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明けましておめでとうございます。多くの方にはご挨拶まだできてないので、この場を借りてもし伝わるのなら。年末はバハマに出張、オフィスの引越し、その他もろもろの用事でバッタバタで息つくひまもなかった。何故人生はこんなに忙しいのか、という位。1月になって久しぶりに左手怪我のフォローアップで動きを改善できる治療をロンドンで受けられることになり、ロンドンに来た。両親のヘルプがいるので、上司の許可でこちらで暫く仕事をしていい事になり、ロンドンに月末までいることになった。遠隔で全てのファイルにアクセスができて、そもそも中南米のクライアントとは離れていつも仕事しているので、殆どワシントンにいても同じことだ。久々に身の回りのヘルプがある状態で、片手がキャストに入っていて使えないのをいいことに、世話してもらえるのに甘えて、家の中でゴロゴロ。こうしていると、普段どうやって今まで一人で全部やっていたのか、と思う位快適。痛み止めの影響で根を詰めて仕事をするほど元気がないけど、ずっと寝ているのも嫌になってくるので、映画見たり、新聞読んだり、動けないのをいいことにゴロゴロ。ブログ書こうと思ったのも、こういう時でないと忙しすぎて書かないから、1年以上たっているので、恥ずかしいし、少し更新してみることにした(笑)いろいろな出張など、ブログを書くタネは一杯あったのですが、そういう時はブログを書く時間がないのです。そうすると、エクサイティングな時には書かずに、何にも大したことをしてないこういう時にブログをかく結果になりますね。。ロンドンはアメリカと違い、ヨーロッパのニュースが多く、普段と違う視点ができる。アメリカのニュースも客観的に流すので、こちらの方が分りやすい。とはいえ、家の中にいるとロンドンでもワシントンでも同じなので、違いは回りに家族がいるか、tvが違うかくらい。でもこういう時だから普段読まないもの読んだり、したり出来る気がする。たまに生活ルーティーンと変わったところに行くといいですね。(固いキャストは早く取りたいですが。。)
2008/01/22
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今週から無事、ハンドセラピーに毎朝通いつつも、職場に復帰した。初日オフィスに着いたら大きくて色とりどりの花束の花瓶と同僚の皆からの寄せ書きカードがデスクに置いてあって、お母さん代わりのコロンビア人の秘書さんのマギー、グループチーフのドイツ人上司ハンスと同僚の皆がたくさん集って迎えてくれた。チーフが自分達を第二のファミリーと考えてくれ、と言い、カードにはYou have no idea how much I missed you.と書いてくれていた。私は同僚のそんな心遣いに本当に感謝して、お礼を言い、別に頭を打った訳じゃないのでちゃんと仕事はできますよ♪と言ったらそんなに早口でそれを言わなくても大丈夫だよ、と笑われた。これからはまた独創的なエキゾチックな証券化案件などをやりたい、と言ったらハンスがうむうむ、と頷いていた。本当にこんなにあたたかい、素晴らしい上司、職場はなかなかないのではないかと思う。上司のハンスはセラピーや治療を優先して時間帯は気にしないで来ればいい、と言ってくれた。こんなに良くされると転職なんてとんでもない、ずっとここにいるのが良いと思わざるを得ない。そういう風に思わせる上司はマネジャーとして本当の賢さを持った優秀な人なのだと思う。久しぶりに先日クローズした案件のNYの融資先クライアントのファンドマネジャーに電話したら、復帰できて本当に良かった、ファンドのオフィス中にニュースが回って心配していたけど、君に我々ビジネス関係がお見舞いの電話すると君のことだからすぐ仕事にドライブがかかって気にするといけないから、時々君の様子を秘書さんやハンスに問い合わせて聞いていたのだよ、と言っていた。仕事のことを置いておいても、君がgreat personalityだからオフィスの皆が気に入っていたから皆で心配していたのだよ、と言ってくれたのは何より嬉しかった。普段は慌しいが、一度NYに来たら仕事抜きでゆっくりと今回の経験についてSUSHIに連れて行くから話しましょうとファンドマネジャーが言ってくれた。サンフランシスコのファンドの方も元気にしてるか心配してるので電話を下さい、というメールが入っていたので話した。クライアントだが、双方共に案件クローズ、資金調達まで達成して苦楽を共にした戦友、同志みたいなものだ。復帰したとはいえ、たまった書類、メールの山をくずしていくのはなかなか大変だ。しかも、毎日セラピーと鍼その他あらゆる治療- 西洋医学の最先端と中国3000年の歴史の東洋医学を駆使して(笑)なんとかリハビリ、回復を促進しようと努力しているため、アポが毎日あって忙しい。しかも、復帰したばかりだとあらゆる人とランチなどでキャッチアップするため、余計に忙しい。でも今の私にとっては仲良い人や心配してくれた人に再会して会っていくのは心のビタミン♪なのでそれは欠かすことはできない。また、遠く日本からも心配してくれる友人達にも思い切り感謝したい。ブログや伝え聞いて心配してメールを下さった人がたくさんいて、心からありがとうと言いたい。おととい日本の友人達からお見舞いプレゼントの小包が届き、仕事から疲れて帰ってきた時にとても嬉しいサプライズだった。速達で送ってくれたMさん、Tちゃん、Oさん、H君、わざわざ本当にありがとう!!!(読んでるか分かりませんが、この場も借りて御礼)日本のモノは本当に嬉しいものですね。あたたかい心遣い、どうもありがとうございます☆ DCでも、遠く離れていても応援してくれる友人達がいたから私は「明るい怪我人」で頑張ってこれました。こういう怪我をしたことで人の温かさに触れられたと思う。私が手の怪我しているのを見ると、誰もが必ず実は私も昔、骨折して大変だった、とかこういう持病があって実は鍼に通っているんだとか(私の場合は持病ではなく、一時的な怪我なんですけど:-))怪我ではないけどこんな苦労話が、とか決まって語ってくれるのだ。某国際機関の偉い方も、私も去年君と全く同じ吊りを手にしたままで出張に行き、重いスーツケースとラップトップを持っていて本当に大変でその上寒い冬にコートをなくし、その他もハプニング続きでねーと語って下さって、そういう偉い方でも苦労なさったんだーととても励まされた。そういう事を話して元気付けようとして下さるのは本当に優しいと思う。また皆実はいろいろな悩みを抱えているものだと分かった。今の私はこの地球上で何万人といるであろう怪我人や病人、体が一時的にか長期的にか不自由な人の気持が前よりずっと良く分かるようになった。やっぱり入院や怪我はしてみないと本当にはそういう人達の気持は分からなかった、と思う。今は電車の中で怪我人やお年寄り、妊婦がいると何をおいても敏感に察知してさささっと席を譲らなきゃ、みたいな気持になる。自分もまだ怪我人のカテゴリーですが(笑)前からそうでも敏感度合いが違うのだ。単なる礼儀やエチケットとしてでなく、体が大変なんだ、と分かるから。地球上の何万人、何億人?の気持が分かるようになっただけでも今回の経験は貴重だった。
2006/08/07
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今は無事退院して手のハンドセラピストに通う日々だ。まだ指の固さが取れるまでは片手でタイプしたり、右手中心で生活しないといけない不便はあるが、一時期血圧が落ちてふらふらだった体力も戻って無事普通になった。こうしてもう入院は過去のこととなったとはいえ、自分で思ったことや経験を自分が忘れないように書こうと思う。今回まで入院したことがなかったので、ある意味医療の現場を経験したことが無かった私は、今回改めてお医者様の偉大さを感じたことは言わずもがな、看護婦・看護士さん達との日々の触れ合いを通じてその偉大さ、賢さ、優しさに感動した。ラスベガスでも、こちらでも本当にたくさんの看護婦さん達のお世話になり、仲良くなった。ラスベガスの時の看護婦さんの中には自分の悩みを話す位打ち解けてくる人もいて、いつのまにか何故か患者の私の方が病室で人生相談にのっていたこともあった。みんな苦労してるのねー、という感じです。看護婦・看護士の仕事は薬を持ってくるだけではない、全般的に患者が心身共に気持よく過ごし、回復に向かうことに関わる全ての作業が24時間体制で含まれる。明るく、あるいは淡々とつくしてくれる彼女達・彼等だが、聞いてみると皆頑張っているのに感心する。生き様からいろいろ学んだ。私が一番仲良くなったローズマリーは、子供4人共もう家庭を持っている位の年齢で50台の朗らかな人だが、ご主人はNY法の弁護士、娘も弁護士、息子達は大手ブローカー、シェフ、馬の調教師、と多種多様な職業だ。本人は生活上全く働く必要がない。それでも、子供達が成長してから看護学校に行って資格を取り、働き続けている。人を助けるこの仕事に遣り甲斐を見出しているからだろう。彼女はとても頭がいいので、無理をさせないよう心配している時も明るく冗談を交えながらも判断してそう言っているのだと分かる。おどけたことなど言ったり、踊ってみせたり私を笑わせるお茶目な人柄だが、医学的知識もとても豊富だ。退院した時はお世話になった全員とお別れの挨拶をするので忙しかったが、彼女とは抱き合い、私が最初に入院したばかりの頃から知っていたので、彼女が本当に良かったね、と涙ぐんでいた。ヒルダというお世話になった看護婦も大変聡明な感じの、とても年配の女性でもちろん働く必要などないのだが、年を経るごとにどんどん新しい知識・経験を学びたいとわざわざ看護資格を数年前に取ったそうだ。彼女は元々保険会社の確率アナリストで統計・数量分析を長年していて良い待遇だったけど、それだけでは退屈だったそうだ。もっと人と触れ合って日々学べる仕事を求めて看護婦の勉強をすることにしたそうだ。しかも、子供達は全員見事に成功していて、長男はコンピューター・プログラマー出身でシリコンバレーの大手ソフトウェア会社でVPをしていて、日本を含むあちこちに出張で忙しいそうだ。次男はミシガンの数学コンテストで州1位になったとか。長女は人材派遣会社の重役をやっている。別に自慢する訳ではないけれど、子供達は皆事実として立派にそれぞれの道で成功していて、誇りに思うそうだ。母親であるヒルダが向学心が強く、落ち着いて賢いので、子供たちもそういう風に育ったのだろう。身の周りの世話をしてくれるTechという役割の人も日々の患者生活にはとても重要だった。手が使えない時に髪を洗うのを手伝ってくれたり、体を清潔に保つために洗ったり、ベッドシーツを変える他、世話全般の担当だ。特にお世話になったソニアという黒人のTechの女性は、とても優しかった。彼女は若く見えるので私より年下かと思ったら40歳で、4人も子供がいる人だった。だが、シングルマザーなのは、父親の方が4人も子供がいるのに一度も結婚せず、他の女性と住んでいるからだと言う。それでも一人で4人の子供を働きながら育てていて、しかもいつも全くそんな苦労を感じさせない笑顔で感じよく接してくれるのには頭が下がる。入院しているとちょっとした身の回りを綺麗に掃除してくれる、髪を洗ってくれる、そういったことがすごく気分的には重要だ。それが仕事とはいえ、心をこめて親切にやってくれるかどうかによって人柄の差が出る。ソニアの息子は数学が得意で将来医者になりたいと言っているそうだ。子供にいい教育を受けさせるためならオーバータイムでも働くと言っていた。父親みたいにはなりたくないと、子供達は親孝行ないい子に育っているらしい。あと感動したのは90歳のお爺さんが病院の中でボランティアで雑誌を配る係りをやっていたことだ。いつも蝶ネクタイをしてきちんとした格好をして、杖もつかずカートを持ってきて患者達にどんな雑誌があるか説明してくれる。介護されるどころか、90歳で人を助けている。そういうやりがいで元気なのかもしれない。看護婦の人達だけでなく、お医者さんも、全ての人間関係でも、つらい時や大変な時に思いやりを持って優しく接してくれたことや助けてくれた行動は人間絶対忘れないものだと思う。心をこめてやってくれた人、思いやりがあった人のことは必ず印象に残るし、感謝の気持がある。逆も然りで一つ一つの対応に人柄が出るものだ。今回のことで自分の何気ないひとつひとつの行動もそうだと思ったし、人間の価値は如何に人に心から喜ばれたり、ありがとう、と感謝・感動されることをしたか、するかということの累積ではないかと思った。人に感謝されるということはそれだけその人からの喜びの気持が向けられるから、ポジティブなエネルギーとなって何らかの形でその人に帰ってくるものだと思う。今回はそういう意味で偉いなあ、と思う人々に一杯会えた。
