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学級の誕生 (17)慈善学校の教育を担当する教師の団体の一つに、1680年頃パリに誕生した「キリスト教学校兄弟会」という団体がありました。指導者はラ・サールという人物で、彼の名をとって、ラ・サール会とも呼ばれました。調べていませんが、鹿児島のラ・サール学院は、彼に因んでいるのかもしれません。どなたかご存知でしょうか。ラ・サールは従来の伝統的な学習法を改めて、好評を博した人物でした。それは、教会や修道会が担当する学校でしたから、慈善学校と言えども、従来はラテン語の読みから始めて、その後にフランス語の読みに入るという、学習法が踏襲されていたのです。今まで、見たことは勿論、まともに聞いた事もない言葉を聞かされても、すぐに馴染めるはずはありません。いやいや連れてこられた子どもは勿論、多少は字を覚えようという意欲を持った子どもたちも、これでは嫌になってしまいます。当然成果は上がらないのが、現実でした。本当の目的がカトリックへの教化であり、治安の改善でしたから、教育上の成果が上がらないことは、不問に付されていたのです。ラ・サールはこの現実にあき足らず、伝統的な学習の順序を逆転させ、フランス語の読みを、最初に持ってくるなど、教授法の一大転換を図ったのです。彼を中心とす「兄弟会」の活動は、都市部に限られていたのですが、この教授法は大好評で、豊かな家庭の親達も「兄弟会」に子を託したがったと言われています。こうして、17世紀末から、初等教育はまず、俗語(現地語)からというスタイルが定着したのです。ルイ14世の王権もまた、初等教育の普及に一役買いました。1692年12月の国王宣言は、既存の学校がない教区には、学校を一つ設けるように司教に命じました。また親に対しては、子どもをそこで学ばせることを義務付けたのです。この事の背景には、フランス独特の事情がありました。ブルボン朝の開祖アンリ4世は、1598年にナントの勅令を出し、新旧両教徒の和解を実現し、ユグノーと呼ばれたカルヴァン派の信者にも、地域を限定しての信仰の自由を認めたのでした。そこから時移って1685年、ルイ14世はこの勅令を廃止し、ユグノーに対し、国外亡命かカトリックへの改宗を迫ったのです。新教徒(ユグノー)の多くは、オランダへの亡命の道を選び、そのためフランスの工業発展は多くの打撃を受けたと言われる事件でした。しかし、フランス国内に、しっかりした仕事の場を持ち、移住が適切でないと判断した、およそ3割程の新教徒は、やむなく表面的な改宗に応じて、急場を凌いだのでした。ですから、この法令は、元新教徒の子ども達に、カトリックの教義をしっかりたたき込むことに、大きな狙いがあったのです。それゆえ、カトリックの教理を教えるのが主で、識字教育は付随するものに過ぎなかったのです。因みに1690年代のフランスでは、結婚の際、教区簿の結婚証明書に、自ら署名できた男女の比率は、男性で28%、女性で14%に過ぎなかったことが、明らかにされています。 続く
2008.07.31
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クロニクル START調印1991(平成3)年7月31日17年前のこの日、米ソの戦略兵器削減条約(START)がまとまり、調印式が行なわれました。89年12月のマルタ会談(ブッシュ・ゴルバチョフ会談)での米ソ冷戦の解消など、雪解けが進んだ両国関係を背景に、ここに戦略兵器の相互削減が合意に至ったのです。これは、財政難に悩む両国にとって、軍事費を大きく削減できるメリットがあったからです。この結果、米国の財政収支は、次ぎのクリントン政権の時に大きく改善しましたし、ソ連では、核軍縮に反対の軍部と保守派による反ゴルバチョフクーデタが起きるなど、混乱は長引いてゆきました。食えなくなったソ連の技術者や学者の1部が、高給を積んでの北朝鮮の誘いに乗ったことが、北朝鮮の核開発と言うオマケを招くなど、その負の連鎖も、忘れるわけには行かないのですが……
2008.07.31
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学級の誕生 (16)民衆の識字教育について、プロテスタントに遅れをとっていたカトリックもまた、17世紀に入ると遅れ馳せながら,民衆の教化に最小限の識字教育は欠かせないことを、認め始めました。今までも、都市や農村の教会に、子どもに文字や計算を教える教区学校が併設されていたのですが、そこに通う子も少なく、あまり熱心には取り組まれていませんでした。教区学校は、無料の慈善学校ではなく、有料だったことも影響していました。フランスでは、17世紀の初め、特に遅れの目立っていた女子教育をも担当する女子修道会が発達し、そこへの志願者も増え続けました。彼女達は、自ら学ぶと共に、子どもたちへの教育を担当し、さらに貧民や病人を助け、捨て子を養育するなどの、献身的な活動を続けたのです。志願者の多くは、領主やブルジョワ、農村では中農以上の農民の家庭の娘達でした。それは、当時のヨーロッパの結婚では、花嫁の家庭からの持参品が大きなウェートを占めていたことが原因でした。僅かな持参品でも満足するのは、貧しい家庭に限られていたこと、釣り合いのとれた縁組を望むとなると相応の負担を覚悟しなければならない現実があったからでした。公証人の作成した結婚契約書を見るとそれは一目瞭然です。捨て子として修道院で育てられた娘の結婚にも、そうした持参品のリストが問題となっているのです。領主の家庭では、娘が3人いれば破産確実とまで言われたのです。この苦境をどう切り抜けるか。娘の内の最低1人を、神に仕えて一生を独身で過ごす修道女にすることが、最善の道でした。持参金(または持参土地)よりも遥かに少ない喜捨で済み、その上、身内の1人が家族のための祈りを、日々捧げてくれるのです。こんなうまい話はなかったのです。こうして修道会は発達し、17世紀を通じて増え続けました。その上、17世紀の半ば以降、都市部では、教会と篤信家の発議で、貧しい子どもたちのための、無料の慈善学校が誕生したのです。貧困家庭や身寄りのない子に、キリスト教教育を施し、ついでに読み書きを教える。しかし、こうした子どもたちが放置されたままでは、悪に染まり、治安を乱すならず者になりかねません。その危険を未然に防ぐために、学校に集めて、規律通りに動く訓練をする。こうした意図も隠されていました。やがて、慈善学校の教師の団体や、教師の養成機関も誕生し、都市部の慈善学校設立運動は、さらに活発になっていったのです。 続く
2008.07.30
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クロニクル 小渕恵三内閣成立1998(平成10)年7月30日7月24日の自民党総裁選で勝利した、小渕恵三自民党総裁を首班とする小渕内閣が、この日成立しました。内閣の目玉は、首相が三顧の礼を持って迎えた元首相の宮沢喜一蔵相と、民間から迎えた堺屋太一経済企画庁長官でした。この2人の積極財政論者による、財政の大盤振る舞いで、落ち込んでいた景気は多少持ち直しましたが、赤字財政に苦しむ中、隠しおおせなくなった不良債権のヤマの中で、資本の毀損が著しい大手金融機関への公的資金の注入が不可避の状勢になっていたため、継続的な財政資金の投入は躊躇われる事となったのです。こうして、やがて経済の減速が明らかとなり、他方で蔵相が是非にと拘った長銀の救済は、相手方と頼んだ住友信託銀行の足並みが揃わず、遂には、一時国有化という荒療治が仕組まれるなど、日本経済は、やがてどん底へと落ちていったのです。
2008.07.30
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学級の誕生 (15) ルターの著作が次々に印刷され、出版点数のかなりの部分を占めたといっても、まだ、字の読める人は,ごく少数の人々に限られていました。それがラテン語ではなく、現地の言葉であったとしても…ですから、宗教改革期に最も活躍した出版物は、木版画でした。木版画に当時の主役たちを登場させ、それに各地の民話を絡ませて、ルターらプロテスタントの教義を広め、それを邪魔するローマカトリックを諷刺するのです。こうした木版画を通じて,民衆はルターやその派の教えを知り、支持したのです。応急の宣伝は、このように対応しましたが、プロテスタントの基本戦略は、ローマ教会による聖書と教義の独占を打破することにありました。それには、識字能力を挙げて、民衆の読書能力を高め,聖書や教典を読んで理解する人を増やす必要がありました。そして民衆の側も、文字を覚えれば、自分で聖書や教典を読めることが理解できたため、字を覚える欲求が高まってきたのです。ここに初等教育への願望が芽生えます。まだ組織だった学校にはなりませんが、教会を通じた俗語の読み書き学習がはじめられるのです。17世紀初頭のことでした。ここにもう一つの要素が加わります。それは、日本の戦国時代から織豊政権への歩みと同じく、諸国分立の状態から、統一王権の誕生への歩みが、各国で続いたことです。受験世界史で言う絶対王政の登場です。今日では高校世界史を除くと、あまりこの語は使わないのですが…強力な王権は、自らの正統性の強化のために、各地でバラバラな地域言語を統一して、国語を形成することを目指しました。パリ中心のイル・ド・フランス地域の地方語であったオイル語が、やがて北フランスの共通語となり、遂には全フランスのフランス語となったのは、その一つです。ところで、17世紀の段階で、最も国民の識字能力が進んでいた国は何処だったでしょうか。これが実はノーベル賞の国スウェーデンなのです。当時スウェーデンはバルト海を支配する北の大国だったのです。そのスウェーデンが中欧集権化の施策の一つとして、王命の下、ヨーロッパで最も早くプロテスタントを国教とした国教会を作ったのです。そして国内全ての教会に、ルター派の作成したスウェーデン語の聖書を常備させ、国民にも読むようにと指示を出していたのです。当然教会改革と共に教育制度を創出して、教会を使った初等教育を全国的に推進したのです。こうして国民の読書能力を高めたのです。それは、文字を書く能力は養成しない、一風変わった教育の水準でしたが、スウェーデン人の読む能力は、女性を含めて80%という、当時としては、とんでもない高率に達していたのです。しかし、これは例外的な高さでした。 続く
2008.07.29
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クロニクル 桂=タフト協定調印1905(明治38)年7月29日桂=タフト協定というのは、日本の桂太郎首相と、来日中の米国陸軍長官タフトの間で、交わされた極東地域の安定を確保するための秘密協定です。時は、日露戦争における最後の大きな戦いとなった日本海海戦が終了し、日本が樺太の占領を実行した直後、日露の講和交渉に関する米国大統領セオドア・ローズヴェルトの斡旋工作が佳境に入りつつあった時でした。この日結ばれた協定は(1)日本は米国のフィリピン支配を認め、かつ歓迎する(2)米国は日本が韓国に対し、優越的地位にあり、かつその権限を持つこ とを承認する。(3)極東の平和と安全の維持は、日・米・英三国の協力によって実現するの3点を含み、日露戦争後の極東問題の処理についての密約でした。
2008.07.29
