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南海泡沫事件顛末記(12) その2 ミシシッピー会社事件 国家債務の増大に悩むフランスの現実は、ローの野心的なプランを実現するためには、うってつけの環境でした。フランスに移り住んだローは、先ずいくつかの論文や覚書をサロンで発表して、銀行券(紙幣)発行の有効性を、財政当局に理解してもらうことに努めました。その努力が実って、ローは銀行券を発行する、個人銀行を設立する権利を与えられたのです。1716年のことでした。ローは自説の正しさを実践によって証明する機会を与えられたのです。彼は大いに喜びます。まして、彼の銀行が発行する銀行券(紙幣)は、金貨や銀貨と交換可能とするお墨付きも、もらえましたので、信用も高く、広く流通することとなったのです。街中では、当時の国債は人気がなく、ディスカウント率が70%を大きく越えていた(1,000フランの国債は、300フラン以下でしか買い手がつかない状態を指します)のに対し、ローの銀行券は、逆に15%ものプレミアムがつくほどだったのです。紙幣は本来的な価値を持たず、貨幣との交換を保証されることで、価値を持つものですから、紙幣が貨幣よりも割高になるというのは、ありえないことのはずなのに…です。こうして、銀行券の発行により、フランスの経済活動は活性化しました。ローのアイデアは、先ずは成功を収めたのです。こうして1718年には、ローの個人銀行は、王立銀行に改組することが認められたのです。ローの前途は大きく開けました。 続く
2008.11.30
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クロニクル 立川基地全面返還1977(昭和52)年11月30日1945(昭和20)年の敗戦後、日本は米軍を中心とした連合軍の占領下に置かれました。その折、立川の飛行場等は、そのまま占領軍に接収され、基地となりました。1952(昭和27)年、サンフランシスコ講和条約の発行によって、ようやく独立を回復しましたが、同時に結ばれた日米安全保障条約によって、立川基地は米軍が継続使用することになりました。その立川基地が、この日米軍から日本側に全面返還されたのです。基地内に広く土地を所有した企業の株価が、この日を見越して、高値に買い上げられ、第一次石油ショック後泣かず飛ばずだった株式市場で、大いに話題を呼んだのもこの頃です。
2008.11.30
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南海泡沫事件顛末記(11) その2 ミシシッピー会社事件 舞台は1720年のフランスに渡ります。主役がおります。スコットランド人の銀行家ジョン・ローです。彼はフランスではジョン・ローシステムの考案者として知られ、今では当時の財政事情を一時的にですが、好転させた功労者として評価されています。しかし、当時の評判は散々でした。それはそうでしょう。バブルに踊った人たちに大きな痛手を負わせて、その分で国庫の赤字を大きく減少させたのですから。まず、ローを紹介しましょう。彼は、1705年に『貨幣及び商業に関する考察』という書物を発表して、貨幣の不足がスコットランドの経済的不況を招いていることを指摘し、土地を担保とした貨幣(紙幣)を発行することを提唱しました。しかし、この提案は、スコットランドでは受け入れられませんでした。そこで彼は、自身の活躍の場を求めて、フランスに移住したのです。当時のフランスは、一代の傑物ルイ14世が死去(1715年のことです)して5年、長命だったルイ14世は、王位を継ぐ資格のある子や孫に全て先立たれていた関係で、幼少の曾孫がルイ15世として即位、親戚筋のオルレアン公が摂政を務めておりました。当時のフランスは、ルイ14世の最晩年に始まった長期不況に苦しんでおり、貨幣の不足に伴う物価の低落と、国家債務の増大に悩まされていた所でした。ですから、ローの構想を実現するには、またとない環境が揃ってもいたのです。オルレアン公の慧眼は、ローを見逃すことはありませんでした。フランスに渡ったことで、ローは活躍の場を得たのです。 続く
2008.11.29
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クロニクル 金属バットで両親を1980(昭和55)年11月29日もう28年も経ったのですね。この日、川崎市高津区の新興住宅街で、夫婦が鈍器のようなもので撲殺されるという事件が起きました。第一発見者は、次男の予備校生でした。20歳の次男は、9時過ぎに起きて階下へ降りた所、両親が死んでいたと、通報しました。しかし、外部からの侵入の形跡はなく、次男に詳しく事情を聞いた所、翌日の30日になって、金属バットで自分がやったと自白、金属バット両親殺人事件として、当時センセーショナルな話題となりました。父は東大卒のエリート、兄も有名大学生という一家で、次男は早大受験に失敗、父になじられた上に、人格を傷つけられ、鬱々としていたことも報じられました。家庭の不和、父や兄への劣等感、浪人生活での再度の受験への不安など、次男の心の問題が提起され、家庭像の問題が、当時賑やかに議論されました。しかい、この事件が、今に続く家庭内殺人の流行のはしりになるとは、当時は意識されませんでした。今考えると。家族関係の希薄化の第1歩だったのですね。しかし、エリートといっても、息子の心情を少しも汲むことの出来なかった父親の人間的な器量の狭さが際立ったゆえの事件と、次男を追いつけた父親の狭量が、当時私には一番気になりました。こりゃエリートではなく、似非エリートだと…
2008.11.29
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南海泡沫事件顛末記(10) その1 チューリップバブル この節の最後に、チューリップ・バブルを巡って生まれた、黒いチューリップの伝説を紹介します。この話は、アレクサンドル・デュマの小説『黒いチューリップ』の題材にもなっています。「ハーグの靴屋が黒いチューリップの栽培に成功したとの噂を聞きつけ、ハールレムの園芸家組合の一行が、この靴屋を訪れます。黒いチューリップの球根を買いたいというわけです。しばしの駆け引きの後、商談が成立。靴屋は1,500グルデンの値で、球根を譲りました。球根を持って外に出た一行は、そこで球根を地面に投げ捨て、靴で踏み潰して、使い物にならなくしてしまいます。見送りに出た靴屋が驚いて抗議します。その時園芸家の1人がこう話します。」『愚か者。黒いチューリップなら我々も持っている。おまえの運もこれまでだ。1万グルデンでも払ってやったのに、惜しいことをしたな』と。「巨額の富を掴み損なったと知って、意気消沈した靴屋は、鬱々として楽しまず、やがて病床につき、しばらくして息を引き取りました。」チューリップの花に、黒色は生じません。こげ茶色がせいぜいです。ですから黒いチューリップの話は、実話ではなく、伝説です。こうした伝説が生まれたのは、チューリップバブルが招いた貪欲の凄まじさによります。黒いチューリップの伝説は、その後に生じたバブルのたびに生まれた伝説と共に、一般向けに投機を戒める役割を担い続けたのです。「黒いチューリップを忘れるな。○○○○を忘れるな。気をつけろ。明日に暴落が待っているかも知れないぞ…」と。イギリスのジャーナリストは、1996年7月19日付けで、『スペクテーター』誌に寄せた記事を、こう結んでいます。「オランダでは、今でも黒いチューリップは、あまり好かれていない。」と。 続く
2008.11.28
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クロニクル 鹿鳴館竣工1883(明治16)年11月28日千代田区の内山下町の博物館跡地にに建設中だった鹿鳴館が竣工。この日午後6時から開館式が行われました。式は井上馨外務卿夫妻の主催で、皇族、大臣、参議を筆頭に、各国公使、各界の貴賓たちが夫人同伴で招かれ、盛大に行われました。参会者は1300名と発表されました。1881年に外務卿に就任した井上は、不平等条約の改定に邁進しましたが、実現に向けて、諸外国に対し、日本の開化の進展を認めされることが必要であると考えるに至りました。こうして井上は、外国の賓客を接待すると同時に、上流階級の風俗・習慣を欧化するに相応しい施設として、鹿鳴館の建設を推進したのです。設計はイギリス人の建築家コンドルが担当し、施行は伊集院兼常が担当しました。この後、政府高官や各国の使臣を初め、各界の紳士・淑女が毎夜のように鹿鳴館に招待され、舞踏会や音楽会、園遊会などが催されました。こうして世に言う、鹿鳴館時代が現出したのです。
2008.11.28
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南海泡沫事件顛末記(9) その1 チューリップバブル チューリップバブルで痛い目に遭ったオランダ人は、何の罪もないチューリップに八つ当たりしました。しばらくの間は、球根の投機はこりごりと思っていました。しかし、喉元を過ぎると熱さを忘れるのもまた人間です。欲ボケ人間は、過去の教訓を忘れてしまうのです。だからこそ、何度でもバブルが再来するのです。チューリップのバブルから、およそ100年後、同じオランダで、今度はヒヤシンスに対する投機が始まったのです。同じ球根なのなのですから、笑ってしまいます。ヒヤシンスは、ホメーロスの詩にも出てくるくらいですから、ヨーロッパに古くからある花でした。それが、18世紀に入って、突然オランダでの人気が高まったのです。理由は定かでありません。1720年頃になると、価格の上昇が目立つようになってきます。1630年代の苦い出来事を学んでいた人々から、「100年前を思い出せ…」とばかり、いくつもの警告が発せられました。にも関わらず、投機熱は高まっていったのです。今度の場合も、投機に熱中したのは、ヒヤシンス栽培の専門家ではありませんでした。投機性の高い先物取引も、いつの間にか行われるようになりました。チューリップの時と同じように、球根を見ることも所有することもなく、書類上の契約をし、転売益を得るために、取引が行われました。当然取引価格は、実態から乖離して1人歩きしたのです。暴落はある日突然にやってきました。この点もチューリップバブルと同じでした。1739年、価格は暴落し、5年前の1734年の価格に比べても、十分の一から二十分の一にまで、低下しました。最盛期に比べるとどのくらいか、想像がつきますね。チューリップの記憶が残っているにも関わらず、ほぼ同じ出来事が起きているのです。後になって、落ち着いて考えてみると、実に馬鹿げた失敗を繰り返したことが分ります。それでも投機は再発したのです。ここにこそ、バブルの本質が潜んでいると言えましょう。 続く
2008.11.27
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クロニクル 全学連国会に突入1959(昭和34)年11月27日この出来事が、安保改定反対闘争の存在を一躍全国区にし、その後、戦後日本における、最大の反政府運動に育てていく、最初の契機となったのでした。社会党、総評、共産党を中心とする安保改訂阻止国民会議は、4月に結成され、同月15日に第一波の統一行動を行い、以後毎月1回のペースで統一行動を組み、広く国民に改訂安保の問題点をアピールする活動を行ってきました。この日は、その第8回の統一行動日でした。そして、この日の行動には当時大変勢いのあった全学連もまた参加することになっていました。安保改訂阻止第8波統一行動は2万人のデモ隊が国会への請願行動を行ったのですが、デモ隊の先頭を歩いていた全学連のグループは、国会前で集会を開き、そのうちに「国会へ!」の声に押されて、指導部は国会正門から国会の敷地内に突入することを決断したのです。最初から計画していたわけではなく、いわばハプニングで起きた出来事でしたが、その後、逮捕状の出た、唐牛健太朗(彼は北大の学生でした)委員長らが、東大の駒場寮に篭城して、逮捕を拒み(大学の自治の観点から、当時は大学当局が官憲の大学構内への立ち入りを拒否していたのです。この一線が崩れ、大学当局が官憲の構内立ち入りを認めるようになるのは、1968年の学園紛争がきっかけでした)、それをマスコミが報道する中から、安保とは何か、何が問題かが、詳しく報じられるようになり、米軍の戦争に、日本が引きずり込まれる危険性のあることが、次第に広く知られるようになっていったのです。
