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原爆投下その後 その4その後の朝鮮戦争は、38度線のラインで膠着し、52年の後半からは、大規模な戦闘は行われず、小競り合いに終始するようになります。この52年は、4年に一度の大統領選挙の年であり、共和党の大統領候補に担ぎ上げられたアイゼンハワーが、トルーマン後継の民主党候補スティブンソンを大差で破り、当選します。就任後のアイゼンハワーは、朝鮮戦争の幕引きを急ぎ、53年7月朝鮮休戦協定を締結。3年1か月に及んだ長い戦争に終止符を打ちました。朝鮮国民が、南北に分かれて、同胞同士が殺しあう戦闘を始めたとしても、双方の国力を考えれば、両者ともに長期の戦争に耐えうる経済的実力など持っているはずもなく、長期戦はまさに、米ソ両国による支援に頼り切って、米ソ両国からのカンフル注射によって続けさせられたものでした。それはまさしく米ソの代理戦争そのものでした。なお、この朝鮮戦争の最大の受益者は、日本でした。経済面では、半島に進出した米軍が必要とする物資を提供する工業力を持つ国は、当時の東南アジアには日本しかなく、遠く離れた米国本土から、高い輸送費と時間をかけるより、ずっと効率的でしかも安価である日本への発注が続いたのです。有名な朝鮮特需でした。ここに日本経済の復興は軌道に乗ることになりました。さらに、政治的には、朝鮮戦争中の1951年秋にサンフランシスコで対日講和条約が調印され、52年4月28日をもって、GHQによる対日戦両派終止符を打ち、日本の独立が達成されたことも、朝鮮戦争の恩恵でした。昨日記しましたが、韓国軍の釜山防衛が行き詰まりを見せている折に、米本国から救援軍を送っていたのでは、時間的に間に合わないと、対日占領軍の半分を半島に送り込むことで、韓国の陥落を防ぐことが出来た事実が、決定打となったのです。GHQにはソ連も発言権を持ち、他にも参加国があります。ここは日本の独立を認め、その日本と軍事協定を結んで米軍の駐留を認めさせれば、米軍の行動の自由派は、より大きくなるのです。これがべいこくにとって、日本を早期に独立させることのメリットでした。 植民地として支配した国の不幸を踏み台として、日本は今日の基礎を築いたのです。勿論その独立は、片面興和とも呼ばれたごとく、対日戦争の参戦国すべてと結ばれたものではなく、一部の国々との講和は、後に残されたのですが、朝鮮戦争後も米国は、強硬派のニクソン副大統領とダレス国務長官とのコンビで、社会主義封じ込め政策を推進し、今以上に社会主義国が増えることのないよう、世界の警察を気取っておりました。そんな米国にとっての次の危機は、フランスの植民地からの独立闘争を推進していたヴェトナムでした。朝鮮戦争が休戦に至った1953年、フランス軍は、ヴェトミン軍にディエンビエンフーに包囲される寸前にありました。米国では、ニクソンやダレス、それに一部軍部が、アイゼンハワー大統領に、ヴェトナムでの原子爆弾の使用を強く進言したのです。しかし、ノルマンディ上陸作戦を指揮し、その後のドイツ軍追撃戦を指揮したアイゼンハワーは、戦争の拡大に強く反対し、原爆の使用を明確に拒否したのです。ここでも原爆は使用されませんでした。 続く
2020.08.31
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原爆投下その後 その3国連軍という名の米軍の投入で、形勢を挽回した「南」の部隊は、9月末までに、38度線を回復するに至ります。勢いに乗ったマッカーサーと李承晩韓国大統領は、韓国による朝鮮半島統一を図ろうと、さらなる北進を目指して、38度線を越えて進撃を続けます。10月1日、38度線を越えて進撃を開始した米韓連合軍は、後退する北朝鮮軍を追撃、20日には中朝国境を流れる鴨緑江に達しました。トルーマンは、米国による朝鮮半島の統一を、ソ連が黙認することはありえず、建国間もない中国も、黙っていないだろうと考え、中ソ両国を刺激しすぎないよう指示を出していたのですが、マッカーサーも李承晩もそんな警告を無視して、中ソ両軍の動きを偵察程度と軽視していたのです。中ソ両国の間では、スターリンの使者が頻繁に北京の毛沢東のもとに飛び、ソ連の直接介入は米ソの激突となって核戦争となる第3次世界大戦を招く結果につながるので、これを避けたい、軍需物資は必要なだけ提供するので、中国軍を派遣して北朝鮮軍を支援してほしいと伝えたのです。毛沢東や周恩来は、この要請を受け入れました。彼らは、誕生したばかりの中華人民共和国を守るには、台湾海峡からの大陸侵攻への警戒に集中できることが必要で、朝鮮半島からの侵攻可能性の芽は、摘んでおかねばならないと考えたのです。ただ、中国正規軍の派遣では、米国に中国攻撃の口実を与えかねないと、正規軍の兵士を1回除隊させ、民間人の義勇兵という資格の部隊を派遣するという手続きをとったのです。10月15日頃から、中国義勇軍は、夜陰に紛れて山岳地帯を通って、米軍偵察機が警戒する日中は山中で休息する形で、大軍の移動を上手にカムモフラージュして、10月25日には、一斉攻勢でる準備を整えたのです。米韓軍は、10月20日平壌を占領、勢いのままに中朝国境の鴨緑江に迫ったのですが、この時点から中国義勇軍の強力な反撃にあい、次第に劣勢に陥ります。中国軍の第1次攻勢は11月5日で終了しますが、第2次攻勢は11月25日から始まり、怒涛の進撃が始まります。12月5日には、平壌の奪回に成功し、51年1月4日には、ソウルを再度占領するに至ります。劣勢を強いられた米軍と米国政府の間で、朝鮮半島での核兵器の使用が検討されたのは、この時期になります。広島・長崎への投下から約5年半。水素爆弾の威力は、日本へ投下された二つの原爆よりも何百倍もに達します。一方で、核兵器の開発は、戦術核という名で、より小型化した核兵器も開発しており、核兵器の効力をより限定的として、被害を小さく見せることで、核兵器の使用に対する国際的非難をかわそうというもしていたのです。国際的な原水爆禁止運動が大きな盛り上がりを見せるのは、まだ先の話ですが、広島と長崎の被害の大きさと、その非人道性については、戦後に続々と来日し、広島・長崎に入った報道写真家の皆さんの努力で、広く知れ渡るようになっていたのです。そんな状況が、小型化した戦術核を産み、そうまでして核兵器を使おうという大国の軍事部門の考え方の恐ろしさを際立たせていたのですが、当初、マッカーサーの熱弁に押され(彼は、何とかして自分の失態を挽回しなければと焦って冷静さを欠いていました)、戦術核の使用に傾いたトルーマンは、関係閣僚からの米国に協力して国連軍に兵を派遣してくれている友好国から、核を使うなら協力できないと言ってきている。核の使用には反対だと、強く慰留されたこともあり、核の使用を断念したのです。なお、戦術核の使用に拘り、その主張を引っ込めなかったマッカーサーは、ついにこの年51年の4月11日に、国連軍総司令官の地位と、GHQ総司令官の地位を共に解任されるに至ります。日本国民の多くは、売国の体制にまだ疎かったこともあって、「アメリカには、マッカーサーよりも偉い人がいるんだ」と驚いたそうです。小学校3年生になったばかりの私は、そんないきさつは知らずに、ただ男の子仲間と38度線ごっこという名のチャンバラ遊びに興じていました。結局朝鮮戦争での核兵器の使用は、危ういところで避けられたのですが、それは広島・長崎の被害の実態が、ある程度ですが、各国の報道写真家の皆様の努力で、世界に発信されていたからでした。 続く
2020.08.30
