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藤 圭子(宇多田ヒカルの母君)が1970年に歌いヒットした曲である。「赤く咲くのはバラの花 白く咲くのはユリの花どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜ひらく・・・・」懐かしい演歌であるこの歌は「練馬少年鑑別所」で歌われていた曲を曽根幸明が補作したものである。 歌詞の異なる色々なバージョンがある当時、三上寛も「詩」を変えて歌っていた・・・「暗い歌だな・・・」としか思わなかった。先日 また Youtube でザッピングしていると三上寛の「夢は夜ひらく」が目に留まり、クリックしてみた・・・…………………………………………………………………………….七に 二を 足しゃ 九になるが 九 になりゃ まだまだ いいほうで四(死) に 四(死) を足しても 九(苦)になって 夢は夜ひらく・・・サルトル マルクス 並べても 明日の 天気は 分からなえヤクザ映画の 看板に 夢は夜ひらく・・・四畳半のアパートで それでも毎日 やることはヌード写真に 飛び散った カルピス 拭くことよ・・・八百屋の裏で 泣いていた 子供を背負った 泥棒よキャベツ ひとつ 盗むのに 泪は いらないぜ・・・夢は夜ひらく 歌っても 開く 夢などあるじゃなしまして 夜など 来るじゃなし 夢は夜ひらく 夢は夜ひらく・・・…………………………………………………………………………この歌は直ぐに「放送禁止」になったそうだ恐らく3番の歌詞が放送コードに引っかかったのだろう・・・≪四畳半のアパートで それでも毎日 やることはヌード写真に 飛び散った カルピス 拭くことよ・・・ ≫この箇所は男でないと理解できないだろう、悲しい男の性(さが)であるわずか40文字で男の空しさを語っている・・・しかしこの年齢になって聴いてみると全ての歌詞が何故か心に響くものがあった。現代の閉塞感・貧富の格差・未来への絶望感を・・・三上寛は40年前に予言して歌っていたのだった。
2012年04月15日
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私の好きな「大乗仏教」の言葉に「煩悩を絶たず、涅槃を得る」というのがある小生は煩悩の「塊」みたいなヤツだから「旨い焼酎飲みたい」 主治医から深酒さ慎むよう注意されている「可愛いお姉ーちゃんとHなことしたい」 現実可能かは別として妄想だけは健在である止めていたのに、まだ煙草を吸っている・・・ 小生「肺」に持病があるでもね、肉体にまだ魂が乗っているのだからそりゃ 「腹もへる」し「Hなこと」も考える・・・和英辞典で「煩悩」を調べたら「Desires」「Passion」???訳した人がちょっと○○かもしれないが、ニュアンスが少々違う欧米にはない概念なのか・・・紀元前後は自分よりも衆生の救済に当る「利他の行い」を尊いとした「大乗仏教」を「小乗仏教」と比較し蔑視した大乗仏教の般若経、法華経、阿弥陀経典は2世紀には既に「哲学的な高み」に至っていた救済という仏教思想の大乗仏教は「道教」と軋轢を起こし「漢典仏教」となり、チベット語に翻訳されて「ラマ教」に、印度の仏教寺院は13世紀初め「イスラム教」に釈迦の偶像崇拝として破壊され「印度仏教」は終わった仏教における「四諦八正道」諦とは「真理」という意味であり、四諦(したい)とは四聖諦ともいい「4つの聖なる真理」のことである4つの真理とは苦諦 : 苦という真理集諦 : 苦の原因という真理滅諦 : 苦の滅という真理道諦 : 苦の滅を実現する道という真理(→八正道)道は八正道に繋がるすなわち、苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)苦の滅は「実現すべきもの」(成就)苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)ということである八正道(はっしょうどう)は釈迦が最初の説法において説いたとされる涅槃に至る修行の基本となる、八正道とは 衝動、正見、正思、正語、正業=行動、正命=生活、正精進、正念=法を憶念、正定=修習つまり我が「自由にならぬ本質」を「自由にしようとすれば」苦が生まれるそして渇愛を滅却すれば寂静・清涼が訪れる・・・仏教哲学において「出生自体」が本人の最初の苦だという人は行いによっても渇愛がある限り、転生し生の苦は続く渇愛を仏教哲学においては愛は渇愛を表し、慈悲と明確に区別している仏教哲学は「難解」であるが、人生の生き方の「指針」を与えてくれる心の病を「罹患」し、いろいろと考える時間が出来て「このブログ」も始めたいろんな人が読んでくれていると分かって 今日も書いているのだが断捨離したとはいえ「理想」と「現実」「将来の夢」と「現在の自分」ギャップがありすぎて悩んでしまう・・・上から目線で 「今、起きている事には理由がある」と言われても若い方々は「えーっ」て なるのは百も承知で書き綴っているしかし、60年も人間をしてみると「過去」「現在」「未来」の繋がりがなんとなく見えてきて やはり「理由」があるのだと思う皆さんも 春(4月)になり いろんな 「決意」 をされるだろうが煩悩を絶たずとも、「意味ある決断」が出来ると感じているこの週末は、久しぶりに「瞑想」でもしてみるか・・・・・
2012年04月07日
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「うつ病」で寝たきりのころ、毎朝変な夢で目覚めた時折「怖い夢」で魘されながら目覚めた・・・「変な・・・」と私が表現するのは「夢」に脈絡がないのである・・・新卒時代の上司(その方は既に鬼籍に入られている)がでてきたり、夢を見ている「わたし本人」が小学2年生だったり今考えると、毎朝メモをとっておけば「ブログねた」になったのにと後悔してしまう・・・「古代人」の間には、睡眠中に肉体から抜け出した魂が実際に経験した事象が夢として現れるのだという考え方は広く存在した宗教的には夢は神や悪魔といった超自然的存在からのお告げであると考えた、この考え方は世界中に見られる古代ギリシアでは、夢の送り手がゼウスだとかアポロだと考えられていた『旧約聖書』においても、神のお告げとしての夢は頻繁に登場する夢分析の古典としてはジークムント・フロイトの研究が有名である夢の中の事物は、何かを象徴するものとして位置づけられているこれらは神経症の治療という臨床的立場から発展しており、夢分析は心理的側面からの神経症の治療を目的とした精神分析のための手法の一つであるフロイトは『夢判断』で、人が体験する夢を(顕在夢)と呼び、それは無意識的に抑圧された幼児期由来の願望と、この願望と結びついた昼間の体験の残滓からなる夢の(潜在思考)が、検閲を受けつつ「夢の仕事」によって加工され歪曲されて現れたものだとした現代の神経生理学的研究では、「夢」というのは、主としてレム睡眠の時に出現するとされ、睡眠中は感覚遮断に近い状態でありながら、大脳皮質や辺縁系の活動水準が覚醒時にほぼ近い水準にあるために、外的あるいは内的な刺激と関連する興奮によって脳の記憶貯蔵庫から過去の記憶映像が再生されつつ、記憶映像に合致する夢のストーリーをつくってゆくと考えられているということは私の見た「変な夢」も私の脳の記憶貯蔵庫から過去の記憶映像が再生されたという事か・・・脳は忘れ去ることで、脳の均衡を保っているというのを何かの本で読んだ記憶があるしかし「忘れる」という事は脳から記憶が消去されるのではなく、記憶貯蔵庫が私たちの意識できないとても深い所に収められているのだろう・・・今は「変な夢」は向精神薬の副作用だと確信している正直もう二度と「あんな夢」は見たくはない
2012年04月05日
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今までに私が処方された薬だ抗うつ剤 ドグマチール パキシル ジェイゾロフト リフッレックス安定剤 デパス睡眠薬 マイスリー ユーロジン ロヒプノール レンドルミン処方された全ての薬には副作用があったドグマチールは、夜中に甘い物が急に食べたくなり激太りにジェイゾロフトは寝たきり状態に・・・全ての睡眠薬は、昼間もボーッとする・・・パキシルは「希死念慮」でヤバかったこれらの薬は「抗精神薬」といい、直接脳に作用する薬です。言い代えれば「覚醒剤」だ・・・・「向精神薬」はネットでも買える私も以前「通院前」はネットで日本では未承認のプロザックと睡眠薬を輸入代行者に依頼して入手していた輸入代行以外でも「抗精神薬」は買うことができるテレビで観た話だが、暴力団関係者が「生活保護受給者」に小額のバイト代を払いうつ病などのふりをさせて精神科クリニックに通院させ大量の「抗精神薬」を手にいれているそうでだ生活保護受給者は医療費免除ですから仕入れコストはバイト代だけなので匿名で暴力団関係者は「とても儲かる」と話していたこのようなことも生活保護受給者が減らない原因のひとつかもしれない・・・兎に角「向精神薬」はドラッグだ大量に「向精神薬」を処方するクリニックは早く止めたほうがいいと思う良心的な精神科医は必ずいるから・・・
2012年04月03日
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海堀あゆみ 近賀ゆかり 矢野喬子 鮫島 彩 田中明日菜 熊谷紗希 宮間あや 川澄奈穂美 安藤 梢 大野 忍 永里優季 矢野喬子 有吉佐織 etc…みんなよく頑張りました試合としては「良い試合」だった相撲で例えれば横綱同士の「がっぷり四つ」・・・オリンピックで「バロンドール澤」がいなくても大丈夫澤様はベンチに居てくれるだけで充分である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なでしこジャパン手応えのドローだ。FIFAランキング3位の日本は東日本大震災の被災地・仙台で同1位の米国と1―1で引き分けた。試合前には震災の犠牲者のため黙とうが行われた特別な一戦。日本は前半32分、近賀ゆかり(27=INAC神戸)がこぼれ球を押し込み先制。後半追いつかれたが、ライバルを圧倒する内容で、ロンドン五輪へ好感触の残る90分間だった。なでしこジャパンきっての“イケメン”が、冷え込んだ杜の都を一瞬で熱くした。前半32分。川澄の浮き球のパスに合わせ右サイドから走り込んだ近賀がゴール前の永里へパス。永里のシュートはGKにはじかれたが、こぼれ球に素早く反応した右サイドバックが左足を振り抜いた。近賀ゆかり1984年(昭59)5月2日、神奈川県生まれの27歳。4歳上の兄・健太郎さんの影響で小3から東汲沢サッカークラブで本格的にサッカーを始める。中学時代の横須賀シーガルズ、湘南学院高を経て日体大進学と同時に日テレ入り。11年からINAC神戸に所属。日本代表通算77試合5得点。1メートル61、53キロ。利き足は右。(スポニチ抜粋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・近賀ゆかりは右SBなのに再三ゴール前に現れた・・・ そして左足でGKソロをかわしてゴールを決めた川澄奈穂美のプレーは瞬間CR7(C・ロナウド)を連想させてくれた・・・永里優季は潰れ役に徹した・・・ブラジル戦が楽しみだ・・・
2012年04月02日
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以前ブログで「うつ病」の原因を書き綴った。半年以上経過して、修正したい衝動に駆られ今PCのキーボードを叩いている。過去のブログを要約すると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私が「うつ病」に罹患した原因は(1) セロトニン仮説 (2)PTSD仮説 (3)「否定的思考パターンの固定化仮説」の3仮説である。(1)セロトニン仮説は、神経伝達物質であるセロトニンとノルアドレナリンが少なくなっているために意欲や気分をつかさどる脳の機能が低下し、抑うつ症状が起こる。セロトニンとノルアドレナリンの量を増やせば脳活動が活性化し症状が治まる。 神経伝達物質は神経細胞から出て別の神経細胞にある受容体にくっつくことで情報を伝達している。しかし使われないで余ると、またもとの神経細胞に再取り込みされていく。この再取り込みをブロックすればセロトニンとノルアドレナリンの量が増えると考えたのが抗うつ剤の仕組みである。(2)PTSD(Psttraumatic Stress Disorder)心的外傷後ストレス障害とは、強烈なトラウマ(心的外傷)体験が原因となり心身に支障を来し、社会生活にも影響を及ぼすストレス障害。様々なストレス性精神疾患を引き起こす元となる。またPTSDにより脳の海馬の破傷や縮小がMRIの画像診断によりうつ病患者のPTSDと記憶障害の因果関係が最近解明された。 (3)私の主治医のカウンセリングと「認知行動療法」の経験から私の「否定的思考パターンの固定化」は罹患した原因と予測できる。………………………………………………………………………………………………………….という内容であった。しかしその後「スキーマ」の自覚、及びCCHRから得られた情報も加え再度熟考してみた。※「スキーマ」とは認知行動治療の分野では「絶対的信条」とか「思考を規定する規範」を意味する(3) 私の「スキーマ」はとても傲慢な壊れやすいものだった為「否定的思考パターン」になってしまった。 (認知行動療法カウンセリングで実証可能) ↓(2)「倒産」「自己破産」という現実は強いストレスとなり私の脳の「海馬」にダメージを与えた。 その結果一般的にPTSDと言われる状態に陥った。 (脳のMRI検査で実証可能) ↓(1) セロトニン仮説に基づくSSRI.SNRI向精神薬を服用したが症状は改善しなかった。それよりも副作用に長期間苦しめられた。 (セロトニンの量の検査は精神科・心療内科では不可能である。仮説に過ぎない。)あくまで私のケースの観察を述べているのだが、「5分診療・大量投薬」する精神科から現在の「減薬」「断薬」に理解のある今のクリニックに転院してから、私は回復に向かった。脳機能の回復は「時間薬」が一番である。引きこもらず、寝たきりにならず、規則正しい生活、適度な運動をしていれば回復はもっと早かったのではないかと思う。向精神薬の副作用は私を寝たきりにしてしまったつまり私はアメリカ精神医学会の「罠」に落ちてしまっていたのだ・・・ここに「アメリカ精神医学会」を批判する数少ない精神科医の言葉を引用する。精神障害は医学的疾患ではありません。どの精神障害についても、それが身体的な症状であると実証できる、臨床検査や脳スキャン、X線、化学物質の不均衡のテストは存在しません。これは、人々が落ち込んだり、感情的あるいは精神的な強迫を経験しないということではありませんが、精神医学は薬を売るために、こういった感情や行動を「病気」として再度ひとまとめにしました。これは素晴らしいマーケティングキャンペーンですが、科学ではありません。 現代の精神医学において、精神疾患の遺伝的・生物学的原因に関する説得力のある証明は、いまだにただのひとつもなされていません。患者は、『生化学的不均衡』があると診断されているが、その主張を証拠立てるような検査は存在しないというのが実情である…正しい生化学的均衡とはどのようなものかという概念自体が現実には存在しません。デビッド・カイスラー、精神科医 「精神科医はみな、カメラやマイクで聞き取られたら、生化学的不均衡や病気、あるいはそのための検査やテストなどないと、萎縮して認めるでしょう。実際に行っていることは、例外なく、全ての患者に対してインフォームド・コンセントの権利を無効にして、『治療』の名の下に毒を与えているのですから、これはまさに犯罪にほかなりません」フレッド・ボーマンJr.博士、小児神経科医(出典 : CCHR資料)アメリカ精神医学会と製薬会社の依存関係に興味がある方は下記リンクをご覧ください。彼らの相互依存関係は1970年から40年以上続いている。向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪35http://www.youtube.com/watch?v=2Ykd93O1pbQ&feature=related
2012年04月02日
