新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

PR

×

Profile

のらくろ君A

のらくろ君A

Comments

GX革命の旗手久保田玉鋼最高峰@ Re:第4の革命(カーボンゼロ):GXの衝撃(07/24) ルパン三世のマモーの正体。それはプロテ…
マイコ3703 @ 思わず初コメしちゃいました(*^^*) 私もブログを書いているんですが内容が偏…
のらくろ君A @ Re[1]:海の大動脈活況(シンガポール)(06/08) やーやさん そう、アクリル画でしたね。 …
やーや@ Re:海の大動脈活況(シンガポール)(06/08)  私もお名前書き間違って、女流画科さん…
やーや@ Re:海の大動脈活況(シンガポール)(06/08) 素敵な「ひつじ達とお散歩」は ポスター…

Favorite Blog

のらくろ君 のらくろ君さん
八十艮の広場 八十艮7633さん
ようこそ ばあこ … ばあこ5577さん
こんにちわ♪ kalunguyeyeさん
何の日=つぼんち16 つぼんち16さん
2010.09.27
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
2日前に高槻の現代劇場で標題の仏教講演会があるというので、どんなものかと行ってみることにした。連れ合いも付き合うというので出かけてみたが、会場は、狭い畳敷きにところだったので、とても足が持たないと連れ合いは帰ってしまった。

私はせっかく来たのだからと、聴講しようと残ったが、どうやら、集まってくる人達は、なにやらマニアックな感じがして、新人は私一人だったかも知れない。もちろん入場は無料で、参加者全員に小冊子を配ると言うことだったが、残念ながらもらえなかった。

講演の内容は「仏教とは一言で言うと何を教えているの?」「仏って何?」「家は浄土真宗だけど、親鸞上人はどんな方?」「朝晩の勤行に拝読する正信偈には、何が書かれているの?」といった内容だと言う案内であり、この間歎異抄を読んだばかりだし、もう少し仏教(真宗)のことを深く分かるかという単純な気持からの参加であった。

場所が現代劇場と言うから大勢の人が聴講するのかと思っていたが、そうではなく、頭数を数えたら係の人らしいのを入れて25名程度であった。

まず前振りの女性が出てきて、有り難いお釈迦様の生まれを解説してくれる。
お釈迦様は浄飯王を父にマーヤー夫人を母として生まれ、ゴータマ・シッダッタ(悉遺多太子)との名があるという。幼い頃から文武両道にすぐれ、その師をしてもはや教えることは何もないと言われたのだそうだ。生年もはっきりしないのに、何故か4月8日生まれだと日付は分かっているようだ。

極めて裕福な家庭に育ったと言うことで、「四季の館」(四季毎の風情を持つ4つの館の意味)を建てて貰ったり、常に500人の美女が侍ったりしているような境遇であったというのである。何とも、新興宗教のイントロのようではないかと感じた。更に続けて、「健康」「財産」「地位」「名誉」「妻子」「才能」などはいつか潰えて、永遠に続くことがないものであって、本来の幸福は1.不老、2.健康、3.不死であると言うわけだ。

良く聞く「産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話した」という説明はなかった。裕福な生活を送っていたが、やがてすることもなくなり、父の浄飯王に本来の幸福の上記3箇条が欲しいと言い、叶わぬとされたというのだ。そこで、29歳の2月8日裕福な生活を捨て、城を出て出家し、35歳で覚りを開き、仏覚となったというのだ。

ここのところは、「覚り=正覚」を開き、仏陀(覚者)となったということで、仏覚という言葉は見あたらない。覚りを開く修行には52段階あるのだそうで、詳しく説明はなかったが、52位とは、十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚を意味し、最後の妙覚が仏の悟りということで、釈尊はわずか35歳で覚りを開き、覚者(即ち仏陀)になったとのことである。


最高位の覚りを開いてその後80歳で没するまでの教えを仏教と称するとのことである。
そこで、講師が現れるのかと思いきや、何と、垂れ幕に映像が映し出され、過去に富山の2000畳の道場で信者を集めて講話した時の録画が流れたのである。私は、之は正に新興宗教と同じだと感じた。
そして、古典仏教も、やはり金が無くては成り立たず、こういった形で布教して、信者を広め、お布施を収集しようとのことだと悟った。

どうもこの手の会合は苦手である。周りを見渡すと皆さん「御文章」という小冊子を持っている。おまけに数珠まで持っているのだ。来るべきところを間違ったとは思いながら、午後は欠席するとして、午前中は聞くことに決めた。

VTRの講師は高森師と言うことで、なにやらきな臭い感じのおじさんである。瞬間的に創価学会の池田大作を思い浮かべてしまった。

高森師が説いた内容は蓮如が著したとする「白骨の御文章」の話である。その本文を筆写すると、
【本文】
夫(そ)れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。

おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、
ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、
六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。

ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、
念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

というものである。之は私が幼い頃に誰かの葬儀に出た時にこの言葉を聞いたことがあるのを思いだした。
世の中ははかなく空しい、「苦海」、「難度海」といった海のようなものだから、迫り来るさざ波や、大波を超えようと、流木や小さな板きれにすがっていても空しくなるだけである。
ここで、波は苦しみ、流木や、板切れは金、財産、地位といったものだというのだ。これらは、結局は空しく一時的なものであるというのだ。

そして、そんな浮き世を過ごしていこうとすれば、念仏にすがる他はないといった、歎異抄に言う専修念仏に行き着くというのである。

教行信証の冒頭にあるように、「竊(ひそ)かにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)、無碍(むげ)の光明(こうみょう)は無明(むみょう)の闇(あん)を破する恵日(えにち)なり。」

という風に、この大船は念仏を唱えることだというのである。

もう一つ、死はやがて訪れるもので「人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば」という如く、順番通りではないよと言い、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。」であるとか、「野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。」という如く、何もかも空しくなってしまうのだよと教えている。
しかし念仏することでも不老不死は避けることは出来ず、念仏によって心の平静さを保つと言うことなのかも知れない。

このように限られた中で意を尽くすことは出来ないが、一休禅師は、女性を例え次のように読み、人の世の定めを良く言い表している。
「世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶(かか)としぼんで 婆(ばば)と散りゆく」





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2010.09.28 06:47:14
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: