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私はニューエイジや精神世界に関する本を30歳から40歳の期間読み漁った。今では古典と言われるラムダスの「覚醒への旅」やシャーリー・マックィーンの「アウト オン ザ リム」に始まりブライアン・ワイス博士の「前世療法」、ニューエイジ本として異例のベストセラーになったニール・ドナルドウェルシュの「神との対話」はシリーズ全巻読破した。簡潔に解説するとニューエイジとは言葉どおり「新しい時代」という事だが、1970年から1980年にアメリカ西海岸で起こった60年代のカウンターカルチャーとして広がった。日本の「禅」やチベット仏教、ネイティブアメリカン(俗にいうインディアン)の思想や異教への興味・好奇心などが影響していたと思う。ジョン・レノンが日本人「オノ・ヨーコ」を妻にし、東洋思想に傾倒したのがこの時期である。1970年代は1969年の暗殺されたJFケネディーに代わって大統領に就任したジョンソンがベトナム戦争からの撤退(これは敗戦を意味した)をし始めた年である。60年代のアメリカの振る舞いに対し若者の間で疑心感が蔓延していた。丁度私が20代の青春を謳歌していた頃である。精神世界とは「宗教」や「哲学」「心理」が扱う世界全般の事である。 よって酒席の話題にはあまりお勧めはしない。20世紀が「科学の世紀」だとすれば21世紀は「心の世紀」だという人もいる。テクノロジーはナノの単位になり、コンピューターは「京」の時代になった、量子物理学においては実験結果に研究者の思考エネルギーが影響する次元までに突入した。3DCGの世界では何が現実で何がバーチャルなにかの判別さえ難しくなっている。究極・無限・夢のエネルギー「原子力」は様々な問題を我々に露呈した。私は22歳の時にアメリカ・西海岸最北部の都市シアトルに1年間短期留学をした。そのとき友人に「神社」と「お寺」の違いを尋ねられた時答えられなかった自分の無知さを恥じた。帰国してから数冊の本を読み最低限の知識は習得したつもりである。その時の形而上的思考訓練のおかげで「ニューエイジ」や「精神世界」に関する本も違和感なく読み続けられたと感じている。仏教にも興味を持ち始め、日本で一番ポピュラーな経典(お経)の一節・般若心教の「色即是空・空即是色」を理解するため数冊の「般若心経」の解説本を読み漁った。日本では玄奘三蔵(あの孫悟空の三蔵法師)の訳が一般的に読まれている。しかし何冊読んでも「空」の哲学を理解することはできなかった。「色即是空・空即是色」直訳すれば「形あるものはその実態はない、しかし事態の無いものこそ形がある」まるで禅問答である???「空」を「実態がない」と訳すレベルでは到底「般若心経」の境地には辿り着けない。「空」の解釈本では様々な視点から説明が成されていた・・・「移り変わるもの」「短時間で消滅する空虚なもの」「苦しみがない境地」「仮の存在」「修行・瞑想により得られる境地」「宇宙」「確固不変なもの」など様々だ・・・・お釈迦様は聞く人のレベルに合わせて説法をしたそうだ。その話を弟子たちが伝聞し、後に書き留められたのが「経典」である。 そのため多種多様な、言い換えれば「分かりやすい経典」から「難解な経典」まで存在する。「般若心経」は弟子の「舍利弗」に解いた話とされる故に「難解な経典」に分類されている。「色即是空・空即是色」は間違いなく日本で一番有名で重要な経典のフレーズであるが、私はその前文の「五蘊皆空」は「般若心経」のエッセンスであると感じた。「五蘊」とは仏教用語で人間の構成要素とされる「色」全ての物質 ・ 「受」感受作用 ・ 「想」表現作用 ・ 「行」意志作用 ・ 「識」認識作用の五つである。つまり「般若心経」は人間の構成要素の全てが「空」と説いた経典なのである。私は「仏教」の専門家でもないので、ここで「般若心経」の解説を試みるつもりは微塵もない。皆さんに伝えたかったことは「仏教」における「空」のようなキーワードが極めて「ニューエイジ的」または「精神世界的」思考回路により導きだされる考察だということである。「空」以外にも私たちが日常よく使う「因」「縁」「果」や「三昧」「彼岸」「涅槃」などは全て仏教用語である。ニューエイジや精神世界が一部の危険な「カルト集団」に取り込まれる危険性を承知のうえで述べるなら唯物的・俗物的思考が「心の病」の原因であるとするなら、このような思考回路により導きだされる考察も必要ではないかと感じてしまう。
2012年03月31日
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先日私が「お気に入りブログに読者登録」している人のブログに精神科医の先生の言葉を引用され「うつ病かどうかは精神科を受診したかどうかだけで、受信すると病名が付き,薬が処方される」とあった。私は直ぐに「全く同感です」とコメントを書いた。私がクドクドと分かりにくい表現で、今まで書いたブログで伝えたかったことを、短い言葉で簡潔に表現されていたからだ。「健常者でも精神科に行けば、精神科医は必ず病気だと診断する」という鋭い指摘である。「23年間うつ病と共存」されていると綴られているブログも拝見した。その方は立派に子育ても成されたと推測する。健常者で育児放棄する親や、家庭内でDVを振る舞う人間と比べてどちらが「健常」なのか?この異常な程のストレス社会、健常なままでいられる鈍感な精神の方のほうが異常ではなのか?「○○症候群」と訳の分からない病名を付けることが「名医」と呼ばれる我々には理解不能な世界「健常者」と「心の病の罹患者」の違いは何なのであろうか・・・実はそこには何も違いはない健常者でも風邪はひく、そして市販薬を服用するか内科へ行き「風邪ですね、薬を出しておきますね」と言われ、それで終わりである。もし会社を休んだとしても誰も怠け者とは指摘しない。しかし「心の病の罹患者」には、周りの者の冷たい視線が待ち受ける。何故なんだ?? 偏見・誤解・刷り込みか???刑法39条(心神喪失及び心神耗弱)1. 心神喪失者の行為は、罰しない。2. 心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。この刑法39条の誤解、世間に与える影響は否めないだろう。「心の病」に罹患した人 = 精神科に通院する人 = 心神喪失者・心神耗弱者という世間の誤解・偏見「気○が○」に殺されたら、「殺され損」だという偏見附属池田小学校事件の犯人・宅間守は「健常者」であったのか「」「心の病」に罹患していたのか?光市母子殺人事件の犯人・大月孝行は「健常者」であったのか「」「心の病」に罹患していたのか?そのような愚問は全く意味を成さない 彼らはただ「人」であった・・・殺人犯・傷害事件の犯人は全て「心の病」に苦しんでいたのか?否、「人」は皆 生きることに悩み、人間関係に悩み苦しみその対象に怒りさえ覚える、しかしそれが「人生」というものであり人として「生まれた」という宿命なのである。生き抜くために「障害者手帳」というお上のお情けを得ようものなら会社、そして親戚・家族まで「色眼鏡」で覗き込みアイツは精神病だとレッテルを貼る。何故なんだ??それは精神科に行ったから!!普段、健康で普通に生活しているあなた昨日もし「嫌いな上司」に説教されて気持ちがちょっとブルーになり会社に行くのが面倒だなと思った あ な た近くの精神科か診療心療内科に行ってくださいあなたは間違いなく「精神疾患」と診断される。私は医療スキームの問題や抗鬱剤の危険性を知り合いには言葉やメールで、そしてこのブログでも何度も指摘してきた、誤解は避けたいので敢えて述べるが医療機関に従事する献身的な看護師・救急医療の医師・数年前には延命は不可能と思われた高度な手術を執刀する外科医等には心から敬服する。製薬会社に於いてもペニシリンの発見でどれだけ多くの尊い命が救われたように不治の病と言われた疾患でも完治できる薬を開発して頂いた既述した組織論で書いた通り、如何なる組織においても「善良な者」と「そうではない者」がいる。では何故、精神科の医者は必ず病気だと診断するのか・・・答えは簡単である医療もビジネスだから。 クリニックを維持するのには「利益」が必要だ。発病の原因も治療も「仮説」に基づいたものなので、現在の段階ではどのような治療を施したとしても誰からも責められることはない。折角来てくれた「お客さん」を手放す訳などない。まして「生活保護受給者」は大歓迎だ。 治療費を支払う必要がないので、高価な薬をどんどん処方しても誰も「先生、もう薬はいいです」とは言わない。何かが間違っている。 何かが狂っている。本当は皆 うすうす分かっているのに 「欺瞞に満ちた甘い蜜壺」 から誰も出ようとはしない。悲しくなってくる。 惨めになってくる。この「日本国」全体が病んでいることに・・・
2012年03月30日
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Shape of my heartスティング(本名 : ゴードン・マシュー・トーマス・サムナー)1951年10月2日生まれ、現在61歳である。私とスティングの出会いは今でも大好きな映画「レオン」だった・・・お気に入りの映画監督リュック・ベッソンの作品で日本では1995年公開。麻薬捜査官スタンフィールド(ゲイリー・オールドマン)の演技が圧巻であった。マチルダ(ナタリー・ポートマン)がレオン(ジャン・レノ)を象徴する「観葉植物」を鉢から取り出し学校の庭に植えるラストシーンで流れた曲が「Shape of my heart」である。http://www.youtube.com/watch?v=ZuI61cTNbAk&feature=related余談だがあの観葉植物は「アグラオネマ」といい友人の「花屋さん」が「あれ、庭に植えると直ぐに死んじゃうよ」と言っていた、私の大好きな映画のエンディングが台無しである・・・直ぐにCDを購入し、その曲がスティングのものであると知った。メロディーも優れているが「歌詞」が素晴らしかった。リフレインで何度も繰り返されるI know that the spades are the swords of a soldierI know that the clubs are weapons of warI know that diamonds mean money for this artBut that’s not the shape of my heart私は知っている「スペード」は戦士の剣「クラブ」は戦争の兵器「ダイアモンド」は現金を意味すると・・・でも、これらは僕の「ハート」じゃないなんて凄い感性だ、こんな詩が書けるとは・・・スティングのCDおよびDVDは殆ど所有している、日本公演も「ポリス」の再結成を含めて数回足を運んだ。スティングを長年観ていて気付いたことがあった。彼はライブやレコーディングのサポートメンバーには拘り、優秀なミュージシャンとしか仕事をしない。スティングのサポートメンバーとしてギタリスト「ドミニック・ミラー」が良く知られている。彼は様々なジャンル(ジャズ・クラッシック等)のミュージシャンと共演している。ジャズのトランペット奏者「クリス・ボッティ」はスティングに認められ、その容姿も影響してか(超男前)その後ブレイクした。なんといっても異なったジャンルのアーティストとの共演は「デザート・ローズ」でのシェブ・マミ( Cheb Mami ) だろう。「デザート・ローズ」が収録されたアルバムは1999年全米でリリースされ話題となった。シェブ・マミ は ライ音楽(アルジェリア西部地方起源のPOP音楽)の人気アーティストであった。極端な言い方をすればアラビアンポップである。スティングはある楽曲にライ音楽を重ねたいと閃きデモテープをシェブ・マミに送った。数カ月後、シェブ・マミはなんと歌詞の付いた楽曲を見事にスティングの曲に合わせ重ねた。そして完成したのが「デザート・ローズ」である。http://www.youtube.com/watch?v=b-yHU8T61cA&feature=related2011年 9・11以降 一時期アラブの匂いのするこの曲は放送禁止となったがファンからの強い要望で暫らくすると解禁となったらしい。才能のある者たちが集まると、素晴らしい作品が生み出される・・・神は気まぐれである「才能のある者・無い者」を創られた。スティングを知れば知るほど「才能」という言葉を深く理解できたのだった。
2012年03月28日
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現在「心の病」で辛い人、そして そのご家族の方とにかく一度観てください「向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪」(1話から41話までありました)とりあえず5話までURLを貼り付けますので・・・向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪-1http://www.youtube.com/watch?v=vOM_EiIo6GY向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪-2http://www.youtube.com/watch?v=u6NNhx0I7lg&feature=related向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪-3http://www.youtube.com/watch?v=GgMH7rVSKrs向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪-4http://www.youtube.com/watch?v=gk6oJ7Y8wMo向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪-5http://www.youtube.com/watch?v=OSdWe--uEtYそして今現在「パキシル」を処方されている方、主治医にこの話をして今後の治療方針を相談されてください。それでも処方する「精神科医」は早く代えたほうがいいと思う。私には今「知識には責任が伴う」という言葉が重く圧し掛かっている。罹患して約2年半の闘病生活で「感じた事」「知り得た事」は誇張せずに既述したつもりだ。しかし推測が事実と分かり、その「欺瞞に満ちた甘い蜜壺」と闘っている人たちが居ると知った以上は私の範囲でできることはするつもりである。私が以前指摘した 一部の精神医学者・製薬会社・臨床医師の「歪んだビジネス・スキーム」が全て露呈されている。また CCHR (市民の人権擁護の会)の事も初めて知った。CCHR のことはいずれ詳しく書く予定だが関心のある方は下記HPをご覧になってください。http://jp.cchr.org/videos/making-a-killing/side-effects.html
2012年03月28日
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精神世界の考えでは「現実」と同時に何層ものパラレルワールドが存在するという仮説がある。量子力学・物理学の世界でも、もう一つの世界が存在するという仮説の研究が行われている。歴史認識に[もしも]はタブーである。第二次世界大戦で連合軍に負け、戦勝国アメリカに平和憲法を作ってもらい、在日駐留米軍に独立国家「日本」を防衛してもらい「戦争を知らない子供たち」我々は平和な消費社会を堪能することが出来た。私はある日突然パラレルワールドにワープした・・・・・・… … … … … … … … … … … … … … … … … … …1945年ポツダム会議において三人の対戦後の冷戦体制の青写真を作ったアメリカの[トルーマン]英国の[チャーチル]そしてソビエト連邦[スターリン]の交渉が何かの原因によりパワーバランスが崩れた。チャーチルは英国での政権維持に困窮していた[直後の選挙で敗れる]トルーマン大統領は自国において実力者ルーズベルトとポツダム宣言の内容に関し意見の対立があった[事実]タフ・ネゴシエーターであるスターリンは「ヨーロッパ戦線の勝利」がソ連軍の極東地域の戦力を割いてまで対ナチスを打倒したことを理由に無条件降伏した日本をアメリカとソ連による「分割統治」することをトルーマンとチャーチルに認めさせた。東西分割地点は日本標準時間を示す[兵庫県明石市]西日本はアメリカ、東日本はソビエト連邦に分割統治される。よって「大阪」はソ連の統治の[東日本]という共産圏に組み入れられる。極東アジアのバワーバランスは崩れ、朝鮮戦争は北朝鮮が勝利する。1953年、私は東日本で生を授かるフルシチョフ首相主導の「東日本国」は教育の場で徹底的な共産主義を植え付けた。私は腐敗した資本主義・民主主義に嫌悪する。当然ゴルバチョフもエリチィンも歴史上登場しない。現在のウクライナの若者[いまは60歳前後]がアフガニスタン戦争に駆り出されたように[私も]ベトナム戦争においてベトコンと共に民主主義国家・アメリカと戦う為に徴兵される。その時マルクスレーニン主義の[教育という洗脳]を受けた私はどんな決断をするのだろうか……私そして父や兄はレジスタンス活動をしたのだろうか・・・日本においてそのような反権力行動を起こす者は存在するのだろうか・・・… … … … … … … … … … …もう一つのパラレルワールドにおいては1962年10月キューバ危機の時ソビエト連邦首相「ニキータ・フルシチョフ」は「核」のボタンを押しているのかもしれない・・・デジャブではなく私の妄想であることを切に願う。
