乗りではなかったのだけれど、最初のうちは少々引きつり気味だった表情がいつの間にか緩んでしまって、余計なことはあまり考えずに、集中して高い障碍を跳ぶことの楽しさに酔ってしまった! やっぱり跳ぶ馬に乗って、普段はなかなか跳べないような高さを跳ぶのは楽しい! それになんと言って、もちろん悪いところはいろいろあるし、経路になったらどうなるか分からないけれど、今でもこのくらいの高さのは楽しみながら跳べるんだという自分を発見し、それが嬉しいのです。こんなに楽しませてくれたアホ馬に乗れる機会も、もうわずか・・・。
2005年12月23日
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約3ヶ月ほど、頼みもしないのに乗せられ続けたマールーだけど、そろそろ終りだろうなと思っていたら、その通りになった。だいたい配馬の傾向は分っているのだ。それにしてもやね、ず~っとマールーばかり乗り続けて、その後にいきなりフュージはヤダな・・・。とにかくちょっとはピリッとして貰わないとどうにもならないので、駈歩発進→停止の繰返し。発進の時に少しでもまごついたらムチ打ちの刑!速歩はどうにもならず・・・。脚の効く場所が分らず、あるいはここで脚!脚!脚!という時に欲しいあと一押しが出せず・・・。駈歩ではそれなりの態勢は作れるが、あとでやることを考えれば、発停と1本調子で楽なところで乗るだけではなく、もっと詰め伸ばしをやっておけば良かった・・・。直線上に置いた低いのを行きは3歩・3歩、輪乗りしてから帰りは4歩・4歩の課題だったけれど、一発目に何も考えずに入ったら帰りの4歩が全く出来ず、最初からやろうとすらしてないように見えたかも・・・。単に楽なところで乗って頭を使ってないバチが当たった。ニ発目はさすがに少し考えて、ウマの頭に逆ムチをかざして輪乗り上で姿勢を作ってペースを整えたら、それなりに惜しいところまで行った。最後に跳んだ時は3歩・3歩の3つ目の障碍を私が見てないところで上げておいてくれたのだけれど、直前に何も出来ずに見事に逃げられた。跳んでりゃカッコ良かったんだけどな・・・。これも同じ反省で、ウマは単に楽なところで動いているだけで、乗り手はそこで楽に乗っているだけ・・・。しんどいウマだけれど、重いのは仕方が無いとしても、多くの反省点を残してくれました。
2005年12月23日
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先日の日記で大昔のイギリスの蒸気機関車"Iron Duke"号を紹介したが、この機関車には番号は付けられていない。あるのはこの名前だけ。ウマに名前が付けられているようにイギリスの機関車には名前が付けられている。貨物用の機関車や大量生産された汎用の機関車には番号だけで済まされているものもあるが、ほとんどの旅客用の機関車は1両ごとに固有の名前を持ち、自分の紋章を持っている機関車もいる。新幹線「のぞみ」とか特急「北斗星」とは全然次元の違う話。日本で特急「北斗星」を引っ張る機関車はEF81型95号機という具合に番号だけで素っ気ないけれど、イギリスの場合はその機関車が自分の名前を持っている。A1型4472号機"Flying Scotsman"、7P型6201号機"Princess Elizabeth"、9F型92220号機"Evening Star"という具合。蒸気機関車といえば日本では真っ黒な巨体を思い浮かべるがイギリスの機関車は違う。"Flying Scotsman"はアップルグリーン、"Princess Elizabeth"はクリムゾンレイク、"Evening Star"はダークグリーンに塗り上げられ、艶々に磨き込まれ、自分の名前が浮き彫りにされた金色のネームプレートと紋章を輝かせながら疾走する。第二次大戦中に開発された急行用機関車で"Battle of Britain"型という物騒な形式の機関車があり、この形式の機関車には1両ごとに第二次大戦における英国本土航空決戦(Battle of Britain)に因んだ名前が付けられた。例えば"Spitfire"や"Hurricane"は戦闘機の名前、"Fighter Pilot"はずばり戦闘機パイロット。"25 Squadron"は一見、番号のようだが「第25航空隊」という戦闘機部隊の活躍を記念して与えられた名前で、機関車の側面には色鮮やかな部隊のマークが取り付けられている。ドイツ空軍の英国本土空襲に対する英国空軍の防戦をBattle of Britainと呼び、英国は大きな犠牲を出しながらも本土を守り抜いた。時の首相チャーチルは幾多の名言を残しているが、このBattle of Britainの勝利を祝する演説の中で、戦闘機パイロット達の奮闘を称えた次の一節が有名だ。"Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few."(人類の闘争において、かくも少数の人々が、かくも大きな恩恵を、かくも多くの人々にもたらしたことは、未だかつてなかった)「声に出して読む日本語」とかいう本が話題になったけど、英語の名言も声に出して読むべきだ。この言葉を繰り返し声に出して読んでみると、さすがにしみわたるものがある。ということで、電車の中で耳にした寿司についてのガイジンさんの会話に始まり、名画から7つの海、また名画から鉄道へと経巡ったおはなしは、英語に戻っておしまい!今も元気に走る"Battle of Britain"クラス34081号機"92 Squadron"。アイデアに満ちた(多少常識に欠ける?)設計者O・V・S・Bulleidが「洗いやすいように・・・」と開発したちょっと変わったスタイル。装いはマラカイトグリーン。側面に取り付けられているのはネームプレートと紋章。
2005年12月20日
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今日は予定通り会社はずる休み。昨夜がクラブの飲み会で翌日は動けないこと必至と思っていたので、ずる休みすることに決めていたのだが、案に相違して今朝の目覚めは快適だった! でもせっかくずる休みしようと決めていたので、計画通りずる休み。他の参加者がどう思っていたか知らんが、昨夜の飲み会は面白かった! この面子が揃った時の話題は、いつものことだけれど聞いても全く賢くならないような話ばかりで、昔話や誰かさんのうわさ話、誰さんが誰さんをいじめてどうこうとか、短足がお洒落するのは難しいとか、姉歯元建築士はヅラだとかいうようなことを、各自勝手に喋ってゲラゲラ笑ってた。所長さんが真面目な話をしかけた声は、間の悪いことに別の声にかき消され残念・・・ごめんなさい・・・。うどんを食った上でこの飲み会に参加しているHakkoに焼おにぎりを半分以上奪われて、少々寂しい気持ちになったが、もうだいぶ遅い時間になったので、最後に所長がひと言おっしゃって(なんて言われたっけ・・・?)終了~!
