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毎週月曜日は、地元の小学校へ読み聞かせボランティアに行っている。もう6年間、毎週一日も休まず通っている。これも、日記と同じく吾がずっと続けられてきているものの一つだ。朝自習の時間8時15分~35分の20分間、一クラス35名前後を対象に絵本を読み聞かせている。今年は2年1組の担当。週に一度ではあるが20分となると、毎回2~3冊位は読めるので吾はその絵本探しに、図書館へも足繁く通う。30名以上の生徒全員が興味を持てるお話というのはそうあるものではない。ちょっとでも気を抜くと彼らは反応が素直なだけに、即座にそっぽを向いてしまう。吾も仕事以上に真剣勝負だ。大人相手の朗読ボランティアの方がはるかに気が楽。大人は気を利かすということがあるから、つまらなくても静かに聞いてくれる。だが、子供はそうはいかない。しかも年々、その天真爛漫さ、自由奔放さ加減はエスカレートしていくばかりだ。子供だからと手は抜けない。実は先週、二人の男子が読み聞かせ中、ずーっと遊戯王カードのことで雑談をし続けていた。そのうち静かになるだろうと読みつづけていたが、一向に納まらない。絵本の内容によっては無視できたのだが、その日は「スーホの白い馬」を読んでいた。この作品はしっかり聞かせたかったし、その二人以外は、クラス皆が絵本に集中していた。聞きたい子には大迷惑である。そこで吾は、これからお話が大きく動き出すというところで「はい、おしまい」といきなり本を閉じやめてしまった。クラスがシーンとなる。「○○と○○のせいだぞ」と一人の男子。「そうだよ、うるさいよ」と皆。子供達はわかっているようだ。そのまま、何事も無く読みはじめてもよかったのだが大人として、きちんと子供と向き合ういい機会だと思い「私はね舞台とかで大きな声を出すから皆がどんなに騒いだって負けない位、大きな声で本を読んであげられる。だけど、このお話はそんな風に読んだら、お話自体が台無しになっちゃうんだ。このお話に対しても失礼だし何よりこのお話を味わって聞きたいと思ってる子にとっては君らのおしゃべりはとても許しがたいことだよ。こんな状態では、このお話は読みたくない。勿体無いもの。静かに出来ないのなら今日は帰る」と吾。子供達に、帰っていいよと言われたらどうしようかと思ったがまだ素直な田舎の子は、大人に怒られることが堪えるんだよね。「お願いします」と居住まいを正したんだ。その後はもう本の虜。吾も久々に素直な子供達の心に触れて十分嬉しかったのだが読み終えて帰る時、もっと嬉しい事が待っていた。急ぎ足で帰る吾の後ろから、追いかけて来る足音が・・・振返ると雑談していた二人の男子だ。「今日は、ごめんなさい」とペコリ。吾は二人の頭を思いっきり撫でまくった。反省できるその気持ちが何より素晴らしいよね。当然、担任がそうさせたのは知っている。だけど、素直に従い、寒気の中、白い息弾ませて吾を追いかけ謝れるその素直な気持ちが嬉しい。悪いことをすぐさま諭し、導く担任。子供達の周りを取り囲む大人達が、毅然と接していてくれたらこの子達は真直ぐ育っていくだろう。どんな悪人でも、素直な時代があるのだ。そこから先をどう導いていくか、大人として責任を十分に考えこれからも子供達の心の栄養になる絵本を読み続けていきたい。今日、読んだ絵本「おにたのぼうし」「ゆうかんなアイリーン」
2005.01.31
