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ロニクル 日大全共闘の徹夜団交1968(昭和43)年9月30日52年前のことです。この日、両国の日大講堂で、日大全共闘系の学生ら約1万人を集めての全学集会が開かれました。周辺には支援の学生2万5千人と、これを妨害しようとする体育会系学生を中心とした800人が集合して異様な空気が漲っていました。 国税庁による使徒不明金20億円の摘発に端を発した日大闘争は、やがて広範な学内民主化闘争の様相を強め、5月23日には、同大学で始めてのデモが行なわれ、4日後の27日、各学部から7千人が参加して、全学共闘会議(委員長 秋田明大(あけひろ))が結成されました。 日大全共闘は、大学当局との大衆団交を要求して、次々にバリケードで教室等を占拠しながら無期限のストライキに(バリケードに篭ったストライキでしたから、学生用語で、バリストと呼ばれました)突入しました。 当局は体育会系学生を使って殴り込みをかけ、さらには再三にわたって機動隊の出動を要請し、学生には多くの怪我人が出る始末となりました。さて、30日に戻ると、3時頃に古田会頭が姿を見せると、場内は騒然となり「集会の自由を認めよ」というシュプレヒコールが、沸き起こりました。この集会は翌日午前3時まで、12時間に渡る徹夜団交となり、古田会頭はこれまでの当局の対応を全面的に謝罪し、学生の自治権の確立や体育会の解散などを約束しました。しかし、当局は10月3日になると、学生との約束を一方的に破棄して、秋田議長ら学生幹部を当局に告発。秋田議長らには逮捕状が出されるに至ります。こうした当局の態度が問題をこじらせ、長期間に渡って、全学ストライキが続けられる事態となりました。 成田空港の開設問題もそうでしたが、当局の初期の対応のまずさが、後々に大きな禍根を残すのですね。政治家や行政側には、このことをしっかり肝に銘じてほしいのですが、この点の学習能力は、他の点に比べても低すぎるようですね。なんとかならないのかな?
2020.09.30
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クロニクル ミュンヘン会談始まる1938(昭和13)年9月29日ヒトラーを増長させ、第2次世界大戦を招くことになった、悪名高き融和政策の頂点を示すミュンヘン会談が、82年前の今日、ドイツバイエルン州の州都ミュンヘンで始まりました。ラジオ時代のサッポロビールのコマーシャルソングとして名高い、「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー、うまいビールの合言葉…」でお馴染みのミュンヘンです。1933年に選挙で勝利して政権を取ったヒトラーは、まず政敵を次々と弾圧しながら、ヴェルサイユ条約を無視して軍拡を進めることで、軍需生産中心の公共投資で経済の回復に努めて国民の支持を固めると、1936年~37年、自由と民主主義を謳歌していたスペイン共和国の人民戦線内閣に対する、既得権を守ろうとする財界・大地主・軍部中心のフランコ反乱軍に肩入れして、ファシズム連合を組むイタリアのムッソリーニ政権と組んで介入、英仏が共和政府を支援せず非介入を貫いたことを横目に、大量の武器弾薬と空軍を派遣して共和政府軍を圧倒、フランコ独裁政権を作り上げ、英仏の弱腰を見抜いて、第1次世界大戦で失ったドイツ領土の回復を目指すようになりました。38年3月には、オーストリアを併合、4月からドイツ系住民が2割強を占めるチェコ・スロバキアのズデーデン地方の強奪を狙ったのです。9月にはいよいよ強奪の仕上げとばかり、武力に訴えてズデーデン地方に侵攻、その地を占領するに至りました。この情勢を放置できず、ソ連の介入を避ける思惑から英仏が動き、ここに82年前の今日、英仏独伊4か国の首脳がミュンヘンに集まり、当事国のチェコスロバア首相は、会議に参加させずに別室に待機させ、翌0日にかけての会談を開いたのです。この段階でも、英仏首脳は国民が平和を望んでいることを背景に、対独戦争を避けることに終始し、全ての犠牲を小国チェコ・スロバキアに押し付けることで、ヒトラーの要求をすべて認め、「今後新たな領土要求はしない」ことだけをヒトラーに約束させることで満足したのです。英仏首脳は国内に戻って、「国民諸君、戦争は回避された。平和は保たれた」と演説し熱烈に支持されたのですが、一方のヒトラーは、英仏の弱腰を読み切り、今後さらに領土拡大に踏み切っても、英仏は出てこないだろうと考え、翌年にかけチェコスロバイア全土を支配下に置き、さらに39年9月1日には、ポーランドへの侵攻に踏み切ったのです。ここに英仏も、ポーランド侵攻を放置すれば、次は当然矛先を西へも向け、仏英の占領を狙ってくるだろうと考えるに至り、重い腰をあげて、9月3日に対独宣戦布告に踏み切り、第2次世界大戦の幕が上がったのです。融和政策を批判したイギリスのチャーチルは、もっと早く、遅くもミュンヘンの時点で、ヒトラーを叩いておけば、第2次世界大戦は起きずに済んだであろう」と語っています。
2020.09.29