2005年12月19日
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今日は桝井さんのクリニック。実は私は桝井さんに教わるのは初めてなのだ。ずいぶん以前にまだ母猿が乗っていた頃、うちのクラブにエスパッシオという駄馬がいた。とにかく重い。捨て台詞を吐いて独立し、つくばに乗馬クラブを作ったが失敗、今は行方知れずになっている某指導員(こんなヤツの名前なんて忘れましたわ・・・)が調教を進めていたのだが、とにかく重いウマ。なぜか小柄で非力な母猿がこの駄馬に乗るのがうまかった! クラブ内の競技で当時はメーター10の種目があったのだけど、母猿がこの駄馬に乗って満点でゴールし、高さが上がってメーター20のジャンプオフも帰って来たのは不思議だった。その当時から桝井さんは時々クリニックに来ていたのだが、母猿がこのエスパッシオで参加、いきなり褒められた! 「母猿さんはすごい! どうやってそのウマ動かすんですか? 昨日ボク乗ったけど動かなかったんです! すごい!」まあ、すごいというか・・・やっぱり不思議だ。クリニックを受けての感想。桝井さんは90分間(+ミーティング1時間)しゃべり通しにしゃべっていたけれど、とにかくアドバイスが的確かつ具体的で分りやすい。大選手に違いないのだけれど、難しい理屈なんかひとつも言わない。とはいえ要求する程度が低いということでは決してない。今日のクリニックにはいろんなレベルの人が参加していたけれど、「時間がない! 時間がない!」と言いながらも、ひとりひとりに対して熱心に教えてくれた。クリニック代1万円チョイ(ただし騎乗料込み)払って教わりに来ている人達に、少しでも何かを得て貰いたいという教える人の気持ちが伝わってくるような練習で、さすがにプロだと思った。とにかくいろいろ教えて貰って楽しかった!
2005年12月17日
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鉄道においては一般に、線路の幅(軌間=ゲージ)は広ければ広いほど、車両も大きく出来るし、安定性も増すので高速運転には有利だ。一方で幅が広い分、土地が要るし、鉄橋やトンネルも大きく作る必要があるので資金も時間もかかる。植民地や新興国が手っ取り早く鉄道を敷くにあたり、列強が標準とする1,435ミリ(標準軌)より狭い1,067ミリあるいは1メートルの軌間を持つ安上がりな狭軌鉄道を採用した。日本もイギリスの奨めに従って狭軌を採用し、以来、全面的に標準軌化する計画はあったものの立ち消えとなり、本格的な高速鉄道である新幹線には標準軌を採用することによって二本立てとなった。標準軌間の寸法は特に根拠があって決まったことではないらしい。世界で最初に本格的に蒸気動力を採用したイギリスのリヴァプール・マンチェスター鉄道の軌間が、周辺にあった昔ながらのトロッコ鉄道か何かの軌間に合わせて造られ、後から計ってみたら1,435ミリだったとか、そんな他愛ない理由だったと思う。これに真っ向から異を唱えた男がいた。天才中の天才ともいえる技術者イーサンバード・キングダム・ブルネルだ。ブルネル先生は持論として「列車は速ければ速いほどえらい。速い列車を走らせるためには広い軌間が必要だ。軌間は広ければ広いほどえらい。1,435ミリなんて中途半端で根拠のない軌間の必要性はゼロ」と言い放ち、彼が技師長に就任し、建設を全面的に任されたグレート・ウェスタン鉄道(GWR)で早速実行に移す。彼が採用した軌間は7フィート1/4インチ=2,100ミリ以上、すなわち現在のJR在来線の約2倍の広さ。当時イギリス全土に広まりつつあった1,435ミリと真っ向から対抗しながらイギリス西部を中心にGWRは軌間7フィート路線を延ばし、やがて両者が出会ったところで「鉄道ゲージ(=軌間)戦争」が始まった。軌間が違うと列車は直通できないので両者の接続駅では常に大混乱が生じた。お客さんが乗り換える手間はお客さんが歩けば解決できるが、貨物の積み換えの手間は大変だ。英国中部の工業地帯は1,435ミリ支配地域にあり、大貿易港ブリストルは7フィート支配地域にあるので、その間の膨大な物流をいちいち積み換えることとなり、想像を絶する大混乱を引き起こすことになった。「一刻も早くなんとかせねば!」という声が上がったが、ブルネル先生は「7フィートの方が優れているのだから周りが7フィートに合わせれば、そんなコマゴマした問題は自ずと解決する」と相手にしなかった。軌間だけではなく、線路の敷き方、駅の構造、信号機の形に至るまで、なんとなく「標準」(そしてそれらが今も標準)となってしまったあらゆるものに対してブルネル先生は抵抗を示し、自ら理路整然と考えて発明した新機軸をどしどし取り入れ、結果としてGWRは何から何まで他の鉄道とは異なるシステムとなってしまった。