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原爆投下その後 その2核兵器の保有国は、その後も増え続けました。1960年にフランスが4番目の核保有国となり、64年10月には中国が、続いて74年にインドが核実験に成功します。そのインドが2度目の核実験を強行した98年には、印パ紛争を抱えるパキスタンが核実験を強行して、7番目の保有国となり、2006年以降何度も地下核実験を行っている北朝鮮も核兵器保有国となりました。ほかに公式には各事件を行っていないとされていますので、何時からかは分からないのですが、イスラエルが50発~200発程度の隔壁を保有していることも、間違いないようです。そのイスラエルと共同で核兵器を開発したとされる南アフリカは、黒人政権に核兵器を引き継ぎたくないとした、白人政権が、核兵器の廃棄を決断し、保有する核兵器をすべて廃棄したことが知られています。さて、第二次世界大戦の終了後、はじめて3度目の核兵器の使用が話題に上がったのは、1950年6月に始まった朝鮮戦争でした。朝鮮半島は、1910年から日本の植民地になっていたのですが、日本の降伏によって独立が認められたのですが、45年8月9日未明から、ソ満国境を越えたソ連軍が怒涛の進撃を続けた結果、休戦が成立した時点では、朝鮮半島北部までソ連軍がやってきていました。米国は朝鮮半島を重視しておらず、後にケネディ・ジョンソン政権で8年間国務長官を務めたディーン・ラスク氏が、後に、「38度線での線引きをしたのは私だ」と語ったことから、当時陸軍省で政治問題を担当していたラスク大佐に、細部が委ねられ、ラスク氏は朝鮮半島をほぼ等分に2分する形での河川や山脈がないことから、地図を開いて悩んでいるうちに、偶然半島の中央付近を北緯38度線が通っていることに気づき、その線で、北をソ連軍が、南を米軍が担当して、治安維持を図ることでまとめたということです。その後、米ソの対立が激しくなり、夫々の担当地域での警察や軍隊の組織が、米国式とソ連式で大きく異なり、南北合同の普通選挙で、統一政府を誕生させ、米ソは共に軍隊を引きあげるという当初の構想は、実現不可能となったのです。その結果、48年に南は大韓民国として、北は朝鮮民主主義人民共和国として別々に国家を形成し、38度線は国境に変化したのです。この当時、北と南の関係は、北優位の状況にありました。それは日本の植民地支配が、水源が豊富で、水力発電所がいくつも設置できる北部に発電事業を集中し、周辺に工場も集める方式をとり、南には、北から電力を送電する方法をとっていたからです。当然、経済発展は北優位の状況にあったのです。そんな事情と、49年10月1日の中華人民共和国の建国で、勢いに乗った金日成(北の指導者です)は、スターリンを説得して、南の武力解放(征服)を目指して、1950年6月25日に38度線を越えて、南への侵攻を始めたのです。これが朝鮮戦争の始まりでした。不意打ちを食らった韓国軍は、後退に次ぐ後退を重ね、8月後半には、釜山周辺に追い詰められ、落城近しの状況に追い詰められました。この時、トルーマン米右国大統領は、たまたまソ連が中華民国(台湾政府)に、国連の議席(安保理常任理事国の椅子を含む)を認め、中華人民共和国政府には、新たに国連加盟を申請することを求める決定を下したのです。ソ連はこれを不満として、国連ボイコットを行っていたため、ソ連抜きの安保理は、北朝鮮を侵略者と規定して、南の解放のために米国中心の国連軍を派遣することを決定したのです。ソ連は悔しがりましたが後の祭りでした。この状況で、米国大統領トルーマンは、米国本土から兵を送るのでは、釜山救援が間に合わない可能性が高い。早急に兵を送るには、日本駐留の占領軍兵士を充てる必要がある。そのため、国連軍の総司令官は、マッカーサーに兼任させようと考えたのです。マッカーサーは引き受け、ソウルに近い仁川港に狙いをつけ、仁川から大急ぎで南下させ、釜山の韓国軍と北朝鮮軍を挟撃したのです。この作戦は大成功となり、マッカーサー人気は米国でも盛り上がったのです。やがて逃げる北朝鮮軍を追って38度線を回復。そこで停まっていれば、朝鮮戦争は数か月の戦いで終わっていたのですが、欲を出したマッカーサーは、南による北の統一、韓国による朝鮮半島統一を実現しようと欲を出したのです。それが間違いのもとでした。ここから、第3発目の原爆を朝鮮半島に落とそうという計画が出てくるのですが、それは明日に… 続く
2020.08.29
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原爆投下その後 その1眼の調子が悪く、2日ほど休ませていただきました。広島と長崎で使用された2発の原爆は、投下後に撮影された灰燼と化した都市の姿や、焼け焦げた死体の数々や、全身に火傷を負い、苦しむ人々の姿など、世界に衝撃を与えました。ここに、核兵器の開発に成功しない限りアメリカに対抗できないことを悟った有力国(ソ連、イギリス、など)は、核開発を加速することになりました。原爆投下後に最初に起きたことは、核兵器の廃絶に向けた動きではなく、核兵器の開発競争だったのです。米国への対抗には、原子爆弾の保有が欠かせないと考えたソ連の指導者スターリンは、原爆開発を急がせ、巨費を投ずることで、予定よりも2年早く1949年8月にカザフスタンでの原爆実験に成功します。イギリスもまた1952年に、南太平洋での核実験に成功し、第3の核保有国になりました、この間米ソは、原子爆弾よりも、はるかに強力な核兵器の開発競争に走り、水素爆弾(水爆)の製造にも成功します。両国とも、地球全体を何十回も破壊できるような核兵器の保持国になっていったのです。 続く
2020.08.28
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原爆はなぜ投下されたか その9米政府と軍部の狙いはピタリとはまったように見えました。少なくとも国際的な認識はそうでした。しかし、日本が降伏を受け入れたのは、最後まで天皇制の維持に固執したことから明らかなように、ソ連の参戦から時間が経過し、連合軍におけるソ連の発言権が大きくなってしまうと、天皇制が維持できなくなるという恐れからでした。ソ連への恐怖心が、日本の降伏の決め手になったのです。8月9日以降の連日の協議の中で、自らのメンツの立つ負け方を模索した陸軍も、天皇の聖断による降伏に、最後は従った(降伏が承諾できず、クーデタを模索した跳ね返り部隊も出ましたが、それは一部に留まり、大部隊は動かなかった事実から判断できます)のは、米英連合の方が皇室存続の可能性が高いとの判断によるものだったのです。事実として、日本の降伏は、原爆によるものではなく、ソ連参戦という隠し玉によるものだったのです。しかし、連合軍にとって、広島と長崎の廃墟の写真は圧倒的でした。たった1発で、人口20万人とか30万人といった都市を、破壊しつくしてしまう悪魔の兵器への恐怖は、決定的でした。こうしてソ連参戦に対する恐れは、日本の支配層の間だけに留まり、その決定的な意味はかき消され、日本は遂に原爆に屈した。だから原爆を使用した米国は、沖縄戦のような住民を巻き込んだ死闘が日本各地で起きることを阻止することに成功したのだ。原爆は広島で20万人、長崎で10万人以上の市民の命を奪ったけれども、日本全国数百万人の日本人と、数万に達するかもしれない米兵の命を救ったのだという、米軍並びに米政府のの戦争犯罪を免責にする論理を組み立て、未だにその主張を繰り返しているのです。良く「盗人にも三分の理」と言いますが、三分どころか、この議論は現在の日本の支配層の多くまでもが、昭和天皇の自家本位の身勝手な主張を、国民に悟らせない思惑もあってか、米政府に媚びたいためなのか、おそらくその両者が混じりあう形で、堂々と原爆投下は大勢の日本人の命を救ったと、米政府や軍部の主張を肯定し受け入れているのです。戦争犯罪を追及すべき相手に媚を売る。この関係からは、両者の対等な関係での協力関係が生まれるはずはないですね。原爆投下の真相は、ここにて終了です。明日は、その後を記します。
2020.08.25
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原爆はなぜ投下されたか その8米国でも、原爆の使用については、より慎重であるべきだという議論もありました。開発反対を主張する高名な科学者もいたのですが、彼らの声は政権中枢まで届かず、黙殺されました。続いて、原爆は実際に投下するのではなく、原爆実験に日本の政治家や軍の代表を、諸外国代表とセットで招待して、そのすさまじいまでの威力を実感させることで、早期の講和を促してはどうかという主張がなされました。この主張は、広く支持されたのですが、もし実験が失敗に終わったら、大きな端になり、逆に日本の郡部を勇気づける結果になるとして、日の目を見ませんでした。こうして、7月17日の実験成功、26日のポツダム宣言の発表と続きます。この時点では、日本への原爆投下は、もはや既定路線になっていたのですが、ここでも、投下は軍港や軍事施設に限り、一般市民の居住区を対象とすることは、国際的な批判に耐えないのではないかと、広島や長崎などへの投下には反対とする、良識派の主張が残されています。こうした良識派の声に対し、軍部は反対を貫き、良識派の面々が共同執筆した大統領宛ての親書を、こっそり抜き取り、大統領に渡さなかったのです。広島と長崎への原爆投下は、このような経緯を経て実現されたのです。原爆の被害の報は、米空軍の撮影した現場写真、各国から日本に来て、都市部の民間住宅を焼き尽くし、逃げ惑う市民を絨毯爆撃で殺害する米軍の犯罪行為などは、広く世界に報じられていったのですが、原爆の被害についても、各国で報道されていったのです。その結果、米国の思惑は大成功を収めたのです。それは、ソ連参戦のニュースの価値を押し下げ、日本の戦意を挫き、8月14日のポツダム宣言受諾=日本の降伏という結果を生み出したのは、まさに2発の原爆投下の成果であるという、国際世論を創り出したのです。米政府と軍部の狙いはピタリとはまったのです。 続く
