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2012.08.25
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カテゴリ: カテゴリ未分類


私は、一応仏教徒(浄土真宗)となっているが、知識としての梗概的な仏教のほんの触りしか知らず、かつそれも特別地に足が着いたものではない。

そんな中、私は、過去の生活の中で、「神様・・・」と心の中で念じたことはあるが(困ったときの神頼み)、しかし、「お釈迦様・・・」と唱えたことはない。キリスト教徒でもないのに神様とは、と思うのだが、神はキリスト教徒の専売特許ではない。たまたまアラブ圏で仕事をした関係で、イスラム教についても興味を持ったが、彼らもまた神(アッラー)と呼ぶし、ユダヤ教徒も神(ヤハウェイ)と呼ぶ。

世界三大宗教と言われる、キリスト教(19億人)、仏教(5億人)、イスラム教(10億人)であり、拡大して四大宗教と言えば、これらにヒンズー教(時に民俗宗教に分類されることもある:7億人)が加わることになる。信仰する人数はと言えば、大略括弧の中に書いた数になると言う。しかしこの数は人によって違うわけで、おおよその数といった方が良い。

そこで、三大宗教に着目し、神は1つであり、顔を複数個持っていると云うことだと考えられる。キリスト教徒から見たとき、神=GODであり、イスラム教徒から見たとき、神=アッラーであり、仏教徒から見るとき、神=ブラフマー(仏教の来たるべきはインド・バラモン教に依拠する)と言うことになろうか。因みにユダヤ教においては、神=ヤハウェイと呼ばれるのである。

そこに着目すると、イスラム教徒が言う神は唯一ただ一人(イラーハ・イッラッラー)と言うのが当たっているような気がする。(神を見る方向で名称が違うだけである)
ここで、キリスト教のイエス、仏教の釈迦、イスラム教のモハマドは、開祖、または預言者と言うことになる。

イスラム教は偶像を忌避し、キリスト教は神を「神と子と精霊」という風に3者で構成されているという。ヒンズー教では、三神一体(トリムルティ)とよばれる3大神、すなわち ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァを神と呼んでいるわけで、仏教においては、神は曖昧模糊であり、仏陀という「悟りを開いた人」が実に多く存在している。そういった違いが、イスラム教が他宗教を遠ざける根本にあるようだ。

その他の宗教を見ると実に多彩で、多様に分化している。もちろん上記の大括りな宗教の中にも、各宗派があるわけで、実に複雑である。


ここの同書の中で、神の存在についての部分を取り上げて、読後感としたい。
【P332
7.神は存在するか
もし神が存在しないなら、私たちは神を発明する必要があるだろう。(ヴォルテール)
 ついに、約束していた神の存在証明の考察に向かうことにしよう。これを建設的に行ないたいと思う人なら誰でも直面する――論理的ないし心理的な、さらに手続き上や戦術上の――障害を再検討した後で、探求領域の簡単な概観を示し、判断に至る思考法ではなく私自身の判断を提示し、多くの人たちにはあまりなじみがないかもしれない文献を挙げることにする。(中略)

まず人間の形をした神々と、歴史的なものと推定される文献に残されている論証からはじめることができる。たとえば、文字通り真理である『聖書』によれば、神は存在しているし、いつも存在しており、数千年前に七日間で世界を創造した。この歴史的論証は、それを受け入れている人々を満足させているようであるが、それらを本格的な探求に晒すことすらできない。(中略)

以上のことをふまえて、何世紀にもわたって哲学者や神学者によって事細かに議論されてきた伝統的な論証を扱っていくことにしよう。(デザインからの証明〉のように経験的なものもあるし。第一原因の必要性から生まれた(存在論的証明)や(宇宙論的証明〉のように純粋にア・プリオリなもの、つまり論理的なものもある。
論理的証明は、何年も注意深くそれを考察してきた多くの哲学者を含む多くの思想家によって、真面目な学問的提案というよりも一種の知的な手品のようなものとみなされている。〈存在論的証明〉を考えてみよう。それは、一七世紀に聖アンセルムによって、愚か者が心の中で言ったこと〔神はない〕について書かれている「詩篇」第十四章の一に対する直接的な応答として、定式化されたものだ。

アンセルムの主張では、愚か者が神という概念を理解しているなら、神が(定義上)考えられるかぎりもっとも偉大な存在である――ちょっとひねった有名な言い方をすると、それ以上偉大なものをもはや考えることのできない存在である――と理解すべきである。考えられるかぎりもっとも偉大な存在のような完全性が持たなければならないものの一つは、現実存在である。というのも、もし神が現実存在を欠いているなら、さらに偉大なる存在を――つまり、あらゆる完全性に加えて現実存在も備えている神を――考えることが可能になってしまう。現実存在を欠いた神は、それ以上偉大なものをもはや考えることのできない存在ではない。しかし、それ以上偉大なものをもはや考えることのできない存在というのが、神の定義である。したがって、神は現実に存在しなければならない。これには説得力があると思うだろうか、それともある種の論理的レトリック」ではと疑うだろうか?(以下略) 】

注)聖書「詩篇」第14章の1
愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。

善を行う者はいない。





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Last updated  2012.08.26 11:15:03 コメントを書く


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