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2010.05.21
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カテゴリ: カテゴリ未分類
4期目のNHKの講座の第2回目があった。前回は「クールベとドーミエ」と言うことであったが、ドーミエについては言及されなかったので、今日のテーマは先ずドーミエを取り上げ、続いてミレーと言うことになった。

オノレ・ドーミエはクールベやミレーと共に写実派に分類される。マルセイユに生まれ、父親が詩人になりたくて一家でパリに移住するも、父は詩人になれず、ドーミエは画塾に通い、リトグラフの技法を身につけた。
作品には、時の国王ルイ・フィリップの治世下で政治に批判的な風刺画(一口漫画)を描いて、投獄されるという目に遭っている、反骨精神旺盛な画家である。

最初に紹介された絵は、「さあ君の話す番だ、延べたまえ、きみは自由なんだ」という長い名前のリトグラフである。
この絵は、解説が要らないほどの作品であり、左に座る裁判長がにやりと笑いながら、罪人である人に問いかけている構図であるが、この罪人たるや、猿ぐつわをはめられ、官吏に抑えつけられているというもので、自由を容認するかの建前に対して、実は非常な弾圧があるという意味の風刺画である。

次は、「カルガンチュア」で、時のルイ・フィリップ国王を、巨人で大食漢のカルガンチュアになぞらえ、どっかりと王座(実は便器を象徴している)に座っている。その大きく開かれた口に、下の方から次々にベルトコンベアに載って国民の税金が国王の口に運び込まれてゆく。王座の周りには、うまい汁を吸おうという議員や高官が群がっている。
といった風刺画である。王の口に運ばれた税金は、王が喰らい、そして、王座と見立てた便器から排出される利権に群がる高官達というもので、現在の天下りの垂れ流し利権を思わせるような身につまされるものであった。

この、政権の腐敗を痛烈に皮肉った風刺画は、検閲にひっかかりドーミエは禁固6ヶ月、投獄されるが、逆にドーミエの名を世に広める結果ともなった。
王の顔が洋梨のように描かれているが、洋梨は、フランス語では「間抜け」という意味もあり、痛烈な風刺である。



「話し合う三人の弁護士」では、前方で、今日の裁判のやりとりを勝った方と負けた方の弁護士同士、批評しながら談笑している絵で、彼らにとって裁判の結果などはどうでも良く、左奥で泣く女性のことなどは眼中にないといった絵である。

「洗濯女」はパリに住む最下層の女性が、子供の手を引きながら、洗濯物を持って階段を上っているという構図であるが、ぼんやりと描かれた背景の白壁のパリの街にもこういった下層の人がいて、ドーミエは、そういった生身の人間をありのままの姿をたたえるという気持ちで描いている。新古典主義では、ドラクロワの如く、均整の取れた、神話から引用した女性こそ美しいとされていたのとは対照的にありのままの生活の中に生きる女性の尊厳を暖かく描いている。小説家バルザックは、この絵を見て「まるでミケランジェロのようだ」と言ったそうである。

「三等列車」では、ぎゅうぎゅうに混み合った下層の列車に、乳飲み子を抱えた母親と、その祖母の3人に焦点を当て、貧しくとも毅然とした尊厳ある姿で居住まいを正している。下層ではあるが、堂々としている人間としての尊さを描いており、後に印象派などへも大きな影響を与えた作品で、人物画を描く上で、神話にある美から現代の身近な美しさへと変化する絵画の転換点ともなったと言われている。

「サンチョとドン・キホーテ」はセルバンテス作の絵画化であるが、時代に追いつこうと、先走る老騎士ドン・キホーテにロバであえぎながら追いつこうとするサンチョ・パンサを描いているが、多くの同種の作品を描いているのは、ドーミエ自身をドン・キホーテになぞらえたものであるとの見方もされているようである。

ここからは、テオドール・ルソーの作品で、「フォンテーヌブローの森の外れ(日没)」はパリ南方のバルビゾンにおける風景画である。当時、パリの喧噪を離れて、郊外に憩いを求める気風があり、後のミレーや、ルソーなどはここに住み風景画を描くことになる。

パリから列車がフォンテンブロー宮殿まで敷かれているのも好都合だったようである。この時代は、各々の画家が、パリ郊外のバルビゾンを始めジベルニー、アルジャントゥイユ、オーヴェル=シュル=オワーズなどに出て行って、風景画を描くようになった。私と連れ合いは、モネの家があるジベルニーを訪れたことがあるが、パリを出るとほんの数時間内に、田園風景の広がるフランスはさすが農業国という感じでのどかである。

森と、沼沢と、牛といった田園風景が好んで描かれたようで、自然を切り取って、部屋に飾ると言うことはこの頃から行われるようになった。

「ランド地方の沼」は半年間のスケッチ旅行の中から描かれたもので、ここには、木々と、沼沢、牛を中心に壮大な田園風景が見て取れる。

トロワイヨンの「嵐の前」は、初めて聞く名前だが、犬を連れて郊外に乗馬を楽しむ姿を、大自然にとけ込ませた絵になっている。

次にミレーの「落ち穂拾い」だがミレーは、ノルマンディー地方の代々農家に生まれる。写実派に属し、貧しい農民の姿を描き続けた。国立美術学校には通らなかったものの、私学で学び、結婚3年で妻を亡くし、再婚した召使い女を親から認められずといった生い立ちである。ドーミエ同様、貧農の中にも、美しさと威厳を見いだし、人間の尊厳を描いた画家である。

同様の作品に「落ち穂拾い(夏)」がある。これはより以上に、貧富の差をまざまざと見せつける対比的な絵となっている。



「春」はシリーズで四季を描いた内の1作である。バルビゾンの風景を光と影のコントラストを活かして描いているが、大きな虹の中心に当たる点に人物が描かれている事について、色々議論はあるものの、明確な合意は得られていない。

「井戸から戻る女」は水汲みという重労働を、日常のさりげない仕事として描いていて、木靴を履いた女性の純朴さが細かな配慮の元に表現されている。当時の美術批評家のトレビルガーに、この絵を描いた意図を詳しく書き送っている。男から見た女性の慎ましく従順である点を強調したいという意図が出ている。

「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」は、マネが、「草上の昼食」でスキャンダルとなった時のサロンに出品した作品である。陰気だと言うことで、評判はあまり良くなかったようで、結局は売れなかったと言うが、1967年パリ万博には依頼された他の作品の8点と共に出品している。

最後の、「種をまく人」マタイ伝13章3-8を引用し、種=信仰の種(尊さ)をダイナミックに表現した動きのある作品である。





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Last updated  2010.05.22 22:42:11
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