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久しぶりに友達とランチ。以前YOUの小学校のママ友といったベトナムフレンチ料理のお店である。ベトナムと名前が付いているのだが、あっさりと和風かと思われるような味付けもある料理である。なんでランチなのにカテゴリが福祉なんだと気がつかれた方もあるかも?彼女は90歳近い父親の面倒を見ています。昨日はその父親がデイサービスに行っている間に久しぶりに街に出てきてのランチだったのです。帰り際の彼女「あ~もういや、帰るのしんどいわ、いやいやいや」彼女を責めるのかと早とちりしないでくださいね。彼女は本当によくやっているのです。よくやっているからこそ、友達の前で出てくる言葉なんだなと感じたのです。本来福祉はこんな状況にならないようにあるべきものではないのかと思うのです。私自身介護の経験があるわけではないので偉そうなことは言えないのですが介護はやはり大変なことです。家族愛なんてきれいごとでは済まされません。毎日の生活なんです。食事をすれば、食べこぼしが出る、トイレに行けば汚れが気になる、確かに伝えたことが伝わらなかったり、肉親であればこそ遠慮もなくケンカになることも、認知症になることもあれば寝たきりになることもあるそのようなことが日常になるということを改めて考える機会となりました。どこかの議員さんみたいに女性のケア労働を年間10万円程度にしか見ることができなければ福祉の質の向上なんて考えられないわと改めて感じたのです。まだまだ世の中には親の介護は子どもがするもの特に女性にその役割が与えられて当然、というような風潮があります。彼女の言葉を聞いて、責める人はきっといます。子供やったら親の面倒見るのは当たり前やろ、みたいな・・・。いろんな家族の形態があり、それぞれに感情があり、それよりも何よりも、その介護が精神的にも身体的にも重いものであるということを理解しなければならないと思います。それが理解できれば、だれにも責めることなどできないでしょう。世間の目とか、これまでの慣習から「こうあるべき」という社会規範のようなものは、言葉にならなくても、思いのほか当事者を追い詰めることがあるということに大学に入ってからしばらくして気が付きました。私の友人の場合は、まだ口に出せているから大丈夫かなとも感じます。「自分がやらなくては」と思い詰め「やるべきことをやらなければ」とさらに自分を追い詰めていく・・・・そんなことはあってはならないことです。福祉の社会化というのはこういうことをなくし、介護される人もする人も幸せになれるようにすることと思います。使える社会資源はどんどん使いましょう。まだまだ、十分とは言えない社会資源ですが、使えるものは使い、人の手に頼ることも必要です。まずは、視点を変えていかなければ・・・。授業の課題で、「脳死」と「臓器移植」についての新聞記事を集めてレポートを書いています。その中で、提供する側の意見をもっと尊重する必要があるのではないかと感じています。日本の現行法では子供の脳死移植は不可能で、渡航移植に頼っています。WHOがこの渡航移植に規制をかけるということで法改正が急がれているのですが、もっと議論を重ねなければならないように感じます。一方で、渡航移植が禁止されたら、移植だけが生きる手段の子どもたちの生きる道が閉ざされることになります。それでも、提供する側の気持ちをきちんと受け止められる時間がほしいと感じるのです。急がなければならないけれど、議論がきちんとなされなければならないと。個人的にはERIが高校生だった時、「臓器提供したいから意思表示カードに家族のとこにサインして」と言ってきたことを思い出します。その時、「ごめん、理性では理解できるけど、まだサインする覚悟はできていないわ」と答え、サインしなかったことを覚えています。脳死の人から臓器提供を受け、助かる命があるということを初めて知った時は、あまり深く考えることなく、素晴らしいことだなと感じていたと思います。けれど、それをわが身というよりは、自分の家族にあてはめたた時、まだ温かい体をし、時には涙をなたしたりすることもあるという状態で「死」として受け入れることができるだろうか?いまだに答えは見つけられません。今日はかなり重い話題になってしまいました。いろんな意見聴かせていただきたいです。