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学級の誕生 (14) これは良く知られていることですが、1517年10月に、ルターが有名な「95ヵ条の命題」を質問状として発表した(宗教教義上の疑問,質問などを公開質問の形で発表するのは、当時はごく一般的な方法でした)時、この文書は、すぐに書き取られ、印刷に付されました。その結果、ローマ教会が、ルターの「命題」に答えずに、この「命題」を闇に葬りさることは不可能となったのです。この点で、既にルターは印刷術の申し子だったのです。グーデンベルクによる活版印刷とは、鉛鋳造の可動活字、油性の印刷インキ、木製の平圧式印刷機からなる印刷術でした。この印刷機が普及する以前は、1冊1冊筆耕による書写でしたから、ごく限られた古典的著作や暦法関係の書物が、知識の保存・伝達のために作製されるだけでした。大学の誕生後、その必要から筆耕による書物の生産が増え、大勢の筆耕を抱える書籍商も現れました。こうして大学の教授や学生の需要に応える対応が取られましたが、書写による書物は、大変高価な品であることに、変わりはありませんでした。1冊の書物が大学教授の年棒の1割以上、大部の書籍では2割を超えていたのです。書籍は、豊かな支配層のものだったことは、この面からも確認できます。聖書が活版で印刷され、1度に数百部が印刷されたのは、まさに革命的な事柄だったのです。『グーテンベルクの聖書』の印刷から40数年を経過した15世紀末、ドイツでは、52都市に印刷工房が存在しており、西欧全体では245都市で1000軒の印刷工房が仕事をしていたと指摘されています。印刷機を備え、植字工や活字鋳造工を雇い、そしてなお高価だった紙を用意し、活字合金を手当てしなければなりません。その限りかなるの流動資金が必要でした。そこでは、売れる作品であると同時に、持ち運びに便利な小型サイズ本で,読みやすさ(レイアウトも関係)に工夫を凝らした書物が、追求されました。当然ラテン語ではない,現地語(俗語)の書物が好まれる事になりました。こうして、書写時代の10分の1以下に安くなった書物が、出まわるようになり、書物は知識の保存だけではなく、知識の伝達を媒介するようになったのです。当然、俗語(現地語)の読み書きを身につけたいという欲求も強くなって行きます。こんな統計があります。ルターの『命題』が発表されるまでの1510年~1517年までに、ドイツで発表された書籍は1710点(パンフレット類含む)、うち宗教書は全体の39,4%だった(年平均84点)そうです。それが1518~1520年までの3年間は、出版点数1680点、内宗教書は61,6%(年平均345点)に急増しているのです。その急増した宗教書の54,7%が、何とルターの著作だったのです。彼の教えは,書物を通してまさに広められたといえるのです。 続く
2008.07.28
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クロニクル 初の民営鉄道開業1883(明治16)年7月28日この日、日本で最初の民営鉄道会社である「日本鉄道会社」は、最初の営業路線として、上野~熊谷間を完成、仮営業を開始しました。同社は上野~青森、上野~高崎の路線建設を計画、政府の援助を得て、建設を続けて来ました。この日の午後1時からの試運転では、上野~熊谷の往復に、およそ5時間半を要したと記録されています。同社には、第15国立銀行が、積極的な融資を行ない、同社の株主には、華族たちが積極的に名を連ねるなど、民間と言っても、政府や支配層の積極的な関与があったのでした。同社は、この後も順調に路線の建設を続け、青森までの延伸は1899(明治32)年に完成。民間の鉄道熱を多いに盛り上げたのでした。
2008.07.28
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学級の誕生 (13)宗教改革というと、皆さんは、ルターやカルヴァン(英語で発音するとカルヴィン)らの改革指導者と、その教えの要点をすぐに思い浮かべると思います。それはそれで良いのですが、この改革の本質は、キリスト教の聖典である聖書解釈を巡る教義上の対立に基づくものでした。教義上の対立は、古くから存在しました。しかし、ローマ教会(ローマ・カトリック)とコンスタンチノープル教会(ギリシア正教)の分裂を除くと、宗教改革以前の教義を巡る対立は、常に多数派が自らを正統とし、少数派を異端として排斥する形で、決着がつけられてきていました。宗教改革前史として名の出る事の多い、オックスフォードのウィックリフやボヘミアのフスも、その例です。問題は、ルターやカルヴァンは、何故異端とされながらも、踏み止まり、改革者として称揚されるようになったのかにあります。この秘密を解く鍵が、実は印刷術と教育すなわち、識字能力の普及にあるのです。クーデンベルグの活版印刷術は、1450年代後半から実用化されました。ルターの改革のおよそ60年前です。話題の免罪符も、この活版印刷を利用して、大量に印刷されたものでした。活版を組さえすれば、1度に大量の印刷が可能である。これは文字の世界にとって、まさに革命でした。後は、紙が準備できさえすれば良い。しかし、この紙の確保派、決して平坦な道ではなく、結構大変だったのですが…さて、これも宗教改革史でお馴染みなのですが、ルターもカルヴァンも大勢の支持者に囲まれ、守られたからこそ、彼等を不倶戴天の敵と考え、異端として処刑したいと考えたローマ教会も、処刑に踏みきる事が出来ませんでした。皆さんもこう教わったと思います。その通りです。ルターについて、時の神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、ローマ教皇からルターの処罰を依頼されます。ルターが教皇の破門状を、公衆の前で火を点けて、燃やしてしまったからです。しかし、カール5世は、ルターを処刑できませんでした。やったことは、ルターを国法の保護の及ばない人間に指定することだけでした。「自由に殺して良い。ルターを殺しても罪に問わない」と宣言しただけだったのです。これでも危機といえば危機ですが、捕らえられて火刑に処されるよりは、生存確率はグンと向上します。ルター以前の宗教改革者達、皆異端として社会的に葬りさられてきた人々に比べると、広範な信者の支持が寄せられたか否かが違っているのです。その違いは、何によるのか。それが印刷術であり、識字率の即ち教育の普及によるのです。 続く
2008.07.27
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クロニクル 朝鮮休戦協定調印1953(昭和28)年727日前年の大統領選に際し、「自分は朝鮮戦争を終らせる」をスローガンにして、支持を広げ、見事に大統領選に勝利した、共和党のアイゼンハワーは、この年1月に大統領に就任後、積極的に対話を続け、この日の調印に漕ぎつけました。アイゼンハワーは、第2次世界大戦におけるノルマンディ上陸作戦を指揮した英雄でしたから、軍部の信頼も厚く、和平の実現の為には、うってつけの人物だったのです。こうして、38度線を中心に非武装地帯を設け、国連軍が常駐して停戦を監視することになりました。
2008.07.27
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学級の誕生(12)下級の学校は2種類誕生しました。司教座教会や修道院は、当時の聖職者の心を捉えたスコラ哲学を中心にして、独特の閉鎖的性格を持っていました。従って、将来の大学入学を目指す若者達を対象に、初級や中級のラテン語を教え、文法の初歩を教えることはあっても、彼等が俗語と呼んでいた日常語を教えることも、算術のイロハも教えることはありませんでした。つまり、こちらは中等学校であり、中等教育の初期の姿だったのです。年の庶民の子を対象にした、学校は、町の司祭の開く日曜学校でした。彼等の多くは、ラテン語はいくつかの語句を知っているだけ、説教用の慣用句を知っているだけでした。それゆえ、日常語の読み書きを希望する手工業親方や小商人らの子どもたちの教育には、丁度良かったのです。彼等は、幾つかの歌を教え、その詞を日常語に書いて示し、それを覚えることから、読みを教えました。それだけでも大変な進歩でした。詞や文を「歌うように読む」という表現が、中世の話に良く出てくるのは、この状態を指します。節をつけて読む、吟唱するという状態は、詞を味うと言うよりも、詞を暗記した状態にピタリと当てはまります。ですから、読むよりも書くのは大変でした。書くのは、日常語の中の最も良く使う言葉を、読むことを覚えた詞の中から選び、その綴りを覚え込むのがやっとでした。これとて、歌うように暗唱する作業に比べれば、遅々として進まなかったのです。それでも、日曜学校に通う子どもの数は、減りませんでした。これが初等教育の現実でした。即ちローマ・カトリックの全盛期には、初等・中等教育は、極めてユックリとしか、進行しなかったのです。都市の庶民は、大変苦労しながら、僅かな読み、書きを身につけるに留まっていたのです。変化は宗教改革と共にやってきました。16世紀の初頭のことです。 続く
2008.07.26
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クロニクル スエズ運河国有化1956(昭和31)年7月26日52年前の今日です。54年4月に実権を掌握し、この年56年にエジプト大統領に就任したナセルは、スエズ運河の国有化を宣言し、即日実施しました。スエズ運河は、フランス人技師のレセップスの計画によって着工され、7年の歳月を経て、1869年に完成しました。エジプトは、当初スエズ運河会社の株式の43%を所有していましたが、財政上の理由で、その株式をイギリスに手渡してしまい、利益金の取得権もフランスの金融資本に売却していました。こうして1956年まで、スエズ運河は、イギリスとフランスの所有物のようになっていたのです。こうした事情がありますから、大統領に就任したナセルは、思いきってスエズ運河の国有化を宣言しました。困った英・仏は、軍の派遣を模索しました。そこに渡りに船とばかりに、10月29日にエジプトに侵入したのが、エジプト軍でした。翌30日には、渡りに船と、英・仏軍もスエズに進撃。ここに第2次中東戦争(スエズ戦争)が勃発しました。ナセルを中心にエジプト軍は、良く奮戦して引かず、侵略軍は何の成果を上げることなく、12月22日の国連決議を受けて、撤退に追いこまれたのでした。ここにナセルのエジプトは、一躍中東地域の政治的リーダーにのしあがったのです。
2008.07.26
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学級の誕生 (11)では、当時の初等教育はどうなっていたのか。高等教育を受けるエリートの家計に属する者は、家庭教師についてラテン語の特訓を受け、長じて書物の読み方や解釈の訓練を受け、高等教育の準備段階の訓練を受けたのですが、13世紀以降、中世都市が発達し、商人や手工業者が活躍するようになると、彼等には算術の基礎が必要となり、仕事上の覚え書き等、簡単な読み書きも必要とされることになりました。実のところ、西欧世界では、ローマカトリック教会が、末端の村という村にまで網羅され、司祭や司祭補が、教区の住民の魂の救済に当たっていたのですが、教会エリートは司教以上ですから、村の司祭や助祭達は、ラテン語などまるで読もことさえ出来なかったというのが、実情でした。何とも情けない話ですが、それが当時の現実でした。ですから、カトリック教会は、キリスト教の教典である聖書を住民に広めようとはせず、聖書は教会での礼拝の折に、司祭が朗読するのを有難く聞き、その内容に関する説明を、説教の中で聞きさえすれば、それで十分であるという態度を取っていたのです。司祭の持つ説教書には、左ページはラテン語の文章に、現地語のルビが全てふられており、司祭や助祭は、その部分を読めば良いようになっていたのが、実は真相でした。そして、右ページには、説教で語るべき内容が、現地語で書かれていたのです。私が見たことのあるのは、そうした説教書の現物ではなく、現物のコピーでしたが、紛れもなく、14世紀、15世紀の説教書のコピーであることは、疑いのないものでした。要するに、カトリック教会は、聖書を司教以上の上級聖職者と修道院の独占とすることで、自らの権威を保っていたのです。そうした教会で、住民サーヴィスの一環として、現地語の読み書きや算術の初歩が教えられるようになったのは、上に記したように、都市部の住民の仕事上の必要に答えるしかなくなったからなのでした。 続く
