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2010.04.21
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カテゴリ: カテゴリ未分類
昨日まで借りていたエジプト文学のターハー・フサイン著の「わがエジプト コーランとの日々」を図書館に返却した。
アラブ文化に触れる機会が出来たきっかけは、サウジアラビアでの駐在経験があったからだ。世の中に正とされることがそのまま正ではなかったり、邪とは言わないまでも、余り好ましくないと言うことでも、さほど悪くはないと言った、文化の違いを知る良い機会であったと思っている。

俗に「日本の常識は世界の非常識」などと言われた時代があったが、世の中が進歩し、トランスポーテーションも比較的簡単で安くなったこともあって、今日では、各種のツアーで海外を訪れる人も多い。
海外への観光渡航が自由化された1964年には、わずか13万人だった海外旅行者の数が、1990年には1,000万人の大台を突破して、2000年には1,782万人と史上最高を記録するまでになった。その後若干数は減ったものの、依然1700万人は優に超えている。

私が最初に海外出張に出かけたのは、1984年であり、その頃は、まだ渡航者は、500万人を下回っていた。それ以前の先輩達の海外出張は、水杯というのは少しオーバーだけれど、それに似た感覚であったようだ。私がわずか10日程度の出張に出かけるときも、何人かは、お見送りをしてくれたものだ。

それから人生の後半で、サウジアラビアに出かけたのは、2005年で、既にその頃には、1700万人近い人が海外に出かけていた。従って、海外も一寸下駄履きで近所に出かけるという感覚で、ひょっこり出かけたり、ひょっこり帰る人が周りに大勢いた。

さらには、1996年に出かけたジンバブウェでは、仕事の指示や報告はまだファックスであったので、時差の関係から、本社の仕事真っ直中の時は、丁度現地の朝の6時前という事もあって、いつももう少し寝ていたいのにと思う頃に、ファックス機が「トゥトゥ・・・」と鳴り出して、目覚めるといった按配であった。

それ以降はIT革命と言うことも手伝って、インターネットが華やかになり、メールがリアルタイムでやりとりできる時代になったわけで、周りの人間の顔は確かに日本人ではないのだが、何かしら、海外にいる感じがしなくて、いつもメールに追い回されると言うことになったわけだ。

それから後は、パソコンにカメラを付けると、日本にいる相手の顔を見ながらの会話(チャット)も可能になり、ますます海外が近くなったようだ。


たどたどしい英語でも、話し込んでいく内に、相手の話し方の癖などが分かり、案外スムーズに英語で考え英語で喋るようになっていくから不思議である。残念ながら、私の場合は、英語を母国語とする国ではなく、共通のコミュニケーション手段として英語を使うとか、一時、アメリカやイギリスに占領されたり、植民地であったりした国が多かったので、流ちょうな英語で喋られると、未だについて行けないのだが。

日本は長く鎖国していて、海外との交流は極限まで禁止されていた。今NHKドラマで「龍馬伝」をやっているが、坂本龍馬の名声に隠れ、余り目立たぬ役回りではあるが、武市半平太という「尊皇攘夷」の中心人物がいた。日本に対する外国の高圧的なやり方に、外国打つべしと凝り固まった男である。

当時の幕府は、長い鎖国時代に自分より偉いもの、強い者が居なかったところに、急に得体の知れない文明国の「黒船」が来たから驚いて、手も足も出なかったわけだが、今では、海外を相手にしなければ自国の経済すら成立しないと言うまでに変化しているわけで、今の状態を坂本龍馬が見たらなんと言うであろうかと思う。「まっこと、えらい世の中になったぜよ」とでも表現するだろうか。

紆余曲折の末、1858年アメリカのハリスとの屈辱的日米修好通商条約の締結をもって鎖国が終わるのだが、その時に、海外の状態を知ることができるのは極く限られた人達だけであった。
それから10年、龍馬や、武市の活躍の後に、明治となり近代文明の仲間入りを果たしたわけであるが、それからまた待つこと100年近くでやっと、一般人の海外旅行自由化となったわけである。

少なくとも鎖国の間は、海外から蹂躙されることもなかったが、それは、西洋という場所から一番遠い国であったからに他ならないであろう。ヨーロッパ大陸と陸続きであれば絶対に鎖国などと閉鎖的なことが出来ているわけではないし、とうの昔に武力で何処かの属国か何かになっていたであろう。

その意味に於いて、日本は幸せな国であったかも知れないが、ここに来て、その百戦錬磨の外国勢と丁々発止とやり合える外交力というものが育ってこなかったと言わざるを得ない。

5月末までに結論を出すと言う普天間基地問題も、デッドロックに乗り上げているようであり、幾ら「Trust me」と言ってももはや見向きもされないような、状態になっている。
それもこれも、小さな国のコップの中だけのお山の大将でいた間は良いのかも知れないが、舞台が世界に移ると、極端にその無策と、外交術の無さを露呈してしまうのである。

終戦後、「奇跡の発展」だとか、「驚異的な勤勉さ」とかで、世界中から日本の復興の早さとすばらしさをもて果たされ、私たちも、その礎として、昼夜の別なく働いてきたつもりだけれど、その結果何を残したのか? 国の運営を、一部良くできるキャリア官僚の欲しいままに任せ、国を憂うる人が少なくなる一方、自分さえ良ければそれで良いという極端な個人主義だけを遺産に、日本の全ての階層は抜け出せない奈落のスパイラルに巻き込まれつつある。

どう贔屓目に見ても、日本が、中国をさしおいて、アメリカの興味の対象としてプライオリティーが高いとは思えないし、日本は、あくまでも、彼らにとっては、極東で端っこの国なのである。


今更日本が社会主義国家になるわけもないのに、ほんの一握りの現実をふまえない社会主義者のお姉様を閣内に入れて、数あわせをしようとしたことが、ここに来て大いなる災いとなってしまっている。

尤も自民党政権下で、「思いやり予算」などと称して、全く方向違いの負担金をも唯々諾々として受けてきた結果がこんにちであるから、野党も余り突っ込めないのであろう。
恐ろしい考えかも知れないが、一旦アメリカの「核の傘」から出て見てはどうだろうかと思う。

にわかに北朝鮮が、テポドンを打ち込むかも知れないが、自国を守るのはこの時とばかり、自衛隊に奮起して貰うのである。それでも駄目なら、まず東京か大阪は焦土と化し、古い頭の政治家や、役人(そして一般市民も含むのは当然だが)一掃されてしまい、新しい日本の建設が再び始まるのではないだろうか。

そんな時でも、アメリカとして日本が、共産圏や、社会主義圏に取り込まれるのを、手をこまねいて見ているかどうかである。決してそのようなことは過去の歴史を見てもあり得ないことである。







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Last updated  2010.04.25 07:54:53
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