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香川信司がまたブンデス・リーガで得点した!シュツッツガルト相手に 4対4の引き分け後半、両チーム合わせて 7点という ノーガードの殴り合い!!!彼もチームも絶好調である。彼の調子が良いのか、チームの調子が良いのかたぶん両方の「正」のスパイラルだろう・・・「ボルシア・ドルトムント」 正式名称は「BV Borussia 09 Dortmund 」創設は1909年 クラブカラーは「黒と黄」 そう 阪神タイガーズと同じである。ホームスタジアムは「ズィグナル・イドゥナ・パルク」収容人員は81,708人現在監督は「ユルゲン・クロップ」2006年の夏、わたしはドルトムントの町にいた・・・結果的にあの「ドルトムントの屈辱」を見させられることとなるのだが・・・ドルトムントの町並みはどことなくゆったりしていて緑の多いのが印象に残っている。最近欧州のメディアで「香川信司」の株が急騰している。ドイツのサッカー専門誌キッカーは「後半はプレーに楽しさが見られた」と評し、今季3度目となる今節の週間MVPに選出した。スペインの一般紙エルパイスは「香川は日本のメッシ」と報じた。「技術があり、ネズミのような素早さを持つ選手であることに議論の余地はない。メッシと比較できる選手だ」FIFAバロンドールを3年連続受賞中のスーパースターと比較された。現在「ボルシア・ドルトムント」 は年俸大幅アップ提示で慰留に努めているが、まだ契約延長には至っていない。もともと経営が苦しく、価値が急騰中の香川を引き留めることは難しくなってきている。キッカー誌も「今ドルトムントで彼ほど希望と不安を提供している選手はいない」と報じた。香川がゴールを奪うたび、ビッグクラブ移籍が現実味を帯びてくる。「ボルシア・ドルトムント」 は21世紀に入るとクラブの株式を上場する経営戦略が裏目に出て巨額の損失を抱え込み、2004-05シーズン途中には債務超過による破綻寸前にまで追い込まれた。(何より問題だったのは成績を見込んで大金を出すことで、見込みが違えば大きな赤字となる)成績がダイレクトに株価推移に反映される株式上場は成績の良い時ならばクラブ経営の推進力をこの上無く高めるが、少しでも成績が下降すれば人気の有無に拘わらずクラブの経営体力を株価下落と言う形で奪っていく(特に痛かったのが2003-04シーズンのチャンピオンズリーグ予備予選敗退を始めとする低調な結果である)。そして120,000,000ユーロと言われる借金だけが残り、ゲルト・ニーバウム会長、現場最高責任者のミヒャエル・マイヤーがクラブを去ることとなった。しかし、このような低迷期にあっても数多くのサポーターがドルトムントに対する情熱を持ち続けスタジアムに集う光景は変わらず、スタンドからの地鳴りをも引き起こす熱狂的な大声援はドルトムントを強く後押しし続けた。2010年夏、クロップ監督の熱烈なラブコールによりJリーグ1部・セレッソ大阪のMF香川真司らを獲得。香川を始めケヴィン・グロスクロイツ、マリオ・ゲッツェ、ロベルト・レヴァンドフスキらがブレイクし主力の多くが23歳以下、スタメンの平均年齢が22~24歳という若いチームが完成、序盤から勝ちを積み重ねたチームは2010-2011シーズン前半戦終了時点でブンテスリーガ史上第2位となる勝ち点43を達成し首位で折り返し、圧倒的な強さで9シーズンぶり7度目の優勝を飾った香川信司は2010年7月1日、育成補償金35万ユーロ(約4000万円)でブンデス・リーガ1部のボルシア・ドルトムントに完全移籍。代理人のトーマス・クロートは以前ドイツでプレーをしていた高原から「香川という良い選手がいる」とアドバイスがあったことがきっかけで、ドルトムント行きに繋がったとしている。2009年12月にドルトムントのホーム試合に招待された香川は、8万を超える観衆が送る大声援に感激し、早い段階でドルトムントへの入団希望を伝えていた。わたし個人的には「香川信司」が「FC・バルセロナ」か「レアル・マドリッド」でプレーするのを早く観てみたいが、もう少しドルトムントで活躍するのも悪くないと思っている。 まだ彼は若いから。将来が楽しみな日本代表選手である。
2012年04月01日
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私はニューエイジや精神世界に関する本を30歳から40歳の期間読み漁った。今では古典と言われるラムダスの「覚醒への旅」やシャーリー・マックィーンの「アウト オン ザ リム」に始まりブライアン・ワイス博士の「前世療法」、ニューエイジ本として異例のベストセラーになったニール・ドナルドウェルシュの「神との対話」はシリーズ全巻読破した。簡潔に解説するとニューエイジとは言葉どおり「新しい時代」という事だが、1970年から1980年にアメリカ西海岸で起こった60年代のカウンターカルチャーとして広がった。日本の「禅」やチベット仏教、ネイティブアメリカン(俗にいうインディアン)の思想や異教への興味・好奇心などが影響していたと思う。ジョン・レノンが日本人「オノ・ヨーコ」を妻にし、東洋思想に傾倒したのがこの時期である。1970年代は1969年の暗殺されたJFケネディーに代わって大統領に就任したジョンソンがベトナム戦争からの撤退(これは敗戦を意味した)をし始めた年である。60年代のアメリカの振る舞いに対し若者の間で疑心感が蔓延していた。丁度私が20代の青春を謳歌していた頃である。精神世界とは「宗教」や「哲学」「心理」が扱う世界全般の事である。 よって酒席の話題にはあまりお勧めはしない。20世紀が「科学の世紀」だとすれば21世紀は「心の世紀」だという人もいる。テクノロジーはナノの単位になり、コンピューターは「京」の時代になった、量子物理学においては実験結果に研究者の思考エネルギーが影響する次元までに突入した。3DCGの世界では何が現実で何がバーチャルなにかの判別さえ難しくなっている。究極・無限・夢のエネルギー「原子力」は様々な問題を我々に露呈した。私は22歳の時にアメリカ・西海岸最北部の都市シアトルに1年間短期留学をした。そのとき友人に「神社」と「お寺」の違いを尋ねられた時答えられなかった自分の無知さを恥じた。帰国してから数冊の本を読み最低限の知識は習得したつもりである。その時の形而上的思考訓練のおかげで「ニューエイジ」や「精神世界」に関する本も違和感なく読み続けられたと感じている。仏教にも興味を持ち始め、日本で一番ポピュラーな経典(お経)の一節・般若心教の「色即是空・空即是色」を理解するため数冊の「般若心経」の解説本を読み漁った。日本では玄奘三蔵(あの孫悟空の三蔵法師)の訳が一般的に読まれている。しかし何冊読んでも「空」の哲学を理解することはできなかった。「色即是空・空即是色」直訳すれば「形あるものはその実態はない、しかし事態の無いものこそ形がある」まるで禅問答である???「空」を「実態がない」と訳すレベルでは到底「般若心経」の境地には辿り着けない。「空」の解釈本では様々な視点から説明が成されていた・・・「移り変わるもの」「短時間で消滅する空虚なもの」「苦しみがない境地」「仮の存在」「修行・瞑想により得られる境地」「宇宙」「確固不変なもの」など様々だ・・・・お釈迦様は聞く人のレベルに合わせて説法をしたそうだ。その話を弟子たちが伝聞し、後に書き留められたのが「経典」である。 そのため多種多様な、言い換えれば「分かりやすい経典」から「難解な経典」まで存在する。「般若心経」は弟子の「舍利弗」に解いた話とされる故に「難解な経典」に分類されている。「色即是空・空即是色」は間違いなく日本で一番有名で重要な経典のフレーズであるが、私はその前文の「五蘊皆空」は「般若心経」のエッセンスであると感じた。「五蘊」とは仏教用語で人間の構成要素とされる「色」全ての物質 ・ 「受」感受作用 ・ 「想」表現作用 ・ 「行」意志作用 ・ 「識」認識作用の五つである。つまり「般若心経」は人間の構成要素の全てが「空」と説いた経典なのである。私は「仏教」の専門家でもないので、ここで「般若心経」の解説を試みるつもりは微塵もない。皆さんに伝えたかったことは「仏教」における「空」のようなキーワードが極めて「ニューエイジ的」または「精神世界的」思考回路により導きだされる考察だということである。「空」以外にも私たちが日常よく使う「因」「縁」「果」や「三昧」「彼岸」「涅槃」などは全て仏教用語である。ニューエイジや精神世界が一部の危険な「カルト集団」に取り込まれる危険性を承知のうえで述べるなら唯物的・俗物的思考が「心の病」の原因であるとするなら、このような思考回路により導きだされる考察も必要ではないかと感じてしまう。
2012年03月31日
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先日私が「お気に入りブログに読者登録」している人のブログに精神科医の先生の言葉を引用され「うつ病かどうかは精神科を受診したかどうかだけで、受信すると病名が付き,薬が処方される」とあった。私は直ぐに「全く同感です」とコメントを書いた。私がクドクドと分かりにくい表現で、今まで書いたブログで伝えたかったことを、短い言葉で簡潔に表現されていたからだ。「健常者でも精神科に行けば、精神科医は必ず病気だと診断する」という鋭い指摘である。「23年間うつ病と共存」されていると綴られているブログも拝見した。その方は立派に子育ても成されたと推測する。健常者で育児放棄する親や、家庭内でDVを振る舞う人間と比べてどちらが「健常」なのか?この異常な程のストレス社会、健常なままでいられる鈍感な精神の方のほうが異常ではなのか?「○○症候群」と訳の分からない病名を付けることが「名医」と呼ばれる我々には理解不能な世界「健常者」と「心の病の罹患者」の違いは何なのであろうか・・・実はそこには何も違いはない健常者でも風邪はひく、そして市販薬を服用するか内科へ行き「風邪ですね、薬を出しておきますね」と言われ、それで終わりである。もし会社を休んだとしても誰も怠け者とは指摘しない。しかし「心の病の罹患者」には、周りの者の冷たい視線が待ち受ける。何故なんだ?? 偏見・誤解・刷り込みか???刑法39条(心神喪失及び心神耗弱)1. 心神喪失者の行為は、罰しない。2. 心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。この刑法39条の誤解、世間に与える影響は否めないだろう。「心の病」に罹患した人 = 精神科に通院する人 = 心神喪失者・心神耗弱者という世間の誤解・偏見「気○が○」に殺されたら、「殺され損」だという偏見附属池田小学校事件の犯人・宅間守は「健常者」であったのか「」「心の病」に罹患していたのか?光市母子殺人事件の犯人・大月孝行は「健常者」であったのか「」「心の病」に罹患していたのか?そのような愚問は全く意味を成さない 彼らはただ「人」であった・・・殺人犯・傷害事件の犯人は全て「心の病」に苦しんでいたのか?否、「人」は皆 生きることに悩み、人間関係に悩み苦しみその対象に怒りさえ覚える、しかしそれが「人生」というものであり人として「生まれた」という宿命なのである。生き抜くために「障害者手帳」というお上のお情けを得ようものなら会社、そして親戚・家族まで「色眼鏡」で覗き込みアイツは精神病だとレッテルを貼る。何故なんだ??それは精神科に行ったから!!普段、健康で普通に生活しているあなた昨日もし「嫌いな上司」に説教されて気持ちがちょっとブルーになり会社に行くのが面倒だなと思った あ な た近くの精神科か診療心療内科に行ってくださいあなたは間違いなく「精神疾患」と診断される。私は医療スキームの問題や抗鬱剤の危険性を知り合いには言葉やメールで、そしてこのブログでも何度も指摘してきた、誤解は避けたいので敢えて述べるが医療機関に従事する献身的な看護師・救急医療の医師・数年前には延命は不可能と思われた高度な手術を執刀する外科医等には心から敬服する。製薬会社に於いてもペニシリンの発見でどれだけ多くの尊い命が救われたように不治の病と言われた疾患でも完治できる薬を開発して頂いた既述した組織論で書いた通り、如何なる組織においても「善良な者」と「そうではない者」がいる。では何故、精神科の医者は必ず病気だと診断するのか・・・答えは簡単である医療もビジネスだから。 クリニックを維持するのには「利益」が必要だ。発病の原因も治療も「仮説」に基づいたものなので、現在の段階ではどのような治療を施したとしても誰からも責められることはない。折角来てくれた「お客さん」を手放す訳などない。まして「生活保護受給者」は大歓迎だ。 治療費を支払う必要がないので、高価な薬をどんどん処方しても誰も「先生、もう薬はいいです」とは言わない。何かが間違っている。 何かが狂っている。本当は皆 うすうす分かっているのに 「欺瞞に満ちた甘い蜜壺」 から誰も出ようとはしない。悲しくなってくる。 惨めになってくる。この「日本国」全体が病んでいることに・・・
2012年03月30日
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Shape of my heartスティング(本名 : ゴードン・マシュー・トーマス・サムナー)1951年10月2日生まれ、現在61歳である。私とスティングの出会いは今でも大好きな映画「レオン」だった・・・お気に入りの映画監督リュック・ベッソンの作品で日本では1995年公開。麻薬捜査官スタンフィールド(ゲイリー・オールドマン)の演技が圧巻であった。マチルダ(ナタリー・ポートマン)がレオン(ジャン・レノ)を象徴する「観葉植物」を鉢から取り出し学校の庭に植えるラストシーンで流れた曲が「Shape of my heart」である。http://www.youtube.com/watch?v=ZuI61cTNbAk&feature=related余談だがあの観葉植物は「アグラオネマ」といい友人の「花屋さん」が「あれ、庭に植えると直ぐに死んじゃうよ」と言っていた、私の大好きな映画のエンディングが台無しである・・・直ぐにCDを購入し、その曲がスティングのものであると知った。メロディーも優れているが「歌詞」が素晴らしかった。リフレインで何度も繰り返されるI know that the spades are the swords of a soldierI know that the clubs are weapons of warI know that diamonds mean money for this artBut that’s not the shape of my heart私は知っている「スペード」は戦士の剣「クラブ」は戦争の兵器「ダイアモンド」は現金を意味すると・・・でも、これらは僕の「ハート」じゃないなんて凄い感性だ、こんな詩が書けるとは・・・スティングのCDおよびDVDは殆ど所有している、日本公演も「ポリス」の再結成を含めて数回足を運んだ。スティングを長年観ていて気付いたことがあった。彼はライブやレコーディングのサポートメンバーには拘り、優秀なミュージシャンとしか仕事をしない。スティングのサポートメンバーとしてギタリスト「ドミニック・ミラー」が良く知られている。彼は様々なジャンル(ジャズ・クラッシック等)のミュージシャンと共演している。ジャズのトランペット奏者「クリス・ボッティ」はスティングに認められ、その容姿も影響してか(超男前)その後ブレイクした。なんといっても異なったジャンルのアーティストとの共演は「デザート・ローズ」でのシェブ・マミ( Cheb Mami ) だろう。「デザート・ローズ」が収録されたアルバムは1999年全米でリリースされ話題となった。シェブ・マミ は ライ音楽(アルジェリア西部地方起源のPOP音楽)の人気アーティストであった。極端な言い方をすればアラビアンポップである。スティングはある楽曲にライ音楽を重ねたいと閃きデモテープをシェブ・マミに送った。数カ月後、シェブ・マミはなんと歌詞の付いた楽曲を見事にスティングの曲に合わせ重ねた。そして完成したのが「デザート・ローズ」である。http://www.youtube.com/watch?v=b-yHU8T61cA&feature=related2011年 9・11以降 一時期アラブの匂いのするこの曲は放送禁止となったがファンからの強い要望で暫らくすると解禁となったらしい。才能のある者たちが集まると、素晴らしい作品が生み出される・・・神は気まぐれである「才能のある者・無い者」を創られた。スティングを知れば知るほど「才能」という言葉を深く理解できたのだった。
2012年03月28日
