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時間と時計 (22) さて入間県の県庁所在地だった川越にも、西洋時計はありませんでした、無理もありません。西洋時計は、当時貴重品で、明治4年12月の『新聞雑誌』24号に載った「奈良県通信」によれば、当時の奈良県では、「洋服着用の者1人もなく、時計を所持する者、僅かに官吏2名のみ」という状態だったのです。ところで、川越藩士内池武者右衛門、あの日本で最初に懐中時計を手にした人物は、どうしていたのでしょう。彼の家宝の時計はどうしたのでしょう。武者右衛門は、川越藩の書庫係でしたが、廃藩置県によって藩が解体したのち、地方の大半の藩の侍たち同様、僅かな金録公債をもらって失業者になりました、失業した武者右衛門は、まず横浜に出て時代の流れを見つめることにしたのです。そこで彼は、川越にはなかった散髪屋を見つけ、自分の髷を切てもらい、ついでに整髪してもらったのです。ここで閃いた彼は、川越に戻って散髪屋を開業しようと、見よう見まねで散髪技術を磨いたのです。こうして、武者右衛門は、川越市で最初の西洋式散髪屋になったのです。当然彼の店には、県庁の役人もやってきます。西洋時計がなく、困っていた役人は、散髪に来る客の情報に通じる床屋の親父に、「誰か時計を持っている人を知らぬか」と尋ねました。ここに武者右衛門が、家宝として大事に持っていた懐中時計の出番がきたのです。幕藩体制の世の中では、固く口を閉ざして秘密にしておかなければならなかった懐中時計のことを、今は誰彼気にせず語ることが出来るのです。武者右衛門は、自分が懐中時計を持っていることを告げ、奥からそれを持ってきて、役人に見せたのです。大喜びした役人は、早速県令(現在の県知事)に報告します。30余年間大事に守りぬいた時計が、晩年の武者右衛門に微笑んだのです。翌日県庁に呼ばれた武者右衛門は、散髪屋ぼ家業を続けたまま、朝・昼・晩の3回、多賀町の鐘撞屋敷で時報を撞く、時報の管理主任を務めることになったのです。辞令によると「月棒4円」とありますから、当時としてはかなりの高給でした。ところで、1840年代のアメリカでは、まだ有名なウォルサムも創業しておりませんから、国内に時計製造業はなかったと推測されます。武者右衛門がもらった時計は、九分九厘イギリス製の時計であったろうと考えられるのですが、実物が失われていますので、特定はできないのです。 続く
2008.06.30
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クロニクル 隈板内閣誕生1898(明治31)年6月30日この日、旧進歩党の大隈重信首相兼外相、旧自由党の板垣退助を内相とする、日本で初めての政党内閣が誕生しました。2人の名を採って、一般に隈板内閣と呼ばれています。第3次伊藤内閣の地租増徴案に、地主層を背景とする自由・進歩両党が反発し、議会で増徴案を否決したのですが、伊藤内閣は衆議院を解散して総選挙に訴えました。そこで、両党は連合を組み、自由・進歩両党を解党して、一致して憲政党を結成、藩閥勢力と対決する姿勢をとりました。伊藤も政党を結成して対抗しようとしましたが、藩閥勢力や財界の支持が得られず、そこで内閣総辞職を選択し、政権は初めて政党内閣の手に渡りました。しかし、旧自由党系と旧進歩党系の内部抗争は収まらず、この政権は僅か4ヶ月という短命に終わりました。
2008.06.30
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時間と時計 (21) ガリバーが服のポケットに、大切に懐中時計をしまっていたわけは、船の進んだ距離を測るためでした。それも正確さにやや欠けるとしても、経度を測るためでした。コロンブス一行が、大型の砂時計を積み込んでいたのも、未航海の海を行くために、出来るだけ正確に我が船の位置をしるためだったのです。やがて、18世紀後半になって、より正確に経度を測る道具として、マリン・クロノメーターが発明され、懐中時計は、海上での役割りを終えるのですが、その頃から、イギリスでは産業革命が始まり、やがて時計はなくてはならないものになって行くのです。ここで、ガリバーの話しは終えますが、日本で最初に懐中時計を手にした人物の話をさせていただきます。私事ですが、私の父方の従弟が川越に済んでいます。この従弟が、私のブログを覗いて、川越市多賀町にある「時の鐘」について記された『川越市史』の1部をコピーして送ってくれたのです。実は、ペリーの黒船が来航した1853年に先立つ事7年、1846年にも米国は2艘の黒船を日本に派遣しています。東インド艦隊所属のコロンブス号とビンセンス号でした。この時の記録は、詳しくは残っていないのですが、ペリーの『日本遠征記』(岩波書店から翻訳が出ています)に7年前のことが1部記されています。この時幕府は、沿岸警備艇で2艘の軍艦を遠巻きにして様子を見たのですが、1人の血気にはやる侍が、2艘のうちの1艘、ビンセンス号に近づき、投錨した錨をスルスル上って、ビンセンス号の甲板に降り立ったのです。川越藩士、内池武者右衛門でした。内池は英語が出来たわけではないのですが、面白がった米軍水兵と身振り手振りで応待し、帰り際に、何と懐中時計をお土産にして戻ったのです。しかし当時は、なお海禁政策が続けられていた時代ですから、お土産に貰った懐中時計については、誰にも話さず、勿論主君に献上する事も出来ず、密かに家宝として、自宅にしまっておいたのです。やがて開国した日本は、幕末の動乱を経て、明治維新を迎えます。文明開化を掲げた新政府は、時刻制度の刷新にも思いを致さざるをえません。こうして明治6(1873)年1月1日をもって、不定時法を定時法に改め、1日を12刻制から24時間制に改めること、暦法も太陰暦から太陽暦に改める旨を決したのでした。時刻はともかく、太陰暦と太陽暦では日付が違います。ですから移行に伴っては、経過措置が必要になります。このため、明治5(1872)年は12月2日を持って終りとし、12月3日を、明治6(1863)年1月1日とすることになったのです。こうして、明治5年には、12月は2日しかない、変則的な1年になっています。除夜の鐘を撞く方も、気分の出ない年の瀬だったでしょうね。それはともかく、夫々の地方では、江戸の昔から慣れ親しんだ、時の鐘をどう撞くかが大問題となりました。和時計もどこにでもあるというシロモノではなかったのですが、不定時法の和時計で、時を告げるわけには行かなくなりました。かといって西洋時計は、大都会はともかく、地方都市や農村には無縁のシロモノだったからです。事情は旧川越藩、当時の入間県川越市でも同じでした。 続く
2008.06.29
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クロニクル 日本初参加の五輪始まる1912(明治45)年6月29日それは96年前のことでした。明治天皇の崩御が7月30日ですから、まさに辛うじて明治という時代に間に合ったことになります。この日、第5回目の近代オリンピック、ストックホルム五輪の開会式が、ストックホルム競技場で行なわれました。この大会に、日本もはじめて参加し、僅か2名でしたが、選手を派遣したのです。面白いことに、開会式は、この日に行なわれたのですが、何と競技の開始は7月6日、終了は14日だったのです。開会式から8日後の開始、実質会期は9日間でした。この大会には、世界28カ国から選手・役員を合わせ、3282人が参加しました。日本の2選手は、陸上短距離の三島選手と、マラソンの金栗選手の2人でした。また、日本で初のIOC委員として、東京高等師範学校校長の嘉納治五郎が参加しました。三島選手は、100m、200m共に一次予選で敗退、400mでは準決勝に進出しましたが、惜しくも予選で足を痛めて、棄権しました。金栗選手は、記録的な酷暑にやられ、25km附近で棄権しました。出場した68選手中34選手が棄権したサバイバルレースだったと、当時の新聞は報じています。
2008.06.29
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時間と時計 (20) さて、ガリバーの話に戻りましょう。遭難地点はこう書かれています。「我々の船は、ブリストルから東インド(当時インドは東インド、アメリカ大陸とその周辺は西インドと記述されていました)とへの航海中、ひどい暴風雨に遭って、バン・ディーマンズ・ランド(これはタスマニア島の当時の呼称だったと考えられています)の北西方まで流された。天体観測の結果、我々の位置は、南緯30度2分にあることが分かった。」と。現在の地図で、タスマニア島の北西、南緯30度2分を見れば、これは海上ではなく、オーストラリア大陸の上になります。ですから、実際にはそんなことはありえないのですが、何しろ18世紀初頭では、クックによるオーストラリアの「発見」や領有宣言は、まだ行なわれていないのです。それゆえ、空想冒険小説では、こういうことが起きるのは、不思議でも何でもないのです。ここでは、ガリバーが船の位置を示すのに、緯度だけを記し、経度を記していないことに注目して欲しいのです。緯度だけでは船の位置は決められません。船の位置が決まらないとすれば、当然危険も増えます。何故緯度があって、経度がないのか。それは古来からの天体観測の発達によって、緯度は早くから比較的正確に測定できたのですが、経度の測定が難しかったからなのです。未知の大陸や島々が沢山あった時代に、不正確な地図や海図で航海することが、いかに危険をともなうものであったかが、ここから理解できます。ガリバーや、これも皆さんご存知のロビンソン・クルーソーが出会ったような海難事故は、当時は日常茶飯な事柄だったのです。それは海軍の軍船でも、起こりうることでした。西洋史でお馴染みのスペイン継承戦争(1701~1713年)の最中、1707年のことです。ジブラルタルを通って、帰国途上にあったイギリスの地中海艦隊が、11月22日夜に英仏海峡を通過中に、西からの強風にあおられて進路を誤って座礁、軍艦4艘を失い、2千人の乗組員が全員死亡するという、大事故を起こしたのです。この事故はイギリスのみでなく、ライバルのフランスやオランダにも強いショックを与えました。いつ我が艦隊にも、同じ事が起こるかもしれないからです。事故は、正確な経度の測定が出来ないが故に起こったことは、間違いのないところでしたから、この時から経度の測定への関心は、いっそう高まったのです。スペイン継承戦争が終った翌年の1714年に、イギリス政府は、正確な経度測定法を考案したものに、2万ポンドの賞金を出すと発表しました。フランスも負けては1715年に1万リーヴルの報奨金を出すと発表しました。オランダも負けじと、1万ギルターの賞金を出したのです。早くに経度の測定法を入手した国が、世界の海を支配できる。当時の海洋国家は、競って経度の測定法の取得を目指したのです。理論的には経度の測定法は分かっていました。標準経線を設定して、それと船が位置する地点の、ローカルな時間との時差から割り出すことが出来るからです。問題はそうした時差を測る誤差の少ない正確な時計がなかったことです。また、仮にそうした時計が開発できたとしても、その時計を常に揺れていて、動揺の激しい船の上でも、正確に時を刻んでくれるかは、難しい問題でした。時差の誤差が仮に1分だとしても、それは地図上では大きな差になるからです。こうして、まずは時報の外に、15分単位で時を打つ時計が開発され、さらに、掛け時計でも、置き時計でもない、人が身につけている懐中時計が製造されたのです。 続く