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クロニクル 日本赤軍ダッカ事件1977(昭和52)年9月28日43年前のこの日、パリ発成田行きの日本航空機が、インドのポンペイ(現ムンバイ)空港を離陸直後に、日本赤軍メンバーにハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強行着陸しました。 乗員14人、乗客142人の計156人が人質とされました。ハイジャックグループは、75年にマレーシアのクアラルンプールで、アメリカとスウェーデンの両大使館を占拠した日本赤軍メンバーと一緒と見られ、拘留中の赤軍派メンバー9人の出国と身代金600万ドル(当事のレートで約16億円)を要求してきました。 欧米からは、要求に屈せず、断固たる措置を求められましたが、時の福田赳夫首相は、「人命は地球より重い」の名せリフと共に、要求受け入れを決断、10月1日、出国を希望した6名と身代金をダッカに移送。ハイジャックグループは3日、アルジェリアに向かい、アルジェ空港で人質全員が、 無事解放されました。事件発生から、134時間後のことでした。
2020.09.28
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クロニクル 狩野川台風襲来1958(昭和33)年9月27日 昨日に続いて台風の記事です。62年前のこの日、狩野川台風(58年産 台風22号)が、静岡県中伊豆地方を流れる狩野川を決壊させ、この地に大きな被害を齎しました。特に名湯修善寺温泉が大きな被害を受けました。 死者331名、家屋の全壊及び流出1,044戸に及ぶ被害がでした。翌年9月26日襲来の伊勢湾台風の方が広い範囲に及び、より大きな被害となっていますが、関東の人間にとっては、狩野川台風の被害も忘れられないものとなっています。勿論学校は休みとなり(電車は動きませんから…)家の雨戸は全て釘を打って、飛ばされないように準備しても、ガタガタとまるで地震のような激しい揺れと、木々の揺れる音も激しく、ついには折れた樹木が電線を切断して停電、頼りはトランジスタラジオの情報だけになった記憶が僅かに残っています。最近の台風はより大型化しているようであり、しかも日本近海で発生するケースも多く、それだけ強い勢力のまま、上陸してくるケースも増えそうです。とっても厄介ですが、互い気を付けてまいりましょう。
2020.09.27
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クロニクル 青函連絡船洞爺丸沈没 1959(昭和34)年9月26日61年前のことです。この日。午後6時39分に函館港を出航した青函連絡船洞爺丸は、台風15号の影響による強風に煽られて航行不能に陥り、波に流されて座礁、午後10時26分のSOS信号の発信を最後に転覆しました。 東海地方を直撃した台風15号(有名な伊勢湾台風です)は、昼頃能登半島を抜けて日本海に出、夕刻津軽海峡に到達しました。洞爺丸は、風速40mを越す強風が吹き荒れていたため、出航を見合わせて台風の通過を待ち、風が凪ぐのを待って天候回復と判断し、午後6時39分に函館港を出航したのです。当時の気象情報の限界なのでしょうが、台風の目に入ったことを、通過と勘違いしたのです。そのため、出航後しばらくして、台風の影響による強風に煽られて航行不能に陥ってしまい、近くの港に避難しようとしたのですが、時すでに遅く、波に流されて座礁してしまい、午後10時26分のSOS信号の発信を最後に転覆してしまいました。 洞爺丸には、乗員・乗客1314人が乗船していましたが、同時に遭難した4艘の貨物船を合わせて、1155人の死者、行方不明者を出す大惨事となりました。世界の海難事故史上、タイタニック号の遭難に次ぐ、第2位の大惨事になりました。 生存者は僅か159人でした。 青函連絡船、青函トンネルの運用開始とともに役割を終え、今では運行されておりません。
2020.09.26
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クロニクル 日本中央競馬会(JRA)中央競馬初開催1954(昭和29)年9月25日 中央競馬(ちゅうおうけいば)とは日本中央競馬会(JRA)が主催する競馬を指します。66年前のこの日、その中央競馬が東京競馬場、京都競馬場において初めて開催されました。レースは午前10時頃から、午後4時過ぎ頃まで、1日に12レース行われることが多いようです。
2020.09.25
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クロニクル 日本初のBSE患者確認2001(平成13)年9月22日19年前ですから、21世紀に入った年、9/11の衝撃がまだ覚めない時期でした。そんなこの日、千葉県で日本初のBSE(牛海綿状脳症)感染者が確認されました。BSEは1990年代に欧州諸国で大流行し、放牧牛を中心に大量の被害がでたのですが、病気の牛を食べた人間にも、同様の症状が現れることが確認されました。人への感染被害はイギリスが中心でしたが、やがて、カナダ経由で米国でも、被害が確認されました。しかし、日本人に比べ、はるかに多くの牛肉を口にし、脳漿や臓物等なども口にする欧米人に比べ、日本人が感染する確率ははるかに低いだろうと考えられていただけに、この日の感染確認は、センセーショナルでした。この男性は、90年代に1ヶ月程度、イギリスに滞在し、勧められるままに、牛の脳漿を口にしたことが分かり、日本国内での感染とは異なるらしいことが明らかとなりましたが、その後、日本への牛肉輸出の多い米国で、BSE牛が発見されると、かなり長期にわたって米国からの牛肉輸入がストップするなど、食の安全を巡る議論がしばらく賑やかになりました。後日談です。この出来事からほどなく、90年代に数日間以上イギリスに滞在した人物の献血は受け付けないと日赤が発表、93年に半月ほどロンドンとレスターに滞在した私は、以後毎年1回つづめていた献血が出来なくなりました。