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現在「心の病」で辛い人、そして そのご家族の方とにかく一度観てください「向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪」(1話から41話までありました)とりあえず5話までURLを貼り付けますので・・・向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪-1http://www.youtube.com/watch?v=vOM_EiIo6GY向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪-2http://www.youtube.com/watch?v=u6NNhx0I7lg&feature=related向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪-3http://www.youtube.com/watch?v=GgMH7rVSKrs向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪-4http://www.youtube.com/watch?v=gk6oJ7Y8wMo向精神薬・抗うつ剤・製薬医療・医学の犯罪-5http://www.youtube.com/watch?v=OSdWe--uEtYそして今現在「パキシル」を処方されている方、主治医にこの話をして今後の治療方針を相談されてください。それでも処方する「精神科医」は早く代えたほうがいいと思う。私には今「知識には責任が伴う」という言葉が重く圧し掛かっている。罹患して約2年半の闘病生活で「感じた事」「知り得た事」は誇張せずに既述したつもりだ。しかし推測が事実と分かり、その「欺瞞に満ちた甘い蜜壺」と闘っている人たちが居ると知った以上は私の範囲でできることはするつもりである。私が以前指摘した 一部の精神医学者・製薬会社・臨床医師の「歪んだビジネス・スキーム」が全て露呈されている。また CCHR (市民の人権擁護の会)の事も初めて知った。CCHR のことはいずれ詳しく書く予定だが関心のある方は下記HPをご覧になってください。http://jp.cchr.org/videos/making-a-killing/side-effects.html
2012年03月28日
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精神世界の考えでは「現実」と同時に何層ものパラレルワールドが存在するという仮説がある。量子力学・物理学の世界でも、もう一つの世界が存在するという仮説の研究が行われている。歴史認識に[もしも]はタブーである。第二次世界大戦で連合軍に負け、戦勝国アメリカに平和憲法を作ってもらい、在日駐留米軍に独立国家「日本」を防衛してもらい「戦争を知らない子供たち」我々は平和な消費社会を堪能することが出来た。私はある日突然パラレルワールドにワープした・・・・・・… … … … … … … … … … … … … … … … … … …1945年ポツダム会議において三人の対戦後の冷戦体制の青写真を作ったアメリカの[トルーマン]英国の[チャーチル]そしてソビエト連邦[スターリン]の交渉が何かの原因によりパワーバランスが崩れた。チャーチルは英国での政権維持に困窮していた[直後の選挙で敗れる]トルーマン大統領は自国において実力者ルーズベルトとポツダム宣言の内容に関し意見の対立があった[事実]タフ・ネゴシエーターであるスターリンは「ヨーロッパ戦線の勝利」がソ連軍の極東地域の戦力を割いてまで対ナチスを打倒したことを理由に無条件降伏した日本をアメリカとソ連による「分割統治」することをトルーマンとチャーチルに認めさせた。東西分割地点は日本標準時間を示す[兵庫県明石市]西日本はアメリカ、東日本はソビエト連邦に分割統治される。よって「大阪」はソ連の統治の[東日本]という共産圏に組み入れられる。極東アジアのバワーバランスは崩れ、朝鮮戦争は北朝鮮が勝利する。1953年、私は東日本で生を授かるフルシチョフ首相主導の「東日本国」は教育の場で徹底的な共産主義を植え付けた。私は腐敗した資本主義・民主主義に嫌悪する。当然ゴルバチョフもエリチィンも歴史上登場しない。現在のウクライナの若者[いまは60歳前後]がアフガニスタン戦争に駆り出されたように[私も]ベトナム戦争においてベトコンと共に民主主義国家・アメリカと戦う為に徴兵される。その時マルクスレーニン主義の[教育という洗脳]を受けた私はどんな決断をするのだろうか……私そして父や兄はレジスタンス活動をしたのだろうか・・・日本においてそのような反権力行動を起こす者は存在するのだろうか・・・… … … … … … … … … … …もう一つのパラレルワールドにおいては1962年10月キューバ危機の時ソビエト連邦首相「ニキータ・フルシチョフ」は「核」のボタンを押しているのかもしれない・・・デジャブではなく私の妄想であることを切に願う。
2012年03月17日
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イーグルスファンだけではなく様々なジャンルの人々がこの難解なリリックスの解読に挑戦している。何故だか私もホテルカリフォルニアをドン・ヘンリーの「彼の精神的な視点」から解説を試みたいと思った。ドン・ヘンリーは1947年生まれ、その年アメリカの一人当たり実質GDPは$10957であった。3年後の1950年に朝鮮戦争が勃発している。人生に於いて最も多感な年齢と言われる彼が15歳の1962年、実質GDPは$14552。成長率6.1%と東西冷戦の緊張の中でアメリカは経済成長を続けていた。 その2年前の1960年、民主党のホープとしてJFケネディーが大統領に就任している。1962年10月、アメリカはソビエト連邦と核戦争の寸前までにいたったキューバ危機を経験した。そして彼が20歳になるまでの5年間、アメリカ史において悲惨な出来事が次々と起こる。1963年11月22日JFケネディーがダラスで暗殺される。副大統領であったリンドン・ジョンソンが大統領に就任しベトナム戦争の強化策を打ち出す。1965年2月ベトナム戦線において北爆が本格化。8月にはロサンゼルスで黒人住民の大暴動が発生する。1968年には忌まわしい暗殺が2件起きた。4月11日にマーチン・ルーサー・キング牧師そして6月5日には兄のジョンと共にキューバ危機を回避したロバート・ケネディーである。そして翌年の1969年2月、世界の警察を自負するアメリカのジョンソン大統領は南ベトナムからの段階的撤兵を表明した。また8月15日から3日間、伝説のウッドストック・フェスティバルがニューヨーク州のベセルホワイトレイクで開催された。1969年ドン・ヘンリーは22歳であった。彼にとって1969年とは単に伝説のウッドストック・フェスティバルが開催された年というよりもっと違う意味が含まれていたと想像するほうが自然ではないのだろうか。 多くのホテルカリフォルニアを論評している者の示唆するようにウッドストックは様々なアメリカ国内の若者の抱える問題(ヒッピー現象・ドラッグ拡散)を露呈させた。ジャニス・ジョップリンがウッドストックの2日目である8月16日に登場している。ちなみにその年の成長率は3.1%まで低下していた。そして国内は泥沼化したベトナム戦争に関して世論は完全に二分されていた。多くの若者の戦死、そして帰還兵のPTSDなどの苦悩は社会問題となっていた。1971年8月「ドン・ヘンリー」「グレン・フライ」「ランディ・マイズナー」「バーニー・レドン」の4人でイーグルスは結成された。1975年12月にドン・ヘンリーらとの意見の対立によりバーニー・レドンはグループを脱退した。1976年3月よりホテルカリフォルニアがレコーディングされたときドン・ヘンリーは29歳であった。彼にとって7年前の1969年は彼の思考・思想にとってターニングポイントではなかったのか。ある解説者はこの歌詞はドン・ヘンリーのドラッグ体験中の妄想が基礎となっていると言う。そしてホテルカリフォルニアは麻薬中毒者の厚生施設の比喩だと。 ドン・ヘンリーがいかなる説明をしていないかぎり私が「それは違う」ということは不可能である。 しかしドラッグ体験中の妄想であろうと彼がなぜこのような妄想を抱いたか理由があるはずである。ホテルカリフォルニアの歌詞にはいくつかのキーワードが潜んでいる。私が思うキーワードをいくつか挙げてみる。「部屋は十分にあります 年中無休で 貴方はここに来ることができます」「彼女はメルセデスの曲線」「あなたのアリバイを持ってきてください」「彼らは研がれたナイフで獣を刺したが殺すことはできなかった」「以前居た場所に繋がる通路」「貴方は自由にチェックアウトできますしかし貴方は二度とここを立ち去ることはできません」そして「1969年以来 スピリットを置いていないのです」まず「部屋は十分にあります 年中無休で 貴方はここに来ることができます」Plenty of room at the Hotel California, Any time of year, You can find it here歌のタイトルでもあるホテルカリフォルニアとは何を意味するのだろうか?既述の「精神病棟」説や「政治的に行き詰まったアメリカ」という解説は私には馴染めなかった。不仲によるバーニー・レドンの脱退や商業第一主義の音楽産業のなかで若干29歳の若者には精神的に矛盾を感じながらも創作活動を続けたのだろう、しかし時折精神的に休息を必要としていた。 それがドン・ヘンリーだけの心の休息所(ホテル)だった。しかしその休息は精神的矛盾を解決してくれる場所にはなりえなかった。しかし彼は「心の休息」が必要なとき度々ホテルカリフォルニアで休んでいたのだろう。「メルセデスの曲線」She got the Mercedes Bendsこのフレーズは「ジャニス・ジョップリン」へのオマージュだろう。また蝋燭を灯し彼を誘導した女性も「自由の女神」だろうが何故かジャニスを連想させてくれる。ジャニス・ジョップリンは1943年1月19日生まれ。 ドン・ヘンリーにとってジャニスは4歳年上の一目置くシンガーであったろう。1970年10月4日ヘロインの過剰摂取により27歳の若さで亡くなっている。ジャニスの死後1971年発売されたアルバム「パール」には「メルセデス・ベンツ」が収録されヒットしている。「メルセデス・ベンツ」は貧乏な女の子がメルセデスを買って! テレビを買って!!と神様にお願いする内容の歌である。 前フレーズの「ティファニーの捻じれ」と共に消費優先の経済体制を揶揄した意味だろう。 おそらく彼女の死は当時の西海岸において様々なメディアの話題になったことは想像に難くない。「あなたのアリバイを持ってきてください」Bring your alibisアリバイ・・・そのとき貴方はどこにいて何をしていたか証明してください。では「いつ」の証明なのだろうか・・・。 前後のフレーズよりホテルカリフォルニアの囚人たちが創りあげた素敵な場所に居続けるためには何かを証明しなければならなかった。 それは1969年から1976年の7年間、彼自身もホテルカリフォルニアの「囚人」であることを・・・「彼らは研がれたナイフで獣を刺したが殺すことはできなかった」They stabbed it with their steely knives, But they just can’t kill the beast獣は(the beast)は解説者には色々と解釈されている。ウォーターゲート事件で辞任したリチャード・ニクソンであったり。 アメリカ経済を操る軍産複合体であったり・・・しかし私は「獣 the beast」はドン・ヘンリー彼自身の心の奥に潜む「意志に反する何か」ではないのかと・・・どんなに理性的な研がれたナイフでも消すことのできない彼の「欲望」・友人との「不和」・沸き起こる「自己矛盾」etc.「貴方は自由にチェックアウトできますしかし貴方は二度とここを立ち去ることはできません」You can check out anytime you like… but you can never leaveアメリカンスラングでチェックアウトは「自殺」意味する場合がある。「ホテルカリフォルニア」という混沌とした自己の精神状態から抜け出すことはできないと解釈できる。「以前いた場所に繋がる通路」The passage back to the place I was before彼自身がアメリカンドリームを信じてアメリカ全体が経済発展を続けていたころを懐かしく回顧している。さて最後の不可解なフレーズである。「1969年以来 スピリットを置いていないのです」We haven’t had that spirit here Since nineteen sixty-nineスピリットは「強い酒」だが「精神」を比喩していることは間違いないだろう。しかしなぜ1969年からなのだろうか? 既述したように1969年はベトナム戦争からの段階的撤兵の表明。また8月伝説のウッドストック・フェスティバルがニューヨーク州で開催された。 感覚的にこのフレーズはアメリカ史における、アメリカンスピリットの忘却と理解するよりドン・ヘンリー彼自身の心の奥深い部分での精神的変化が1969年に起こったと解釈したい。 当時マリファナや軽いドラッグを使用していたことは彼もいくつかのインタビューに答えているし、当時のミュージシャンにとっては創作活動の潤滑油のようなものであった。それでは想像してみよう、1976年レコーディングの合間、29歳のドン・ヘンリーは疲れをとるためマリファナをふかしていた・・・・突然1969年のウッドストックでのジャニスの歌声が響いてきた・・・そしてあるイメージが降りてきた。ホテルカリフォルニア(意訳)真夜中急にドライブしたくなり高速道路を走ってみた夜風が心地よかった 夜空には星が輝いていた僕は車を止めマリファナを一服深く吸い込んだ・・・少しすると心地よくなってきた 夜明けまで少し眠ろうか・・・突然、拝礼の鐘の音とジャニスが僕の心に降りてきた「ドン、ちょっと疲れているね。 ホテルカリフォルニアで休んだら?」そうホテルカリフォルニアは僕だけの心の休息所ジャニスはいけてたよね、商業主義には辟易していたけどウッドストックではみんな甘い夏の汗をかきながらある者は思い出すために、ある者は忘れるためにダンスを踊っていた僕は1969年以来思い悩むと僕だけの心の休息所「ホテルカリフォルニア」に来るんだ・・・そして僕自身、日ごろのアリバイに自問自答するどんなに理性的に考えてもでも消すことのできない「欲望」「不和」「自己矛盾」あまり1969年以前の記憶を懐かしんでも意味はないと思うジャニスのように死んでしまうことも人生かもしれないけどきっと死ねずにまたホテルカリフォルニアで悶々とするんだろうな誰もが自由に解釈できるって素敵ですね・・・・
2012年03月04日
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イーグルスのホテルカリフォルニア 1977年リリースされた20世紀を代表する名曲である。 アルバムは全世界で2100万枚、アメリカ国内で1600万枚のセールスを記録。日本でもこのジャンルのアルバムとしては異例の枚数を販売した。しかし「歌詞」はとてもメタファーに溢れ難解である。若いころ必死に辞書で調べたりしてはみたが、漠然としか理解できなかった。作詞をした「ドン・ヘンリー」は現在に至るまでメディアからの様々な問いかけに対し明確に答えることはしていない。しかし50年以上も生きてみると彼独特の比喩が理解できるような気がしてきた・・・砂漠に咲くサボテンの花「コリスタ」が「マリファナ」であること。「蝋燭を灯しホテルに誘導した女性」がアメリカを象徴する「自由の女神」であること等・・・しかし一番重要な一節は「1969年以来 スピリットを置いていないのです」だろう。ホテルカリフォルニア(直訳)暗い砂漠の高速道路で涼しい風が髪をなびかせてくれるコリスタの温かい香りが立ち上がっている頭を上げて彼方を見ると輝く星を見つけた頭が重くなり、目がかすんできたのでこのあたりで一夜を過ごさなければならなかった彼女が入口に立っていた私は礼拝の鐘の音を聞いて自分のことを考えた「ここは天国か、それとも地獄なのか」すると彼女は蝋燭を灯し私に行先を示した廊下を降りると声が聞こえた彼らがこんなふうに言っていると聞こえた「ようこそホテルカリフォルニアへ部屋は十分にあります 年中無休で 貴方はここに来ることができます」彼女の心はティファニーの捻じれ 彼女はメルセデスの曲線を持っている彼女には多くの男友達がいる彼女が友達とよぶ男の子たちは中庭でダンスを踊っている甘い夏の汗、ある者は思い出すためにダンスを踊りある者は忘れるために踊っている私は給仕長を呼んで「ワインを持ってきてください」と頼んだ彼は「1969年以来 スピリットを置いていないのです」と言ったそして私は彼らの声が夜中に聞こえてくるので目を覚ますほら聞こえてくるでしょう 彼らの言っていることが「ようこそホテルカリフォルニアへ なんて素敵な場所」彼らはここで生きていく なんて素晴らしい響き「あなたのアリバイを持ってきてください」天井に貼られた鏡 氷の上のピンクのシャンパンそして彼女は言った「私たちはみんなここの囚人、ここは私たちが創りあげた場所」そして彼らは支配人の部屋に祝宴のために集まった彼らは研がれたナイフで獣を刺したが殺すことはできなかった私が覚えている最後のこと 私はドアに向かって走っていた以前居た場所に繋がる通路を見つけなければならない「リラックスしなさい」と警備員の男たちは言った「私は夜勤の警備員です・・・貴方は自由にチェックアウトできます」「しかし貴方は二度とここを立ち去ることはできません」
