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2009.12.18
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カテゴリ: カテゴリ未分類
今日はジェリコーとロマン主義についての講義で標題の講義ではもう既に3回目になる。

ジェリコーは1791年生まれで、1748年に生まれたダヴィッドの新古典主義に続いて起こったロマン主義を代表する画家である。

アングルから継承し、アカデミーで教鞭を執るといった道を歩んだ、ダヴィッドに対して、ジェリコーは一風変わった人生を送り、32才の若さで落馬事故で死ぬまでに系統立った仕事はしなかったということだ。
これをロマン主義として集大成したのが、ジェリコーの7才年若い後輩のドラクロアであり、ジェリコーとドラクロアとは交友関係にあった。ドラクロワについては、次回からの講義になる。

ジェリコーはフランス革命以後の世代に育ち、大金持ちの家に生まれたのでお金に不自由はしなかったようである。
ジェリコーはそんな環境もあって、無類の馬好きであったという。現代でいえば、格好の良いスポーツカーが好きな若者に似ていると言うことである。従って馬を飼ったり、馬に関する絵画が多いのはそのためであろう。

最初に紹介されたのは、「近衛騎兵隊の士官」で、元々の題名は「D氏の肖像」ということだ。
ジェリコーの友人でデュードネというフランス士官を描いた作品であるという。この作品は彼が21歳の時に描き、サロンに初出品して、しかも金賞を取ったという。
ナポレオンが席巻した時代には、各国にある著名な美術品はすべて略奪され、ルーブル美術館に集められたがその後殆どが返却されたが、現在もそのルーブル美術館にこの作品はある。


この、斜めの線を使う技法は、17世紀の画家ルーベンスの「マリード・メディシスの上陸」などの影響を受けているというが、筆のタッチは荒っぽいところがある。

当時のフランスでは、ある考えが起こるとそれに反する考えや意見がアンチテーゼとして台頭するのが常であったようであるが、日本の画壇に於けるような陰湿ないじめという感覚はなく、作風の違いはお互いにぶつけ合いながら議論し合っても、日常の生活では友人であり食事を共にするなどというものであった。

例えば、音楽家ブラームスがブルックナーと意見は違ったが、共に食事をする仲であったと言ったことが紹介された。

「戦場を後にする傷ついた士官」では、ナポレオン戦争で敗れた、士官が、これも馬を引きながら最前線から離脱する弱々しい姿が描かれている。しかも、「近衛兵・・・」の絵に見られたサーベルを雄々しく抜いた姿とは違い、剣を杖にしているある意味ぶざまな格好である。
この作品もサロンに出品されたが、作品としては素晴らしいものの、入賞しただけで、厭戦感のためか、評価はあまり高くなかったようである。

当然国家的戦争を鼓舞する内容ではなく、敗北を描く内容に共感する向きは少なかったということであろう。当時の戦争は、現代の総力戦という形ではなく、非戦闘員は巻き込まないというか、戦争をする職業軍人を一般の人たちが見物に行くというような時代であったため、作品としてももてはやされ無かったのかも知れない。

「水道橋のある風景」では、ジェリコーも当時はお定まりのローマに行ったという事を示す作品で、ローマ賞などは受けていない平凡な作品であるとの講師の紹介である。
ジェリコーのローマ行きは、ある種の逃避行であったともいわれる。ジェリコーは、実の叔母と恋愛に落ち、叔母との間に子供まで作ったが、そのことを清算するためにローマに逃げたという身勝手さの行動だったというのだ。そういった意味でか、講師もこの作品を評価しなかったし、ローマに行った証拠品としての意味しかないと言うことだった。

さて、私が連れ合いと見たルーブル美術館にでかでかと飾られている「メドゥーサ号の筏」が紹介された。この絵の背景は、1816年、当時の仏領だったアフリカのセネガルに400名の兵士を乗せて入植しようとしたときのことである。メドゥーサ号は浅瀬に座礁してしまう。

通常座礁時には、船体を軽くするために捨てられる荷物はすべて捨て、船体を軽くして、潮を待って離礁するのが常識だが、当時の船長は、自分の私物である多数の高級ワインの樽を捨てなかった。そのため、結局、船は転覆を余儀なくされるのだが、この時も、救命ボートは250名分しかなく、これらはすべて士官に振り当てられ、残った下級兵の150人は、船体にある材木で、筏を造り漂流するという結果となった。

この筏も、初めは、かいを有する救命ボートに曳航されるが、荒れた海で、無情にもボート側からこの曳航綱を切断され文字通り漂流するのだ。13日の洋上漂流の間に、食糧もなくなって、互いに殺し合って、人肉を食べるというカニバリズムも起こり、後に救助された、たった15人の中の船医がこれらを暴露して大問題になったと言うことである。



この作品はサロンに出品されたが、さすがにフランスでは大賞は取れなかったという事である。
この作品をイギリスの興行師が借り、イギリス各地で大好評を受けるなど、敵フランスの恥部に喝采する気分であったのだろう。

