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日経新聞に12日間に亘って掲載された「やさしい経済学」の中、標記について、阪大の瞠目教授が書いたコラムを読んだ。どうも「知」という言葉に弱いので、読み始めたが、中にはこんな事を学んでいる人がいるんだと感心した。
以前に「暗黙知」と「形式知(または明示知)」のあることを知ったが、今回の「知」は「専門知」と「総合知」である。この言葉は、2006年に当時東京大学総長の小宮山氏が学生に伝えた告示に見られる。
いずれも、知識の分類の一つであり、まず、「形式知」は主に文章化・図表化・数式化などによって説明・表現できる知識を指し、「暗黙知」は認知の過程あるいは言葉に表せる知覚に対して言葉に表せない・説明できない身体の作動を指すということであった。。
では、と読み進むと、「総合知」とは「人間学」を基礎に、社会、経済、政治の全体的な関係を把握するものとして定義されているようである。「専門知」はそれぞれの専門分野における深い知識と学力を指すであろう事は言うまでもない。東大の学生には、専門性にとらわれることなく物事を多元的に観ることのできる幅広い教養、すなわち「総合知」を身に付けよと話し、すでに東京大学で学んでいればそれらは自然に身についているというこであった。
特に東京大学に限らずとも、総合大学であれば、同じく学んできたことであり、身につけていることなのである。
中学校の土曜スクールで、ある生徒が、「まだ決めてはいないけれど、僕は理科系に進みたい」といった。「社会はあまり必要ではないですか?」と質問してきたので、「専門的な知識もいろいろなことを学んでいないと発揮できない」と言うようなことを話したが、正にこのことであると思ったわけだ。
瞠目教授が紹介するように、「人間とは何か、何を求める存在か」と問うのが人間学であるが、学問するという究極の目的はこの「人間学」を極めるためにあると言っても過言ではないかと思う。あらゆる学問の基礎を成すものであり、世の中のあらゆる問題は、「人間学」と「経済学」の有機的統合により考慮すべきで、「総合学」とは正にそれを指すというのである。
極めて高邁な思想であり、同感した。ここで、同感とは、喜びや悲しみ、怒りなど他人の感情を自分の心の中に写し取り、同じ感情を引き起こそうとする人間の能力であるというのだ。之は、アダム・スミスが「道徳感情論」で述べている。自分の中の客観的な感覚が是認(同感)するか否かで正義感覚がはぐくまれるのである。
最近の世相を見るに、この自分の中の「正義感」に著しくもとるような事象が多いので、所謂苛立ちや、絶望的感覚に陥るのであろう。全くと言って「同感」する事が少ないのである。
スミスは、またもう1つの有名な「国富論」を著している。
スミスのこれら両著から社会と、経済成長、そして政府と、市場についての関係が整理され、ここで最も重要なのは「社会」が議論の出発点であると同時に最終目的であるという点であるとしている。そして、「社会」を突き詰めると、個人の幸福(心の平静)であるというのだ。
さらに、これら、「社会」→「市場」→「経済成長」→「政府」の相関関係の構築と解明が「総合知」で成されるということである。
さらに市場競争は倫理(人間として歩むべき道)と両立するかである点について、マルクスなどが否定的見解を示したとされるが、市場競争では不確実性故に「運」の影響が大きいため完全な倫理との両立は難しいとしてのである。
また、トクヴィルによれは、デモクラシーの根底には平等への執着があり、社会全体への帰属意識が求められるとしている。ジョン・スチュアート・ミルは功利主義(最大多数の最大幸福を政策目標とする立場)をとり、分配の問題に取り組んだが、最近言われるように果たして幸福の比較は可能かと云うことが問題になる。
分配の問題では、1.参政権や思想・言論の自由、2.機会均等が成されるという基本原理に立脚しなければならないとしている。
一方、インドのセンは、人間は、権利や富や地位が与えられるのを待つのではなく自分の「ケイパビリティ(用いることが出来る能力の幅)」を自ら広げることを願う能動的存在であると述べている。
スミスに依れば、いつかは富が欲望を満たし尽くすという前提があるとしているが、これは富の集積に関してであり、このことが、人間の欲望の限界であるとも言われている。最期に、ラスキンによると、経済学者の最大の誤りは、人間にとって生きると言うことは快楽の追求であり、労働は苦痛、その苦痛を補うのが富であるとした点であるといっている。
こういった議論の中に人間が求めるもの、求めるべきものなどを探求するために、「総合知」を発揮すべきと言うことなのかもしれない。