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笹塚二丁目20番にある庚申塔です。立派なお堂の中にまつられています。【豆知識】庚申塔(こうしんとう)庚申の信仰は中国の道教思想に基づくもので、江戸時代に盛んになり、村の辻などに庚申供養等が建てられました。 庚申信仰は、六十日ごとに巡り来る庚申の夜、天帝にその人の罪過を報告し、罰が下されるというもので、寝てはいけないと信じられていました。庚申堂や当番の人の家に集まった村人たちは、一晩中勤行をして夜明けを待ちました。その仲間を庚申講と呼んだのです。庚申信仰は「猿」と「申」との混同から、庚申の日に猿田彦神(さるたひこのかみ)をまつるようになりました。この庚申塔にも青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)の下に三匹の猿が彫ってあります。 ここにある庚申塔は、元禄十三年(1700)に立てられたものですが、付近の人びとによって、いまでも大切に守られています。(渋谷区教育委員会の案内板より)
2006.07.30
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秋葉原の昌平橋脇で人が並んでるお店がありました。結構有名な店らしい?おなか空いてなかったので通り過ぎましたが、なんとなく気になりました。帰ってで調べたら、昼は海鮮丼、夜は居酒屋らしい。【豆知識】マグロマグロ(鮪)は、スズキ目 サバ亜目 サバ科 マグロ属の魚の総称である。狭義にはそのうちの1種であるクロマグロを指す。いずれも海産魚で、食用にする。その身は美味で、日本人にもっとも好まれる食用魚のひとつである。マグロは世界中の大洋に生息し、海中を高速で回遊する。かなりの大型魚であるが、最大級のクロマグロは、体長 3 m、体重 400 kg を超えるものさえある。常に水中を回遊し、休息時でも回遊しており一時も身体を休める事が無い魚である。また、身体を休めると死んでしまう。(ウイキペヂア)丼の由来丼の語源は、江戸時代、一杯盛り切りの飲食物を出す店を「慳貪屋(けんどんや)」と言い、そこで使う鉢が「慳貪振り鉢(けんどんぶりばち)」と呼ばれていた事から、略され「どんぶり鉢」になったとされる。慳貪とは、「けちで欲深い」という意味で、慳貪屋で出されるものは「慳貪めし」や「慳貪そば」と呼ばれ、それを運ぶものは「慳貪箱」といった。八丈島の方言で「どんぶり鉢」を「けんどん」と言い、この名残と考えられている。しかし、江戸時代、更紗(さらさ)や緞子(どんす)などで作った大きな袋も「どんぶり」呼ばれている。そのことから、どんぶりの語源は「慳貪振り鉢」の略ではなく、物を無造作に放り込むさまを「どんぶり」と表したもので、「どぶん」「どぼん」と同じ、物が水中に落ちる擬音語の「どんぶり」と関係するとも考えられる。また、漢字「丼(たん)」は「井(せい)」の本字で、字面から井戸の中に物を投げ込んだ音を表す字として用いられて、擬音語の「どんぶり」に当てられ、さらに「どんぶり鉢」を表すようになったものである。(語源由来辞典)
2006.07.30
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御茶ノ水の聖橋近くにある湯島聖堂の孔子像です。【豆知識】徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。(湯島聖堂ホームページより抜粋 http://www.seido.or.jp/temple.html )
2006.07.30
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隅田川の船、警備の船も準備をしています。今日は隅田川恒例の花火の日、川面が昼からあわただしかった。船は川崎と東京消防庁の応援でしょうかね?東京水上警察署ホームページ http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/1/tokyosuijo/keibitei/keibitei.htm
2006.07.29
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隅田川の船、屋形船がたくさんでています。【豆知識】隅田川の花火は7月の最終土曜日に行われますが、夏の始まりを告げる大会として都内至近と言うこともあり、多くの方が訪れます。隅田川の時期になると、始まったな~って感じがします。河川敷で川幅も狭く、ビルが建ち並ぶため、最高5号までしかあがりませんが、 第1会場と第2会場あわせて打上数が2万発と都内では最大規模の大会だそうです。 花火を屋形船から見るのが最高でしょうかね。
2006.07.29
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隅田川の船、いつもみる観光船です。東京観光汽船のホームページ http://www.suijobus.co.jp/cruise/line/su_line.html【豆知識】隅田川(すみだがわ)は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、石神井川や神田川などの支流河川と合流し、最後は東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。元々は、現在「隅田川」と呼ばれている川が荒川の本流であり、中世までは下総国と武蔵国の国境であった。現在「荒川」と呼ばれている川(岩淵水門から河口まで)は、洪水を防ぐ為に明治末期から昭和初期にかけて建設された荒川放水路である。1965年3月24日に出された政令によって、荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より先の荒川は、荒川下流部の俗称だった「隅田川」に改称された。(ウイキペディア)
2006.07.29
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夜明の交差点の所にある「志賀神社」。地元の氏神様です。なんでも、元寇のおり夜明けから博多に応援に出かけた人たちが、勝利を祈ったのが縁で、志賀神社を分神してお祀りしたそうです。
2006.07.28