2006/07/21
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翌日病室で起きたら間もなく、スープ、ゼリー、ジュースといった液状の食事が出された。左手は包帯でぐるぐる巻きで、硬く固定されていた。右手には点滴の管がつながれていた。同室の患者は23歳のフィリピン人の女の子で同じく車の横転事故にあって、足の大たい骨を折ってしまった子だった。彼女はフレンドリーないい子で友達のように話せた。二人共1-2日目は痛み止めのモルヒネの影響もあって、死んだように寝てばかりいたが、起きている時にお話していた。お見舞いに来ていたご両親もとてもいい人達で、いろいろ話し、お母さんは「物事には全て意味があって、これが起きたという事は忙しすぎたのなら、ゆっくり一度止まって休みなさいということなのよ」「体がどんなに怪我して痛んでも、心(Mind)が満たされている限りは何事も大丈夫」と言って励ましてくれた。また元気の出て癒される言葉が毎日更新されるWEBサイトを教えてくれたりした。お母さんも大手の銀行でVPを勤め、忙しい生活をした後、やっぱり心の平安が大切と、リタイヤして家族でラスベガスに引っ越してきたそうだ。お父さんの方は今まで徴兵で3回の戦争(イラクも含む)に出兵して、何回も手術を受けているので、どういうものか良く分かるそうだ。二日後に彼女は地元なので家で療養するために退院してしまったが、その時にご両親が「いつでも電話したり、退院してから家に泊まりに来たかったりしたら遠慮なく来なさい」と言って、連絡先を置いていってくれた。遠く離れた地でこう言ってくれる人達がいることは心強かった。ヘリコプターに乗る前に携帯で連絡して以来だったロンドンの両親もひどく心配して、ラスベガスの病院を探し出して電話をかけてくれた。イスタンブールに出張に行っている父と、大学院の課程の試験中の母が両方飛んでくると行ったが、私は看護婦の24時間ケア下にあるし、来てくれても薬で寝てばかりなので、そのために全てを捨てて来てもらうと余計に気にしてしまうので固く断った。電話で不安な時にいつでも話せれば心強かった。今回の旅行は行く直前まで何かととても忙しく疲れていたので、タイミング的に見合わせようかと何度も思って迷った末、やっぱり大自然を見たら疲れも吹き飛ぶかと思って結局来たのだが、結局自分の一旦やめようかなという直感と疲れすぎるから無理はやめたらと言っていた母や友人の直感もある程度正しかったのかもしれない。でも、そこまで迷っても結局来ることになったことと、事故があっても殆ど奇跡としか思えない位ダメージが命に別状がなく、周囲にタイミングよく助けてもらえたことを総合すると来た方が良かった何らかの意味がそこにあったという気持ちが起きてならない。実際、初めて入院してみると普段の生活では全く考えないことを考えたり、如何に不幸中にも何か守られていたことで奇跡的に助かり、逆に幸運を感謝したり、周囲の人、見知らぬ人たちも含めて、人の心の温かさや親切を身に沁みて感じたり、自分の力でどうしようもない状況に陥って初めて人の助けに依存している自分を体験したりしたことは長期的に自分の人生にとって意味があるように思った。上手く言えないが、普段の生活とは大事なことの基準が全く変わって別の次元で考えるようになるというか。。。最も大事なことは仕事の成功でも一時的に楽しいことでもなく、本当に必要としている時に手をさしのべてくれる人、声をかけ心配してくれる人が周りにいるということだと思った。そして自分がいつこのようにどうしようもない状況になるか分からないから、自分が元気で人を助けられる時は幸運なチャンスと思い、人を助けられることが大事だと思った。本当に、チリ人の救急医療手当てで助けてくれたおじさん、ユタ州の関係ない通りがかりなのに助けてくれた若者達、職場のすごく心配してくれる善意の人たち、こういう時はキリスト教的な奉仕・慈悲の精神(キリスト教には限らないが)にあふれたアメリカ人、ラテン人達、を見習わなくてはと思った。今回感動したのは心配してくれた友達の皆はもちろんだが、職場の人達も仕事の場しか共有してないのに、本当に心配して、励ましの電話、メールを毎日のようにくれたことだった。オフィスのコロンビア人の秘書さん(私の職場でお母さんのように可愛がってくれる人)、直属のドイツ人の上司が心配して電話をくれて、仕事のことは一切心配せずこちらに任せて、治療に専念してくれと言ってくれた。秘書さんに至ってはそんな遠隔地に一人でいては可哀想と各地に機動的に電話をかけて、私をすぐさまワシントンの病院に移転させようとする勢いだった。また、彼女が部門中の同僚に私の状況を知らせたため、いろいろな同僚からメールが届いたり、花と「よくなってね」風船!など部門からもクライアントのファンド・マネジャーからも届き、部門のマネジャーからも直接電話がかかってくるなど、みんなの思いやりがとても有難かった。なんと私は幸せな境遇だろうと手の痛みはさておき、心がとても癒された。DCの日本人の友人達には数日間はびっくりさせ、心配かけると思い、知らせるのは遠慮していたが、案の定知らせたらとてもびっくり、心配をかけてしまった気がする。でも、早くDCに戻っておいで、助けるからと言ってくれた友人、メールしてくれた友人達の言葉は本当に心強く、とても嬉しかった。本当にみなさま、お優しい言葉、メッセージ、心遣いをありがとうございます!!とっても励まされました。周囲の人達の温かい心遣いで私は心丈夫にしていられました。
2006/05/26
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グランドキャニオン旅行の途中で、2週間ほど前に車の事故にあってしまった。今までの人生で交通事故も入院も初めての経験だった。(事故や怪我、病院などの内容を読みたくない場合はこの先読まないで下さい)本当に本当に幸い同乗の友人に怪我はなかったが、車が完全に360度横転したため、その時に左手が地面に叩きつけられて、私は左手をかなりダメージしてしまった。ただ、命に別状がある内臓へのダメージ、どこか長期的に麻痺したり、または歩けなくなるなどという事がなかったのは、本当に不幸中の幸いだった。今も左手は完全に包帯で巻かれて固定された状態、右手は点滴の管がつながれた状態だが、普通に歩くことはできる。事故直後は、左手が血だらけで、指がねじれたように曲がり、手の皮膚がめくれてしまっていて、本当にひどい状態だった. 血まみれで一瞬自分の左手がなくなってしまったかととても恐ろしかった。ちゃんと手はあったものの、見るのも恐ろしい悲惨な状態だった. 自分でそれを見て気絶しなかったのが不思議な位だ。しかし不思議と幸い意識もしっかりしていて他の体の部分も大丈夫だったが、左手が燃えるようにとにかく痛かった。手がどうなってしまうのかという恐怖も一杯だった。このまま手が使えなくなるかと思った。事故現場に帰宅途中で偶然通りかかったチリ人のおじさんが緊急医療の専門家(PA)だった。本当に奇跡的にその人が通ったお陰で、救われた。おじさんがIt will be OK.と声をかけ励ましながら、てきぱきと私の血だらけの手の止血、固定するように布を巻いてくれ、救急車が来るまでずっとそばにいて励ましつづけてくれた. その人の仲間は私の友達が少しでも気持ちを安定するようにつきっきりでいてくれた. 他にも通りがかったアメリカ人の若者達5-6人が関係ないのに、警察や救急車が来るまで皆が一緒に待っていてくれたのは、心強かった. 事故が起こってから周りに誰もいなかったら大変なことだった。おじさんは救急車とは関係なかったが、救急車の人よりも慣れていて、救急車に担架でのせてからも私に痛み止めを注射し、私が病院に行けるのを見届けたら風のようにいなくなってしまった。後で病院の人に聞くと近くの病院まで3時間かかるアラスカでPAをしていた経験があり、私が運び込まれたアリゾナ州の病院でも前に勤務していたらしい. だから大変な状況下でも手慣れていて、落ち着いて最善の対応をしてくれたのだと思う. 退院したらおじさんを見つけ出して、お礼を言いたいと思う. 救急車の中で私は「早く手を治して下さい」と痛みをこらえながら言い続けていた気がする。あと、友人が大丈夫か心配で何度も聞いて確認し、怪我してないと聞いて安心した。救急車で近くの病院に運び込まれた後は、首や脊髄などに異常がないかCTスキャンとX線を取られ、左手以外は異常がないことが確認された。私は痛み止めの薬を打たれ、点滴を付けた状態でヘリコプターでラスベガスの大きな病院に運び込まれることになった。担架に乗ったまま、軍医のような制服を着た人に運ばれ、ヘリコプターに乗せられた。固定されて痛み止めを打たれた朦朧とした状態で、かろうじて頭を動かしてヘリコプターの窓の外を見たら、上空からラスベガスらしき夜景が見えた。初めてのヘリコプター経験がこういうものになるとは思わなかった。1時間位でラスベガスの病院で緊急病棟が周辺の地域で一番大きなところ- University Medical Centerのヘリポートに着いた。私はそばに来る看護婦、医者の誰もに早く手を治して下さい、とうわ言のように言い続けるしかなかった。そのまま麻酔をかけられて緊急の手術に入り、気が付いて起きた時には病室にいた。
2006/05/25
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今日、ずっと取り組んできたファンド(約187億円)案件の調印式があった.中南米地域全体の中小輸出業者の資金調達を助けるファンドの立ち上げだ. 幸い、総裁本人が調印できる事になり、クライアントの社長と総裁のSigning Ceremony となった.クライアント側からは15人位NYとジュネーブ、インド、アルゼンチンの各地からBoard of directorsなどが来て、我が機関からもプロジェクト関係者、シニアマネジメントが20人位出席. 最後はシャンパンで乾杯、完了した開放感ですぐにほろ酔い気分に.その後は某高級ホテルでディナーが開催されて一緒に祝った.この事自体も嬉しかったが、物質的、実績的な事より、何よりクライアント一同が心底喜んでいる様子なのが、私としては一番嬉しかった. 人に感謝され、信用される仕事、機会を作る事ができるチャンスが与えられているというのは有難い事と思う.また、この案件を通じて、たとえばガテマラのゴマ輸出業者や、エクアドルの海老輸出業者が助かったりするのも開発援助効果として嬉しい. 帰りに一緒に祝賀会に一緒に出席した同僚で普段無口なあまり愛想のない人に、君は若いのだから、次に何をしたいのかを考えて、自分のスキルを活かしてどんどんやっていくべきだ(かなり省略)みたいな事をに言われ、最近忙しくて目の前の事ばかり考えていたので、心にずしっと来た.たっくさん話している人より、一回しか話さなくても印象に残ること、深い意味のあるメッセージをくれる人っているんだなーって思った.また、人はぱっと見の印象とも違うという事も学んだ.自分が何をしたいのか、というのは単純な事だけど、日々の忙しさ、ルーティーンに埋没していると忘れてしまう気がする.一つ大きな課題をやり終えたので、もっと幅広く、見つめ直す良い機会だというヒントだったのだと思う. あまり普段利害や関わりもない、親しくもない人が急に直感的に人生の先輩としてアドバイスしてあげようと思ったのだろうか、妙に考えさせられ、刺激されるコメントだった. 今日こうして得た新しい視点を明日になって、忘れてないといいなと思う(笑)
2006/05/04