2020.08.24
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原爆はなぜ投下されたか その7昨日は、午後8時ごろから、突然に激しい雷となり、周辺に何発か落ちたようで、鳴り出してすぐに停電。その後も断続的に雷が鳴り続けたため、PCを再度開くことを諦め、そのまま休みました。今日ぐらいの陽気が快適ですね。19年と3か月の超おばあちゃんニャンコ(2ニャンのクロネコ姉妹だったのですが、相棒さんは5月23日の朝方、丁度19歳で老衰のため天寿を全うしました)も、今日は気分がよさそうで、ゆったりしていますが、この辺は、降りそうにはなっても振り出さず、昨日に続いて一雨ほしいところです、さて、原爆投下の米側の自己弁護を精査するシリーズのつづきです。今日と明日でまとめたいと考えています。ソ連の対日宣戦布告が8月8日、ソ満国境を越えての日本軍(関東軍)への攻撃開始は9日未明でした。この事実に反応し、昭和天皇が側近の木戸内大臣を呼び、「ソ連が参戦し、交戦状態に入った以上、戦いの収拾について検討し、決定すべきだと思う……」と述べたのが、9日の午前9時55分~10時にかけての5分間でした。天皇はまさに、ソ連参戦に天皇制の危機を感じ取り、ソ連の占領地が大きなる前の講和(ポツダム宣言の受諾)を望んだのです。新型爆弾の投下による広島の被害については、重い口を開かなかった天皇が、ソ連の参戦については、間髪を入れずに反応したのです。日本側の講和への動きについて、重い扉を開いたのは、間違いなくソ連の参戦でした。ソ連軍が、日本に対する戦端を開いたその日、11時02分に長崎市の市街地から約3km北へずれた地点に、2発目の原子爆弾が投下されました。第一目標は小倉だったのですが、小倉は前夜に行われた隣接する八幡への爆撃による煙で覆われ、視界不良で目視投下が出来ず、第2目標の長崎に変更されたのでした。長崎は、三方を山に囲まれている都市のため、広島に比べ、被害が周辺部に広がることは避けられたのですが、それでも都市機能は完全に破壊され、市民の日常生活の針は、止まってしまったのです。中2日空けただけで、地方の二つの県庁所在都市を完全に破壊しつくした原爆の威力は、被害を受けた日本は勿論、報道で知った世界各地に、大きな衝撃を齎しました。その衝撃は被爆国日本を除けば、政治家や軍人にとって、大きなものでした。実はここに米政府並びに米軍部にとって、大きな意味があったのです。 続く
2020.08.23
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原爆はなぜ投下されたか その68月2日~5日にかけて、中国地方は、台風の影響で荒れた天候が続きましたが、5日午後には台風一過の青空が戻ってきました。夜間21時30分ごろ、たった1機のB29が星空の広島上空を飛び去ったと言います。空襲警報が発令されましたが、たった1機での襲来はかつてなく、周辺地域を含めて不思議がったけれど、あれは偵察だったのだと、後になって察しがついたという証言が多数残っています。7月下旬に、原爆攻撃の実行基地に指定されたテニアン島に、円筒形の鉛缶に入った原子爆弾はテニアン島に到着、何時でもB29に積み込んで出撃できるようになっていたのです。偵察機は帰還後、広島は好天、明日の天候は良好との報告がなされました。8月6日、テニアン時間午前3時少し前に、リトル=ボーイと名付けられた原爆を積んだエノラ・ゲイ号を含む3基のB29が飛び立ちました。後の2機は、観測機で、科学者やカメラマンが乗り込み、計測機器とカメラを積み込んでいたのです。エノラ・ゲイは、7時50分ごろに四国の東端を通過、西条市上空を西進して広島市に到達、9600mの上空から、投下目標の元安橋中央部をはっきりと確認、8時15分17秒にリトル=ボーイは投下され、同時にエノラ・ゲイ号は、右旋回して、広島を脱出したのです。原子爆弾は、元安橋上空610mの地点で、大爆発を起こし、大閃光は一瞬にして、広島を市の街に替えてしまったのです。爆弾投下の4時間後に写真撮影機が広島上空に侵入した時、爆発で生じたキノコ雲は、13,000mの高さにまで、立ち上っていることが確認できたということです。原爆投下から7年後、1953年4月に広島市役所が発表した最終調査結果によると、死者6万人、行方不明者66,700人、重症者51,000人、軽症者105,000人とされ、家屋76,327戸の内、70,107戸が被害を受け、内55,000戸が、全焼しています。文字通り、一つの都市が消滅したのです。それはまさに悪魔による惨劇でした。8月6日、それは。ソ連の対日参戦の2日前でした。ソ連は、8月8日に、日本政府に対し、日ソ中立条約の破棄と日本に対する宣戦布告状を手渡しています。実際に軍事行動に入るのは、翌9日の夜明け前の事でした。トルーマンにとって、原爆投下は、ソ連参戦の印象を薄め、対日戦争は、米軍の活躍と力で、日本軍に降伏を余儀なくさせたのだと、世界に印象付けるための行動だったことが、ここから明らかになります。 続 く
2020.08.21
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原爆はなぜ投下されたか その57月26日、米英中3国の名で、ポツダム宣言が発表されました。宣言は対日降伏勧告であり、ドイツに押し付けた講和条件に比べると、かなり緩やかな条件で、連合国は日本に降伏を迫ったのです。ポツダム会談には、ソ連の独裁者スターリンも参加していましたが(一方、中国の蒋介石は、会議に参加しておらず、電文で案を受け取り、承諾した)、トルーマンは、原爆が完成した今、ソ連の対日世相への参加は必要ではなく、参加を楯に日本の占領統治に口出しされるのは、むしろ迷惑と、ポツダム宣言の内容については、当時対日参戦国ではなかったソ連側には、一切相談せず、ソ連側にに宣言の全文を渡したのは、発表翌日の事でした。米国は、原爆投下実験の成功に自信を持ち、日本がポツダム宣言の受け入れを拒否した場合、ソ連の参戦(8月9日予定)に先立ち、8月3日以降のなるべく早い時期に、最初の原爆投下を行うと決定し、その候補地を広島に絞っていました。既に核実験の開始に先立ち、トルーマンは、京都・新潟・広島・小倉を投下候補地に選定していたのですが、このうち京都については、知日派のスタッフから、日本の古来からの宮廷文化の中心地であり、その文化財のほとんどすべてを肺にしてしまうのは、あまりに惜しいし、将来世界から売国が非難されることにもなりかねないと、強い反対があり、トルーマンが翻意し、皮って長崎が追加されることになったのです。8月3日以降のなるべく早い日というのは、原爆の投下が、高空からの目視投下であるため、雲のない快晴の条件でなければ投下できず、それも灯火管制の徹底した漆黒の夜では不可能なため、快晴の日の日中が投下条件だったのです。こうして、3日、4日、5日と条件が合わず、6日に投下されることとなったのです。 続く
2020.08.20