このままでは収拾がつかなくなるという心配を受けて、鉄道ゲージ問題に関する王立委員会が組織され解決を図ることになった。まず行われたのは両者の機関車による競走。単純な競走によってどちらが優れているかを決めようということになったのだ。1845年に行われたコンテストの結果、7フィート側が1,435ミリ側を大きく上回る成績を残し、ブルネル先生の言うとおり7フィートの優位性を実証した。さらに委員会に召喚されたブルネル先生は「もう一回やり直せるなら7フィートよりも広い軌間を採用したい!」と吼えた。王立委員会は結論を下し、翌1846年に鉄道ゲージ法を制定、今後の鉄道敷設においては軌間は1,435ミリを以って標準とするということが決定された。ブルネル先生が「試合に勝って勝負に負けた」理由は単純で、既にこの頃には1,435ミリ路線の総延長が7フィート路線の総延長を大きく上回っていたという多数決と、今後の統一化にあたっては、狭いものを広げるよりも広いものを狭める方がカンタンだということ。この法律の制定によって7フィート軌間の未来は閉ざされたが、当面GWRグループはこの法律の適用から除外されることになり、直ちに軌間を狭くしなさいということにはならなかった。ブルネル先生とGWRは意気消沈するどころかヤケクソのように走りまくり、未来を閉ざされた7フィート軌間の優越性を誇示、昨日の日記に書いた超高速列車を登場させることになるのです。原始的汽車ポッポにして現代の特急に迫る実力の持ち主GWRの7フィート軌間用機関車”Iron Duke”。運転室などという甘っちょろいモノはない。機関士とカマ焚きは吹きっさらしの立ちっぱなし。
2005年12月15日
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鉄道は芸術だ。有名なこの絵は1844年に発表されたJ・M・W・ターナーの「雨 蒸気 スピード グレートウエスタン鉄道(Rain, Steam and Speed, The Great Western Railway)1830年に蒸気機関車を動力とする最初の本格的な鉄道であるリヴァプール・マンチェスター鉄道が開業して以来、英国全土に鉄道が敷設され始め、悲願とされた首都ロンドンと大貿易港ブリストルを結ぶグレートウエスタン鉄道(GWR)が難工事の末に約190キロの全通を果たしたのは1841年のこと。日本最初の陸蒸気が新橋・横浜間を走る約30年前。テムズ川に架かるメイドンヘッドのアーチ橋を通過するGWRの列車を描いたターナーの心境は置いとくとして、この絵の発表から2年後、ブリストルからさらにコーンウォール半島に向けて延伸されたGWRの急行列車はロンドン・エクゼター間310キロを208分で結んだ。全区間の平均時速は89キロ。最も平坦で線路条件の良いロンドン・スウィンドン間120キロの区間における平均時速は95キロ。従って、ターナーが描いたこの列車もほぼそれと同様の能力を持っていただろうと推測できるわけですが・・・。ちょっと前の日記で褒め称えた特急「はくたか」だが、はくたか1号の場合で金沢始発が6時11分、越後湯沢終着が8時41分。その間261キロを150分で結んでいるので、最高速度は時速160キロでも平均時速は105キロ。陸蒸気よりも遡ること30年、今から160年前の原始的汽車ポッポの引く急行が、お客を乗り降りさせたり、水や石炭を補給する時間も含んでの平均時速が90キロ程度で、最新鋭電車による日本最速特急(新幹線を除く)が停車駅は1分停車ですっ飛ばして平均時速が105キロ。160年前のイギリス人は恐ろしい。
2005年12月14日
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先日、なにげなくテレビをつけっ放しにしていたら、静内の農業高校についての番組をやっていた。馬術部の生徒達が学校で競走馬を生産し、セリにかけて送り出すまでの物語。以前はこういうのを見ると、登場する人達をガンバレと応援する気持ちはあるのだけれど、では自分がやってるのはどうだと聞かれると、ウマに関してセンスのない私が、実力だけがモノを言うであろう世界で、相次ぐ重労働にヒィヒィ言わせられながら、どっぷりウマ漬け生活を送るのはもうたくさんだという気持ちできっぱり拒否!しかしですねぇ、父親の立場で考えてみると、自分の子供にこういう青春時代を送って貰いたいという気持ちがないではない。「お父ちゃんにはムリやけど、キミにはチャレンジして貰いたい!」というのは甚だ説得力が無いんだけれど、お父ちゃんは汗流して頑張るキミを精一杯応援する気はありますよ・・・。
2005年12月13日