2008.11.27
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南海泡沫事件顛末記(8) その1 チューリップバブルチューリップバブルの崩壊が、現在のバブル崩壊と違っているのは、それが全国的な経済危機を引き起こすことはなかった点にあります。オランダの西部地域で多少の混乱を招いただけで、それ以上の広がりを見せることはなかったと記されています。それは、バブルの初期の段階で、オランダ経済の主力を構成する金融資本や貿易商人、船主達は、チューリップ売買を見限っていたからです。バブルに踊ったのは、中・下流の人々でした。「裁判で勝利しても、債務者に支払い能力がなかった」と、 前回に記しました。一攫千金を夢見て、投機に参加した人の中には、家財道具の一切を失った人も多かったのです。暴落直前に球根を売り抜けることが出来た人々の中にも、売った相手に支払い能力がなく、受け取った手形が不渡りになる不運に合う人もまた、少なくありませんでした。不動産や家財を担保にした人たちは、当然全てを失います。その中に、当時の風景画家ヤン・ファン・ゴイエンもおりました。彼は暴落の直前に900グルデンと2枚の絵画で、買えるだけの球根を買っていたのです。彼は、わが身の不運を嘆きつつ、19年後貧窮の中で死亡しました。チューリップ市場の混乱と、複雑な債権・債務のもつれ合い、両者の訴訟合戦の中で、当事者達の陳情合戦に音をあげた議会や市当局は、「調査が終わるまで、全てを凍結する」という触れを出し、沈静化に務めました。こうして、バブルの崩壊から1年3ヶ月後の1638年5月、政府は「合意価格の3,5%の支払いで、売買契約は解除できる」と宣言しました。この宣言で、ようやく落ち着きを取り戻しました。しばらくすると、園芸に関心のある純粋に栽培目的の目的の人たちが、市場に戻り、安値の球根を買うようになりました。数年後、「無窮の皇帝」など貴重種の球根は、ようやくバブル開始以前の価格に戻りました。しかし、バブル期にボロと呼ばれた普通の球根は、以前の価格を回復することは、遂に出来なかったのです。バブル後、しばらくの間、オランダの人々はチューリップを毛嫌いしました。チューリップは愚かさの象徴とされ、いくつもの寓意画で、すぐに散るはかなさを示す花として、描かれたりしたのです。チューリップの球根がオランダの輸出産業の一つとして復権するには、長い時間が必要だったのです。しかし、形を変えてバブルは再来します。 続く
2008.11.26
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クロニクル 第三回旅順攻撃始まる1904(明治37)年11月26日104年前の日本は、大国ロシアとの戦争の最中にありました。日本近代史の大きな分岐点となった日露戦争です。そして、この日、第三回旅順総攻撃の幕が上がりました。攻撃の指揮は第3軍司令官乃木希典将軍でした。旅順攻撃は、8月19日に始まる第1回、10月の第2回と、共に堅固な要塞に立て篭もって抵抗する、敵の堅塁を抜けず、2度の攻撃での死傷者は3万名を越えるという、大きな損害を出していました。この日始まった第3回攻撃でも、いたずらに死傷者がふえたため、2日後の28日からは、やはり旅順港を見下ろすことが出来、その割りに要塞の防備が手薄に見える203高地に攻撃を集中することになり、満州軍総参謀長児玉源太郎が、乃木に代わって指揮を執るという異例の手段を講じて、12月5日、ようやくこの高地を奪取することに成功。その後も、次々にロシア軍の堡塁を落とし、05年1月1日、遂に旅順攻略に成功するのです。この第三回攻撃での死傷者は1万7千名を数えたといわれています。
2008.11.26
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南海泡沫事件顛末記(7) その1チューリップバブル チューリップを巡る熱狂の終わりは、1637年の2月3日に当然にやってきました。バブルというのは、不思議な魔力を秘めているようです。チューリップは球根です。増やすにも限度があり、毎年少しづつしか増やせません。まして、貴重種はウィルスによる病気ですから、思い通りに作ることは出来ない。この数の少なさが熱狂的な投機に繋がり、誰もが信じられない高値を呼びました。理性的な人物は、こんな高値が続くはずがないとして市場を離れました。そして、前回に紹介した当時のパンフレットにある通り、誰もが「チューリップ投機は、長くは続かない。終わりは近いかもしれない」と考えていました。しかし、そこがバブルの魔力です。「でも、それは明日ではない」と考える人たち、欲に目の眩んだ人たちが、より高値で売り抜けるために、来る日も来る日も、市場に参加しに来るのです。それは流れに乗り遅れて、ようやく球根を買おうと出てきた不幸な人であったり、何度か甘い汁を吸い、蜜の甘さの虜になって何度目かの甘い汁を吸おうとした人であったり、儲けを膨らませようと、なお以前に買った球根の先物を、なお保持し続けている人であったりするのです。こうした姿は1929年のアメリカのウォール街にも、去年から今年にかけての上海の株式市場にも、そして1990年代の日本の不動産売買でも、バブルがはじける時には、どこにでも見られる共通の姿です。その最初の幕が開いたのです。誰もが、このバカ高値はいつまでも続かないと思っていたのですから、プロを自認するような相場の参加者は、水鳥の羽音のような些細な音にも敏感に反応します。1637年2月3日に、一斉に売りを出したのは、こうした人たちだったのでしょう。この日の朝、売りが買いを上回ったことだけは確かです。詳しい統計などない時代ですから、どのくらいの売りが出たのかは、特定できません。ともかく時間の経過と共に売りが売りを呼ぶ、パニック売りが遂に始まったのです。それでも、この日に売りを出した人はまだ幸いだったのです。暴落を仕込み場と勘違いした初心者達が買ってくれたからです。翌日4日には、チューリップはいくら値下げしても売れなくなりました。先物契約は決済不能となり、債務不履行が次々に発生しました。球根栽培で潤ってきた正真正銘の園芸家たちにも被害が及びました。彼らは債務不履行を起こした投機家たちに、支払いを求める裁判を起こしましたが無駄でした。なにしろ相手が無一文になっているのですから、裁判に勝っても取り立てるものが何もなかったのです。取り立てることが出来たのは、運が良い場合で契約金額の5%程度だったと、園芸家の何人かが語っています。 続く
2008.11.25
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クロニクル 第1回帝国議会召集1890(明治23)年11月25日118年前のこの日は、近代日本にとって、記念すべき日でした。日本における国会は、この日に始めて召集され、開会の日を迎えたのです。大日本帝国議会は、制限選挙制に基づき、国民が議員を選出する衆議院と、任命制を基本とし、一部議員が指定された団体から選出される(例えば帝国大学教授から○名というように)貴族院の二院制でした。前年1889(明治22)年2月11日に発布された大日本帝国憲法の規定に基づき、国会の権限は、天皇の諮問機関と位置づけるられまし、選挙権、被選挙権はかなりの有産者に制限されましたが、有産者は自分の立場を自覚し、広く全国民的視野に立って、貧しき人々の立場をも代弁し、内閣に対し、民力の備えを強く訴える立場をとり、単なる御用機関に留まらない活躍を見せました。初期の議会には、そういう点で、かなり骨っぽい議員が揃っていたのです。なお、初代衆議院議長には、中島信行氏が就任しました。
2008.11.25
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南海泡沫事件顛末記(6) その 1チューリップバブル 1630年代当時のオランダは、ライデンを中心とした薄手の毛織物(ウステッド)生産が大活況を呈し、開発者利益を享受していました。そのためオランダは織工を中心に職人の給与が上昇し、繁栄を誇っていたのです。職人の年間賃金は、およそ200~250グルデンに達していたと考えられています。同じ時期、小さなタウンハウスは、300グルデン程度だったとされていますから、土地が安かったとはいえ、如何に好景気で職人の給料も良かったかが理解できると思います。こうした時期に、「大元帥」の大ぶりの球根が2個で900グルデンまで値上がりしています。最高位を占めた「無窮の皇帝」は1個がなんと、6000グルデンにまで値上がりしたのです。球根1個がタウンハウス20戸分です。「副王」は3000グルデンです。2500グルデンあれば、小麦が27トン、ライ麦50トン、良く肥えた雄牛4頭、同じくブタ8頭と羊12頭、ワインの大樽2樽、ビールの大樽4樽、バター2トン、チーズ2トン……がすべて購入できると、当時のパンフレットは報じています。ちょうど、グーテンベルヒの活版印刷機がオランダにも導入された時期で、出版物も出回り始めていたのです。こういう状況でしたから、投機家たちの多くは、球根価格の異常に気づいておりました。ですから彼らは、先物で購入した球根を、高く買ってくれる顧客を見つけて、なるべく早く売り抜け、利益を確保することしか考えていなかったのです。当時の匿名の著者のパンフレットは、投機家とその友人の対話形式の警告書の中で、投機家にこう説明させています。「夏が来るまで、金は支払わないし、その頃までには、買ったものは全て売っている」「投機熱は続いても、2年か3年だろう。それだけの時間があれば十分だ。でもそんなに時間のない可能性もある」などと…。さらに著者自身の言として、「これだけ沢山の人たちが参加しているのだから、売り手の方が多くなっても不思議ではない。買い手よりも売り手が多くなれば、熱気は一機に冷え込むだろう」と、冷静な見立てを描いています。この予想は、さらに早く現実のものとなりました。暴落がある日突然始まるのも、バブルに共通した現象のようです。 続く
2008.11.24
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クロニクル 日本民主党結成1954(昭和29)年11月24日戦後政局の流れの最終局面が近づいた時期のことです。自民・社会両党による55年体制実現の1歩前の出来事です。この日、自由党分派、改進党、日本自由党の3党が合同した、日本民主党の結党大会が開かれ、鳩山一郎が総裁に就任しました。鳩山ら反吉田グループは分派自由党を作っていましたが、前年53(昭和28)年の11月29日に分派自由党を解党して、鳩山ら23人は自由党に復党し、三木武吉ら8人は分派として日本自由党を結成したのです。しかし、鳩山らの反吉田の空気は強まり、この年9月19日には、鳩山一郎・重光 葵らが6者会談を開き、反吉田新党の結成で意見の一致を見ていました。その後、11月8日には、自由党が分派活動を理由に、岸信介、石橋湛山の両名を除名するなどの動きが続き、遂に、この日の日本民主党の結党に繋がったのです。