May 17, 2009
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夫の両親にYOUのお祝いということで焼肉をご馳走になってきました久しぶりにビールも少々頂いて幸せ気分のYOKKOです帰ってきてテレビをつけていたら「婚活」というテーマ日本ではかなり深刻な状態だとか・・・。フランスのPACSという法律は興味深いですね。婚外子にも婚姻しての子どもと同じ社会保障が受けられる。フランスでは子育ての社会保障が確立しているのだとか。それで少子化に歯止めがかかってるんだそうです。結婚する人は増えてないのにです。日本の場合、婚外子の扱いはなかなか微妙。世間の目も冷たいような気がします。文化の違いもあるから一概には言えないけど・・。日本では結婚するのは社会に守ってもらうためみたいなこともあるようにも感じます。婚活に話題を戻せば・・・結婚できない理由。やはりここでもコミュニケーションの不足というか生のコミュニケーションをする機会が減っていることが原因に一つみたいですね。ネット上でのやり取りですんでしまう。ネットであれこれしているうちに、生身で恋愛するパワーも失われるって事もあるとか。確かに、恋愛は生身でするもんで、コミュニケーションとらなきゃ無理。ただ、それでもいいって人は無理に結婚することもないんだろうね。したい人がしたくてもできないってところが問題。原因のもう一つに、親との同居って事があるらしい。結婚後の親との同居ではなくて独身での同居。確かに、ご飯は出てくる、洗濯はしてくれる、生活費だって要求されない・・となれば居心地はいいよね。同居してても、家族としての仕事が役割分担されてればいいんだろうけどね。同居する子どもは、こき使うか、結婚してなくても独立してもらう方がいいのかもしれませんね。結婚はともかくとして、親の仕事って、結局のところ、子どもを自立させることだと思います。親がいなくても、生活できる力。世間の波にもまれても大丈夫な力をつけられるように導くこと。一緒に住んで、働いている子どもが仕事で忙しかったらついつい親は面倒を見てしまうだろうけど、自分のことは自分でさせた方がベター。でも、家族の世話をする良いお母さん像からすると違うんだろうな。こんな時は、「ええかげんなおかん」の方が子どもはきっとしっかりするんでしょう。自分でさせるって実は結構手間がかかるんですよね。できるようになるまでは、手をかけて教えなければならないから。でもね、教えてしまえばラクチン。親も楽だし、それが出来る子どもは自分で生きていく力がついているわけですから一石二鳥だと思うんですが。ということで、YOKKOとしては、YOUにいろんな事をやらせては楽しんでいます。今日は一緒にチョコレートケーキを焼いて見ましたオーブンの使い方とかも教えたりしてね。いつかYOKKOのためにケーキでも焼いとくれ~(不順な動機どす・・何故か古い京都弁)そうそう、氷が大好きなYOU。氷がいつも冷凍庫にあるためには、タンクに水を入れて置かないといけないのですが、氷が嫌いなYOKKOはついつい水を入れずにほったらかしてしまう。ついに今日、YOUが「氷を作るにはここに水入れといたらええんやな」と聞いてきたので、タンクの洗い方、水の入れ方タンクのセットの仕方など教えておきました。次回からは自分でやることでしょう。そう、子どものためなんですよ(笑)次は洗濯の仕方でも教えなくては~YOKKO式不精な母の勧めでした
February 11, 2009
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昨日は傾聴ボランティアの月例会と同じく、午後からは認知症の勉強会でした。月例会では、ボランティアとしての今年の抱負と回の運営についての話し合いに続き、会話記録講読がありました。会話記録は、クライアントさんとの会話を記録し、傾聴者としての反復の仕方などを点検し、困ったこと疑問などの解決を探ります。午後の勉強会で資料の中に、心に残った言葉がありました。「ボケても心は生きている」読売新聞の認知症フォーラムの中の記事の中に出てきます。私が傾聴ボランティアをはじめて、気になりはじめたことの一つに介護者の言葉遣いということがあります。