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土曜日はウマが終ってから牛久大仏へ行き、子猿を動物達とたわむれさせる。ここの池の鯉はすごい! 撒かれるエサを目当てにして岸に近寄っているというか、ほとんど上陸しちゃってる。子猿が一袋100円のエサ(恐らくコイミー)をちょいちょいバラ撒くと、上半身を水面上に露出させるほど浅いところで待ち構えていたコイどもが必死の形相でさらに波打ち際にいざり寄り、「バクッ! バクッ!」という口の音をさせてエサを貪る光景は、魚類から両生類への進化を目の当たりにするようで一種の感動を呼ぶ。囲いの中には賢いミニブタのショウちゃんがいて、名前を呼ぶとぶ~ぶ~言いながら近寄ってくる。子猿が「パパ! なでなでして!」と言うが、ショウちゃんは結構剛毛っぽいので触るのはイヤだ。それにそもそも、ショウちゃんはミニブタということになっているが、大きなキバがある。実はイノシシなんじゃないの? ショウちゃんはしばらくぶ~ぶ~言っているが、何もくれないと分ると黙って元の日当たりのいい場所へ戻って昼寝。12月の土曜は猿回しはやっていないので、今日の子猿の目当ては放し飼いのウサギ。ニンジン(一皿100円)を与え、水を飲めと強要し、他の子供がウサギに触ろうと近寄ってくると「子猿ちゃんのウサギさん!」と威嚇して追い払う様子が微笑ましい。遅い昼メシは母猿の実家近くにある土浦ラーメン。前から気になっていたのだ! 2時頃だったけど盛況でしばらく席が空くのを待つが、店の中が暑すぎる! 席について私は「ゴマミソ厚切りチャーシュー」と「ラードライス」を、母猿と婆猿はそれぞれ「しょうゆラーメン」を、それと餃子狂いの子猿のために「蒸し餃子」を注文する。しっかし暑い店だなぁ!と思いつつ、腹が減って気が荒くなっている子猿をなだめながら、評判のラーメンのお出ましを待つ。来た来た! 店は暑かったが、ラーメンはぬるかった・・・。
2005年12月12日
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昨日の乗馬学校が終って洗い場でしばらくお喋りしていたら所長が来られて「今日はシャイニー、何時に出すの?」と聞かれた。「今日はO平さんの番だから私は明日です」とお答えすると「こないだ谷野に跳んでみぃ言うて支柱の一番上にバーかけて跳ばしたら跳びよった! あのウマ、アホやからなんぼでも跳びよる! 明日は一緒にやろか!」と言われた。「・・・」と思いながらも可愛く「よろしくお願いします!」とお受けしました。子猿が起きてからだと一緒に連れてけとウルサイので、早めに家を出て、A班の連中がまだ練習やってる時間にクラブに着いた。あんまり近くから見て「早起きしてA班様の練習わざわざ見に来よったわ!」と思われるとイヤだから、離れたところからこっそり見た。所長とご相談して、昼前の馬場の空いている時間に出すことにした。それまで時間があるので、オースミツヨシとお喋りしたり、Hakkoの悩み事を聞いたりして時間を潰す。ツヨシが「腹減った!」と言うので、今日は喫茶が半額の日だからピラフを奢ってやった。私はたぬきそば。言っちゃ悪いけど、クラブのメシは以前のほうがずっと良かったなぁ・・・。昔のランチは結構美味しくて、近所のお百姓さんがメシだけ食いに来たりしてたけどなぁ・・・。時間になったので、単一だけ置いてある馬場の端っこに連れて行き、最初に所長に乗って頂いた。やっぱりこのウマは跳びがすごいんだなぁ! 前駆がグワッと騰がって、後躯がポ~ンと跳ね上がる。乗り替わって、クロスから始めて、そこそこの垂直まで跳ばせて貰った。出来上がったいいウマには低いクロスはバカにしてマジメに跳ばないヤツがいるけど、このウマの跳びは高さに全然関係ない感じ。最初のうちは踏み切ってから体が煽られて大変だった。跳ぶに従ってだんだん随伴はサマになってきたけど、やっぱりこのウマは疲れる・・・。息をハアハア言わせて誘導し、パコ~ンと跳び上がって着地するまでの時間が唯一、気を楽にできる時間という感じ。着地してからまた必死で掴み直して、ドキドキしながら誘導してパッコ~ン!跳びながら踏切りが遠めに感じられて、もう少し近いとこへ持って行きたいと思いながら、アプローチへの回転で何とかすれば、何とかなるんだろうけど、そこまで余裕なし・・・。見ていた人に後で聞いたら、そんなに大ハズレじゃなかったと言われたけど、元々の跳びがデカイから少しでも踏切りが遠めになると、デカイ跳びが拡大されてえらく遠いように感じるのかも・・・。あ~! このウマに上手く乗れたらメチャメチャ気持ちいいんだろうなと思いながら、からだがついて行かず悔しいです。でも久しぶりにホンモノのパコ~ンという跳びが味わえて大満足!終って洗い場へウマを繋いでホッとしたら、めまいがしてきた。これって酸欠?