2008.11.24
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南海泡沫事件顛末記(5) その1 チューリップバブルチューリップは春先に花をつけ、夏の初めに球根を掘り出し、秋の終わりに球根を植え付けて、翌春の開花を楽しみます。ですから、球根の売買は、夏から秋にかけて行われます。それが、チューリップ熱が高まり、チューリップが投機の対象になってくると、「春の終わりに球根を渡すから」「それなら、手付けは払うが、残りは糾問の受け渡しの時に払う」ことを約束する手形を切ろうという、一種の先物取引が誕生します。こうした先物折引きが誕生すると、チューリップ取引の熱狂は1段階進んできます。ほんの手付けさえ払えば、高価な品種の球根を購入する権利を入手したことになるからです。春の終わりに実際の球根を受け取る前に、「球根を購入する権利」を、時価で売り渡してしまえばよいからです。ただし、この取引は、球根の購入権が上昇を続けることを前提としています。例えば、12月に入手した購入権が、2月には20%上昇しているならば、濡れ手に粟でそれだけの利益を入手できたことになるわけです。こうした儲け話が広まるにつれ、チューリップ売買に加わる人々は増え続けました。昨年夏ごろまで、盛んに日本のテレビで放映されていた上海周辺地域での、不動産や株式の売買に群がった人々の姿が、当時のオランダの人々と考えれば良いように思われます。こうした先物取引は、公設市場では行われません。そこで、あちこちの居酒屋にブローカーや投機家が集まって、酒を酌み交わしながら取引が行われたのです。当時、出版されたチューリップ取引の入門書は、チューリップの取引に参加したければ、まず居酒屋に出かけ、「園芸家はいるか」と聞くことだと述べています。すると、その部屋に案内してもらえるというのです。「うちの店にはいないよ」と断られることは、記されていませんから、居酒屋の殆どで、そうした取引が行われていたことが、わかります。部屋に入ると、およそ3グルデン程度の酒手が請求されます。これはチューリップの買い手に課される取引参加費、いうならば場所代です。部屋にいた売り手たちは、新参の買い手を歓迎してくれます。売り手と買い手の取引は、相対と入札で行われましたが。新参者の場合は、売り手同士で入札を行い、最も低廉な価格をつけた売り手が、その値で売り手となりました。一般に、売り手は、ある品種の球根を春の終わりに渡すと約束します。買い手は球根を受け取る権利を得るのです。そして、大抵の場合、買い手は春の終わりまで待つことなく、どこかで球根を受け取る権利を売り払って、自らの利益を確定するのです。しかし、この権利の売買も現金では行われませんから、ここで確定するのは、最終的な支払いが行われた場合に、確保できる利益でした。取引の大半が手形で行われ、手形の決済は、掘り出された球根の受け渡しが行われる時だったからです。 続く
2008.11.23
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クロニクル 一葉忌1896(明治29)年11月23日一葉忌、この日明治29年の11月23日は、5千円札に肖像が載る作家の樋口一葉が、若干24歳8ヶ月の若さで、肺結核のために世を去った日です。一葉は1872(明治5)年3月25日の生まれです。貧窮生活を続けながら、文筆で身を立てることを計画して、周作を投稿しはじめます。やがて、亡くなる2年前の冬に発表した『大つごもり』が好評を博し、作家としての地位を確立します。その後亡くなるまでの20ヶ月に、『たけくらべ』『にごりえ』など彼女の代表作が次々と世に出されたのです。
2008.11.23
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南海泡沫事件顛末記(4) その1 チューリップバブルチューリップの球根は、投機に適していました。当時は知られていませんでしたが、ウィルスによる病変で、貴重酒がが生まれ出るのです。普通の球根が、突然に高価な貴重種に変異することがあるのです。どうなるか分らない不確実性があるのですから、もしかしたらという一縷の望みに賭けてみる余地があったのです。普通の球根を植えても、そこから皇帝や提督、副王などの花が開く可能性があったのです。そしてチューリップの栽培は、そう難しいものではありませんし、ギルド(同業者組合)もありません。要するに誰もが球根を購入して、栽培に参加することが出来たのです。大きな株式会社の株式を買うには、相当な資力が必要です。しかし、ごく普通のチューリップの球根なら、大抵の人が買うことが出来ます。当初、チューリップの市場は、球根を掘り出す夏場から、球根を植える秋にかけてに限られていました。 主に夏場の売買が中心でした。しかし、チューリップ人気が高まるにつれ、年間を通じて取引できる仕組みが作られるようになりました。栽培者は、球根の列に名前をつけ、夫々の球根に番号をつけ、花の種類と植えつけたときの重量を記録しておきます。貴重な品種は、球根1個単位で取引されますが、値決めは球根の重さで決められました。値打ちが下がるに連れて、重さに関係なく個数売りになり、最も人気の低い種類は袋売りされました。チューリップ売買が、過熱し始めたのは、1634年頃とされています。チューリップ人気が北フランスに飛び火し、北フランスの都市やパリで、球根の価格が上昇していると伝わってきたのが、きっかけでした。チューリップ市場に新たな参加者が登場したのです。腕の良い職人や中農層でした。こうした人々は、ごく普通の球根から貴重種の栽培に成功することがあり、1度成功すると。続けざまに成功する確率が高く、短期間に巨万の富を築くことが出来るという話に飛びついたのでした。現実に身近に成功者が出た場合、周囲の人々はその成功譚を聞き、自分もまたとの思いを強くしたのです。熱狂は次第により広い社会層を巻き込んで行くのですが、チューリップが齎された当初、金に糸目をつけずに、自らの庭園に沢山のチューリップを植え込んだ富裕な大商人などの上流の人々は、チューリップをお金儲けの手段とすることから一線を引き、チューリップ取引からしばらく遠ざかっていったことが、特筆されます。いつの世でも、バブルの狂乱に踊るのは、中・下層の人々や、俄か成金ということになるようですね。チューリップ市場もまた、参加者が増えるに連れて、性格を変えてゆきました。当初は相対で取引されていたのが、ブローカーや投機家が集まっての取引に変わり、さらには通年取引や先物取引が登場するようになっていったのです。 続く
2008.11.22
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クロニクル 富士銀行創設1879(明治12)年11月22日129年前ですね。この日、富士銀行の前身安田銀行の設立が認可されました。安田財閥の金融部門を担う銀行の誕生でした。やがて安田銀行は富士銀行と名を変えます。その富士銀行は、バブル期に不動産業界への融資を積極的に拡大、土地価格の下落から、不良債権が急増、経営が脅かされました。昨今のアメリカの銀行シティのような状況に追い込まれました。この状況の下で、富士銀行は、同じように不良債権の急増に悩んでいた、第一勧業銀行、日本興業銀行との3行合併に舵を切り、99年の春に合併を発表、02年、みずほ銀行となりました。シティも危ないですね。97~98年当時の富士銀行以上に危なそうです。
2008.11.22
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南海泡沫事件顛末記(3) その1 チューリップバブル クルシウスが発見した珍しい花は、ウィルスに感染してモザイク病を起こしたチューリップでした。ウィルスは感染しますから、現在ならすぐに償却処分されます。しかし、ウィルス感染による病変が突然変異と考えられた当時は、この事実は知られておりません。コッホやパストゥール、北里柴三郎らの努力で、次々に細菌が発見されてゆくのが19世紀の末。ウィルスの発見は20世紀に入ってのことなのですから…。それゆえ、病変を起こしたチューリップの球根は、新種として珍重されました。とりわけ、紫と白の縞模様に変異し、「センペル・アウグストゥス(無窮の皇帝)」と命名されたチューリップが最高の人気を集めました。オスマン帝国からの渡来品であり、元々入手しにくいチューリップの球根は、最初から高値を呼んでいたのですが、クルシウスの成果に刺激された園芸家たちは、自ら栽培も手がけ、品種改良にも取り組みました。変異はウィルス感染によるのですから、同じ球根を何年も植えていると、ウィルスに感染する確率は高くなります。まして密植の場合には、まとめて感染する可能性も高くなります。こうして、何種類もの変異したチューリップが、新種として珍重されるようになったのです。「…提督」「…副王」「大元帥」などと名付けられたチューリップが、「無窮の皇帝」を最上にして、高値で取引されたのです。海洋国家オランダでは、皇帝に続いて、海軍提督が高位を占めると考えられたのですね。副王とは植民地の最高支配者を指します。本国の国王から、統治権を委ねられ、本国の王にのみ服従する立場を指しています。言いえて妙ですね。大元帥とは、当時のオランダでは、実質的には名誉職でしたが、陸軍軍人にとっての最高の役職でした。こうした名前が球根のランクを示すためにつけられたのですね。ところで、1630年代のヨーロッパは、主としてドイツを舞台とした30年戦争(1618~1648年、日本で言うと、秀忠から家光にかけての時代で、鎖国体制がほぼ完成するのが1639年です)の最中にありました。この戦争はドイツにおける宗教対立から始まった内乱にヨーロッパ大陸の国々がこぞって介入した戦争です。デンマーク、スェーデン、フランス、スペインなどなどが加わり、結果的にドイツ各地の疲弊と小邦分立状態を決定的にし、さらにスペインの没落とフランスの覇権を確立して終了しました。ですから、オランダのスペインからの独立が、最終的に確定したのは、この戦争の終結時に結ばれたウエストファリア条約によるのですが、1610年代後半には、事実上の独立を勝ち取っていたのです。そして、大陸の強国たちが、大陸の戦争に熱を上げている間に、オランダはせっせとアジア貿易に精を出していたのです。こうしてアジア貿易で蓄えられた富と、スペインの脅威が消えたことによる開放感を背景に、オランダ人の気持ちの緩みと、中層・下層の人々の一攫千金への夢がない交ぜになって、生じたのが、チューリップバブルだったと言えましょう。 続く
2008.11.21
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クロニクル 早慶戦事始1903(明治36)年11月21日105年も前のことになるのですね。野球の早慶戦が始まってから…。そうなんです。103年前の今日、第1回早慶戦が三田網町の慶応グラウンドで、午後1時から行われたのです。早稲田に野球部が誕生したのは二年前、この時慶応野球部は、既に対外試合を何度も経験していた強豪でした。10月に横浜の外国人チームとの練習試合に勝利して自信を得た早稲田は、その勢いのままに先輩格の慶応に試合を申し込んだのです。慶応は快く受けて立ち、ここに幾多の名勝負を刻んだ早慶戦の幕が開くことになったのです。この日、早稲田の野球部は戸塚の野球場から、徒歩で慶応に向かいました。球場には東京市内の各学校から、数千人の学生らが見学に来ており、熱烈な声援を送りました。試合は白熱した好ゲームとなり、7回を終えて8:7と早稲田が1点をリードしましたが、奮起した慶応が8回に集中打で4点を奪って逆転、その後の早稲田の攻撃を1点に抑え、11:9で勝ち、野球の先輩校の意地を見せて終了しました。終了時間は午後3時半、2時間30分の熱戦でした。この試合には、慶応の宮原清、早稲田の橋戸信など往年の名選手が出場していたことも知られています。
