< 承前 >
さて、大友皇子、大海人皇子関係の史蹟は野上行宮跡を除き一通り回ったこととなるので、壬申の乱から928年コチラ側へタイムスリップして、もう一つの天下分け目の東西対決、関ヶ原合戦の史蹟を少し廻ってみることとしました。
特にこれを目当てに来たのでもないので、どう回っていいのかが、よく分からない。で、先ず、石田三成が陣を置いた、笹尾山に向かうこととした。
天武天皇を祀る松尾地区の井上神社からは、ほぼ真北の方向にあるので、とにかく山に向かって走ることとする。
その前に、これまでの壬申の乱関連の銀輪散歩の傍ら、既に立ち寄った関ヶ原合戦関係の史蹟があるので、先ずそれからご紹介することとします。
最初に立ち寄ったのは東軍先鋒の福島正則が陣を置いた春日神社・月見宮。これは不破関東城門跡の前から数十米南に入った処にある。
関ヶ原の戦いそのものについては断片的にしか知識がありませんので、書き過ぎると間違いのもと。説明は、説明板の写真で極力代用させて戴きます(笑)。
次に立ち寄ったのが大谷吉継の墓。 山中地区に入って、中山道からJR線を越えて山の中に入って行くと、それはある。「山中の中山道から山の中に入る」ヤカモチ流言葉遊びのようなルートであります(笑)。
(大谷吉継墓への道)
此処から600mと表示されていたので入って行くと途中から山道、トレンクルを担いで上るしかない。思ったよりも遠く、手間取り、汗をかきました。
石田三成の盟友であった大谷吉継は、三成の決起については自重するように説得したらしいが、三成決起となると、病を押して出陣、死に装束にて奮戦する。しかし、寝返った小早川軍に側面から襲いかかられた上、この裏切りに便乗した配下の脇坂・朽木・小川・赤座の4隊までもが寝返って攻撃をしかけて来たので、戦列は大混乱、壮絶な死闘の末、力尽き、敵にこの首を渡すな、と言い残して自害して果てた、という。三成への友情を貫きこれに殉じた姿には心を打つものがある。
この墓は敵方の藤堂家が建てたものという。敵から見ても天晴れな戦いぶり、もののふらしき戦いぶりであったということであろう。
墓には真新しい花が供えられていた。日和見を決め込む武将が多かった西軍にあって、吉継の潔さは目を引き、お参りする人も多いのであろう。
小生も、関ヶ原合戦の史蹟そのものには、さしたる関心はなかったのであるが、吉継の墓だけは、立ち寄ってみようと思っていたのでありました。
次は、脇坂安治の陣跡。上の大谷に襲いかかった裏切り派の一人であります。藤下の若宮八幡神社から井上神社へ向かう途中、名神高速道の南側に回った処にそれはありました。彼は賤ヶ岳七本槍の一人。この人物に由来して京都伏見の京阪中書島駅の「中書島」の名が付けられているということを知ったのは昨年のこと
(参考:
2012.9.23.
伏見散歩
参照)
。それを思い出して立ち寄ったのでありました。
(脇坂安治陣跡)
脇坂安治陣跡の碑が北東の東軍側の方向ではなく、南側、つまり小早川が陣取った松尾山の方を向いて建っているのも面白い。
脇坂陣跡から井上神社を経て、北へ。国道21号線を渡り、JR線を渡ると広々とした田園が広がる。
正面に白く見えている林が「関ヶ原合戦400年記念平和の杜」という公園で、開戦地は写真画面からはみ出すがそのずっと左側になる。この公園にはフランスの彫刻家の作品など、アート作品、オブジェがいくつか置かれているが、余り意味がよく分らない。まあ、邪魔にもならぬが、関ヶ原合戦のイメージ喚起とは些かも繋がらず、むしろ不似合いで、企画した人の自己満足ですかな。この奥に島津の陣跡があり、更に北に上ると笹尾山である。
さて、そろそろ石田三成の笹尾山ですが、字数もそろそろ一杯です。続きは次回ということで、ひとまず終ります。( つづく )
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
飛鳥川銀輪散歩(上) 2024.11.10 コメント(2)
PR
キーワードサーチ
カレンダー
コメント新着