2005年12月11日
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最近フラットワークがあまり乗れないのだけれど、今日は泣きそうになるほど最悪の出来だった。休憩中に谷野に「いつもと乗りが違いますねぇ・・・」と言われて「一年生みたいなやろ・・・」と答えたけど、ホントにそんな感じ。座りもなってないし、有効な脚も使えてないし、拳も固いし・・・。たまに悪い時があるだけなら「まあ、こんな時もあるさ・・・」程度であまり気にしないのだけれど、これはちょっと悪い循環に入りかけてる気がする。調子が戻るのを待つのではなくて、積極的につかみ直さないとヤバイかもね・・・。単一跳んでる時に私は障碍の真下まで踏み込ませる、タマちゃんのトップクロスは遠めからという課題を与えられたのだけれど、谷野の予言どおり、一発目はまず私がとっても遠めから、タマちゃんがずば~んと真下までと見事に課題を奪い合いしたのは笑った。間が2歩で4つの垂直を置いたラインは私が得意とするところなので、上手く行った。間が2歩、2歩、2歩というリズムが私に合ってるのです。やっぱりリズムは大事かも。フラットワークしてる時はリズム感ゼロで、ウマと自分の気持ち、からだの動きが全然チグハグだったし・・・。終って自分の足拵えを解いている時、レッグチャップスが左右逆(あて革が外側 ジッパーが内側)だということに気付いた。ジッパー締める時に「なんか違うなぁ・・・」って思ったんだけど・・・。リズム云々以前に寝ぼけてたのかも。
2005年12月10日
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海洋冒険小説といえば、もうひとつ見逃せないのが「海の鷲 ゼーアドラー号の冒険」。この本は絶版になっており入手困難なので内容を紹介します。=====名門伯爵家に生まれたフェリックス・フォン・ルックナーは生来の腕白坊主。10代の頃に「皇帝陛下の軍服を着るまで戻りません」と書置きを残して家を飛び出し、変名して一介の水夫として帆船に乗り込む。意地悪な船長にいじめられたり、食い詰めてメキシコあたりでインチキな兵隊になったりしながら冒険を重ね、一人前の船乗りになっていくフェリックス少年。ついに水夫からドイツ帝国海軍士官への登用試験に合格し、長い年月を経て青年となったフェリックスは、約束どおり「皇帝陛下の軍服」を着て家に帰る。父の伯爵いわく「だから言ったろう! 私たちのフェリックスはいつかはひとかどの男になると思っていた!」と大歓迎される。海軍士官として勤務を続けるうちに第一次大戦が勃発。この戦争においてドイツは島国イギリスの物流を絶つことを最重要の目標とするが、これについてフェリックスは皇帝陛下に対し「いかにも無害で弱々しい古い帆船を武装して、油断する敵船を捕えるというアイデアはいかがでしょうか?」と直々に進言する。面白いと思った皇帝陛下は「ではお前がやってみろ!」と許可する。1隻の古い帆船を改造し、強力な武装を施した帆走巡洋艦ゼーアドラー(海鷲)号が誕生する。もちろん大砲も積んでいるが、これは巧妙に偽装するようなギミック満載で、フェリックス・フォン・ルックナー伯爵少佐指揮の下、ゼーアドラー号は勇躍大西洋に出撃する。連合国商船が警戒しながら進んでいると、向こうから1隻の中立国の国旗を掲げたボロ帆船が弱々しく近寄ってくる。望遠鏡を向けると何やら煙が上がっている。デッキの上では水夫達が慌てふためき、婦人がオロオロしながら右往左往している。これは船火事に違いない! 救助の手を差し伸べるべく、急いでボロ帆船に接近した連合国商船の目の前で、中立国の国旗がスルスルと降ろされ、ドイツ帝国の大軍艦旗が掲げられる。デッキの上の一見貨物と思われた箱がパカッと割れて、中から大砲が現われ、ドレスを着た婦人に化けた水兵たちが手早く砲身をこちらに向ける。「こちらはドイツ帝国海軍巡洋艦ゼーアドラー号です。直ちに降伏して下さい」という呼びかけになすすべなく、連合国商船の乗組員達は「こんなアホらしい目に遭ったことがない」とブツブツ言いながら救命ボートに乗り移り、全員無傷のままでゼーアドラー号に収容される。ニセの国旗を掲げることは少しも違法ではないが、戦闘開始直前には降ろして、正当な旗を掲げなければならないというのが戦争のルール。全員が避難した連合国商船は仕掛けられた爆薬により海の藻屑と消えて行き、それを眺めて落胆する船長に「お気の毒です・・・」とルックナー伯爵が慰めの声をかける。船長はゼーアドラー号の艦内に備えられた居心地のいい船室に案内され、捕虜になった乗組員達はお客様として出来る限りのもてなしを受けた。1隻の商船を火事作戦だったか、あるいは「いま何時?」作戦(この頃の船の時計は時々くるったので、洋上で行きかう船は時間を教えあった。この慣習を利用して連合国商船に近づき、例によって「こちらは・・・」という作戦)だったかで捕えた際、その船の船長は新婚ホヤホヤで夫人を伴って航海していた。