2020.09.22
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クロニクル イギリス金本位制を離脱1931(昭和6)年9月21日アメリカウォール街の株価大暴落がきっかけとされる世界恐慌は、今とは比較にならない程小さな規模でしたが、それでも当事の世界経済をボディブローでいたぶるかのように、じわじわと締め上げ、およそ2年後の31年秋には、ソ連を除く(社会主義国ソ連は、世界貿易のカヤの外に置かれていたからです。何が幸いするか分からないのが、この世界ですね)全世界に波及しました。 困った日本が、満州侵略という行動を起こしてから間もないこの日、今度はイギリスが金本位制を廃止し、大英帝国支配下の自治国(カナダ・オーストラリア等)と植民地を囲い込み、排他的な経済ブロックの形成を目指しました。89年前のことです。フランスもこれに続き、やがて、世界経済の要だった金本位制は崩壊しました。ここに金という世界共通の尺度を失ったため、世界貿易は一段と縮小し、世界恐慌は出口のない泥沼の様相を示すようになりました。 今日の日米欧の超金融緩和の横並びは、果たしてどんな結果に繋がるのか、いまだ先が見通せない混迷の中にあるようです。とりわけ、事実上中央銀行による無制限引き受けの状態にあるだけに、超金融緩和の歯止めがない状態に陥っており、先行きに明るい見通しは描けないように思えます。
2020.09.21
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クロニクル 野坂名誉議長解任1992(平成4)年9月20日28年前のこの日、日本共産党の中央委員会は、野坂参三名誉議長の解任を発表しました。野坂は昭和前期の左翼勢力や自由主義者の大弾圧期に、中国に脱出して逮捕を免れ、戦後しばらくして帰国。宮本顕治らと共に、党を指導しました。ソフトな語り口と穏やかな人柄が受け、激戦の参議院東京地方区において、連続当選を続けておりました。ところが、100歳を祝われた直後でしたが、この年ソ連崩壊後の公文書の公開によって、ソ連のスパイとしての活動があったことが明らかとされ、この日の解任となりました。 その後さらに党からの除名処分の追い打ちを受けたのですが、彼は一言の弁解もせず、ただ、「残念ながら事実なので、この処分を認めざるをえない。」との談話を発表しています。処分の翌年101歳で他界しました。
2020.09.20
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クロニクル ニュージーランド 女性参政権を付与明治26(1893)年9月19日127年も前なんですね。この日ニュージーランドで、世界で初めて、国政選挙での女性の参政権を認める、選挙法改正案が可決成立しました。国政選挙と断るのは、この時既に米国のいくつかの州で、州議会の議員選挙について、女性参政権を部分的に認めていた州があったからです。しかし、国政選挙の選挙権を認めたのは、ニュージーランドだったのです。現在ニュージーランドは、ニュージーランドドルと呼ばれる通貨を発行していますが、その紙幣に描かれているケイト・シェパードさんは、この女性選挙権獲得運動のリーダーにして、最大の功労者だった人物です。彼女は、仲間を募って、同年7月「女性の参政権を認めるための署名活動」を組織、短期間に3万2千人の署名を集めることに成功したのです。当時のニュージーランドの白人人口は、男性34万5千人、女性30万5千人と、僅か65万人にすぎなかったのです。ですから、子どもを含む人口の5%もの署名を集めたのですね。日本で5%の署名を集めるとなると、630万人程度になりますから、その大変さが分かると思います。この署名の重みが理解され、休会明けの議会は、次期選挙での女性の投票権を認める法案を可決、ここにニュージーランドは、世界初の国政選挙での女性参政権を承認した国の栄誉を担ったのです。19世紀中に女性参政権を認めた国は、ニュージーランドのみで、2番目に認めた国は隣国のオーストラリアなのですが、こちらは20世紀に入った1902年の事でした。以下06年にフィンランド、13年のノルウェー、15年のデンマークと北ヨーロッパの国々が続き、第一次大戦後のラッシュの時期を迎えることになります。ちなみにニュージーランド女性が、被選挙権を獲得するのは、26年後の1919年の事でした。
2020.09.19