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吾が派遣されている葬儀社は、自社ホールを持っている。最近は住宅事情や近隣との付合いの簡素化でこういったホールでセレモニーを行う葬家が増えつつある。従来のような自宅葬であれば、葬儀屋の担当さんが式進行まで執り行うので十分だ。だが、ホールとなれば今や結婚式場なみで、音響・照明・DVD映像投影さらにはプロの奏者が、生演奏(献奏)と、演出効果は全て揃っているのである。そこで、故人のご生涯・人柄・生前のご功績などを故人にゆかりのあるBGM等をかけながらナレーションするようになり吾のような女性司会者が、数年前から葬儀業界にも専門職として重宝されてきているのだ。そのナレーションも時々、これでいいのか?故人は嫌がっていないか?など不安に思うこともあるがまぁ、それは職務で求められているからしかたない。吾は、誠心誠意、心を尽くしてナレーションするに徹するしかないわけだが・・・1-------------------------------------------------------またしても前置きが長くなった。さて、ここから本題。先日、ホール葬なのに一切音響は厳禁と指示をうけた。喪主(故人の長男)の意向という事だ。余計な演出はしないで欲しい、静かに送りたいというのだ。マイクも当然使わず、肉声でと。自宅葬なら肉声進行は珍しくないがホールで肉声とは・・・舞台じゃないから声を張り上げる発声ではないわけで・・・正直とまどった。だが幸い、列席者は殆ど身内のみ20名ほどの密葬だったので指示どおり通夜は肉声で進行した。一切音楽もかけず、型通りの開式・閉式の辞しか言う事も無く司会として何だかなぁだったのだが・・・これなら担当が司会すれば十分ではないかとさえ思った。だが、プロ司会として呼ばれたからには、吾に求められる何かがあるはず。故人の奥様からはこんな素敵なエピソードを伺えた。『遺影は長男が還暦のお祝いにプレゼントしてくれた北海道旅行で撮影したもの。新婚旅行など出かけられる時代ではなかったからこれが夫婦で初めて出かけた旅行だった。楽しい思い出であり、忘れられない思い出だ。』と・・・その時の奥様の幸せそうなお顔、そしてご遺影の故人のなんと満ち足りた表情。これはなんとしても触れたかった。故人と奥様の心と心を、この最後の場でしっかり繋ぎとめてあげたったから・・・しかも故人はご自分でこのホールを見て気に入り即決されたそうだ。ならば、音響等の演出も嫌がることはないはずだ。告はこのままにしたくないと思い覚えられる範囲のナレ―ション原稿を仕込みいざ出陣。前記のナレーションというのは、主に告別式に入れるのだが担当からはマイクも音楽も使えないからナレーションはいらないね、と言われていた。だが告別式当日、喪主様から案の定「静かにと寂しいのとは違うから」と同意を頂き、温かく送りましょうとなり出棺時のみのBGMとナレ―ションの了解をとり本番。これが思いのほかとってもいいお式になったのだ。ま、あくまでも吾の主観だが・・・でも、祭壇横で奥様と故人に語りかけるようにナレ―ションしたら、奥様が頷いて聞いていて下さったこと、出棺時に奥様が、私ごときに丁寧に一礼下さったことで、手ごたえを感じた。一切音なしできて、最後にすーっと思い出の北海道をイメージする「北の国から」のBGMで出棺した時は、何とも言えない笑みと涙が・・・後で気付いたのだが、喪主はどうやら担当の説明を勘違いされたようなのだ。献奏を入れたりすると料金が発生するわけだがホールでBGMをかけるのに、料金は発生しない。献奏とBGMを取り違え、余計な演出はいらないになってしまったようだ。担当の支持に従うのが、派遣されてる司会の鉄則だがこの時ばかりは、吾は思い切って反抗してよかったと信じている。喪家が真に望む本質をしっかり見極めていけるような司会者でいたいと、改めて肝に命じておりまする。(なかなかコメントを頂けないが、ご葬儀や婚礼に関して何でもいいです。思うこと、気になること参考までに、どしどし寄せて頂けたら幸いでありまする。皆で井戸端会議のノリで、意見交換していける場になればと願っています。)
2005.01.30