2008.06.28
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クロニクル 平和五原則発表1954(昭和29)年6月28日この日、インドを訪問中の中国の周恩来首相は、デリーでインドのネルー首相と共に、共同声明を発表、その中で平和五原則を提唱しました。インドと中国の間には、マクマホンラインを鋏んで未確定の国境問題があり、緊張関係にありましたが、この年4月に一定の合意に達していました。この日両国の親善を深めると同時に、4月の合意をより確実なものとするために、インド側の招きで訪印中の、中国の周恩来首相は、演説の中で五原則に言及、この精神で世界平和を推進しようと、アピールしました。ネルー首相もただちに賛同の意を示し、共同声明では、単に2国間の者ではなく、世界平和の推進に向けた原則であることが強調されました。五原則の内容は、1、主権の尊重 2、相互不可侵 3、内政不干渉4、平等互恵 5、平和共存 の5項目でした。大国意識丸出しに、意に染まぬ国に限り、国家主権を無視して、内政干渉に走りながら、自由世界のチャンピオンを気取っているどこかの国と、その国のご機嫌ばかりを伺って、国際的に軽んじられているどこかの国の政府と国民に、今一度この宣言を噛み締めてもらいたいものですね。と同時に、中国とインドの両国にも、この精神を思い出し、大いに世界平和に貢献すると共に、後指を指されることのない国となって、「李下に冠を正さずの精神」を噛み締めるために、保有する核兵器の全廃に向けて行動して欲しいところです。
2008.06.28
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時間と時計 (19) 実は時計は距離を測る上で、欠かせない重要な道具だったのです。砂時計のコロンブスも、○○の方向へ○ノットで、○時間進んだという調子で、航海日誌を記しているのです。元禄3年から5年(1690~92年)にかけて日本に滞在した、オランダ東インド会社の医師ケンペルという人物は、日本滞在記という日本の紹介記録を残しているのですが、この記録はオランダで『日本誌』として出版されました。その中に、彼が将軍を表敬訪問するために江戸に上った時の記録「江戸参府日記」も含まれています。この旅に、ケンペルは完成後間もない懐中時計を大事に持って出かけました。江戸城で将軍綱吉に拝謁した時の情景もあります。大奥の女性達にも見学が許されたこの席で、ケンペルは西洋の剣やタバコのパイプなど、日本人が珍しがりそうな品を見せて気を引いているのですが、最も皆が興味を寄せたのは、小人国の小人同様懐中時計だったと記しています。大奥の女性達は時計を部屋の外まで持ち出し、不思議そうにためつすがめつ眺めたり、耳にあてて音を聞いたりしていたと、なかば得意気に記しています。さて、ケンペルはこの時計で何をしていたのかが、確認出来ると、ガリバーが懐中時計を大事に持っていた理由も分かります。ケンペルの旅日記を引用しましょう。「3月2日金曜日。我々一行は籠に乗って京都を離れた。一緒に宿を出た主人は、京都から1時間程の距離にある町外れの料亭に、我々を招いた。……ここで我々は1時間を過ごし、長々と続く日岡村を過ぎると、15分で岩茶屋村に至り、それから間もなく追分村に着くが、この村は400ケ程の長い町並みを有し、通り過ぎるのに半時間ばかりかかった。」お気づきと思いますが、京都から1里の距離という表現を用いず、距離を時間で現しているのです。今でこそ不動産の広告には、「駅から○分」がありますが、江戸時代の日本には、距離を時間で表現する習慣はありませんでした。ケンペルは籠に揺られて旅をしながら、懐中時計を常に見ながら、夫々の地点の距離を時間で表現していたのです。それも15分単位で時間をはかっていたことが、この記録から読み取れるのです。そして彼は時間を距離に換算していました。おそらくガリバーも同じことをしていたことになります。時報の1時間の他に、15分という時間が大切だった理由が、仄見えてきましたね。 続く
2008.06.27
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クロニクル 中国プロレタリア文化大革命を全面否定1981(昭和56)年6月27日この日、中国共産党は胡燿邦の主席昇格を発表すると共に、1966年8月からのプロレタリア文化大革命を全面的に否定する声明を発表しました。時に当時の毛沢東主席が1976(昭和51)年9月に死去して以来5年が経過していました。文革の10年が、中国の経済・文化・市民生活・教育そして政治に残した傷の回復に、どれだけの時間が必要だったかは、今後も検証を続けないと明らかにできないように思いますが、少なくとも、文革なかりせば、中国経済は、今よりも相当先を走っていることだけは、確かでしょう。
2008.06.27
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時間と時計 (18) ジョナサン・スイフトの『ガリバー旅行記』は、1715年頃に書き始められ、1726年に完成した作品です。空想の国に題材を取りながら、当時のイギリス社会を風刺した作品です。面白いのは空想譚でありながら、出発の日付や空想上の島での日付などは、しっかりと記録されていることです。ここで取り上げるのは、小人国への漂流譚ですが、この旅立ちの日は1699年の5月4日、イングランド西岸の港町ブリストルを出発したと記されています。そしてインド洋海域で嵐に遭って難破、小人国へ漂着したのが、その年の11月5日。小人国を出発したのは、1701年の9月24日と記されています。この時、漂流中に気を失ったガリバー1人が、ふと気がつくとそこが小人国だったという設定です。気付いたガリバーは身動きできないように縛られていたのですが、大勢の小人に取り囲まれていて、彼の持物が逐一検査されるのですが、小人達が最も驚き、かつ関心を示したのが、上着のポケットに大切にしまってあった銀の懐中時計でした。小人国の役人の、皇帝への報告を引用すると、「耳元に近づけると、あたかも水車のように、絶えず音を響かせています。おそらくこれは、私達が知らない動物か、それとも彼等が礼拝する神ではないかと思われます。彼等の日常の行動は、この機械の作る時間に指示されていると、本人は言っております。」とあります。この懐中時計、何故ガリバーは未知への航海に、懐中時計を携えて行ったのか。ここにシンデレラが出会った15分を打つ置き時計の謎を解く鍵があります。持っていた時計は1ケだけ、しかも上着のポケットにしまっていたのですから、これは商品ではなく実用のためのものであることが分かります。いったい何のために。コロンブスが初めて大西洋横断の航海に乗出したのは、1492年の事でしたが、彼の航海にも大きな砂時計が据えられていたことが、『コロンブス航海誌』に記されたいます。即ち航海と時計は切っても切れない関係にあったのですね。ガリバーもまた航海に欠かせぬ道具として、懐中時計を肌身放さず、持ち歩いていたのですね。それではいったい時計で何を計っていたのでしょう。 続く追記懐中時計も、17世紀の後半から作られるようになっていましたが、当初は誤差が大きく、日に30分程の遅れが当たり前の製品でした。そのため、当初は貴族の装身具のように扱われていたのですが、1675年頃にオランダで、精度が飛躍的に高い時計が開発され、一躍オランダがヨーロッパ時計工業の中心地に踊り出たのでした。ここに1日の誤差は5分以内となり、修正可能範囲に落ち着いたのです。1699年出航のガリバーが持っていたのも、このオランダ製の懐中時計と考えて良いように思います・
2008.06.26
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クロニクル 日本のビール事始1877(明治6月26日)この日、北海道開拓使は、札幌で製造したビール1箱を明治天皇に献上しました。これが新聞でも報じられ、天皇ご自身が「これは美味しい」と語られたと言う話が、まことしやかに伝えられ、一般庶民の間にも、そもビールとは何ぞやと、関心も高まったのでした。頃や由、気を良くした開拓使は、ビールを北海道の産業として興すべく、秋には、大瓶1本16銭で、一般にも売り出したのでした。そういえば、ラジオ時代のコマーシャルソングにありましたね。「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー、うまいビールの合言葉…」という、サッポロビールの宣伝が…
2008.06.26
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時間と時計 (17)シンデレラの話に戻りましょう。シンデレラの話は、シャルル・ペローが民話から採取した童話のの一つで、これもお馴染みに「赤頭巾ちゃん」や「眠れる森の美女」といった作品と共に、1697年出版の『ペロー童話集』に納められています。話の筋はご存知の通りですが、シンデレラと魔法使いの約束は、深夜の12時を過ぎると魔法が解けるということでした。そこで、こういうシーンがあります。最初の日、シンデレラは11時45分の時計の音を聞いて、王子様とお別れします。ところが、初日より少し慣れた2日目は、この音を聞き漏らし、12時の鐘が鳴り始めたところで、慌てて王子様を振りきり、走って門へ向かいますが、ガラスの靴の片方を落としてしまうという、有名なシーンです。靴のお蔭でハッピー・エンドになるのですが、ここでの注目点は11時45分の時計の音を聞いたという、初日の記述です。お城の舞踏会の会場に、いくら高価な品だからとはいえ、柱時計をかけておくほど無粋なことはありません。シンデレラが聞いた時の音は、徳川家康がスペイン王から寄贈された類いの置き時計だったと考えられます。その置き時計、定時でもなく、30分でもなく、15分と45分も知らせる精巧なものが、17世紀末には、既に出来ていたことになります。その証拠がシンデレラの話ということになります。物語の記述は、空想も含みますが、現実に体験しない事には、書けないし、想像もできない事もあるのです。実際にアメリカの博物館などには、ドイツの古時計を展示しているところがあるのですが(本国でないところがミソですね)、その古時計の時の告げ方を記してあるものもありますから、それを見ると15分毎と1時間毎に時を打つと記されたものが、1部にあることが分かります。何の必要で、15分の時を告げる時計が開発されたのか、この解明に、明日は『ガリバー旅行記』の冒険家、ガリバー氏に登場していただくことにします。 続く
2008.06.25
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クロニクル 新自由クラブ結成1976(昭和51)年6月25日この日、河野洋平、山口敏夫、西岡武夫、田川誠一、小林正巳、の5衆議院議員と、有田一寿参議院議員の6名の自民党議員が、ロッキード事件に揺れる自民党をへの離党届を、三木武夫総裁に提出。新たに新自由クラブを結成しました。離党理由は、自民党の金権体質への批判で、「過去の清算と信頼の回復」を掲げて、政治倫理の確立と現代資本主義の弊害の除去、柔軟で先見性のある指導力の3点を、掲げてスタートしました。12月総選挙では、17人が当選と3倍増以上を達成して上潮に乗りましたが、河野、山口、西岡3氏という個性派同士の主張がぶつかり合って、路線論争が耐えず、結局ジリ貧に終ってしまいました。