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今日はロンドンで留学していた大学、LSEの卒業生のハッピーアワーに参加してきた。偶然某国際金融機関に勤める友人の誕生日に出た時に会ったIMFの人がLSE出身で、同窓会が定期的にあるということを教えてくれたのだった。デュポンサークルにある人気のあるバーラウンジであったのだが、その前にDFという寿司バーで待ち合わせた。そこで一杯飲んでから、ハッピアワーに向かったら、仕事の終わるの自体が遅かったので、イベント開始時間の3時間後に到着になってしまった。そのラウンジでは一杯人がいて、どの人がLSEなのかそうでないのか分からなかったが、バイオベンチャーキャピタルをやっている人、National Public Radioでプロデューサーをやっている女性、弁護士、IMFのエコノミストの人などとお話できた。特にバイオベンチャー投資をやっている人の話には魅了された。投資にあたって最も重要なのは人間の心理、次に技術、3に法律的な面、4にファイナンスだと言う。心理、というのは社長の性格が人からの批判を受け入れる人か、などキャラクターの問題だという。素晴らしく天才の研究者は実はビジネスには全く適材ではない事も多いらしい。私は今は主に同年代の日本人の友達の間で異業種交流会のようなのをやっているが、今度はこのような夫々語れる専門分野を持っている多種多様な国籍の人達で国際版の異業種交流パーティーみたいなのをやってみたいと思った。というのは、いつも同じような業界の人とどうしても交流が多いので、意識していろいろなセクターの人の話を聞いてみたいからだ。ワシントンだったらきっと開拓すればいろいろな人がいると思う。また思いつきだが、初対面の人にもそういう話を急にしたら、ちょっと怪訝な顔を最初されたが、みんな興味ありそうだった。明日はDCダンスクラブ活動。有志の踊り好きの人達で毎回違うサルサバー、クラブなどを体験ツアー的にめぐったり、サルサのレッスンを取ったりしている。デュポンサークル周辺はもう大体行ったので、明日はダウンタウン周辺に行くことにしている。最近何でもクラブ活動的に会にしてしまう傾向があるので、定期的なアクティビティーの幹事になることが多い。他にもカラオケ愛好会、みちのく会、面白い人を持ち寄る会、ゴルフ部、スノボー旅行などにも参加しているので、今回それにLSE同窓会、というのが加わった形になる。他にもあまり公然とは言うのは恥ずかしいクラブなども入っている(笑)。忙しいが、イベントに事欠かないという意味では幸せなのかもしれない。
2006/02/17
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今日は明日までにいよいよ大詰めに入った担当案件のローン・プロポーザルを提出する日。というか、最終の理事会の前に副総裁のオフィスに承認してもらうために、つい最近通った委員会で出たコメントを全部入れ込まないといけない。ひとまず7時半頃までドキュメント修正をやり、出ることにしていたセミナーに一旦出て、夕食会に出てから10時頃オフィスに戻った。続きをこつこつと始めたものの、一つの案件に20人近くコメントして、様々なことを言ってのけるため、皆のリクエスト通りに変更していく作業は結構骨が折れる。でも自分の案件だから仕方がない。結局2時過ぎまで仕事していて、ドキュメント最後のページチェックなどしていたら、なんとビルのアナウンスで「今からメンテナンスで電気をシャットダウンします。PCで仕事している人は仕事を保存して下さい。」という夜中とも思えない放送が流れたので、ものすごく慌てて保存し、急遽上司に説明もそこそこに送信した。それからもう一度説明を書いて、印刷して上司に渡す分を用意した直後、自分の分を印刷する間もなく、ぷちっとPCの電源が切れて、真っ黒な画面に突如なってしまった。一応ファイルを出し終わっていたのはなんという不幸中の幸いというか、ある意味強運だったかもしれない。 その後、建物を出ようとしたら、なんとエレベーターも動かなくなっていて、非常階段で2階から降りた。すると、一番下の出口の所で「ここを開けるとアラームが鳴ります。注意!!」みたいな注意書きがあったので、これでは出れない、と思い、部屋まで戻ってセキュリティに電話したら、大丈夫、サイレン鳴らないから非常口で出て下さい、と言われた。非常口の外では別のセキュリティの人にこんな時間に変な所から出てきたから不審に思ったのか、IDの提示を求められた。外から再びガレージに入りなおし、車で出てきた、という訳。久しぶりに夜中で一人で仕事をして、昔の投資銀行時代を思い出した。あまり特別な時以外はやはりやりたくない。。。といって、家に帰ってきても目が冴えてしまったので、こんなことをして書いている。。。もっと楽しいことをした時にブログを書きたいのだが、いつもそういう時は結構忙しくて全然書けない。結果、こういう訳の分からない目が冴えてしまった時だけ書くことに。。。すみません。ぺこり。別に仕事ばかりしている訳ではありません(笑)
2005/10/20
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今日、家の外で賑やかな音が聞こえて、人がたくさん集まっているのが窓から見えた。最初は何のイベントか分からなくて、何か今日は特別行事でもあるのかとニュースをネットで見たが、分からなかった。エレベーターに乗った時に偶然会った同じ階の近所の男の人が「今日は家でパーティーをやるので、もし良かったら寄って下さいね」と言っていたので、普通に週末のホームパーティーかなと思った。外に出てみたら、家の目の前の通りが道をはさんで人だかりだった。なんと今日はゲイとレズビアンのパレードの日だったのだ!!もうびっくりした。カウボーイハットを被って、腰をふって踊っている(!)上半身裸の男性がたくさん乗っているトラックが通ったり、ドレスで着飾った体格のいいドラッグクイーンが手を振りながら通っていったり、日本の着物を真似たものを着ている白塗りの男性たちだったり、皆ド派手な衣装を着ていて、結構笑えるのが多かった。こんなにゲイ団体は世の中にあるのかという位、多種多様で教会のまじめそうなグループもあったり、鼓笛隊のマーチだったり、ハーレーのバイクや派手なクラシックカー、なんでもありのパフォーマンスぶりだった。国際色も豊かでインド人のゲイ・グループが民族衣装でインド舞踊を踊りながらアピールしたり、ラテン人ゲイ達がブラジルのサンバを踊りながらのカーニバル風の山車もあったりで、ひとつとして同じものがなく、クリエイティブでそれぞれが独創的だ。写真を取って見せられないのが残念だが、本当にすごいド派手なパフォーマンスでみんな自己表現が爆発していた(笑)。きっと普段は弁護士だったり、オフィスワーカーだったり、固い仕事をしているゲイの人もワシントンだけに多いと思うが、今日のこの日は解放的に自己表現をしたのだろう。パレードの人達がきらきらのネックレスやお菓子を山車の上から投げていて、観衆はそれを歓声を上げながら、受け取っていた。パレードは2時間位続いたようだった。私は他の用事を済ませた後、家に戻ってきてから迷ったのだが、同じ階のご近所さんが折角招待してくれたので、勇気を出してパーティーをのぞいてみることにした。廊下の奥の方にあるその人の家に着くと、ホームパーティーにいるのは同じ建物に住む一組の中年夫婦を除いては、全員男性、それも人目でパレードに集まってきたそういう方々だというのが分かった。なんか皆優しい感じ。ご近所のBさん本人は肌の露出の多いタンクトップにニューオーリンズで皆が首にかけているような、色とりどりのビーズのネックレスを5重位にかけて現れた。全然普段見た時とイメージ違う!部屋の奥の方から出てきて他の男性二人と一緒に話しているようだったので、何かお邪魔してしまったかと心配してしまったが、Bさんもそのお友達の方たちもあたたかく迎えてくれて、いろいろと話した。Bさんはジャーナリストをやった後、今は国立公園の規制当局の仕事をしているらしい。他に話した人は、とても有名な弁護事務所でPro Bonoの仕事(つまり、無償で弁護の仕事)をアレンジ・統括している人とか、US各地の被災地後などの困っているところに送り込まれるピースコアの人、有名携帯会社で働いている人、などだった。気がつくと何らかのヒューマンな感じの仕事をしている人が多い気がした。皆ワシントン生活が長い人達だった。ピースコアの人は見るからに善人、という感じの明るい人で、サンフランシスコの一万人規模のゲイ・パレードも、NYのも、今日のも参加しているパレード経験豊富な?人だった。Bさんの部屋はとても洒落た感じのインテリアのフローリングの部屋で、広々としていて、さすがセンスがいい。自分で全部デザインしたそうだ。家族の写真がいっぱい飾ってあって、ご両親の昔の写真は、古きよきアメリカの映画に出てくるような白黒写真、という感じだった。クリスマスにホワイトハウスにプレスとして招待された時のクリントンと握手している写真もあった。すごい!中年のご夫婦の奥さん以外、ゲイの男性たちの中、女性は私一人だけで、しかもあまり話すことのないご近所の人及びその友人たちで、最初は何を話していいのか、ちょっととまどいを感じたが、みんな気さくでフレンドリーで話しやすい人達だった。中にはちょっとシャイっぽい人もいたが、話してみるととてもいい人そうだ。引っ越してきてからご近所の人のパーティーに呼ばれたのはこれが初めてだったので、新鮮だった。パーティーに行く前はパレードに出てきたようなアグレッシブ・ド派手系の人たちだったらどうしよう、と思ったが、落ち着いた気さくな雰囲気の人ばかりだった。今朝起きた時はまさか家の目の前で今日ゲイのパレードがあって、さらにその関連のパーティーに参加するとは思ってもみなかったが、面白い経験であった。
2005/06/11
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今日はメモリアルデー連休の最後の日。日本から元々父・そして私共々大変お世話になっているとても偉い方がいらっしゃったのに際し、ワシントン在住の方お二人との4人でメリーランドにあるSugar Loaf Mountainにハイキングに行った。5マイルほどのトレール。私以外は全員、登山愛好家、長距離マラソン参加経験あり、カヤックをのりこなすなどの気合の入ったアウトドア派の方ばかりだった。その中で平地でも5マイルも普段歩いたことのない(それどころか、毎日15分の距離を車で通う)私がちゃんと登山についていけるのだろうか。。不安も少々あったが、体力をやる気でカバーするしかない。最初の出だしのお天気は暑すぎも寒くもなく、快適に山の道を歩き始めた。木々の緑もとても綺麗で、空気もDC中心よりきれいな気がした。いろいろとお話をしながら山道を歩く。が、1/3も行かない所で、雲行きが怪しくなり、雨がぱらぱらと降り始め、歩き続けていたら、ざーっとすごい降りになってしまった。雷もぴかっと光り、あちこちに落ちている模様だった。傘を差すと雷を引き付けてしまう?といけないので、ウィンドブレーカーをかぶり、大木の陰で雨宿りを20分ほどしてから、再び雨の中を進行。この時点では防水のはずのウィンドブレーカーは水の中につけたのと同じ状態で、全身びしょぬれになった。体育会系のメンバーを集めてのハイキング、とのコンセプトを最初は冗談で話していたら、途中から本当に体育会的に気合を入れての雨の中の進軍、となった。5つ目のピークを超え、帰りの車のある所にたどり着いてほっとする。車の中でも洋服が濡れており、ひっついて冷たくなっていた。バージニアのレストランに着いた時にはその辺りは雨が全く降っていなくて、周りの人達に一体あのびしょぬれのサバイバル後のような人達は何だろう、と思われていたに違いない。でも、その後美味しく韓国焼肉を食べ、焼肉の鉄板からの熱でようやく体があたたまり、よみがえった。濡れて大変だったが、私でもなんとか登山できた、と何か一つやり遂げたような不思議な達成感のあるハイキングの日となった。これでハイキング参加は4回目ほどだが、だんだんと難易度が高くなってきている気がする。。最近出張で忙しく運動不足だったが、私にしてはゴルフ、ジム、プール、ダンス、ハイキングと結構な運動量の連休となった。