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原爆はなぜ投下されたか その4米英ソ3国首脳によるポツダム会談は、7月17日から8月2日までのマラソン会談であった。そこでは対日降伏条件と、ドイツに関する最終処理案が話し合われた。この会談の初日、17日の午後、英国首相のチャーチルは、米国の陸軍長官スチムソンの訪問を受け、人類史上最初の核実験が成功したことを伝えられました。実験はニューメキシコ州アラモゴールドで、現地時間午前5時30分に、高さ30mの鉄塔を建設、その頂上に原子爆弾をセットして爆発させる形で行われました。実験は成功し、爆弾は大爆発を起こし、濃い紫色とオレンジ色の光に縁どられた火の球は、直径1,600mほどに膨れ上がり、高度12,000mの高空に達するキノコ型の原子雲となってたちのぼったとされています。TNT火薬にして2万トン相当の爆発力と推定され、実験に使われた鉄塔は、あとかたもなく消えていました。閃光は約400kmの地点まで観測され、爆発音は88kmの距離まで届いたと言います。ところで、ローズヴェルト大統領の死去を受けて、副大統領から大統領に昇格したトルーマンは、実験成功に先立つ7月3日、対日戦線の陸海空三軍の総司令官に対し、京都、新潟、広島、小倉の4都市に対する爆撃を厳禁する旨の命令を出しています。完成間近との情報を得ていたトルーマンは、ローズヴェルトの構想したソ連を対日戦線に引きずりこんで、その兵力を消耗させるよりも、核兵器を早期に使用することで日本を屈服させ、日本をドイツのように、実質米ソで分担占領する形となることを嫌い、対日単独占領とすることを狙ったのです。ドイツの降伏条件(無条件降伏しか認めなかった)よりも、かなり緩やかなポツダム宣言を発表したのも、この狙いからだったのです。 続く、
2020.08.19
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原爆はなぜ投下されたか その31日空けてしまいましたが、続けます。もう一つ、戦後世界を考える上で、重要な事実を指摘しておきます。この点は世界史の教科書などではほとんど触れられないのですが、ヤルタ会談の半年少し前、1944年の7月に、戦後の世界経済を考える上で見逃せない重要な会議が開かれています。アメリカ、ニューハンプシャー州のブレトンウッズで開かれた戦後の経済復興を担保する体制をどうするかに関する会議でした。第2次世界大戦の勃発時、欧州通貨に対する米ドルの優位はもはや隠せるレヴェルにはなく、戦後世界における基軸通貨が、ポンドからドルに移ることは、第一次世界大戦時に米国で起債したドル建て英国債の支払いを続けることが出来ず、返済を免除してもらった英国(仏国も同様でした)としては、無念ではあっても、受け入れざるを得ないことでした。こうしてブレトンウッズ体制は、金・ドル本位制を採り、世界貿易と世界経済体制の安定のために、IMF(国際通貨基金)と世界銀行を発足させ、その本部を両者ともに米国の首都ワシントンDCに置くことも決定したのです。ただ、あまりにすべてを米国中心にしすぎてはという、米国の配慮もあり、世銀の総裁は米国から選出するが、IMFの専務理事は欧州から選出することが、現在まで厳格に守られ、暗黙の了解事項となっているのです。米国というのは変わった国で、平時には強力な軍事力を維持せず、大統領の要請を上下両院の合同会議で承認すると、志願兵を募って戦場へ送るのが常の国でした。欧州に対しては常に孤立主義を掲げ、相互不干渉の立場をずっと貫いていました。ですから、第一次大戦当時のウィルソン米国大統領が提唱して実現した国際連盟に関しても、議会は孤立主義の伝統に反するとしてこれを認めず、結局米国は国際連盟に加盟せず、孤立主義の立場を貫き、帰国した兵士たちも、そのほとんどは軍服を脱いで、元の仕事に戻っていったのです。そんあ米国でしたが、大戦の戦禍で傷んだ欧州経済は、米国からの経済援助なしに回復の軌道に戻ることは出来ず、米国は経済に限って、欧州に関与することを続けて、世界恐慌の時代を迎えたのです。こうして、対独伊との戦争並びに対日戦争という二つの戦争を抱えた米国は、戦後においても、もはや孤立主義、軽武装体制に戻ることは不可能との認識に至り、第2次大戦後は軍事大国の態勢を崩さず、世界平和に関与し続ける覚悟を持つに至り、その姿勢を隠さなくなったのです。変われば変わるものです。そして、この姿勢があったからこそ、新型爆弾=核兵器の開発を進め、その経済力、技術力に物を言わせて、それを現実のものとするに至ったのです。 続く
2020.08.18
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原爆はなぜ投下されたか その2ヤルタでの会談は、ドイツの戦後処理が主議題でしたから、対日戦の主役の1人、中国の蒋介石は呼ばれておりませんでした。この席で、ドイツは東西に分割し、東半分をソ連が、西半分を米英(仏)が占領下に置くこと、ソ連の占領下に入る首都のベルリンだけは、当面4国の共同管理とすること、ドイツの国境については、ナチスが占領した地域については、旧に復することなどが決められました。対独問題がほぼ解決した段階で、やおらローズヴェルトは、ドイツ降伏後、直ちに日ソ中立条約を破棄して、対日戦線に加わらないかと、スターリンに求めたのです。ソ連参戦は米側の求めが出発点でした。スターリンには、口にこそ出さないものの、フランスに西部戦線を構築することへの、再三にわたるソ連の要請を、無視し続けてきた米英に対する強い不信感を持っていましたから、このローズヴェルトの誘いが、言葉巧みに、日本の戦意を挫くために大きな効果が期待できると言っていても、その内実は、対独戦で大きな犠牲を払ったソ連軍に対し、休む間を与えず、次の戦場に駆り出し、さらに疲弊させることにあることを、すぐに見抜きます。dすから、彼は言を左右にして、参戦を渋りました。その結果、日露戦争で当時のロシアが日本に割譲した南樺太と、明治10年代の樺太・千島交換条約によって日本領となっていた千島列島の切り取りを自由とすること、ソ連の参戦は、ドイツ降伏の3か月後とすることで、合意が成立したのです。ローズヴェルトからすると、日本陸軍の最精鋭部隊とされる関東軍とソ連軍との激突によって、両者が共に消耗することで、ソ連の軍事力を弱め、回復に時間をかけるとともに、対日戦に掛ける米軍の消耗を減らす効果を狙ってのことでした。しかし、そのローズヴェルトは、昨日記したように、4月12日に脳出血で死去、ソ連参戦を見る前にこの世を去り、副大統領のトルーマンが後を継ぎました。そのトルーマンの下に、マンハッタン計画の暗号名でひそかに進められていた核兵器の開発計画が大詰めに来ていることが伝えられたのです。トルーマンは、慎重にかつ些細なミスもないよう計画を速やかに進めることを伝えるとともに、沖縄上陸作戦を速やかに進めることを指示しました。4月末イタリアが降伏、ドイツも7日に西部戦線で、9日にベルリンで降伏し、降伏の批准書は9日にベルリンで作られました。こうして、ソ連の対日参戦は、日本がなお降伏していないならば、8月9日には、現実のものとなることになったのです。
2020.08.16
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原爆はなぜ投下されたか その1原子爆弾の開発計画は、ドイツが先行し、日本などいくつかの国もそれぞれ開発を企図しています。米国はというと、ドイツの開発計画を知らされたF・ローズヴェルト大統領が、開発にゴーサインを出し、1942年10月、「マンハッタン計画」と名付けられた原子爆弾作成計画がスタートしました。計画は、徹底した秘密主義が取られ、研究開発の拠点は全米の20地点に、分散して設けられ、夫々の成果が、ニューヨークマンハッタンの本部に上がってくる形になっていました。研究の成果が実り、最初の核実験が、ニューメキシコ州アラゴモード砂漠のホワイトサンズ射爆場で行われたのは、1945年7月16日の事でした。マンハッタン計画を承認したF・ローズヴェルト大統領は、45年4月12日、高血圧性の脳出血で死去、副大統領だったトルーマンが後継大統領となり、彼の下に、核実験成功の報が届けられたのです。話は少し遡ります。欧州での独・伊との戦い、アジアでの日本との戦いを掛け持ちする米国の負担は、極めて大きなものがありました。そこを見通した老獪なチャーチルは、早くフランスに上陸して、対独包囲のための西部戦線を、フランス北西部に形成してほしいというスターリンの度重なる要請を無視して、ソ連とドイツの共倒れをねらい、ローズヴェルトに対し、西部戦線の形成は後回しにして、西アフリカに上陸して、アフリカ大陸を縦断、アフリカから独・伊の勢力を駆逐して、南方からまずイタリア潰しにかかる案を、強く推し、合意させたのです。しかし、ヒトラーにとっても、ソ連は大きすぎました。あの稀代の戦巧者ナポレオンでさえ、広すぎるロシアの征服が出来ず、墓穴を掘りました。第一次大戦時のドイツ軍部も同じでした。今またヒトラーも同じ轍を踏んだのです。ソ連軍はスターリングラードで踏みとどまり、深い雪に閉ざされたこの地で、市内のドイツ軍を完全に包囲。ついに降伏に追い込んだのです。その後は、進軍するソ連軍と後退を続けるドイツ軍となったのです、独ソの相打ちというチャーチルの姑息な手段は、失敗に終わったのです。ソ連軍の進撃が続く中、チャーチルは慌てます。このままでは、ドイツ全てをソ連軍が解放してしまう。それでは、英米が戦後のドイツに口出しできなくなる。それを避けなけらばというわけで、急遽ノルマンディ上陸作戦が計画され、上陸後は曲折はあったのですが、結局はまっすぐにパリ解放に向かうことになりました。こうして、終わりの見えた対独戦線を見据え、ドイツの戦後処理と戦後の国際体制を検討するために、ソ連領のクリミア半島の保養地ヤルタで開かれたのが、ヤルタ会談でした。45年2月の事でした。 続く