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なぜか橋の記念碑が建っています。橋の名前は「あいおいばし」です。広島の元安川と旧太田川の合流点に架る相生橋は、平和記念公園のある両川の中州と太田川両岸の3点を結び昭和7年に架設された全国でも珍しいT字形をした橋です。昭和20年8月の原子爆弾投下の目標となったともいわれます。幸い落橋を免れ修理して被爆後、現在の橋に架け替えられた昭和58年10月まで約35年間使用されたそうです。【豆知識】相生橋(あいおいばし)は、広島市中心部を流れる本川(旧太田川)と元安川の分岐点に掛かる橋である。橋の形状は全国的にも珍しいT字型の橋であり、T字の足は広島平和記念公園(旧中島地区)につながっている。また、T字の水平部分は広島駅・八丁堀・紙屋町と続く路面電車も敷設している市内のメイン道路の一つである。T字型の形となったのは1932年(昭和7年)であり、それ以前は本川側から中島地区への橋と中島地区から元安川側の橋が斜めにつながるV字型の橋であった。一時は旧橋と新橋が残り、H字形になっていた時期もある。橋の先の旧中島地区は、戦前は市内でも有数の繁華街であり、また木造平屋の民家が広がる庶民的な街であった。1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下では、T字が上空からも目立つこの橋が投下目標点とされた(実際の爆心地は300m離れた島病院上空とされている)。原爆の爆風は、爆心地のこの橋に7万パスカルもの圧力をかけ、手摺は落ち、爆風により捲れ上がったが、落橋は免れた。橋は戦後修理されて使用され続けてきた。しかし老朽化のため、1983年(昭和58年)に第2代のT字橋に架け替えられた。2代目になり広島電鉄の架線柱がT字型になり、すっきりしたという感想も聞かれる。8月6日の夜には、相生橋の下流に灯篭流しの無数の灯りが流れていく。(ウイキペディア)
2006.07.25
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広島の原爆ドームです。【豆知識】現在、原爆ドームの名称で知られているこの廃墟は、元来は地上3階(一部5階)・地下1階の構造をもつ建造物であり、1915年4月5日に竣工、同年8月5日、広島県物産陳列館として開館されたものである。同館はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル(Jan Letzel, 1880年-1925年)によって設計され、ネオ・バロック的な骨格にゼツェッション風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。その後1921年に広島県商品陳列所となり、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。1933年には広島県産業奨励館に改称され、この前後は盛んに美術展が開催され、広島における美術の普及に大きく貢献した。しかし1944年以後、産業奨励館はその業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。(ウイキペディア)
2006.07.25
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広島の平和記念公園の原爆ドームの近くにある「赤い鳥文学碑」です。児童文学者鈴木三重吉の胸像と並んでいます。【豆知識】赤い鳥(あかいとり)は1918年7月1日に鈴木三重吉が創刊した童話と童謡の児童雑誌。近代児童文学・児童音楽の創世期に最も重要な影響を与えた。1929年~1931年の間休刊があるものの三重吉の死(1936年)まで198冊刊行され続けた。鈴木三重吉の目から見て低級で愚かな政府が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を宣言し『赤い鳥』を発刊した。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明した。表紙絵は清水良雄が描いた。その後菊池寛、西条八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿した。この様な運動は誌名から「赤い鳥運動」と呼ばれるようになった。また、『金の船』(1919年、代表者:斎藤佐次郎)、『童話』(1920年、代表者:千葉省三)といった類似の児童雑誌が創刊された。北原白秋は『赤い鳥』において自作の童謡の発表を行いながら、寄せられる投稿作品の選者として重要な役割を果たした。1984年に日本童謡協会は『赤い鳥』が創刊された7月1日を「童謡の日」と定めた。(ウイキペディア)
2006.07.25
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兼六園で撮ったヤマトタケルの像です。正式には明治記念之標だそうです。【豆知識】《ヤマトタケル》日本武尊(やまとたけるのみこと、古事記では倭建命・と表記)こと小碓命(おうすのみこと)は、日本神話に登場する英雄。記紀の記述に依れば2世紀、一般には津田左右吉らの説から4世紀 - 6,7世紀頃の複数の大和の英雄を具現化した架空の人物とされる。父は景行天皇。母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。子には仲哀天皇がいる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』《兼六園》水戸偕楽園(かいらくえん)、岡山後楽園(こうらくえん)とならぶ日本三名園の一つ、兼六園。兼六園は江戸時代の代表的な大名庭園として、加賀歴代藩主により、長い歳月をかけて形づくられてきました。金沢市の中心部に位置し、四季折々の美しさを楽しめる庭園として、多くの県民や世界各国の観光客に親しまれています。 出典: 兼六園ホームページ http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/
2006.07.23
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広島中央公園(広島城跡三の丸跡付近)にある花の精の像です。バックの広島城(復元天守)が絵になります。
2006.07.20
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筆塚はいろんなところにありますが、小倉城の本丸にもありました。碑の「筆塚」の刻字は、小倉小笠原藩の名書家下枝董村の筆跡から二字が選ばれましたと説明板に記されていました。。小笠原流という書道ありましたっけ?