2008.07.25
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クロニクル 山陽本線の全線電化完成1964(昭和39)年7月25日ちょうど東京オリンピックの年ですから、44年前のことになります。10月1日には、東海道新幹線が営業を始める事になる2ヶ月と6日前のこの日、山陽本線の全線電化が、ようやく完成を見ました。ここに、高度経済成長を続ける日本経済の大動脈、太平洋ベルト地帯の貨物輸送のスピードアップが、ようやく実現を見ることになり、70年代前半までの高成長の持続が、短期間の適度な調整を鋏みながら、続いていくことになったのです。
2008.07.25
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学級の誕生 (10)中世には大学はありました。そこでは全てがラテン語で講義され、書物も全てラテン語でした。学生たちは、いったいどこで、ラテン語を学んだのでしょうか。教会や修道院に附属した下級の学校がある場合もありましたが、それは、祈りの言葉や典礼書の暗誦して繰り返すのが中心でした。それは教区の教会の助手を務められる人間を養成するためでした。上級学校は、聖職禄を約束されたようなエリート聖職者を受け入れる機関だったのですが、そうした人物は、家庭において、家庭教師について、みっちりとラテン語の読み書きから、書物の読解までを、みっちりと教えられたのでした。中世の大学が、12世紀の後半から13世紀にかけて、急速に増えていくのは、中世都市の発達や、人口の増加に伴い、1部の領主の収入が急増し、支配関係も複雑になってきたため、教育のある書記を雇って、記録を残させる必要が生じたり、教会の制度や教会法も発達して書類が増えたことなど、学校=大学出身者への期待が高まったからでした。こうして、聖職禄を約束された超エリートの外に、神学や法学の基礎である自由学芸(=今日で言う教養学部)学部の卒業生への需要が高まったのでした。自由学芸の課程を卒業した者で、聖職禄等を持つ者だけが神学部や法学部に神学出来たのでした。それでは当時の自由学芸とは、どのようなものだったのでしょうか。それは、一方に文法・修辞学・弁証学といった言論に関する学芸、言論術といった上級の学芸であり、こうした課程の修了を認められるには、いくつかの関門をクリアすることが必要でした。それは、一定の文法学に通じた人々と論議する事で、「君は文法について、知らぬことがないくらいに、良く勉強した」と認めてもらうことであり、修辞学者からも、修辞学の理解について、お墨付きをもらうことでした。そして最後に、例えばアリストテレスの教えについて、論戦において、弁証学の先達と、対等の議論を展開することが求められました。これで3科です。他に数に関する4科があります。音楽家たちと自分のパートで演奏する。これは楽器の演奏ではなく、音程についての理論的な事柄なのですが…。さらに算術学者達と計算をし、幾何学者達と一緒に土地の測量をし、天文学者達と共に天上に上り、天体の運動を観察して、惑星の不規則な軌道を追跡したりすることにも、合格点をもらうことが必要でした。自由学芸はかくして7科をマスターすることが必要だったのです。何件かご要望をいただきましたので、自由学芸7科についてのアウトラインをしるさせていただきました。
2008.07.24
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クロニクル 芥川自殺1927(昭和2)年7月24日この日未明、芥川竜之介が田端の自宅で、睡眠薬自殺を遂げました。36才でした。芥川は、東京帝大在学中の1916年に、『新思潮』に短編「鼻」を発表して、夏目漱石に激賞され、作家としてのスタートを飾りました。「羅生門」「地獄変」「芋粥」「蜘蛛の糸」など、古典に題材をとった完成度の高い作品をしましたが、やがて題材を現代に変えましたが、晩年には、強度の神経衰弱に悩まされていたようです。自殺の動機について、芥川は、遺作となった「或旧友へ送る手記」の中で、「何か僕の将来に対する、唯ぼんやりとした不安である」とのみ、記しています。
2008.07.24
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学級の誕生 (9)パリ大学が大学創設の年としている、1200年の国王特許状のことを記しておくことにします。パリ大学神学部は、既に権威ある存在でしたし、講義は全てラテン語でしたから、西欧各地から学生は集まってきていました。その学生も多くは卒業して郷里に戻れば、高位の聖職者の地位が待っているようなエリートでしたから、単身でパリにやってきているわけでなく、侍僕を伴って身の回りの世話をさせているような学生が多かったのです。1200年のある日、その中の1人、リエージュの司教候補者であるドイツ人学生の侍僕が、酒に酔い過ぎたのか、酒屋で侮辱を受けたのです、訴えを聞いた学生は、仲間を誘って大挙して酒屋を襲い、酒屋の主人を半殺しの目に会わせたのです。酒に酔った学生達の乱行は、この頃はあまり聞きませんが、しばらく前までは、日本でも学生街の定番でした。こうした学生の乱行に、かねてから腹立たしく思っていた、市民達はパリ警察に訴えて、警官と共に武装して学生達の逮捕に向かいました。学生運動華やかなりし頃は、警官と学生は犬猿の仲でしたが、それは中世でも変わりなかったようです。大乱闘の末に5人の学生が死亡する大惨事となったのです。行動に問題があっても、しばらく前までは、今と違って学生の社会的地位は各段に高かった時代です(60年代前半の私の学生時代でも、就職後の出世払いで、飲み屋にツケが利きました)。有為な学生を5名も死に至らしめたとなると、前段の学生の暴力事件は消し飛んでしまいます。これは大事件でした。パリ大学の教授・学生は一団となって、国王フィリップ2世に訴え、虐殺警官の処分が行なわれないのなら、全講義を休み、パリを引き上げると決議したのです。未だ王権はそう成長しておらず、ヴァロワ朝のフィリップ2世の支配領域は、パリを中心としたイル・ド・フランスと呼ばれた地域政権に留まっていた時代です。その国王にとって、パリ大学の権威は、自己の権力を補完する重要な存在でした。去られては大変です。そして、何よりもパリ大学は、歴代のローマ教皇を輩出しており、教皇権の保護も受けている存在でした。国王は、直接学生に手を下した警官・市民を逮捕させると共に、パリ警察総監をも逮捕投獄しました。そして、大学に対しては、最初に記した特許状を与えたのです。そこには1、警官は現行犯以外は、学生に手だしできない。また逮捕の上は、速やか に教会に引き渡す2、学長と学部長は、事のいかんを問わず、国王の裁判管轄を受けない3、学生の侍僕もまた、学生同様の特権を受ける4、聖職籍にない学生も、聖職籍にあると見なして、教会の裁判権に服する事態はパリ大学の完勝に終ったのです。大学というよりも、当時の世俗権力(王権)に対する、教権の圧倒的優位が、印象に残りますね。大学の自治は、こうして誕生したのです。
2008.07.23
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クロニクル 「ヤマが動いた」発言1989(平成元)年7月23日19年前のこの日は日曜日でした。どうして曜日まで分かるかというと、参院選挙の行なわれた日だったからです。この年4月1日、3%の消費税徴収がスタート、そこに前年明らかになったリクルート事件への批判が高まり竹下首相が辞任。有力候補に次々就任を辞退されて、消去法で選んだ宇野首相は、女性問題が暴露されて、これまた散々の悪評を蒙り、そうした中での参院選のスタートでした。開票の結果、自民党は過半数を大きく割り、当時まだ健在だった社会党が大きく議席を伸ばし、野党第1党となりました。当時の社会党委員長の土井タカ子氏は、「ヤマは動いた」という表現で、国民への謝意をあわらしました。
2008.07.23
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学級の誕生 (8)パリ大学は、ボローニャ大学とはかなり様子が違っていました。今日ではパリ大学自身が、1200年を設立年に定めていますが、これは時の国王フィリップ2世から、大学の自治に関する特許状を賦与された年です。ですから、教員や学生の組合が存在し、授業や講義という知的営みが追求されていたという実質を見ると、12世紀の半ば以降には、設立されていたと見ることが出来ます。このパリ大学では、教員の組合の方が、学生組合よりも大きな力を持ち、いわば大学の中心をなしていました。今13世紀中頃の構成を見ると、人文学部・神学部・法学部・医学部の4学部制がとられていましたが、このうち人文学部は、いわば一般教養を学ぶ教養課程にあたる学部で、他の3学部に進むためには、どうしても通過しなければならない関門になっていた学部です。しかし、当時は専門課程にまで進学する学生は、それほど多くはありません。それゆえ学生数や教授数では、人文学部が突出して多かったのです。そのため、パリ大学の学長は、人文学部の推薦者が選ばれるケースが多かったのです。しかしながらパリ大学の名声の由来は、神学部に依るところが大きく、全ヨーロッパから各地の司教区や修道院に属すなど、聖職籍を有する学生達が、神学を学びに集まってくるのが常でした。13世紀以降の、歴代ローマ教皇の多くは、パリ大学で学んだ経験を持ち、そればかりか、全ヨーロッパの高位聖職者の多くもまた、パリ大学で教育を受けていたのです。当時のヨーロッパは教皇権が王権を遥かに凌駕していた時代ですから、教皇権の保護は絶大でした。こうして、神学のメッカとなったパリ大学では、教員組合の力が学生組合に優越していたのです。もう1点、パリ大学には学寮がありました。当初は篤志家が寄贈してくれた粗末な建物でしたが、特別の教室設備のない時期でしたから、次第に学寮は寄宿舎を兼ねた教室という趣を呈するようになっていったのです。中でも、ルイ9世の宮廷礼拝堂司祭だった、ソルボン師が建てて、大学に寄贈した建物が、寄宿舎とは別にいくつかの教室も備え、パリ大学が学校としての体裁を調えた第一歩とされているのです。やがて、パリ大学の神学部は、別名でソルボンヌと呼ばれるようになったのには、さらには、パリ大学そのものが、ソルボンヌと称されるようになったのには、こうしたいきさつがあったのです。パリ大学よりも遅れて設立された、イギリスのオックスフォードやケンブリッジは、最初から学寮中心に作られたのは、パリ大学の経験に学んだからでした。それゆえ、イギリスでの大学本部の役割は、卒業証書の授与以外には、何もなかったのです。 ザビ
2008.07.22