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本日1月29日19時から放送のテレビ東京・土曜スぺシャルをご覧になった方限定の話題で申し訳ないが・・・『東京から1時間・意外と知らない小さな温泉郷』で紹介された【お顔がつるつる1泊8650円の激安宿】に吾は今日行っていたぞ。このホテルで婚礼があったのだ。吾は葬儀の司会を始めるまでは、ここの専属司会者でもあったのだ。今は手が回らないので、専属を解いてもらい、ご指名を頂いたときだけ伺っている。今日は数年前にこのホテルで婚礼を挙げた方のご親戚の披露宴であった。お披楽喜後は凍てつく秩父の夜空に大きな打上げ花火・スターマインが彩りを添えかくして今日も無事に新たな縁が結ばれた。さて、話を戻すが、ここの温泉は確かに凄いぞ!番組でも紹介されていたが、ほんとに肌つるつる。この湯に入ったらそんじょそこらの温泉では物足りなさを感じてしまう。吾も大ファンで、披露宴の後は必ず一風呂浴びて帰るのだ。水道代を浮かしたいと、井戸を掘っていたら、なんと温泉が!まさにほって沸いた幸運!その名も「星音(せいね)の湯」その泉質・成分は温泉分析者をうならせたとも・・・温泉好きな方は、是非一度お試しあれ!埼玉県秩父郡吉田町のリゾートホテル・ばいえる詳しくは下記HPでどうぞ!http://www.beyer.jp/index.htmあっ、念のために記しておくが、昨日書いた日記の婚礼はこちらのホテルとは違います。プライバシー保護の為、そこんとこははっきりと明記しておきます。やぁ、今日は情報ネタをかましてしまったなぁ。でも、ここの湯はほんとにお勧めだ。1-------------------------------------------------------追記:ここからは2月18日に書いてます。本日2月18日13時半から、テレビ東京で、この番組の再放送があるぞ。興味があったら、ご覧くださいまし。
2005.01.29
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カテゴリーを見ると、ブライダルネタが0に気付いた。今日までご葬儀ムードにどっぷりだったのだが明日は婚礼司会があり、そろそろ祝モードに入らねば・・・と言うことで、今日は過去のブライダルから・・・まさに人生悲喜こもごもである。そのカップルは、新婦側の両親はもちろん、親族が一切参列されない披露宴だった。新婦側は、わずかに高校時代の恩師とその友人数名のみ参列されただけで70名程のお席は殆ど新郎側で埋め尽くされた。そう、両家の両親がもめてしまった婚礼だった。原因は出来ちゃった婚を新婦の両親、特に父親がなんとしても許さなかったから。昨今は出来ちゃった婚なんて、さほど珍しくもなく反対の理由にはならないものだが、このカップルは例外だった。新郎が新婦宅に結婚の申し出に伺ったら、両親に猛反対されそのまま新婦は勘当され、何も持たず、着の身着のままで家を飛出し新郎宅に転がり込んで結婚式を迎えたのだ。披露宴の2週間前に打合せで初めて会いその時いきなり新婦側は参列されないことを知らされた。打合せには二人以外、新郎の姉が同席された。19歳の新郎と18歳の新婦。打合せでは二人は殆ど口を利かず全てお姉さまが仕切っていた。それもそのはず、披露宴会場はこの姉が勤務されてるホテルであり姉はまさにブライダルコーディネーターだったのだ。もう、姉の披露宴かと思うほど、二人はカヤの外だった。吾はこの複雑な状況を、司会の立場として正確に把握しておきたかったのだが二人と吾だけで話をさせては頂けず、ほとほとまいっていた。進行そのものは姉が全て仕切るので特に打合せ事項はなくこっちは不満だが、人形のように言われた通りに進行すればいいようだ。打ち合わせ中、聞かされたのは新婦側の両親への非難の弁。吾も姉の話を鵜呑みにしそうになるほどだったが新婦のあまりにも悲痛な様子に疑問を感じる。このままでは明日、マイクは握れないと思い前日に思い切って新婦側の実家に電話をして、母親からいきさつを伺った。喧嘩両成敗。