2012年03月17日
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イーグルスファンだけではなく様々なジャンルの人々がこの難解なリリックスの解読に挑戦している。何故だか私もホテルカリフォルニアをドン・ヘンリーの「彼の精神的な視点」から解説を試みたいと思った。ドン・ヘンリーは1947年生まれ、その年アメリカの一人当たり実質GDPは$10957であった。3年後の1950年に朝鮮戦争が勃発している。人生に於いて最も多感な年齢と言われる彼が15歳の1962年、実質GDPは$14552。成長率6.1%と東西冷戦の緊張の中でアメリカは経済成長を続けていた。 その2年前の1960年、民主党のホープとしてJFケネディーが大統領に就任している。1962年10月、アメリカはソビエト連邦と核戦争の寸前までにいたったキューバ危機を経験した。そして彼が20歳になるまでの5年間、アメリカ史において悲惨な出来事が次々と起こる。1963年11月22日JFケネディーがダラスで暗殺される。副大統領であったリンドン・ジョンソンが大統領に就任しベトナム戦争の強化策を打ち出す。1965年2月ベトナム戦線において北爆が本格化。8月にはロサンゼルスで黒人住民の大暴動が発生する。1968年には忌まわしい暗殺が2件起きた。4月11日にマーチン・ルーサー・キング牧師そして6月5日には兄のジョンと共にキューバ危機を回避したロバート・ケネディーである。そして翌年の1969年2月、世界の警察を自負するアメリカのジョンソン大統領は南ベトナムからの段階的撤兵を表明した。また8月15日から3日間、伝説のウッドストック・フェスティバルがニューヨーク州のベセルホワイトレイクで開催された。1969年ドン・ヘンリーは22歳であった。彼にとって1969年とは単に伝説のウッドストック・フェスティバルが開催された年というよりもっと違う意味が含まれていたと想像するほうが自然ではないのだろうか。 多くのホテルカリフォルニアを論評している者の示唆するようにウッドストックは様々なアメリカ国内の若者の抱える問題(ヒッピー現象・ドラッグ拡散)を露呈させた。ジャニス・ジョップリンがウッドストックの2日目である8月16日に登場している。ちなみにその年の成長率は3.1%まで低下していた。そして国内は泥沼化したベトナム戦争に関して世論は完全に二分されていた。多くの若者の戦死、そして帰還兵のPTSDなどの苦悩は社会問題となっていた。1971年8月「ドン・ヘンリー」「グレン・フライ」「ランディ・マイズナー」「バーニー・レドン」の4人でイーグルスは結成された。1975年12月にドン・ヘンリーらとの意見の対立によりバーニー・レドンはグループを脱退した。1976年3月よりホテルカリフォルニアがレコーディングされたときドン・ヘンリーは29歳であった。彼にとって7年前の1969年は彼の思考・思想にとってターニングポイントではなかったのか。ある解説者はこの歌詞はドン・ヘンリーのドラッグ体験中の妄想が基礎となっていると言う。そしてホテルカリフォルニアは麻薬中毒者の厚生施設の比喩だと。 ドン・ヘンリーがいかなる説明をしていないかぎり私が「それは違う」ということは不可能である。 しかしドラッグ体験中の妄想であろうと彼がなぜこのような妄想を抱いたか理由があるはずである。ホテルカリフォルニアの歌詞にはいくつかのキーワードが潜んでいる。私が思うキーワードをいくつか挙げてみる。「部屋は十分にあります 年中無休で 貴方はここに来ることができます」「彼女はメルセデスの曲線」「あなたのアリバイを持ってきてください」「彼らは研がれたナイフで獣を刺したが殺すことはできなかった」「以前居た場所に繋がる通路」「貴方は自由にチェックアウトできますしかし貴方は二度とここを立ち去ることはできません」そして「1969年以来 スピリットを置いていないのです」まず「部屋は十分にあります 年中無休で 貴方はここに来ることができます」Plenty of room at the Hotel California, Any time of year, You can find it here歌のタイトルでもあるホテルカリフォルニアとは何を意味するのだろうか?