2005/05/30
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今日はミーティングが終わり、NYからDCに戻る日だった。朝、電話やメールをホテルの部屋でしているうちに、いつの間にか時間がたち、そうこうしていたら、パッキングも終わらぬうちに、DCのオフィスの上司から質問の電話が携帯にかかってきて、ホテルの部屋からオフィスにいる上司と同僚二人にスピーカーフォンで自分の案件の経験を報告するコンファレンスコール状態になってしまった。それが結構時間がかかったので、最後にNYの町を見る間もなく、タクシーで空港に直行することに。上司に3時からスタッフミーティングと聞いていたので、DCに着くのが間に合うかどうか。結局1時半のDCへのフライトに間に合い、スタッフミーティングに少し遅れて参加できた。グループのスタッフ・ミーティングではそれぞれが自分の担当している案件について報告する。各自いろいろ違う国のタイプの違う案件を担当しているので、人の話も面白い。夫々の経験をシェアして、意見交換する。年度末までになるべく理事会承認に持っていけるように、みんなはチーフからハッパをかけられた。私は多分、一件クローズ、新しい案件も今年も出せると思う。うちの機関の案件は民間会社よりもプロセスが多いので、承認、クローズまでに時間がかかるのだ。だから、1件終えただけでもその年はラッキー、という感覚なのだ。しかも、内的・外的要因により、案件が成立する場合ばかりではないけど、確実なものになるべくエネルギーを注ぐ、という感じだ。仕事の後は、友人Wさん夫婦とお食事に行った。奥さんのYさんとはNYでのミリオネア○○セミナーに一緒に行くかという話を前にしていたので、その時の話をした。セミナー中に出てきたセリフの真似をして盛り上がる私たちに、ご主人のWさんははいはい、ミリオネアに是非頑張ってなってくださいな、という感じ(笑)。単純な私は結構影響されてその場ではなんだか自分もミリオネアになれるような気がしてきた(結構笑える)でも、冷静になってみても確かにそうかな、と思うのは、どんなささいなつまらない目標でも、何も持っていない人と明確化している人では達成確率が全然違うと思う。幾ら知識があって、スキルとポテンシャルがあっても、明確に意思を持っていない人、それから潜在的に自分が出来ると思っていない人は達成できない気がする。知識や元々のリソースが成功の決定十分要因でないとすれば、何かが思い通りにならないことを人や環境のせいにしている人はその時点で終わっているということではないか、と思う。そういったポジティブな考え方を教える意味ではそのセミナーは成功しているのではないかと思った。私は何でも実際に成し遂げた人がその経験から得られた知恵みたいな話をして、それを聞くのは好きだ。自分がやらないで、人の批評をしている立場の人より、自分が実際にやってみて、リスクを取っている人の方が説得力があると思う。だから起業家の社長などの話は結構迫力があったりするのだ。起業家、ベンチャーに限らず、今のような資金調達の仕事をしていると、結構その企業のトップの人に会って話を聞けることが多いので、戦略的な話も聞けるし、そういう面では興味深い。明日からメモリアル・ウィークエンド。忙しかった1週間だけど、週末は仕事を忘れられそうだ。。
2005/05/27
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今日は再びファンドの案件の審査の続きでNYに出張に来た。この前書いたドラムセットが置いてある?同じ投資ファンドに再び訪問、初期段階プロポーザル作成のための情報収集にやってきた。NY中心街にあるこのファンドに今回は上司は来なくて、一人で訪問。社長は気さくなアメリカ人のお兄さんという雰囲気だが、行くと自らドリンクは何が飲みたい、何を持って来ようか、と腰軽く動き回って気を使う。社長以外の周りのスタッフの方が年齢は上で、経験年数も長そうだけど、この若い社長のことを何年も知っていて、仕事振りを熟知しているので、大手インターナショナルバンクからこちらに移ってくる気になったという。どの人もトレードファイナンスのその道20年とか、そういう熟練レベルだ。この社長は各地の大きなコンファレンスのスピーカーとして呼ばれるなど、超大型輸入業者で経験が長いこともあって、その世界では良く知られた人らしい。そんな人だが、朝アポの確認で電話した時にミーティングしながら何かランチを頼もうか、と言われて別にいい、と言ったのに、気を使って話しながら食べるためのお寿司?!を取ってくれた。飲み物も日本人だと思って、気を利かせたのか緑茶を持ってきた。なので、再びヘッジファンドでロックバンドのドラムセットのある部屋で案件の話をしながら、お寿司を食べ、緑茶をすする、という不思議な?光景となった。クライアントは大体常に感じはいいものとは言え、ここの人たちには本当に肩肘張らないカジュアルな親切さがある。お寿司を持ってきてくれたやや年配の男性スタッフはウェーターのように(自分でそう言っていた)、他に何か必要ですか、何か飲みたいですか、と丁寧にちょっとおどけて聞いているが、実は某大手NY銀行の中南米部を全部統括していた元支店長クラスの人だったらしい。それも全く嫌味な感じなく言って、むしろそういう自分をお茶目に楽しんでいるようだ。他のスタッフによるとその当時のドライにびしびしと仕事をしていく雰囲気と、今ファンドに移ってきてからでは印象が全然違うらしい。今の好々爺然とした雰囲気からはそんなドライさは感じ取れないが。。。さらにヘッジファンドとはいえ、人間らしい雰囲気をまた感じたのは、今日のミーティングの部屋の中にドラムセットが置いてあるので、その話が出たら、社長がギター弾くよ、と言いながらまた即効の腰の軽さでそこにあるギターを持ってきて、頼んだわけではないけど、曲を弾き始めたことだ。ちょっとジャンジャンとか上手に弾いてみせた後で、とまあ、そういう訳だけど、自分はヘッジファンドのバンドの中では実はドラマーなんだ、とくるくると変化・展開する会話のテンポと繰り出される行動にどんどんこちらもついていくしかない。その直後に全く違う次元の私のファンドのオペレーションやストラクチャーの質問にもさっとついてくる頭の回転の速さ、切り替えの早さはさすがという感じだ。これで3つ目に見る投資ファンドなので、同じ業種なのにそれぞれにファンドのキャラクター、ステージが違っていて、比較できるのはとても面白い。ミーティングが終わった後の夜は、ブラジル・リオで偶然再会した起業家の友達が薦めるセミナーに参加。ミリオネア○○○というようなタイトルなので、要は如何にお金儲けをするか、みたいなセミナーに一見思われるが、motivational speaker的な感じだ。前もって登録しておいたはずなのに、行ってみると関係なく、3ブロック以上先の見えないところまで続く長蛇の列で、本当に建物に入れるのか、という位のすごい集客ぶりだった。NYにはリッチになりたい人がたくさんいるらしい。。内容は要約すると、成功の度合いは、誰もが子供の頃からの親や環境によって無意識のうちに教えこまれ、プログラムされた規模と範囲の中で自分の意識をセットされてしまっていることから、その範囲の中の成功しかできないようになってしまっている。その中には往々にして、お金持ちをネガティブに捕らえる傾向や、お金を設けることを悪いこととみなすようなことを親などから言われ続けてきた人にそれが多い。また、自分はここまで、となぜか思い込んでしまっている。自分の中のブループリントをまずリセットする必要がある。なぜなら、自分がポジティブに思って意図して目指したことしか、達成できないからだ。お金持ちの人は自分を億ドル規模、百億ドル規模、という成功幅で自然に考えられる人、それに変な精神的枷や、偏見がない人達なのだ。お金のないbrokeな人に限って、お金は重要なことではない、とかっこつけて言ってみたり、成功している人に対してresentの気持ちを持っていると言っていた。そういうのは全て成功をはばむエネルギーの使い方らしい。一番なるほどと思ったのは、お金を稼ぐということはより多くの人の問題を解決してあげること、という発想だ。よりたくさんの人の問題を解決した人がより多くの収入を得る、ということ。最初は寝不足で眠く、やや軽くみていたのだが、だんだん聞いているとなるほどと思わせる言葉はいろいろあったし、ユーモアを交えた話し方に会場の笑いもずっと途切れなくて、何かエネルギーをチャージされるような感じの話だった。これは別にお金儲けというアングルだけではなく、いろいろな他の事にも当てはまる見方かもしれない、と思った。要は、自分自身の見えないところのキャパ、器を変えて広げないと見える部分の物理的な成功もできない、ということかな、と理解した。ふむふむ。
2005/05/24
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前記の新規案件の他にも、投資ヘッジファンドが同じようなローンやクレジットラインに興味を持って、コンタクトしてきた。まさに前の案件がクローズしたリリースを見て、うちも是非興味ある、という事でいきなり電話がかかってきた。これで投資ファンド関係の3つ目、ということになる。早速、話を聞いてみると、200億円規模のサイズの結構大きいファンドで、またNYにあるという。民間銀行と共同融資が出来るか、担当オフィサーに確認したところ、このような案件は昨今非常に民間銀行にも魅力があるとのこと。ファンドとしての業績もいいし、経営陣の経歴・業績も良さそうだが、まずファンドマネジャーに会ってみないと電話だけでは人となりが分からないしコミットできないと私が提案し、上司と一緒に初めてミーティングするために、NYに日帰り出張に行くことになった。このファンドも5番街のマンハッタン中心地にある。上司が到着する前に私が一人で先にミーティングを始めていることになっていたので、先に到着。オフィスに入ってまずびっくりしたのは、いきなり玄関の横にバンドのドラムセット一式とエレキギターがでーんと置いてあったこと。確か私はヘッジファンドに来たはずなのに、なぜスタジオのようになっているのだろうか。中からはカジュアルな出で立ちの若いアメリカ人のお兄さんが出てきて、気さくに挨拶し、私が○○だ、と社長の名前を言った。それから、もう一人ずっと年配のヨーロッパ人ぽい人が出てきて、日本語で話しかけてきた。この年配の男性は数々のオランダ系銀行の重役ポジションを経て、日本生活8年を含む、海外出張ばかりの年月を経て、家族とようやく落ち着いてNYで住むためにヘッジファンドに来たそうだ。この人がディレクターの一人だ。なぜドラムセットがあるかというと、ヘッジファンド8つ位が集まって、なんとロックグループを作って、時々練習しているのだそうだ。社長自らがギターを弾くらしい。しかも、このファンドの社長はこの活動以外にも、チャリティー組織も立ち上げていて、発展途上国の手足の不自由な子供たちを助ける基金もやっている。元々超大手の米国輸入業者出身の社長はファンド業務そのものはシャープにてきぱきとこなし、その他にも生活の幅・クオリティを高めることもやっているところに感心した。スタッフは10人程度だが、みんなその道15年以上のプロフェッショナルばかり。革新的なストラクチャーを使った案件をやっている。そして、私が日本人だと知っての事前の配慮で、ミーティングしながらしかお昼しなくてはいけなかったため、なんとお刺身とお寿司を取り寄せ、食べながら議論した。日本に住んでいたディレクターの計らいらしいが、通常は冷たいまずい?サンドイッチが多いので、有難かった。上司もその後到着、ファンドが気に入り、すぐ案件にしよう、ということになり、私は今年2つ目の新規案件に取り組むことになった。こちらも中南米向け輸出金融ファンド、そして証券化的手法も使う、更に進化したスキームとなりそうだ。NYに来れるし、面白い案件は嬉しいが、体が幾つあっても足りません。。。でも、意図せずしてどんどんヘッジファンドの世界に去年から入って行き、知ることが出来るのは新鮮だ。