2008.06.25
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時間と時計 (16)田中儀右衛門(後久重)は、1799年久留米の鼈甲細工屋、田中弥右衛門の長男として生まれました。幼い時にからくりの硯箱を作って、寺子屋の先生を驚かせたと言いますから、早熟的な天才だったようです。15才で久留米絣に花模様を織り出す発明に成功し、22才の時には「風砲」という火薬を使わない空気銃を発明、地元で大変な評判を取りました。また発明のための資金作りのために、全国を回るからくり人形の一座を作って、約10年ほど全国を巡演、大変な評判もとりました。36才で大阪に出ましたが、丁度大塩平八郎の乱(1837年)に遭遇し、家屋を焼失したことから、京都に移り住み、そこで空気ポンプを利用した「無尽燈」を発明して評判を取り、学者仲間と親しくなります。30代後半にして、なお向学心旺盛な儀右衛門は、ここで戸田久左衛門の紹介で、天文暦学の権威土御門家に入門し、その道を極め、天皇から一流の御用時計師に与えられる「近江大掾」の称号を賜っています。京都で「機巧堂」という店を構え、さまざまな機械や高級時計を作製しました。この高級時計の最高傑作が1851年製造の「万年時計」です。正式名称は「万年自鳴鐘」と言うこの時計は、上野の国立科学博物館に展示されています。それは、和時計の粋と西欧の時計技術を融合させた、当時の最高傑作の一つとして、世界的にも注目された作品でした。六角形の六面には、夫々に時刻を示す洋式文字盤、和式文字盤、月日、七曜などが取りつけられ、頭部には日本地図が描かれていて、その上に太陽と月の運行を現す模型がセットされています。このハイテク技術の粋は、しかし買い手がつかず、儀右衛門はからくり興行に使っていました。黒船の襲来と開国によって、幕府も諸藩も西洋の技術を取り入れて、海防を強化することに熱心になり、1854年の開国の年に、儀右衛門は佐賀藩に招かれて、藩の精錬所の技師長となり、船のボイラーや銃砲の製造に携りました。この時期に、日本で最初の蒸気機関車の模型も開発しています。長命だった儀右衛門は、69才で明治維新を迎えます。廃藩置県後、70代の儀右衛門の才能に注目した、明治政府の進めで東京へ出、1875(明治8)年に、銀座に田中製作所という日本で最初の民間機械工場を開きました。今後は電気の時代がくることを見越す慧眼を持って、電気の研究も進めていたのですが、1881(明治14)年83才で他界しています。彼の起こした田中製作所は、2代目田中久重に受け継がれ、彼の下で飛躍的に成長し、やがて東芝と名を代え、今日にいたっています。なお蛇足ですが、江戸時代のからくり人形が発展したものが、現代のロボットです。現在世界で使われているロボットのおよそ90%が日本製であるといわれているのですが、その土台に流れているのは、西欧の模倣ではなく、日本独自のからくり人形の技術であると知るのは、ちょっと良い気分ですね。 続く
2008.06.24
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クロニクル 趙紫陽総書記解任1989(平成元)年6月24日開会中の中国共産党第13期4中全会は、この日第2次天安門事件の責任を問う形で、趙紫陽総書記を解任しました。総書記が、学生寄りの姿勢をとったことが、事件を加速度的に大きくし、反革命暴乱にまで至らしめたというのが、解任の理由でした。公認には、とう小平氏の推薦で、上海閥の江沢民氏が選ばれ、総書記に就任しました。
2008.06.24
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時間と時計 (15)ところで、日本にもからくり時計は存在しました。からくり人形は17世紀後半には、かなり知られた存在で、井原西鶴も座敷で茶運び人形を見て、感動した様子を綴っています。このからくりと時計との結合も自然のことでした。西欧よりは時期的に遅れますが、こうした技術は幕末には大きく開花しています。つくば研究学園都市の近くにある谷田部町の住人だった飯塚伊賀七は、幕末に木製の大時計を作った人物として知られています。高さが2メートル以上もある木枠の中に、大小の歯車をいくつも取りつけた時計だったようです。1985年につくば科学万博が開かれた時に、隣の谷田部町でも「幕末の科学展」を開いて協賛したそうで、この時の目玉が飯塚伊賀七の大時計の復元・展示だったそうです。私は残念ながら、その年日本を離れていて見逃してしまったのですが、しっかり見学した友人からの情報で、およそのことを知りました。この時計には、太鼓や鐘の装置がついていて、日の出、正午、日の入りの時刻になると、自動的に鐘や太鼓が鳴るように工夫されていました。自動時報装置つきの時計だったのです。しかも町中に(最も江戸時代の谷田部町は、小さな村だったでしょうが)音が響き渡る公共の時計搭が、幕末の地方農村に備わっていたことになります。伊賀七は、村人から「からくり伊賀」と呼ばれていたようで、彼の家は代々名主を務めた地方名望家だったようで、その屋敷の1部に、彼の遺品が残っています。彼の家の筋向いに「玉川屋」と呼ばれた酒屋があったのですが、その酒屋へ酒を買いに行く人形を彼が作ったそうです。人形は家を出ると道路を横断し、酒屋の前にくるとピタリと止まる仕掛けになったいたそうです。主人が酒ビンいっぱいに酒を注ぐと、人形はぐるりと向きを替えて帰っていったというのです。面白いのは、これは酒屋の話なのですが、主人が技と酒の量を少なめに入れると、人形は帰ろうとしなかったというのです。秤の機能も併せ持っていたのでしょうね。残念ながら、こうした話が残っているだけで、この酒買い人形は現存しないのですが、人形が持ち歩いたという備前焼の酒ビンは、伊賀七の屋敷に残されています。正六角形で、高さがおよそ20センチ、約4合(720ml)入りのビンです。幕末にはもう1人、からくりの天才技術者がいました。後に田中久重と名を改めたのですが、からくり儀右衛門と親しまれた、田中儀右衛門ですが、彼の話は、明日にさせていただきます。 続く
2008.06.23
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クロニクル 家永教科書訴訟第2段始まる1967(昭和42)年6月23日この日、東京教育大学の家永三郎教授は、ご自身がお一人で執筆された三省堂版の日本史教科書『新日本史』が、不合格処分を受けたことに関して、この日、「不合格処分の取り消し」を求める行政訴訟を起こしました。1965(昭和40)年6月の第1次訴訟は、教科書検定を違憲として訴え、国に賠償を求める「国家賠償請求」で、教科書検定は憲法に違反する検閲にあたり、違憲であることを訴えた民事訴訟で、賠償請求を勝ち取ることで、教科書検定の違憲性を浮かび上がらせようという、絡め手作戦だったのに対し、こちらは正面から違憲判決の獲得を狙ったものでした。こうして、家永教科書訴訟は、2つの裁判が平行して進められることになったのですが、歴史に限らず、教科書にしては珍しい、数名の著者による共同執筆という形態を取らず、家永氏1人による単独執筆であったこと、出版社である三省堂が、文部省による嫌がらせや、右翼による妨害をものともせず、敢然と著者に協力して、背後から訴訟を支えたことの2点に支えられていたことを、ここでは指摘しておきたいと思います。
2008.06.23
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時間と時計 (14) やぐら時計は、はかま型をした木製の台座の上に、四角い箱型の機械時計を据えつけた時計です。袴の形の台座の中には、時計の動力となる錘が下がっています。その錘が落下する速度を調節する役を果たすのが脱進装置で、この脱進装置を調節すのが、テンプとかバランスと呼ばれるものです。このテンプの部分が、昼用と夜用の2つつけられていた時計が、「二挺テンプ式和時計」と呼ばれたものです。これが17世紀末~18世紀の日本で、最も進んだ時計と言われていたのです。尺時計は、戦後しばらくまでの間、木造家屋に良く掛けられていた短冊型の柱時計に良く似た形をしています。「大きな、大きな古時計、おじいさんの時計…」今は動かなくなったおじいさんの時計は、この形をした、しかし定時法で時を刻む振り子式の時計なのでしょう。昨日も記しましたように、明治6(1873)年以降、日本も定時法に切替えていますから、以後不定時法の時計が各家庭で使われることはなくなっていたからです。尺時計は構造的には簡単なもので、動力が錘である点では、やぐら時計と同じです。異なっているのは、錘が垂直に落下して行く際に、錘に取り付けられている針が、時刻を示す文字盤を通ることです。その時に針が示す記号によって、時刻を知る仕組みです。ですからこの尺時計の工夫は、文字盤を季節毎にとか、1ヶ月毎にといった目安で、何枚も取りかえることが出来るようにしてあったことでした。錘の落下速度は一定ですからこうしないと、1年中の時刻の調整をする術がなかったのです。やぐら時計と違って錘は一つでしたから、彼岸時を除けば、日々の昼夜の長さの差も文字盤の入れ替えで対応するしかありません。毎日、そして毎月文字盤を調節するとなると、これは大変です。ですからやぐら時計に比べて、手間はかかるし、その割りに時刻の正確さには劣りますから、ファッションとしてはともかく、あまり普及するには至らなかったようです。最後に枕時計です。この枕時計は、昨年春からお付き合いいただいている尊敬するブログ仲間のkopandaさんが、過去にコレクションなさったことがあり、いくつもお持ちのようですから、彼のブログに載せていただけないかとお願いしておきました。この枕時計は、今までの2種の時計が錘を動力としていたのに対し、ゼンマイを動力とした置き時計です。非常に精巧で豪華なものが多く、ゼンマイなどの部品の製造に、高い技術を必要としていました。初めて製造された時期は、特定できていないのですが、その技術的な完成度の高さからして、おそらく幕末になって作られたものだろうと、考えられています。なお、幕末に近づくと、西欧伝来の懐中時計も、日本に輸入されており、武士や大地主、大商人の中には、この輸入物の懐中時計を、印籠に埋めこんだ印籠時計を所持するようになったと言われています。機械の部分は輸入品ですが、日本人の時間の観念と、時間への関心は非常に高かったように思われます。こんなところにも、アジアで日本だけが19世紀段階での近代化に成功した、隠れた原因の一つがあるように思います。 続く
2008.06.22