他方だけの話を聞いただけではわからんものだ。新婦側はとっくに娘のことを許していたのだ。命を軽々しく考えすぎている若い二人を、試すつもりだけだったのだそうだ。困難を乗越えそれでも産むと決意した娘を心から祝ってあげたいしお嫁入りの仕度やらもしてあげたいからと、何度も新郎宅に電話をしていたそうだ。ところが、電話口では必ず新郎の家族が出られ、新婦は話したくないそうだと一方的に切られてしまい、明日、結婚式・披露宴だと言うことも一切知らされてなかったそうだ。お母様は、吾の電話で結婚式が明日と知り、電話口で泣いておられた。お母様と吾だけの秘密で、当日お式の時間を伝えお母様はこっそり娘さんの花嫁姿をご覧になり、早々に帰っていかれた。吾はその後ろ姿に誓った。お母様の気持ちを、披露宴中に必ず披露するぞと!そして開演。ちぐはぐ感はあるものの、新婦の恩師や友人らに守られ、披露宴は順調に進んでいく。そして――時間に余裕のある披露宴で、吾がよくやるフリートークタイムで、吾は仕掛けた。ゲストとのフリートークの流れの中から、新婦の両親の気持ちを公表したのだ。おしゃべりに溢れた会場がし~んとなる。一かばちかの大博打だぞ!やっちまったか・・・(脂汗)程なく、一人の男性が拍手をして下さった。その輪が会場中に広がり・・・そしてその男性、新郎の伯父だったがマイクを受取り、二人に向かってこう言った。『明日、いやこの後すぐにでも、新婦宅に二人揃ってきちんと挨拶に行きなさい。それぞれの両親を大事にすること。それが出来て初めて人の親になる資格があるものだ』会場は一段と大きな拍手に包まれ、何ともいえない笑顔と涙に包まれた。不謹慎だが、吾は新郎の姉に勝ったと思い、そしてこの伯父に完敗だった。だが、なんと気持ちのよい敗北だろう。その後の会場の盛り上がりと言ったら、言葉には尽くせない。そして、お披楽喜も近くなり新郎の挨拶――『今の感動を二人で大切に守り、互いの両親を大事にしながらお腹の子をしっかりと育てていくことを、皆様に誓います。』あぁ、人生悲喜こもごも。今頃どうしているかなぁ・・・
2005.01.28
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お斎と書いて‘おとき’と読む。ご存知の方もいらっしゃるだろうが葬儀の場において、この言葉が死語になりつつあることが気になるので今日はちょいと触れておきたい。「お斎」は耳に馴染みない方も、「お清め」と言う言葉はご存知ではないだろうか?そう、法要の席で振舞われる食事のことである。だが、この‘清め’と言う言葉がタブーな宗派があるのだ。死は穢れ無きものと意味付ける浄土真宗である。この宗派では、清めの塩も必要ない。冥福、安らかにと言う言葉もタブーなのである。当然食事の席もお清めとは言えない。そこで「お斎」となるわけだが最近この‘お斎’という言葉を知らない方が多く司会のコメントとしてわかりにくいと注意を受けた。弔問客にわかりにくい言葉は使っても意味ないから違う言葉でといってもお食事の席では何だか日常過ぎるし、そこで「通夜振舞」という言葉を使うようになった。ところが、この言葉すら浄土真宗には腑に落ちないとある住職から指摘を受けた。振舞うと言うのが意に沿わないのだそうだ。先日この住職とディスカッションをした。司会の立場としては、お客に寄り添ったわかりやすい言葉を使いたい。仏に仕える者としては、教えに反する言葉は困ると・・・住職の話を聞いていたら、例えわかりにくいと言っても司会者が使わなくなったら益々この言葉は死語になってしまう。意味のある仏教用語は、むしろ司会の立場としてきちんと理解し使いこなしていかねばと言う気になった。そして住職も、私たちがこういう教えをしっかりと説いていかなければいけないねとおっしゃられた。それぞれの立場で、仏教の教えを守り、浸透していかねばと意気投合したのだ。以来、私はお清めのことを「お斎」と言うことに徹している。