2005/05/06
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ブラジルの結婚式参加以来、日記がとまってしまっていたのはとにかく仕事が入ってくるわ、友人達の送別会、その他何かと忙しかったから。周囲の人たちにも「いつまでブラジルに行っていることになっているの」と突っ込まれてしまった。。もうリオでの夢のような?リゾートの日々も大分前のことになってしまった。残念ながら忙しい中でも日記をちゃんと書くという訓練はまだ出来てないのだ。それはそうと、去年クローズした案件のプレスリリースを見た別の投資ファンドが類似案件を今年始めにリクエストしてきて、約75億円規模の中南米向け輸出金融ファンド案件にまたチームリーダーとして取り組むことになった。この案件を始めるにはまず我が機関が投資するか否かの承認をeligibilityの委員会から受ける必要があって、それを無事先月通過、そしてその後はクライアントが案件の基礎条件に合意した末にマンデートレターなるものをサインする必要があるのだ。マンデート調印するまでは正式の案件にならないのだが、その際にクライアントはフィーを払うので、いろいろと交渉が始まる。タームシートを元に、まずリスクに応じた金利交渉、コストの交渉、国際機関特有の公共的・開発効果的な条件の交渉にかなり労力を投じた。でもなんとか合意に達し、ディールが成立。新規案件成立は嬉しいし、上司もマネジャーも大喜び。私も今年一つ形を出せたので、一安心。しかもフィーが入ると出張に行きやすくなるのだ(その為の収入が部署に入るわけだから)。こうして審査を開始できることになり、NYに出張へ。クライアントの投資ファンドはNYのタイムスクエアの近く、ミュージカルで有名なブロードウェー沿い、という超中心街にある。審査は一日中続くミーティングを通じて、ローン・プロポーザルを作るためのあらゆる質問を聞き、業務内容をよくよく理解し、文章に書けるように資料をもらうのだ。このファンドは中南米のいろいろな中小企業に輸出入のための資金提供をしている。エクアドルのえび、アルゼンチンの牛肉、ナッツ、ウルグアイの牛乳、ボリビアのごま、などなど農業・海産物系が多い。それぞれの国の産業にためには輸出金融は欠かせないし、まだ銀行からの資金だけでは中小企業向けの資金が足りていないので、このファンドはまだまだ需要がある、と言う。ウルグアイの別案件をクローズしながら、新規案件の審査を進めているので、結構スケジュール的にはしんどいのであるが、これを乗り越え、軌道にのせれば今年の目標の3分の一位果たせたことになる。というわけで短期決戦型の私は今はエネルギーを集中して投入しているところだ。。。
2005/05/05
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リオ滞在二日目はまずリオに本店がある宝石店HSternの見学ツアーから始まった。ホテルからシャトルバスが出ており、HStern本店ではブラジル特産の原石から如何に宝石として研磨されて、ジュエリーとしてデザインされるかの過程を見せるミュージアムがあるのだ。そこでは日本語ガイドイヤホン付きで、実際に職人が石を研磨している所や、品質検査している所、デザインしている所が見ることができるのが面白い。ブラジルは、貴石の特産地として有名で、アメジスト、トパーズ、シトリン、クオーツ(水晶)、エメラルド、アクアマリンなどの石が特産である。町中の至る所でお土産もののクリスタルの石などがごろごろしている。HSternの見学ツアーの最後にはちゃんと日本語を話すフォーマルな感じのセールスマンが待っていて、希望の石やジュエリーを1対1の相談でブースで聞くようになっている。そのセクションで一頻りいろいろな石を見せてもらうと、あとで普通のショーケースのあるセクションもあるし、あと普通のおみやげ物セクションもあり、そこでは石関係だけでなく、Tシャツやビーチサンダルまで売っている。という訳で何かは必ず買ってしまう仕掛け?になっている。なかなか気が利いていた?のは、最初の入り口ではまずカイピリーニャというブラジル特産のお酒が少し配られて、ちょっと気分がゆるんで?、歩き回って疲れた頃のセクションでは無料であらゆるトロピカルフルーツのアイスクリームを好きなだけ食べれるセクションがあって、疲れが癒される感じで、帰りは綺麗な大きな車で(ベンツ?)ホテルまで無料送迎サービスがあるので、優雅な気分でいられることだ。HSternの周りはリオの中でもお洒落なブティックがある高級なエリアで、女の子二人だと自然とウィンドーショッピングに走る結果になった。ビーチリゾート地らしく、リオには至る所に水着専門店があって、私達も入って見てみたが、さすがカーニバルの国、殆ど水着=ビキニ(それも布が極端に小さい面積)なので、そういうのに慣れていない日本人の私達は少しでもカバレッジ面積が高いものを探す、という感じになった。柄とか種類は豊富で、米国に比べて安いので、私達はそれぞれリオ発水着を買ってみた。そうこうしていたら、結婚式の時間に。結婚式はリオでトップのホテルだけあって、信じられない位洗練されていて、素敵だった。外人たちは皆ロングドレスを着ていてエレガントで、持って行ったドレスが大げさすぎるのでは、という心配は全く杞憂で、もっとフォーマルなロングドレスでも良い位だった。花嫁のNのウェディングドレスは今まで見たことある中でもトップクラスという位、素敵なデザインで、さすがお洒落なフランス人の彼女がこだわりを持ってNYまでわざわざ買いに行っただけある、という感じだった。式そのものはポルトガル語とフランス語、といういずれにしても私達は理解できない内容!だったが、雰囲気を存分に楽しんだ。私達二人が唯一の日本人だった。(次に続く)
2005/03/18
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今まで出張ではブラジルのリオデジャネイロは4-5回訪れているが、この度職場の同僚がリオでブラジル人の彼とめでたく結婚式を挙げるため、初めて「バケーション」として行った。この友人Nは職場ランチの友のフランス人同僚である。彼女が前付き合っていた人との遠距離の悩みからこの度のご主人とのドラマチックな出会いとお付き合いの経緯まで全部、定番のすしランチを食べながらいつも聞いていたので、実際の結婚式出席はとても感慨深かった。今までのリオデジャネイロ訪問は我が開発機関が融資している高速道路を管理オフィサーとして見に行き、エンジニアの人とひたすら道路の写真を取ったり、会社の人に財務情報をチェックし、聞いたりするものであった。そして、2件のうち一件はレアルの切り下げの影響でリストラクチャリングになり、無事償還はしているものの、私の初管理案件であると同時に、手のかかる頭の痛い案件でもあった。その初案件は本当に投げ出したくなるような大変な経験とたっくさんの仕事をしたが、そのお陰で今の仕事がそれに引き換え素晴らしく面白い、と思えるようになった(とポジティブ思考に考える)そんなほろ苦い?思い出のリオに今回は休暇として日本人のお友達のY子さんと一緒に行けた。直前まで案件の委員会発表があって慌しい予定の中、なんとかリオ行きの準備をし、ブラジルに到着できた時はほっとした。リオはワシントンの寒い天気と逆に当然いきなり暑かった。空港で知り合いに紹介してもらった現地M物産の運転手をしていたルイスという信頼できる運転手に迎えに来てもらい、無事ホテルに到着。(治安に配慮して迎えを一応頼んだ)宿泊したホテルは結婚式が行われた所でもあるが、リオで随一の伝統的なホテル。ここはいろいろなロイヤルファミリーや海外からのスターがリオに来ると必ずここに泊まる、というような所だ。今回は結婚式出席者特別扱いなので、普段では無理なような所なのに泊まれた。到着するなり、部屋がまだ空いていない、と言われて、プールサイドで待っていて下さい、と言われる。プールサイドに行くとワシントンであってことのある結婚式出席者の女の子達やNの家族がもう水着でプールサイドで優雅に日光浴をしていた。素敵なプールサイドですぐにプールに飛び込みたくなったが、まだ水着が荷物に入っているので、ホテル内のレストランで待機することに。偶然空港で会ったNのお姉さんとそのご主人と一緒にランチをしながら待つことに。Nのお姉さんのVさんは当然フランス人だが、サンフランシスコでHIVの新薬を出している企業に検査官として勤める医学博士を持つ才女だ。見た目はすらっと高く、お洒落で美人だ。パリでモデル経験もあって、今はチャリティーのためだけにサンフランシスコで時々モデルをボランティアでやるそうだ。そして、それだけではなく、更にとても性格が良く、妹思いで今回もいろいろな企画をお姉さんが妹の会を盛り上げる工夫をいろいろしているのを見てきた。前に私がサンフランシスコに訪れた時も町を案内してくれた親切な人だ。しかも、日本の文化と食事が好きで、ご主人との新婚旅行は日本中を巡ったそうだ。今はUCバークレーでMBAを仕事の傍らビジネススクールの授業を取っている。将来バイオベンチャーに興味があるらしく、大学院時代ベンチャーに燃えていた私とは話が思わず意気投合して盛り上がった。今度面白いコンファレンスがあったら、情報送ってくれるそうだ。また、ご主人はサンノゼで大手会計事務所でオーディターをやっていて、思慮深く穏やかで奥さんを温かく見守っている感じのするご主人である。意欲的に勉強と仕事に励む奥さんを応援している感じがする。理系の奥さんがいきいきと初めて会計や簿記を習って新鮮なことのように話すのが会計士のご主人にはかわいらしく映るらしい。。奥さんはバイオの知識に、更にビジネスの知識が加われば、そしてご主人の会計の専門性があれば鬼に金棒という感じがするカップルだ。このホテルのイタリアンレストランが偶然リオで一番良いと評判の高級な所だったので、いきなりフライトから直接のラフな格好なのに豪華なランチとなった。さすがにとてもパスタが美味しかった♪ようやくその後部屋に入れて、少し休んでから夜は結婚式出席者たちのグループでリオのお洒落なレストランで集まった。来ていたのはイタリア人、スウェーデン人、アメリカ人、ヨルダン人、日本人の私達、と国籍多彩だった。結構国際機関、弁護士などワシントンらしいバックグラウンドの人が多かった。その後、リオのパブのような所でビールを飲みながら立ち話を夜までずっと皆でしていて、リオの第一日目は終わった。
2005/03/16
