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2010.09.28
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カテゴリ: カテゴリ未分類
哲学者といえば、すぐ、ギリシァ哲学におけるソクラテスや、その弟子のプラトン、アリストテレス等を思い浮かべると同時に、なにやら難しいもの、疎遠なものだという思いを持ってしまう。

その通りなのであるが、そもそも哲学とは何かと問われて何と答えるかと言われれば、門外漢には分からない。折しも現在日経新聞に私の履歴書を執筆中である哲学者木田元氏の内容を読んでいるが、だいたい30回前後で終了するから、もう終わりに近い。

過去に哲学者として執筆された方は、2名しかおられない。履歴書であるから、哲学の内容を知ろうとしても無理なのだが、一体哲学者は何を考え、どのように生きてきたのかを考える縁になろうかと読ませていただいている。

氏は現在82歳になられると言うが、生まれてずっと哲学者ではなかったわけで、何と履歴書の約半分近くは、哲学とは全く関係がないと思われる、戦時中の物語が書かれているのである。1回目には「面白い人生、哲学と60年」と書かれているから、本格的に哲学を始められたのは22歳の頃からであろう。

戦争体験者の話は、先頃NHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」の水木しげるさんにしても同じであるが、聞くも、見るも悲惨な時代である。幼児時代から、多感な時期を有無を言わせず軍隊に所属させられ、やっと生きて帰れる喜びを語っておられるのは、誰も同じである。

私もどちらかといえば、戦中に生まれたことになるが、その悲惨さは、幸いなことに実感としては何もない。私にして、そんな風だから、それ以降の人々は、戦争というものに対しては、極めてよそ事のように考えているのかも知れない。

木田氏は、戦後の影響下で過ごされたようで、父親がシベリアから帰国されるまでは、一家を養わなければと言うことに精一杯で、農林専門学校でもと入学されたようである。「でも」というのもある意味不適切でない言い方かも知れないが、やはりその頃から、このまま行ってどうなるのだと、それまでの人生を振り返って愕然とする日が続いたというのである。

その辺りから、なにやら哲学の入口らしきところにたたれたようである。ドストエフスキーにはまって、「罪と罰」を読んだことを皮切りに、多くの書を読まれたとある。私自身も、「罪と罰」は読んで、ラスコリーニコフの名前には覚えがあるので、誰しもが通る道なのかも知れない。

連れ合いなどは、訳者が変わり、読みやすくなったと言うことで、「カラマーゾフの兄弟」5巻と後の続編を一気に読んでしまった。



氏の語学習得力とその勤勉さは驚くほどであり、なかなか真似して出来るものではない。
私などは、未だに哲学とは何かを知らないわけで、哲学家として生計が立てられることにある種の驚きを感じているわけだが、どことなく「哲学」という名前に心が引かれる事が多い。

哲学とは何かということで、人づてに聞いた話では「物事を考えること」という答えを貰ったことがある。それなら、自分も毎日一応それなりに考えて生きているわけだから、自分も哲学していることにはなるのだと思ったことがある。

哲学は英語ではPhilosophy(フィロソフィー)というが、元々は古代ギリシャ語から来ており、ギリシャ語のphilos(フィロス=愛)とsophia=知恵、知、智)が結び合わさったもので、元来「philosophia」は「知(智)を愛する」という意味が込められているとのことだ。
そこらからソクラテスやプラトンが用いるようになって哲学の概念が出てきたように書かれている。

もちろん私が今から哲学をといっても、「ニーチェ」や「サルトル」また「ハイデガー」を学ぼうというものではない。今まで生きてきたこと自体が、哲学しながらの行程であったとも思うのだが、最近になって、之で良かったのだろうか、もう少し違った生き方があったのではないだろうか、等、他人の庭が青く見える如く、自らを振り返えることがある。

実存哲学は、「人間がいかに自らの自由により自らの生き方を決断してゆくか」ということを中心的課題に据えていると書いてあったが、そう言う意味では、結果はどうであれ、またその途上の考え方の深さは如何にあれ、私は、実存哲学を生きたことになるのだろうかと思う。

最も、人生のターニング・ポイントに於いて、生き方の決断が浅はかな面があったことは否めないだろうが、それなりに決断してきた結果が現在であると思う。

哲学は、世界に起こる森羅万象が対象であり、例えば、「神とは何か」とか、今ここに自分が居るという「存在」、くだらないことをしていても流れる「時間」、三次元に広がる「空間」、宗教に見られるように人は「善」か「悪」か、それを規制する「理性は人間にとって生与のものか」等々、正しく全てが対象なのである。こういったことを小難しく考えるのが哲学で、「存在論」とよぶものらしい。地球や人間、物質などが「ある=存在する」ということについて考える、これも哲学の分野である。

そこで、私が感じている、之で良かったのだろうか、もう少し違った生き方があったのではないだろうか等と考える、「高貴な(意義のある)生き方とは存在するのか、また、あるとしたらそれはどのようなものなのか」であるとか、「善」「悪」というが之は永遠不変のものなのか、それらの価値はどういった基準で決められるべきなのか、などと言った「価値論」等もまた哲学の一分野である。

哲学という括りで整理すると、世の中の全てのことは、哲学の一分野であることになる。従って、自然科学を志向する私のような場合でも、実は哲学の分野をさまよっているのだと言うことなのだ。


また、地域別には西洋哲学あり、インド哲学あり、イスラム哲学ありで、中国の儒学の孔孟思想などもまた、哲学と言うことになる。

そんな風に考えていくと、人の人生は皆、哲学の集約と言うことになるが、現在私が仕事もしないで、ぶらぶらと遊び暮らす「無為徒食」の生活を考えるともう少し違った「時間」の過ごし方もあってしかるべきだと考えてしまうわけだ。

今私は、心も平静を得、極めて幸せと言える。「今まで、一生懸命にやってきたからだ」と言ってくれる人もいるが、なにやら、やり足らないことがある気がしている。きっと一生この気持ちは変わらないのかも知れないが、今の「時間」、「生きていること」が、何かしら意味あることであるべきだと、貧乏性の私はついつい考えてしまうのだ。

ゲーテは「人生において重大なのは生きることであって、生きた結果ではない。」といってくれているので、この幸福感をこのまま享受しようとは思うが、もう少し、「哲学」しよう等と考えてみるのである。





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Last updated  2010.09.29 04:47:49
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