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クロニクル 金融監督庁発足1998(平成10)年6月22日昨夜10分の遅れでメンテナンスにひっかかり、登録出来ませんでした。全く同じではありませんが、昨夜記した内容を出来るだけ復元して、記すことにします。丁度10年になりますが、この日、大蔵省の抵抗を抑え込む形で、金融検査及び監督の分野が、大蔵省から分離され、金融監督庁が発足しました。この発展系が現在の金融庁です・また財政と金融の分離をさらに徹底した結果、大蔵省は財務省に編成替えされました。官庁の中の官庁として、官界の頂点に立っていた大蔵省も、深刻化した金融危機に有効な手を打てず、護送船団行政の破綻が誰の眼にも明らかになったのが、1997(平成9)年11月の拓銀や山一証券の破綻でした。そして時を同じくして明るみに出されたのが、接待汚職でした。こうして金融行政の明白な失敗と、弁解の余地のない接待汚職とが車の両輪となって、大蔵省が徹頭徹尾反対の姿勢を貫いていた財政と金融の分離が、ここに実現を見たのでした。渡辺現行政改革担当相、塩崎前官房長官ら政策新人類と呼ばれた、若手議員達が金融危機の中で挙げた成果でした。
2008.06.22
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時間と時計 (13) 日本人は、手先が器用なことで知られています。種子島に齎された鉄砲も、半世紀足らずで世界でも5指に入る鉄砲量産国になるほどに、短期間で自前の技術に作り変えているのです。戦国末期の日本は、世界でも有数の鉄砲生産国でした。日本の技術水準は、決して世界にひけをとってはいなかったのです。そんな日本でしたから、西洋から入手した機械時計の技術もまた、独自の機械時計の製造に昇華させていったのです。それが和時計でした。西洋の機械時計は、昼夜の別なく一定の時を刻み、人工の時間を創り出す定時法の時計です。これに対し和時計は、不定時法である日本の時刻制度に合う様に改良された不定時法の機械時計です。言うまでもなく、定時法の時計よりも遥かに難易度の高い時計でした。不定時法の下では、昼よ夜の長さが異なります。ですから、昼と夜で1時間という単位時間の長さを替える必要がありました。さらに、四季を通じて、昼の時間と夜の時間は日々替わって行きます。日の出、日の入の時間も日々変わります。それらを調整する必要もありました。現代のハイテク技術があれば、解決不能ではないでしょうが、江戸時代にこれを解決するのは、さすがに困難でした。そこで、和時計の技師達は、時間の正確さをトコトン追及することを諦め、自然の時間に合う機械時計を作る方を選びました。世界広しと言えども、不定時法に適合的な時計を発明したのは、日本だけです。このことは、もっと誇りにされて良いように私は思います。残念な事は、和時計の多くは、明治期にそのほとんどが海外に流出してしまった事です。不定時法が明治6年(1873年)に廃止され、定時法に変えられてから、実用性を失った和時計は次第に姿を消し、その機械技術の価値を知った西洋人の手に、次々と渡ってしまったのです。今では、国立博物館外、幾つかの博物館が所有するだけになっているのではないでしょうか。皆さんの地元の博物館はいかがですか。ところで、和時計は各地の藩や名門の大寺などが、お抱えの技師に作らせたものですから、夫々に特徴を持っていたのですが、大まかにやぐら時計、尺時計、枕時計の3種類に分けられるようです。このうち、やぐら時計が最も早く元禄時代の初め(17世紀末)に、出現していますので、香時計に替わって、城下の時報装置と連動して、時を告げる役割も担ったのでしょう。美術工芸品として、藩主の威光を示すと共に、実用の役も果たしていたことになります。 続く
2008.06.21
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クロニクル 新党さきがけ結成1993(平成5)年6月21日15年前のこの日に先立つこと3日、自民党から造反議員が出た結果、野党提出の宮沢内閣不信任案が可決成立となったのが、6月18日でした。宮沢首相は、ただちに衆議院を解散し、国民の信を問うたのです。自民党の造反組みが、新党を結成するのは、当然視されていたのですが、この日、小沢新党にまさに先駆ける形で、武村正義を代表とする新党さきがけが結成されたのです。小沢新党とも言える「新生党」の結成は2日後の23日のことになります。
2008.06.21
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時間と時計 (12)ところで、ヨーロッパの機械時計は、いつ頃日本に齎されたのでしょうか。現存する最古の機械時計は、時計搭に掛ける掛け時計ではなく、16世紀の後半に誕生した置き時計です。西欧世界でも僅かしか現存していない、16世紀の置き時計が、静岡県久能山の東照宮に保存されています。1581年にスペインのマドリッドで作られた旨の銘が入っている金メッキ製の時計です。この時計はスペイン国王から、1610年に徳川家康に送られたものなのです。当時スペイン領であったフィリピンの総督ドン・ロドリコが、1609年に任期を終えて帰国の途についた時に、折りからの嵐にあって漂流し、房総半島の白浜海岸近くで座礁してしまったのです。報告を受けた家康が救助を指示し、ロドリコ一行は無事スペインに帰りつけたのです。この報告を受けたスペイン国王が、翌年感謝の意を込めて家康に贈ったのが、自ら愛用していたこの時計だったのです。この置き時計は時針が1本だけの時計で、国の重要文化財に指定されています。そのため、直接に時報を聞くことはできないのですが、私が拝観した1992年には、テープで録音した時報が定時毎に館内に流されていました。毎時毎に時を打つ時計でした。ところで、日本に最初に機械時計を齎したのは、私がお名前を拝借しているザビエル神父その人でした。1549年に来日したザビエル神父は、鹿児島から山口に趣き、時の西国の権力者大内義隆から布教の許しを得ようと、13種類の品を献上しました。その中に機械時計(まだ置き時計はありません)があったのです。続いて、ローマ法皇庁へ派遣された少年使節団が、遥かローマで厚遇を受けて1590年に帰国した時に、帰国の土産として秀吉に献上したのが、自鳴鐘と呼ばれた置き時計でした。ただ、この2つの時計については現存していませんので、どんな時計だったのかは、分かりません。さて、江戸時代の前半は、1種の香時計によって、時を計り鐘や太鼓の時報を鳴らしていたことは、昨日記しました。ところが江戸も中期に入る頃から、和時計と呼ばれる日本独特の機械時計が作られ、利用されるようになっていったのです。 続く追記。 大航海の時代、アフリカ南端経由のアジア貿易はポルトガル、ブラジルを除く中南米貿易はスペインと分けられました。それはローマ教皇の調停を受けての合意でした。なのに、何故16世紀末のフィリピンがスペイン領になっていたのか。これは、スペインとポルトガルの王家が姻戚関係を結んだ結果、1580年に両国が合併し、60年後にまた分離するまで、統一スペイン王国になっていたからです。 続く
2008.06.20
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クロニクル GHQ第一次追放解除を指令1951(昭和26)年6月20日この日、GHQの指示を受けて、吉田内閣は、第一次追放解除を発令しました。ここに、戦犯として公職を追放されていた石橋湛山、三木武吉ら政財界人2,958人が、公職に復帰できることになりました。GHQは当初、憲法の前文にある如く、日本が再び軍事大国化を目指す事がないようにすることを目的に、日本の民主化を徹底のですが、中国の社会主義化と、1950(昭和25)年6月の朝鮮戦争の勃発で、米国政府は方針を転換、日本を社会主義封じ込めの最前線とするべく、再軍備を奨励し、同時に戦犯の追放解除を示唆し、喜んだ政府がただちにそれに応じた結果が,この日の解除となったのでした。
2008.06.20
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時間と時計 (11)の続き呼び出しから戻りましたので、お昼の続きを記します。2回にわかれて、ご迷惑をおかけします。その香時計なのですが、1間四方の大きな香時計が利用されました。香時計は1種の火時計です。四角い大きな香炉の中に、粉末の香でコの字型の線を書いて行くのです。己の字の跳ねがない感じで、繋げて行きます。ご自宅の蝋燭か線香で確かめていただけると分かりますが、風が入らないようにしておくと、仏壇などで燃える速度がほぼ一定であることが、お分かりいただけると思います。ですから、大きな香炉のようなものの中に粉末の香で描いた線の端に火をつけると、それが一定の速度で燃えて行きます。この燃える速度に合わせて、時刻点に記しを打ち、その時点毎に子、丑、寅……と記した香串を立てておき、そこを眺めて時刻を確認するのです。しかし、夜通し寝ずの番というのも、辛いものです。そこで、香串に火がまわると、大きな鈴が鳴って落ちる仕掛けが考案され、確実に時刻が分かるように工夫されたのです。欧米でも、例えば奴隷の競り市等では、蝋燭の火が消えるまでが、競りの時間であるなどと、一定の時間を計るために、蝋燭が用いられたことは、多々あったのですから、当時としては、香時計はとても正確であると、認識されていたのです。時報や時鐘は、かなり正確に時を告げていたのです。明日は江戸時代の、日本産の機械時計のことを記す予定です。 続く
2008.06.19
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時間と時計 (11) さて、江戸時代に、広い範囲で、時報や寺鐘が時を告げていたのですが、ここに一つ考えるべきことがあります。時の鐘は、いったい正確だったのだろうかということです。とりわけ、17世紀中期以降は、世界最大の都市となっていた江戸(18世紀の初めには、100万都市となっています。続くは北京。ロンドンは19世紀に入った1801年で96万人、1701年はようやく50万人です)の場合、1626(寛永3)年に日本橋石町(今の日銀本店の近く)に鐘楼堂が建てられたのは皮きりで、町の拡大に合わせて、城を巡る高台に次々に時鐘が設けられ、計9箇所もになっていました。また寺も数多くあり、そのほとんどが鐘楼を持っていたのです。それらがバラバラに鳴ったのでは、様になりません。しかし、江戸の川柳にも寺鐘がバラバラになって困ったという話はでてきません。いったいどうやって、時報の時間を決めていたのでしょうか。しかも、相互に電話連絡など出来ない時代にです。何で時を計っていたのでしょうか。しかも不定時法の時代です。まず、正午の時間は、太陽の南中時で良いとして、日の出、日の入の時刻を決めねばなりません。太陽が顔を出すとか、沈むとかすると、高台と低地では違ってしまいます。そこで、眼の前に手をかざして薄明かりで見える時刻、見えなくなる時刻と決めました。それでも、天候によって、明るさは違います。そこで、自然条件に影響されない、1種の時計を用いていました。勿論機械時計ではありません。日本人の発明した機械時計も、実を言うと江戸時代にあったのですが、そのことは後に書きます。大阪の釣鐘屋敷や江戸石町の鐘楼堂など、そして寺などが使っていたのは、1種の大きな香時計でした。申し訳ありません。電話で急に呼び出されました。(11)の続きは今夕書かせていただきます。 続く
2008.06.19
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クロニクル 牛肉・オレンジで合意1988(昭和63)年6月19日まだ20年しか経っていなかったのですね。20年前の今日、日米の貿易摩擦の焦点になっていた牛肉・オレンジの自由化問題が、遂に決着しました。当時の佐藤隆農林水産大臣とアメリカ合衆国のヤイター通商代表部代表との閣僚交渉で、日本側が折れ、3年後の完全自由化で合意したのです。牛肉については、その後BSE問題の発生で、1度輸入が禁止されました。その後、生後2年以内の若い牛に限って(2年以内にBSEを発症する可能性は、低いからとされています)、危険部位を除いた輸入を認めるとの合意が交わされ、現在はそのように運用されています。
2008.06.19
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時間と時計 (10) 江戸時代の日本には、徳川幕府の下に、全国に約220の藩が置かれていました。17世紀中頃のことです。そのうち5万石以下の小藩が約60%を占めていましたので、その多くは、所領に城を持たない大名でしたが、5万石を越えると城を持つのが、通例だったようです。城を中心に城下町が出来ると、藩主に仕える家老以下の武士は、城近くの武家屋敷に住み、毎日城勤めに上がることになります。城は藩の行政センター、今で言う県庁や市役所の機能を持っていたのですね。さしづめ武家屋敷は官舎ですね。さて、武士たち役人の勤務時間なのですが、普通辰の刻(午前8時)に登城して仕事につき、退出時間は決まっていませんでしたが、およそ午前中を勤務に宛て、午後は各自スキルを磨く生活をしていたようです。この出勤時刻を知らせるのも、鐘や太鼓の役割の一つでした。太鼓は非常の際の臨時登城を促す際に用いられ、通常は時報の鐘が合図でした。10万石以下の小藩の城下町では、城で撞く、或いは城下の中央で鳴る鐘や太鼓は、町中に響きます。それを合図に仕事を始めるというわけです。ご存知の方も多いと思いますが、兵庫県の出石は、出石藩の城下町でした。ここに「辰鼓櫓」と呼ばれる、町おこしの名物があります。ここは元来、物見櫓を兼ねた藩政時代の時報装置でした。鐘ではなく太鼓を打って、時報としていたのです。出石藩の城主は、何代も変わりましたが、太鼓櫓の時報は代々続けられました。明治4年(1871年)の廃藩置県で藩はなくなり、2年後には暦も太陰暦から太陽暦に変わり、時刻制度も定時法に変えられました。太鼓櫓も不用になったのです。各地の城下町では、寺以外の鐘撞き堂は廃されていったのですが、出石は違いました。旧藩医の池口忠恕がオランダ製の大時計を寄贈し、太鼓櫓を時計搭に変身させたのです。こうして誕生したのが、現在の「辰鼓櫓」です。明治10年代の初めのこととされています。ちょっとした心遣いの違いで、今に残る町おこしの名物が誕生したという、好例がここにあります。 続く
2008.06.18
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クロニクル 持ち株会社の設立解禁 1997(平成9)年6月18日この日、改正独占禁止法が公布されました。これにより,戦後の財閥解体以降、禁止されてきた持ち株会社の設立が、原則的に自由化されました。この措置は、企業に歓迎され、合併新会社などが、この方式を採用し、今日に至っています。
2008.06.18
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時間と時計 (9) 「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる。お手て繋いで……」昔懐かしい童謡です。詩人の中村雨紅さんが、この詩を詠んだのは、大正時代でしたが、この頃山寺の鐘はいくつなったのでしょう。現在は聞かなくなりましたが、1980年頃までは、朝夕に鐘をつくお寺は各地に残っていました。ただし、撞く鐘の数はマチマチになっていたようです。しかし、昔は鐘の数は決まっていました。夜明けと日暮れを告げる鐘は六つ撞かれていました。明け六つに暮れ六つです。昨日江戸時代から、お寺の鐘が時報の役割を果たしていたことを記しました。大正時代の日本は、もう不定時法を定時法に改めていましたが、鐘の撞きかたについては、古くからの伝統が守られていた時代だったからです。今日、1日は24時間と定められていますが、江戸時代は1日を12刻、12支の名を用いて、12に分けていました。深夜0時、日付の変わる刻限からの約2時間が子の刻、以下丑の刻……という具合で、最後の日付の変わる直前が亥の刻というわけです。ただし、当時は不定時法を採っていますから、お彼岸前後を除くと、昼の長さと夜の長さは違っていました。ですから,子の刻も午の刻も、みな約2時間という意味で、現在のように120分ということではないのです。ところで、明け六つ、暮れ六つという方は、何を意味したかと言うと、これは鐘を撞く数を指しました。子の刻は、その始まりに鐘を九つ撞くのです。丑の刻は八つ、寅の刻は七つ、そして卯の刻は六つ、辰の刻は五つ、巳の刻は四つ、正午の午は九つに戻り、以下一つづつ減っていくのです。半刻の時間は、曽良の旅日記のように、辰の上刻とか、卯の下刻といった言い方で現していたようです。「おやつにしよう」という言い方は、今でも普通に使われますが、これは未の刻(午後2時)頃に、八つの鐘を合図に「おやっつ」だ一休みすべいと、いった習慣が、3時のおやつに変わって、今に残ったのだと、考えられています。ところで、こうした江戸時代の時報ですが、江戸では昼夜を問わず鐘が撞かれたようですが、大阪ではちょっと違っていたようです。オランダ国王の使節ケンペルが、江戸城へ参府する道中記として書き残した記録が残っているのですが、大阪の釣鐘屋敷では、日中は全て鐘を撞きましたが、暮れ六つの鐘が終ると、戌(8時頃)は太鼓、亥は銅鑼、子は鐘九つ、丑は太鼓、寅は銅鑼と、鐘以外も用いていたようです。ところ変われば、色々な工夫があったようですね。 続く
2008.06.17
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クロニクル 沖縄返還協定調印1971(昭和46)年6月17日この日、日本時間午後9時、東京の首相官邸と、ワシントンの国務省を宇宙中継のテレビで結び、外交史上初めての二元同時調印方式で、沖縄返還協定の調印式が行なわれました。調印したのは、愛知揆一外相とロジャーズ国務長官でした。1968年に開始された沖縄返還交渉は、69年の共同声明で「核抜き、本土並み72年返還」が確認されましたが、核持ち込みや長期の占領に対する賠償問題は曖昧なままで、米軍基地もそのほとんどが存続するなど、とても本土並みとは言えないもので、しかも核抜きの検証も全くなされないなど、問題の多い合意でした。そのため、沖縄の屋良朝苗主席は、調印式への出席を遠慮して、抗議の意志を表した程でした。沖縄では、この時間に那覇、名護、八重山の3会場で抗議の総決起大会が開かれ、約2万人近くが抗議の声を上げました。返還は、72年5月15日に現実のものとなりましたが、沖縄の米軍基地は減らず、今日もなお、沖縄県民に大きな犠牲を強いていることは、忘れてならないことのように思います。それにしても、冷戦時代の去った今、そして、実質的に電子戦争の時代となった今、自民党や1部の識者の言うように、日本に米軍基地を置き続ける積極的な意味は,あるのでしょうかね? 私にはそこが疑問に思えてなりません。現実に米軍や米国も、日本と韓国の基地を払って、グアムに集中させる事で、大きく経費を削減したがっているようにも見えます。
2008.06.17
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時間と時計 (8) ところで、日本では時を告げることはなかったかというと、そんなことはありません。落語の「時蕎麦」に、お寺の鐘を聞いて、「今何時か」と問うシーンがあります。忠臣蔵の討ち入りにも、鐘の音が時を告げて、時刻を明らかにしています。幕末の話ですが、浦賀にやってきた米国太平洋艦隊のペリー提督は、停泊中の船内で、夜半に何度も鐘の音を聞き、それが日中にも響いてくる事を知り、それが時報であることを理解して、驚愕し、かつ感動したことを記載しています。「文明の遅れた国だと思っていた日本は、時間の観念は、アメリカより進んでいるかもしれない」と、彼は書いています。松尾芭蕉の『奥の細道』は、元禄2(1689)年の3月から約半年の旅だったのですが、その旅には、彼の弟子の曽良(そら)が同道しています。この曽良が旅日記を残しているのですが、そこには旅の時間が、しつこいほどに出てきます。芭蕉自身は、あまり時間に拘らないタイプでしたから、余計にお供の弟子として、時間の正確さを心がけたものと思われます。例えば、こんな記述があります。「18日卯の刻(午前6時)、地震があった。辰の上刻(午前7時)雨上がる。午の刻(正午)宿を出る。」こんな調子です。当時懐中用の日時計はあったようですが、雨上がりの時刻を見るのに、日時計は役に立ちません。日時計自身は、江戸時代以前から使われていたようなのですが…。曽良はお寺の鐘を聞いて、時を知ったと考えられるのです。ペリーが驚き、感動したのは19世紀の中頃でしたが、17世紀の末には、江戸のような大都会ばかりでなく、全国各地の寺という寺で、時鐘が響き渡っていたと考えられるのです。奥州のような都から遠い地方でも、それは変わらなかったと言ってよいように思えます。 続く
2008.06.16
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クロニクル 工場の就業時間制限撤廃1943(昭和18)年6月16日もう65年前のことになります。アジア・太平洋戦争中の出来事です。この日、政府は、女性や子どもに対する工場労働の保護制限規定を撤廃しました。激化し、悪化する一方の戦局に対応して、青年男性を兵士として戦場に送り出した結果、労働人口の減少に悩む政府は、19世紀に始まる子どもや女性に対する労働制限法、すなわち子供や子を産む存在である母性の保護を目指した就業時間の制限を廃止し、同時に作業への従事を禁じていた規定を緩めました。これによって、女性や子どもが、鉱山での坑内作業への参加が解禁されましたが、これは明らかに、労働者保護という世界的な労働行政の流れからの、明白な後退を意味していました。
2008.06.16
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時間と時計 (7)西欧の時計搭は、14世紀後半から15世紀にかけて、建設が始まったのですが、それは当時の都市にとって、時間とお金のかかる大公共事業そのものでした。しかも機械時計を据えつけるには、複雑で高度な技術を持つ時計職の親方が必要でした。時計搭を見ると、その都市の文化水準というか、ハイテク技術の水準が分かったと言われたほどでした。それ故に各都市は、時間とお金がかかっても、面子にかけて、立派な時計搭を建てようと考えたのです。そんな中に、中欧の美しい都市、現在のチェコの首都プラハもありました。このプラハにこんな伝承が残されています。プラハでは1333年に市庁舎の建物が出来、1355年には建物に搭屋が聳えることになりました。「黄金のプラハ」のシンボルが誕生したのです。この搭に機械時計が取りつけられたのは、1402年の事でした。そして、この時計搭に、同じ15世紀の末になって、もう一つ別に精巧なカラクリ時計が取りつけられたのです。取りつけられた場所は、搭の下の方でした。その時計は天文時計でしたが、市民や旅人が良く見えるように配慮されていたのです。天文時計の文字盤の上の壁にあたる部分に、2つの開いた小窓が付いていました。正時が来ると鐘が鳴ります。鐘が鳴る度に左の小窓から、キリストの12使徒が1人づつ出てきては、右の小窓に消えて行くのです。1人また1人と。これには市民達は大いに喜び、市庁舎の時計搭は、大人気となりました。作成者は、プラハに住む時計工のハヌシュ親方でした。親方の評判はいやがうえにも上がります。それを心配した市の幹部達は、ハヌシュ親方が他都市に引き抜かれ、より高度なカラクリ時計を作りはしないかと心配したのです。それなら高級で優遇するとか、名誉ある地位に付けるとか、考えれば良かったのでしょうが、市の幹部達は、最悪な方法を選んだのです。それが、ならず者を雇って、ハヌシュ親方の両眼を潰す事だったのです。当然親方はもはや仕事は出来なくなりました。ハヌシュは市の幹部の差し金に違いないと見当をつけ、復讐の機会を待ちました。ある日彼は、カラクリ時計の点検が必要だからと許可を取り、失明後も彼の下を離れなかった弟子を伴って、時計搭に入りました。そして彼は、自らの手で、自分が心血を注いだ傑作を、めちゃめちゃに壊したのです。これが彼流の市幹部に対する復讐だったのです。ハヌシュの話しは、プラハ市に伝わる伝承ですから、本当の話ではありません。しかし、この伝承を基に、プラハの時計搭には、18世紀になって、ある時計技師が修理し、復元したカラクリ時計が復活し、再び動くようになったことも事実です。機会がありましたら、ご覧下さい。 続く
2008.06.15
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クロニクル 三陸大津波死者2万7千人1896(明治29)年6月15日この日、岩手県の三陸沖約200kmの海底で、マグニチュード7,6の地震が発生、地震に伴う津波が岩手、宮城、青森の海岸を襲い、死者約2万7千人という大被害を齎しました。当時の記録によると、地震の発生は午後7時32分、震度は2程度の弱震で、当初の被害はありませんでした。しかし、地震から約40分後に到達した津波は大きく、一瞬の内に三陸海岸の町や村を飲み込みました。最大の津波は、後に調べたところ、気仙沼郡の綾里村で38,2mに達したとされています。この年は、日清戦争終結の翌年でしたから、この日岩手県の大槌町では、浜辺で出征兵士の凱旋を祝う花火大会が行なわれていました。お祭り騒ぎの中、小さな地震は当然無視されます。そこへ午後8時10分頃、皆の歓声を打ち消すような大轟音と共に、襲ってきた大津波によって、一瞬の内に浜にいた人達が飲み込まれました。村の全戸が流出した地域も数多くありました。流出家屋のみで、3県合わせて8891戸にのぼったと記録されています。
2008.06.15
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時間と時計 (6) もう少し時計搭の話を続けます。ヴェネツィアのサン・マルコ広場を訪れたことのある方も多いと思います。ここにはサン・マルコ聖堂と高く聳える鐘搭が建っていますね。実は、こちらに注意が向き過ぎてしまって、サン・マルコ広場への入口になっている、門の上にある、15世紀末に出来た時計とうは、見過ごされてしまう方が多いようです。この時計は天文時計と呼ばれるものです。文字盤は1日24時間の目盛のほかに、黄道12宮が描かれています。太陽の動きや月の満ち欠けが示されるようになっています。文字盤は門のアーチのすぐ上にあります。下から見上げても、誰もが文字盤の文字を読める程度の高さにしてあるというわけです。ところで、文字盤から20メートル程上になる、搭のてっぺんに時報の鐘が取り付けられているのです。その鐘の左右にはブロンズのムーア人が向かい合う形で取り付けられていて、20メートル下の時計と連動して、定時になると自動的に、鐘を打つ仕掛けになっているのです。そう複雑な仕掛けではないのですが、離れたところからの合図で、鐘つき人足が鐘をつくという、面白い仕掛けになっているのです。今度、ヴェネツィアに出かける機会がありましたら、是非ご覧になって下さい。 続く所用でバタバタしており、これからまた出かけます。ご挨拶は夜にさせて戴きます。
2008.06.14
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クロニクル ドイツ軍パリ占領1940(昭和15)年6月14日この日、ドイツ軍はパリに無血入場を果たし、フランスの首都パリを占領下に置きました。ヒトラー体制下のドイツは、前年1939年の9月1日に、全軍をあげてポーランドに侵攻、ここにイギリスとフランスも対独開戦を決意、9月3日に宣戦を布告、ここに第二次世界大戦が始まりました。英・仏はすぐにもドイツとの戦端が開かれるものと、勢い込んでいましたが、ヒトラーは巧みなジラし戦法に出て、ポーランドから、北欧・中欧・南欧の攻略を優先し、翌40年春までは、いっこうに西部戦線のドイツ軍を動かそうとせず、巧みに英仏連合軍の気勢を削ぐ作戦を取りました。宣戦布告後、すぐにも独軍との戦闘が始まると受け止めていた英仏軍は、次第にこの戦争を「奇妙な戦争」と呼び、無意識の内に士気は緩んでいたのです。このため、5月に入って、突如ベネルックス3国に侵攻したドイツ軍が、進撃の速度を緩めずに、対仏国境を越えると、士気の緩んだ英仏連合軍は、そのスピードについて行けず、30万人の大部隊は敗走を重ねて、遂にダンケルクに包囲されたのです。ここで、到着した英海軍船に、辛うじて救出されたのです。緒戦は見事な敗北に終ったのです。勢いに乗ったドイツ軍は、ベルギー国境からフランスに進出。この日、無血でのパリ占領となったのです。
2008.06.14
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時間と時計 (5) 機械時計が誕生して、およそ半世紀経った14世紀の中頃から、先ず教会の搭に、少し遅れて市庁舎の搭にと、機械時計が据えつけられました。機械時計その物が、当時の技術の粋を集めた貴重な品だったのですが、ハイテク技術を駆使して機械時計を製作した親方達は、それだけでは満足しませんでした。高位の聖職者や市庁舎の幹部の大商人達が、感歎の声を上げれば上げるほど、さらに高度な技術を披露して、今以上の賛辞を得たいと考えます。賛辞こそが、彼等の勲章だったのです。こうして機械時計の進化した姿として誕生したのが、カラクリ時計だったのです。日本では有楽町のマリオンの時計が1時、多くの人を集めましたが、ああした時計の中世版です。15世紀に登場した、スイスのベルン市に、ツァイトグロッケン(=時鐘)と呼ばれる時計搭があります。この搭の大きな天文時計にからくりが施されています。ある時間になると、ベルン市のシンボルである子熊が窓から出てきて行進するのです。さらに子熊の出てくる窓の上に、時の神が砂時計を持って陣取るのです。時の神は、子熊の行進に合わせて砂時計をひっくり返します。その時の神の上に、さらにピエロが控えています。このピエロは、子熊が出てくる3分前(つまり、決まった時刻<正時>)になると、身体をよじって鐘を突き出す仕掛けになっているのです。ピエロの3分後に子熊の行進が始まり、行進は時の神の砂時計が時を計って終るのです。随分と凝ったカラクリですよね。ちなみにベルン市のシンボルが熊であるのは、町が作られた時の最初の猟の獲物が、熊だったことから、町の名が、熊を意味する「ベルン」になったからだと、されています。 続く
2008.06.13
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クロニクル 金大中韓国大統領、北朝鮮を訪問2000(平成12)年6月13日8年前のこの日、金大中韓国(大韓民国)大統領が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を訪問、金正日総書記と会談しました。同じ朝鮮族の兄弟国家でありながら、1950~53年の朝鮮戦争以来、首脳同士の相互訪問は絶えてなかっただけに、両国関係の改善に向けての一歩でした。南北ヴェトナム、東西ドイツと冷戦の申し子だった分断国家が、次々と統一国家建設を進めているだけに、最後の分断国家である南北朝鮮の統一が待たれるところです。とりわけ、この国の分断は、日本の降伏の遅れによって、齎されたものであるだけに(45年8月8日のソ連参戦以前に、ポツダム宣言を受諾していれば、日本の植民地朝鮮が分断されることはありえませんでした。)、何とか早く南北統一を実現して、日本の植民地支配以前の状態に戻ってくれると良いのですが…。 そして、そのことが拉致問題の全面的解決の早道だろうと、私は考えています。 ザビ
2008.06.13
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時間と時計 (4)機械時計は、このようにして生まれました。それは宗教者が生み出したものですが、機械時計の刻む時間は、昨日記したように自然の時間ではありません。昨日も色々なコメントを戴いたのですが、機械時計によって、自然の時間は、人工の時間に変わって行きます。そして、そうした変化と共に、神の時間を管理して、時を告げる仕事と権利を一人占めにしていた宗教界に、対抗する勢力が登場してきたのです。それが、西欧世界における新興の商人達でした。遠隔地貿易にも従事する彼等にとって、キャラバンが帰りつくまでのツナギの資金が重要です。簡単に往復できないキャラバンには、手持ち資金のありったけをつぎ込むのが当然のことと考えられていた時代でしたから、帰りつくまでの留守部隊(中には留守部隊なしで全財産を注ぎ込んで、旅立つご仁もいたようです)は、ツナギ資金の融資を受けて、その間をしのいだのです。ここに金貸し=金融業者も登場することになったのです。蒙古襲来として、日本にもお馴染みの中国元朝のフビライ帝の下に、『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロが滞在していたことは、あまりにも有名です。ご承知の通り、これは13世紀後半の話です。シルクロードやステップロードを往来するキャラバンの要請に応え、その安全を保障するのが、ユーラシアの東西にまたがる大帝国の役割でもあったのです。それだけ、この時代には、遠隔地商人の活躍が目立ったのです。当然金融業も発達します。第1回に記しましたが、金銭の貸借には利子がつきものです。借りた金を使用して利を得るのですから、利益の1部を謝礼として考えるのが当然とする、考えがそこにはありました。しかし、教会はこの考え方を認めませんでした。「金を借りている時間が利子を産むとは何事か!」というわけです。教会にとって、時間は神のものであり、これは譲れない一線だったのです。金を貸して利子を得る行為は、「神のものである、時間を盗む行為である」「利子は神の時間を盗んだ結果、産み出されるものである」と結論されたのです。それは、犯罪行為とまでされたのです。こうしてローマ教会は利子禁止法まで制定したのです。勿論、一時期のことでしたが…。この結果、初期の金融業者の多くはユダヤ人ということになったのです。ユダヤ教徒は、キリスト教の教えに縛られないからです。しかし、商人達は、教会によるこの規制を乗り越え、自分達の時間の論理を構築して行きます。「時間が利子を産むのではなく、時間こそはお金その物なのだ」と。 time is money とは、『コーヒーの旅路』にも登場した、フランクリンの名言の一つですが、教会の論理に困った商人達が、苦悩の末に導き出した商人流の考えだったのです。「神の時間」から「商人の時間」への歩みは、こうして始まりました。そして商人の時間は、その最初から機械時計の作る人工の時間でした。中世の後半にかけて、西欧各地の市庁舎に、創意工夫を凝らした、さまざまな時計搭が取りつけられました。こうした市庁舎の時計搭は、「神の時間」に対する「商人の時間」のシンボルとしての重い役目を負う存在だったのです。 続く