2020.08.15
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日本の降伏を早めたのは原爆ではなかった その6昨日のコメントに、「録音盤を奪取せよ」と、日付の替わった8月15日の夜明け前の騒動への言及がありました。血の気の多い若手の一部が、14日の夜に録音された「天皇のお言葉」の録音盤を奪い、国民へのポツダム宣言受諾=敗戦の受け入れの語り掛けを不可能にしてしまおうという、乱暴この上ない、住居不法侵による盗人行為がありました。15日午前3時半、木戸内大臣は、寝ずの番をしていた戸田侍従に起こされ、午前1時ごろから近衛師団の一部将校が反乱を起こし、宮内省の電話線を切断し、宮城占拠を目指すクーデタを始めたことを知らされたのです。木戸内大臣は、石綿区内大臣と共に身を隠し、天皇が「終戦の詔勅」を吹き込んだ2枚の録音盤は、天皇側近の徳川侍従長の手で、さりげなく隠されていました。反乱軍は、宮内省を占拠し、省内の探索を始めました。しかし、内大臣も宮内大臣も、そして録音盤も見つけることが出来ず、焦りだします。急な反乱でしたから、近衛軍以外の他の部隊への根回しも出来ていませんから、期待した援軍は一向に現れず、何の成果もあげられないうちに、夜が明けてしまいます。夜明け時、阿南陸相が古式に習って割腹自殺します。「一死を以って、大罪を謝し奉る」と書き残されていました。大罪の言で、彼が何を詫びようとしたのでしょうね。おそらく、陸軍の言うことは信用できぬと、天皇に面罵されたことが答えていたのでしょうね。午前7時21分、ラジオは臨時ニュースを流し、この日正午から、天皇陛下おん自らの放送があることが予告されます。皆放送を聞くようにとの」知らせでした。有名な「偲び難きを偲び、耐えがたきを耐え…」の敗戦の詔勅でした。14日夜には、やはり、中立国スイスを通じて、ポツダム宣言受諾の旨が連合国に届いていましたので、この日15日は、朝から米軍機による攻撃は控えられていました。米軍機は上空を飛んでいましたが、いつもより高い位置を悠々と飛んでいる、変だねと、国民の間では噂になっていたそうです。それにしても、昭和天皇、なぜもっと早く陸軍を止めようとしなかったのか。東京下町が焼け野原になった3月10日の大空襲による焼け野原の光景は、皇居からでも良く見通せたはずです。やられ放題の現実からは、もはや勝ち目のないことは見通せたはずです。ここで白旗をあげていれば、沖縄の悲劇もなく、ソ連の参戦も原爆投下もなく、幕を引くことが出来たはずなのです。昭和天皇自身の言葉で、何をどう考えていたのか、なぜこの時期は何も語らなかったのか、知るすべがないのが残念です。明日から、原爆はなぜ投下されたかについて、2日ほど書かせていただきます。
2020.08.14
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日本の降伏を早めたのは原爆ではなかった その58月10日、午前2時半の御前会議終了後、直後の午前3時から、別室に待機させていた閣僚を集めて、鈴木内閣は閣議を開き、天皇の聖断で決まった外相案を正規の政府決定としました。夜明け待って午前6時過ぎ、政府決定は外務省電信課の手で、一条件付きもポツダム宣言受諾電報として、スウェーデンとスイスの2中立国を通じて、米英中ソの4か国宛に打電されました。皇室護持の条件を連合国がどう判断するか、その回答待ちとなったのです。通常、こうした場合、講和を打診したのですから、日本側からの攻撃は控えるのが普通です。しかし現実には、8月15日直前の13日や14日に知覧などの特攻隊基地から出撃して、帰らぬ人となった若い兵士たちがいたのです。本土決戦の主唱者だった阿南陸相は、10日の午後になって、なお全軍に戦争の継続を、ラジオを通じて呼びかけているのです。連合国の回答によっては、戦争継続で巻き返すチャンスがあると、返事の到着を虎視眈々と狙っていたのです。8月12日の深夜、米国のバーンズ国務長官が、スイス駐在の代理大使に回答文を送ってきました。肝腎な点は次の2点でいた。1、降伏の時より、天皇並びに日本国政府の国家統治の権限は、連合国軍最高司令官に従属するものとする。2、最終的な日本国政府の形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明する意志により、決定されるものとする。1の文言では、天皇制の護持は担保されていないことになります。それもそのはず、連合国で、対日戦線をリードしていた米国自身、なお天皇制をどうすべきか決めていなかったのですから…しかし、この文言に外務官僚は苦心の誤訳を案出しました。 最後の「従属するものとする」の部分を、「司令官の制限の下に置かれる」としたのです。それでも最高戦争指導者会議でも、閣議でも、議論はもめにもめました。参謀本部では、和平派を一網打尽にするクーデタ計画まで持ち上がりました。さらに、国民や兵士の命を大事にしないことで知られる特攻隊の生みの親、大西滝次郎軍令部次長は、「今後2千万人の日本男子に死んでもらう覚悟にて、これを特攻として用いれば、負けることはない」と、とんでもないことを言い散らしていたのです。これが軍部の実態でした。いろんな方の体験談で、知られていますが、満州にあった関東軍は、ソ連軍の素早し進駐にあらがうすべもなく、各地に入植した日本人の保護にあたることもなく、住民を置き去りにして、我先にと、列車に乗って、逃亡してしまったのです。これが軍の実態でした。関東軍が本来の任務を守り、住民を先に列車で逃していれば、過労と飢えのために逃亡の途中で息絶えた人々や、残留孤児などは出さなくて済んだはずなのです。 こんなだらしのない軍の実態だったからこそ、沖縄戦で命を落とした住民の数は、兵士の倍以上に達するという、とんでもない無茶がまかり通ったのです。米軍案受諾の方向は、米軍が空爆をやめ、空中から日本国民向けの日本語のビラを大量にまき、日本政府がポツダム宣言受諾を申し入れてきたこと、連合国がそれに答えたことなどを、分かりやすく伝えてきたことで、再び御前会議を開くことで、決着させることにまとまったのです。14日午前10時30分から、やはり宮中の防空壕で開かれた御前会議では、最後に天皇が立って、10日の判断を朕は変えない。米国の案を受諾する」と述べ、決着したのです。天皇の耳には、南樺太が落ち、千島列島も占領され、今やソ連軍は満州から朝鮮半島に展開中であり、このままでは北海道が席巻されるのも、」時間の問題である旨の、情報が届いていたのです。将来にわたる天皇制の護持を狙うには、ソ連の発言権がさらに大きくなる前に、話の通じる可能性の高い米国に降伏し、死中に活を求めるしかない。昭和天皇はこのように考えたのです。 続く
2020.08.13