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今日は仕事の後にフランス人の友達NのBacheloretteパーティーがあった。彼女は来月半ばブラジル人のフィアンセと結婚するので、リオデジャネイロの結婚式に私も招待されている。今日のパーティーはその前段階の第一イベントで、明日はウェディングシャワーが彼女の友達の家で行われる。Nは私が3年位付き合いのある同僚でもあるが、日本食が好きなのでしょっちゅう一緒にお昼を食べに行く仲の良い友達だ。同年代でファッションの話とかも好きで、サルサのレッスンに一緒に出たり、スポーツクラブも一緒に運動しにいくこともある。いつも仕事ばっかりしてないでもっと外に出てPARTYしなさい、と遅くまで仕事していると引きずり出されて、ジョージタウン付近の彼女のお気に入りラテンバーのHAPPYアワーに強引に連れていかれる。そこはいつも殆どラテン人ばかり。サルサのクラスも行こう行こう、と熱心に言うわりには、現場に行くとあのグループとは踊る気がしない、とかPICKYだったりしてかなり振り回されるが、裏表ない性格なので憎めない。仕事を一生懸命やるけど、ソーシャル面もアクティブなところが程度の違いこそあるにしろ、私と波長が同じなのかもしれない。彼女のフィアンセとの話は付き合いだした頃から聞いているので、遠距離を問題ともせず、あっという間に婚約、結婚に至っているのはなかなか感慨深いし、幸せそうで本当に良かったなあと思う。というわけで、今日はまずデュポンサークル付近のラテンバーからまず始まった。短いウェディングヴェールと可愛いパーティードレスを着ているNを囲んで女の子ばっかり20人位で(例外的にNと仲良しのペルー人の男性もなぜかいたが)ラテンミュージックのリズムにのりながら、皆でサングリアとMOJITOを飲みながら祝った。そこは結構職場のラテン人達にも人気のあるサルサバーだ。私は今度リオの結婚式でも会うことになっているパーティーの主催者のNの他の友人達、イタリア人、スウェーデン人、オランダ人、レバノン人、フランス人等などという多彩な仲間に会えて楽しかった。日本人、アジア人は私一人だった。いろいろリオでも会う人達と話せて良かったが、特に今度リオで合流しましょう、と紹介され電話で相談していたイタリア系スペイン人のVerizonに勤める女の子が気が合いそうで、お洒落な、感じのいい人で嬉しかった。7時から10時位までそこにいて、次なるバーへThe Girlsグループは移動。今度はテクノっぽい音楽もかかっている同じくデュポンのコネチカット通り沿いのバーへ、bachelorette girlのNには目隠しをしてどこに行くか分からないような状態でグループはキャーキャー言いながら移動。そこではゲームもあった。めくったカードに書いてあることをNが絶対やらなければいけない、というルール。「知らない男の人に携帯電話番号を聞き、抱きつく」とか「近くの男性に英語を話さない外国なまりの外人のふりをして、Men's bathroomはどこか聞く」など。周りに騒がれながらも、Nは照れずに大胆に!実践していた。ウェディングヴェールをつけたBachelorette girlが周りにいると、関係ない周囲の人もその辺の男性にNにアプローチするよう、たきつけたりして盛り上げてくれる。そして最後にNがやっぱりいつものお気に入りのラテンバーAAに行きたい!と言ってまたぞろぞろとジョージタウンに大移動。ここは思いっきりラテンミュージックで踊るところで、ダンススペースに使われる部分が最初の二箇所より広い。偶然というか必然というか、またここでも我が機関のメキシコ人同僚環境スペシャリストE、アメリカ人の同じグループ所属ジュニアプロフェッショナルDに遭遇する。Dは前からパーティー好きそうと予想していたが、やっぱりという感じ(向こうにもそう思われてるかもしれないが)職場では某アイビーリーグH大博士卒の名に恥じない有能ぶりを見せているが、仕事以外の面が見えた。女の子ばかりのグループで踊っていたら、Dと友達も混ぜてもらいたそうで、踊りながら乱入?してきた。Nを中心にのりよく踊っているうち、20-30人位のスネークが出来上がり(後ろの人が前の人の肩につかまって列になる状態のこと)、皆つながってバー内を踊りながら一周するはめになり、周りの人が笑いながら見ていた。Nはノリノリでお立ち台みたいな台に一人でのって派手に踊っちゃうし、目立っていた。ラテンミュージックと中東系の音楽もかかっていた。中東系の音楽は流行のベリーダンスっぽい動きが合うのだろうが、良く分からないから適当に踊っていた。それにしてもサルサをラテン人達が自然と様になって踊るのはかっこいい。それを見て、また私もサルサのクラスに行きたくなった。2時か3時以降もまだN達は踊っていたが、さすがに明日のイベント参加に支障が出るかもしれないので、先にもう一人の子と帰ることにした。明日はウェディングシャワーでバージニアまで行かないといけない。
2005/02/25
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President's Dayの連休は年末に続き、再びNYに遊びに行った。年末も会ったKちゃんの素晴らしい夜景の超高層マンハッタンの豪華マンションに泊まらせてもらって、一時だけセレブな気分を味わうことが出来た滞在だった。今回はワシントンの日本人コミュニティのソーシャル・アクティビティのリーダー的な存在であるKさん(この後隊長と呼ぶことにする)のご一家も丁度連休NYにいらっしゃるとあり、その号令の元に同じくNY訪問の私を含むワシントン隊員とNY隊員が参集し、夕食会が開かれた。網の目のように知り合い、友達がつながっている形で様々な分野の10人程が集まった。面白いことに少しずつメンバーを変えて、ワシントンからNY訪問が何度か行われていて、いつも皆一緒に訪問しているわけではないのに、共通の知り合いが増えていっている状態なのだ(ベン図の中心がだんだん大きくなっていく感じ)しかも、ワシントンからNY訪問の日本人の行動は似通っているらしく、行き先で偶然ワシントンの知り合いに会うこともしばしば。NYからは証券会社勤務のKちゃん、銀行勤務のKさん、公的機関勤務のNさん、中南米の研究をNYの大学でしているSさんだった。ワシントンからは隊長ご一家3人とフィラデルフィア訪問から足を伸ばして急遽参加することになったMBA留学生のH君、エイズワクチンの研究者のAさん、私という構成だった。いろいろな分野の人が集まって面白かった。Kさんの3歳の可愛い息子さんをあやす家庭的なパパぶりも初めて拝見し、皆心を和ませつつ、NY在住日本人御用達のレストランで本格的中華料理に舌鼓を打ち、団欒した。その後、歌好きな?H君の提案により、カラオケに行くことになった。NYのカラオケボックスはアメリカ人に超人気だと分かった。結構部屋数は一杯あるのに、1時間近く待って入れたのがようやく夜中すぎ。私は風邪の治りきらないハスキー・ボイスのまま参加。5年半前でとまっている日本の曲のレパートリーなので、スタート地点がもう既にレトロになっている上、だんだん曲数を重ねるにつれ、歌が更に古くなっていくのは致し方ない。しまいには歌えるものが尽きてきて、M娘を通り越して、おN子クラブまで出てくる始末(正気に戻ると恥ずかしい)唯一最近NYに着任したKさんだけが他のメンバーは知らない新曲を披露している感じだった。皆がどんどん曲を入れていくうちに気が付いたら4時の閉店時間。まさかNY訪問してカラオケに行くとは思っていなかったが、まるで日本にいるような感じだった。唯一違うのが隣の部屋からアメリカ人の英語のやや音程はずれ気味(失礼ですね)の大音量が聞こえてくることだ。皆気持ちよさそうに歌っていた。その後Kちゃんの素敵なマンションに帰宅、修学旅行気分でお話などしながら寝る。しゃべっていたら、急に途中でKちゃんの返事がなくなっていることに気づき(笑)、私も就寝。
2005/02/19
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アクセス件数が何時の間にか1000件を超えて、1075位になった。最初は自分のための記録というか何かイベントがあった時の記念のつもりで書き始めて、Gree友達位しか見てないのかと思ったら、意外に一杯アクセスが各地からあるようなので驚いた。また周りのブログ友達?とかブログの話をするのも、ブログがきっかけで友達と話するのも楽しく、更に張り合いが出てきた。読んでる人がいてもいなくても、うまく書けていてもいなくても、なんか元々私は書くのが好きらしい。ちょっと関係ないかもしれないけど、子供の頃作文を書くのが好きで、国語は何もしなくても良い点が取れた。本もとても読むのが好きな子供だった。今思い出したが昔平家物語の感想文を書いたら、古文の先生に、こんなに洞察のある感想を読んだのは初めてと言われて全校生徒の前で発表したらと薦められた。でも、まだその頃はとても内気(今と違って?)だったので発表もしなかったし、あまり外に表現することはなかったが。でも、仕事としてばかり文章を書いているうちに自由に文章を書く楽しさを忘れていたような気がする。最近仕事は全て英語なので、日本語の文章を書くのはメールのやり取り位しかないのだ。だから日本語書くのがちょっと新鮮なのかもしれない。ブログの前は唯一日本にいる祖母に手紙を書いて送る時に、私の文章力が試されるという位だった。手紙を書くと孫からの便りを喜んで涙を流しながら読んでいるらしい(嘘ではない)ので、なるべくアメリカから書いて送ろうと思っているのだ。祖母に書くときはなるべく孫として誇りに思ってもらえるような事をどうしても書きたくなるので、現実よりもやや優等生っぽく描いているかもしれない。例えばもちろん何か仕事で成功した時、上司にほめられた時のことなど書いたことあるし、あとは綺麗好きで伝統的な祖母は私が仕事で活躍することよりも家事全般をちゃんとやっているかという事の方を重要視するので、例えばいろいろな料理を作ったことや、家全体の掃除片付けをぴしっとやったことなどをやや強調(誇張?)して書くようにしている。祖母は元々士族の子孫で、幼少の頃武家屋敷のお姫様のように育った人なので、昔から生活態度をきちんとすることや、四季折々の伝統などの躾には厳しかった。お正月に正座して書く書き初めは上手に書けるまで頑張らされたり、目上の人へのご挨拶をきちんとする、とか台所は毎日床をぴかぴかに光るまで磨く、とかそういう事だ。全てがぴしっとするのが好きな大正の人なのだ。私は元々のんびりの気にしない性格なので、オールラウンドでしょっちゅう注意されていたが、お陰で少なくともどういう事がきちんとすることなのかは分かるようになった。(その割には今ものほほんモードですが)そういうと古風なだけの祖母のようだが、実はとてもハイカラでモダンな人でもあって、さりげないファッションセンスと斬新なアドバイスをくれるのにはビックリしたものである。斬新すぎて洒落ているからとその気になって薦められた格好を外にしていくと、周りが目を見張る、というような事もあったが(笑)。海外在住経験も長くてモダンな祖母は結構同年齢位の人にもてるらしく、今住んでいる鎌倉付近で、母を待ってベンチに座っている間に素敵な元海軍中将(だったかな)の紳士から話し掛けられたり、散歩中に会った老紳士にまた会いましょうと言われたり、いろいろな「出会い」があるらしい(ちなみに祖父は大分前に死去してしまった)本人はそれを目指していないのに、私なんかよりよっぽどモテて華やかだ。近くのお線香屋さんの主人と仲良しになったり、社交的なので初めて会った人でもすぐに旧知の友達のように話して出してしまうところがある。先日もどこかの喫茶店か何かで偶然会った有名雑誌の女性編集長と野球の話などで盛り上がったら「お母様のお話は面白いですね」とまたいろいろ聞かせて欲しい、と言われたそうである。 とまあ話はそれたが、ブログを書き出す前は祖母に日本語で手紙を書く時だけが日常で日本語文を書く機会だった。しかもすごく喜んで面白いとほめてくれるので、余計に面白いこと書こうと思うのだった。やはり読者がいると張り合いがある、ということを言いたかったわけですね。これからも拙い文章ですが、立ち寄った方は暇つぶしの気分換えに読んで頂ければ幸いです。こちらも日本語を書くのが少ない中、文章書くのがいい気分換えになります。案件のプロポーザルを書くのが仕事ですが、こういう自由に好きなことなんでも書けるのはいいですね。。コミュニケーションの手段にもなるので、オンラインでもオフラインでもフィードバック歓迎です。
2005/02/12
