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神田川に架る水道橋際に写真のようなオブジェがあります。神田上水の懸樋を現しているとのことです。写真上が水道橋欄干にあるレリーフ、下が橋の際にあるオブジェです。新宿区の説明板によれば、「神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする,江戸時代初期に造られた日本最古の都市水道です。文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園の中を抜け、水道橋の東側で神田川を掛樋で渡し神田・日本橋方面に給水されていました。」神田上水懸樋跡の碑分には、文京区の説明で「江戸時代、神田川に木製の樋を架け、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。明治三十四年(1901)まで、えど・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。この樋は、懸樋(かけひ)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。この絵は江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。平成八年三月東京都文京区」
2006.09.26
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中央区八重洲一丁目の日本橋川に架る一石橋ぎわにある「一石橋迷子しらせ石標」です。柵で周りを囲まれていて詳しく見れませんでしたが、近くにある説明板によれば「江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。 迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。 柱の正面には「満(ま)よい子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側には「たずぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側のの窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を紙を窪みに貼(は)って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。平成八年三月八日 東京都教育委員会」
2006.09.24
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銚子市の黒生海岸(くろはえかいがん)は、犬吠埼灯台の項で記述されたとおり、江戸幕府の軍艦が遭難した場所です。写真は「黒生浦と美加保丸遭難碑」とその案内板を合成したものです。案内板には次の通りの説明があります。「慶応四年(1868年)8月榎本武揚の率いる幕艦8隻が江戸をのがれた函館に向かう途中、暴風雨にあい、このうちの一隻、美加保丸が落伍漂流し、黒生海岸で座礁沈没しました。その乗員中13名が死亡し、当時は墓石もありませんでしたが、のち世人の同情により、現在の墓石が建てられました。この黒生浦は、磯あそびや、磯釣の場として最適です。」
2006.09.18
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銚子市の犬吠埼の南に長崎鼻という所があります。地図で見ると,ちようど太平洋に突き出た鼻のようになっています。この銚子の長崎鼻の岬に写真(上)のような灯台のようなものがあるのに気がつきました。ここには数度来ているはずですがいままで気がつきませんでした。灯台と同じ航路標識で照射灯というものだそうです。この航路標識の正式名称は「長崎鼻一ノ島照射灯」だそうですが、 暗礁や、防波堤の先などを強い光で照らして、船に危険な場所を知らせているのが照射灯だそうです。みての通り、いわゆる灯台と少し違ったかたちをしています。「千葉県犬吠埼沖は、今も難所です!」と海上保安庁 銚子海上保安部のホームページにありましたが、写真(下)のとおり付近は岩礁がたくさんです。照射灯が必要なところなんでしょうね。 同ホームページによると、灯台の種類として、航路標識には、目に見える光や形を利用した光波標識の他に、電波を使った電波標識や、音波を利用した音波標識などがあるそうです。
2006.09.17
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銚子の犬吠崎に行った犬吠崎の眺めは太平洋の眺めです。君ヶ浜(1)から見た海の姿と長崎鼻(2)から見た海の姿は海の持つ穏やかさと荒々しさが感じ取れます。犬吠崎沖合いは黒潮に洗われた海岸に沿って岩礁がたくさんあるそうで、今も船の難所だそうです。灯台が船の安全を期して存在している意義を感じさせる風景です。【豆知識】犬吠埼燈台(いぬぼうさきとうだい)は、千葉県銚子市のはずれ、犬吠埼の突端に立つ白亜の灯台、周辺は、水郷筑波国定公園の一部となり、太平洋に臨む景勝地。この灯台は、「世界灯台100選」に選ばれた灯台であり、「日本の灯台50選」にも選ばれている日本を代表する灯台の一つで、歴史的文化財的価値が高いので、Aランクの保存灯台ともなっている。また、全国に6つしかない最大の第1等レンズを使用した第1等灯台でもある。この灯台は、明治初期に、江戸条約によって建設された8基、および大坂条約によって建設された5基の洋式灯台の中には入っていないが、それに続く重要な灯台として建設が決まった。というのも、この付近一帯は、小島・岩礁が多く、昔から海の難所とされてきたからだ。そして、1868年(慶応4)8月21日、幕府の軍艦美加保丸が、暴風雨に遭い、ここの黒生(くろはえ)岩礁に乗り上げて座礁沈没、乗組員13名が死亡するという事故も起きていた。そのような中で、イギリスから招いた灯台技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計、施工監督のもと、1872年(明治5)9月2日に着工、1874年(明治7)11月15日に完成し、初点灯された。 建設当初より、白色塔形(円形)のレンガ造灯台だが、このレンガは日本製(千葉県香取郡高岡村(現・千葉県成田市高岡))で、19万3千枚もが積み上げられている。それでいて、120年以上の風雪に耐え今日に至っている。レンガ製の建造物としては、尻屋埼燈台に次ぐ、日本第2位の灯塔高31.3m(地上から塔頂まで)を誇っている。(ウイキペディア)