2008.06.12
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クロニクル 大平首相死去1980(昭和55)年6月12日28年前のこの日の未明、選挙戦の最中に心不全で倒れ、東京女子医大病院で療養中の大平首相の病状が急変、手当ての甲斐なく不帰の人となりました。行年70才でした。大平正芳首相は、幹事長当時の1978年に、自民党が初めて実施した全党員・党友参加の総裁予備選に出馬し、ライバルの福田赳夫首相に圧勝。第8代自民党総裁に就任、同時に首相になりました。大平首相は、財政再建に執念を燃やし、79年に大型間接税としての付加価値税の導入(後、中曽根内閣で売上税、竹下内閣で消費税と名を変え、10年後の1989年に、ようやく実現を見ました)を提起したのですが、79年10月の解散総選挙で歴史的な大敗を決し、無所属議員を追加公認して、辛うじて過半数を確保したのでした。ここに付加価値税導入を断念、自民党は福田・大平の因縁の対決が再燃、40日抗争の果てに、辛うじて政権を維持したのですが、80年5月16日に、野党の社会党が提出した、大平内閣不信任案が、党内の反主流派が賛成票を投じたために、可決成立をみたのでした。大平首相は、この挙に応じて、ただちに衆院を解散、初めての衆参同日選挙に訴えたのでした。前年の借りを返すべく、解散後、告示前からから全国を遊説、無理をしすぎたのでしょうね。選挙戦の最中に倒れたのでした。心不全との発表でしたが、政治家の病状は、実際より軽いと発表されるのが常のこと、実際は心筋梗塞だったのでしょう。この日未明に息を引き取ったのでした。選挙は弔い合戦の様相を帯びて、自民党が圧勝。まさか可決する事はあるまいと考えて、不信任案を提出した社会党は、判断ミスが祟って、大敗を決したのでした。なお、後任首相には、党内に敵の少ない、同じ大平派の鈴木善幸総務会長が就任しました。
2008.06.12
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時間と時計 (3)ところで、時を計るといっても、「陽出でて耕し、陽入りて止む」の世界では、昼と夜の長さは、一定ではありません。自然の時間の中での暮しは、季節によって時間が違ってきます。こうした自然の時間が制度化されると、それは「不定時法」と呼ばれました。日の出から日没までが「昼の時間」、日没から翌朝の日の出までが「夜の時間」とされ、夫々が6等分なり、12等分なりされて、計られるのです。それゆえ、この方法では、夏と冬では1時間の長さが昼も夜も、かなり違ってきます。それどころか、昼の1時間と夜の1時間も季節によって異なります。この不定時法は、機械時計が誕生することによって、変わってきます。機械時計は昼夜に関係なく、一定のリズムで時を刻むからです。この機械の告げる時を制度化した方法が、「定時法」と呼ばれました。機械時計が出現し、普及し始めると、時の観念も変化して行きます。機械と計が最初に普及したヨーロッパでは、それを使う人々の間で、次第に不定時法から定時法へと、時刻制度が変わってゆきました。当然の事ながら、最初に昼夜を問わない一定の時間を求めたのは、宗教者達でした。祈りの時間を過ごす彼等にとって、祈りの時間が一定であることが、何よりも求められたのです。1時間の時間が季節によって変わったのでは、その都度祈りの時間が違って、神に捧げる祈りの1部を伸ばしたり、縮めたりとややこしいことになるからです。機械時計は、彼等のこうした悩みを解消してくれたのです。こうして機械時計は、ヨーロッパのカトリックの世界で、とりわけ宗教者の養成機関兼研究機関である、修道院に最初に広まったのです。機械時計ほど、正確に祈りの時間を知らせてくれる時計はない。それに時報の機能がついていれば、なおさらです。1時間後とに時を告げる機能がついた時計が誕生したのは、こういうわけでした。時期は特定されていないのですが、どうやら13世紀末から14世紀の始め頃と考えて良いようです。日本でいう鎌倉末期です。この頃に時を知らせる機能のついた機械時計が誕生したのです。英語の置き時計や掛け時計は clock と呼ばれます。clock の原義は鐘です。鐘の機能、つまり時報の機能を持った時計というわけです。 続く
2008.06.11
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クロニクル 南ヴェトナムで、抗議の焼身自殺1963(昭和48)年6月11日45年前ですから、東京オリンピックの前年です。その45年前の今日、衝撃的な写真が世界を巡りました。そうです。敬虔な仏教徒の多い南ヴェトナムで、多くの仏教徒の尊敬を集めていた老齢の高僧、クワン・ドゥック師が、政府の仏教徒弾圧に抗議する行為でした。抗議の焼身自殺は、事前にマスコミ等に報じられており、官憲の妨害を避ける意味もあって、仏教寺院の僧侶から一般の市民まで、6千人を越える人々が、老僧のクワン・ドゥック師を守って、大きな円を描いて、ドゥック師と共に教を唱えながら、焼身自殺の1部始終を見守りました。それは異様な光景でした。ドゥック師は袈裟姿で、静かに路上に座ると、手ずからガソリンをかぶって、火をつけ、正座のまま、手を合わせて、祈りを捧げながら、自ら命を断ちました。このニュースは外国通信社や特派員の手によって、ただちに世界各地に打電され、日本の夕刊各紙には、手を合わせた姿のまま、黒焦げになって横たわった老師と、涙ながらに見送る群衆のの写真が、掲載されました。それは、何よりも、1954年のフランスとヴェトナムとのジュネーヴ協定の約束を無視して、一方的に居座りを策した南ヴェトナムのゴ・ジン・ジェム政府と、ジェム政府を支える米国政府にとって、大きな打撃となったのです。45年前のこの日は、南ヴェトナムには米国の傀儡政府があり、その政府がとんでもない圧政と国民弾圧を行なっていること、そのことが世界に知れ渡った1日となったのです。
2008.06.11
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時間と時計 (2) ところで、人間が日中だけ行動する時代では、正確無比な時を知ることは、必要ではありませんでした。祈りの時間を知るのであれば、まさにおよその時間が分かれば問題ありません。それでもおよその時間を知る必要はありました。それに、古来から人間は、残念なことにさまざまな戦争を繰り返して来ました。戦場では、四方に散った味方が、一斉に敵陣に向けて攻勢に出る必要がありました。そのためには、味方が時間を共有することが必要でした。ここに教会や寺院の鐘などが利用されました。また封建社会では、土地からの移動を禁じられて、領主に労働で地代(賦役とも言います)を納める農奴達に、直営地での労働を強制できる領主やその代理人は、労働の開始や終了を告げる時を、知る必要があったのです。そのために利用された初期の時計が、水時計であり、火時計であり、砂時計でした。この中で、正確性が高く、しかも長時間使用が可能だったことで、特に宗教界で好まれ、愛用されたのが、香を利用した火(香)時計でした。蝋燭も非常に貴重な時代でしたから、かなり高価な品でしたが、この蝋燭に火を灯して確かめると、香(火)時計の正確さは、確認できます。こうして機械時計の登場前から、時間の計測は比較的正確になされていたのです。あまり知られていないのですが、船乗り達もまた、時計で測った時を必要としていました。彼等は砂時計を使っていたようですが、船の位置を知るために,常に○○から何時間。××から何時間という言い方で、船の位置を確認していたのです。 続く
2008.06.10
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クロニクル ペルー大統領にフジモリ氏1990(平成2)年6月10日18年前のこの日、日本にとって、地球の裏側にあたる南米のペルーで行なわれた大統領選挙で、日系人のフジモリ前国立農科大学長が、下馬評を覆して当選しました。日系人が、その移住先の国で、政治上のトップの地位につくことは、近代日本にとって、初めての事でした。この年の選挙で、本命視されていた候補者は、クリオーリョ(現地化した白人)層の地主と利害を共有し、社会の多数を占める貧農層の要求は、無視し続けていたのです。当初、前評判の高くなかったフジモリさんは、土地改革を公約に掲げて、貧農の支持を受け、大きな足跡を残しました。
2008.06.10
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時間と時計 (1)コーヒーの旅路のご愛読、有難うございました。数日間、時間観念の変遷を記事にしてみようと思います。またまたのお付き合いをよろしくお願いします。こんなことを考えたわけを、最初に記します。時間と時計が舞台回しをする有名なお話といえば、皆さんご存知の「シンデレラ」の話しとなります。12時が過ぎると魔法が融けるという、あの有名なお話です。実は、「シンデレラ」の物語は、17世紀の末に原型が出来あがっていたのですが、人々に受け入れられ、口から口へと爆発的に広まったのは、19世紀に入ってからのことだったのです。それは一体何故なのか。時間の観念が広く民衆にとっても、意識されるようになり始めたのが、この時代だったから。だからこそ、魔法使いとシンデレラの時間の約束が、大きな意味を持つ物語が、民衆のハラハラドキドキを誘いながら、彼等彼女等に受け入れられていったということなのでしょう。ここには、19世紀になると、民衆にとっても,時間の観念が問題となるような環境が、生まれてきたということが考えられます。そんなこんなを、思いつくままに数回書いてみたいと、考えました。近代以前の世界では、夜間の照明は貴重品でしたから、庶民の生活とは関係のないものでした。農民はそれこそ、「日出でて耕し、日暮れて止む」の世界でしたし、商人や手工業者にしても、それは同じ事でした。そこでは時間は、寺社や教会の僧侶・聖職者にとってのみ重要なものでした。大切な祈りの時間を違えてはならないからでした。やがて、都市や関所が出来ると、朝夕の開門と閉門の時間が重要になります。関所は以後の通行を禁止し、市門は城壁に囲まれた都市の夜間の安全を保障するものでした。西欧世界を旅してみると、時計搭が都市や地域のシンボルとして大事にされているのを、良く見かけます。それは、教会の時計搭であったり、市役所の時計であったりします。13世紀頃からでしょうか。領主や国王から自治権を買い取った都市(自治都市)の商人達は、教会の時間とは異なる、商人の時間を持つようになりました。それは教会の禁じる、お金の貸し借りにかかわる利子の観念の発達によります。お金は商売に投下されることにより、時間と共に回転して利益を生むものでしたから、そのお金を借りて使うことでも利益を生みます。だから借主は、貸主に対して、元金にプラスした利子をつけて返す必要がある。この観念の一般化が、商人達にとって、お金は時間と共に利を産むもの。時間は利子を計算する上での、重要なファクターとなったのでした。ここに教会の時間と異なる、商人の時間として、教会と共に市庁舎の時計が聳えるようになりました。 続く
