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2010.09.21
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NHKアラビア文学講座の2期目も今回で最終の第6回目となった。
講師の先生も、聴講する仲間も共に気持ちの良い方ばかりで、この講座は心待ちする講座であったが、講師の都合で今回限りとなってしまったのは、何となく心残りである。

今回、取り上げられた本はムハマド・シュクリーの「裸足のパン」である。例によって町の図書館に借りに行くと、今回もまた、府立の図書館にしかなく、取り寄せるという。取り寄せて貰った本はオムニバスで、世界文学フロンティア-5「私の謎」というタイトル本の中に、「裸足のパン」が含まれている。しかもその頁数は、ほんの十数ページでしかない。

今回は、講座を受けるに当たっては、読書時間はそれ程掛からない。しかし折角借りたのだからと全てを読むことにした。全てでも300ページに足らない超短編集である。結局何を言いたいのか私には理解できない作品が多かったが、どれも少数民族の恵まれない立場を描いたものだった。

例えば、「雨に踊る人」や「暗闇にとりくむ」はチカーノ(メキシコ系アメリカ人)の事を書いており、「だれでもない人々」はポルトガルでの話、「ヴォルケイノ」はハワイの日系人の話、「シャム双生児と黄色人種」というのは体の腰の部分が一体になった2人の話である。「『ザミ私の名の新しい綴り』より」はグレナダでの自伝的話であるが、何を言っているのか私には全く分からなかった。「記憶の場所」はアフリカ系アメリカ人の話で、ノーベル文学賞を受賞したトニ・モリスンの作品である。ここでは、トマス・ジェファソンや、カント、ヘーゲルなどが本音で黒人のことを如何にさげすんでいたのかを読み取ることが出来た。

「『私の父はトルテカ族』より」は出身が伝承上のメキシコに起こったとされるトルテカ帝国の子孫だとする詩人の詩集である。「写真に抗して」は、ルーマニア生まれで、ゲットーを撮り続けたカメラマンの話などで、この中の言葉、「ツーリストはカメラを持ったテロリスト、テロリストは、銃を持った観光客」というのには、何か心に残った言葉である。「物語の終り」はサルガッソー海のキューバを舞台にした小作品である。

さて、「裸足のパン」であるが、ムハンマド・シュクリーの作品で、彼は完全なアウトロー作家で且つセンセーショナルな作家ある。この本は、3部作になっているということで、紹介された本にはどうやら第1作しか無く、続編があり、「過ちの時/無頼の徒」「さまざまな顔」と続くのだそうだ。全文でも228ページほどらしいが、講師は原本(もちろんアラビア語)で読まれているわけで、日本語の続編の紹介を忘れたと言うことだった。

ともあれ、物語は、他の作品と似て、自伝的作品で、モロッコ北部のタンジールを舞台にしたものである。この作家、ムハンマド・シュクリーは何と19歳まで所謂文盲であったという。拘置所で知り合い、25歳でなくなったアブー・アル=カースィム・アル=シャッピーという愛国者が作った詩(後に現チュニジアの国歌の原型)の響に魅せられて、文字を学ぶきっかけになったというのだ。


 必ずや夜は明け、必ずや軛(くびき)は断ち切られるであろう」というものだ。

それ以来ララシュで言葉を勉強して、学校の先生から、果ては大学教授までになったというからすごい。
第1作の内容は、シュクリー自身の貧困と暴力、悲惨で過酷な幼少時代を回想で包まれる。父親の凄まじい暴力が、母親や自分に向かったり、果ては弟を殺すまでのことをする家庭環境に育つ。しかしながら、売春婦である母親は、その暴力的な父親との間に十数人の子供を儲けるが殆どを亡くすというような家庭であった。

凄まじい表現の一部は【親父がおふくろの顔に平手打ちを食わせた。いったい、二人で何をしてるんだ?
 「この売女の娘が!」
 「いやよ! いやよ! 痛いじゃないの。そう、そこよ。そう。いいわ。ちがうったら。そうじゃないったら。そう、そうよ!」
 二人とも熱病にかかったに違いない。喘ぎ、接吻、悶絶しそうな吐息、喘ぎ、接吻、吐息、喘ぎ、接吻、吐息。二人は互いに噛み合っている。相手を貪り食い合っている。相手の血をすすりあっている。】

といった具合である、永井荷風の「四畳半襖の下張」はわいせつ裁判になったのと似た表現が使われている。生きていくためのあらゆる犯罪、男色、売春、セックス、飲酒、ドラッグと様々な社会悪に手を染めていくのである。こういった過酷な時代から言語を学び、立ち上がっていこうとする転機の個所で第1作は終わっているわけで、なにやら拍子抜けしてしまったが、後の2作3作での展開を講師に聞いて、何となく納得した。

所謂ピカレスク小説の主人公と同一視する評者もいるということで、フランスのアウトロー作家「ジャン・ジュネ」やアメリカの「テネシー・ウィリアムズ」とも親交があったようである。
類は友を呼ぶというのはこういったことなのかと感じた。

私自身文学を語る資格はないが、文学というものは、真っ白なキャンバスに色付けしていくことにも似ているわけで、キャンバス自身が既に汚れている場合はどうなのだろうかとか、また、色づけられる絵の具が、汚れたものであれば、結果も想像できるし、それも之も含めて、文学というのであろうかなどと考えてしまった。



作品の成り立ちも複雑で、イギリスの出版業者ピーター・オーウェンが、すでに、作家ポール・ボウルズがモロッコ人青年達の語った内容(口承)を自伝として書いた書物を既に出版していたのを知り、ジュクリーに同じような自伝を書くように勧めたのだが、シュクリーは既に作成済みと嘘を言い、ボウルズと共同で、書き続けたのだという。

ポール・ボウルズは自身がアラビア語で書かれたものを直接翻訳したと言っているが、それは真っ赤な嘘で、実際は、シュクリーがアラビア語をスペイン語に翻訳したものをボウルズが、英訳したのが真相だという。

タイトルの「裸足のパン」は邦訳であるが、原文には、「裸のパン」と言うことで、足はない。アラビア口語の取り違えでこうなったという話であり、裸、即ち、「何の味も付いていないパン=貧困」という構図を題材にしたものであろうとの意味があるとの解釈だ。

また、英訳では「人はパンのみにて生きるにあらず(Man shall not live bread alone)という聖書の言葉を思い出させる内容となっているのだそうだ。

講師も、受講生の1人もモロッコを訪れたことがあるとのことだったが、写真や、ユーチューブで見るモロッコの街は、大西洋と、地中海に面した、風光明媚なところのようだ。


講座後、受講した8人と、講師の先生(未だ若い)を囲んで、夕食を楽しんだ。
幹事役の女性の世話で忘年会をすることが決まったということから、講師の人柄の良さが忍ばれた。





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Last updated  2010.09.24 02:56:02
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