2006.09.17
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小倉城の本丸つきみ亭の前あたりに復元された明治の大砲があります。4年式15センチ榴弾砲です。砲弾の形が、当時に最新の形だったそうですが、説明によれば「復元記念碑_この野戦銃砲の特徴は、砲架者と砲牽者に区分し、機動力増大、湾曲弾道の採用と発射速度の増強は、用兵技術の進歩戦略の妙と共に、我国野戦砲の雄と称賛された。 」
2006.09.15
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日本橋のたもとに「乙姫広場」という小さなスペースがあります。「魚河岸」といえば現在は中央区築地にありますが、築地に魚河岸ができたのは大正12年(1923年)の関東大震災以後のことだそうです。築地に移るまでは、ここが、日本橋魚市場の地だそうです。「日本橋魚市場発祥之地」という碑が見えます。乙姫像(観音様)の足元に作家の久保田万太郎氏によるそうですが「江戸任侠精神発祥之地」という碑文がありますが文字が読めません。なんでも「徳川家康が江戸に入国した時に、摂津の国から漁夫が移り住み、幕府の膳所に供するために漁業を営んで居たが、慶長(1596-)の頃から幕府に納めた残余の品を一般に販売するようになったので、ここに市場の形態が整ってきた。大正12年(1923)関東大震災を受けて築地に移転するまでの300年間ここに魚河岸が置かれてきたのである-東京に江戸のまことのしぐれかな-」ということだそうです。
2006.09.10
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堀留橋は日本橋川に架けられている橋です。江戸時代の日本橋川は、江戸城の防衛の為に、外堀とつながっていませんでした。この地点が堀留で、だから、堀留橋なのです。現在の神田川とつながったのは、明治時代になってからです。現在は、橋の上は高速道路で、橋の傍が西神田ランプです。 西神田_堀留橋の脇にある傳蔵地蔵尊と名のついたお地蔵様がありました。「傳蔵」はどうも人の名前のようです。場違いなようですが、安全祈願のお地蔵様のようで意外と地元で信仰されているようです。 【由来】 1.ある歯科医師さんのブログでは、近所の人の話として、「昔、傳蔵という方が、この神田川に身を投げて死んだのだそうです.それ以上のことはわかりませんが、最近九十歳で亡くなった母がお花を上げ続けていたので、私は、何となく続けているだけです」という記事がありました。 2.慈眼院・澤蔵司稲荷(たくぞうすいなり)の公式Blogによると 「傳蔵地蔵尊は現在の首都高5号線西神田のちょうど入路の所にあった。大正12年9月の関東大震災で橋が壊れ掛け直す事になった。その工事の頭領が傳蔵さんと称し工事の安全祈願の為、お地蔵様をこの場所に迎えたと聞く。しかし工事後、何者かによりお地蔵様が川に投げられ行方不明になり地元の方々が新しいお地蔵様を建立したところ以前のお地蔵様が発見され二体をお祭りしてある。 首都高工事で現在の場所(5号線入路の反対側)にお堂を建てお祭りし毎年地蔵祭をお世話人が執行している。 都内にも個人の所有地ではない場所に祀られているお地蔵様やお稲荷様は数多くある。江戸、明治、大正、昭和と様々な出来事により祀られたお地蔵様、お稲荷様。地元の人々が大切にお守りしている事に感激。 」という記事が載っていました。(いずれも一部抜粋です)
2006.09.09
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神田橋の袂にある「豊展観守像」と名づけれられた彫刻です、銘板には,次の説明がありました。「この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり、「彫刻のある町・千代田」として、潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しい街づくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。 平成3年9月 千代田区 」【豆知識】歌のこがねむし◆「黄金虫(こがねむし)」野口雨情作詞・中山晋平作曲黄金虫は 金持ちだ金蔵(かねぐら)建(た)てた 蔵建てた飴屋(あめや)で水飴 買って来た黄金虫は 金持ちだ金蔵建てた 蔵建てた子供(こども)に水飴 なめさせた小説の題名としての説明◆「黄金虫」(こがねむし、おうごんちゅう、原題:The Gold Bug)エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年 - 1849年)による推理小説である。 1843年6月に Philadelphia Dollar Newspaper で発表された。初の暗号小説としても有名であり、ドイル(「踊る人形」)や乱歩(「二銭銅貨」)に影響を与えた。俳句の夏の季語としての説明◆金亀虫……こがねむし。 三センチくらいで、ふつうは金緑色をしているが、種類が多くて紫金色、赤銅色、黒褐色、紫黒色その他、さまざまの色彩を持ったものがある。夏の夜、うなりながら灯に飛んで来て、ぽたりと落ちたりする。死んだまねをする癖があり、拾って窓外へほうり出してもまた戻ってくる。幼虫の間は土中で植物の根を食い、成虫になると植物の葉を食う害虫である。別名:黄金虫(こがねむし)。かなぶん。ぶんぶん。ぶん虫(むし)。ぶんぶん虫。一般的に言われていること◆いわゆる“こがねむし”は、2万以上もの種類があります。そしてこの中で広食性の性質を持つ カブトムシ亜科、コフキコガネ亜科、スジコガネ亜科、ハナムグリ亜科、が農作物や芝生、花卉に対する害虫として広く知られているそうです。 一般に“こがねむし”の幼虫はジムシと俗称され、地中の腐食物や細根を(あるときはイモも!)食べて成長しますが、幼苗や苗木などでは生育不良を起したり枯死してしまうものまででてきてしまいます。 もちろん、害虫にならないものもいて、「食糞性」(ダイコクコガネ亜科等)のものがそれにあたります。他は「食葉性」と呼ばれ、多かれ少なかれ植物を害し、害虫となる潜在的な性質を持っています。当然、農作物・花卉に被害を与えないものは害虫扱いされないわけですが、一般の人間が大喜びするクワガタの仲間も、椎茸栽培の方にとっては害虫だそうです。また、ドクトルまんぼう@北杜夫氏のように、“こがねむし”採集家の思いは強く、「害虫どころか庭にきてくれるのがうれしい」もあるそうです。
2006.09.02
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