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クロニクル 米軍フセイン大統領の息子射殺2003(平成15)年7月22日この日、米軍は、賞金で誘惑した内通者の垂れ込み情報に基ずき、フセイン大統領の長男ウダイと、次男クサイの両人の隠れ家を急襲、2人を射殺しました。この襲撃の成功は、米軍独自の探索活動の成果ではなく、多額の償金をエサにして、フセイン一家の身近の人物の裏切りを唆した金の力によるものでした。こんな所にも、金権体質に骨の隋まで浸かりきった、米軍の堕落振りが読み取れた出来事でした。
2008.07.22
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学級の誕生 (7)さて、大学の教員、つまり教授者ですが、当初は特に資格があったわけではなく、誰でも講義や授業を始めることができました。カリキュラムがあるわけでもなく、開講している科目を学生が勝手に受講するシステムだったからです。そして、現在でいう○○教室のように、1回の受講料がいくらというシステムだったのです。それが教授の収入でした。ですから、面白くなければ、誰も受講しなくなり、そうした教員は、消えて行ったのです。さて、市民との家賃交渉に、団結の力で勝利したボローニャ大学の学生たちは、今度は鉾先を教授達に向けました。闘争手段は、当然集団授業ボイコットです。つまり学生のストライキでした。フランスの5月革命や日本の学園闘争では、このストライキの手段として、全学封鎖やら○○館の占拠やらが必要でしたが、教場が整わない当時にあっては、ストライキも簡単なものでした。教授の生活は、学生の授業料で成り立っていましたから、この授業ボイコットは大変な効果がありました。ボイコットされては、たちどころにメシの食い上げになるからです。そこでは、いったい学生は、どのような要求を掲げたのでしょうか。これが何とも、今の学生に是非とも見習ってほしいような、嬉しくなる内容なのです。いくつかの例をあげておきます。1、教授は学生に許可なく、みだりに講義を休んではならない。市外に赴く 必要のある時は、学生に担保(課題のことのようです)を出すべし。2、教授は始鈴と共に講義を始め、終鈴と共に退出すること。3、教授は講義を飛ばしてはならない。4、難問を説明不能のままで、退出してはならない。5、講義は全体をカヴァーしなければならない。どうですか。教授の能力不足や、手抜きに対する弾劾とも言える内容がほとんどです。教授陣にとっても、これは深刻な問題を提起していました。大学は学生の集まるところなら、何処にでもできます。しかし、学生は聞き応えのある、納得できる師を求めてどこにでも移動できます。優秀な教授としても、自分1人で集め得る学生には限りがあります。優秀なスタッフが揃ってこそ、数多くの学生が集まり、自分の講義の受講者数も増えて、生活が安定するのです。こうして、教授先生達も、学生に習って組合を作り、同業者の質を落とさないように、新入者に対する厳格な資格審査を科すようにしたのです。学生の中からも、やがて教授を目指す者が出てきます。或いは教授資格を持つことで、宗教界での高位聖職者を目指そうとする者も出てきます。そうした希望を持つ者に対する教授資格の賦与・認定が教授組合に一定の権威を齎すことになりました。これが即ち、今日で言う学位の起源となったのです。 続く
2008.07.21
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クロニクル インドシナ休戦協定調印 1954(昭和29)年7月21日54年前のこの日、ホー・チ・ミンの指導するヴェトミン(ヴェトナム民俗解放戦線)とフランスとの、ジュネーヴでの和平交渉(ジュネーヴ会儀)が合意に達し、インドシナ戦争の休戦協定が調印されました。合意の主たる内容は、以下の3項に要約できます。(1)フランスはヴェトナムの独立を認める。(2)当面ヴェトナム軍とフランス軍を平和裏に引き離すために、ヴェトナ ム軍は17度線の北に、フランス軍は同じく南に移動する。(3)協定発効後、2年以内にヴェトナム全土で総選挙を行い、その意志に 基づいて、ヴェトナム民族の独立と統一の問題を決定する。このジュネーヴ協定を、フランス政府は誠実に遂行し、2年後の南北ヴェトナクの統一を願っておりましたが、中国封じ込めにやっきとなっていたアメリカ政府は、フランスに替わって、南ヴェトナムに傀儡政府を樹立して、2年後の総選挙の実施を無視させ、ヴェトナムの南北分離状態を固定化しようとしたのでした。ボー・グエン・ザップ将軍の名采配の下に始まった、3月13日からのディエン・ビエン・フーの戦いは、5月7日までの56日に及ぶ激しい攻防戦の結果、フランス軍が白旗を掲げて終了しました。ヴェトナム軍が植民地宗主国の軍隊に圧勝したのです。ここに開かれた全ヴェトナムのフランス支配からの独立に、横槍を入れてきたのが、アメリカでした。この結果、ヴェトナムの人達は、1973年まで、再度血みどろの南ヴェトナム戦争を続けざるを得なくなって行くのです。
2008.07.21
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学級の誕生 (6)西洋中世の大学の起源は、近代の大学と違って、その起源は○○○年という風には、明確にできません。それは大学が、学生や教授達の団体、西洋中世におけるギルドとして、誕生したという由来を持っているからです。古くは、修道院や司教教会に附属の学校があり、ここで聖職者になるための教育が行なわれていたのですが、次第に教会法が整備されるようになり、ローマ法に対する理解も深まってきたため、法律家・書記・教師などが、独立の職業分野と見なされるようになったのです。そしてそこでは、実用のみでなく、真理の探求が尊ばれ、高等教育機関に相応しい内実を備えるようにもなっていました。パリ大学がおそらく1150年前後に誕生し、それと前後してイタリアのボローニャ大学、イギリスのオックスフォード大学、さらにはフランスのモンペリエ大学などが誕生、やがてプラハ大学やビュルテンブルグ大学なども、誕生するのです。こうした大学の夫々に、次々と学生や教師の団体が生まれ、12世紀末から13世紀にかけて、国王から「団体」としての特許状を賦与されていったのです。ボローニャ大学は法学を中心とした構成を取り、ローマ法や教会法の権威を集めていましたが、その高い評判の故に、ヨーロッパ各地から、学生が集まりました。そのため、下宿が不足し、そこに目をつけた市民達は、学生の弱みにつけこんで、家賃の値上げを頻繁に行なうようになったのです。困った学生たちは、団結こそ力なりを地で行って、団体を作り(これがウニヴェルシテ、ユニヴァシティの語源になりました)、適性家賃(つまり、最初の家賃)への値下げを要求して、ボローニャの都市当局と交渉に入りました。そして、家賃値下げ要求を認めないなら、ボローニャを引き払って、他都市に移るという、強硬姿勢を貫いたのです。どうしてこんな姿勢が取れたのか。それは、当時の大学には決まった校舎がなかったからです。講義は教授の家、教会の柱廊、広場など、その都度場所を選んで、都合の良いところで行なわれたからです。一例をあげますと、少し前までパリ大学のことを、ソルボンヌと呼んでいたことはご存知だと思いますが、これは、パリ大学の学寮の一つがソルボンヌにあり、この学寮の前での講義が人気を集め、他寮の学生も次第にここに集まるようになったことが、きっかけになっているのです。団結した学生たちは、その気になれば、どこにでも大学を移せたのです。13世紀の初頭に発足したアレッツォやシェナなどの大学は、学生たちの集団移住によって誕生したと言われるのです。こういうわけですから、ボローニャでの学生の反撃は、学生側の勝利で決着しました。こうして団結した学生たちの鉾先は、次には教授達にも向かいました。そのいきさつを記すには、教授の身分と立場について、まずお話する必要があります。 続く
2008.07.20
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クロニクル 人類月に立つ1969(昭和44)年7月20日39年前の出来事です。この日、米国のアポロ11号から切り離された月面着陸戦イーグルは、人類初の月面着陸に成功しました。米国東部時間で、午後4時17分でした。乗員のアームストロング船長が、月面に降り立ったのは、午後10時56分だったと、伝えられています。それから18分後には、オルドリン飛行士も月面に降り立ち、2人は都合22時間に渡って月面に滞在し、2時間31分に渡って、船外活動を行なったのです。2人の船外活動の模様は、衛星中継を使って、全世界に同時放映され、丁度日中ということもあって、日本では、特設テレビが街頭に設置されて、各地に黒山の人だかりができ、都心部の交通量は半減したと報道されました。この衛生中継は、全世界で5億人の人が映像を見たともされています。アポロ11号は、24日午後零時50分に、ハワイ南東の海上に着水、無事に帰還しました。
2008.07.20
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学級の誕生 (5) ここまで記して来たように、文字は支配者の必要から生まれたものでした。それゆえ、当然の事ながら、学校は次代の支配者の養成を目的として、設立されたのです。6・3・3・4という学校制度に慣れた私達は、学校というと、まず初等教育に始まり、やがて中等教育から高等教育へというコースを、無意識の内に頭の中に描く事になりがちです。ところがこれは、大きな間違いです。次代の支配者、すなわちエリートの養成ですから、必要なのは高等教育なのです。遣隋使や遣唐使に隋行した留学生達も、多くは国内の俊英ですから、読み書き能力は相応なものを持っていたのです。必要なのは、高等教育機関である大学でした。そうなんです。まずは高等教育機関、今で言う大学が先に作られていったのです。比叡山や高野山といった山岳道場は、学僧達の学びの場、修行の場だったのです。ヨーロッパに例をとると、教会勢力を基盤として形成された神学を中心とした大学と、都市のブルジョワや都市領主を中心として形成された法学中心の大学の2つの系統が存在しています。前者もやがて、法学部を設置し、後者もまた神学部を併せ持つ形になって行くのですが… この事実は、当時支配の手段として、最も影響力が高かったのが、宗教と法であったことを示しています。「私はキリスト降臨の奇跡を認めないが、民衆支配の軌跡は認める」こううそぶいたのは、ローマ教皇との和解を実現して、フランス国民の支持を固めたナポレオンその人でした。西洋の大学は、まず、神学と法学によって基礎を固め、やがて第3の学として、そこに医学が加わって行きます。 続く
2008.07.19
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クロニクル 日本もボイコットしたモスクワ五輪開幕1980(昭和55)年7月19日この日、第22回目の近代オリンピック、モスクワ五輪が開幕しました。モスクワ五輪については、前年79年12月27日に始まったソ連軍のアフガニスタン(以下アフガンと略記)への侵攻に抗議して、英国、中国、西独、日本などが、ボイコットを表明、参加を見合わせたのでした。この結果、五輪出場を目指して、厳しい練習に明け暮れていたアマチュアの選手達、とりわけ80年前後が選手生活のピークであった、マラソンの瀬古選手などの、当時の代表選手たちが、泣きをみることになりました。ソ連のアフガン侵攻から、1ヶ月も経たない1月の中旬に、人権外交というスローガンを掲げた米国のカーター大統領が、ボイコットを表明、対米従属を国是と考える日本にとっては、ボイコットに追随する以外の選択肢は、事実上無くなっていたのです。スポーツが政治に従属している事実が、余す所なく映し出された考える事の多い、出来事でした。