2012年03月04日
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体調の悪い日が続く、何日ブログを書けなかったのか・・・。また低気圧がやって来た、目覚めてどんよりとした冬空を見ただけで気分が憂鬱になってくる、朝のストレッチもできずにいる。 言いようのない「倦怠感」と「無気力」に襲われる。 リオとの遊びもベットの上で相手をするのが精一杯だ。 リオも私の体調の悪いのを察してくれているのか無心に私の顎と首を舐めてくれたりする。 もしリオが居なかったらまた妙な気を起こしていたかもしれないと思いリオに感謝する。 育児疲れ(育犬疲れ)かなとも思ってしまうが、うつの症状をリオのせいにはしたくはないので反省する。 生後2ヶ月の子犬を飼うことは大変なことを覚悟のうえで決めたことだ・・・。 リオが私のお腹の上で遊ぶときは私の両手が遊び相手になる。 最初は甘噛みしてくれているのだが、だんだん興奮してくると時々きつく噛むときがある。 これを放置しておくときつく噛んでも叱られないと思ってしまうので、そんなときは本に書いてあった「母犬」の叱り方を使う。 片手でリオの口を覆い仰向けにさせリオの興奮が収まるまでリオに「落ち着いて、落ち着いて」と耳元で囁いてやる。 最初は少し嫌がって暴れるが、やがておとなしくなってくる。 鬱のダウン状態のときには少しイライラしてしまうが毎日が躾の日々である。 リオには「噛み付き犬」にはなって欲しくはない、これから長い付き合いになるのだから・・・。 昨日リオに噛まれてしまった。 指から少し血が出てきた。 冷静で居ようと思ったがこんなに一生懸命世話をしているのにと腹が立ってしまいリオを激しく叱り付けてしまった。 リオは私のいつもと違う怒りの態度に怯えキューンと鳴き震えていた。 その番はリオをケージに入れ寝てもらった。 私も反省しながら寝ようとしたが「怒りの感情」をコントロールできない自分が嫌になりなかなか寝付けなかったのだった・・・
2011年11月29日
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何故か体調が良くならない、このブログも更新するのが辛くなってきている。しかしリオを飼った以上は寝てばかりはいられない。 たぶんリオが居なかったらまた寝たきりになってしまったかもと思ってしまう。 今リオは散歩に備えてハーネス(胴輪)の練習をしている。 初めて着けたときはとても嫌がった、20分ほどバタバタ暴れてハーネスの紐を噛んでちぎろうとしていた。 固定式ハンガースタンドにS字フックをぶら下げハーネスのリードの端をフックに引っかける、そして私はわざと知らない顔で見てみないふりをしていた。 人間でもSM趣味でもないかぎり腕と胸から背中を紐で縛られたら嫌だろう。 何回目の練習からもがいていたリオもやっと諦めて大人しくなった。 行動範囲が限られるので吠えるかなと思っていたが全く鳴かなかった。 5回目ぐらいからはもう慣れてきたのかハーネスを着けても大人しくするようになった。 これで散歩にも出られると安心した。 トイレはまだまだ時間がかかりそうだ、何回かはちゃんとトイレシートの上でできたのだが、ちょっと目を離すとオシッコをした後が残っている。 トイレシートの上でできた時はご褒美としてミルクボーロをあげているのだが、まだリオにとってトイレをちゃんとする動機付けにはなっていないようだ。 しかし室内犬としてこれから私とずっと暮らしていくのだからトイレトレーニングは時間がかかっても覚えてもらはないと困ってしまう。 今日、初めてのシャンプーをした。 リオはお風呂場が初めてなので嫌がるかなと思ったが最初少し震えただけで狭い洗い場をクンクン嗅ぎまわりここはどこなのか考えていたようだ。たぶん松山のブリダーの所でも生まれてから4回ぐらいはシャンプーをしてもらっているはずだ。お湯を手でリオにかけてやると結構気持ち良さそうにしていた。 ふっくらと少し肥えて見えたリオも水を浴びて毛が濡れてしまうとまだまだ足腰が細くて弱弱しく見えてしまった。しっかり食べてもう少し筋肉がついたらなと思ってしまった。 しかしシャワーの後のドライヤーは嫌がっていた。きっとあの音と熱い熱風が嫌なのだろう。 しかし風邪をひかれては困るので押さえつけて乾くまでリオには我慢してもらった。 ドライヤーが終わったらリオも気持ち良さそうに走り回って遊んでいた。 リオにとってはこれから生まれて初めての出来事が続いていくんだろう・・・。
2011年11月17日
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体調の悪い日が続いている。 昨日は眠りが浅く夜中に3回も目が覚めた。4回目に目覚めると6時になっていた。 リオを見ると眠そうだったがこちらを見ていた。 まだウンチが時々ゆるくなるのでペットフードをお湯で柔らかくして与えている。 食欲は相変わらず旺盛だ。 朝のストレッチ体操をどうするか考えたが頑張って行く事にした。 今は体力を戻すのもリハビリに大事だと思っている。 しかし10分もするとベッドに横になりたくなった。 体力が消耗したというよりストレッチを続ける気力がなかった。 部屋に戻って横になって休んだがやはり「不安感」と「頭痛」が襲ってきた。 安定剤と鎮痛剤を呑む。 だめだ、全く効いた感じがしなかった。 安定剤をまた呑むが効果はなかった。 次の日も夜中何回も目覚める。 超リアルな仕事をしていた時の嫌な夢を見る。 6時にまた目が覚めたが身体が動かなかった。 幸いリオもまだ寝ていたので私もそのままベッドに横たわっているとまた眠ってしまった。 次に目覚めると時計は8時を示していた。 朝の体操を始めてから雨の日を除く連続記録が途絶えてしまった。 ある時期、私を苦しめている「うつ病」のことを色々と書籍やネットで調べてみた。うつ病はごく最近まで「心の風邪」「なまけ病」などと誤解されてきた。現在では脳機能の研究なども進歩し様々な原因による脳の機能障害と位置付けされている。しかし結論を先に述べてしまえばうつ病の「原因」も「治療方法」も残念ながら科学的に立証されたものはまだない。 全て「仮説原因」と「仮説に基ずく治療」である。ここからはあくまで私の体験・症状からの私の推論として聞いて欲しい。私に該当する仮説原因は3点思い当たった。 (1)セロトニン仮説 (2)PTSD仮説 (3)「否定的思考パターンの固定化仮説」 の3仮説である。セロトニン仮説は、神経伝達物質であるセロトニンとノルアドレナリンが少なくなっているために意欲や気分をつかさどる脳の機能が低下し、抑うつ症状が起こってくる。セロトニンとノルアドレナリンの量を増やせば脳活動が活性化し症状が治まるという仮説である。 神経伝達物質は神経細胞から出て別の神経細胞にある受容体にくっつくことで情報を伝達している。しかし使われないで余ると、またもとの神経細胞に再取り込みされていく。この再取り込みをブロックすればセロトニンとノルアドレナリンの量が増えると考えたのが抗うつ剤の仕組みである。今うつ病の薬はSSRI(選択的セロトニン再取込阻害薬)やSNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再取込阻害薬)が主流である。わたしも両方処方され服用したが「喉の渇き」「便秘」「胃炎」に苦しめられた。現在殆どの医療機関・製薬会社はこのセロトニン仮説をうつ病の主原因とみなしている。しかし副作用が辛くて私のように「減薬」「断薬」している患者も多数居ることも事実である。PTSD(Posttraumatic Stress Disorder)心的外傷後ストレス障害とは、強烈なトラウマ(心的外傷)体験が原因となり心身に支障を来し、社会生活にも影響を及ぼすストレス障害である。様々なストレス性精神疾患を引き起こす元となる。 またPTSDにより脳の海馬の破傷や縮小がMRIの画像診断によりうつ病患者のPTSDと記憶障害の因果関係が最近解明された。 記憶は大きく分類すると「陳述的記憶」と「手続き記憶」がある。漢字や数学の公式などを記憶するのが「陳述的記憶」で、泳ぎ方や自転車の乗り方などを記憶するのが「手続き記憶」である。海馬は脳の中で「陳述記憶」をするときに大事な役割をしている。PTSDによる脳の海馬の破傷や縮小がうつ病患者の記憶障害と関連するのはこのためである。 私も昨日の食事が何をたべたのか思い出すのに苦労する。また食後の薬を呑んだかどうかいつも悩んでいる。 失礼な話しだが発病当時私はある人と短期間とても頻繁にメール交換をしていた。 しかしその人の顔・知り合った経緯が未だに思い出せないでいる。 私たちの脳の中では新しい記憶は「海馬」に古い記憶は「大脳皮質」に蓄積される。私も場合症状が現れ始めた3年前から回復期に入ったと思われる今年の夏までの記憶が非常に曖昧・断片的で、起こった出来事の前後の整理が未だにできていない。しかし脳細胞は使えば新しい細胞が生まれるらしい。 私はいま文章を書くことで漢字を思い出したり、文章の構成を考えたりする事で脳の活性化リハビリを続けている。 「否定的思考パターンの固定化仮説」については現在通院中のクリニックがカウンセリングと認知行動療法を投薬治療とを並行してやってくれている。 その経験上私には「否定的思考パターン」があることが理解できた。 今まで無縁だった「哲学書」を読んだりして思考パターンの改善に取り組んでいる。 子犬を飼うのを決めたのも息子に勧められた「自殺防止」という一義的目的もあるが、何かの世話をすることで私の思考パターンを変えたいという別な目的もあった。いずれにしても「うつ病」とはまだ難解な病気である。 しかし完治には時間がかかると覚悟をしたうえでリハビリを続けなければと考えさせられた数日であった。
2011年11月14日
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朝リオの鳴き声で目覚めた。 時計を見るとまだ5時10分だった。朝ごはんにしては早すぎる。 ゲージを見るとウンチをしていた。 ゲージの中でちゃんとウンチをしたので私に褒めて欲しかったのだろう。後始末をしてやってもまだ「キューン キューン」と鳴いている。遊んで欲しいの鳴き声だ。 昨日からの体調不良は目覚めても残った感じがしていた。 しかたなくリオをベッドに連れて行きお腹の上にのせて手で遊んでやった。 しかし知らないうちにまた眠っていた。 6時前に目が覚めるとリオも布団の中で眠っていた。 とてもリオの体温が暖かく感じ心地よかった。 寝顔がとても可愛かった・・・。 6時になったのでリオの朝ごはんの準備をしだした。 リオも起きてボール遊びをしだした。 朝からとても元気だ。 少しお湯で柔らかくしたペットフードをリオ専用の有田焼きのお皿に入れ与えてやると今日も1分もかからず平らげた。 食欲も旺盛だ、昨日リオの体重を量ったら1000gを超えていた。 順調に成長しているので安心する。今日は私の精神科クリニックの診察の日だ。 2週間毎に簡単なカウンセリングと薬を貰いに通院している。 そのクリニックは大阪北部の自宅から少し遠い所にあるので3時間はリオを一人にすることになる・・・。 クリニックは息子の車で連れて行ってもらっているのでリオに留守番をさせるか一緒に連れていくか悩んでしまった。お昼過ぎからまたダウン(鬱の辛い症状)が襲ってきた。 また身体が震えてきた。 リオが来て10日過ぎたので緊張感が薄れてきたのが原因かと考えてしまう。 クリニックに行く時間ぎりぎりまでベッドで横になり休んでいた。 リオを連れていくどころではなくなった。 息子が迎えにきたとの電話をくれたのでヨロヨロと部屋をでた。息子の車に乗り込むと体調の悪そうなのに気づき「大丈夫か?」と心配してくれた。 クリニックは相変わらず混んでいた。 ここはカウンセリングや「認知行動療法」も指導してくれるので色んな患者が通院している。 リオが心配なので早く帰りたいが、予約制ではないので名前が呼ばれるまで待つしかない。 待合室は変なオーラが漂っているので最近私はIpotを持参し好きな音楽を聴きながら待っている。 何とか診察も終わりいつもならクリニックの近くの喫茶店でコーヒーでも飲んでから帰るのだが、リオが心配なので寄り道せずに帰った。 家のドアを開けるとリオがキュンキュンと鳴いている。 部屋に入るとピョンピョン飛び跳ねて鳴いている、まるで「どこ行ってたんだ? 淋しかったぞ!!」と言っているようだった。 しかしゲージをみるとそこらじゅうにウンチが・・・。 トイレシートの上はもちろん、リオが寝ているタオルの上、オモチャのぬいぐるみにもウンチがついていた・・・。 リオを抱き上げるとウンチを踏んづけたのか足も汚れていた。 その後約1時間私はゲージの掃除、リオの全身を暖かい濡れタオルで拭く、部屋の換気・・・・ とても疲れてしまった。 次のクリニック通院の日はリオを連れて行こうと思った。
2011年11月13日
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リオが我が家に来てちょうど1週間が経過した。朝、6時前に起きて朝ご飯の用意、食べた後はオシッコかウンチの処理、そしてリオが疲れるまで遊んであげる。これを1日4回、5時間毎に繰り返す。 毎日がとても早く感じた・・・。ある日朝ご飯をあげた後リオが眠そうなのを見とどけてから公園に行ってストレッチ体操をしながらハトの餌やりをした。 なんだか身体がだるく厭な予感がした。 部屋に戻るとやはり急に鬱のダウン症状が襲ってきた。「頭痛」「吐き気」「無力感」・・・ 久しぶりに「鎮痛剤」と「安定剤」を呑むが症状は治まらなかった。 とうとう身体が震えてきてしまった。 最近体調が良かっただけにとても辛く感じた。なんとかお昼と夕方のリオのご飯をあげることはできたが、遊んであげることは辛くてできなかった。 私はベットに横になってリオをお腹の上にのせて遊んであげた。手でリオの頭をなでてやるとペロペロと指を舐めてくれる、ときどき軽く噛んだりしてくれた。お腹の上は居心地がいいのか短い足を後ろに伸ばして腹ばいになった。リオのお腹と私のお腹がピタッとくっ付いた、リオの体温がゆっくり私のお腹に伝わってきた。 心地よかった。 腹式の深呼吸を数回した。 リオはやがて眠りだした。 私も眠くなってきた・・・。 胃の痛み、吐き気が治まっていることに気が付いた。 「リオありがとう」と心のなかで呟いて私も知らないうちに眠りに落ちていた・・・。 リオも我が家に慣れてきたようだ。 部屋の何処に何があるのかだいたい分かってきたようである。 ブリーダーの紹介文には「とても優しいおとなしい子犬です」とあったが、とんでもない、リオはとても好奇心旺盛なワンパク子犬だった。 カーテンは引っ張って遊ぶし積んでいた雑誌も端を上手に噛んでバラバラにしてしまう。 でも私にとっては大人しい寝てばかりの子犬よりリオのようにワンパクでも刺激があったほうがいいと感じている。「かくれんぼ」も好きである。 一度机と書庫の10センチほどの隙間に潜り込んで寝ていたこともあった。 ある夜、少し私が目をはなしたすきにリオの姿が見えなくなってしまった。「リオ、リオ」と何度も呼びながら必死で20分ほど探してもみつからなかった。部屋のドアは閉まっていたので居るはずもないトイレ・風呂場そして下駄箱まで扉を開けて探した。 今の私は「記憶」が時々とんでしまう症状もあるので、本当にさっきまでここに居たのか不安になった。 典型的な「うつ病」のマイナス思考である。 私が呆然として椅子に座っていたら、リオがあくびをしながら部屋の隅のカーテンの裏からトコトコと出てきた。 思わず抱き上げて「呼んだら出てこいよリオ!!」と言ってはみたがリオに通じているとは思えなかった。 これから色んなことで驚かされるだろうと覚悟を決めた夜だった。