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日本の降伏を早めたのは原爆ではなかった その4 この時、議長役の鈴木首相は、慣例を無視して、思い切った手を打ったのです。それは可否同数の場合、議長自らが1票を投ずるという規定を脇に置いて、自らの票を投ずることなく、天皇の御前に進み出て、「天皇ご自身の判断で、事を決したいがいかが」と奏上したのです。木戸内大臣を通じて伝えられた、「ソ連参戦が現実のものとなった以上、天皇制を守るには、早期和平の実現が喫緊の課題だとする、天皇のご意志を皆に分からせる以外に、戦争継続派を黙らせる方策はないと考えたのです。鈴木首相の行動は、慣例を無視した行動だったのです。この突然の要請に対し、昭和天皇は立ち上がって話し始めました。天皇のお言葉を制止する権限など、誰にもありません。出席者全員の眼と耳が、天皇の発言を聞き漏らすまいと、緊張の度を強めました。天皇は、「朕は外相案に賛成である。」「念のため、理由を言おう。」「従来陸軍は、勝利獲得の自信があると言い続けてきたが、いままで計画と実行が一致していないではないか。また、陸軍大臣の話によれば、アメリカ軍の本土上陸予定地の九十九里浜の築城は、8月上旬に出来上がるとのことであったが、いまだに出来上がりそうにない。さらに、新設の師団の兵士が揃っても、彼らに渡すべき兵器が間に合っていないとも聞いている。これで、あの機械力を誇る米英軍に対して、勝算の見込みはないではないか。…中略… かくなる上は、大局上、明治天皇の三国干渉の御決断に習い、忍び難きを偲び、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために、決心したものである。」と。これは、陸軍に対する痛烈な批判であり、たまりにたまった不信感の表明でした。明治・大正の世であれば、陸軍幹部は、その場を退出後に、即座に職を辞す内容でした。 さすがに交戦継続を主張した陸軍幹部の3人も、その場では何も言えず、天皇のお言葉をもって、外相案の、「天皇制の存続を唯一の条件に、ポツダム宣言を受諾する」という案が、御前会議の決定となったのです。この時、8月10日、御前2時半だったと記録されています。 続く
2020.08.12
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日本の降伏を早めたのは原爆ではなかった その3深夜に開かれた御前会議では、閣議での多数意見である東郷外相案が、原案として議長役の鈴木首相から原案として提出されました。原案には、「先月26日の3国共同宣言(ポツダム宣言の事)に掲げられた条件には、天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含せざることの了解のもとに、日本政府はこれを受諾する。」とありました。鈴木首相は、以上の原案を朗読した後、閣議が賛成6、反対3に分かれ、意見の一致を見なかったことを説明し、直後に東郷外相を指名して、提案理由を説明するよう促しました。外相は、「以前は、ポツダム宣言は受諾できないということであったが、ソ連の参戦と2発目の原爆投下で、事情は変わった。もはや受諾はやむを得ない。… 相手側につける条件は、絶対に受諾できないものだけをあげるべきである。ソ連の参戦により、米英の地位は、いよいよ確実になっているので、これ以上に条件を緩める余地はないものと考えざるを得ない。」「先の4条件の内、日本軍の自主撤兵は、停戦協定をむすぶときに、申し出る機会があるだろうし、戦争犯罪人の事とて、戦争を続けてでも、どうしても通さなければならないほどの絶対条件ではないように思う。ただし、皇室だけは、絶対条件である。…中略…相手国につける条件は、この点に集中する必要がある。」と述べた。続いて、鈴木首相は、米内海相に所見を求めた。米内は、簡潔に「外相案に同意する」と述べた。続いて所見を求められた阿南陸相は、激しく反発して徹底抗戦を主張して、熱弁をふるった。「全く反対である。カイロ宣言は、満州国の抹殺を決めており(中国への返還)、受諾すれば、日本は満州国を見殺しにすることになって、道義国家の生命を失うことになる。ポツダム宣言を受諾するにしても先の4条件が満たされる必要がある。…中略… こちらの条件だけを一方的に取り下げて、ポツダム宣言を受諾する案には、同意できない。たとえ1億人が枕を並べて倒れても、大義に生きるべきである。あくまで戦争は継続しなければならないし、まだ十分に戦える自信もある。本土決戦にも自信がある。仮にポツダム宣言を受諾したとしても、海外諸国に展開中の日本軍は、無条件に矛を納めないであろう。国民の中にも、あくまでも戦おうというものがあって、内乱が起こるかもしれない。」と。この時、満州国に展開中の関東軍は、かつては陸軍随一の精鋭部隊を誇っていた関東軍は、敗北の続く、南方戦線への支援に精鋭部隊を割き、新兵を補充した数合わせ部隊に変質しており、侵入したソ連軍に太刀打ちできず、すでに敗走を続けていたのです。 陸相の阿南は、こうした現状を知る立場にあったにも関わらず、ただ強がりを述べたのでしょうか。日本軍部のゆがんだ醜さだけが際立った発言です。これが当時の軍人の姿でした。会議は、またしても3対3に割れたのです。外相案賛成は、東郷外相、米内海相、平沼枢密院議長、反対、戦争継続論が、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部長でした。陸軍が戦争継続を主張したのです。 続く
2020.08.11
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日本の降伏を早めたのは、原爆ではなかった その2内大臣木戸幸一の日記が語る通り、ソ連の参戦を知った昭和天皇が、突然連合国との講和に積極的になったことは、その後の事実からも確認できます。木戸が天皇の講和に向けての強い意志を伺い、その事実を鈴木首相に伝え、首相が「最高戦争指導者会議」を開いて、方針を決めたい」と応じた後、そう間を置かず、宮中の防空壕の中で、同日の10時30分から、最高戦争指導者会議が開かれました。会議には、昭和天皇も臨席し、政府から鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相が出席、軍部から梅津参謀総長、豊田軍令部総長が出席しました。その会議では、天皇の早期講和の意志はなお伝えられないままでしたから、なお日本側にとって都合の良い、ノー天気な講和条件がまとめられました。1、皇室の存続を確認させる。2、日本軍の撤兵は、自主的に行う3、戦争責任者の処理は、日本で行う。4、連合国は、ポツダム宣言の実行を保障するための占領は、行わない。以上の4点です。一読すれば、無条件降伏を求めるポツダム宣言と、大きく食い違っていることがすぐ分かります。会議の最中に、長崎に2発目の原爆が投下されました。満州では、ソ連軍の快進撃が続いていました。こんな申し出を連合国が受け入れるはずのないことは、冷静な目で見れば誰にも分かります。天皇は、自分の弟たちを動員します。3男の高松宮が木戸内大臣に電話連絡し、「この条件では、連合国は、ポツダム宣言の拒絶と受け取る恐れが強いのではないか…」と伝えました。再度天皇の意志を確認した木戸は、鈴木首相に連絡し、鈴木は今度は閣議を開きました。閣議では、「皇室の維持」だけを主張する東郷外相の提案を中心に、議論が紛糾し、全会一致が原則の閣議了解は得られませんでした。軍強硬派に近い、阿南陸相、松阪法相、安倍内相の3人が断乎として反対したのです。二つの会議は、講和に向けての日本側提案の作成に失敗したのです。粘り腰の鈴木首相は、まだあきらめませんでした。事態は深夜になって動きました。9日午後11時過ぎに、鈴木は天皇に会い、最高戦争指導者会議を御前会議として開き、その会議に平沼麒一郎枢密院議長を出席させることを願いました。天皇は直ちに同意し、午後11時50分から、前回と同じ宮中の防空壕の中で、この日2度目の最高戦争指導者会議が開かれたのです。 続く
2020.08.10