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クロニクル 全学連の誕生1948(昭和23)年9月18日72年前になります。敗戦から3年後ですね。この日、日本の学生自治会の連合組織である全日本学生自治会総連合(略称 全学連)が145大学の学生自治会が参加して結成されました。一時期勇名を馳せた「全学連」の誕生です。大戦中に壊滅状態に追い込まれた学生運動は、敗戦の年の秋、学生が学園に戻る中で、早くも45年秋から復活の狼煙をあげて、動き端ました。最初は、学生の生活支援の色彩が強く、生協運動や、住宅事業の改善を目指した学生会館(寮)の建設運動でしたが、次第に勤労動員や学徒出陣から戻った学生が中心となって、学園民主化闘争に発展し、旧制高校では軍国主義校長の追放、追放処分を受けていた進歩派教授の復職などを掲げて全学ストライキを実行して、成果をあげました。運動は、戦時中の言動を自己批判するでもなく、何事もなかったかのように民主主義を口にする無節操な教員への強い批判へと続き、1946年5月の早稲田大学を皮切りに、学生全員参加型の学生自治会として、次々に各大学や高等学校に誕生しました。発足当初は、日本共産党の指導下にありましたが、当時の共産党は学生を重視せず、党の中心はあくまで労働者階級であって、学生は労働者階級の補助をする存在とされており、学生固有の問題は取り上げてもらえないなど、次第に党中央と学生組織の間に亀裂が生じ、全学連運動の中心は、次第に新左翼系の組織にとって代わってゆき、60年の安保闘争を最後に、分裂を繰り返し、現在では、「泣く子も黙る全学連」の勢いは、完全に失われてしまっています。今や細々と、亡きがらのような存在が辛うじて残っています。
2020.09.18
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クロニクル 自衛隊海外へ 1992(平成4)年9月17日 もう28年も経ったのですね。この日、この年8月10日に施行されたPKO協力法に基づいて、自衛隊の第1陣がカンボジアに向けて,広島県の呉港を出発しました。 戦後の日本は、平和主義を国是に、2度と戦争の惨禍を引き起こさないことを誓い、国際紛争解決の手段としては、武力による威嚇も、武力の行使も決して行なわないことを宣言しました。そしてそのために、陸・海・空軍その他の戦力はこれを保持しないと高らかに宣言しました。私はこの精神を大いに評価し、世界に対して誇らしく思っています。 それが、いつのまにか自衛のための戦力は、国際紛争解決に使うわけではないから……とこじつけて、自衛隊は軍隊ではないと,言い逃れて…、次第に戦力を整え、自衛の…という言い訳が国際的に通用しなくなると、今度は国際貢献を…と論点をすり替え、治安維持部隊は紛争に参加するわけではないとこじつけて、とうとう自衛隊を海外に派兵するに至ってしまいました。 カンボジアに続いてはアンゴラ、続いてと、遂にはあの不道徳なイラク戦争のイラクにまで、自衛隊は派遣され、さらにはインド洋で、海上自衛隊が給油という名の、作戦行動に従事し、細菌では遠くアフリカのスーダンにまで出かけていました。 そして5年前の「安保法制」、随分きな臭くなってきましたね。私は戦争は外交努力の失敗の結果と考えていますので、戦争に訴えることには、あくまで反対です。
2020.09.17
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2009(平成21)年9月16日あれから11年なんですね。11年前今日のことです。民主党代表の鳩山由紀夫氏が第93代内閣総理大臣に選ばれ、民主党、社会民主党、国民新党の3党連立内閣が誕生しました。それにしても、あれから11年ですか。「あの頃のあの熱気、あれはいったい何処に消えたのでしょうね。」 そんな風に感じて結構長くなりました。そして、「あの人たちには、当分政権をとってほしくない。」という空気感が、まだまだ残っているようです。その鳩山さん、今でも時々登場しては、昔のなかまたちの足を引っ張っていますね。全く空気の読めない困ったオヒトです。奇しくも今日は、菅内閣の誕生日。あの鳩山内閣の誕生と同じ日とは……。
2020.09.16
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クロニクル 缶ビール登場1958(昭和33)年9月15日62年前の話になります。62年前、私は高校1年生でした。この年は、ミスタープロ野球こと、長嶋茂雄さんがジャイアンツの一員として鮮烈なデビューを果たした年、そして皇太子時代の現上皇と現上皇后の婚約が、発表された年でもあります。その62年前の今日、日本で始めての缶入りビールが発売されました。発売元は朝日麦酒(現社名アサヒビール)株式会社でした。 今では、缶ビールの製法も向上し、瓶ビールと変らぬ味わいを確保できるようになっていますが、当時の缶ビールは瓶ビールに比べると、味の点で物足りなかったことは事実で、瓶ビールの補完物的位置にありました。 缶ビールの質の向上と、売り上げの増加は、1970年代から顕著となり、現在に至っていることは、ご存知の通りです。
2020.09.15