時折よそのお式で、浄土真宗なのに、「○○家お清め会場」なんて看板を見るとがっかりする。葬儀と言うのは宗派によって様々だ。奥が深い。ちょっとしたミニ知識をもって参列すると、お葬式というのは不謹慎だが意外と面白いぞ。1-------------------------------------------------------そこで、本日お立ち寄り頂いたあなたへ、今日のミニ知識はお斎についてである。【斎(とき)とは・・・ 小乗仏教の僧侶は正午以前に食事をとり、それ以後は摂らないが食事をしない時間を非時(ひじ)といい、食すべき時の食事を時食、斎食という。そのことから、僧侶の食事や法事での食事を斎という。】他の宗派ならともかく、浄土真宗では、お清めなんて言わないで下され。「お斎」と使いわけましょう。そしてお清め塩がないからと騒がれませんように・・・少しづつ、葬儀については気になることを今後もレポートしていきます。よろしくなのだ。今宵はここまで。
2005.01.27
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吾は仕事柄、髪型をあまり派手には出来ずここ数年、特に葬儀に携るようになってからは、全く変えていない。以前はスタイルブックを見ながら、結構有名店にわざわざ足を運んでバリバリ派手なヘアスタイルもチャレンジしていたがこれと決めてからは、かえって面倒臭くないしすっかり今のヘアスタイルに落ち着いている。毎回、「いつもと同じで」と言えばすむから、世話ない。だが、毎回受付の後、カウンセラー席に通され「今日はどうしますか?」と聞かれる。親切、気配りの店の方針なのだろうがお客に合わせた接客が出来ないものかと気になって・・・吾はもうずーっと「いつもと同じで」と言ってるぞ!変えて欲しい時はいつもと違うオーラを醸し出して来店するはずだ。プロの接客を心掛けるなら、マニュアル通りではなくもっとお客の心を察知できる感性を養って欲しいなぁなんて望むのは許されることではないのだろうか…それから、やたら話しかけられるのも吾は嫌なのだ。どっぷり疲れきって、リラックスを求めていく美容院なのに「今日はお休みですか?」「この後お出かけですか?」もうウルサイゾー!人のプライバシーに踏み込まねいでおくれ~い。どうだっていいだろうがぁ!おっとッと、力みすぎた。失敬。確かにおしゃべり好きなマダムらもいるからね。美容師さんもそれなりに気を使って、話のネタを仕込んで接客しているのだろう。だが、話したくない。ゆっくりさせて欲しいというお客もいることを忘れないで欲しい。吾が司会者だからとおしゃべり好きと思うのは浅はか過ぎるぞ。普段神経張詰めて人前に出てマイクを握る商売をしているとプライベートでは全く話したくないものなのだ。気が付けば、お金払って髪を切ってもらっているのに司会者の悲しい性で、話しかけられると、ついサービス精神で面白おかしく話に付きあってしまう。癒しを求めていく美容院で、吾はどっぷり疲れるのだ。おーっと!美容師さんの接客について、またもや力が入りすぎてしまった、お恥ずかしい。美容師さんもお客様がどんな方なのか、その趣向を知った上でカットに生かそうとしているのかもしれない。重々承知しているつもりだ。だが一見さんではないのだから、こっちは常連客なのだからもう少し客の心理を察知できる感性も養って欲しい。一番困るのは、おしゃべりのせいでカットの手が遅いと言うことだ。こっちは短時間に巧いカット技術を享受したいと思っているのに・・・どうか、カットに集中しておくれ。客としては、美容師さんに気持ちよくいい技術を提供して頂きたいから文句も言えずにじっとしているのだ。この心理を察知して欲しいと願っているぞ。ただ一つ、これだけはいい!シャンプーの後のマッサージ。これが良くて今日もまた、吾はいつもの美容院に行ってしまった。だ、だが、今日はマッサージ中も話しかけられた。し、しかもシャンプーしてくれた子と全く同じネタだぞ!お客の会話ネタまで、マニュアル化だなんて・・・どうにかしてくれ~