2008.07.19
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学級の誕生 (4)古代ギリシアは、哲学に数学にと、学問の宝庫と呼ばれるほどに、輝かしき成果を後世に伝えています。ルネサンス絵画の巨匠ラファエロの「アテナイの学堂」には、キラ星の如く当時の巨星たちが描かれています。こうしたギリシア学は、やがて東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やイスラーム世界に引き継がれて行きますが、15世紀に入ってオスマン朝トルコの勢威が上がり、ビザンツ帝国の衰退に拍車がかかるようになると、ビザンツの学者や知識人は、こぞってヴェネツィアを経由して、イタリア各地へと亡命してきました。それは、1453年の帝国の滅亡時にピークに達します。こうしたビザンツ帝国を経由しての、古代ギリシアの文化的伝統の洪水のような流入が、イタリアルネサンスの大きな原動力だったのです。落書きで注目を浴びたフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の大ドームは、1436年の完成ですが、建築家ブルネレスキが、ギリシア数学とローマの建築技術の知識を吸収したことによって、始めて建設が完了したと指摘されています。しかし、ギリシアやローマに学校が存在したと言う、ハッキリした記録は残っておりません。各地に図書館が存在していたことは知られており、読み書き能力を磨いた人たちが、間違いなく一定数は存在していたことは確かなのですが…では日本ではどうだったのか。日本における文字史料の最も古いものは、刀剣の銘や、木管や竹管に彫られたり、書かれたりした4世紀のものです。そんなわけですから、有名な聖徳太子による遣隋使の派遣も、その目的の最大の眼目は、日本からの留学生の受け入れ要請にありました。良く知られる「日出づる処の天使、書を…」で始まる、精一杯に虚勢を張った姿勢をとりながらも、内実は辞を低くして日本からの留学生の教育を願い出たものでした。この留学生の派遣と朝貢貿易は、隋が唐に変わってからも続き、607年から894年まで300年近くに渡って、続けられました。大海を渡る航海が、命の危険を伴った時代におけるこうした留学生の派遣は、当時の日本には、まだ次代の支配層を育てるための、高等教育機関が存在していなかったことを示しています。自国で育てられないからこそ、他国に辞を低くして、留学生の受け入れをお願いしたというわけです。そして、この低姿勢は成功しました。太子の死から23年後に実現した「大化改新」は、中国の政治体制に対する理解の深まりがあって、はにめて可能になったクーデタでしたし、なによりも、701年に実現した「大宝律令」の公布による、律令国家への移行を可能にしたのは、帰国した留学生達の活躍と、その弟子たちの存在を抜きにしては語れないのです。考えてみてください、「701年という8世紀に入った年に、『大宝律令』と呼ばれる法律が出来て、日本も唐に習って律令国家になりました」とだけ伝えられても、誰もが、へぇそうなんだと思うだけで、面白くもおかしくもありません。しかし、この僅か1行少々の文章の中には、大変なドラマが隠されています。残念ながら大宝律は、全6巻の大部のものだったようですが、散逸してしまって、今日に残されていないのですが、全11巻の令は、『令集解』に収められた1部分が現存しています。いずれにしても、共に相当長いものであることが分かります。その律令を、どうやって全国へ周知したのでしょうか。今のようにコピーなんてありませんし、印刷機もなければ、江戸時代のような瓦版屋もいないのです。原本を1冊作って、ハイ出来あがりというわけにはいかないのです。原本と一言1句違わない写本を、全国各地に送る分だけ、全て手書きで書いて行くのです。相当数の書記官が何ヶ月にも渡って、来る日も来る日も、必死の思いで「大宝律令」の筆写に取り組んでいた事実が、そこには横たわっていたのです。1字違えても意味が全く違ってしまう事があるだけに、1字の誤写も許されない厳しさが、そこにはあったのです。そして、法律文を自在に読み解き、筆写してゆくのに十分な能力を持った多数の書記官が、8世紀初頭の段階で、日本も確保出きるところまで来た。聖徳太子による遣隋使派遣に始まる、永年の苦労は、こうして報われたのです。おそらくは竹管を使って、何十人もが一斉に書き綴り、疲れると、別の何十人かの組と交代し、こうして書き上げたものの中から、読み合わせの終ったものだけが、次ぎ次ぎに地方に送られていった。こうした気の遠くなる作業が、一つの事実の背後に隠されているのです。文字は成文法として、支配の手段となり、裁きの道筋を示すものとなる。異国の高等教育機関の力を借りて、日本もようやくその段階に入ったことが、読み取れるというわけです。 続く
2008.07.18
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クロニクル 古代蓮開花1952(昭和27)年7月18日この日の朝のことです。前年1951年の3月に、千葉市検見川町の泥炭地の地下6メートル地点の、弥生時代の遺跡から見つかった、2000年前の蓮の実が、見事な薄紅色の花を咲かせました。この蓮の実は遺跡の丸木舟の中から3個見つけられたものでした。鑑定した大賀一郎博士は、発見された場所や蓮の実の生存年限からして、この古代蓮の実は生きていると推定、栽培をはじめました。博士の推定通り、植え付けられた蓮の実は、前年5月に3個揃って発芽したのですが、1本は枯れ、もう1本も成長しませんでした。頼みの綱の残された1本は、千葉県農業試験場で育てられ、この年(1952年)4月に、3つに根分けされて、慎重に育てられたのでした。開花したのは、その内の1本で、千葉市畑町の伊原茂さんが、植えたものでした。この2000年前の古代蓮は、この実が生きていると見抜き、生育を強く主張した育ての親にして、命の恩人の名を取って「大賀ハス」と命名されました。現在では、各地に分根されています。筆者のブログの友人レオさんが、7月15日のブログに、古代蓮を鑑賞し、愛でてきたことを、豊富な写真と共に紹介されていますので、ご紹介致します。 http://piaza.rakuten.co,jp/leoandkoro/
2008.07.18
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学級の誕生 (3)ソクラテスがスカラの森で、弟子達との対話にいそしんでいたのは、紀元前5世紀の末にかけてのことでした。彼の処刑は紀元前399年(前4世紀の初め)です。ソクラテスは古代ギリシアで、最も徹底した民主政治を実現したとされる、アテナイの人物です。そしてポリスと呼ばれる小規模国家が分立した時代のギリシア史は、実のところ、このアテナイ人の書き残した記録によってのみ、今日に伝えられているのです。ペルシャ戦争史やペロポネソズ戦争(ギリシア世界の雄、アテナイとスパルタが、争った戦争)史も、共にアテナイ人の書き残した記録しか残されていません。今はほとんど使われなくなりましたが、皆さんは、スパルタ教育という言葉を、良くご存知だと思います。この語は、ギリシア世界に君臨したギリシア最強の軍事国家スパルタの教育から、誕生した比喩です。そうです。スパルタでは、ソクラテスの青空教室よりも100年以上も前、紀元前6世紀の前半には、スパルタ市民の義務教育をはじめていたのです。これがおそらく世界最初の学校です。ここではいったい何のために、何を学んでいたのでしょうか。ここで、簡単にスパルタと言うポリスの構成を記させていただきます。スパルタは、少数の市民と自由人ではあっても参政権を持たないペリオイコイと呼ばれる土地所有農民や手工業者、それに被征服民で奴隷身分のヘロットによって、構成される国でした。人数は圧倒的に奴隷身分のヘロットが多数でしたから、その反乱に備えて、市民団の団結を堅く守り、常に軍事訓練を施して、軍事力を磨く必要があったのです。話せば、まだまだ面白い話はあるのですが、今必要なのは、この反乱への備えと軍事訓練なのです。紀元前6世紀は、鉄器の普及に伴い、重装備歩兵の密集戦法が、おそらくスパルタで考案され、諸ポリスに広まった時期です。密集戦では、密集を構成する兵士全員が一糸乱れず、同一の行動をとる必要がありますから、集団での訓練を欠かせません。つまりスパルタの義務教育は、軍事訓練のためだったのです。男の子は7才になると、母親の手を離れて、幼年学校の寄宿舎に入り、そこで年齢別の集団生活を行なうのです。女の子も学校へ通うのですが、女の子には寄宿舎生活は科されません。そこではいったいどんな教育が行なわれたのかというと、音楽と舞踏を除くと、文芸や知育は徹底的に無視されるか、敵視されていました。スパルタ市民には文字は要らない、それは人間を軟弱にするだけだと、考えられていたのです。ですから、今日に至るも、スパルタ人の記録した文字史料は、1つも発見されていないのです。ですから、1日中体育と訓練、そして音楽と舞踊の授業が繰り返されたのです。女の子はというと、こちらもおなじことでした。女性が戦闘に加わる事はないのですが、将来丈夫な戦士を産む為に、身体を鍛えることが要求されたのです。学校は男女別でしたが、男の子も女の子も、共に体育中心の教育を受けたのです。そこでは、良き兵士の育成、丈夫な子を産める母体の育成が目的でしたから、訓練について来られない落伍者は、不要な存在でした。一定の期間内に出来ないということは許されず、厳しい訓練の落伍者は、市民の身分を剥奪され、捨て去られるのが常だったのです。スパルタ教育の語源はここにありました。こうした訓練を受けたスパルタの若者が、戦車競技などもある、軍事教練の延長のような種目が多かった、4年に1度のオリンピアの競技で、多数の優勝者を出していたのは、むしろ当然の帰結でした。ですから、スパルタに義務教育は存在しましたが、知育を無視した軍事と体育のみの訓練校でしたので、ここでは、その存在を振りかえるだけに留め、いわゆる学校とは、区別させていただくことに致します。 続く
2008.07.17
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クロニクル ポツダム会談始まる1945(昭和20)年7月17日ドイツの降伏から、2ケ月と少々が過ぎたこの日、ベルリン郊外の保養地ポツダムで、米・英・ソ三国首脳によるポツダム会談が開かれました。2月ヤルタ会談に出席した、F・ローズヴェルト米大統領は、4月に心臓発作で死去、副大統領から昇格したトルーマンが初参加しましたが、イギリスとソ連の先頭に立って、この戦争を指導したチャーチルとスターリンは、変わらず、出席していました。この会談は、日本の降伏条件を審議すると共に、戦後の枠組に関する議論もまた、重要なテーマとなっていたのでした。昨年7/26のクロニクルに記したポツダム宣言は、この会議で定められたものです。
2008.07.17