2008.11.21
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南海泡沫事件顛末記(2) その1チューリップバブル それでは、史上最初の大規模なバブル騒動となったオランダのチューリップバブルを見てみましょう。さて、史上最初のバブルが、通常の資産ではなく、チューリップという植物を対象に起きた理由は、現在でも明確な説明はなされていません。時は1630年代、当時すでにアムステルダムやロッテルダムには、世界で最初の近代的な証券取引所がありましたし、投機の対象としては、チューリップより適切なように思える、明の磁器、トルコのじゅうたん、さらには絵画なども、積極的に取引されていたのです。それなのに、何故チューリップだったのか。「チューリップは栽培が困難だったから」という説明がなされたこともありますが、あまり説得的には思えないですね。ところでチューリップは、16世紀の中頃に、オスマン帝国から西欧に齎されました。なにしろチューリップの語源は、トルコ語でターバンを意味するトゥリパンからきているとされるのですから。オランダ人は西欧各国の中でも、特に花に強い愛着を持つ国民として知られています。国土の狭い国のため、土地が狭いために、少数の例外を除く国民の大部分は広い土地を持てないため、狭い庭に小さな花壇を作るしかないため、花壇の中央に高価な花を植えて楽しむ風習ができたとされています。そうした花々の中で、特に色とりどりで、しかも色調の鮮やかなチューリップが好まれたといいます。オスマン帝国から齎されたチューリップは、ほどなくヨーロッパ各地で高く評価されるようになります。そして1593年のことです。スペインとの独立戦争を遂行中のオランダで、フランスの植物研究家のクルシウスが、ライデン大学で従来のチューリップとは異なる、美しくも変わった花を咲かせます。それ以来、オランダでは変種のチューリップ作りが流行になります。稀な品種の球根は、高値で取引されますから、誰もが変種を作ろうと躍起になったのです。チューリップの花は、そう長持ちする花ではありませんから、取引は保存が可能な球根で行われ、アムステルダム、ロッテルダム、ライデンには、常設の球根市場も開かれました。 続く
2008.11.20
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クロニクル 国連、子どもの権利条約を採択1989(平成元)年11月20日19年前のこの日、第44回国連総会は、「子どもの権利条約」を採択しました。条約は前文及び54条からなる本文からなり、18歳未満を子どもと定義としています。本文は、「国際人権規約」が定めた子ども達の基本的人権を、その生存・成長・発達の過程として、特別な保護を必要とする子どもたちを、子どもの視点から詳説したものです。この「子どもの権利条約」は、翌年春には発効し、日本はさらに4年後の94(平成6)年4月22日に、批准しました。
2008.11.20
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南海泡沫事件顛末記(1) その1 チューリップバブルカリフォルニアにお住まいのマダム・リンダからご要望をいただいた、イギリスの「南海泡沫事件」の顛末記が、「学級の誕生」の連載が伸び、ずっと遅れておりましたので、本日から数日の予定で記したいと思います。頃は1720年代の初頭ですから、産業革命の開始に先立つこと約50年、株式会社が産声をあげ始めた時期のことです。1990年代から日本でも有名になり、今まさに米欧のそれがはじけて、世界に大迷惑をばら撒いてもいる、バブルの崩壊の、いうなれば最初のケースです。全般的な感想を記すと、人間は金銭欲に執り付かれると碌なことをしないのは、昔も今も少しも変わらないなぁと言うことでしょうか。当時のヨーロッパで経済先進国として、貨幣の役割が大きくなっていたのは、トップを走るオランダ、次いでイギリスとフランスでした。この3国でオランダ、フランス、イギリスの順で、バブルの狂想曲が起きていますので、前の二つも簡単に振り返っておきたいと思います。最初に申し上げておきたいことは、貨幣経済の普及以前、現物の交換が主で、貨幣があくまで補助手段に留まっている時代には、バブルは発生しないということです。17~18世紀の段階では、まだ紙幣の役割は小さく、金銀銅が貨幣の役割をしていましたが、ご承知の通り、16世紀の後半から、メキシコやペルーの金銀がヨーロッパに持ち込まれ、貨幣の流通量が大きくなり、貨幣経済がそれなりの力を持つようになります。その貨幣を当時最も大量に保有するようになったのが、17世紀のオランダでした。スペインから独立したばかりのオランダは、イギリスに先んじてアジア貿易の先頭に立ち、経済と宗教を分離することで徳川幕府にも取り入り、当時としては大きな金保有国だった日本との貿易を、欧州勢としては独占することに成功したことは、ご承知の通りです。貨幣を蓄積したオランダで、最初のバブルが起きたのは、そういう意味では当然のことでした。 続く
2008.11.19
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クロニクル サダト大統領イスラエル訪問1977(昭和52)年11月19日31年前のこの日、エジプトのアンワル・エル・サダト大統領が、電撃的にイスラエルを訪問。翌20日には、イスラエルを国家として承認しました。イスラエルは、1947年の建国のいきさつから、アラブ世界と激しく対立しており、建国直後の1948年の第一次中東戦争以来、4度にわたる中東戦争を繰り返しておりました。いわばアラブ世界の仇敵であり、エジプトはそうしたアラブの盟主として、常に反イスラエル闘争の指導的役割を果たしておりました。そのエジプトがイスラエル「承認」に踏み切ったのです。これはアラブ世界の人々にとって、晴天の霹靂でした。やがて、エジプトはシナイ半島の返還を取り付けましたが、シリアはいまだに、ゴラン高原を占領されたままであり、人としての尊厳を無視され続けてきたパレスティナ難民もまた、イスラエルに激しい敵意を燃やしています。
2008.11.19
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クロニクル 官営八幡製鉄所本格操業開始1901(明治34)年11月18日八幡製鉄所の操業開始は、一般的には同じ1901年の2月5日とされています。私も昨年2月5日のクロニクルに、その旨を記しました。第1溶鉱炉に火が入り、操業を開始したと社史にも記されています。勇んで生産が開始されたのですが、しかしその後の道は平坦ではありませんでした。産みの苦しみとでもいうのでしょうか、次々と発生するトラブルの解決に追われ、日産160トンの生産能力(それまでの日本の製鉄業では、釜石製鉄所の日産25トンが最高ですから、その6倍強の規模が売りでした)を生かすには、ほど遠い状態にあったのです。技術陣は試行錯誤を繰り返しながらも、試練に耐え、そして遂に107年前のこの日、日産100トンの大台を達成したのです。溶鉱炉に火を入れ、生産を開始してから9ヶ月半近く、ようやく技術陣が第1関門を突破し、本格操業に漕ぎ着けたのが、この日だったのです。しかし、八幡製鉄所は、銑鉄の生産から製鋼・圧延までの一貫生産を目指していましたので、今後は一貫工程の完成に向けての第2、第3の関門への挑戦が待っていたのでした。全ての難問が解決し、一貫生産が軌道に乗るのは、1904年の日露戦争開戦頃のこととなります。
2008.11.18
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学級の誕生 補足書き忘れたことを1点、補足させていただきます。学力を高めるには、少人数学級を実現することが、最も効果が見込めるという点です。これはアメリカテネシー州の調査結果ですが、日本にも当てはまることだと思います。テネシー州は、高南部に属し、南北戦争に際しては、南部連邦(正確にはアメリカ連邦)の一員として南軍に属し、北軍と戦った地域です。隣接するのは、東にノースカロライナ、北にケンタッキー、南にミシシッピー、西にアーカンソーという各州と州境を接していました。このテネシー州は、他州に比べて教育水準が低かったため、全ての子どもの学力を引き上げるための方策を考え、とりあえず、少人数制教育、具体的には15人学級にすると、どのような効果が見込めるかを、調べたのです。その結果、15人学級にすると、特に少数民族や女性では、優秀な児童・生徒の数が2倍になるというデータが出て来たのです。さらに、こうした少人数制を4年間継続するとどうなるを調べてみると、二倍も効果が高くなることが分りました。実際に、成績不振で、原級に留め置かれる児童・生徒の割合は、15人学級実現以前の12%から、2%に減少しているのです。正しくここには少人数学級の実現こそが、学力向上に特に有効であることが、見事に明らかにされています。
2008.11.18
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学級の誕生(120) 学習者(児童・生徒…)にとって、良い先生とは何か。単純に言えば、受け手である子ども達が、「今度の先生は良い先生だな」(小学校)「今度の○○の先生は良い先生だ」と思えば、その先生は良い先生だということになります。学習者は多様で、1人1人が違いますから、はぐれる生徒を出さないようにするには、そうした少数者と波長が合う先生も必要です。その意味で学校の先生も多様で、色々なタイプの名物先生がゴロゴロしている学校が、実は理想の学校に近いのです。しかし、こういう学校の校長は、大変ですね。しっかり管理しようなんてタイプの校長には、手に負えないでしょう。ということで、こうした学校は、少数例外、ごく一部の私立や国立の大学付属校にしかなくなっています。ですから、ここでは、申し訳ないのですが、一般論だけを語るに留めさせていただきます。良い先生とは、生徒の目線で物を考えることが出来る先生、学習者と波長を合わせることが出来る先生だと。私は考えています。教育熱心な先生は結構沢山います。しかし、熱心な先生は、必ずしも良い先生とは限りません。ここは誤解なさらないでください。熱心なあまり、先生としては落第だというタイプの先生は、意外と多いのです。教育熱心な親が、子どもにとって良い親とは限らないのと同じです。熱心な先生は、つい自分の頭の中に描いた理想を追いかけ過ぎるのです。しかもそれが問題であることに気がつきません。周囲もまた熱心さを評価しがちです。でも方向違いの熱心さには、害はあっても益はありません。学習者即ち子ども達を窒息させ、潰してしまうだけですから。理想を語るのは結構ですし、理想を目指すのも結構です。高い目標は掲げて欲しいとも思います。しかしそれは、相手のハートに届く形で、相手が理解可能で、しかも実行可能な範囲からはじめるものでなくては、意味を持たないのです。熱心だけれど、いつも空振り三振ばかりしている先生は、実は生徒たちのためには、最もタチの悪い先生です。あまり教育熱心でない先生であっても、しっかりそのことを自覚している先生は、仲間からスポイルされている生徒には、親近感を持たれたりするケースもあって、それなりに存在価値があるのです。少なくともこうしたタイプの先生達は、生徒を潰してしまうことはないのです。生徒の目線で考えたり、生徒と波長を合わせるには、何が必要でしょうか。先ずは生徒たちの目線まで降りて、生徒達の話を良く聞くことです。