ジェリコーはこういった、少しグロテスクな絵に対して興味を持つという癖もあり、死体を描くことも多かったと言う。

又、現在は少し形態を変えているが、パリーダカールという過酷なラリーの背景には、フランスは、車ででも、セネガル(即ちアフリカ)の首都ダカールまでも攻め込める力があるのだということを誇示するために始まったと言う説明もあった。

ジェリコーは又一風変わった絵も描いている。精神病を患う患者の肖像画である。これは、当時精神医学が未発達で、精神の病は即ち悪魔の仕業ぐらいに考えられていた中、科学的にこれに取り組むために精神科医の依頼を受けて描いたものであるという。



これらはいずれも精神病(中には今日の認知症)に罹患した患者の特徴を誇張ではなく又偏見としてでもなくありのままに描いている。ジェリコーの美意識のもう一面を示した内容と言っていいのではないか。

無類の馬好きのジェリコーの絵で私が思い浮かぶ、「エプソンの競馬」はブルジョア趣味で、イギリスに馬を買い求めに行ったときの作品で、馬の商人の依頼で描かれた作品だという。この絵の馬は両足を前後に思い切り伸ばしたように描かれている。私も奇異に感じてはいたが、馬が走るときには決してこのような状態にはならない。ジェリコーが独特の手法で、馬の躍動感とスピード感を表したデフォルメである。

こういった馬好きが高じて落馬事故に遭遇したのであろう。講師は、車好きで、交通事故に遭い若くして亡くなったジェームス・ディーンを比喩として話していた。

この後は、新古典主義に対抗する形でロマン主義を形成し、ジェリコーの影響を受けた画家の作品の紹介があった。
ジェリコーの親友のヴェルネが描いた「へスティングの戦いの後でハロルドの遺骸を見つけるエディス」は、イギリスのアングロ・サクソンの征服王であるハロルド王がノルマン人との戦いに敗れた戦場で、イギリス側の修道士達が、その亡骸を探すという場面を描いたもので、ハロルド王の恋人であるエディスを伴って見つける瞬間を捉えた作品である。
新古典主義は、古代ギリシャに回帰することが多いが、この作品は中世にベースを置き、斜めの構図を使っている。

コニエに依る「レベッカとボワ・ギルベール」はこれも中世を舞台に、十字軍とイスラムの戦いをモチーフにしている。コニエは、この作品で、ローマ賞を受賞し、以後、トントンと出世し、国立美術学校の校長まで務めたという。しかしながら国立美術学校に入学さえ出来なかった、セザンヌなどの評価の方が後世では高いという芸術は皮肉な一面がある。

この絵は、私が幼かったときに読んで感動した「アイバンホー」の一場面だそうで、当時のことは忘れてしまったが、レベッカという名前は覚えていて、妙に懐かしい気がした。
馬の足の描き方が、ジェリコーの「エプソンの競馬」に似ているところは、ジェリコーに影響を受けたことが窺い知れる。

シャセリオーの「テピダリウム」は古代ローマのポンペイ遺跡で発掘された浴場からヒントを得て描かれた作品だが、画面となるテピダリウムは浴場から出て休憩する部屋を意味するのだそうだ。この部屋は、ガンダーラ美術にも見られる化粧漆喰のストゥッコと言う技法も描かれている。

テピダリウムの中で、くつろぐ、半裸や、全裸の女性達が描かれていて浴場が如何にローマ人の憩いの場所であったかをよく示している。私も、連れ合いと、暑さの中回ったポンペイの遺跡で、今は薄汚れた、テピダリウムの中に入ったことを思い出した。

最後はレーマンの「フランツ・リストの肖像」である。リストは現代までで、最も優れたピアニストであると言われている。ルービンシュタインやホロビッツなどを孫弟子に持つリストは、現在活躍する名ピアニスト達のすべてが、リストの系列を引くというほどの偉大な人物であったようだ。若い頃は、女性のアイドルだったと言われ、コンサートでは常に成功を博し、女性の失神者も出るほどの盛況であり、この点では、モーツアルトが、コンサートを開くが成功しなかったというの比して、大きな違いである。しかし、人生半ばで僧籍にはいるなど、晩年は、必ずしも幸福ではなかったようだ。

そんなリストの若い頃を描いたレーマン作の肖像画は、いかにもアイドルと言われるに値するような、端整な顔立ちを黒装束に身を包んだ姿で描がかれている。そして、いかにもピアノの魔術師と言われたことを象徴するかのように組んだ左手の指が美しく光を当てた形で表現されている。

絵画を見るためには、その背景を知ることが必要であり、又それを知ることで、絵画の鑑賞の仕方も変わるものだということが良く分かった。

講義が終わって、連れ合いは、講師の先生が書かれた「ヨーロッパ中世美術」という新書を携えて、先生の署名を貰ってくれた。





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Last updated  2009.12.19 22:10:06
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