2005.01.26
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昨日は司会のことに少し触れてみた。《人の縁を紡ぐ意味では婚礼も葬儀も同じであると・・・》?をいだいた方も中にはいるかもしれない。婚礼は誰が考えても新たに縁を繋ぐものと理解いただけるとは思うが、葬儀に縁?狭義になるが、浄土真宗、特に真宗大谷派のご葬儀でよく配られるリーフレットはこの【葬儀を縁として】というタイトルがつけられているのだ。そのリーフレットには『葬儀に参列された方、一人一人が、身近な人の死という悲しい事実を通して真実の教え、仏法に出遇い、自分自身のあり方を根本的に見つめなおすことこそが仏事としての葬儀を勤めるという意義になる』とある。この教えは宗派を越えて確かにそうだなぁと、いくつものご葬儀に立合いながら吾は思う。親族が一同に会する。そこには確かに悲しみの涙も溢れているが久々に会うもの同士、お互いの無事を感謝するかのごとく、思わず笑みもこぼれる。「結婚式にはお腹にいた子が、こんなに大きくなったのかい」なんて会話は、はたで見ていても癒されるものだ。亡き人が結びつけたこの縁を、残された者が大事に守りしっかりと太い絆で結び、新たに広げていこうとする再出発の場でもあると感じる。その先に婚礼があり、そしてまた、葬儀に触れる時期を迎る。人は一人では決して生きているのではないと改めて刻み込む場が葬儀の場であると・・・もっとも往生を遂げる人ばかりではない。自殺・事故死・早すぎる死など、苦しみ、哀しみだけが蔓延するような場もある。けれど、そこにはやっぱり、亡き人を偲んで集う人がいる。その人の死から、自らの生き方を見つめなおそうと・・・婚礼が新たな縁を紡ぐ場なら、葬儀はその縁を更に深く繋ぎとめる場ということになろう。どちらの場においても、そこに求められるのは縁に結ばれしことを感謝する心が、そこに存在しているかどうかが大事なのではないか。ともすると形式や、世間体にとらわれてその大事な本質を見失いがちな昨今の冠婚葬祭。あなたはどうするべきか、時にじっくり考えてみてはいかがなものか・・・さて次回は、お斎(とき)について触れてみたい。
2005.01.25
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人の一生で大事な二つのセレモニー、結婚式とお葬式の両極端な場で、司会者として身をおく吾。両極端とは言ったけれど、それは表向きな面だけでありその本質は人の営みに癒しと新たな縁を紡いでくれるセレモニーという点では全く同じものだという気がする。だから忌み言葉なども、吾はあまり神経質に受け止める事無く出来るだけ普段着の言葉に、参列者の思いを乗せて心から言葉を発することをポリシーとしている。そうやって、それぞれの人生の大切な節目に立ち会ってきた。と、前置きが長くなってしまったが・・・1-------------------------------------------------------最近気になっていることがある。もう3年前になるだろうか。吾が担当させて頂いたある新郎新婦から今年も年賀状を頂いた。毎年宛名には二人の名前だけ。そして「まだ出来ないのです。」という文字が小さく書かれており・・・年々、二人の間に子供の誕生を望む思いと不安がつのっていくのが感じられ・・・ところが今年の年賀状は、宙に舞うのではないかと思うくらいに明るく嬉しい報告が記入されていた。「予定日は1月6日。いつ産まれてくるのかと、どきどきです」とあった。すかさず「嬉しい報告まってるよ」と賀状を出したのだが・・・その嬉しい知らせはまだ届くことはなく・・・待ちに待った大事な命に、全精力を費やしているのだろう。