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学級の誕生 (2)学級云々の遥か以前に遡りますが、学校とか教育の起源を語るとすると、すぐに思い出されるのが、英語のschoolの語源になったと、中学時代に教えられた、ソクラテスの青空教室です。彼は「スカラの森」と呼ばれた場所で、彼を慕う若者達との対話を楽しみ、若者達は彼を慕って、対話から多くのことを学んだとされる、あの故事です。余談ですが、ソクラテスについては、彼自身が書き残したものは何も残されていません。スカラの森の弟子たちが、師が語った言葉を、さまざまに書き残しているため、彼の説の見当がつくわけです。有名な『ソクラテスの弁明』も弟子によって、記されたものです。因みに、私は「悪法も法なり」とする彼の考えには、組しませんが…。私は、この考えの対極にある、「人民との契約を守らない政府に、従う義務はない。その政府を否定する権利が、人民にはある」とする、「社会契約説」の考え方と、それに立脚したアメリカ独立宣言や、フランス人権宣言の思想を、支持しています。人は言葉を発し、文字を発明しました。言葉は意志伝達の手段として発明され、人間の知能のさまざまな発達に応じて、単なる手段から1つの文化にまで成長を遂げました。ですから、自国語を守り育てることは、何にもまして守る必要のある事なのです。自分達の言葉を失った民族は、アイデンティティをやがて失い、滅びの道を歩みます。だからこそ、植民地支配国は、支配地において、母国語による教育を禁じ、支配国の言語による教育を徹底しようと務めたのです。話しは逸れました。話すことは、家庭や地域の社会教育として、誰もが学びます。親の言葉かけが少ないと、子どもの理解できる語彙は確実に少なくなり、集団生活になじめなくなるケースが多いのは、このためです(若い子育て中の皆さんは、どうぞ気をつけて下さいね)。問題は文字です。文字は何のために生まれたのか。識字率と言いますが、時代を遡るほど、識字率は低くなります。耳に障害があり、生まれてから音が聞こえない方を除けば、言葉が話せない人はいません。しかし、文字を読んだり、書いたりすることは、出来ない人が大勢いました。読み書き能力は、1部の特定の人間のものでした。そしてそうした時代が、庶民も読み書きの能力を身につけた、ごく最近の時代を除けば、人類の歴史でいうと、圧倒的に長いのです。そうです。文字は支配階級の道具であり、支配の手段として誕生しました。世界最古の法とされる、ハムラビ法典のことは、皆さんもご存知のことと存じます。石に彫られ、現在は過去にあの地を支配した、フランスのルーブルに置かれている、「眼には眼を。歯には歯を」と要点がまとめられる、あの法です。文字は、支配者の定めた掟を徹底するために生まれました。そして、もう1つの文字、それが数字です。数字は何のために必要とされたか。こちらはやがて、商人の世界でなくてはならぬものになって行きますが、最初は、今で言う租税の徴収のための必要から生まれたものでした。皆さんもそうだと思いますが、役人が不正に利用している匂いの消えない税金など、払わないで済むなら、払いたくないですよね。昔もそうでした。まして、支払ったものを払っていないなどと言われたら、どうですか。こうした「払った」「いや払っていない」といった口論は、日常の事だったようです。そこから、支払い記録をつけておく必要が、徴税担当の役人に意識され、数字が実用化されることになったと、言われているのです。文字も数字も、共に支配の道具として誕生しました。それがどのように教育と繋がっていくのでしょうか。 続く
2008.07.16
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クロニクル 三内円山遺跡発掘1994(平成6)年7月16日14年前のこの日、青森市内の三内円山遺跡の発掘現場で、大量の土器が出土しました。遺跡発掘における超弩級の宝の山にぶち当たったのです。以後も慎重に発掘を進めた結果、国内最大の縄文遺跡であることが明らかになり、考古学界は大いに賑わいました。遺跡の周囲には大量の枯れ死した栗の木が出土、三内円山の縄文人が、栗を主食にしていたらしいこと、その栗の木が寒さの襲来か何かで、全滅に近い被害を受けたことで、この地の生活は、終止符を打ったらしいことも、明らかになりました。
2008.07.16
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学級の誕生 (1)私もそうですが、皆さんも学校というのは、同年齢の集団で学級を構成し、その同年齢集団を仲間として、共に学んで行く世界であり、それが自然なのだと、思っていませんか。自分もそうだったし、どうやら自分の父や母もそうだったのだから、それが自然だと思い込んでいませんか。教育改革がさまざまに議論されています。40人学級では、先生の眼が届かないから30人学級にしようではないかといった議論は、いずれも学級の存在を前提として、その中での変化のつけ方を問題にしている議論です。しかしです。教育の場として学校が存在するようになった当時は、教場はあっても、学級教室(クラスルーム)はありませんでした。昨今では小学校での「学級崩壊」(中学校以上では、教科担任制になりますので、「学級崩壊」はなくなり、替わりに個々の担当者のついての「授業崩壊」になります)についての議論も、皆「学級」の存在を自明のこととして、議論が成り立っていますが、「学級は何故存在するのか?}、また「学級の秩序は、何故保たれているのか?」と言った根源的な問いは、無視されています。こうした疑問を少し、皆さんと一緒に考えて行きたいと思いましたので、少しばかり、教育史と教育社会史を紐解きながら、夏の盛りに、ない知恵を絞って見ようと考えました。どうぞ、ご一緒に考えていただけると幸いです。 続く
2008.07.15
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クロニクル 三鷹事件1949(昭和24)年7月15日58年前の出来事です。この日、午後9時24分、国鉄中央線の三鷹駅車庫から、無人の電車が暴走したのです。電車は車止めを突破し、駅改札口と階段をぶち抜き、駅前の派出所を全壊して、民家に突入、ようやく止まりました。死者6名、重軽傷者は20名を超える大きな惨事となりました。この年、政府は経済再建のための行政整理の一環として、国鉄の人員整理を計画、7月1日に30,700人、12日に63,000人の整理を発表していたのです。当然のことに組合は、この計画に強く反発、国鉄労使の関係は、こじれにこじれていたのです。そうした中で事件はおきました。7/5の下山事件(下山国鉄総裁が、この日行方不明となり、翌日轢死体で発見された事件。自殺か他殺かで意見が分かれ、今日もなお不明のままです)、8/17の松川事件と並ぶ、国鉄争議をめぐる3大事件の1つです。吉田首相は、社会不安の源は、武装革命路線をとる共産党にあると、共産党を強く非難したのです。その結果、9人の共産党員と1人の非共産党員が、逮捕されました。首相の共産党非難に悪乗りした捜査当局の勇み足でした。それでも非を認めない、捜査当局は、証拠がないにも関わらず、後半維持に奔走し、その結果、9人の共産党員の無実が確定するまでに、6年の歳月を必要としたのです。 ザビ
2008.07.15
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時間と時計 番外編 シンデレラの靴(4) こうした東ローマ帝国(ビザンツ帝国)でのお后選びは、およそ150年ほどは続いたようです。その後は后の出自が変わってきます。イスラーム勢力の伸張(セルジューク朝トルコ)の勢力伸張で、苦境に立ったビザンツ帝国は、支援を要請したり、同盟関係を結ぶ国々や、国内の大貴族層との連携を深める事が、何よりも重要になるからです。こうして、歴史に誇りうるユニークなお后選びの習慣は、失われていったのです。何とも残念な気がしますが…。最後に、国民の目線に立って考えると、このお后選びは、どのように見え、どのような役割を果たしたでしょうか。皆さんは、居住する町や村から、オリンピック選手が出たり、スポーツや芸能の世界で、活躍する方が出たら、どう思われますか? 明るい話題として地域が賑のです。ったりしませんか。何となく、悪い気はしませんよね。帝国内で最も美しいとされる娘が皇帝の后、即ち帝国のファースト・レディになる。もしかしたら、それはわが村の娘かもしれないし、隣町の娘かも知れないのです。これは、もう国中が固唾を飲んで見守る一大イヴェントに外なりません。お后選びは、地方の住民に対し、皇帝を未知の人から、何となく身近に感じられる人物に変貌させる、役割を巧妙に果たしているのです。住民は、皇帝に対して畏敬と親しみの感情を併せ持つようになってゆきます。こうしてビザンツ帝国は、皇帝を中心とした中央集権的な国家体制へと成長して行ったのです。お后選びの美人コンテストが、果たした役割は、ここまで大きかったのです。 完
2008.07.14
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クロニクル 1回 連盟祭1790(寛政2)年7月14日この日は、バスティーユ襲撃の1周年記念日でした。フランスの憲法制定国民議会は、この日を記念して、シャン・ド・マルスの連兵場で、連盟祭を挙行しました。新生フランスの誕生を祝した祭典には、全国各地から連盟兵(国民衛兵の代表をこう呼んでいました)がパリに集まり、バスティーユ占領1周年を祝ったのです。国王、議員たち、連盟兵、そして市民達と、30万人を超える人々の前で、当日の主役ラ・ファイエットが、新生フランスの宣誓を行ないました。これが、この時期革命のシンボルと言われた、ラ・ファイエットの絶頂期でした。なお、この時、祭壇でミサを挙げたのが、オータンの司教として、聖職者代表として、議席を得ていた自由主義貴族のタレイランでした。
2008.07.14
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時間と時計 番外編 シンデレラの靴(3) さて、最終審査に残った10人程の娘たちは、出自や育った環境はマチマチですが、美人で気立てが良い点は共通しています。后妃が気難しかったり、性悪だったりしたら、自分達も困りますし、何より帝国の将来が案じられるからです。さて、この10人、最終審査の日、皇太子(または若き皇帝)に目通りする前の1週間から、10日の間に、1通り舞踏会のためのダンスのステップを学ぶのです。なめらかにといかなくても、何とか皇太子と踊れるようにという、宮廷幹部の親心なのです。こうして、華やかな舞踏会の日がやってきます。10人の娘たちは、固くなっていますが、皆皇太子とステップを踏み、お相手を勤めます。コチコチに硬くなりながらも、話しかけられると答えなければなりません。こうして、緊張していたけれど、楽しかった時間は、アッという間に過ぎてしまいます。皆緊張し、しかし大いに盛りあがるフィナーレがやってきます。そうです、お后選びの瞬間がやってきたのです。廷臣たちが揃って壁際に下がり、皇帝と皇后が皇太子の後ろに立ちます。娘たちは、広間の中央にお后候補として認知されて、並んで立っています。勿論選ぶのは皇太子本人です。皇太子の手には、トロイアの王子パリスが、手にしていたのと同じ、あの黄金色の林檎です。この林檎を意中の人に渡すのです。それが、皇太子の選びの意志の表明なのです。黄金色の林檎を渡す事が、求婚と求愛の意志の表明なのです。選ばれたことの証しが、今手の中にある。選ばれた娘、選ばれなかった娘はいったい何を考えたのでしょうか。興味の持てるところですが、残念なことにこの点の資料は、何も残っていないのです。林檎が皇太子の手を離れた瞬間、会場には大きなどよめきが起こり、やがてそれは祝福の拍手に変わるのです。分かっていること。830年の初夏に、17歳にして皇帝の座に就いたテオフィロス帝のお后選びが行なわれたこと。その時選ばれて皇后の座を射止めたのは、小アジア北部のエピッサ村の貧しい農夫の子、テオドラだったこと。テオドラの前後の皇后も、ほぼ、150年にわたって、いずれも氏素性のハッキリしない娘たちばかりが選ばれていることです。アテナイの孤児だったり、小アジアの没落地主の娘だったり、コンスタンチノープルの酒場の娘だったりしています。中には素性が全く不明の娘さえいるのです。家柄や財産が全く問題にされないからこそ、こうした娘たちでさえ、お后の座を射止めることが出来た。東ローマ帝国は、シンデレラの帝国だったと言ってよさそうですね。