ゼーアドラー号にとっては初めての女性のお客様で、ルックナー伯爵はじめ乗組員達は彼女を退屈させないように細心の気を遣ったが、ある時、ルックナー伯爵は彼女に呼び止められた。「伯爵、折り入ってお願いがあるのですが・・・」「なんでしょう? マダム」「ひとりだと寂しいので、もっと女の人を捕えて頂けませんか?」「最善を尽くします。マダム」マダムの願いがかなって、めでたくもう1人の女性客を迎えたゼーアドラー号だが、戦果を挙げるに従って艦内は捕虜達で満員になり、早急に対策を講じる必要が生じた。しかし神出鬼没を最大の武器とするゼーアドラー号が堂々と港に立ち寄って、捕虜達を下船させるわけにはいかない。そこで、ちょうど現われた連合国商船に収容中の捕虜達を全員移乗させ、最寄りの港に入港するまで決して無線を発信しない、決して他の連合国艦船に近寄らないという誓約をさせた上で全員開放ということになった。離れてゆく両船のデッキ上は別れを惜しむ敵味方で鈴なりになり、戦後の再会を約束する声、武運長久を祈る声を響かせながら、いつまでもハンカチを振り合った。こんな調子でゼーアドラー号は大西洋のみならずインド洋、南太平洋にも進出して「海の魔王」と恐れられ、11隻の商船を拿捕、撃沈するという戦果を挙げたが、その間、敵味方ともにひとりの死者も出さないという不滅の記録を打ち立てた。=====親猿好みのおはなしでしょう? ちなみにこれは実話です。ただし、ひとりの死者も出さなかったというのが定説だったのですが、残念ながら、逃走しようとした船の乗組員ひとりが威嚇射撃による負傷が原因で亡くなっているのが真実のようです。本に紹介されている私の好きなエピソード。ある船を捕えたルックナー伯爵は捕虜の収容後に自らその船に赴き、しばらくひとりにしてくれと部下に言った。ゼーアドラー号に戻った伯爵は捕えた船の爆破を命じたが、その日は一日中艦長室に閉じこもって塞ぎ込んでいた。その船は、彼がまだ年若い水夫時代につらい日々を送り、また船乗りとしての彼を育ててくれた母なる船だった。後年、夫人とともに自分のヨットで世界中を旅行して周った頃の伯爵。1966年まで長命。
2005年12月09日
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この前、会社帰りの電車の中でガイジンの女の子がふたり、英語でベラベラ喋っていたのだけれど、「サーモン」とか「ツナ」という言葉が出てくるので、寿司の話をしているのだなと分った。私は一応英語は使えることになっているのだけれど、この程度です。ガイジン同士が喋っているの横で聞いていても、よくわからん。相手が日本人向けに易しく話してくれて初めて「ふんふん」と会話が成立する。今年、英国民を対象にして「英国内に展示されている絵画で最も好きなものは?」というアンケートが行われ、J・M・W・ターナーの「戦艦テメレール」(The Fighting "Temeraire", tugged to he Last Berth to be broken up = 解体の為、最後の停泊地へ曳かれ行く戦艦テメレール)が1位に選出されたそうだ。この絵は美しい。イギリスの風景画、なかでもターナーは大好きだけれど、この海景画は本当に美しいと思う。ターナーはこの絵において美しい光景ばかりではなく、時代を描いている。ネルソン提督率いるイギリス艦隊の主力艦としてトラファルガー海戦の大勝利に大きく貢献した98門搭載一級戦列艦「テメレール」だが、もはや風の力だけで走る帆走軍艦は時代遅れとなり、夕陽を背にしてちっぽけな蒸気船により解体地へ曳かれゆく光景と時代だ。「戦艦テメレール」が現役で大活躍していたアメリカ独立戦争からナポレオン戦争時代を舞台にした海洋冒険小説は数多い。「マスター・アンド・コマンダー」として映画化された「オーブリー艦長シリーズ」や「海の勇士ボライソーシリーズ」などなど。中でも絶対外せないのは「海の勇者ホーンブロワーシリーズ」。あらゆる海洋冒険小説はすべて、このホーンブロワーシリーズを始祖としており、チャーチルの座右の書としても知られている。縁故と家柄が昇進の絶対条件だったような当時の英国海軍にほとんど無一物の士官候補生として入隊し、自らの才覚と周りの人達の支えを受けながら、遂には提督にまで出世するホレイショ・ホーンブロワーを主人公とするC・S・フォレスターの名作だ。このシリーズがただの冒険物に終っていないのは、ホーンブロワーはじめ登場人物の性格描写にある。ホーンブロワーは提督にまで登りつめるような男なので、もちろんその勇気と才覚は秀でているのだけれど、弱点や欠点もあり、決して完全無欠の英雄ではない。一番の弱点は海軍軍人でありながら船に弱いこと。しょっちゅう船酔いで苦しんでいる。男らしいとはいえない面もある。軍港の下宿屋の娘マリアに惚れられて押し切られ、なんとなく結婚したけれど、献身的に尽くす彼女のことを疎ましく思い、結婚を後悔し続ける。マリアが早死にするや、これ幸いと浮気相手だった貴族の未亡人バーバラとさっさと再婚したり・・・。