授業に関しては、どこまで理解しているのか、何が分り、何が分らないのか。何が出来、何が出来ないのかを、しっかりと探りを入れて掴む事です。レヴェルの高過ぎる授業は空振りです。レヴェルの低い授業は退屈です。私は学生たちには、授業では君達の頭の上3センチの所に直球を投げ続ける。変化球は投げないし、ど真ん中のストライクも投げない。背伸びすれば取れる高さに投げるから、しっかりとって欲しいと話しています。5センチ上では高すぎるからですし、背伸びして取れる高さが、一番彼ら彼女らの学力を伸ばすことを、体験的に学んだからに外なりません。問題は、どのレヴェルが頭の上3センチの高さなのかを見抜くことです。毎年4月に苦労するのが、この問題です。個々の学生・生徒には個人差がありますが、1人1人と少し話したり、最初の時間にその日の授業の要点をまとめ、質問を書いて提出してもらうと、すぐ分ります。ただ、それが集団のレヴェルとなると、どの辺かは、数回繰り返さないとなかなか掴めません。若いうちは余計そうでしょう。えも、授業中の児童・生徒の態度の変化、顔の表情をずっと観察していると、そのうちに見えてきます。授業のレヴェルを、生徒に合わせて変えていくことが出来ること。これが一つの条件です。しかし、とりわけ小・中・高では、授業と並んで、生活指導や学級という集団造りもまた大きな仕事になっている現実があります。ここでも理想を追いかけすぎずに、現実の生徒達の考えのレヴェルを理解し、生徒達に理解可能な話を積み重ね、経験させながら、一つ一つ時間をかけて積み上げていくことが大事です。前にも書きましたが、どんな生徒にも良いところがあります。いけない所を直すには、しっかりと相手にわかる言葉で、きっちり叱ることも大切です。悪い所は叱らなければなりません。しかし、その時叱る理由を明確にすること。同時にその叱られたことが直せれば、君がどんなに素晴らしく輝いて見えるかを、しっかり伝えることが必要です。叱ることはほめることでもあります。そして、叱るところ、ここ直したらというのは、必ず1点に絞ることです。あれもこれも、まとめて叱るのは最悪です。アブハチとらずの例え通り、何の効果もありません。二つも三つものことを同時進行で進められる人は、そうは多くありません。まして成長途上の学習者を叱るのです。それは彼ら彼女らの可能性を広げるためです。いくつも弱点や欠点があっても、一つ直ったら、ほめて激励してまた次の一つと、時間をかけて一つづつ。結果的に、これが最も短い時間に効果をあげるコツなのです。あせらず、時間をかけて、生徒同士にも考えていけるように、一段一段階段を上がれる先生が、私は良い先生だと考えています。学習指導でもそうです。英語と数学の成績が不振だった生徒に、両方頑張れというのでは、何も言わないのと同じです。頑張れと言われて頑張れるなら、とっくに成績は上がっているでしょう。ここも同時にではなく、どちらか一つ一つです。本人が頑張れそうだと思う方から、或いは本人の将来の希望からすると、必要になりそうだと思える方から、取り組むことが必要です。同時には、先ず失敗に終わります。要するに、様々なポイントで生徒・児童の目線から、子ども達がこれならできそうかなと、思える地点から、常に出発できる先生を、そういう面で熱心な先生を、増やして行きたいと私は考えています。そして、熱心さのあまり、理想に走りすぎるダメな先生を、じっくり話し合いに引き込むことで、自分の大きな欠陥の改造に取り組む方向に持っていけたら良いなぁとも、考えるこの頃です。長い間、有難うございました。 完
2008.11.17
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クロニクル 公明党旗揚げ1964(昭和39)年11月17日東京五輪が終了して、まだ1カ月立たないこの日、公明党の結党大会が開かれました。言わずと知れた創価学会を母体とした政党です。創価学会は1959年の参院選に6名の候補を立てて、全員当選を果たし、3年後の62年参院選には、政治団体として公明政治連盟を組織し、9人の候補を立てて、またまた全員を当選させるなど、侮りがたい実力を示していました。そして遂に衆議院への進出の意志を固め、この日公明党を結成するに至ったのです。初代の委員長には原島宏治氏、書記長には北条浩氏が就任しました。結党後最初の衆院選は、67年1月に行われ、公明党は25名を当選させ、30人当選の民社党に続く、第4位の政党となったのでした。
2008.11.17
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学級の誕生(119)教育改革は遅々として進まずの状況にありますが、日々教育事業は続けられています。そして、これまた何度も書いてきたことですが、若い児童・生徒・学生たちは、誰もが次の時代の担い手です。次代の担い手にしっかりした教育を受けてもらい、明日の日本と世界を担ってもらいたい。誰もが考えることだと思います。教育改革が進まないなら、次善の策として、少しでも若者達が現在受けている教育に対する満足度をあげていくことが求められます。そのために何が出来るか。皆さんも一緒に考えてください。ご自身の学校生活を振り返って覚えていること。世話になったなと思っている先生。つまらなかった授業と楽しかった授業。印象深かったことなど。振り返ってみて、どんなことを思い出されますか。忘れていることが多い中で、しっかり覚えていることの一つに、波長のあった先生のこと、授業が面白くて新鮮な驚きや発見がちりばめられていた授業や先生のこと。熱心に参加して達成感のあった行事のことなどが、浮かんできませんか。全体の制度設計が、どんなに問題を含んでいたとしても、授業という時間をとれば、今でも教師は、一国一城の主です。この一国一城の主が、日々研鑽を積むことで、生徒にとって分りやすく、新鮮な驚きや発見のある授業を展開してくれたら、子ども達や若者達の学校生活は充実度を増してきます。そうなんです。大変月並みなことになるのですが、現在の日本の教育を良くする道は、一人ひとりの教師の努力にかかっている。個々の教師がどのように児童、生徒、学生と向き合い、授業の受けての精神を揺さぶるような授業が展開できるか。この点にかかっていると、私は考えます。ここまで書いてきたことで、皆さんも薄々感ずいておらえると思いますので、ここで私の正体を明かしますと、私の社会人としてのスタートは、ある私立の女子高で社会科を講ずるところから始まり、やがて大学の史学科に移籍し、そこからさらに教職課程の担当に移してもらって今日に至っています。何故移ったか。総合的には大きなそして多くの問題を抱えている日本の教育を良くしていくには、現状児童・生徒と波長の合う先生を増やすことだと考えるからです。こう考えるが故に、私は大学教員としての、晩年の仕事を教員の卵の学生たちや、現場の先生方との学びあいに、限定したのです。1人でも多くの若者が、質の良い、良い教員を目指してくれたら、そしてそういう志を持った若い先生達が、潰れず、潰されずに頑張っていける環境を作るために、僅かでも協力することが出来るならと、各地での教育研究集会のお手伝いなどもさせていただいたりもしています。熱心で、児童・生徒と目線を合わせることが出来る先生が増えれば、生徒の意欲も膨らんで行きます。それが狙いでもあります。しかし、現実はどうなのか。教職課程を受講する4年生は、5月末から6月にかけて、2~3週間の教育実習に出かけます。そのときに教員室の雰囲気を良く見てくるように、アドヴァイスをします。戻って報告に来る学生たちの話を総合すると、熱心で生徒思いの先生や、生徒のことが良く分かっているように思える先生。投げやりで授業に熱心とはいえない先生。その中間の先生がいるように感じたと報告してきます。そして、これは学生から聞き出すことなのですが、管理職が教育委員会の方ばかり向いて、教員管理に精を出し、教員会の意見をしっかり聞こうとしない学校と、校長が教員会の意見を尊重している学校では、教員層の意欲に大きな差が出ていることも、間違いはないようなのです。そこで、皆さんへのお願いです。私は教員養成の現場で、可能な限り良い先生を育てることに注力し、かつそうした先生の卵が、1人でも多く教員試験に通るように彼ら彼女らを激励し続けます。皆さんには、地域の住民として、そしてまた父母や祖父母として、地域の小・中・高で頑張っている先生達が、管理職や同僚に足を引かれたり、見当違いな父母の要求に潰されることがないよう、可能な範囲で学校の様子を見てやって欲しいのです。学校行事に顔を出して、校長や副校長を捕まえては、期待する教育のあり方などを、ぶつけていただけると、結構プレッシャーになりますし、意外に効果は大きいのですよ。では、良い先生とはどういう先生なのか。今日で終わる予定が1日伸びてしまいましたが、最後の最後に、明日その点を記して、終わりとしたいと思います。 続く
2008.11.16
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クロニクル 盧泰愚前大統領逮捕1995(平成7)年11月16日13年前のこの日、韓国最高検は、盧泰愚前大統領を、30財閥からの収賄容疑で逮捕しました。隣国の韓国、政治と検察との癒着などなく、検察は恐れ気もなく政治家、それも前最高権力者の犯罪を、しっかりと暴くことに感心させられます。日本では、首相の犯罪が暴かれたのは、ロッキード事件の1件だけです。それも日本の検察が暴いたのではなく、アメリカからの資料に頼っての他力本願の沿捜査でした。翻って韓国では、全斗煥元大統領も退任後に獄に下っており、権力者の犯罪をきちんと裁こうという姿勢が、しっかり根付いている点で、日本よりも進んだ民主主義が定着しつつあるように感じられます。隣国の良いところをしっかり見ることも、大切なように感じます。
2008.11.16
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学級の誕生(118) まとまりの悪い文章を綴ってきましたが、ずっとお付き合いくださって有難うございました。では、日本の教育はどうしたらよいのか。何度も書きましたように、教育改革国民会議だとか、教育再生会議だとか、或いは半ば常設の機関と化した感のある中央教育審議会(文相の諮問機関)と言った、社会の各方面の成功者を集めた教育会議に、期待することは出来ません。各自が夫々の成功体験を持ち、教育に関する一家言を持っています。それも夫々が自分の教育論に自信を持っているからです。一方で成功者たるもの、そのくらいの気概は持っていてもらわないと困る面もあります。それゆえ、こうした成功者がぶつかり合って、口角泡を飛ばした議論を重ねて、まとまったものというのは、異なる意見の最大公約数を辛うじて救い上げた程度のものに留まってしまうのです。それでも、それは成功者の提言です。しかし、考えてみてください。教育改革で最も大切なのは、底辺層と、児童・生徒の多数派である平均レヴェルの子ども達の底上げです。この点も途中で指摘しましたが、中間層というか平均レヴェルの国民の水準がどのくらいかによって、国家の力量は決まってくるのです。なぜなら、この人たちが圧倒的な厚味を持った社会の多数派だからです。教育改革が徴すべきなのは、社会の成功者の見解ではなく、中間層や底辺層の教育への思いであるべきだと私は思います。自らが苦労し、苦い思いを抱いているだけに、こうした人たちの目線は、授業が面白くなかったり、授業についていけない生徒達への励ましとなる温かさを持っているように思えるからです。このことも、何度も記してきましたが、大事なのは、底辺層を見捨てず、中間層を励まして、平均レヴェルを底上げすることです。しかし、こうした層の声を掬いあげることは、現在の政府・文科省、そして教育委員会などの姿勢では、期待できないことです。ですから、現在の日本で、先行きが期待できるような教育改革が歩み始める可能性は、ほとんどゼロに近いと言わざるをえません。では何もしないのか。しないで良いのかというと、それは私の大嫌いな敗北主義でしかありません。何のために120回近くも、このシリーズを続けてきたのかも分らなくなります。そこで、私なりに今心がけていること、そして皆さんにも出来れば協力していただきたいことを、最後に記して、長かったこのシリーズを閉じたいと思います。明日記そうと思います。 続く