町で、デイサービスのための送迎風景を時々見かけるのですが、職員さんが時として、高齢者の方たちに、まるで幼稚園児に話しかけるように声をかけておられることがあります。優しい口調ではあるのですが、これでいいの?と思っています。傾聴塾の先輩方にこのことを今回は質問してみました。その答を私なりに要約してみると、「いやだと感じておられる方もかなりらっしゃることでしょう。残念なことに、援助する側と、援助される側ではどうしても、意識するしないにかかわらず力関係のようなものができてしまうのが現状です。援助者は良かれと思ってしていることでも、援助される側からすると「一言尋ねてからやって欲しい」ということがたくさんあると思います。でも、それを言うと「厄介な人」というレッテルを張られる。例えば、援助者が、寒い日だし風邪を引いたら困るからと皆に上着やショールを着せ、湯たんぽまで置いていく。でも、援助される側は、それに対して暑いと感じていてもなかなかそれを言い出せない。トイレにしても、自分で行こうとすると、「ちょっと待ってすぐ行きますから」車椅子を持ってこられる。本当は歩いていきたいのに・・・。行きたくもないトイレに、失敗しては困るからと行かされる。そして援助される方は、気持ちを中に押し込めてしまうようになる。これが困るのは、援助者は援助される方のために良いことをしている、して当然の行いとしてされているということです。」だいたいこんな感じになります。確かに、あったかくしていれば、風邪も引きにくいし、足元もおぼつかない方は、車椅子の方が安全です。でも・・・認知する力が衰えても、感情は残っています。人間としてのプライドも残っていると思います。徘徊や暴力といった、認知症の周辺症状といわれるものも意味のある行動であり、原因や背景があるのだそうです。その意味を読み取っていくことで、周辺症状を緩和していくことも可能だということだそうです。心が生きているのです。一方で、介護者の仕事が忙しすぎるという現状もあります。傾聴ボランティで、ほんの少し、特別養護老人ホームの様子を見せていただいていますが、本当に大変です。皆さんそれこそずっと動いておられます。力仕事でもあります。でもここのスタッフの皆さんの言葉かけは丁寧です。福祉に携わる方たちには、どのような指導を受けてこられるのかそれを知りたいというのが、大学に編入した動機のひとつです。老人福祉に関しては「ボケても心は生きている」ということをきちんと教えていって欲しいと思います。自分が歳をとったときにして欲しいと思う援助ができる援助者を目指したいものです。
January 26, 2008
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昨日はたくさんの書き込みをありがとうございました。今の日本って、おかしなことだらけだと感じます。パソコン教室の生徒さんやスタッフは50代~60代の方が多いのですが、この世代は介護者としての世代でもあります。在宅で介護されていた方のお話など、授業の後に聴かせていただく事があるのですが、びっくりするようなことが多いですね。例えば、要支援の認定だった方が突然歩けなくなった時、生活していくのに必要な介護支援をお願いした際、まずは、要介護の認定が必要だと言われたというお話。その手続きには1ヶ月掛かるといわれたそうです。結局その認定が降りた時には、お亡くなりになっていた。在宅で家族が面倒を見ていると、いろんな補助が受けられず「庭にプレハブでも建てて、介護認定の時だけでも形だけ一人暮らしというようにしておくといい」なんていう話が出てくるんだそうです。門野晴子さんが、本のあとがきに老人介護の問題を考える時には自分でウンチのオムツを換えてから考えろというようなことを書いておられましたが、(今手元に本がないので表現は違っていると思いますが)本当にそうだと思います。(私自身も経験はないのですが・・・)桝添大臣は介護経験者だと、NHKの番組の中で紹介されていましたがどの程度かかわられていたんでしょうね。歳をとっても病気になっても生きる希望と人間の尊厳の持てるそんな社会を目指したいものです。とっても頭のいい方たちで政治は動かされているはずなんですから!!
January 23, 2008
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