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クロニクル 金閣再建1955(昭和30)年9月14日65年前のことです。1950(昭和25)年の7月に放火によって焼失した金閣(鹿苑寺舎利殿)が、5年2ヵ月後のこの日再建され、金色に輝く姿を披露しました。落慶法要は10月10日に行なわれました。私がはじめて金閣を目にしたのは、再建から4年後1959年の夏でした。あまりに金ぴかで、びっくりしたのを覚えています。足利義満が創建した当時も、人々を驚かせたのでしょうね。ただ何度か訪問するうちに、金ぴかには関心が持てなくなりました。時代を感じさせるものの方に、心惹かれるものを感じるようになったからです。
2020.09.14
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クロニクル 砂川基地反対闘争佳境に1955(昭和30)年9月13日8/15の敗戦から10年、65年前のことです。当時は米ソ冷戦いよいよ激しく、アメリカは日本国内の空軍基地の拡張を急いでいました。そこで考えられたのが、既存の立川基地に隣接する砂川町に基地を拡張することでした。この日、反対派農民の声を無視して、政府は強制測量を開始。警官隊と反対派が激しくぶつかり合い、多数の怪我人が出ました。当時はなお、戦後の焼け跡時代の名残ともいうべき、バラック建築が密集した横丁が新宿、池袋、渋谷などの駅近の繁華街の一角に残っており、反戦・平和の意識が国民一般の間に強く残っており、日本の地理的位置を俯瞰して、米ソもし戦わば、日本の位置は、どちらにとっても敵側の前線基地がおかれるとなると、放置できないと考えるに違いなく、敵側の基地になるぐらいなら、地球上から抹殺した方が理にかなうと考えてもおかしくない位置にある。つまり開戦すれば間違いなく日本は消されるとした悲観論も、一部で強い影響力を持っていました。この2年後にはキューバ危機もありましたが、米ソの開戦にならなくて本当に良かったですね。 時移りて、立川基地は返還され、朝霞の駐屯地も返還、三多摩地区の米軍基地は、今や横田基地を残すだけになりました。横田と航空管制権や厚木基地も、返還してほしいですね。
2020.09.13
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クロニクル 新橋~横浜鉄道開通1872(明治5)年9月12日148年前のこの日、明治天皇をお迎えして,新橋・横浜の両駅で鉄道の開業式が行なわれました。当初は9日に予定されていたのですが、台風の襲来が予想されたために、12日に延期されたものでした。いかにも日本の9月という感じがします。 一般客を乗せる本格的な営業は、翌13日から開始されました。この日天皇は新橋から乗車、小1時間の旅で横浜に到着(正確には53分)、式典後すぐに列車で新橋に戻り、新橋でも式典を行ないました。この日新橋駅では、観客席が設けられたのですが、先着の約2万名に赤飯を配り、天皇の戻られるのを待ったといいます。観客は出発後,僅か3時間程度で天皇が戻られたのを知り、あまりの早さにびっくり仰天し、陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれた鉄道のスピードに感心しきりだったと、伝えられています。ところで、明治5(1872)年の日本に独自技術で鉄路を作り,機関車を作る実力はまだありません。いずれも輸入品でした。イギリスが狭軌の鉄道を広軌の鉄道に切替えていたため、不要になった狭軌の機関車や客車を譲り受けたのです。新品を購入するほどの資金もなかったのかもしれませんが、それ以上に1日も早く鉄道をという、新政府の意気込みが中古品でも早く引き渡してもらえる方が良いという、判断になったそうです。さて、駅は当時停車場と呼ばれていたのですが、その停車場の位置は、新橋は汐留にありました。既成の市街地の一角を壊して、そこに鉄道を引き入れ,大名屋敷の敷地に停車場が作られたことは、汐留の再開発のために近年実施された発掘調査で明かになっています。一方横浜停車場は、市街地には入らず開港場の北西の外れに出来たばかりの埋立地でした。現在の桜木町駅がその後身です。 開業当初の新橋ー横浜間の所要時間は53分。運賃は上等が1円25銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘の3段階になっていました。現在の2段階になったのがいつかは、忘れてしまいましたが、私の子どもの頃はまだ、1~3等の3段階だったことを覚えています。当時の1円は、現在価値に直すと、ほぼ1万円にあたります。その後数度のインフレを経験し、明治30年代半ばの1円の価値は、3,800円程度まで落ちていましたが、結構な料金ですね。1日の運行本数は午前に4往復、午後に5往復の9往復でした。停車場は途中に、品川,川崎、鶴見、神奈川の4ヶ所が設けられました。
2020.09.12
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原爆投下その後 その11この項も長くなりました。そろそろ終わりにして、またクロニクルに戻りたいと思います。今年の2月から、降って沸いたように中途半端な情報がマスコミから垂れ流された新型コロナウイルスですが、中国武漢の食糧市場から、売られていた蝙蝠を介して人に広まったという説が、しきりに中国から流れましたが、これは真相を知られては困る中国が流している、偽情報と考えていいように思います。実際はどうなのか、昨日記したように、世界では日本のように軍事大国とは言えない国も含めて、化学兵器や細菌・ウイルス兵器の研究開発が続けられており、そうした兵器に対する対応策(ワクチン開発や解毒剤の研究)も研究されているのが現実です。新型コロナウイルスの遺伝子を解析すると、自然界に存在するウイルスとは、明らかに異なる塩基の配列があることも、突き止められました。ということは、中国政府はひたすら取材に応じずに、否定ばかり繰り返していますが、武漢の病毒研究所かその付帯施設や関連施設のどこかで、培養・研究にあたっていた新型のウイルスが、研究者やその協力者らの何らかの不手際で、研究所の外にウイルスが漏れたのだろうと考えられるということになります。武漢の病毒研究所は、最高レベルの危険なウイルスの研究実験施設備え、中国のウイルス研究の中枢施設であることが分かっています。勿論中国が事実を明らかにすることはないでしょう。研究員の何らかのミスで、危険なウイルスや細菌が施設の外に漏れてしまうということは、何処の国のそうした施設でも起こりえます。その場合、どの国も可能な限りそうした事実を隠蔽し、ミスは否定し続けるでしょう。事実を認めれば、国内からも猛烈な反発が起き、そうした施設を存続させることが難しくなるからです。中国も同じです。外国からの調査団の派遣は、断乎として拒否するでしょうし(現に今も米国からの調査団受け入れ要請は、拒否し続けています)、真相は明らかにされないでしょう。で、何が問題化というと、現在の新型コロナ感染症は、やがて乗り越えられるでしょうが、こうした新型ウイルスや新しい細菌による感染症は、今後も何度も起きる確率がかなり高そうだということです。化学兵器、細菌・ウイルス兵器の開発競争が続く限り、状況は改善しないということです。人間の愚かさはここまで来ている。核兵器は意図的に発射しない限り使われませんが、こちらは意図せずに漏れ出して大事に至ることがありうるだけに、核兵器よりも怖いものになっています。次なる新型細菌や新型ウイルスも我々を狙っている。この事実を覚えていて下さい。長期のご愛読ありがとうございました。
2020.09.11
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原爆投下その後 その10核兵器もですが、核兵器よりも使用が簡単で、核兵器と同等ないしはそれ以上の効果が期待できる悪魔の兵器があります。毒物や細菌兵器がそれです。毒ガス兵器は、第一次世界大戦で大量に使われました。まずドイツ軍が1916年の西部戦線で使い、それに対抗して英仏軍も使い始めました。両軍の毒ガス兵器の使用で、膨大な犠牲者が出た教訓から、戦後生物・化学兵器の製造と使用については、国際条約で厳しく禁止されることになりました。それでも、米ソ両大国や両陣営に属する国々は、第二次大戦後の冷戦期においても、細菌やウイルス戦の研究をやめることなく続けてきました。1995年の地下鉄サリン事件の時、オウム真理教の山梨県上九一色村に捜査に入った警察官たちが、全身を防護服で覆い、毒ガス除けのスタイルという異様なスタイルであったことを、ご記憶でしょう。あの装置自衛隊からの借用物でした。ということは、自衛隊もまた、細菌やウイルスの研究を続けていたことが明らかになりました。続けなければ有効な解毒剤やワクチンの研究ができなくなるからです。生物・化学兵器で攻撃された際に備えて、ワクチンや抗体を準備しておかなければならないからです。9/11同時多発テロの際に、ワシントンの連邦議会に「炭素菌」入りの手紙が届き、死者も出たことで、首都が一時的にパニック状態になったことがありました。議会に出入りする人は全員炭疽菌に備える薬を飲むことを一時期義務付けられました。その6年前の日本でのサリン事件も、化学兵器の恐怖と、簡単な施設さえあれば、大量の致死性毒ガスが作り出せることを示しました。そして、エボラ出血熱、SARSと言ったウイルスに、新型コロナウイルスが登場、世界経済と人命に大きな損害を与えました。被害は大変に大きくなっています。 続く
2020.09.10
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原爆投下その後 その9ビキニ環礁での水爆実験による第5福竜丸外の、日本のマグロ漁船の被爆について、米政府が同対応したかについて、コメント欄でご質問をいただきましたので、お答えします。米国政府の対応は素早くいものでした。ただしそれは、申し訳ないというものではなく、マグロ漁船の被爆に関するマスコミ報道と、日本国民の反応を見て、反核運動がさらに広がることと、せっかく好転している日本国民の対米感情が、反米へと大きく振れることを警戒して、被爆した漁船員たちへの見舞金の提供でした。その額当時の金額で200万ドル(約7億2千万円)でした。独立して間もなく、いまだ米国と対等に渡り合うことなど、到底できなかった日本政府には、強い姿勢で米国にあたることなど、まったく不可能でしたから、米国の提示額をただ飲まされた形でした。しかも米国は、自国の責任を一切認めず、漁船員たちの病状は、C型肝炎やB型肝炎によるものであり。原爆症の症状とは異なるの1点張りで、水爆実験による被ばくであるとは、最後まで認めなかったのです。ですから、200万ドルは、見舞金であり、賠償金ではないの1点張りで、最後の最後まで、自国の責任を認めずに通したのです。これが当時の米国の実情でした。さて、現在では、新兵器戦線の状況はどうなっているのでしょうか。新型コロナウイルス感染症の流行をヒントに、現在の兵器戦線を明日から考えることにしましょう。