2008.07.13
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クロニクル 都教委学校群制度導入1966(昭和41)年7月13日42年前のこの日、東京都教育委員会は、入試改革の一環として、学校群制度の導入を決定、同時に都立高入試を、5教科(国・社・数・理・英)から3教科(国・数・英)に減じ、受験生の負担を軽減する方向に踏み出しました。志は悪くなかったと思いますが、この制度によって、群に指定された2~3の学校のどこに入学となるのかが、不明なことから、いきおい学校を選べる、私学への志願者が急増することになり、私立校受験がヒートアップするなど、入試改革としては、決して成功とはいえないものとなりました。
2008.07.13
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時間と時計 番外編 シンデレラの靴(2)では、実際のお后探しは、どうするのか。ビザンツ帝国は、お祭り好きの劇場型の国家でもありましたから、皇帝や皇太子のお后選びは、国を挙げてのイヴェントになります。そうです。美人コンテストが行なわれるのです。といっても、自分の意志で申し込むのではありません。「そろそろ皇太子に后を…」と皇帝がお考えになったり、若くして帝位を継いだ独身の皇帝の場合は、皇太后や傅役が「そろそろ…」と考えた場合に、お后候補を全国から探す使者が、各方面に派遣されるのです。この使者には、后妃や皇太后、傅役などから、皇太子や皇帝の好みが、事細かに伝えられたのです。これこれしかじかの条件を備えた娘を探してくるようにと…。このような娘をと、使者には似顔絵が渡されたこともあったとか。渡された方も、責任重大ですね。容貌以外にも、年齢や身長も、大切な要件でした。年齢はともかく、地方毎に度量衡の単位が違っていた当にあっては、身長は聞くだけではハッキリしません。そこで使者達には、これこれの身長というお后候補の実の身長を表す、物差しまでもが渡されていました。しかし、若い娘ですから、この先なお身長が伸びるかもしれません。そこで、物差しの外に、靴も渡されていたのです。どうやらビザンツ帝国でも、男女を問わず、足の大きな人は背が高くなると信じられていたのですね。使者は、目星をつけた女性の身長を測り、さらに足のサイズを調べて、そこまで合格した娘たちを、都であるコンスタンチノープルに、送り届けたのです。シンデレラの靴の由来は、ここにあったのです。さて、こうして全国から、寄り抜きの美人が帝都コンスタンチノープルの宮殿に集められました。当時の宮殿は、現在のブルーモスクから海岸にかけての一帯に広がっていたことが、考古的な調査から明らかになっています。集められたお后候補が、どのくらいの数になったかは、明らかにされていませんが、相当数(100~200人程度か?)に及んだことは確かで、皇帝や皇后、傅役や重臣などを審査員とした第1次審査が行なわれました。1人1人が審査員の前に呼ばれ、幾つかの質問を受け、それから、使者からいただいた靴を履いて、宮殿内の広間をゆっくり歩くように命じられるのです。これで審査は終了です。10人程の娘が1次審査に合格し、いよいよ皇太子(皇帝)自身によるお后選び(最終審査)となるのですが、ここで、国へ返される娘たちは、「あなたは美しい。しかしローマ人の皇帝の后には相応しくないように思う」と声をかけられるのが常でした。1次審査後、およそ10日を経て、宮殿で盛大な舞踏会が開かれます。この日がお后選びのハイライト、本番の日なのでした。 続く
2008.07.12
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クロニクル 頼朝征夷大将軍に1192(建久3)年7月12日古い事になります。816年前になります。源平の合戦を制した源頼朝は、鎌倉に根拠地を構えて、武家の政府の体裁を整えはじめると共に、京都の朝廷の実験を握る後白河法皇に対し、征夷大将軍への任官を強く望みました。しかし後白河法皇は、武家政治の樹立を念願する頼朝の狙いを察して、これを認めませんでした。この年、後白河法皇が病を得て亡くなり、短時日の内に、朝廷内の後白河派は一層され、この日行なわれた新たな人事の一環として、頼朝は念願の征夷大将軍の地位をようやく手に入れたのでした。ここに、頼朝は、名実共に武家の棟梁となり、鎌倉幕府体制はここに完全に出来上がったのでした。
2008.07.12
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時間と時計 番外編 シンデレラの靴(1)時間と時計、ご愛読有難うございました。話の糸口を作ってもらった、シンデレラについてですが、実は時間の約束の外に、私にはもう1つ気になっていることがありました。それが、彼女が大慌てで、お城から退出する時に、脱げてしまった片方のガラスの靴のことです。脱げてしまって、シンデレラの身体から離れてしまったからというのでしょうか、この靴だけは魔法がとけませんでした。それは善しとしますが、今度はご家来衆が、国中を回って、妙齢の女性のいるお宅を1軒1軒靴を持って回ることになります。そして遂にシンデレラの家にも現れ、劇的な大団円に繋がって行く。皆さんもご存知のストーリーが展開します。だいたい、足のサイズはそんなに違うものではありませんから、ガラスの靴が履けたのが、シンデレラ1人というのが、まず信じがたいような気がしますが、この話は、そう疑問をもたれることなく、17世紀末のフランスでも、19世紀のイギリスでも、広く信じられていくのです。いったい何故。もしかして、中世から近世にかけてのヨーロッパ人にお馴染みの国のどこかに、王子様の花嫁候補を、靴を片手に探した国があったのではないか。そんな疑問を持った人が、実はいたのですね。近代までの女性の地位は、実に低いものでした。女性の王位継承については、これを認めている国もありましたが、そうした国でも、結婚後の女性の身分は、結婚相手の身分に同化されることになっていました。従って男性は相手の身分に囚われずに相手を探すことも可能でした(実際に出きるかどうかは、国毎の慣習によりますが…)が、女性の結婚対象は、ごく限られた男性しかなかったのです。それゆえ、中世から近代までの西欧で、結婚相手を探すのが、最も難しく、困難を伴ったのは、王族に属する女性達だったのです。ですから、西欧では、王家同士の国際結婚が盛んだったのです。そんな中で、実は最盛期の東ローマ帝国(別名ビザンツ帝国)だけは、王子達の花嫁候補を、居並ぶ宮廷貴族や王族、他国の姫君達から選んではならないという、不文律を持っていたのです。時代は9世紀、暗黒の時代をようやく脱したビザンツ帝国は、再び勢いを取り戻しましたが、皇帝を支える貴族たちは、1つの約束に達したのです。自分たちの娘を皇帝に差し出すことは止めようというのです。藤原氏や平氏の例を出すまでもなく、王の外戚になった親族が権勢を揮い、私財を蓄積することは、洋の東西を問わず、いくらでも出てくる話です。ようやく、イスラームの打撃から立ち直った帝国の安泰を図るためにも、貴族同士の争いの根を断ち切ろうとしたのです。つまり、皇帝の后や皇帝たるべき皇太子の后は、貴族身分以外の庶民の娘から選ぶと決めたのです。これなら、后の実家や親戚を宮廷に入れることはありえないからです。考えたものですね…。専制君主たるべき皇帝の后は、庶民の中から、心やさしき美人を選ぶことにするというのです。洋の東西を問わず、このような制度が存在した国家は、歴史上、どうもビザンツ帝国だけのように思います。実はロシアでも皇帝(ツァーリ)の夫人を美人から選んだ時期がありましたが、対象の範囲は貴族身分という事でしたから、庶民からではありませんでした。民衆階級の娘から后を選んだ国は、時代は遡りますが、確かに西欧世界の近くに存在していたのです。そして、その強い印象は伝承となって、ヨーロッパ世界に語り継がれていた。そしてその選び方の中に、靴をめぐる話も含まれていたのです。 続く
2008.07.11
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クロニクル 総評結成1950(昭和25)年7月11日58年前のこの日、日本労働組合総評議会(略称 総評)が結成されました。総評は、企業別の単位組合が参加する組織ではなく、企業別組合が同業種毎に結集した産業別組合(これを単産と呼んでいました)が参加する形式をとっていました。ですから、炭労、私鉄総連、全国金属、電機労連、造船・重機、出版労連、私教連、日教組、国労、自治労、全逓等々が加わった組織でした。朝鮮戦争が始まり、日本社会の右傾化の第1歩が記され始めた時の結成でしたから、当然GHQの支持を得たスタートでしたから、当初は非常に穏健な労使協調路線に立つ組織体でしたが、次第に労働者の直接の声を反映する組織に脱皮し、やがて、春の新卒社員の入社に合わせて賃金体系の改訂を迫る、春闘を編み出して大きく支持を伸ばし、1950年代後半~60年代にかけて、黄金時代を築きました。
2008.07.11
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時間と時計 (32)思わず長くなってしまった、『時間と時計』のシリーズですが、終りの時を迎えました。最後に教育論を展開した『エミール』や『社会契約論』でお馴染みのルソーを引き合いにだして、まとめに換えたいと思います。ルソーの自伝的作品『告白』にこんな記述があります。この話しは、丸谷才一の『たった一人の反乱』でも、言及されています。ルソーが宿泊していた下宿屋に、テレーズというお手伝いさんがいたのですが(彼女は後にルソーの終生の伴侶となります)、ルソーが彼女にいくら時計の読み方を教えても、ちっとも覚えず、最後にはルソーが教えるのを諦めてしまったという話です。そして、そういう女性をルソーが生涯の伴侶に選んだといういうことです。次ぎに、その数年後、ルソーはテレーズを伴ってパリを去り、田舎で世捨て人のような生活に入ります。その時ルソーは、もう時刻を知る必要はないんだと思い、嬉しくなって舞いあがり、時計を売ってしまう話が記されています。ルソーは、「時計を売った瞬間こそは、生涯における最も幸福な瞬間だった」と、記しています。当時の時間に縛られ始めていた、市民社会の規範に、ルソーが馴染めないものを感じていたに違いないことが、良く読み取れる一文です。ルソーは、『社会契約論』等の著作で、市民社会の原理を説き明かしてくれたのですが、こうした市民社会に生きながら、一方で市民社会を嫌ってもいたのです。丸谷は、こう書いています。「(ルソーは)市民であることを誇りとしながら、同時に市民である事を、逃れたいと願っていました。野蛮人の自然で素朴な状態に、熱烈に憧れていた彼にとって、時計の読めない、しかし美しくてやさしいテレーズは、野蛮人の美徳を保証するものに、他ならなかった。ルソーは自然的人間と市民的人間を対立させました。そして、……両者を何とか調和させようという企てに、生涯を費やしたのであります。」と、写真賞の授賞式の場を借りて、審査委員長に語らせています。ルソーは1778年に生涯を終えています。ですからルソーは、機械に人間が縛られる、工場制度の存在は知らずに亡くなったのですが、おそらく時計に管理された社会の行く末を予測して、暗澹たる気分を持っていたのでしょう。その後の時計による時間管理社会の到来については、記す必要はもうないと思います。私たちは、時計または時計の代用品から、ルソーのように完全に自由になる生活を望むことは、もはや出来ないように思いますが、時計に管理された生活の中に、どれだけ時計の束縛から自由な時間を確保していく事が出きるのか、皆さんと共に、』私も日々工夫を重ねて行きたいと考えています。 ご愛読有難うございました。 明日は番外編を記します。 完