このシリーズはテレビドラマ化されて、昨年だったか一昨年だったか日本語吹替版がNHKで放映された。これが原作に負けず劣らず素晴らしかったのだ。ストーリーはドラマ向けに相当改変されているのだけれど、上手に纏められているし、何よりも映像が素晴らしい。華麗で勇壮な18世紀の帆走軍艦がまさにそのまま蘇り、大海原を進み、艦隊を編成し、撃ち合いを演じる様子は見ているだけでも鳥肌が立つようだ。ドラマの放映後すぐにDVDが欲しくなった。たぶん日本国内版は出ないだろうし、出るとしても相当先のことだろうと思い、原語の輸入版を全シリーズごっそり「大人買い」した。英語だったら多分わかるだろうと思ったのだが・・・。さっぱりわからん。「Yes, sir!」と「Aye, aye, sir!」しかわからん。英語の字幕は出せるのだけれど、映像を眺め、台詞を聞き、字幕を追いするのが大変だ。「せっかく買ったのに、これは困ったな・・・」とお蔵入りになっていたのだが、つい最近、何気なく取り出して見てみたら、これが面白い!もうストーリーは分っているし、吹替の日本語の台詞も大事なところは大体覚えているので、英語の台詞を一語一語完全に聞き取ろうとするのをやめて、大事なところだけ俳優が喋る英語の台詞と記憶にある日本語の台詞をぼんやり照らし合わせるという方法で見たのだけれど、これが大成功だった。もちろん、わからないところは一杯あるのだけれど、完全に理解できる日本語吹替版よりも、かえってその場の雰囲気やニュアンスがダイレクトに伝わってきて、ドラマの面白さが余計に感じられた。Heart to Heartに近いものがある感じだった。
2005年12月07日
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昨日はゴルフだったのでウマに行けず。今日は少々お疲れ気味だし、年忘れパーティの為にクラブも午後はお休みなので家でゴロゴロ。クラブの年忘れパーティに初めて行ったのは、六本木のベルファーレを借り切って3つの事業所合同(東武、伊奈、竜ヶ崎だっけ?)でやった時。なんか竜ヶ崎の人達は隅っこで小さくなってたような・・・。社長も大阪からお越しになって「クレインが好きな人もいます! 大嫌いな人もいます!」という演説をされ「嫌われてることも認識してるのね!」と感心した。どっかの飛行機会社のスッチーも現われて、航空券プレゼントなんかもやってた気がする。母猿と初めて同席させて頂いたのも、その後の二次会でしたわ・・・。母猿は私の向かい側にポカ~ンと座っていたが、隣にいたせんちゃんが母猿を指して、聞いてもいないのに「この人、実は○○歳なの! 若く見えるけどね!」と教えてくれた。今はもう姿を見せなくなったイサカ君が母猿にちょっと興味あり気だったような・・・。その頃の母猿はわりあい可愛かったのだ。ちょっと足りなそうな感じもしたが・・・。ベルファーレの雰囲気について行けなかったせいか知らんが、翌年からは単独のパーティーになったと思う。結婚した年(2000年)のパーティーには、骨折した脚で松葉杖を突き、すごいヒゲ面(入院中はずっとヒゲを伸ばしていた 我ながら似合っていた)で出席し、各種表彰で「大怪我賞」を貰った。呼ばれて登壇し、今まで貰った中で一番でかい楯かトロフィーを頂戴しました。近くにいたおばはんに「いいわねぇ!」と言われた。年忘れパーティーに行ったのは、その年が最後だったかな・・・? チケット高いしね・・・。=====母猿も月例杯年間何位だったかで表彰されたそうで・・・すっかり忘れていたが、母猿に書けと言われたので書きます。
2005年12月04日
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ゴルフのスコアはさすがにここにはかけません。どうせダメなの分ってるんだから、フルスイングするのはバカバカしく、ほとんどハーフスイングで冗談みたいにポコポコ打ってたんだけど、スコアが変わらないというのが不思議だ。フルスイングすると飛ぶには飛ぶがどこへ飛んでいくか分らず、一方でテキトーに打つと距離は出ないけど一応着実に前進するので効率が良いのだ! それにしても、いつも思うんだけど、ゴルフの穴は小さすぎる。せめてグリーンに乗ったらOKとか、グリーン全部を掘り下げて穴にして、そこに入ったらOKぐらいにしてくれないと、時間がかかって仕方がない。でも、まあテキトーに機械的にポコポコ打ってたおかげで、一緒に回った人たちを待たせることもなかったし、後ろが詰まるということもなかったし、天気は良かったし、それなりに楽しんで一日を終わりました。思い通りに行かなくて拗ねちゃったり、ショボくれたりする人が時々いるけど、あれはダメだなぁ・・・俺みたいにそれなりに楽しんで、ダメでもケラケラ笑って「よう運動しましたわ!」くらい言えるようにならんと・・・なんて思ったけど、考えてみたら、俺もウマで思い通りに行かなかった時は、なかなかそこまで達観できんわな・・・。