2020.09.08
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原爆投下その後 その8部分的核実験禁止条約が締結され、大気圏内での核実験が禁止されましたが、地下施設での核実験は自由なままでした。死の灰の恐怖依頼、大気の放射能汚染に鋭敏となった世論を敵に回すことは避けたいと考えた核保有国は、フランスを除いて進んでこの条約を批准しました。全面的な核実験禁止を訴える勢力はなお運動を続けましたが、少なくとも、これから核実験を行おうと考えていた国々には、地下核実験に必要な施設を整えるのは、大きな負担でした。しかし、地上での核実験を行うことは。国際世論の総反撃を食らうことになります。中国もインドも、それを嫌いました。その結果、64年の中国の核実験を皮切りに、74年のインド、98年のインドとパキスタン、そして2006年からの北朝鮮の核実験まで(98年のフランスの南太平洋での大気圏内核実験を除いて)、全て地下実験として行われたのです。今なお、核兵器は現存しており、保有国は盛んに、核兵器の戦争抑止力に期待する旨の発言を繰り返しておりますが、管理の甘い国の核兵器が、過激派の手に渡る可能性がゼロとは断言できないのが、怖いところです。ところで、部分的核実験禁止条約を、核実験全面禁止条約に発展させる取り組みは、その後も続けられました。しかし、米ソ両国の反対もあって、なかなか先へ進まず、20世紀中に前進を見たのは、米ソ両核大国による、保有核兵器の削減条約だけでした。内容は、両国が互いに同数づつの核兵器を破棄しあうもので、両大国は、持ちすぎの核兵器の保有経費を減らす目的で、この条約に意味を見出していたのです。全面的な核実験禁止問題は、2006年に北朝鮮もが地下核実験を実行した時でした。98年のパキスタンもそうでしたが、冷戦の終結とソ連邦の崩壊によって、ソ連の優秀な核物質の研究者や技術者が失職し、彼ら彼女らの一部が、パキスタンや北朝鮮に高給d迎え入れられたことが、両国の核実験の成功につながったのです。北朝鮮までもが核兵器を持つに至った。これはもう待ったなしだ。こんな雰囲気が路上に蔓延し、2007年に核拡散防止条約の検討がはじめられ、2011年には、マレーシアなどが提出した「核兵器禁止条約」の交渉開始を求める決議が、127か国の賛成で可決しました。問題はその後です。5年後の2016年の国連総会第一委員会(軍縮担当)で、多国間の核兵器撤廃交渉を、来年から始める決議案が、123:38:16で可決されたのです。この決議案に日本は米国などと共に反対したのです。そればかりではありません。2017年7月に提案された「核兵器禁止条約」は、122か国の賛成で採択されたのですが、ここでも日本政府は、反対の姿勢を貫き、唯一の被爆国なのにと、揶揄されることになりました。日本政府は、「北朝鮮」が核を保持している以上、将来日本も核武装が必要になるかもしれないとでも考えているのではないか。国際世論はそう疑っているようです。私もそんなところだろうと思うのですが、これは大変残念な判断です。
2020.09.07
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原爆投下その後 その7核実験禁止運動が世界規模で盛り上がった背景には、核実験によって放出された放射能が大気中や海中に拡散し、動植物の食物連鎖の中で凝縮され、人体と環境に悪影響を及ぼすことが明らかとされました。日本初の核実験禁止運動が世界的な広がりを見せた背景には、このような事実がありました。こうした国際世論の盛り上がりは、米ソ両国にとっても無視できないものになりつつあり、こうした時期に起きたのが、1962年10月のキューバ危機でした。ソ連がキューバにミサイル基地を建設中であることが、米軍の偵察飛行による空撮で明らかになり、米国はキューバ近海を海上封鎖、核兵器を搭載した空軍機もいつでも出撃できる臨戦態勢をとりました。そうした中核ミサイルを積んだソ連の艦船が潜水艦の護衛の下で、フロリダ沖を通過、26日には、封鎖中の米艦船と対峙する形で停泊しました。まさに、米ソの核戦争勃発が、最も近づいた瞬間でした。米国の国防長官だったマクナマラは、人生最後の人覚悟したと後に語っています。こうした緊迫したギリギリの交渉の結果、ソ連のフルシチョフは、米国がキューバに侵攻しないことを約束するなら、キューバのミサイル基地は撤去するとの妥協案を提示、この提案をケネディ大統領が飲んだ結果、地球の滅亡の危機は、辛うじて回避されたのです。こうした危機回避の経験から、米ソ両首脳は英国も交えた交渉を通じ、核実験禁止の世論も踏まえ、翌63年8月14日、大気圏内並びに水中での核実験を禁止する、部分的核実験禁止条約(PTBT)を結んだのです。ただ60年に核開発に成功したフランスと、全力で核開発に取り組んでいた中国は、この条約に加盟せず、大気圏内の核実験を、この後も続けたのです。 続く