2011年11月12日
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部屋に戻ってからが大変だった。初めて家にきたときはゲージなどに閉じ込めず部屋を自由に歩きまわらせ、これからの自分の住処を認識させなさいと本に書いてあったので、私はリオを自由にさせた。リオにとっても初めての飛行機・車での移動でストレスを感じていたのだろう。結局ウンチ2回、オシッコ3回の後始末をする事とになってしまった。私も久しぶりの外出で少し疲れを感じていたが「うつ病」で辛いなどと言っている暇はなかった。こうしてリオと出会った記念すべき一日はあっという間に過ぎてしまい、結局私とリオは11時過ぎには深い眠りに入っていた。 翌日、私が先にトイレで目覚めた。静かにしていたつもりだったが部屋のドアを閉める音でリオも目が覚めたようだ。私がトイレから戻るとゲージから出して欲しそうに「キュンキュン」と鳴いてせがんだ。ゲージの中にトイレシートは置いていたのだが、ゲージから出したとたんにオシッコとウンチだ・・・。 トイレトレーニングを早く始めなければと考えてしまった。朝ごはんの子犬用ペットフードを13g秤で計って与えるとリオは美味しそうにいっきに平らげてくれた。見ていて気持ちがいい、住む環境が変わって食欲が落ちることもあると聞いていたので安心した。 リオが来て3日があっという間に過ぎていった。今の私は24時間リオと一緒に居てあげられる。一緒に遊んで、ペットフードをリオに与え、ウンチ、オシッコの後始末をして・・・。 一日があっという間に過ぎて行く。気が付けばこの3日間一度も頭痛を感じていない。鎮痛剤を一回も呑まないで過ごせたのは何年ぶりだろうか・・・。 子犬を飼って良かったと思った。 リオが家に来て4日目の昼のウンチから便の状態がゆるくなってきた。夕方には下痢とはいえないが軟便になり、夜には下痢に近い状態になった。 心配でネットで色々調べてみた。犬に関するネット情報は色々見ることができる。便利な世の中になったものだ、しかしネット情報は玉石混淆で信憑性の低いサイトもあるので吟味しなければならない。たどりついた結論はストレスで消化不良をおこしている場合と、寄生虫による下痢の2点に絞った。 餌の量を少しへらしドライフードを少しのぬるま湯で戻しあげることにした。それでも下痢が続くようなら近くの動物病院に便を持って行き検便をしてもらおうと決めた。 餌を一回13gから10gにし、少しウェットにして与えると段々と便の状態が良くなってきた。 夜のウンチは殆ど普通の状態まで戻った。やはり消化不良が原因だったようだ。私はほっとしてその日は知らない間に寝てしまっていた。
2011年11月11日
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体調が良くなったとはいえまだ電車に乗ってのペットショップめぐりはまだ無理だった。それにペットショップで犬を買うとするとても高くて今の私には手が出ない。 考えた末ネットでブリーダーを探し直接譲ってもらおうと決めた。 数日間色んなブリーダーのサイトの子犬達を見た。ある松山のブリーダーのサイトで3匹の子犬達を見つけた。 マルチーズとプードルのミックス犬だった。 2匹のとても可愛いメスの子犬は既に売買交渉中だった。 残りの1匹は男の子だった。 とてもオドケタ顔をしていた。ライオンの子供のようにも見えた、そのマルプーの子犬の写真をプリントアウトし壁に貼り、一日考えてみた。この子の名前のイメージが湧いてきた。 リオネル(LIONEL)・・・・ 愛称リオ・・・。 ライオンの子供に似ている事と、私と息子が大好きなサッカー選手「リオネル・メッシ」のファーストネームである。翌日私は松山のブリーダーに電話をして購入したいと告げ、2,3度のメール交換の後購入が決定した。 松山空港から伊丹空港までの空輸の航空便名も決まったとメールで連絡をもらった。 私はリオが来るまでに色々と準備をしなければならない事に気が付いた。 餌、ハーネス、水用ボトルはネットで購入。 ゲージは高価だったので近くの100円ショップで台所用金網を6枚購入し針金で繋いで思ったより上手く作れた。 あとはリオの到着を待つだけとなった。 私と息子は阪神高速で大阪伊丹空港に向かっていた。一匹の子犬を引き取るために。 空港に着いた私たちは子犬を何処で受け取るのか確認するために総合案内所に行った。 乗客の手荷物でない貨物は別の専用ビルが空港ターミナルビルの近くにあるとのことで、私たちは車で3分ほどの場所に移動した。専用駐車場に入る前、警備員から身分証明書の提示を求められ、簡単な入館書類に記入したあと私たちは航空会社の受け渡し事務所の前に車を停め子犬の到着を待つことにした。 30分ほど待っていると「ワンちゃん着きましたよ・・・」と小さなプラスティック製の籠が目の前に差し出された。 中で何かが動いている。 受け取り書類にサインして私は急いで車の後部座席に乗り込んだ。 そして籠の2つある取り出し口の一つを開けた。とても小さな子犬がひょこっと頭を出した。これが私とリオの初めての出会いだった。プラスティック製の籠から出てきたリオは、一度大きく背伸びをした後私の膝に乗り、胸をよじ登り、私の顔をペロペロと舐めてくれた。写真で見るより可愛かった。私はリオを抱きながら「はじめましてリオ」と声をかけた。息子も運転をしながら「リオ、親父が死ぬまでよろしくたのむよ」とリオに話しかけた。リオは分かっているよ・・・って感じで私の顔を舐め続けていた。
2011年11月08日
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10月末のある日、 その子犬は松山からやって来た。大阪伊丹空港で私とリオは初めての対面をすることになった・・・。 私はうつ病を発病し2年半になる。仕事もいまは休職中で一人で1DKのアパートに暮らしている。一時期は寝たきりまで症状は悪化したが精神科クリニックの認知行動療法などが私に効果があり、今は回復期に入ったと実感できるまでになった。毎朝リハビリのため公園の散歩を欠かさず行った。その公園には毎朝ハトが集まっていたので知らない間に「ハトの餌やり」が日課となっていた。毎日続けているとハトたちも私のことを認識しだして私が公園に行くと集まるようになっていた。その内の数羽は警戒心もなく私の手から直接、パンや押し麦を食べてくれた。朝、訳の分からない怖い夢で魘されながら起きてしまうことがよくある。目覚めた後とても鬱状態になっている。そんな日にも「ハトの餌やり」をすると症状が緩和される事にある時期から気付きだした。一種の「アニマルセラピー効果」だと思った。 息子も症状の酷い時期から犬を飼う事を勧めてくれていた。実はクリニックの主治医から私の心理テストやカウンセリングの結果から「希死念慮」が非常に強いと診断されていた。息子は私の「自殺」を一番恐れていた。雨の日には散歩もできず、一日中部屋にとじこっもてしまい体調が悪くなることは息子には話しをしていた。日常の炊事、洗濯、掃除もなんとか出来るまで回復していたので息子と相談のうえ犬を飼うことを決めたのだった。
2011年11月07日
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最近、朝はとても忙しい理由は「子犬」を飼い始めたからだ・・・・家に来てちょうど1週間たった。 マルチーズとプードルのミックス犬「マルプー」である。生後、まだ2ヶ月で体重は800グラムしかない。名前は「リオ」と名付けた。リオの話しはまた明日のブログに詳しく書くこととして、今の私の朝の日課は6時前にトイレで目覚める、私のトイレの音でリオも目が覚める。朝ごはんの準備をする。 リオは3日前にウンチが少し緩くなったのでペットフード10グラムをお湯で少し柔らかくしてから与えている。毎回、食欲は旺盛だ、2分もたたずにペロリとたいらげる。食後は運動時間だ「ボール」「ひも」「私のスリッパ」で20分ほど疲れるまで遊んでやる。ゲージに戻してやると水をごくごくのんで、そわそわしだす。オシッコかウンチだ・・・。 今日は昨日の夜中にウンチをしていたのでオシッコだけだった。 やがて疲れたのかまた眠りだす。子犬は1日に18時間ぐらいの睡眠が必要らしい。そっと表に出て「朝のストレッチ」と「ハトの餌やり」に前の公園に向かう。今朝はめずらしくムラサキが待っていた。ブラックネイルとカポネも居た。クレセントは来なかった。ストレッチは前屈と内腿・膝裏の筋を中心に20分ほどしている。やはり2年間ほぼ寝たきりだったので筋肉が落ち、筋や腱が硬くなっていた。約2ヶ月朝のストレッチ体操を続けているので最近やっと身体がほぐれてきた感じがする。公園の小さなグランドを見ると少年が一人でサッカー練習をしていた。リフティングと置いたボールでフェンスを的にシュート練習をしていた。なぜか無性にボールを蹴りたくなった。私は中学時代サッカー部だった。(高校からはアイスホッケーに変更したが)グランドに向かい少年に「サッカー部か?」と声をかけた少年は「はい」と答えた。 何年生かと訊くと中学一年と答えた。「センターリングしてあげるからシュート練習するか」「はいお願いします」やはりスポーツのクラブ活動をしていると礼儀正しい。それから約20分、ゴール前をイメージしてパスを出してあげた。しかし、まだまだ病み上がりだ、心臓がバクバクしてきた。私は思わず「ラスト3本!」と彼に告げた。ラスト1本が終わると私は汗をかいていた。スポーツで汗をかくのはたぶん3年ぶりだった。しばらくの間「股関節」が痛かった。リハビリも少しずつだと痛感した今朝の出来事だった。
2011年11月06日
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最近よく意味不明な怖い夢をみて目覚める。しかし今日は珍しく父と母の夢を見た。 私の母は9年前に肝炎が悪化して亡くなった。父は母の後を追うように6年前に脳梗塞で亡くなっていた。 夢の中の父と母は若かった、たぶん40歳にもなっていない感じがした。だとすれば私は5歳か6歳の頃のはずだ・・・。 二人は川岸を歩いていた、夕焼が空を橙色に染めていた。風が心地よかった。夢の中で私は二人の後を追いかけていた。いつかどこかで見た風景だ、川辺に続くなだらかに下る細い道、道端には私の背丈ほどのススキが茂っていた。私が小さい頃住んでいた町だとすれば大和川の川辺なのかもしれない。夢の中の父と母は私が転ばないかと心配そうに見てくれていた。一生懸命追いかけても父と母に追いつくことは出来なかった。疲れてどうしようかと考えているところで目が覚めた。 父は仕事で厭なことがあると家ではとても不機嫌な人だった。母はそんな時は、それを見越して私たち兄弟を父から遠ざけてくれていた。私にはとても優しく気転の利く母だった。 何故こんな夢を見たのかはなんとなく理解できた。 私は2年前にうつ病を発病し、ほぼ寝たきりになってからは一度もお墓参りをしていない。 このブログで既述(10月12日)している様に、私は10月初旬に「自殺未遂」に近い経験をしてしまった。 天国の父と母は私のことが心配で夢に出て来てくれたのだろう。まだ「こちら」に来るのは早いよと・・・。 夢のなかで見た私たちがいた場所、いつかどこかで実際に3人で訪れた場所、それは私の記憶のとても深い部分に埋もれていたものなのか、それとも私の夢の中の空想の場所なのか今は判断できない。またそれを思い出したとしても大した意味はないだろう。 年間の自殺者が3万人を超える異常な国「日本」。今この瞬間にも1時間に3.4人が日本のどこかで自らの意思で「自らの命」を絶っている。そしてその中には多くの「うつ病」を含めた精神的疾患者が含まれていると厚生労働省は警告している。 たぶんその中の何人かは、誰かの適切な助言や優しい言葉で「自殺」することを思い止まったのかもしれない・・・。今私に対し忠告してくれる人、心配してくれる人、それが現実の世界であっても、夢の中であったとしても居てくれると思えるだけで幸運なんだと感じているのだった。
2011年11月03日
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今朝はとても寒かった、昨日東京で「木枯らし1号」が吹いたらしい。いつもの餌やりの服装は黒か紺色のパジャマに上着は黒いジャンバーを羽織っている。 でも今日はデニムをはき上着は少し厚手のブルーのジャンバーにした。公園に行くとムラサキたちが待っていてくれたが何かいつもと様子が違う。私がベンチまで歩いていくと、いつもならムラサキを先頭に鳩の集団が後をついて来るのに今日は遠くから私の様子を伺っている。最初は分からなかったがいつもと私の服装が違うことに気が付いた。私の愛する鳩たちは、私本人よりも背の高さ、髪の色、服装の色・形で複合的に人を識別しているのだろう。餌を撒いてやると腹がへっているのかすぐみんな集まって餌を突付きだした。ムラサキとブラックネイルは最後の方には「この人たぶん昨日まで餌をくれてた人だ」と思い出したようで私の手から美味しそうにパンを突付いていた。しかしほかの鳩たちにはとって私は新しい朝ごはんをくれる叔父さんになったようだ・・・。しばらくはこの格好で朝の餌やりを続けてみよう。ところで、鳩が何故「平和の象徴」になったのか調べてみた。色々諸説はあるが一番信憑性があるのは旧約聖書の「ノアの箱舟」のエピソードである。創世記第8章でノアが放った鳩がオリーブの若葉をくわえて戻ってきた。これをみてノアは洪水が終わったことを知ることができた、という話である。この記述がキリスト教文化圏において「鳩=平和」の由来になったと考えられる。 日本において「鳩=平和(ピース)」のイメージが定着したのはやはり「タバコのピース」であろう。オリーブの枝を咥えた鳩のデザインは当時の専売公社がアメリカの著名な工業デザイナーであるレイモンド・ローウィによって1952年に現在とほぼ同じデザインに変更された。専売公社はローウィに破格のデザイン料を支払ったらしい。しかしこのデザインが人気となりピースの売上は爆発的に伸びた。私も若い頃「缶ピース」(両切タバコでとても旨かったがキツイ煙草だった)を部屋に置くのがかっこいいと思っていたのを思い出した。鳩について調べていくと、だんだんと博学になっていく私でした・・・。
2011年10月28日
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今朝も5時半に目覚めた。昨日から体調が悪い、ダウンの症状がでている。もう一度寝なおそうかと思ったが、鳩たちのことが気になり公園に向かった。一羽もいなかったので少しがっかりしてベンチに座っていたら、ムラサキ、クレセント、ブラックネイルたち10羽ほどがやって来た。餌やりをしていると頭痛が少し楽になってきた。これがアニマルセラピー効果なのだろうか。ムラサキとブラックネイルはパンを目の前に差し出してやると全く怖がらずに2羽で突付いて食べている。一箇所で餌をやり続けていると目立つので場所を変える。私が移動するとヒョコヒョコとムラサキを先頭にみんな歩いてついて来る。来て良かったと思った・・・。もともと鳩は、正式にはカワラバトと呼ばれている。地中海沿岸や中近東にいて、川原の岩場を営巣場とし穀類や種子を主食としていた。人間との付き合いは古く、人類が家、蔵、神殿などを創ったとされる8000年以上前にはこれらの建造物に営巣していたと思われる。旧約聖書が書かれた時代には、既にカワラバトの帰巣本能が分かっていたようである。この性質を利用してギリシャ時代には戦地からの戦況報告に使っていたようである。鳩はその後ヨーロッパで多くの品種が作りだされた。 ある時代には鳩は重要な食料であった。肉は少ないが飼育に手間がかからず丈夫な点と、1回の繁殖で2羽のヒナが育つため塔のような鳩の家を作って、必要な時に捕まえて料理していたようである。フランスや中東諸国では今でも重要な食材になっている。 伝書鳩の由来は「通信手段」として新聞社が屋上に鳩舎を作り、記者が地方へ行くときに籠にいれて鳩を持って行った。そして記事やフィルムの輸送に活用した。 第二次世界大戦後は趣味としての鳩の飼育が盛んになった。レース鳩の他に鑑賞鳩の愛好家も増え変わった羽の色や形を楽しむようになった。 日本に鳩がいつごろ持ち込まれたのかははっきりした説はないが「続日本記」(794年)には鳩と人間の係わりらしき記述がみられる。鳩と人間の関係はとても歴史あるものだと知った。ムラサキたちは長い歴史を経て今私との出会いがあったのだった。