2006.07.18
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小倉駅前にある祇園太鼓の像です。【豆知識】説明小倉祇園太鼓(こくらぎおんだいこ)とは、福岡県北九州市小倉北区で行なわれる祭。毎年7月に行なわれる。祭りは4日間(初日は前夜祭)で構成され、ハイライトは3日目の小倉城内で行われる競演大会。町内会(大人組、少年組)企業の3つのカテゴリーに分けられ、毎年数十チームが競う。歴史細川忠興の小倉城築城に伴い、祇園祭りが始まる。明治時代に現在の太鼓を打ち鳴らす祭りへと変化する。小説の富島松五郎伝が映画・無法松の一生として作品発表されると、知名度が上がる。ちなみに、無法松の一生では「玄界灘」が登場するものの、小倉を始め北九州は響灘に面しており、玄界灘には面していない。『ウィキペディア(Wikipedia)』
2006.07.17
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高岡大仏は、奈良大仏(752年)、鎌倉大仏(1246年)と並んで日本三大仏に数えられ、「銅器のまち」「ものづくりのまち」高岡のシンボルです。 高岡大仏は、その歴史の始まりを1221年頃までさかのぼります。当時、摂津国の源義勝が越中に移り、二上山麓に1丈6尺(約5メートル)の木造大仏を造営したのが始まりです。その後、1609年に前田利長公が今の大手町に移され、長年にわたって高岡町民に親しまれてきました。 しかし、大火による消失と再建を繰り返したことから、火事で燃えることのない大仏を求める声があがり、380年の伝統を誇る高岡銅器の職人の手による大仏が昭和7年12月に完成し、昭和8年5月に開眼式が盛大に行われました。以来、市民からは愛情を込めて大仏さんと呼ばれ、親しまれています。(高岡観光紹介HPより)
2006.07.09
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山形県の上山でサクランボ狩をしました。サクランボの生産地としては山形県が全国の栽培面積の6割を占めているそうです。甘い佐藤錦のサクランボ畑になぜか数本少しすっぱく感じるナポレオンが植えられています。【豆知識】サクランボは桜桃(おうとう)とも呼ばれ、バラ科サクラ属の落葉高木、及びその果実を指す。 果実は丸みを帯びた赤い実が多く、種類によって葡萄の巨峰のように赤黒い色で紫がかったものもある。中に種子が1つある。サクランボの生産地として有名な山形県では県の木として制定されている。生産者は桜桃と呼ぶことが多く、商品化され店頭に並んだものはサクランボと呼ばれることが多い。木を桜桃、果実をサクランボと呼び分ける場合もある。サクランボという名前の由来は「桜の坊」。つまり桜の実という意味であるが、観桜に用いるサクラの実は食用に用いられる桜桃のように大きくならず、食用にする果肉部分も厚く成長しない。桜桃は異なる種類で交配しなければ実がならないが、違う種類なら何でも良いというわけではない。例えば佐藤錦ではナポレオンとの相性がよい。サクランボの歴史サクランボは有史以前から食べられていた。桜桃の一種である甘果桜桃(セイヨウミザクラ)はイラン北部からヨーロッパ西部にかけて野生していた。古代ギリシア時代に栽培されていた記録が残されている。また別の品種である酸果桜桃(セイヨウスミノミザクラ)の原産地はアジア西部のトルコ辺り。紀元前65年にルキウス・リキニウス・ルクッルスによってイタリア半島へもたらされたという。この二品種は黒海沿岸からヨーロッパ諸国へ伝わり、特にイギリス・フランス・ドイツで普及した。16世紀ごろから本格的に栽培されるようになり、17世紀にはアメリカ大陸に伝えられた。 これらが日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルによって北海道に植えられたのが始まりだとされる。その後、北海道や東北に広がり、各地で改良が重ねられた。 さらに別の品種に中国桜桃(シナノミザクラ)があり、これは中国原産。江戸時代に清から伝えられ、西日本でわずかに栽培されている。(ウイキペディア)
2006.07.08
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雨晴海岸(あまはらしかいがん)は、富山県高岡市にある海岸。日本の渚百選に選ばれている。高岡市を始点とし氷見市と連絡している氷見線からの眺めはすばらしい。氷見線雨晴駅で下車。駅の近くには義経伝説の残る義経岩がある。初日が海から昇って来ることでも有名。また、晴れた日には立山連峰を望む。(ウイキペディア)
2006.07.01
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