2008.07.10
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クロニクル 岩波文庫創刊1927(昭和2)年7月10日この日、岩波書店は、分売可能な小型本叢書(後、岩波文庫と命名)を創刊、ただちに発売しました。これは、当時流行の円本に対抗する狙いを篭めたもので、第1期刊行は、夏目漱石の『こころ』など22点、定価は★印、1コにつき20銭という手軽さでした。因みに『こころ』は★2コでした。岩波文庫は、手軽さと、値段の安さで強い支持を受け、文庫本ブームの火付け役となり、やがて角川文庫や新潮文庫が後を追うことになりました。書店に本は溢れていても、本の売れ行きは落ちているとか。電車内の若者がケータイやゲーム機をいじくるのではなく、せめて文庫本でも読んでくれたらなぁと願うのは、私だけでしょうか。
2008.07.10
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時間と時計 (31) ところで、腕時計が市販されるようになるのは、第1次世界大戦後のことです。それゆえ、義和団事件当時の腕時計は、注文生産ということになります。小型の懐中時計にベルトをつけたり、自分で手首に巻けるようにしたのではないかと、考えられています。義和団事件から4年後の1904(明治37)年に、日露戦争が始まります。この日露戦争の将校団の写真を見ると、前列の将校が全員腕時計をしていることが分かります。大江志乃夫さんの『兵士達の日露戦争』に記された、兵士の家族宛ての手紙を見ると、やたらと時刻が出てきます。「9日屯営を出発し、午後5時8分発車、6時夕食。翌10日午前5時29分大阪着朝食、11時30分姫路着昼食、午後4時55分岡山着夕食。…」とこんな調子です。やたらと時間の記録が出ているのです。手紙の人物は二等兵卒ですから、軍による時間教育が徹底していたこと、そして彼自身出征の記念かもしれませんが、時計を持っていたに違いないことが読み取れます。もう一つ、日露戦争の際に作られた軍歌、真下飛泉作詞の『戦友』の1節に次ぎのような歌詞があります。「ここは、お国を何百里…」のあの歌です。「空しく冷えて 魂は 国へ帰った ポケットに 時計ばかりが コチコチと 動いているも 情けなや…」戦死した友が持っていた時計は、懐中時計だったようですが、兵卒までもが時計を持ち、時間を正確に知ろうとしていたことが偲ばれます。満州の荒野で敵弾に倒れた戦友が、懐中時計を持っていたのも、決して例外ではなかったのでしょう。だからこそ、戦友の詞は兵士達の心を打ち、長く歌い継がれることになった。そして時計の示す時間に、絶えず注意を払いながら、故郷へ手紙を書いていた。私は、このような情景を想像し、そこに日本の工業化が成功していった、一つのキイがあったように感じるのです。 続く
2008.07.09
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クロニクル キッシンジャー隠密裏に訪中1971(昭和46)年7月9日この日、米国ニクソン政権のキッシンジャー大統領補佐官が、隠密裏に中国を訪問、周恩来首相と会談しました。国際政治学者で、ハーバードの教授だったキッシンジャーは、乞われてニクソン政権の外交顧問を兼ねる形で、大統領補佐官に就任、勢力的に膠着状態の国際関係に風穴を開ける仕事に専念していました。この時も、公式にはタイとビルマを訪問すると発表しながら、ビルマ政府の協力で、国境を接する中国に渡り、北京へ飛んだのでした。会談の結果、米中関係の改善のために、翌72年5月までに、ニクソン大統領が訪中することで意見が一致。キッシンジャー補佐官の帰国後の同月15日に、米中で同時に発表されました。この決定を下に、ニクソン米大統領は、翌年2月21日から27日まで中国を公式訪問し、両国関係の改善に努めました。この時、日本の佐藤首相は、米国に追随して中国敵視政策を取っており、国会審議中の米中の発表を受けて、議場はしばらく混乱に陥り、佐藤首相は終始、苦虫を噛み潰したような渋い表情をしていました。
2008.07.09
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時間と時計 (30)一般には、人気のなかった腕時計ですが、19世紀末には実用化されていたことは確かです。1899年~1902年にかけて行なわれたボーア戦争(南アフリカ戦争と呼ばれることもありますが、オランダ系の土着した白人であるボーア人の国をイギリスが奪い取ろうとして起こした、白人同士の戦争です。白人と黒人の戦争ではありません)の最中に、イギリス人将校が腕時計をはめている写真が現存しています。この将校が、後にボーイ・スカウト運動の創始者となったベイデン・パウエルなものですから、写真が残されたのかもしれないのですが、ともかく証拠写真があるのです。もう一例あげましょう。1898年の米西戦争(アメリカ対スペイン)で、キューバに侵攻したアメリカの義勇兵部隊の指揮官が、部隊と共に移した勝利の記念写真で、左手首に腕時計をしている写真があります。この人物こそ、日露戦争の講和を仲介したアメリカ大統領、セオドア・ローズヴェルトその人でした。さて、ここに記したことは、隊長や将校の中に腕時計をしている者がいるという、事実しか証明してくれません。その腕時計の普及はいつか、どの国が最初に腕時計の普及に、先鞭をつけたかというと、どうやらそれは日本軍らしいのです。1894~1895年における日清戦争の敗北は、中国の半植民地化、欧米列強への従属化を著しく進めました。その結果、特に中国華北一帯で、民衆の抵抗運動が草原に広がる野火のように、激しく燃え上がったのです。「義和団運動」と呼ばれる運動で、1899年から広がり始め、1900年6月には、北京や天津を占領、北京の各国公使館を包囲して、各国の外交官を人質に取ったのです。英・仏・露・米・独・伊・日・墺の8ヶ国は、連合軍を派遣して、鎮圧するのですが、この戦争では、距離も近く、いち早く軍隊を派遣して、多くの犠牲を払いながらも、北京を解放して、各国外交団を救出した日本の活躍が目立ちました。各国の新聞は、日本の活躍を称賛した特派員の現地報告を載せています。ここでは、ロンドン・タイムスの特派員の記事の1部に、腕時計のことが出てきますので、その部分のみを記します。「日本兵は、伍長ですらも、腕時計・羅針儀・双眼鏡を携帯している。日本の砲兵隊も、補給隊も実に素晴らしいが、その日本軍の弱点は、騎兵隊の乗馬が貧弱で、劣ることである。」いかがです。英国や米国の軍部では、将校のみが腕時計をしていたその時代に、日本軍では、伍長という兵卒に最も近い下級の下士官までもが、腕時計をしていたという事実です。イギリスの敏腕新聞記者は、さすがにこの事実を見逃さなかったのですね。当時腕時計は高級品ですから、伍長が自ら時計を買うのは不可能です。明らかに軍によって支給された品、下士官の標準装備品とされていたと考えられるのです。腕時計の普及に先鞭をつけたのは、どうやら日本だったようなのですね。 続く
2008.07.08
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クロニクル マッカーサー、警察予備隊創設を指令1950(昭和25)年7月8日今から58年前の1950年は、プロ野球が2リーグ制に移行した年であり、また6月25日に、朝鮮戦争が始まった年です。一方で、日本はまだ第二次世界大戦の連合軍の占領下にありました。それゆえ、当時の最高権力は、連合軍総司令部(GHQ)にありました。GHQの総司令官マッカーサーが、日本統治の最高権力者だったのです。そのマッカーサーが、この日、吉田茂首相宛て書簡の中で、警察予備隊の創設と、海上保安庁の拡充を指令しました。警察予備隊は、後の自衛隊の前身です。このマッカーサー指令に従って、政府は大慌てで、警察予備隊の創設準備を開始、8月10日に警察予備隊令を公布するに到りました。7月8日は、日本の再軍備への歩みが始められた日として、長く記憶される日であり続けて欲しい日でもあります。。
2008.07.08
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時間と時計 (29)ではいったい腕時計は、どのような必要から急速に普及するようになったのでしょうか。これが、私は腕時計の普及の話しは嬉しくないと、示唆してきた理由そのものなのです。腕時計を普及させたのは、近代の戦争でした。近代戦の特徴は、兵士の集団が違いに組織的に行動して戦う戦争です。広い前線に散開した兵士達を一斉に立ち上がらせ、攻撃に出るには、それまでは鐘や太鼓、ラッパなどの鳴り物を使っていました。しかし、鳴り物は分かりやすいですし、味方の精神を鼓舞する効果もありますが、敵にも筒抜けになる弱点があります。銃器の発達した近代戦では、それこそ突撃した兵士は、敵側の銃弾の狙い撃ちに会ってしまいます。日露戦争を例にとると、両軍から仕掛けあった、遼陽と奉天の会戦を除くと、戦闘毎の死傷者数は、必ず攻勢に出たほうが受けて立った方に比べ、勝敗に関係なく必ず1,5倍から2倍の被害を受けているのです。こうなると、攻勢に出る合図を鳴り物で知らせるのは控える必要がある。攻撃の開始時間をあらかじめ打ち合わせ、予定時刻に粛々と攻撃を開始するには、兵士全員とは言わないまでも、大隊長から小隊を指揮する軍長や伍長クラスにまで、時計を行き渡らせるならば、効果が出ます。そしてこの場合、イチイチポケットを探して時計を見るよりも、身体の1部として、腕に巻いておく方が、ずっと便利だということになります。こうして近代の戦争が、腕時計普及の先鞭をつけたのです。ヨーロッパの社会史の本などでは、腕時計の普及は、第1次世界大戦からだという説が、1時期主流になりましたが、現在ではもう少し早めても良いのではないかという、指摘が増えてきています。 続く
2008.07.07
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クロニクル サミット東京で開催1993(平成5)年7月7日七夕の今日、洞爺湖サミットが開会するわけですが、奇しくも15年前の今日、1975年のランブイエから数得て19回目のサミットが、東京で開幕しました。次ぎの日本開催が、2000年の沖縄サミットです。この93年サミットのホスト役は宮沢首相が務めたのですが、彼は、前月18日に、衆院での内閣不信任決議案の可決成立を受け、解散総選挙に踏みきっておりました。その結果はご存知の通りで、18日の総選挙に破れ、彼は退陣することになりました。その7年後の沖縄サミット直前の4月2日には、時の小渕首相が脳梗塞に倒れて退任、急遽密室の幹部談合で選ばれた森首相が、ピンチヒッターを務めたことは、ご存知の通りです。2度あることは3度あることになるのか、3度目の正直となるのか、どちらでしょうか。しかし、どちらにしても、福田首相の前途にも、暗雲が濃くなっているようですね。 ザビ
2008.07.07
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