2011年10月27日
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今朝起きると6時50分だった。昨晩は夜中に久しぶりに知人から電話があり長話をしてしまい眠ったのは午前3時をすぎていたと思う。急いで前の公園に行くと30羽ほど私を待っていてくれた。ムラサキもいるのがすぐ分かった。最近私に慣れてきたクレセントもいた。ここ数日、朝の餌やりに新顔が現れた。私にまったく警戒せず近寄ってきて餌をねだる。色はグレーチェッカーで良く観察すると足の爪が白いのに1本だけ黒い。一見識別しにくいが、近くだとすぐ分かるようになった、何より人懐っこく無警戒なので可愛くなってきた。名前を「ブラックネイル」と名付けた。今朝もブラックネイルは来ていた。朝の通勤時間に入りかけていたので私は急いでムラサキ、クレセント、ブラックネイル中心に餌やりをした。気が付けばカポネが来ていない、私が寝坊したので他の餌場に行ったのだろうか・・・。 野生の鳥に関する法律を少し調べてみた。「動物の愛護及びに関する法律」「鳥獣保護法」「鳥獣保護及び狩猟に関する法律」というのが目に留まった。「動物の愛護及びに関する法律」には*愛護動物をみだりに殺し、または傷つけた者は一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。*愛護動物を遺棄した者は三十万円以下の罰金に処する。*愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等の虐待を行った者は三十万円以下の罰金に処する。などと記されていた。「動物の愛護及びに関する法律」は人の所有物になった動物が対象のようだ。「鳥獣保護法」には、鳥獣の保護規制について*鳥獣の捕獲は原則として禁止。*捕獲が認められるのは「1.狩獲による捕獲」又は「2.許可による捕獲」のいずれかの場合とする。「1.狩獲による捕獲」にはドバトは非猟獲対象で、猟獲目的の捕獲は禁止する。「2.許可による捕獲」には捕獲の目的には愛玩飼養・保護飼養・有害鳥獣駆除は原則として狩猟免許を受けた者なみとすると記してあった。「鳥獣保護及び狩猟に関する法律」には野生鳥獣を無許可で個人が飼育することを禁じ、卵やヒナのいる巣を撤去したり、巣のある樹木を伐採することは自分の所有する土地であっても違法となる。 つまり朝の公園の鳩の餌やりは違法行為ではなく地域コミュニティー内でのモラルの問題ということだろうか・・・。
2011年10月25日
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7月初旬を折返し地点に私のうつ病の様々な症状はなくなるか、少なくなってきている。主治医の指導で「自殺」に対する注意と共に「怒り」の感情が強くなる場合があると教えてくれた。実際最近の私は非常に怒りっぽい。今までの鬱状態の酷い時期は何かに「怒り」を覚えるエネルギーもなかっただけなのかと思っていたが、主治医に指導され妙に納得してしまった。最近買い物や洗濯はなんとか自分でできるようになったが「掃除」だけはまだやれない。あの掃除機の音が耐えられないのだ。しょうがないので私のうつ病のことを全部知っている知人に頼んで掃除してもらっている。掃除の間は公園で時間をつぶしている。掃除だけで帰ってもらうのは失礼と思いいつも夕食を一緒に食べている。先日、食事中ささいなことで私が怒り出し口げんかをしてしまった。怒っている最中も何故自分がこんなに起こっているんだろうと不思議になったくらいだ。その知人には主治医の情報である「うつの回復期」の症状であることを説明し謝罪してなんとか今でも掃除に来てもらっている。 クリニックもまだ一人で行くことは出来ないので息子に車で送り迎えしてもらっている。昔から息子にはよく説教をしていたのであまり気づかなかったのだが・・・よく考えると最近息子に始終怒っている。やること言うことに全ていらいらしてしまうのだ・・・。一応息子にも回復期の症状であることは説明したのだが、息子も怒っているのか車の行き帰り二人とも全く会話をしないこともある。今度息子にもちゃんと謝ろうと思っている。ダメな親父だと情けない気持ちになってしまう。 もう一つ最近現れた症状は「持病」の再発だ。再発というよりもうつ病の最悪期間は持病の症状も認識できないほど脳機能が低下していたのだろう。痛みを感じるのは身体の部位の異常信号を脳が察知して身体に無理をさせない仕組みだ。私の場合、脳機能が正常になってくると持病の「逆流性食道炎」の痛みと「腰痛」の痛みが酷くなってきた。この症状も主治医に相談したが長くて6ヶ月だと言われた。 あの「うつ」の辛さに比べたらたぶん我慢できると思う。これからはあまり無理をせず6ヶ月過ごそうと考えている。
2011年10月24日
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10時ぐらいにまだムラサキたち居るかなと思い公園に行った。ムラサキたちは居ませんでしたが6羽ほどの鳩が水浴びをしていた。前の公園には小さな池があり鯉や亀もいる。鳩の水浴びをじっと見ていた。ザブッと水に漬かりその後羽を逆立てブルブル震えて水を弾き飛ばす、それを何度も何度も繰り返す。とても気持ちよさそうだ。「空飛ぶネズミ」とはとても思えない。確かに調べて見ると鳩はアレルギー物質や寄生虫を媒介し、免疫機能の低下している人や抵抗力の弱い老人、小さな子供は「クリプトコッカス症」「サルモレラ菌」「ニューカッスル病」「チキソプラズマ症」がうつる可能性があると書かれている。鳩に限らずペットの犬や猫も人畜共通感染症[ズーノーシス]といいダニや色んな病原菌を持っているわけで鳩だけ特別に汚いと過剰に嫌がることは必要ないと思うのだが・・・。しかし鳩の糞害には私も経験がる・・・。以前住んでいたマンションの管理組合の理事長をしていたとき住人から鳩の糞の苦情がよせられた。写真で見たのだが1階に住んでいるその人の小さな庭には鳩の糞が山盛りに・・・。その人も最初は掃除して毎日取り除いていたのだが毎日量がすごいのでもう諦めたと言っていた。管理組合として早速防鳩ネットの見積もりを業者から取りよせ工事を実施した。都会で暮らす鳩のために巣作りがしやすい環境のハト公園なんか創れないのだろうか・・・。
2011年10月23日
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ミスチルの「GIFT」を聴いていたら突然涙が止まらなくなってしまった。2008年の北京オリンピックのイメージソングに採用された桜井和寿の名曲だ。この歌詞のところで涙が出た。地平線の先に辿り着いても 新しい地平線がひろがるだけ「もうやめにしようか?」自分の胸に聞くと 「まだ歩き続けたい」と返事が聞こえたよ知らぬ間に増えていった荷物も まだなんとか背負っていけるから君の分まで持つよ だからそばにいてよ それだけせ心は軽くなる不思議になりもう一度繰り返し聞いてみた、やはり同じところで胸が痺れるように熱くなり涙が止まらない、鼻水もダラダラと出てきた・・・。自分自身不思議だったのでじっくり歌詞を読んでみた・・・。こじ付けかもしれないが、自分なりの理由を考えてみた。『地平線の先に辿り着いても 新しい地平線がひろがるだけ』社長の頃は毎期決算をして良いも悪いもメインバンクなどに「決算書」を提出していた。3月決算だったので5月の下旬やっと決算書が出来上がり提出する頃は既に次の営業年度が始まっている。この繰り返しがいつまで続くのかと毎年5月は憂鬱になった。『「もうやめにしようか?」自分の胸に聞くと 「まだ歩き続けたい」と返事が聞こえたよ』うつ病を発病しかけた頃、点滴を打ちながらも頑張ったつもりだったが、最終的に病魔に負けてしまった。潜在意識の中には「まだもう少し頑張れたのに」という思いがあると感じてしまう。『知らぬ間に増えていった荷物も』 全くこの歌詞の通り「荷物」つまり「守るべき者」「失いたくない物」「面倒な人間関係」etc...は知らぬ間に増えていった。『まだなんとか背負っていけるから』辛かったがもう少し我慢すればなんとかなったんじゃないかと思っていた・・・。『君の分まで持つよ だからそばにいてよ それだけせ心は軽くなる』本当に理解してくれる誰かが側にいて欲しかった。 そうすれば少しは楽になってたと思ってしまう・・・。 今人生で一番感受性が強いのではないかと思ってしまう。歳をとると涙もろくなるというが、感覚的に加齢による感受性の変化と言うよりはむしろ病的な感じがしてしまう。調べてみるとうつ病の回復期に「怒」と同じく制御できない「哀」の感情があるらしい。うつ病が辛くて泣いていたことを思い出せば、大好きだった歌で泣けるということはそんなに厭な事ではないと感じてしまった。
2011年10月22日
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うつ状態の最悪期を抜け出せたころ「私を苦しめた」この病気のことを徹底的に調べようと思い行動にうつした。ブログのおかげでパソコンの使い方は復活していたし、本も長時間はむりだが、休み休みなら読めるようになっていた。グーグルで思いつく検索ワードを入力し色んなサイトを読み漁った。本はやはりネットのアマゾンで検索し購入して読んだ。ネット情報も書籍も大きく分類すると「精神科医・心療内科医・臨床心理士などの医療関係者」「うつ病患者本人」「うつ病患者の家族・友人」の3種類の視点から書かれていた。医療関係者のサイトは読んでいるうちに最後は心療内科・精神科の宣伝にたどり着くのが多く苦笑してしまった。総括すると彼らの意見は「抗欝剤を有効に服用し気長に治療を続けなさい」というのが多かった。小数であるが「認知行動療法」を強く勧める書籍やサイトもあった。その中でYouTubeで観た杏林大学の田島治教授の抗欝剤を全く使わない治療方法は印象に残った。私が「断薬」を決意したのも田島教授の影響が大きかったと思う。 うつ病患者本人の情報はサイトの場合「うつ病日記」のような日々の患者の状態を綴ったものが多く、共感を覚えたがやはり脳機能の低下なのか単純な文章が多く継続して読んだブログには出会えなかった。驚いたことはほとんど執筆している患者が「抗欝剤」を服用し続け、あの薬は効いた、この薬はダメだったみたいな薬に関する意見を述べていた。「うつ病を克服しました」と題しているブログで「まだ薬は飲み続けてますが・・・」というような記述を読むと「それって治ってないよ」と思ってしまった。私の探していた「減薬・断薬日記」や「認知行動療法体験記」のようなものにはめったに出会えなかった。うつ病患者の家族・友人の情報はベストセラーになった「ツレがうつになりまして。」の著者細川貂々さんのような切り口のうつ病患者の妻や夫の悪戦苦闘記のようなものが多数だった。 認知行動療法に関することを色々調べてみたら耳慣れない言葉に出くわした。 「スキーマ」という言葉である。「スキーマ」とは元は「記号論」で使われている専門用語で「因果的な関連を持つ一連の出来事」という意味だ。それが精神疾患治療の用語として派生し認知行動治療の分野では「絶対的信条」とか「思考を規定する規範」のような意味で使われていた。つまり患者に対して起こった出来事に対し患者の心が無意識にどのように反応するかを決定する思考の仕組みのような意味である。また「スキーマ」はその人の生まれ育った環境や、成長する過程の様々な体験により形成されるそうだ。 私は考えてしまった。私をうつ病へと導いた、「私のスキーマ」とはなんだったのだろうかと・・・。私の祖父は創業社長だった、父もその後を継ぎ社長になった。その流れで兄も三代目社長になった。私の叔父もある会社の社長をしていた。つまり私のまわりは私が幼いころから社長という経営者に囲まれた環境だった。29歳で脱サラし会社を創ったときもそれ程の決意もせず、やっと経営者になれたという安堵の気持ちが強かった記憶がある。仕事には没頭したと思っている。また広告企画の仕事も自分の天職だと思っていた。家庭を犠牲にしても社長としてある程度の報酬を得て家族を養っていれば許されると考えていた。つまり私の「スキーマ」は・・・・「仕事で成功していれば全てのことは免罪される」というものだったと思いう。今考えると私の「スキーマ」は非常に脆いものだった。会社経営に行き詰まり「倒産」そして「自己破産」という出来事は私の存在意義・アイデンティティーをズタズタに切り裂いた。「絶対的信条」を失った私は降りかかるストレスに耐えることは不可能だった。 一つの言葉から私がうつ病の闇に落ちてしまった理由をやっと見つけることが出来たのだった。
2011年10月21日
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今朝も5時半に起きて前の公園に餌やりに行った。カポネは既に待っていてくれた、ポッポはやはり居なかった(涙)。今は体操したりストレッチをしながらの餌やりです。しばらくするとムラサキもやって来た。鳩山はどうやら今朝は他の餌場のようです。ムラサキとカポネ中心に餌をやる。今朝も「煎り米」「押し麦」「パン」のフルコースだ。集まり過ぎると知らん顔をしてストレッチに集中したりする・・・、すると馴染みのない鳩は1羽、2羽と去って行いく。ムラサキとカポネは待っているとやがて餌をくれるのを学習しているので、私の近くで羽を休めている。残っているのが8羽ほどになったらまた餌をあげる。今日は面白い光景を見た。ムラサキがある程度食べたあとBC鳩に求愛しだした。鳩の求愛行動は一見喧嘩しているように見える。「グルル、グルル」と羽を膨らませぐるぐる廻るのは同じだが、泣き声微妙に違う感じがする。また相手はひとまわり身体の小さいメス鳩なので喧嘩との違いはすぐ解りる。ムラサキの求愛にメス鳩は知らない顔で餌をつついている。やがて近くでぐるぐる廻るのが厭なのかトコトコと歩いて逃げようとした。小さなメス鳩とムラサキのオッカケッコがしばらく続いたが、やがてムラサキも実らぬ恋だと気づき、また私の所へ餌を食べに戻ってきた。 鳩は一年中発情しているようだ。調べてみると普通の野鳥はヒナ鳥を育てるための餌が豊富な春と秋の2回だそうだ。しかし鳩は餌が不足してヒナに充分な餌を与えられない場合「ピジョンミルク」というものを分泌しヒナに与えることができるそうである。鳥の翼のつけ根と首の間の辺りには、翼にかくれるように「そのう」という袋がある。「そのう」は食道の一部が発達したもので、鳥が餌を食べると、餌は舌の下部にある唾液腺から出る唾液と共に食道を通り、まずはこの「そのう」に溜まる。「そのう」にはいつもバクテリアがたくさんいて、消化を助ける働きをする。抱卵期の中頃あたりから「そのう」の一部の組織が厚くなりはじめ、そこに血管が発達してくる。ヒナが孵化する時点までには、赤みのある襞が「そのう」の中に見えるようになってくる。この部位からミルクを含んだ細胞が「そのう」の中に剥がれ落ち、それが吐き戻されてヒナに与えられる。これが「ピジョンミルク」と呼ばれるものだそうだ。鳩は植物を主食としているが、タンパク質がヒナの成長に必要なため多くの種は、繁殖期にある程度の量の小さなカタツムリやそのほかの無脊椎動物を食べている。その結果鳩は年中発情しているのだそうだ。 ムラサキの恋が実り、ムラサキの子供を見てみたいと思った。いったいどんな羽の色・模様になるのだろうか・・・。
2011年10月20日