2008.11.15
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クロニクル 保守合同なる1955(昭和30)年11月15日53年前のこの日、自由党と民主党がが合併して、自由民主党が誕生し、保守合同が実現しました。同年10月13日には、分裂していた右派社会党と左派社会党が、労農党をも加えて合併し、日本社会党が誕生していました。この社会党が憲法擁護を党是に掲げていたところから、改憲を目指す勢力が、保守合同を仕掛け、鳩山一郎民主党総裁の密命を受けた三木武吉らと、緒方竹虎自由党総裁の意を受けた大野伴睦らが話をつめ、この日の統一大会に漕ぎ着けたのでした。ここに55年体制が幕を上げたのです。ただし、当分の間総裁は空席とし、総裁決定まで鳩山・緒方・三木・大野の4人による代行委員制をとることになりました。次期総裁を緒方とすることで、二つのグループが手を打ち、鳩山一郎初代総裁が誕生するのは、翌年4月5日のことでした。鳩山総裁の任期中に緒方副総裁が急死したため、この約束は陽の目を見ずに終わってしまいました。
2008.11.15
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学級の誕生(117) 大学に入学した学生が、途端に燃え尽き症候群に陥って、次なる目標を見出しえずに、サークルやバイトに精を出してしまう姿は、良く見かけます。これには大学入学を目標に周囲からも尻を叩かれ、自らもわが身を叱咤してきた事情が、大きく関わっていることは事実です。それに、もう一つの事情が加わります。小・中・高の学校生活は、特に授業時間の生活は、その多くが学級という枠の中での生活でした。ですから、試験だ成績だという時の競争相手は、大抵の場合クラスメイトでした。クラスと言う日常的に顔を合わせているメンバー、顔の見える相手が競争の対象でした。ですから、あいつに負けてなるかという時のあいつとは、顔の見えない相手ではなく、良く見知ったあの顔、この顔でした。ライバルが身近にいる。それは直接的で具体的な発奮材料でした。私は、こうした成績競争にさほどの意味を認めないのですが(学習は、何を身につけたか、何が理解できるようになったか、そして学んだことを生かすことで何が出来るようなったかが、大切だと考えるからです)、それでも多くの場合、こうしたことが学習のモチーフになっていたことは事実です。しかし、大学には形式的で便宜的な学級しかありません。生活共同体としての学級は存在しないのです。学級は、強制的に割り当てられている語学、それも全員必修の第一外国語の時間程度しか、使わず、学活もショートホームルームもありません。こうした状態では、さぁ試験だ、さぁ勉強だと自分を鼓舞しようと思っても、対象として思い描こうとするライバルの姿は、浮かんでこないのです。そこでは、自らを鼓舞することも、間々ならないのです。仲間との競争心を煽ることを、学習の動機付けにしよう。受験を動機付けにしようという、教師側や世間の試みは、高等教育の場である大学という学びの最終コーナーにおいて、学びの意欲を喪失してしまった大量の若者を生み出すという、大きな失敗に帰結しているのです。そして、こうした若者を学生として受け入れた大学の側も、学びの意欲を失いがちな学生に対し、その意欲を取り戻させるような直接・間接の働きかけが十分出来ないでいる。これは大きな社会的損失であると言わざるを得ないと、私は受け止めています。 続く
2008.11.14
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クロニクル 最初の幼稚園開設1876(明治9)年11月14日この日、東京女子師範学校(現在の御茶ノ水女子大学)に付属幼稚園が開設され、2歳から6歳までの幼児の保育が始まりました。これが日本における近代幼稚園並びに、近代的幼児教育の始まりでした。132年前のことですから、幼児教育も児童教育に負けない歴史を持っていると言えそうですね。
2008.11.14
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学級の誕生(116) 回数を見て、自分でも驚いていますが、1カ月程度の連載のつもりが、随分と長く綴っていました。学級システムに潜む問題を考えようとはじめた連載が、いつの間にか、現下の教育問題を辿る形になりました。詰め込み教育からの脱却を目指し始めた頃からの教育改革は、いずれもうまく行っておりません。「船頭多くして船山に登る」の例え通りになってしまっています。日本が豊かになるに連れて、高等教育の普及が進み、高学歴の親御さんが増え、父母の教育要求が非常に強くなっていることが、この現象に環をかけています。しかも、その要求は、少しでも偏差値の高い大学へという、受験教育への傾斜を求めるものが大半です。少子化で大学入学は広き門となった。しかし、そうはなっても、有名大学の入試は、なおそれなりに狭き門です。そのため、受験競争は一向に改善されないままです。実は、日本の教育の最大の癌は、この受験教育と、その後の大学生活にあります。本来の高等教育のあり方からすれば、入学は広き門で、卒業は狭き門であってしかるべきですが、現実は逆になっています。入学は狭き門ですが、卒業はベルトコンベアーのように、すいすいと行ってしまうのです。一応の関門はありますが、その門は極めて低いのです。辛い受験を潜り抜けた学生は、ほっと気抜けし、まるで入学を果たすことが最終目的であったかのように、そこで目標を失い虚脱感を味わいます。このとき、入学式やその後の授業が厳しければ、改めて学生たちは、目を覚まさざるを得なくなるのですが、今の大学は一流校から三流校まで含めて、どこもぬるま湯的な講義が殆どです。そしてそのまま卒業できてしまうのです。これでは、学生の目覚めは期待できません。旧制時代の高から大への進学が、殆ど無試験状態だったことは以前にお話しました。しかも進学者は、ごく少数の限られたエリートしか、進学しなかった時代でしたから、学生たちは放っておいても、自ら良く勉強しました。尻を叩いて勉強させることなど、全く必要なかったのです。大学教員には、この時代の幻想が色濃く残っていましたから、手取り足取り学生を教育しなければならないことに気づくのは、大幅に遅れました。こうして、さほどの努力をしなくても、そこそこの成績で卒業できる大学という姿が定着したのです。気の善い日本人の多くは、中・高生の理科や数学、英語などの成績順位を問題にしているようですが、同じテストを、大学3,4年生に課してみると、おそらく目を覆うような悲惨な成績になっているでしょう。日本の大学生は、おそらく世界で最も不勉強な大学生であるように思えます。言うまでもなく大学は学びの場です。学ぶことに精一杯で、サークル活動やアルバイトをすることすら出来ない。したい場合は6~7時間の睡眠時間を数時間削ってそこに入れるしかない。これが世界の平均的な大学生の姿です。大学図書館の混雑振りや、利用状況を調べると、違いはイッパツで分ります。アメリカの大学図書館は、24時間開いています。午前3時でも、ほとんど満席に近い状態で、学生は懸命に本を読み、調べ、ノートに書き込むことに必死になっています。ドイツやフランスの大学も殆ど同じです。我々の時代と違い、昨今は大学図書館も夜9時とか10時までは、開いているようになりましたが、内部は閑散として数人の学生しかいないのが現実です。試験直前の時期を除いて…。どの大学に入るかではなく、大学で何を学び、何を身につけるか。親御さんや本人達は、先ずこの点を考えるべきなのです。入れたから良し。後は何をしていいか分らないので、サークルとバイトに精を出す。それでも卒業できる大学なんて、まさに授業料泥棒そのものでしょう。怒るべきは先ずここのはずなのですが… 続く
2008.11.13
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クロニクル あさひ銀行発足序曲1990(平成2)年11月13日この日、協和銀行と埼玉銀行は、翌年4月1日を期して合併する旨を発表しました。実際に翌1991年4月1日に協和埼玉銀行となり、さらに92年9月1日には、あさひ銀行と行名を変更しました。その後、バブル崩壊後の金融危機の中で、あさひ銀行の経営も悪化、同じく経営の悪化していた大和銀行と、2003(平成15)年3月に合併し、りそな銀行グループとなり、5月にはおよそ2兆円の公的資金の注入を受けたことは、良く知られている通りです。
2008.11.13
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学級の誕生(115) 全国一斉学力テストの問題点を指摘してきたのですが、最後に次の点を指摘しておきたいと思います。前にも指摘しましたが、文科省は一斉学テ実施の狙いを、「一定水準以上の学力をくまなく維持できているかを見るには、学校ごとの現状把握が必要だ」と述べています。しかし、この点については、皆さんも新聞等でご承知だと思いますが、日本が参加している国際的な学力調査で、すでに明らかにされているのです。OECDの実施するPISA調査に3回、IEAの調査にも4回参加して、その詳しい分析結果も発表されています。そこでは、共に「記憶力、暗記力を問う問題での正答率は良好であるが、理解力を問うたり、自ら考える問題の正答率は問題なしとは言えない」と分析されているのです。また抽出調査として、文科省自身が2001年以降、小・中・高で「教育課程実施状況調査」を数度にわたって実施しているのです。また自治体レヴェルでも、かなりの自治体が独自の学力調査を実施しています(2007年度時点の集計で、市区段階では39%、町村レヴェルでは25%が実施中)。そして、そうした学力テストの結果については、東京都(都立高校について)や足立区(小・中学校)のように、各学校の得点や順位を発表してしまっている自治体すら出ているのです。子のような状況が、すでに存在している中で、さらに全国一斉の悉皆学力調査を、高額の費用をかけてまで、実施する必要がどこにあるのでしょうか。そこまでして全国レヴェルで、学校を序列化する必要があるのでしょうか。それは教育の荒廃しか生まないだろうと私は考えます。狙いは『学力向上」を錦の御旗にして、国家の意に添うような、中央集権的な教育体制の確立することなのでしょう。そこに「愛国心」の強調がオーバーラップしませんか。その先に待つものは、いつか来た道でしかないように思われてなりません。子ども達を戦争の道に迷い込ませることのないよう、今こ我々がしっかりしなければならない時が来ているようですね。 続く
2008.11.12