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ワシントンに来てから実にたくさんの人と知り合い、友達になった。もちろん日本人だけではないが、日本人だけの例をとっても、日本にいた時とは比べ物にならない多岐にわたる業種、機関、年もいろいろな幅広い人達と交流し、仕事以外の場でも楽しい付き合いをさせて頂いている。(皆様、毎度お引き立てありがとうございます)多分海外にいるから日本人同士のお付き合いが逆に貴重になり、またパーソナルなつながりになるのだろう。日本にいた時の方が、日本人ばかりなのに、業種が投資銀行で、昼夜常時職場にいて、かつ守秘義務の関係で人にやっている仕事のことをしゃべってはいけなかったせいもあって、何か同じ職場の人とばかり一緒にいた気がする。そして、オフィスにばかりいる結果、話題も職場の話ばかりだったような気がする。しかも、睡眠時間を増やすため、オフィスから5分の距離のインベストメントバンカーばかり住んでいるマンションに引越し住んでいたので、いつも同じ世界で余計に気分が変わらなかった。全く違う業界の人と仲良くなる機会はあまりなかった。それに比べるとすごくこちらではいろいろな日本人同士が仲良くなり易くて楽しい。だが、長くこちらに住んでいる欠点は自分より滞在期間の短い人が殆どで、どんどん帰ってしまったり、他へ移り住んで行ったりするので折角仲良くなっても別れもたくさん経験することだ。実際、仲の良い友人達で今までも行ってしまった人、今年中に帰ってしまう人が何人かいる。でも、一度仲良くなった人達とは是非、どこにいても連絡が続いていけばいいな、と思う。一方で人の「誕生」もたくさん周りで経験した。今年始め私の周りで知っているだけでも5人のベビー誕生があった。この5年間、カソリックのラテンアメリカ人も多い私の職場では、かなりの頻度でベビーシャワーがあった。同年代の親しい同僚達の間でも、私が入社以来、ベビー一人目、そして既に二人目のサイクルに入りつつあり、一人目のベビー達はもうよちよち歩き位にはなっていて、みんなから私は「auntie ゆったん」呼ばわりされる。子供達はすくすくと育っている。何時の間にか甥っ子や姪っ子が一杯出来た気分だ。職場のバーベキュー・パーティーなぞに行くと幼稚園のように子供が一杯走り回っている。お陰で家庭と子育てというものはこういうものか、という人生の勉強?にはなる。日本の職場では全くお産話は周りになかったが(そういう職場ではなかったみたい)、こちらは誰かが産む時は周りに先輩としてアドバイスできる同僚がたくさんいる。女性のオフィサーもたくましく産まれる直前までクライアントと交渉し、仕事を続け、生まれて2ヵ月後にもう普通通り仕事をしている。もう生まれて何時の間にかスッキリ細くなっちゃったのね、みたいな。職場の建物の中に託児所があって、夕方一緒に子供と帰れるので、仕事と子育てを両立させている。そしてそれが当たり前、という感じだ。だから子供を産む、という事がキャリア上の支障にはなっていない。たまに少し楽めの部署により高いポジションに昇進して移っていく女性はいるが、それも昇進していくので、キャリアアップしている訳だ。こちらに慣れるとそれが当たり前かのように思えるが、実はそうではなくてこの環境が恵まれているのかな、と思う。という訳で、たくさんの出会いと別れ、移り変わり、誕生があって時はどんどん経っていく感じがするが、何にせよそれだからこそ、折角出来た、人とのつながりは大切にして行きたいと思うのであった。
2005/02/09
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今日は仕事帰りにBestBuyに寄った。なぜならば、友人に借りたビデオテープがデッキの中でスタックしてしまったからだ。それもただのビデオではない、あの、ヨン様の出ている「冬のソナタ」のビデオだったのだ。最近、ワシントン界隈の日本人達(というか主に私の職場の日本人達)の間でちょっとした冬ソナブームがあり(日本にいる人からするとちょっと遅ればせ?)、このビデオは何人もの手を経て、ようやく私の所にやってきて、かつ私の後もウェーティングリストがある状態なのだ。だから、突然ある日ビデオが止まってしまっていて、テープが出なくなったのには大変焦った。とうとう電気屋に持っていくしかないという事で比較的近くにあったベストバイに行き、ビデオデッキを解体して取り出すことに。「Geek Squad」の人が蓋を開けるのはたやすかったが、その後テープはかなりいろいろな器具の周りに迷路のように入り組んで入っていて、テープ取り出しは傍で見ていても並大抵ではなかった。釘を一個一個取って薄いテープを傷つけないように迷路状の器具をはずしていく。。。結構中身はコンピューターのように複雑な構造なのだ。でも、なんとかテープは取り出せて、当然デッキは捨てることに。元々電源が動かなくなっていたので、修理したとしても大変だったと思う。テープを試しにエンジニアの黒人のお兄さんがお店のTVに映してみた時に、画面にばばっと、どアップで主人公のユジンが涙を流している場面が出て、ドラマチックなBGMが流れ、「チュンサンごめんなさい」かなんか言っていて、周りのアメリカ人がなんだなんだ、という風に見ていてちょっと照れた。という事でビデオデッキはDVDがあるので迷ったが、結局一応買うことにした。もうDVDがあってビデオを見る頻度は少なくなると思って、一番安価なものを求めようとしたが、結局だんだん見ているうちに、やっぱり音はステレオじゃないとね、とかソニーの方が耐久性がいいかな、とかいって、超特価のものにはしなかった。レジの所に持って行ったらお兄さんに「どうしてVCRを買うのだい」と聞かれ、もう時代遅れの技術をなぜ未だに使うのか不思議、みたいな顔をされた。もうレコードはなくなり、CDに取って変わったのと同じでVCRがなくなり、DVDだけになるのも時間の問題なのだろうか。でも、家に映画のビデオがあるし、全くビデオテープが見れなくなるのも不便、と思って買ってしまった。面白かったのは、金曜日の夜に電気屋さんに行くのはこの私ぐらいかと思ったら、入り口付近で同時に二人の日本人女性の友達にばったり会ったことだ。一人は同じ職場のMさん、もう一人は別の公的機関のEさん。二人とも結構大型のコンピューターないしは家電を買って、積み込んで帰るところだった。私としては普段と大分違うパターンの行動を取ったつもりだったが、結構みんな家電の買い物してるのだと知った。いずれにしても、すごい偶然だ。そういえばエンジニアのお兄さんも私のデッキが日本語表示だけどと言ったら、「最近は日本語のを持ってくる人が多くてねー Japanese勉強した方がいいかな」と言っていた。結構サービスセンターに来る日本人が多いらしい。という訳でこれからビデオとテレビを接続しないといけない。昔は電気器具好きの父に全部お任せだったが、今は自分の力でなんとかやり遂げなければいけない(大げさ)。そうすると冬ソナの続きがようやく見れる。私はヨン様ファンでは特にないが、ストーリーの先行きには興味があるので楽しみ。また眠れない夜が続きそうだ。
2005/02/04
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去年は私はウルグアイともう一件の中南米リージョナル案件ばかりやっていて、もう君は日系ウルグアイ人だねとウルグアイ人に冗談を言われるほど、よく訪れていたし、力を入れていた(今も案件クローズ中だが)。今年も国別担当がウルグアイとパラグアイになっているのだが、急にパラグアイの委員会のブリーフィングを頼まれた。パラグアイはまだ案件がなくて、私も担当替わったばかりでよく知らなかったが、なんとか情報収集し、報告した。この国の専門家の人と話す機会があって、「この度担当になったのだが私はまだこの国は詳しくないので、もっと知りたい」と言ったら快く今度是非お話しましょう、と言ってくれた。私は金融市場担当だが、この国はインフラの民営化は通信以外はあまり進んでいなく、金融市場も非常に限られているので民間案件の立ち上げが結構困難なのだ。それから自分の直接の担当ではないのだが、他にもカリブ海諸国の立ち上げ担当チームを自分の興味から手助けすることにした。今日始めての戦略ミーティングがあって、国ごとに担当した方が効率が良いという事で、私はバルバドスの担当になった!それから余裕があったらバハマも見ることに。小さい国は案件にするのが超難しいが、新規マーケットを勉強するのは新鮮で面白い。今までは担当がら、南米ばかりだった。ウルグアイ、アルゼンチン、ペルー、ブラジル、エクアドルを扱ったことがある。今も自分の案件で忙しいけど、全く今まで関わりのない新しい国と市場を勉強するのも面白そうで楽しみだ。一からマーケティングもしなくてはならないし、需要も規制も理解しないといけない。新しくコンタクトも取っていかなくてはならないし、プロダクトの宣伝もしないといけない。そしていつか何か具体的案件がもしあればその国に行けるかも!行ったことのない国に行くのと私の好奇心が満たされるので、新規国に行くのは大歓迎だ。あと、チリも手伝うことになっていたんだっけ。チリは結構発達した市場でまた別の意味で勉強しがいがありそうで、楽しみだ。という訳で今年も我が案件立ち上げチームは忙しくなりそう。 (ほとんど独り言のような日記ですみません)
2005/02/03
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先週、職場の人達(日本人)に「ダビンチコード、面白いよ。はまるから」と言われて、次の日に近くの本屋さんに寄った時に思わずすぐ買ってしまった。周りの人達は日本語版を読んでいて、持っている人に借りれば、と薦められたのだが、買ってしまった方が早いと思って、英語版を買ってしまった。その日の晩、ぱらっとどんな感じが見ようとページを寝る前に開いて見たら、oh my god、もう止まりません!ちょっと読み出したら次の展開を知りたくて、結局全部を一晩で読み上げてしまった。夜始めたので、読み終わったのは朝4時位。(次の日仕事なのに!)内容は、読んでない人がこれを読む場合のために、あまり触れませんが、キリスト教の背景のいろいろな解釈がある中(カソリック、プロテスタント、ユダヤ教、女神信仰(かな?))ダビンチの絵などから、ルーブル博物館で起きた殺人事件の謎解きをしていくような感じだ。基本的にはミステリーだけど歴史が好きな人や、芸術が好きな人には舞台がパリのルーブル博物館などが出てくるので面白いと思う。あとは私はあまり知らなかった秘密結社、シンボリズムのことなども出てきて、ふーん、そういう世界もあるのかという感じだった。この本に書いていることがどこまで本当にある事なのか、本当に存在する思想などを反映しているか分からないけど、読んでいると本当のことに思えてくる感じだった。敬虔なカソリックの人が読んだらショックを受けるような内容かもしれないが、作者は一体どんなバックグラウンドなのかな、と思ったりして。しかし一気に読んでしまったので、もう一度じっくりと検証しながら読み直した方が理解を深められるかも。またこの本を読んだ人たちと感想を話し合うのも楽しみだ。来年映画化されるらしいし、そちらも見てみたくなる。
2005/01/30
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今日は、昨年末クローズして、案件第一貸し出しが終わった投資会社の人に久しぶりに次のステップの相談と近況を聞く為に電話をした。彼らの会社はそのローンを得る為にものすごい事細かな融資条件を満たさなくてはならなかったので、年末の貸し出しが無事終わった直後はさぞかし喜んでいるかと思いきや、投資先に貸し出された資金を急いで運用する作業に追われて全く余裕ないという感じだったので、暫くそっとしておいたのだった。ところが、年も明けた今日は無事南米諸国に資金を全部無事投資し終えられたらしく、「あー元気?こっちも電話しようと思ってたとこだったんだよ」と親しいお兄ちゃんか旧知の友人か何かのようなリラックスした様子の返答だった。この人がこの会社のCOOなのだが、年末の第一貸し出しの終了後、上司を含む関係者皆宛てに「Dear Y, We appreciate very much your dedication and persistence in pushing the entire deal to conclusion. We are very happy to have concluded this and look forward to working with XXX and YYY for the next several years. We believe very strongly in what we are doing to serve our target market and are gratified that the XXX and YYY are behind us in our mission.」という風に書いてくれた(XXXは我が機関のことで、YYYはCo-lenderだった機関の事)。特に最後の熾烈な交渉中には丁丁発止でお互い火花を散らすこともあったクライアント会社が、最終的には案件がまとまったことに満足して、こう言ってくれた事が何より嬉しかった。