2005年12月03日
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第二次大戦中にシドニー湾を襲撃した3隻の日本海軍特殊潜航艇のうち、行方不明になっていた1隻と思われる物体がシドニー湾外の海底に沈んでいるのが発見された由。1942年5月31日 3隻の特殊潜航艇がシドニー湾に潜入。1942年6月1日潜航艇は湾内に停泊中の連合国艦船を攻撃、損害を負わせるが反撃を受けて2隻が沈没。1隻は湾外に脱出後、行方不明。1942年6月5日湾内で沈没した2隻の潜航艇のオーストラリア海軍による引揚げ。1942年6月9日2隻の搭乗員4名に対するオーストラリア海軍葬。オーストラリア海軍グルード提督による弔辞。「あの鉄の棺桶のようなもので出撃するには最高度の勇気を必要とする。これらの勇士は最高の愛国者である。オーストラリア人の幾人が、これら日本の勇士の千分の一の覚悟でも持っているだろうか?」1942年10月9日中立国経由で4人の遺骨が横浜に帰還。1965年6月9日オーストラリア戦争記念館館長夫妻が4人のうちのひとり松尾中佐のご母堂を訪問し、松尾中佐の墓前に参る。ご母堂は松尾中佐に対する海軍葬に対して厚く感謝する。1968年4月24日ご母堂83歳はシドニーへ答礼の旅に出発。出発に際し詠まれた歌。「とつ国の あつき情けに こたへばや 老を忘れて 勇み旅立つ」ご母堂の正式な挨拶文「訪豪にあたりて」「昭和17年5月31日、貴国シドニー港内にて戦死いたしました松尾敬宇の母でございます。当時、戦時中にもかかわらず、世界に例を見ぬ海軍葬の礼を以て厚く葬っていただき、その上遺骨は日章旗で覆い、丁重に遺族へ届けていただいて、10月9日、鎌倉丸横浜に着くや全国民の感激はとても言葉に尽くせませんでした。ただ貧しい老いの身をかこちながら年ごとの5月31日は遥かに貴国を拝し、感謝合掌しておりました。この度はからずも、多くの方々の御尽力を戴き、貴国を訪問、御礼言述べ得ますことは、こよなき喜び、かつ光栄に存じます。」1965年4月28日ご母堂シドニーを訪問。狭い湾口を見つめながら、「よくもこんな狭いところを・・・母は心から褒めてあげますよ。」1965年5月1日ご母堂はキャンベラの戦争記念館を訪問。「この勇気を見よ!」という説明が付されて展示されている松尾中佐乗艇に接する。松尾中佐が最後まで肌身離さなかった遺品の千人針が返還される。ご母堂は館長の手にすがり、館長はご母堂を抱きしめた。国賓なみの待遇を受けた10日間の訪豪を終え、ご母堂が帰国に際して詠まれた歌。「うしろがみ ひかれる思ひ この国は 吾子がしづもる 土にしあれば」
2005年12月02日
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今日の午後は会社をずる休みしてゴルフの練習。今度の土曜にお客さんとのゴルフ会があり、それに参加しなければならない為。このお客さんとのゴルフ会は年に2回。私が参加するゴルフ会は年にこの2回だけなので、ゴルフをプレイするのも年に2回。練習もこのゴルフ会の直前に1回ずつ、すなわち年に2回。そんなので上手くなるわけがない。お客さんも迷惑だろうと思うけど「この人はウマの人だから・・・」と下手でも文句を言われることもなく、なんとなく赦して貰っている。ゴルフクラブを握ったのは約9ヶ月ぶりだけど、なかなか好調でスコ~ンスコ~ン(一部スカッスカッ)と100球ほど打っておしまい。わざわざずる休みするほどのこともなかったけど、自分の時間を割いて練習するのもバカらしいので、これで良いのだ。ゴルフを始めたのは4年ほど前だ。それまでは「ゴルフはイヤですわ!」で逃げていたけれど、そうも言っていられなくなり、やらざるを得ないハメになった。でもやってみれば面白くないことはないので、一時は結構熱心に練習した。耕平に「ゴルフ始めてん!」と言うと「教えたるわ! ウマと一緒でゴルフも我流じゃあかん!」と、どこからかゴルフクラブを持ち出し、厩舎の裏で振り回していたこともあったなぁ・・・。彼もパン屋になった今はゴルフなんて行く時間もカネもなかろうな・・・。1日でゴルフの練習、釣り、ウマをこなしていた日々もあった。魚臭い釣り道具をクラブの洗い場で洗っていると耕平に「乗馬クラブで釣り道具を洗うのはやめて下さい」と文句を言われた。その頃の私の車の中はゴルフ道具、釣り道具、ウマの道具であふれ返り、さながらイギリス貴族、と言うかイギリス貴族の下僕のような状態だった。今では1日に3つはとてもムリだな・・・。その頃はやっぱり若くて元気だったのかも・・・。さあて、土曜日はどんな具合だろう・・・。決してイヤじゃないんだけどな・・・でも、きれいなコースを前にすると、どうしても「誰かここへウマ連れて来てくれや!」と言いたくなる。
2005年12月01日
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