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クロニクル 拘禁中のワレサ議長釈放1982(昭和57)年11月12日ポーランドのグダニスクの造船所で、大規模な造船労働者のストライキが始まったのは、1980(昭和55)年の8月14日のことでした。日本では衆院選挙の最中に心臓発作で倒れた大平首相が、闘病の甲斐なく亡くなられたのが、同じ年の6月12日のことでした。このグダニスクのストライキから、自主管理労組「連帯」の構想が生まれ、ワレサ委員長が誕生したのは、スト発生から40日後の9月22日のことでした。やがて、耳慣れなかった自主管理労組「連帯」という言葉と、ワレサ委員長の名は、連日世界中に発信されるようになり、議長は一躍時の人となりました。ワレサ氏が、総評の招きで来日し、日本各地で歓迎されたのは、翌年1981(昭和56)年の5月10日のことでした。しかし、「連帯」への労働者層の支持が広まり、深まるに連れて,ポーランド政府は次第に「連帯」への警戒心を深め、同年12月13日、遂に戒厳令を発して、ワレサ議長を軟禁するに至ったのです。すわ、68年のプラハの春同様、ポーランドは冬の時代に逆戻りするのではないかと。大いに心配したものでしたが、連帯の運動は粘り強く続けられ、根負けしたポーランド政府は、26年前のこの日、拘禁していたワレサ議長を釈放したのです。時あたかも、この2日前には1964年10月のクーデタで権力を獲得してから、26年間書記長の座にあり続けたブレジネフ書記長が亡くなり、この日は丁度アンドロプフ新書記長が誕生した日でもありました。
2008.11.12
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学級の誕生(114) それでは学力テストが、教育の質向上に役立っているかどうかを、見てみましょう。学テは、小学校6年生と中学校3年生を対象に昨年と今年の4月に行われました。受験者は、両年ともほぼ全員に近い児童・生徒が受験しています(参加を見送ったのは、愛知県犬山市の教委のみでした)。その数230万人強。大学入試センター試験の受験者が、およそ50~55万人程度ですから、その4倍を超える人数になります。問題と解答用紙を詰めて全国に発想するダンボールの数は、およそ10万箱に達するそうです。概略の総経費は2007年度分で77億円に達しています(2007年度予算の決算で確定済み)。この費用に見合う成果は期待できるのでしょうか。テストは4月に実施しても、これだけの数の答案を精査して採点し、出題毎の得点分布などを確かめて、一定の結論、分析を含めて、市町村や各学校に報告が届くのは、2学期半ばの10月中旬です。とりわけ、進学希望の全員が高校受験の準備をしなければならない中学3年生にとっては、卒業も近づき、受験準備に心せく頃合いになっています。教師にとっても、テスト結果に参考になる面があったとしても、この時期に至って、年間の授業計画やそれまでの授業の方法を、大きく変えることなど、とてものことに出来ることではありません。テストで明らかになった問題点は、解決されることなく生徒達は卒業していくのです。次の年の生徒はどうか。こちらはテスト対策教育を受けることになるのです。学テの問題は、知識の定着度を見る問題と、知識の活用能力を見る問題がバランスされていますが、都道府県や市町村単位で、或いは学校単位で成績上位県(地域・学校)争いが起きるとなると、テストの事前準備教育に花が咲くことになります。どんなテスト、どのような問題であろうと、事前準備の効果(トレーニング効果と言います)があるのは、周知の事実ですから、学力テスト準備教育は年を追って盛んになり、教育効果をゆがめていくことになるのです。すでにして、今年広島県の北広島町教委は、傘下の全小・中学校に想定問答集を配布して、事前準備をさせていました。東京都足立区では、区の学テですが、巡回中の先生が、生徒に誤答を気づかせるという不正行為があったことが、明らかにされています、こうした競争は、決して学力の向上に結びつかないことは、受験競争の結果がどうなっているかを見れば、おのずから明らかです。それなのに、いつか失敗した道を、再び歩もうとする愚が罷り通っているのが現状です。先週NHKテレビで教育現場の問題がクローズアップされていました。地方自治体の財政難が義務教育費の切り詰めに皺寄せされ、専任教員の数が減らされ、非常勤教員が増えているため、専任教員の負担が限界を超えていること、ある学校では、最も非常勤教員の見つけにくい理科の講師が見つからず、数ヶ月に渡って理科の授業が行われていないことなどが、報道されておりました。国家財政の窮状から、財務省が編み出した地方移管の名の下に、地方への税の配分が抑制されたために、地方財政が窮屈になっていることの皺寄せが現れているのですが、一方では、さしたる効果の期待できない全国一斉学力テストを悉皆調査で行うためには、ポンと77億円が付けられているのです。この費用を教員数の確保に振り返るだけで、先週のNHK番組が報じた問題点は、完全に解決できるのです。全く、もったいない話ですね。 続く
2008.11.11
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クロニクル 逗子市長選富野氏初当選1984(昭和59)年11月11日24年前になるのですね。当時横須賀基地を根拠地とするようになった米海兵隊員用の米軍住宅を、適当なまとまった敷地がないからと、逗子市の池子の森の一部を開発して、米軍住宅を建設する話が持ち上がり、逗子市民や隣接する葉山町民らを中心とする反対運動が盛り上がっておりました。反対派住民は、計画推進の立場を変えない当時の市長のリコール請求を行い、見事に市長のリコールに成功します。そうして、この日迎えた出直し市長戦で、住宅建設反対派の富野暉一郎氏が当選。池子住宅建設問題は白紙に戻り、一から再検討されることになりました。その後、池子の住宅建設は、予算の配分で地方自治体の首根っこを押さえている中央政府の力は大きく、その後の池子住宅文問題は、規模を縮小して実行に移されたのでした。
2008.11.11
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クロニクル 元は2600年の祭典1940(昭和15)年11月10日「日中戦争は蒋介石の謀略によるもので、日本は被害者であり、侵略戦争ではない。」と、どうやら本気で信じている人物が、自衛隊の幹部にいましたね。おそらく隊内部では周知の事実だったのでしょうから、こうした人物を平気でトップに持ってくる体質を、自衛隊という組織は色濃く持っているのでしょうね。シビリアンコントロールの観点からいうと、大きな問題がありますが、今の政府にこれを根本から正す力はなさそうですね。退職金という抹消の問題に飛びついて、本質の議論を忘れてしまうマスコミにもあきれますね。彼の歴史理解の欠陥は明らかですし、歴史教育は、歴史のプラス面のみでなく、負の面もまた目をそらすことなく、誠実に描写し、正確に教えることで、先祖、先輩の負の遺産をも、きちんと背負ってくれる次代の担い手を養成することが仕事ですから、彼のような事実に基づかない歴史理解を、今後も批判しつくしていく必要があるようです。しかし、いまだに彼のような史実を捻じ曲げた歴史解釈を、正しいと信じてる人物が、日本にはまだまだ残っているのですね。困ったことですが…さて、1940年のことですから、68年前になります。時あたかも日中戦争が政府の度重なる不拡大方針の表明にも関わらず、統帥権の独立を楯にとった軍部の横車が幅を利かせて、拡大の一途を続けている時期でした。そうした中を、この日、皇居前広場を主会場として、政府主催の紀元2600年記念式典が、盛大に行われたのでした。式典には天皇・皇后両陛下を初め、皇族・首相以下の閣僚・軍人・官僚・各国大使から、全国各地からの代表者など、5万人が参加したと報じられています。盛大な祭典でした。この年、1940年は、『日本書紀』の記す神武天皇の即位日から、丁度2600年目にあたるとされ、年頭から各地で奉祝行事が相次いで行われており、重苦しい戦時下でありながら、奉祝ムードがなかば意図的に、盛り上げられていたのです。勿論神武天皇以下9代の天皇までは実在の人物でないことは、確かめられておりますので、2600年祭そのものは虚構に基づくものだったのですが…2600年記念式典は、その総仕上げでした。式典当日のこの日から、14日までの5日間、戦時下で禁止されていた神輿・山車・提灯行列などが特に許され、祭り期間は特別に昼酒も解禁されるなど、お祭り気分が大いに盛り上げられたのです。しかし、祭りの終わった15日には、大政翼賛会の名で、「祝ひ終わった、さあ働こう!」のスローガンが発表され、束の間の息抜きを楽しんだ国民は、終わりの見えない戦争への、盲目的な協力を強いられることになったのでした。
2008.11.10
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クロニクル 野茂投手新人王に1995(平成7)年11月9日13年前の今日。日本の球界に別れを告げて、海を渡り、米大リーグに敢然と挑戦し、ナショナルリーグのドジャースに入団した野茂英雄投手が、同リーグの新人王の栄冠を得ました。野茂投手は、この年、トルネード投法で、米大リーグに旋風を巻き起こし、三振奪取王に輝き、オールスターゲームにも出場(米大リーグのオールスターでは、投手は全て監督推薦。人気投票は野手のみです)、先発投手の栄誉にも輝いていましたが、日本ですでに新人王を取っており、新人とみなしてよいかどうかが、議論されていたのですが、蓋を開けてみると、記者投票で圧倒的な得票で選出されました。その野茂投手も、今年で引退しましたね。時代は移りましたが、日本の選手に大リーグ挑戦の道を開いた功績は、永遠に残りますね。今冬も何人が挑戦することになるのでしょうか。----- Original Message ----- From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, November 09, 2008 9:49 AMSubject: 9日の日記
2008.11.09
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学級の誕生(113) 学力テストの結果が、事実上周知のこととなると、どのようなことが起こるかは、すぐに想像が出来ます。県単位、市町村単位の成績序列争いが起き、親達の間では学校や地域が序列化されるでしょう。入試偏差値によって、私立学校が序列化されているのと、同じ現象がここで起きるでしょう。現に学校選択性が導入されている東京都区部などでは、すでに顕著になっているようにも見受けられます。こうなると、各学校でもテストの成績をあげようと、学校をあげての努力が続けられることになり、テスト対策中心の授業が行われることになり、本来の教育目標はどこかに置き去りにされかねません。現実に過去の一斉テストでは、成績不振児童や生徒を、テスト当日は欠席させたり、予想問題を作成しての特訓が行われたりの弊害が目立ちました。何よりもそうでなくても目立っており、日本の教育の明らかな弊害であるテスト至上主義が益々幅を利かすことになるでしょう。小・中・高のカリキュラムは、バランス重視の総合性を保っているのですが、世界史や家庭科の未履修問題で明らかになったような、受験学力偏重という総合性を無視した進学実績万能主義に陥っていました。こうしたモラルの低下による教育のゆがみが、現在の青少年や大人が抱える諸問題と無関係なはずはありません。全国一斉学力テストは、こうした傾向を助長することはあっても、削減することはありません。さらに言えば、実はテストさえ良ければそれで良い式の教師は、全国に相当数存在します。特に教科担任主義をとる中学校にはかなり存在します。こうした教師は学テ導入で益々勢いずく一方で、テスト成績よりも理解力の向上に重点を置く指導を心がける良心的な教師は、成績向上を至上命題とする学校幹部や、世間一般の親達の圧力に、悩まされることになっていくでしょう。学テは、日本の教育を悪くする方向に、より強く働くように思います。費用と効果の問題もあるのですが、その点は明日記すことにします。 続く