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最近ポッポがやって来ません、朝の餌場を他に見つけたのでしょうか、でもポッポには首の後ろ側がくちばしで突付かれ羽が抜けています。少し傷跡も見えました。鳩の喧嘩は見ていて興味深いです。まずお互い羽を逆立ててその場でぐるぐる廻り、「グルルグルル」と声をだします。いざ決闘となると少し羽を広げてくちばしで突付き合います、背後にまわり背中に乗りくちばしで首の後ろを激しく突付き相手が逃げ出したらその鳩の勝ちです。たぶんポッポは何度も喧嘩で負け続けたのでしょう。毎朝他の餌場で朝ごはんを食べているのならいいんですが、死んでいるのではないかと心配してしまいます。都会といえども生き物が生存するには自然の摂理には逆らえません。猛禽類のトビもいるし、獰猛なカラスもたくさん見かけます。生きているのを祈るばかりです。10日以上も餌をやっていると鳩といえ情が移ってきます。ポッポが来なくなったので最近は鳩山、カポネ、ムラサキ中心に餌をあたえています。特にムラサキが私のお気に入りになってしまいました。鳩山(BC)、カポネ(B)はよく似た鳩がいてときどき勘違いで他の鳩に餌やりしているときがあります。ムラサキは間違えようの無いほど羽の色に個性があります。 餌やりを注意された私は一度にたくさん餌をばらまき何十羽も羽とを集めるようなことはもうしていません。あるとき60羽以上集まってきて少し怖かったこともありました。それにとても人目に付くし・・・。鳩山、カポネ、ムラサキはもう私を認識していてとても近くまでやって来ます。近づいたときに「押し麦」や「煎り米」を一握りだけ目の前に置いてやる、すぐ他の鳩も集まって来ますが、そのときにはほとんどの餌はすでに鳩山たちの腹の中です。これを繰り返しているとやがて他の鳩たちは一羽二羽と去っていきます。最後には鳩山やムラサキを中心とした8羽ほどのグループだけが残ります。これだとそれほど人目には付きません。ムラサキは手のひらに押し麦をのせて差し出すと全く逃げもせず餌を独占できるので腹いっぱい毎朝食べています。ここまでになるともうペット状態です。愛情さえ感じてしまっています。ある意味生死に関して責任はもてるはずもなく、散歩や糞の始末を私がすることもないのでお互いに良い関係なのかもしれません。 鳩山、カポネ、ムラサキ、ポッポはお互いに中は良い訳ではありません。ときどき餌の奪い合いで喧嘩もします。気性の荒いカポネが一番強いと思っていましたが、ある日鳩山とカポネが真剣勝負をしました。お互い「グルル、グルル」と羽を膨らませぐるぐる廻り互いに威嚇しあう、そして向かい合って突付き合いの勝負が始まりました。お互い譲らず勝負は長期戦に・・・。だんだん鳩山が優勢に・・・ そして鳩山がカポネの背後を取り背中にマウントして首に2-3度くちばしで激しく突付きました。これで勝負ありです。、カポネは痛くて逃げ出してしまいました。いまの私の愛する鳩たちの上下関係は「鳩山>カポネ>ムラサキ>ポッポ」というところです。 うつ病を忘れてしまう朝の日課になっています。
2011年10月19日
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鳩の餌やりはまだ続けています。朝、6時前に自然に目覚めます・・・。数日前、7時前に起きて少し遅いかなと思いましたが餌やりに前の公園に行きました。数羽しか居ませんでしたが「押し麦」「煎り米」「パン」をやっているうちにいつもどうり40羽ほど集まってきました。7時過ぎだと早い出勤の人と遭遇する時間です。いやな予感どうり煩さそうな「おっさん」から鳩が餌場と思い毎朝集まるから止めてくれと言われました。公園は子供達の遊ぶ場所でもあります。鳩は「空と飛ぶネズミ」と言われるように「ダニ」や「糞」は有害なのは知っています。おっさんの方が正しいので「すんません」とあやまって中止しました。やはり餌やりは6時までにしようと思いました。 餌の「押し麦」はスーパーに売っています、昨今の健康指向で米に混ぜて麦飯にするようです。「煎り米」は古くなった米をフライパンで少し小麦色になるまで煎ってからやっています。「パン」も食べ残しのパンを冷凍して保存しています。生米もやってみましたが煎り米のほうが美味しそうに食べています。 うつ病の症状も日に日に治りかけているのでおっさんに注意されたぐらいで引き下がる私ではありません。しかし闇雲に餌をまき鳩を60羽も集めるのは控えようと考えました。最近は集まって来る鳩の全てではありませんが、一部の鳩の識別ができるようになってきました。普通私達が公園などで目にする鳩は伝書鳩などが逃げだして野生のドバトなどと交配を続くた結果多様な羽の色に別れていったらしいです。野生のドバトはめったに都会では出会うことはありません。羽の種類はB(ブルー)BC(ブルーチェッカー)W(ホワイト)R(レッド)RC(レッドチェッカー)BL(ブラック)などに分類されます。隔世遺伝で祖父の羽色を引き継ぐ場合もあるようです。名前もいつのまにか自分の中で決めていました。まず最初になついたのが少し年寄りの小さめサイズのBC鳩、単純ですが「ポッポ」と名付けました、少し大きめのサイズでくちばしの根元の鼻のコブが大きなBC鳩を「鳩山」と名付けました。次に気象が荒く餌場のボスを主張して他の鳩を追い払おうとする大きめサイズのB鳩を「カポネ」と名付けました、最後に他の鳩と全く羽の色が違う鳩が朝やってくるようになりました。全体的に薄紫で尾羽が白く胸の部分が青いのです、相当複雑な交配の結果なのでしょうか一番綺麗な鳩です、名前を「ムラサキ」と名付けました。毎日続けているとどんな事でも見えてくる事や新しい発見があるんだと思いました。 明日も5時半に起きて餌やりをしよう・・・・・。
2011年10月17日
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警察庁発表のデータによると平成21年の自殺者数は32845人。国内の死因別の順位は7位で交通事故での死亡者数を上回っています。 先進主要国のなかでは日本が最も高い数値を示しています。厚生労働省では「うつ病」を極めて重要な健康問題としてとらえ、うつ病などの気分障害が自殺の要因として特に重要であるとして、うつ病対策を自殺予防対策の中核に据えるようになりました。うつ病の患者総数は平成20年には平成8年対比で2.4倍の104万人と増加しています。これは医療機関受信者データであるため実際にはこれより多くの患者がいることが推測されます。 全国自死遺族連絡会の調査によると自殺者のうち69%が精神科を受診・治療中で、自宅マンションからの飛び降り自殺は100%何らかの精神疾患の治療中でした。また20代から50代の女性の自殺者も全員受が治療中との調査結果が報告されています。このデータが示すことは日本における自殺の原因の多くはうつ病などの精神疾患が関係していることを浮き彫りにしています。直接的な原因は働きすぎによる過労やストレス、企業のリストラによる失業、不景気のための倒産、職場や学校でのいじめと様々でしょう。しかし、日本人の働きすぎの問題や不景気による失業・倒産、いじめの問題は昭和の頃から経験してきたはずです。「失われた10年」今は「失われた20年」とも言われます。昭和の頃は今年より来年の方が収入が上がり暮らしぶりが良くなっていると思うことができました。不景気が来ても、やがて好景気が訪れると思えました。 しかしこの20年近くの間、日本人はそんな思いを懐く虚しさを感じてしまったのでしょう。希望が持てなければそこには絶望が待ち受けています。絶望は人の生きる希望を奪います。私達はこの負のループから抜け出すことが出来るのでしょうか・・・。
2011年10月15日
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自殺率の最新データ(2010年)を調べてみた。自殺率は国際的に人口10万人当たりの死亡者数で比較されることになっている。日本は10万人当たりの自殺者が24人で第6位ここ数年年間の自殺者が3万人台で推移している異常な国である。先進7カ国のなかではトップで異常に高い数字である。1位はベラルーシの35.1人でリトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリーと続く。上位のリトアニアやロシアなどは旧ソ連からの体制移行の国々である。体制移行に伴うストレスの影響からか、男性の自殺は女性の約6倍と高く、原因はアルコール依存が筆頭にあげられている。以前NHKのドキュメンタリーで旧ソ連の共産党幹部が体制崩壊により堕ちていく有様をみて何か人生の虚しさを感じたのを思い出した。日本がこれらの体制移行の諸国の次に位置しているのはやはり異常だと目にしたレポートも述べていた。ただ他殺率の高いラテンアメリカの諸国を例に出し、自殺率が低いから「幸せな国」と単純には言えないと分析している。日本は他殺率は世界最低水準であるとも報告していた。 ただ私は近年の猟奇的な殺人事件の「池田小学校事件」「秋葉原大量殺人事件」などが気に係りいつまで「他殺率の低い安全な国」でいられるのか不安を覚えた。 日本の自殺率の高さについてWHO精神保健部は「直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって自分の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている」と論評している。また、英国のエコノミスト誌は2008年5月に「日本人の自殺は誇らしいか」という記事で「日本社会は失敗や破産の恥をさらすことから立ち直るのを許容しない。自殺は逃げない行為として承認されることさえある。仏教や神道といった日本の中心宗教は明確に自殺を禁じてはいないある意味で中立的である。重要なのは社会全体の態度である」と結論づけている。 私自身「死にたかった」ころの精神状態を振り返ってみて、「自分の名誉を守り責任を取る「破産の恥はさらし続けない」という気持ちは確かに感じていた。ただ「うつ病」の場合は生きていること自体が辛いので「死んで楽になりたい」という気持ちの方が強いくはありますが、その根底には「責任をとり生き恥は曝さない」という辛さからの逃避願望なのだろう。自殺者に占める精神的疾患者のデータを調べてみたが、これというデータとは出会えなっかた。しかし、熟考するとリストカットなどの自傷行為や異常なアルコール摂取は、正常な精神状態で行えるものではないと思ってしまう。私の場合も発病前、異常にお酒を飲んだ、何かから逃げたい、辛いことを忘れたいと酒を飲んだ・・・・。その状態を精神的疾患とは言わないかもしれないが確実に精神的に「病んでいた」と断言できる。しかしうつ病は「死に至る病」なんかでは絶対にない。何かが間違っている、誰かが勘違いしていると憂鬱になってしまう・・・
2011年10月14日
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新潟県が自殺防止に取り組んでいるというニュースが目に留まった。県の福祉課は多重債務者に関する無料相談会に臨床心理士を配置して、自殺の危険性の高い多重債務者を対象に精神的ケアに取り組むと発表した。また薬剤師を軸としたセーフティネットの構築にも着手するなど、自殺予防対策に全力を挙げるようだ。県が自殺の危険性の高い人の早期発見につながると期待するのは地域の薬局にいる薬剤師だ。精神疾患患者らとの接し方をこれまで以上にきめ細かくすることで、精神安定剤などの大量服用による自殺を防止しようとしているらしい。また県は薬剤師を来店客との対話などから自殺の兆候に気づき、医療機関と連携して自殺を防ぐゲートキーパーとして育成する方針も表明した。 この記事を読んで私は少し違和感を覚えた。まず多重債務者が臨床心理士に自分が抱えた心の辛さを「無料」とはいえ相談に行くのだろうか。私自信も最終的に連帯保証債務を含め2億数千万の多重債務を負ったが、もし「鬱」の症状が出始めたころ大阪府が新潟県と同じ臨床心理士の無料相談システムを実施していても行くことはなっかたと思います。理由は臨床心理士という精神科医でもない馴染みのない資格の先生に自分の赤裸々な体験を相談しても臨床心理士が的確なカウンセリングなど行えるはずはないという変な確信があるからです。実際に私も主治医の勧めでクリニック指定のカウンセリングを受けたことがありますが会社を倒産させてしまった社長の苦しみ、数億の借金の重圧、自己破産にいたるまでの辛さなど話してはみましたが私をカウンセリングした臨床心理士は正直どうアドバイスしたらいいのか戸惑っているのがすぐ分かりました。正直時間の無駄だったと後悔しました。アメリカやヨーロッパのキリスト教文化圏の国なら教会に通い悩み苦しんだ時にコンフェッション(懺悔)という習慣があります。アメリカなどはその宗教的文化土壌のうえにカウンセリングというビジネスが成立しているのです。我々日本人はそれとは正反対の「恥の文化」を重んじます。辛い辛いと嘆くならいっそ「切腹」して自害する人生観を美化してしまう文化です。平成の現代でも12月になれば忠臣蔵が放送されそこそこの視聴率をとります。腹を切って自害する覚悟で討ち入りをした赤穂浪士に共感を覚えてしまうのです。もう一つ違和感を感じたのは薬剤師が自殺を防ぐゲートキーパー成りえるのかという疑問です。向精神薬を処方するのは精神科医または心療内科医です。「5分心療、大量投薬」で記したように製薬会社を含めたビジネススキームの問題だと私は思ってしまうのですが・・・。
2011年10月13日
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最近ブログ更新の頻度が落ちてきています。理由は体調不良です。「ジェットコースター」のブログで書きましたが、アップダウンの激しいのが最近の悩みです。4日前、とてもダウン(体調の悪い状態)になっていました。3ヶ月前まではほぼ寝たきりでしたので、変な表現ですが、ダウン状態があたりまえなので、ボーっと寝ていれば時は過ぎていきました。しかしアップ状態を経験してしまうと、何故また体調を崩すんだと落ち込んでしまい、うつ病は完治しない病気だと自分勝手に決めてしまい、「生きててもしょうがない」「死んだ方が楽になる」と悪魔の囁きが聞こえてきます。必死にその声と戦うと、身体がブルブル震えてきます。その日は室外の空気を吸って気分転換をしようと思い、ベランダに出ました。12階です。 落ちたら死ねるな・・・・・無意識に手すりに手を掛けていました。次の瞬間、膝がガクガク震え力が抜けてしゃがみ込んでしまいました。 今日、ちょうどクリニックの診察日だったので主治医にありのままを報告しました。先生は「もうベランダにはでるな、自分で危ないと思う場所には近づくな」と忠告し「誓約書を書いてもらうよ」と一枚用紙を取り出し何か書き始めました。「サインしなさい」 読んでみるとそこには「誓約書 治療中は死なないと約束します。 2011年○月○日」と書いてありました。私は予測していない展開だったので少し躊躇しましたが、少し考えた後・・・・「先生、分かりました」とサインしました。しかし質問が沸いてきたので先生に「約束しますけれど、どうしたら死なずに暮らせますか?」と尋ねました。「行動日記をつけなさい」と先生は答えました。認知行動療法として「行動日記」を書くことは以前から先生に勧められていました。このブログ復活も私にとって「行動日記」に代わるものですが先生には報告していません。理由はこのクリニックの不満もきっと書くと思ったからです。 先生は「力強い字ですね、では次の診療までガンバッテください」と私の目を見て話されました。その瞳から「死ぬなよ!!」というメッセージが伝わってきました。私の推測ですが、先生は過去に何人もの患者さんの自殺を経験されているんだと思います。うつ病の治療は、あくまで患者本人の意思と気力です。精神科の先生も家族も患者を気遣ったり、アドバイスしたりするだけで、その気持ちを察して完治に向かうのか無視して一人闇の中に閉じこもるのかは患者の自由意志です。私自信、うつ病を経験してみて、そこが一番難しく、本人と家族と医者の関係の折り合いのつけ方が重要なポイントだと痛感しています。前のブログにも書きましたが私は大丈夫です、自殺は絶対にしませんから・・・・・
2011年10月12日
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3日ぶりのブログです・・・ちょっと2日間ダウン状態がきつくて辛かったです最近体調が良かっただけに辛く感じました ところで寝たきり、部屋に引きこもり状態から何とか抜け出せたとき、私は極力外出するよう努力しました。幸運にも前に公園があり、いつのまにか「あるベンチ」が私の指定席になりました。 朝にはベンチに座り鳩の餌やりをしたりしました。忙しく働いていたころ公園などで明らかに職の無い人が「鳩の餌やり」しているのを見て、ああにはなりたくないなどと思っていたんですが・・・ でも毎日やっていると楽しくなってきて鳩たちも私が来るのを今では待っていてくれます。鳩の身体の色とか柄はみんな同じだと思っていたんですが、毎日見ているとその違いに気づきました。性格の違いも判別出来るようになりました。仲間を威嚇する泣き声、ポーズなど今ではネットで鳩に関する情報を探すまでになっていまいました。夜は鳩は居ませんがベンチで月を眺めたり、夜風にあたるのはとても気持ちがいいです・・ 何か平和な毎日を過ごせています。