既述の「精神病棟」説や「政治的に行き詰まったアメリカ」という解説は私には馴染めなかった。不仲によるバーニー・レドンの脱退や商業第一主義の音楽産業のなかで若干29歳の若者には精神的に矛盾を感じながらも創作活動を続けたのだろう、しかし時折精神的に休息を必要としていた。 それがドン・ヘンリーだけの心の休息所(ホテル)だった。しかしその休息は精神的矛盾を解決してくれる場所にはなりえなかった。しかし彼は「心の休息」が必要なとき度々ホテルカリフォルニアで休んでいたのだろう。「メルセデスの曲線」She got the Mercedes Bendsこのフレーズは「ジャニス・ジョップリン」へのオマージュだろう。また蝋燭を灯し彼を誘導した女性も「自由の女神」だろうが何故かジャニスを連想させてくれる。ジャニス・ジョップリンは1943年1月19日生まれ。 ドン・ヘンリーにとってジャニスは4歳年上の一目置くシンガーであったろう。1970年10月4日ヘロインの過剰摂取により27歳の若さで亡くなっている。ジャニスの死後1971年発売されたアルバム「パール」には「メルセデス・ベンツ」が収録されヒットしている。「メルセデス・ベンツ」は貧乏な女の子がメルセデスを買って! テレビを買って!!と神様にお願いする内容の歌である。 前フレーズの「ティファニーの捻じれ」と共に消費優先の経済体制を揶揄した意味だろう。 おそらく彼女の死は当時の西海岸において様々なメディアの話題になったことは想像に難くない。「あなたのアリバイを持ってきてください」Bring your alibisアリバイ・・・そのとき貴方はどこにいて何をしていたか証明してください。では「いつ」の証明なのだろうか・・・。 前後のフレーズよりホテルカリフォルニアの囚人たちが創りあげた素敵な場所に居続けるためには何かを証明しなければならなかった。 それは1969年から1976年の7年間、彼自身もホテルカリフォルニアの「囚人」であることを・・・「彼らは研がれたナイフで獣を刺したが殺すことはできなかった」They stabbed it with their steely knives, But they just can’t kill the beast獣は(the beast)は解説者には色々と解釈されている。ウォーターゲート事件で辞任したリチャード・ニクソンであったり。 アメリカ経済を操る軍産複合体であったり・・・しかし私は「獣 the beast」はドン・ヘンリー彼自身の心の奥に潜む「意志に反する何か」ではないのかと・・・どんなに理性的な研がれたナイフでも消すことのできない彼の「欲望」・友人との「不和」・沸き起こる「自己矛盾」etc.「貴方は自由にチェックアウトできますしかし貴方は二度とここを立ち去ることはできません」You can check out anytime you like… but you can never leaveアメリカンスラングでチェックアウトは「自殺」意味する場合がある。「ホテルカリフォルニア」という混沌とした自己の精神状態から抜け出すことはできないと解釈できる。「以前いた場所に繋がる通路」The passage back to the place I was before彼自身がアメリカンドリームを信じてアメリカ全体が経済発展を続けていたころを懐かしく回顧している。さて最後の不可解なフレーズである。「1969年以来 スピリットを置いていないのです」We haven’t had that spirit here Since nineteen sixty-nineスピリットは「強い酒」だが「精神」を比喩していることは間違いないだろう。しかしなぜ1969年からなのだろうか? 既述したように1969年はベトナム戦争からの段階的撤兵の表明。また8月伝説のウッドストック・フェスティバルがニューヨーク州で開催された。 感覚的にこのフレーズはアメリカ史における、アメリカンスピリットの忘却と理解するよりドン・ヘンリー彼自身の心の奥深い部分での精神的変化が1969年に起こったと解釈したい。 当時マリファナや軽いドラッグを使用していたことは彼もいくつかのインタビューに答えているし、当時のミュージシャンにとっては創作活動の潤滑油のようなものであった。