それが当然だ。そう思うのだが吾としては「おめでとう」の一言も言いたいわけで・・・毎日その知らせを気にしているのです。万が一のことがあるわけではないよね。そう信じてはいるが・・・知らせがあるまでは、こちらからうかつにおめでとうメッセージは出せなくて・・・人と人とのコミュニケーションは難しいよね。これまで担当させていただいた方々とは、先方が慕ってくださればセレモニー後も何らかの形でお付き合いをさせて頂いているせいか吾は親兄弟がたくさんいる大家族のような心境である。人の人生に関わると、心は何倍もエネルギーが必要で・・・いい時も悪い時も・・・多くの方の人生のレールをほんの一時ではあるけれど便乗させて頂く楽しさがこの司会という仕事にはあると思う。結構心がしんどい時はもう辞めてやると思うことがあるがやっぱり吾は、この仕事が好きなのだろう。多くの縁を紡ぐこの仕事、お声がけいただける限り、大事に務めていくことが吾がこの世に生かされてる意義なのだろう・・・T家の幸せを心から祈りながら、今宵はここまで。
2005.01.24
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はぁ、今帰宅。おっ、やば、日付超えちゃったよ。埼玉の奥、東武東上線終着駅から、今日は自由が丘まで友人が出演の芝居を観に上京。といっても、実はこの作品にほんとは自分も出演するはずだった。怪しい占い師の役でね。スケジュール的にきつくて辞退したのだが・・・自分が出演するはずだった芝居を観るのは、複雑な心境だ。やっぱ、自分は表現する側の人間でありたいなぁ。語りを始めたのも、司会者として常に裏方に徹し主役の引き立て役という司会の役どころに、満たされない思いがあったから。自分がスポットをあたる側になり、自分自身が何かを伝えていきたいという思いが強く湧き上がってきたから・・・今現在、3月と5月に語りの公演予定がある。3月は20歳で鉄道自殺を図り、命のかがり火をはかなく消してしまわれた高野悦子さんの日記、ベストセラーにもなった「二十歳の原点」を女性二人でラジオドラマ仕立てで語ります。今、脚本を練り直し中。どっぷり高野悦子モードで・・・【あぁ、文章にするとどうしてこのように平板になってしまうのか。いいえ、真実というものは、私があの時あの所で感じた意識の中にあるのでしょう。そう思わなければ、どうしようもありません。】二十歳の原点より、悦子の言葉を最後に引用し、今宵はこの辺で・・・
2005.01.23
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何を思ったか、急にブログとやらに興味を持っちまった。世間が怖い気弱な吾だが、自問自答の日々を一人で引きこもっていては偏った見識に埋もれていくだけだから、思い切って殻を破り世に発信してみようと一念発起!おっとっと、ちと大袈裟すぎるぞ・・・ともあれ今まで日記を書きつづけて8年目になる。何をやっても三日坊主の吾が、唯一続いているものだ。初めは三年日記(1頁に3年間の同じ日の日記が記入でき一度に見られる代物)がきっかけだった。こんなもん続くものかと思いながら、2年目に突入した時「へぇ、去年の今日はこんなこと考えてたんだ」と読み返すと自分のことを客観的に見直すことが出来て、日記にすっかりはまりだす。三年日記を埋め尽くした後は五年日記に替え、今年でその日記も完成だ。禁煙は出来ないが、問わず語りの日記なら、気ままに続けられるから自分だけの楽しみを、ほんの少し世間様とコミュニケートしてみようかと思いついたしだいである。何か緊張してるなぁ・・・表現硬いよなぁ・・・ま、お初の挨拶ということで今日のところはこんな感じで・・・さて、この後はブログ立上げに杯をあげるとしよう!
2005.01.22
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