2008.11.08
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クロニクル ケネディ当選1960(昭和35)年11月8日日本時間5日に、民主党のオバマ候補が大統領に当選しました。47歳と史上二番目の若さでした。このオバマ新大統領を上回る43歳の若さで、大統領戦に勝利したのが、48年前のこの日に当選を決めた。同じく民主党のジョン・F・ケネディ候補でした。彼は、共和党のニクソン候補との大激戦を制して、勝利しました。彼は30歳で下院議員、36歳で上院議員となるなど、政治エリートのコースを歩き、43歳にして民主党大統領候補指名を勝ち取り、ニュー・フロンティアを掲げて厳しい選挙戦を勝ち抜いたのでした。
2008.11.08
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学級の誕生(112) 全国一斉学力テストの特徴は、同学年の全生徒を対象とした悉皆調査であることです。文科省は全数調査と呼んでいます。この悉皆調査のメリットは、学校別、地域別の成績一覧を出すことが可能になる点にあります。これは、その気になれば、学校別・地域別の成績一覧を公表し、学校間・地域間の競い合いを奨励・促進することが出来ることを意味しています。最も今のところ、文科省はそうした競い合いは好ましくないと考えているようですが、この文科省の姿勢が守られる保証はありません。各学校や教委には、全体に公表した資料に加えて、当該教委の担当地域や学校の結果が知らされていますから、教委が独自の判断で、または首長や議会の圧力によって、地域別・学校別の結果を公表する可能性が付きまとっているのです。実際に現在、県立高校への入学資料とする目的などで、大半の教委が実施している地域の共通学力テストの結果は、かなりの教委が地域別の結果を公表しています(私の居住する川崎市では、教委が区別の結果を公表しています)し、和歌山県や東京都足立区では、学校別の結果まで公表しています。また、教委や学校に提供される結果資料は、情報公開の対象になる公文書であることにも注意する必要があります。これは情報公開請求があれば、開示せざるをえなくなる可能性があるということです。実際に大阪府枚方市は、市が独自に実施した共通テストについて、1部父母から公開請求訴訟を起こされ、一審、二審共に敗訴となり、遂に2007年2月に学校別成績の開示に追い込まれています。学校選択性が施行されていますから、試験の成績を金科玉視する親達は、少しでも学テの成績の高い学校へ子どもを進学させようと、考えるでしょうから、同じことが各地で起きる可能性は高いと予測されます。夫々の教委や学校がホーム・ページなどに掲載した資料を丹念に集めて、ランキングを作成して発表するサイトや新聞・雑誌が出てくるだろうことも、予測できます。いずれにしても、全国平均に比べて高いか低いか、順位がどのくらいかなど、居住地域や自校の成績が、殆ど周知のものとなることは、避けられなくなることは、見えているように思われます。こうなると、どうなるか。悲惨な結果が眼に見えるようです。 続く
2008.11.07
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クロニクル 第2次橋本内閣成立1996(平成8)年11月7日12年前のことです。細川内閣の下で成立した小選挙区制によって、10月20日に行われた衆院選挙では、500議席のうち238議席を自由民主党が確保しました。この過半数に近い議席をバックに、この日開かれた特別国会において、社会、さきがけ両党との連立内閣を解消し、自民単独で第2次橋本内閣がスタートしました。社会、さきがけ両党が閣外協力する形でした。ここに3年3カ月ぶりに、自民党単独内閣が発足しましたが、それは短期間に終わり、小渕内閣に代わると、再び連立時代へと移って行きます。
2008.11.07
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オバマ新大統領と麻生首相アメリカの大統領選は、オバマ候補の圧勝に終わりました。一握りの金持ちを優遇し、独りよがりに西アジアから中東に戦争と混乱を齎して、世界のきらわれ者となってもなお、仲間内を優遇する政策を変えず、挙句は驕った金融機関の暴走によって生じた金融狂乱に陥って、完全に行き詰まったブッシュ政権は、オバマ候補の勝利で完全に幕を下ろされました。袋小路に陥ったブッシュ政権の下で、逃げ場のない閉塞感に悩まされていた庶民に対し、オバマ候補は正攻法で希望と理想を語り続けました。「チェンジ」と「チャレンジ」の合言葉は、まさしく、希望を失わず変革への挑戦を続けようと言う、民衆へのメッセージでした。希望・変革・挑戦は、アパルトヘイト(人種隔離政策)に苦しむ南アフリカの黒人達に対し、解放闘争を指導者、AFL(アフリカ解放機構)のマンデラ議長が、獄中から発し続けたメッセージでもありました。1990年代、マンデラ氏らのAFLは、遂に南アフリカの白人支配からの解放を実現しました。資源戦争を追い風に、今、その影響は南米を中心に世界的な広がりを見せています。こうした世界的状況の中で、オバマ氏は、久しぶりに経済的先進国に登場した、真正面から国民に希望と理想を、そして変革への挑戦を説く指導者でした。民衆は目先の利益誘導で、票を得ようとするマケインではなく、愚直に希望と理想を語るオバマに票を投じた。これがオバマ大勝の大きな要素の一つであると、私は考えます。米国は良いリーダーを選んだと、思います。彼にどれだけのことが出来るか。道は険しいと思いますし。彼の中低所得者中心の減税というプランは、1歩間違えるとバラマキになり兼ねない危険を持っていると思いますが…翻って麻生プランを見てみましょう。2兆円の国民給付、これは10年前の小渕内閣の「地域振興券」配りと同じ、バラマキに過ぎません。まさに金を配って票に結び付けようという魂胆が見え見えです。それほどの消費の拡大に繋がらないことは、地域振興券が十分に示しています。不況の深刻化で失業が増え、月々の給与が下がっている時に、そして不況からの脱出法が、まだ見えていない時に、誰が消費を増やしますか。限界消費者以外は、おそらく不時の出費に備えた貯金に回るでしょう。そして、金融機関への公的資本の注入です。貸し渋りで金詰りの企業が、中小企業中心に増えているからと言います。しかし、メガバンクは、前回の公的資金投入後、貸し出しを大きく伸ばした事実はないのです。建設や不動産への融資も絞ったままでした。安全に安全にと、余剰資金は国債の購入に当ててきたのです。ですから、日本が経済先進国の中では、記録的な借金大国でありながらも、低利で国債を発行し続けることが出来ているのです。今年倒産が増えているのはなぜか。それは、メガバンクが貸さず、地方銀行も二の足を踏んだ危険な企業への貸し出しを、外資系金融機関は、高い利息を設定することで、次々に実行していたことにあります。彼らはそうした貸付をすぐに証券化して、CDOなどに仕立て、CDSという保険をかけることで、高い格付けを得て、証券会社等に売り払っていたからです。不良債権化の危険は、CDOを買った投資家とCDSを引き受けた会社が負ってくれるから、兵器で貸し出しを増やせたのです。昨夏以降に起きた事態は、このビジネスの破綻が引き金でした。そして外資系金融機関の多くは破綻した。国内の銀行に相手にされず、外資系を頼った企業が、今悲鳴を上げている。そしてそこに混じって、財務状態が悪く野村以下の日本の証券会社からは、起債に応じてもらえなかった川崎市や横浜市、大阪府などといった自治体もまた、外資系証券頼みの起債が破綻して行き詰まっているという、笑えないおまけもついています。でも、メガバンクや優良地銀は、公的資金の注入を受けても、危険な貸し出しを増やすことはないでしょう。何故やるのか、最近話題の農協や一部地銀の救済が目的です。貸し出しに回らない預金で、高利運用を狙って、外国債券やCDOなどを大量に買い持ちしていたところが、危なくなっているのです。そこを救うのを目立たなくするために、全金融機関にと言っているのです。実に姑息です。要は麻生流は、まさにブッシュやマケイン流の利益誘導のバラマキ策です。そこに希望や理想を目指しての、変革への挑戦の思想はありません。対抗馬の小沢民主党にも、そうした挑戦者としての、強い意志は感じられません。日本はどこへ行こうというのでしょうか。信念で国民に働きかける政治家の登場が待たれますね。これじゃ若者も希望は持てないでしょうね。
2008.11.06
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クロニクル 共和党ニクソン、米大統領に1968(昭和43)年11月6日4日に行われた大統領選挙で、民主党のオバマ候補が圧勝した余韻が、まだ醒めませんね。11月の第1週は、4年に1回大統領選挙が行なわれわれます。40年前の選挙では、共和党のニクソン候補が勝利し、大統領の椅子を射止めました。ニクソン候補は、4日のブログに記したアイゼンハワー大統領の下で、副大統領を勤め、1960年にも共和党の大統領候補に指名されましたが、接線の末民主党のケネディ候補に破れた人物です。苦節8年ニュー・ニクソンを掲げて選挙戦を戦い、泥沼化したヴェトナム戦争への米国民の厭戦気分にも助けられて、8年前の借りを見事に返したのです。
2008.11.06
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学級の誕生(111) 全国一斉学力テストを考えて見ましょう。文部科学省は調査の目的は「児童・生徒の学力・学習状況を把握・分析し、義務教育の機会均等と水準向上に役立てる。」ことと、「各教育委員会、学校などが全国的な状況との関係において、自らの教育の結果を把握し、教育の改善を図る」ことにあると、説明しています。しかし、前者であるならば、全国の小学校6年生、中学校3年生全員を対象とした一斉調査の必要はありません。適切な規模と計画さえあれば、サンプル調査で十分に事足ります。さまざまな統計学の手法が、サンプル調査の有効性を証明しているのですから…。マスコミの選挙の事前調査が、かなりの確率であたっていることが参考になりますね。また後者については、これは義務教育段階では、あまり意味がないように思います。例えば、学習指導要領もなく、各都道府県がバラバラの義務教育を課しているとでも言うなら、話は違ってきますが…。 むしろ、他県・他校との比較を強調してしまうと、テスト学力重視の傾向を助長し、地域間・学校間の歪んだ競争を促進する、弊害の方が大きくなるように思います。事実、学力調査の結果を発表する、或いは発表しろなどという、次元の低い競争意識が、東京や大阪などを中心に、すでに出てきています。 続く
2008.11.05
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クロニクル こんにちはパンダさん 1972(昭和47)年11月5日36年前のこの日、上野動物園でパンダが公開されました。ご存知のランランとカンカンです。2頭のパンダは、この年9月に田中角栄首相が中国を訪問、日中間の懸案を解決して中国との国交を回復したことを記念して、周恩来首相の肝いりで、日中間の平和と友好の証として、日本に贈られたものでした。上野動物園では、冷暖房完備の専属のパンダ舎を建設。飼育担当者を中国へ派遣するなど、事前準備を続け、VIP待遇でパンダを迎え入れたのでした。この日の上野動物園では、早くからパンダを見たい人の行列が出来、大変な盛況でした。
2008.11.05
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