2011年10月10日
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アップルの スティーブ ジョブスが亡くなりましたまだ56歳でした 若すぎます死因は脾臓ガンらしいです。私も最初はMACユーザーでした。デザインの斬新さ マウスでクリックの実用性に惚れ込みました。スティーブ ジョブスはITの革命児として有名ですが、私はスティーブ ジョブス が盟友のジョンスカリーの裏切りにあいMACを一度追放されましたが、不屈の精神で返り咲き、i tune,i phone, i pad と画期的な商品を世に出すことに成功しました。私はそんなスティーブ ジョブスの精神力・根性が好きでした。経営者としてはとても尊敬しますが、やはり無理をしてたんでしょうね身体は正直ですから。 最近の新製品発表会などで見るスティーブ ジョブスはとても疲れたように見えました。本当に病魔に侵されて疲れていたんですね。今日、世界中のアップルストアではMACファンがジョブスへの献花をしていました。経済に関わる人だけでなくあらゆる国の人々は貴方のことを忘れないでしょう。ご冥福をお祈りいたします。 合掌
2011年10月07日
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私は父よりも母の方が好きだった男はみんなそうかもしれないけれど。今では二人とも亡くなっていて、うつ病になってからはお墓参りもしていない・・・・ うつ病になってから何度も父と兄の夢を見た兄に関しては、怒りというか許せない感情が潜在意識にあるんだと思う。(詳しくは8月24日のブログを読んで下さい) 父の夢は、まだ若くて元気な頃の夢をよくみた・・・ 先日、何故か分からないが突然、父のことを思い出していた・・・脳梗塞をして病院で付き添ったとき徹夜で看病しとても心配したこと・・・ 同居してた兄に「老人性痴呆」だと介護施設に入れられてお見舞いに行ったとき鼻毛が伸びてたんで切ってあげたこと・・・ もっと古いはなしで父が戦争の話しをしてくれたこと・・・父は海軍でした。東南アジアの戦地で機雷に船を沈められ戦友の多くをなくした話し・・でも面白かったのは軍事物資を横流しして田舎の両親に仕送りしてた話し・・・(普通、息子には話さないでしょ) 父の夢をよくみるのはきっと天国で心配してくれているのだと感じます。早く完治しなければと思ってしまいます。
2011年10月05日
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うつ病を発病して一番不安なことは、やはり収入と支出の問題である今まで私は「傷病手当金」で生活していた。これは、かつて加入していた「健康保険組合」に請求して、最終受給与額の6割が支給される。最長18ヶ月。支出も押さえなければならない。携帯電話は一番安いプランに変更した。医療費・薬代もばかにならない。32条制度のことはネットで調べたりして知っていたので、まず保険所に電話で問い合わせをした。すると現在は区役所で受け付けているとのことである。32条とは、正確には「精神保険福祉法第32条」といい、国民健康保険の場合は「診療費」と「薬代」の負担が0割り(タダ)になるというありがたい制度である。さっそく区役所へ行き、言われた窓口で申請すると、もう32条制度は廃止され、「自立支援医療費申請」に統合されたという。 それも4年前に・・・・しかし、そんな事を何故保険所が知らないのだろうか、役所とは本当に無責任で「たらい回し」するんだろうか?少し怒りさえ覚えた。 精神的障害者はいろんな助けが必要である。しかたなく「障害者手帳」の申請だけして帰ってきた。障害者手帳は携帯していると市の交通機関「市バス」と「地下鉄」が割引になったりする制度である。病気であっても生活していくために色んなセーフティーネットがあるのは漠然と知っているが、詳細を知るには「書籍」やネットの情報しかない。書籍の場合、発刊日が古いと役にはたたない、ネット情報は玉石混淆で信憑性の低い情報もある。 私達うつ病患者は、だぶんいろんな理由で「生活保護」は受けたくない、しかし「障害年金」は2級以上でないと生活できないが、とても審査のハードルが高い。精神的障害者が簡単に的確な情報を得る窓口の必要性を強く感じた一日であった。
2011年10月04日
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以前書いたように私がブログを書くのは自分自身のうつ病のリハビリのためです。 リハビリになる理由は自分のために私が感じたことや経験したことをよく考えまとめること、それはすなわち私自身が内省をすること、思考することでありなんとなく漠然と考えるのではなく、文章を考え、何を伝えたいか的を絞りそれをブログというフィールドの中で誰かに読まれることも考慮にして文章として表現する。この一連の作業は思考の訓練、私にとっては脳機能のリハビリに他なりません。 何か厭なことが起きても思考パターンを変えて思考の視点を変えて熟考してみるそして思考を文章にすると全く違う出来事だと気づいたりします。「自殺」に関するブログで書きましたがうつ病の最悪期には「自殺」することもできず、ただじっとしています。もちろん文章を考えたり書いたりすることも出来ません。 でも、少し体調の良いときにその時の感情・思ったことを文字に残す。最初は凄く面倒で辛いでしょうでもリハビリになると信じて試して欲しいんです。私の場合、もちろん誰かに読んでもらいたい、特に「うつ病の人」「その家族」の人に・・・・という気持ちで書いています。もし、うつ病に苦しんでいる方で今、このブログを読んでくれている人は症状はかなり改善しているという前提で自己流のリハビリ方法を紹介したりしています。私自身が実験台になり「うつ病改善」に効果がありそうな事は今後も続けていきたいと考えています。
2011年09月29日
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そのダーツバーには麻雀ゲームが置いてました。ネット通信で全国の知らない人と麻雀ができるんです!知らない間にIT技術は進んでました。東風の1周まわし勝つとレベルが上がっていき(10級⇒1級⇒段)ポイントが溜まり、アイテムと交換できるらしい・・・しかし麻雀のアイテムって何なんだろう? 若い人が通信ゲームにハマルのはこれだな・・・っと思ってしまいました。 学生のころはよく麻雀をしました高校のとき、校外授業を4人でサボって先生に見つかり(当たり前ですよね)凄く怒られた思い出があります・・・ 寝たきりの頃は専門チャンネルで麻雀は観てました。頭のリハビリになると思ったからです。しかし、展開が速すぎてついていけませんでした。 頭脳ゲームには「囲碁」「将棋」(欧米ではチェス)そして「麻雀」麻雀は4人でするので他のゲームとは少し違います。つまり相手は3人です。自分より先に3人の内の誰かが上がれば負けに繋がります。 しかし、麻雀の面白いのは仮に東南回し(最短で8ゲーム)で7回上がれなくても1回役満(子供で32000点)上がれば逆転できたりします。 将棋や囲碁はほとんど強い人が勝ちますが麻雀は「配パイ」とか「ツモ」が良ければ弱い人でも勝ったりします。 うつ病とは関係なさそうですが趣味やゲームに夢中になれるということは確実に鬱の症状が改善していると思ってます。
2011年09月28日
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私はダーツをしてました。ブログのプロフィールにも書いているようにおやじのわりには上手かったです。うつ病になってから2年間はしてません。 ここに引っ越してから近くにダーツバーがあるのは知っていました。スーパーに買出しに行くとき、いつも前を通ってたからです。2年間の間、一度もまたダーツをやってみたいとは思わなかったのですが先日、何故か急にダーツがしたくなりました。何かをやりたいと思うようになるこれもうつ病が治ってきている兆候です 早速自転車に乗ってそのダーツバーに出かけました。久しぶりに投げてみると、最初の1ゲーム目はダメでしたが2ゲーム目からは、そこそこいい点数!身体が思い出したんですね。 ダーツはとても微妙なスポーツで投げるポイントがすこし違うだけで刺さる場所(得点)は大きく変わります。一番高得点60点(20トリプル)の周辺は1点や5点が配置されているといういじわるなゲームです。この微妙な調節は全て脳が命令するわけですから数ゲームすると疲れてきました・・・でも、何日か投げているうちに長くダーツ出来るようになりました。 3ヶ月前はトイレでしゃがむのにも辛かったのが嘘のようです・・・この、ダーツリハビリも続けてみたいと思ってます。
2011年09月26日
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うつ病患者は人と会うのは面倒です・・・面倒なので散髪も2ヶ月に一度くらいしか行きません。私は以前から美容院に行ってたので、引っ越した今も、近くの美容院に行っています。どこの美容院もマニュアルでもあるのかやたらと話しかけてきます。初めて行ったときは、質問ぜめにあいます・・・ この前の金曜日(平日)の夕方に今までと違う美容院に散髪に行きました。さっそく「今日はお休みですか?」「お仕事は何をされてますか?」「ゴルフはされるんですか?」と攻撃が始まりました。うつ病で現在リハビリ中なんて言ってしまうとまた、質問ぜめに遭いそうなので金曜日が定休日のサラリーマンで窓際族だと演じました。 私は歯医者にも定期的に通院しています。歯周病になったことがあるので隔月に歯垢除去をしてもらっています。何故かいつも木曜日に予約をしています。もし「いつも木曜日ですね」と尋ねられても木曜日が定休日の仕事にしようと決めているからです。何故、うつ病で 現在療養中といえないのか・・・・・・・・ 質問が面倒なのも事実ですが、やはり自分が「うつ病」だということは知られたくないのでしょう。まだまだうつ病に関しては偏見があると考えているからです。早く完治して、どこに行っても演技をしなくていいようになりたいです。
2011年09月25日
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円柱形のコップは どんな形をしてますか? 丸ですか・・・ 四角ですか・・・ 正解は・・・・・・ 両方とも正解 コップを真上から見れば・・・ 丸く見えますが 真横から見ると・・・ 四角く見えますよね 何か、とても厭なことが起こったとしても ちょっと視点を変えれば良かったことかも・・・・ 例えば遅刻して誰かに怒られたとしても遅刻しなかったら交通事故に遭ってたとか・・・・ 私は知り合いで25年前の「日航ジャンボ機墜落事故」に仕事のミスで乗れなかった人の話しを聞いたことがあります。 その人は、東京での仕事が順調だったらあの飛行機に乗っていたと・・・・・ その人は「私は助かったが 私の代わりに誰かが搭乗したと思うと辛いものがある・・・・・」とも言っていました。 人の人生なんてホント分からないですよね・・・・ 何が「良いこと」か「悪いこと」なのか・・・・視点を変えればいろんな出来事は悪いことばかりじゃないと思うんです。
2011年09月24日
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人を変えるのに必要なことは彼自身の自己認識を変えることである(アブラハム・マズロー) あのマズローの5段階の欲求で有名なアブラハム・マズローです 悲観的に考えるのは実は簡単で容易い・・・ 難しいが人生を肯定的に考える・・・思考パターン 私は「社長でなくなり」「家は競売にかけられ」「知り合いのほとんどは去ってしまい」「高価な寿司屋や割烹にはいけなくなり」「お姉ちゃんのいる飲み屋も行けなくなり」「車も売却して持ってない」と嘆き、苦しんだ・・・ しかし 社長の時は幸せだったか? いつも資金繰りに追われ、売り上げの落ちていくのを社員のせいにして、銀行からは返済に追われ、逃げてしまいたいと何度思ったか・・・・ 前の4LDKのマンションに住んでいたときは幸せだったか? 一人で住むには広すぎで、ろくに掃除もしなかったので埃だらけではなかったのか・・・・ 知り合いのほとんどが去ってしまったと思っていたが、本当に話し合える友人は居たのか? 私からそういうつきあいは「面倒」で避けていたのではなかったのか・・・・ 寿司屋や割烹によく行ってたが、全部会社の経費で落としていた・・・ 飲み食いするなら「自腹」で飲むべきではなかったのか・・・・ 女性の持て成してくれるクラブやラウンジによく顔を出したが、本当に楽しかったのか、単に淋しさを紛らわすためと、単に見栄ではなかったのか・・・ 専用の車など必要だったのか、地下鉄で通勤できたし、今は自転車で充分生活できているではないか・・・ 現在はURの1DKでストレスのないロングバケーション 相対的に考えると・・・・今が不幸と言えるだろうか・・・ 絶対的な「幸せ」などあるんだろうか・・・? 考え方ひとつで「幸せ」に思えるんじゃないんだろうか・・・・ 思考パターンが変わりつつあります。
2011年09月23日
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一番よいことは、おまえには、とうていかなわぬこと生まれなかったこと、存在しないとこと、無であることだしかしお前にとって次善のことは・・・すぐ死ぬことだニーチェ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・真に重大な哲学上の問題はひとつしかない自殺ということだ人生が生きるに値するか否かを判断するこれが哲学の根本問題に答えることなのであるカミュ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私がある機関に提出した「診断書」にははっきりと「希死念慮あり危険な状態である」と・・・・・ ある時期、私はとても死にたかった。ニーチェの言葉をかりれば存在しないこと、無であることを願っていた・・・ カミュの言葉をかりれば人生が生きるに値しない と思っていた・・・ でも「自殺」するには決意とエネルギーが必要だった。 幸いにもその頃の私は死にたくても行動に移すのエネルギーもなくただ悶々とベッドに横たわっていた・・・ うつ病の最悪期は自殺したいと思ってもその気力も体力もない。 一番危険なのは「回復期」である・・・ この2ケ月の急激な回復 主治医も注意しろと脅す でも私は大丈夫だと思う・・・・色んな自己流リハビリにも取り組む意欲が出てきたしなんといってもこの「ブログ」「うつ病治すぞ!」宣言ブログですから今、自殺なんかして更新できなくなったら洒落にもならないと思ってますから。
2011年09月22日
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うつ病の症状が改善されてくると日常生活に変化を感じるようになってきた。 まず、食べる物に変化がでてきた。以前、特にドグマチール服用していた頃はとにかく甘いもの「アンパン」「クリームパン」「アイスクリーム」ばかり食べていた。 現在は「豆腐」「ホットドッグ」「ゆで卵」等タンパク質のものが多くなった。自転車に乗ってリハビリサイクリング兼ねて「ラーメン屋」や「吉野家」にも行ったりする。 テレビは以前寝たきりの頃は、ただ目的もなくつけて観ていただけ・・・・ 現在は録画した海外サッカーの試合や収集してたDVDと発病前録画したDVDが中心・・・・・ 対人恐怖症だったのにタクシーに乗った時、運転手と話している自分に驚く・・・ 公園でベンチに座り、日光浴していたとき子供に頼まれてセミ採りを手伝う・・・ 掃除のおばちゃんと何気ない会話をする・・・ なんか人間らしい生活が戻りつつあります。 アップダウンはありますが、「右上がりの波形」で治すと信じてます。
2011年09月21日
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