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8月9日の日記に替えて8月9日、長崎原爆忌です。米国では、日本への原爆投下を肯定的に捉え、「原爆投下が日本の降伏を早め、結果として多数の日本人の命を救った」との主張が、幅を利かせています。驚くべきは、日本の保守系政治家の中にも、この主張を肯定的に捉える勢力が存在すること、そして有識者の中にも、そのような捉え方が一定程度存在することです。しかし、果たしてこの主張は正しいのでしょうか。戦後75年、ポツダム宣言発表後のはぼ20日間の郡部を含む日本の指導層の動きは、米国に残された機密文書(日本国内では、未だに開示されない文書があるのですが)、同じ文書でも米国側に保存された文書は、読むことが出来ます。これも妙な話なのですが…実は、8月9日から、にわかに昭和天皇が、戦争の終結に向けて積極的に動き出したことは知られていました。ポツダム宣言の受諾については、天皇が渋る軍部を押し切ったことが事実として残るのですが、問題は、なぜ突然天皇が、今までの沈黙を破って(沈黙は、軍部と政府の戦争継続派に対する暗黙の支持を意味します)、動き出したのかにあります。当時、内大臣(内相)の地位にあり、天皇を補佐する立場から、毎日のように天皇に会い、内外の情勢を伝えて、お言葉を頂戴していた木戸孝一が、日々のいきさつを日記に書き残しています。有名な『木戸孝一日記』です。その8月9日の項に、次のような記載があります。8月9日朝、天皇に呼ばれた。9時55分から10時までの5分間の短い会話の中で、天皇は「ソ連が我が国に宣戦し、本日から交戦状態に入った。ついては、戦いの収拾について、急いで研究し、決定する必要があると思うので、鈴木首相と十分話し合っておくように…」と話されたというのです。天皇の意を受けた木戸は、直後に鈴木首相に面会し、天皇のお言葉を伝えるとともに、速やかに「ポツダム宣言を利用して、戦争を終結に導く必要がある」と力説します。油症は、最高戦争指導者会議を開いて、日本の取るべき態度を決定したいと応じたといいます。ここに日本の指導部の一部が、戦争終結に向けて動き出したことが分かります。広島への原爆投下では動かなかった天皇と、天皇支持勢力が、ソ連参戦を受けて動き出したことが分かります。距離的に日本に近く、ソ連極東の軍港ウラジオストークは、北海道や東北の日本海側は、指呼の距離です。備えの不十分な本土にソ連軍が上陸するなら、もはや天皇制の維持は難しい。ソ連はロマノフ朝の皇帝一家を子どもを含め皆殺しにしています。ソ連占領下では、自分の退位ぐらいでは済まない。天皇制は滅び去るに違いない。昭和天皇は、対米交渉ならば、自らの退位と戦争の手あかのついていない皇太子への譲位程度で済ますことが出来ると考えていたのでしょう。ソ連の参戦でがらりと態度を変え、戦争の終結に向けて走り出したのです。原爆のインパクトは、日本国民には大きく影響したのでしょうが、天皇に近い指導層へのインパクトは、ソ連参戦の方が、はるかに大きかったのです。明日に続きます。
2020.08.09
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クロニクル 金大中氏拉致1973(昭和48)年8月8日41年前のこの日、午後1時30分頃、東京は九段のホテル・グランドパレスから、来日中の韓国の政治家金大中氏(後韓国大統領、ノーベル平和賞受賞者)が突然拉致される事件が起きました。白昼の凶行でした。 金氏は事件の2年前、71年の大統領選挙で、朴正熙大統領を土壇場まで追い詰めながら僅差で敗れた政治家でした。選挙後、身の危険を感じて韓国を離れ、日本とアメリカを往復しては、祖国韓国の民主化運動を展開していたため、韓国情報部(KCIA)に狙われており、氏自身も常々「KCIAが私をマークしているから…」と語って、滞日中も常にホテルを転々と替えるなど、慎重に行動していました。そしてこの日は、ホテル・グランドパレスに韓国民主統一党の梁一東党首を訪ね、その部屋から5人組の男達に拉致されたのです。 当日の夕刊やテレビは勿論、翌日以降も日本のマスコミは競って,この事件を報道しました。各社は韓国にも取材陣を送り、日韓を巻き込んだ大ニュースとなりました。結果的には,このマスコミの大合唱が金氏の命を救うことに繋がるのですが……。 連絡を受けた警視庁は,警察庁と連携して全国の警察を動員、空港と港を封鎖して、金氏救出に全力をあげましたが発見できず、金氏の命は絶望と思われましたが、5日後の13日、金氏は突然ソウルの自宅に姿を現しました。そこで金氏は、「麻酔薬を嗅がされ、車で5~6時間ほど走ったところの海岸から目隠しと猿轡をされて、船で韓国へ拉致された」と恐怖の体験を語ると共に、日本の警察とマスコミが素早く、かつ適確に行動し、報道してくれたおかげで殺されなくて済んだと、日本の人々への感謝の意を表明しました。 警視庁は必至の捜査で、金氏が拉致された部屋から、金東雲韓国大使館一等書記官の指紋を検出、金書記官を金氏を拉致した5人組の1人と断定、既に帰国していた金書記官の身柄引き渡しと、梁氏と金氏の日本への移送(梁氏への事情聴取と金氏の原状回復のため)を、強硬に韓国に要求しました。しかし、朴大統領はこれを拒否、事は国際問題に発展しましたが、韓国側は政治犯として自宅軟禁状態においた金氏の身柄を、10月26日に解放して自由とし、さらに11月2日に金鍾泌首相が朴大統領の親書を持って来日、日本側に謝罪、政治的な幕引きが図られました。 事件で一躍有名になったのは、韓国情報部KCIAでした。
2020.08.08
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クロニクル 有珠山大噴火1977(昭和52)年8月7日43年前のこの日、午前9時12分、北海道洞爺湖畔の有珠山(海抜727m)が地鳴りと共に噴火、高度12,000mにまで達する噴煙を噴き上げました。午後1時31分に2度目の大噴火があり、その後も断続的に噴煙を噴き上げました。この噴火によって、洞爺湖温泉の宿泊客や周辺住民約8千人が避難する騒ぎとなりました。千歳空港発の全日空機が、窓ガラスにヒビが入ったために千歳空港に引き返したのを始め、降灰による視界不良のため交通機関が麻痺状態になるなど、影響は多方面に及びました。降灰量は半径15km以内では、15~30cmとなり、農作物の被害面積は3700haに及びました。総降灰量は、霞ヶ関ビル305杯分に相当する2億立方メートルに達し、田畑の被害は115億円余、洞爺湖のヒメマス5万匹、養殖ホタテ1億7千万粒が死滅するなどの被害もありました。 有珠山の噴火は、その後もたびたびおきていますね。
2020.08.07
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本日は、2009年8月6日にアップし、その記事を採録した2014年8月6日の追記の部分を含めてここに採録します。14年から6年後の現在、状況はさらに悪くなっているようにオムからです。本日は、2009年の8月6日夜にアップした記事を再録させていただきました。(これが14年の記事の冒頭です。) 数日前に、エノラ・ゲイの最後の乗組員が亡くなったこと、彼が最後まで「原爆投下は正しい選択だった」と主張し続けていたという事実も添えられていました。5年前の私の提言は生かされなかったことになりますが、それ以上に、アジア・太平洋の諸地域に対する日本の戦争責任を凝視しようとしない、今の政府・与党の動きが気になる昨今です。今朝もまずは、峠三吉の詩を黙読させてもらいました。 以下、再録です。 広島原爆忌 8月6日 私がこのブログを書き始めたのは、2006年の10月2日です。あと2ケ月足らずで丸3年になります。当初からその日にあった過去の出来事を取り上げ、「今日は何の日」式に綴ってきました。一昨年の7月に、フランス革命の連載を始めたのを機に、今日は何の日にプラスして、もう少し巾を広げたものを、気ままに綴ってきました。 何の日の叙述の中には、いくつか重い話題も取り上げましたが、あまりにポピュラーな8/15とか8/6とかは、意識的に取り上げずに来ました。ブロガーのお仲間の中には、それを不満として、カツを入れてくださった方もあリました。大変有難いことでした。書けよと、背中を押して下さっている気配も強く感じました。しかし、今日のクロニクルでも、旭川の日本最古のホコ天の誕生という、比較的軽い話題にさせていただきました。07,08両年の8月6日のブログでも、広島には一切言及していません。そんな私も、今日の新聞報道を見て、これはスルーするわけにいかないと考えました。マスコミ報道に、いやそれ以上にマスコミの報道姿勢に、物足りなさを強く感じたからです。 原爆の投下はまさしく、大量破壊兵器による無差別殺人でした。大都市や地方都市を狙い、住民を焼き殺すことを狙った空襲もまた、間違いのない戦争犯罪でした。それは真珠湾の奇襲攻撃に対する報復としうるものではありません。