2020.09.04
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原爆投下その後 その6ビキニ環礁での水爆実験による第5福竜丸らの被爆事件は、日本社会に大きな影響を与えました。死の灰への恐怖。米ソ両大国による核開発競争によって、継続する核実験による大気の汚染による、放射性物質の体内への蓄積への不安などが、あちこちで話題となりました。こうした不安心理の延長戦上に登場したのが、東邦の特撮映画『ゴジラ』でした。『ゴジラ』は、同年(1954年)11月に封切られ、大ヒットしたのですが、度重なる核実験によって、深いところでの地殻変動と地温の上昇によって永年の眠りから覚め、地上に現れた怪獣として描かれ、放射性物質を食べて成長し、口から放射能をまき散らす怪獣という設定だったと思います。小学校6年生の記憶ですから、間違っているかもしれません。こうした状況の中、唯一の被爆国である日本が先頭になって、原水爆禁止運動が産声をあげます。発端は。東京都杉並区の主婦たちでした。彼女たちは、54年の5月に「水爆禁止署名運動杉並協議会」を結成、杉並区立公民館の協力を得て、艦長室を事務所として利用しながら、全国各地に署名運動への参加を呼びかけたのです。この運動は、大きな共感を呼び、運動は燎原の火のごとく全国に拡がり、8月には「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、まさに全国的な署名運動が展開されることとなったのです。この運動がきっかけとなり、原水爆禁止運動は世界的な共感を集め、翌年(1955年)8月、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれることになりました。運動の拡がりを見て、各地の労働組合も参加し、さらに当初は自民党から共産党までの諸政党が揃って参加したのですが、政党の論理の持ち込みが運動の分裂を産み、先ずは60年の安保改定を機に、自民党と民社党が抜け、次いでソ連の核実験を批判しない共産党と社会党の分裂が起き、原水協はさらに分裂してしまい、残念なことに世界的な影響力は大きく既存されてしまいました。政党から自由な民間の運動が支持を拡げ、大きな発信力と影響力を持つと、諸政党が寄ってきて、政党の論理を持ち込み、自らの影響下に置こうとします。こうした下心を持つ連中の参加を、敢然として拒否できないと、どんな運動も必ずじり貧になるという、残念な結果に終わります。政党のエゴ、困ったものですね。
2020.09.03
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原爆投下その後 その5第1次ヴェトナム独立戦争はインドシナ戦争と呼ばれました。ヴェトミン軍の活躍で、フランス軍が次第に追い詰められ、ディエンビエンフーに包囲されつつあった、1954年3月1日、南太平洋のビキニ環礁で、米国が実施した水爆実験で、広島、長崎に続く第3の日本人被爆事件が起きました。ビキニ環礁にほど近いマーシャル諸島周辺で、マグロはえ縄漁を営んでいた第5福竜丸らの被爆事件です。米軍は、秘密裡に水爆実験を行ったわけではなく、実験の告知と危険水域の設定も行い、水域内を立ち入り禁止区域としていたのですが、爆弾の威力は、米軍が想定した威力を大きく上回り、設定区域外で操業していた多くの漁船が放射性降灰物を大量に浴びることになったのです。米軍は後に爆弾の威力に適した線まで危険水域を拡大したところ、放射性降灰物を浴びた漁船は、第5福竜丸以外にも、100艘を超えたことが明らかになりました。ただ、船員たちの受けた被害は、第5福竜丸が突出していたのです。操業中に降灰物に遭遇した第5福竜丸は、危険察知して、海域からの脱出を急ぎましたが、はえ縄の回収には数時間の時間が必要です。そのため船長を含むすべての船員たちが、数時間にわたって放射性降灰物を浴び続けることとなったのです。その結果23名の船員全員が被爆したのです。船に回収した漁具や船そのもの、そして自分たちの衣類や人体そのものに付着した放射性物質を洗い流す必要のあることは、今日では私たち誰もが承知していることですが、当時はそんな知識はありません。結局、出航地の焼津港に戻るまで、2週間以上を汚染した船上で生活したのです。その間、原爆症の症状に苦しみながら、海上保安庁にSOSを発することもなく、自力航行を続けたのは、海の男の意地と、米軍に発見されたら被爆の事実を隠すために、撃沈されるかもしれないという恐怖の2つの要素があったそうです。帰着後、23名全員が原爆症で入院、最も症状の重かった久保山愛吉さんが、9月23日に40歳で亡くなられました。死の間際、久保山さんは「原水爆の犠牲者は、私で最後にしてほしい」と、語っていたそうです。 続く
2020.09.01
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