それでは想像してみよう、1976年レコーディングの合間、29歳のドン・ヘンリーは疲れをとるためマリファナをふかしていた・・・・突然1969年のウッドストックでのジャニスの歌声が響いてきた・・・そしてあるイメージが降りてきた。ホテルカリフォルニア(意訳)真夜中急にドライブしたくなり高速道路を走ってみた夜風が心地よかった 夜空には星が輝いていた僕は車を止めマリファナを一服深く吸い込んだ・・・少しすると心地よくなってきた 夜明けまで少し眠ろうか・・・突然、拝礼の鐘の音とジャニスが僕の心に降りてきた「ドン、ちょっと疲れているね。 ホテルカリフォルニアで休んだら?」そうホテルカリフォルニアは僕だけの心の休息所ジャニスはいけてたよね、商業主義には辟易していたけどウッドストックではみんな甘い夏の汗をかきながらある者は思い出すために、ある者は忘れるためにダンスを踊っていた僕は1969年以来思い悩むと僕だけの心の休息所「ホテルカリフォルニア」に来るんだ・・・そして僕自身、日ごろのアリバイに自問自答するどんなに理性的に考えてもでも消すことのできない「欲望」「不和」「自己矛盾」あまり1969年以前の記憶を懐かしんでも意味はないと思うジャニスのように死んでしまうことも人生かもしれないけどきっと死ねずにまたホテルカリフォルニアで悶々とするんだろうな誰もが自由に解釈できるって素敵ですね・・・・
2012年03月04日
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イーグルスのホテルカリフォルニア 1977年リリースされた20世紀を代表する名曲である。 アルバムは全世界で2100万枚、アメリカ国内で1600万枚のセールスを記録。日本でもこのジャンルのアルバムとしては異例の枚数を販売した。しかし「歌詞」はとてもメタファーに溢れ難解である。若いころ必死に辞書で調べたりしてはみたが、漠然としか理解できなかった。作詞をした「ドン・ヘンリー」は現在に至るまでメディアからの様々な問いかけに対し明確に答えることはしていない。しかし50年以上も生きてみると彼独特の比喩が理解できるような気がしてきた・・・砂漠に咲くサボテンの花「コリスタ」が「マリファナ」であること。「蝋燭を灯しホテルに誘導した女性」がアメリカを象徴する「自由の女神」であること等・・・しかし一番重要な一節は「1969年以来 スピリットを置いていないのです」だろう。ホテルカリフォルニア(直訳)暗い砂漠の高速道路で涼しい風が髪をなびかせてくれるコリスタの温かい香りが立ち上がっている頭を上げて彼方を見ると輝く星を見つけた頭が重くなり、目がかすんできたのでこのあたりで一夜を過ごさなければならなかった彼女が入口に立っていた私は礼拝の鐘の音を聞いて自分のことを考えた「ここは天国か、それとも地獄なのか」すると彼女は蝋燭を灯し私に行先を示した廊下を降りると声が聞こえた彼らがこんなふうに言っていると聞こえた「ようこそホテルカリフォルニアへ部屋は十分にあります 年中無休で 貴方はここに来ることができます」彼女の心はティファニーの捻じれ 彼女はメルセデスの曲線を持っている彼女には多くの男友達がいる彼女が友達とよぶ男の子たちは中庭でダンスを踊っている甘い夏の汗、ある者は思い出すためにダンスを踊りある者は忘れるために踊っている私は給仕長を呼んで「ワインを持ってきてください」と頼んだ彼は「1969年以来 スピリットを置いていないのです」と言ったそして私は彼らの声が夜中に聞こえてくるので目を覚ますほら聞こえてくるでしょう 彼らの言っていることが「ようこそホテルカリフォルニアへ なんて素敵な場所」彼らはここで生きていく なんて素晴らしい響き「あなたのアリバイを持ってきてください」天井に貼られた鏡 氷の上のピンクのシャンパンそして彼女は言った「私たちはみんなここの囚人、ここは私たちが創りあげた場所」そして彼らは支配人の部屋に祝宴のために集まった彼らは研がれたナイフで獣を刺したが殺すことはできなかった私が覚えている最後のこと 私はドアに向かって走っていた以前居た場所に繋がる通路を見つけなければならない「リラックスしなさい」と警備員の男たちは言った「私は夜勤の警備員です・・・貴方は自由にチェックアウトできます」「しかし貴方は二度とここを立ち去ることはできません」
2012年03月04日
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