ハワイは当時米州に編入されていませんから、米国の植民地であっても、米国本土ではありませんなどと、細かな事実を掘り返す気はありませんが、真珠湾は米軍の軍港でしたから、突然であろうがなかろうが、敵の攻撃にさらされる危険は、当然ある場所でした。 対等の原則に立つならば、米軍の攻撃は、日本の軍港に対してのみ、正当性を持ったといえましょう。日本各地の空襲は、間違いなく戦争犯罪でした。当然、広島と長崎は、超のつく戦争犯罪です。米国と仲良くするなとは申しません。大いに仲良くして結構ですが、そのためには、米軍のしたことを全て指摘し、全ての事実を見るように勧め、その上でどう受け止めたかを、聞きただしたうえでの、謝罪と許しに立つべきです。そのためには、我々もまた、日本軍や日本人の戦争犯罪から、目をそらすことは出来ません。我々もまた過去の事実を厳しく見つめ、各地で犯した戦争犯罪の全てを掘り起こし、その全てを正視する必要があります。 自分達が過去の事実から目をそらしているがゆえに、かつての敵の犯罪行為を正すことが出来ない。このようないびつな構図は、打破しなければならない。私はこう考えます。 今朝の新聞に、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの乗組員のインタビュー記事が載っていました。彼は、原爆投下が日本の降伏を早め、結果として命の犠牲を少なくしたという、米国政府の公式見解、退役軍人会の公式見解をなぞる意見を、表明していました。こうした主張は、戦争犯罪者の自己正当化の論理そのものなのですが、では彼は、そして彼と同じ論理を唱える米国人は、いずれも広島や長崎を訪れ、その被害の実情に触れたことがあるのかと言うことです。オマエの論理は間違っていると指摘しても、おそらく水掛け論になるでしょう。それよりは、「あなたは広島の実情を知っているのか? あなたの投下した爆弾が、どのような結果をもたらしたのか。その事実をあなたは知るべきだと思うが…」「あなたの主張が、広島で起きたことを知った上でも変わらないかどうか、私は知りたい」せめて、インタビューした記者氏には、この程度のことは、主張して欲しかった。それがないとは、あまりに情けない。私はこのように感じたことを記しておきます。 毎年8月6日と9日は、峠三吉のこの詩を紐解くことにしています。 「にんげんをかえせ」 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ
2020.08.06
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クロニクル 岩波書店創業1913(大正2)年8月5日 岩波書店、今日が創業107年の日にあたります。107年前のこの日、岩波茂雄は神田神保町に古書店、岩波書店を創業しました。創業当初から正札販売を掲げて、一切値引きをしない方針を貫き、その方針から夏目漱石の知遇を得、創業の翌年、漱石の『こころ』を出版することになり、出版に乗り出すことになりました。 初期は、漱石の著作の出版権を獲得できたことが大きく、漱石全集のヒットが、社業の安定と発展の鍵となりました。その後1927(昭和2)年には、岩波文庫を創刊。1938(昭和13)年には岩波新書を創刊するなど、出版文化の発展に貢献してきました。 電子書籍の普及など、昨今はまた出版革命の様相を呈していますが、さて岩波は、どのように対応するのでしょうね。
2020.08.05
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クロニクル ビヤホールの誕生1899(明治32)年8月4日121年前のことになります。今の銀座8丁目に日本麦酒醸造株式会社(現在のサッポロビール)によって「恵比寿ビヤホール」が開かれ、初めて「ビヤホール」の名称が使われました。これを記念して8月4日は「ビヤホールの日」となっています。ただし、日本のビヤホールのルーツをさらに辿ると、この2年前の1897年(明治30)年7月20日に、大阪中之島の大江橋南詰に大阪麦酒株式会社(現在のアサヒビール)によって、「氷室生ビール」と洋食をメニューにした「アサヒ軒」が開かれています。食事処を兼ねていたので、純粋のビヤホールとはみなされなかったようです。しかし、今年は各地のビヤホール、どうしてるのでしょうね。屋上ビアガーデンも閉鎖のところが多いようですし、夏の風物詩も、お預けの雰囲気ですね。それにしても安倍内閣のコロナ対応は、あまりにもまずすぎますね。すぐにでも臨時国会を開いて、次々にコロナ対応の臨時立法を成立させていくべきでしょうが、戦前からのいきさつで、未だに独立組織のままの保健所を、一時的に厚労省の管轄下に置くことにする臨時立法すら、提案する気概もなく、ひたすら野党の追及を逃れるためだけに、臨時国会は開かないの一点張りの首相、あまりのお気楽天狗に、怒りを通り越して、あきれ果てています。
2020.08.04
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クロニクル 裁判員裁判始まる2009(平成21)年8月3日 日本で初めて、裁判員制度を適用した裁判の初公判が、11年前の今日、東京地裁で行われました。これが裁判員裁判の幕開けでした。それから11年、種々な事例が蓄積され、いくつか大きな問題点も指摘されるようになりましたが、今後の動きをなお注意深く、見守っていく必要がありそうですね。 民間人には、決行負担が重そうですね。
2020.08.03
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クロニクル トンキン湾事件1964(昭和39)年8月2日それは、東京オリンピックの開幕を70日後に控えた、真夏の暑い日でした。 ですから56年前にあたります。この日、米国政府は、米海軍の駆逐艦マドックスが、北ヴェトナム魚雷艇の攻撃を受けたと発表しました。 米国議会は、直ちにジョンソン大統領に、北ヴェトナム攻撃に対するフリーハンドを、上下両院とも圧倒的多数で付与したのです(上院は反対2票、下院は反対0)。その結果、米国は、北ヴェトナムに対する北爆を開始し、さらには地上部隊も投入するなど、ヴェトナム戦争への本格介入を招くことになりました。なお、1972年になって、この事件はペンダゴンによる捏造であったことが、ニューヨーク・タイムスのニール・シーハン記者によって、明らかにされました。 政府の主張を単に支持するだけに堕すことなく、国民のために政府を監視する役割もきちんと果たそうとする米国マスコミの面目躍如と、日本のマスコミの状況に照らして、うらやましく思ったものでした。
2020.08.02
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クロニクル 甲子園球場完成1924(大正13)年8月1日 今年も8月になりました。例年ですと、球児たちの夏「夏の甲子園大会」の出場校も決まり、大会の話題で盛り上がっている頃です。今年は残念なことになりましたが、今日8月1日は、阪神甲子園球場の96回目の誕生日なのです。 阪神甲子園球場は、阪神タイガースのために作られたわけではありません。日本のプロ野球の誕生は、球場の建設から10年以上遅れます。球場は、全国中等学校優勝野球大会の開催を主目的として建設された、日本で最初に誕生した大規模多目的野球場です。収容人数は日本の野球場の中で最大でした。 大正4年(1915年)に始まった全国中等学校優勝野球大会は、豊中球場で始まったのですが、第3回大会から鳴尾球場で開かれていました。ところが、人気の高まりにつれ同球場の仮設スタンドでは、大勢の観客を収容しきれなくなったのです。そして、試合中に観客がグラウンドになだれ込んで試合が中断するという事態まで起きたのです。特に大正12年(1923年)の第9回大会では鳴尾球場に近い地元甲陽中学が決勝戦で和歌山中学との、近畿対決を制したことから、中等学校野球人気がピークに達したのです。この事態を重く見た主催の大阪朝日新聞は、本格的な野球場建設を提案しました。また鳴尾球場の所有者である阪神電鉄も新球場の建設を計画していたため、話はとんとん拍子に進み、この日阪神甲子園球場が完成をみたのです。
2020.08.01
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