2008.06.09
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クロニクル 有島武郎心中死1923(大正12)年6月9日85年前のこの日、白樺派に属した作家の有島武郎が、婦人公論記者の波多野秋子と、軽井沢の有島の別荘で心中しました。時に有島46才、波多野30才でした。有島は『白樺』の同人で、『カインの末裔』や『生まれいずる悩み』で、文壇にデビュー。『或る女』や随想風の評論『惜しみなく愛は奪ふ』などで、多くの読者に親しまれていました。そこに、第一次世界大戦後の不況と相俟って、社会運動が高まり、知識人への批判が高まる中で、有産階級の知識人の苦悩『宣言一つ』として発表し、北海道の有島農場を小作人に開放するなど、人道的な社会主義者として、注目を集めていました。有島と波多野は、共に配偶者がいたのですが、作家と編集者の立場を超えて、互いに惹かれ合うようになり、愛人関係となったのです。それを知った波多野の夫が、2人の心中の前日、有島に金銭を要求、人道主義者の有島に出来ない事を知りながら、金で妻を売ると有島に迫りました。これがきっかけとなり、前途を悲観した2人は、発見の遅れる場所をと、有島の別荘に逃避、そこで心中に至りました。2人の死体の発見は、約1ヶ月後の7月7日、涼しい軽井沢とはいえ、腐乱し、変わり果てた姿だったと報じられています。これがおそらく、谷崎や佐藤春夫であったなら、大喜びで金を払い、妻と離別して、堂々と再婚していたのでしょうね。人道主義者の悲劇がここにあったように感じるのは、男の身勝手でしょうか。 勿論、神父の属するイエズス会は、カトリック強硬派、一般信徒の離婚は先ず、認められないのですが…。
2008.06.09
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コーヒーの旅路(55)日本でのコーヒーの普及は、70年代に入るとさらに進みます。このブログでも、何度か触れてきました1971年8月のニクソン・ショック。米国の金・ドル交換停止と、それに続く円の切り上げ。そして変動相場制への移行で、1ドルは360円から、あっという間に280円台へ。さらに円高への動き。ドル建てのコーヒー価格は、円の上昇とともに値下がりを続け、コーヒー需要は増え続けました。こうして2度のオイル・ショックを経た1980年代。日本のコーヒー文化は、独特の輝きを持つようになったのです。「アメリカン」や「ウィンナ・コーヒー」のように、日本独自のコーヒーも登場しましたが、この稿を閉じるにあたって、もうひとつ、とりわけ日本でだけ好まれるコーヒーを上げておきたいと思います。日本人にとって、最も高価で、貴重とされるコーヒー豆は、何といってもブルー・マウンテン(略称ブルマン)でしょうか。日本では「コーヒーの王様」とされ、特にその香りが珍重されるコーヒー豆です。ところで、この豆はジャマイカの霊峰ブルー・マウンテン山脈の高度800m1200mの一帯だけで、収穫できる稀少種なのです。その点、キリマンジャロの南麓一帯を産地にするキリマンジャロに近いのですが、何しろ面積が違いますから、ブルー・マウンテンの方が、圧倒的に稀少だったのです。高値はそのためでした。それを知ってか、日本では、さまざまなブルー・マウンテン狂騒曲が起こりました。輸入業者だったと思いますが、ブルー・マウンテンの宣伝文句に、「エリザベス女王も、ご愛飲のブルー・マウンテン…」と出たものですから、たまりません。イギリスのコーヒー文化は、18世紀半ばには廃れていますから、エリザベス女王のご愛飲は、「ウェッジウッド」のそれも限られた紅茶しかありません。現在なら、こんなデタラメはすぐにバレテしまうのですが、60年代後半の日本では効果絶大でした。英国大使館の抗議で、この宣伝文句は、いつの間にか消えたのですが…しかし、ブルー・マウンテン山脈の800m1200mの高地で取れる豆の量は、限られています。そこで日本の業者は、高度が違ってもブルー・マウンテン山麓の豆なら、種類は同じなのだから、ブルー・マウンテンを名乗っても良いだろうと、コーヒーの国際規格を無視して、より高度の低い地域の豆も、ブルー・マウンテンと称して販売したのです。これは明らかに品質偽造です。霜が降りないギリギリの高地の冷気に触れるからこそ、ブルー・マウンテン独特の香りが出るのですから、600m程度の高度では、香りは大きく落ちることになります。当時、本物のブルー・マウンテンにしては安価だなと感じた商品は、皆香りの劣る、こうしたまがい物でした。笑い話にしかならない記録があります。国際規格に順じた正規のブルー・マウンテンの輸入量の、何と3倍もの量の豆が、ブルー・マウンテンの名で、堂々と販売されていたというのです。本物の2倍の類似品が出まわっていたのですね。それでも、この日本的ブルー・マウンテン狂騒曲は、世界的話題となることはありませんでした。それは、実を言うと、収穫量が極僅かで、香りに特徴のあるブルー・マウンテンは、日本以外では全くと言っていいほど、好まれなかったからでした。実は当時も今も、ジャマイカでしか取れない厳密な意味でのブルー・マウンテンの輸出の95%強が、日本向けなのです。ブルー・マウンテンは日本人のためにあるコーヒー豆であり、日本人が育てた豆でもあるのです。皆さんは、どのようなコーヒーがお好みですか。 (完)約60日近くに渡って、ご愛読有難うございました。コーヒーの旅路は、本日で終了とさせて戴きます。
2008.06.08
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クロニクル 橋本登美三郎・佐藤孝行両被告に有罪判決1982(昭和57)年6月8日この日、東京地裁は、ロッキード事件に絡んで受託収賄容疑で逮捕、起訴された元運輸相の橋本登美三郎被告と、元運輸政務次官の佐藤孝行被告に対し、有罪判決を下しました。ここに田中角栄元首相に対する包囲網は狭められ、田中有罪への流れが一段と強まりました。
2008.06.08
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コーヒーの旅路(54)こんな話があります。真珠湾攻撃後の、戦局の拡大したアジア・太平洋戦争の最中、日本はオランダの植民地だったインドネシアのジャワ島を占領しました。ジャワはご承知の通り、コーヒープランテーションの島です。ヨーロッパのコーヒー植民地の原型だった地です。日本人がコーヒーに眼のない国民なら、垂涎の的の地を手に入れたと大喜びし、大事にコーヒープランテーションの経営にあたると思いませんか。しかし、そうはなりませんでした。日本の軍政は、コーヒー栽培に無頓着で、知識の全くない商社マンにコーヒー農園の経営を一任して、知らん顔だったのです。戦後、オランダ・アムステルダム銀行が発行した記録には、日本が占領中に行なったコーヒー農園の経営が、いかにいい加減で、杜撰であったかを、繰り返し慨嘆しています。ことほど作用に、日本人はコーヒーに無関心だったのです。戦後の民主化の流れの中で、2度目の欧化主義の洗礼を受けた日本が、ここおで受け入れたものの中に、コーヒーも入っていました。コーヒーは先ず喫茶店の流行という形を取りました。駅前や繁華街、そして大学の周辺には、かならず複数の喫茶店が目に付く。そんな光景がどこでも見られました。純喫茶、名曲喫茶、音楽喫茶等、命名はまちまちでしたが、コーヒー1杯で何時間も粘れて、50年代後半が50円前後。60年代前半が70円~80円。1杯100円だと、ワァー高いとなるような時代でした。これが日本のコーヒー文化の離陸期でした。森山加代子が、ジャマイカ生まれのルンバのリズムに乗せて、「昔アラブの偉いお坊さんが、恋を忘れた哀れな男に…」と、コーヒー起源伝説を巧みに盛り込んだ訳詞で、歌いあげた「コーヒー・ルンバ」が、所得倍増政策と東京オリンピックの成功で、上潮に乗った日本経済の下で、財布の紐を緩め始めた日本人の間に、ちょっと贅沢とは自宅でコーヒーを飲むことという、暗黙の了解を齎したのでした。確かに、1杯100円以下で、何時間も粘れる喫茶店のコーヒーに、多くを期待することは無理というものでした。卵にトーストのついたモーニングのコーヒーは、前夜の残り物ですから、安いはずでした。香りの良いコーヒーを楽しむというより、コーヒーという西欧文明の申し子を、自分は飲んでいると言う満足感しか、そこにはありません。かくいう私も、そうした1人でした。そこから脱却するには、コーヒーは売れ行きの良い店で、新鮮な豆を買い、手ずからコーヒーを淹れなければならない。そうしてこそ、本物の味と香りを楽しむことができる。これが、喫茶店ブームの次ぎにきた、家庭コーヒーへの動きでした。デパートの食品売り場の一番の奥近くに、ひっそりとコーヒーのアロマと香りを漂わせているのが、コーヒー豆の売り場でした。立ち寄るのは一見の客ではなく、コーヒーマニアの常連ばかり。それなら最も不便な売り場であっても、何の問題もない。離陸したとはいえ、コーヒーはまだこの程度の認知度でした。しかし、喫茶店の隆盛以来、日本のコーヒー消費量は、確実に上昇カーブを描き、コーヒー生産国にとっても、無視できない市場となってきていたのです。 続く
2008.06.07
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クロニクル 長崎造船所、三菱へ1887(明治20)年6月7日この日、明治政府は、官有の長崎造船所を、三菱に払い下げました。官有物払い下げの一環でした。払い下げを受けた三菱は、やがて社名を三菱造船所に変更、客船・貨物船・海軍の軍船などの建造を手がけました。この三菱造船所は、やがて三菱財閥の中核企業の1つとなり、やがて三菱重工の主力部門となり、三菱のドル箱部門として、活躍しました。
2008.06.07
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コーヒーの旅路(53)追記アメリカン・コーヒーについて、書き漏らしたことがありましたので、補足させていただきます。現在、アメリカン・コーヒーと言えば、日本にしか存在しません。コーヒーのアメリカンがアメリカで誕生したこと、その頃のアメリカ人が浅炒りのサッパリしたコーヒーを好み、お湯を加えて薄めて大カップで愛飲していたことも事実です。しかし、その後アメリカ人の味覚が変わったのか、コクのある濃い目のコーヒーをレギュラー サイズのカップで、楽しむようになったのです。今では、アメリカンは日本でのみ通用するコーヒー用語になっています。日本独特のコーヒー用語の最たるものは、「ウィンナ・コーヒー」でしょうか。ウィーン風のコーヒーという意味になるのですが、ウィーンにはウィンナ・コーヒーはありません。ですからウィーンのカフェでは、イタリア仕込みのカプチーノは注文できますが、ウィンナ・コーヒーの注文はできません。ウィンナ・コーヒーは純粋に日本人が作り出したものであり、日本人の味覚に合う、コーヒー風の飲物と言えましょうか。まさに日本のコーヒー文化が生んだ、ヒット作と言えましょう。
2008.06.07
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