普通融資先は資金が提供される事には嬉しいと思っても、当たり前としていてわざわざ感謝を書いて送ってくれる事は稀だからだ。同じ年末に理事会で承認を受けたウルグアイ案件の南米カウンターパートは以下のように書いてくれた:Dear Y, I have been away from my desk for a couple of days but before any more time passes I wish to extend to you my most hearfelt thanks and congratulations on your superb work, enthusiam and dedication to this project. And if you allow me to say this , I would like to add I have met many outstanding professionals in my life ; you are certainly up there with the very best. With my best personal regards〇〇 この人もその会社の社長で、私なんかと比べたらかなりシニアなとても立派な方で、重要なコンタクトを一杯持っている人でもある。もし日本のような上下関係の厳しい社会だったらシニアな人が自分より20年も若いものにここまで明快に感謝の意を示すだろうか。私はこの言葉は額に飾っておきたい位、案件発掘から苦節2年の努力が最も報いられた励まされる言葉だ。公的な開発機関とは言え、民間のクライアントに喜ばれなければ何の意味もない仕事な訳で、民間の尺度で、satisfactionがあったか、というのが我が機関の成績表に相当すると常々思っているからだ。開発機関が思い込みの開発効果を押し着せても、およそ民間の感覚からはずれた必要とされないプロダクトを提供しても、そもそも活用されなければ開発効果を発揮できないからだ。公的機関の性格の強い組織で、民間のスピードとマーケットでも競争力のあるプロダクトを提供するのは結構大変だ。ましてや、顧客が金融機関の場合はなお更competitiveな価格、条件でないと元々要らない、と言われてしまう。でも、こちらの公的機関としての条件も飲んでもらわないと出せないし、そのラインの鬩ぎ合いと熾烈な交渉になるのだ。プロダクトも万年同じご馳走を出していたら飽きられるのと一緒で、その時のニーズに合わせて新規プロダクトのスキームを顧客の需要に合わせて開発していかないとならないのだ。巨大な公的組織で前例のない新規プロダクトを出すと内部で説得する作業がまず大変で時間がかかる。でも、民間マーケットのスピードで対応しないともう市場が変化してもう必要ない、と言われてしまうというジレンマが常にある。それ分かってて内部の人は意味不明の反対意見出してるのかーっと叫びたくなることもしばしばだが、大分忍耐力が鍛えられて動じなくなった今日この頃。そんな苦労と喜びを同じ案件で分かち合ってきた顧客のカウンターパートとも、クローズして第一貸し出しが終わると、ポートフォリオ管理のオフィサーに日々の担当責任が移転されるので、ある意味お別れだ。これからはコミュニケーションを取る機会が少なくなると思うと、少しだけ淋しい気がする。でも、いろいろな出来事を通して築かれた信頼関係は永続的なもので、また、次の機会に実を結ぶ、と信じている。(実際、案件発掘は前に一緒に働いた人達からの口コミもよくある)だから、これからもCS(customer satisfaction)を大事に、やって行こうと思う。
2005/01/27
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つまんない事だが、年末年始2回目の風邪を引いてしまった。一回目も治るの時間かかったけど、また知らないうちに引いてしまうとは。。。ちょっと喉がからっとすると思っていたら、コホッと言う咳がゴホっと段々大げさな咳になって、だんだん熱っぽくなってだるくて。。今日は午前中仕事を休んでしまった。でも、午後は仕事メールが飛び交っていたし、ミーティングもあったので行かざるを得なかった。仕事をなんとか終えて帰りはふらふらになりながら、ビタミンCのフルーツを食べねば、とホールフーズに寄って買い物した。体によさそうなもの、栄養になりそうなもの、と思いながら野菜などを見ていくうちに、思ったより買い込んでしまって、こんな力のない風邪の体で運びたくない量の買い物になってしまった。こんな時、一人暮らしは不便。自分の体がつらいのに、自分が動かないと、状況が改善できないし。薬を飲んでいても、治る早さには限界がある。仕事も休みたいけど、完全に寝込む程でないから、やるべき事の量とまたミーティングをリスケする面倒を考えると、つい出勤してしまう。こうしているうちにダラダラと風邪が長引いてしまう。鼻がつまると息も苦しくなるのがとてもうっとうしい。はあはあ、と苦しそうな息になってしまうし。こんなに鼻をかんでばかりで、だるくしてると、さぞかしゾンビのような顔になってるのでは、と鏡を見る気もしなくなる。(そんなに言うなら休めばいいのに、という感じだけど)薬を飲んでもあまり効かないので、堪り兼ねてネットで風邪を治す方法を調べようと思い立った。世の中にはたくさん同じ質問を持った人達がいるらしい事が分かった。結論としては質問をする人の方が多くて、答えが載っているサイトの方が少ない。でも大体たくさん寝る、ネギを食べる(買ってきて正解!)、汗をかく、病院で注射を打つ、食欲がなければアイスクリームを食べる、などだ。早速明日ネギを食べようと思うが、こんな時、子供の頃は半信半疑でやらされていた祖母の知恵「ネギをハンカチで巻いて首に巻きなさい」と言っていたのを思い出したりする。本当に効いていたのか謎だが、ひどくなってくると試してみたくもなる(でも食べる分がなくなるからやめときます)何かすぐに、絶対治る方法ってないものだろうか。あー早く治りたい。元気な時に怠けて運動を続けていなかったのを反省。毎日運動していれば、もっと抵抗力があったかも。それか週末に「ダビンチコード」を徹夜で一気読みしたのが体に響いたのかな。。
2005/01/24
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風邪気味で、昨晩寝たのも遅かったので週末の今日はお昼近くまでぐっすり寝ていた。普段だったら運動に行くのだが、雪が昨晩から振り続けているので今日は車を出すのは無理、という事もあり幸せに?ゆっくり寝ていた。夢うつつで目を覚ました時に変なリン、リン、という音が玄関付近で鳴っているのに気が付いた。もしや私のアパート設備の何かが壊れて音をたてていて、ご近所にご迷惑をかけているのでは、と音の出所を確かめようとしたが、中からではないらしい。そこで、ドアを開けてみたらもっと大きい音が鳴り響いていた。その割には誰も廊下にいなくて静か。そこで、フロントに電話をかけてみたら、「ファイアーがあるから、早く降りてきて下さい。」と慌てた様子で言われた。私は寝ていたから気がつかなかっただけで、もうずっと前から鳴っていて他の人達はもう避難済みなのかも?!寝起き状態から、とりあえずトレーナーを着てコート、帽子、ブーツを履いてバックだけ持って下に降りた。ロビーには人間も犬も一杯(コンドミニアムはペットOKなのでワンちゃんが一杯住んでいる)集まっていてがやがやしていた。消防車も目の前に止まっていた。どうやら3階から煙が出たらしい。降りてすぐに自分が中途半端な用意で出てきてしまったことに気が付いた。素足に靴をはいていて寒いし、携帯電話も置いてきたし、行き場がないからこれからジムに行こうにも運動着も持ってきていない。でも、戻ると危険が待ち受けているといけないし。。。(大丈夫そうとはいえ、逆戻りするのもためらわれる)暫く何も起こる様子もなく、ただ消防士さん達が上がっていくのを待つばかりでロビーにいてもする事もなかったので、私は近くのカフェに歩いて行く事にした。家から2ブロック位の所で、週末に付近の人達がブランチに集まる小さなカフェだ。雪の中を傘なしで歩いて行くのは寒かった。でもこんな事でもなければ私は家の中から一歩も出なかったかもしれないので、真っ白の雪景色を楽しむことが出来た。カフェオレとクロワッサンを食べながら、ローカルCity Paperを読んだ。周りは一人で新聞を読んでいる人、友達同士で政治の議論をしている人、ただ寛いでいる人、と落ち着いて長居できる雰囲気だった。普段ローカル新聞に目を通す事もないが、結構ローカルイベント情報も充実しているのだと見直した。こんなに求人情報もある、とぱらぱら見ていたら、目に入ったのが「自分は過去6年間毎日欠かさず酒を飲んでいる。一日一食のみ。でも食べる時はチキンを全部丸ごと食べる。そして全てを無駄にしない。食べれない部分ではネックレスを作ることにしている(続く)」という訳の分からない怪しい宣伝があって何かと思って表題を見たらMan seeks womanという欄だった。こんな事読んで連絡取る人いるのか?!変なの、と思った。受けを狙っているのか。。。世の中にはいろいろな人がいるのね。もちろんこんなのばかりでなく、まともな就職情報やハウジング情報などもたくさん載っている。帰りは近くのサイバーカフェに入ってみた。今まで一度も入った事がなくて興味が引かれたから。比較的若い人達が皆ラップトップを持って仕事したり、勉強したりしている。たまに集中したい時に来るのもいいかも、と思った。雪の中をまた歩いて帰ったら、コンドのロビーの人だかりもなくなっていて、無事家が焼失している!とかいう事もなかった。フロントの人によるとストーブから煙が出ただけらしい。私のUNITの中はrenovateされて新しいが、建物は古いので火事などは気をつけないといけないと思った。とはいえ、このボヤ騒ぎのお陰で雪の中を歩いてみる事ができて新鮮だった。という訳で、今日感じたのは:1.行動パターンを変えると身近な所からも新しい発見などがあって新鮮。2.いつでも非常事態にぱっと準備万端に避難できるように常備セットを作って置くといいかも。3.ご近所もまだ未開拓なところがいろいろあると再発見したのでもっと探索の余地あり。それにしても、寒い中歩くと流石の私もシャキッと目が覚めた。折角だから雪でも一日有効に使わなきゃ。
2005/01/22
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連休中、知り合いのお家のお好み焼きの会に呼ばれ、本場仕込みの関西風お好み焼きを味わった。集まった人たちの殆どがたまたま公的機関か国際機関だった。ここで食事の後、アルゼンチンから購入してきたというモノポリーのゲームをやる事になった。このゲームはもちろんルールブックがスペイン語で書いてあるので、チリの帰国子女のYさんとスペイン語基礎レベルの私とで、ルール解読をするところから始まった。普通のモノポリーと違うのは、先進国と発展途上国とにボードが南北エリアに分かれており、コマがとまったところで、土地や産業を買う代わりに、まずコーヒー、穀物、砂糖の一次産品を取得、一次産業があって初めて先進国エリアにある加工産業(砂糖があったら砂糖を使った食品産業とか、家畜があったら靴の販売とか)も取得できる仕組み。ただし、Golpeという戦争の所に泊まると、折角積み上げたキャッシュは一切IMFが没収(これぞカントリーリスク?!)。最初に3本金塊をもらって、換金レートはふったダイスの数で決まり、最初の資金が少ないとイキナリ債務国になりやすい状況に。債務がある程度増えてくると、ふるサイコロの数も増えて、加速度的に雪だるま式に債務がふくれる。一ターン毎にIMFに10%の金利を払っていかなくてはならない。一方で、一次産品と産業を買い占めたコンツェルンや財閥は、どんどんキャッシュフローが入ってくるので、更にもうかっていく仕組み。とても資本主義を感じさせるゲームだ。面白かったのは、Ayuda del BIDという、米州開銀の支援の箇所ではイキナリ大金10万ドルのグラントをもらえるので、どうしようもなくなった小国にはすごくラッキーで有難い存在になっていた。IMFルールらしく、Conditionalityというカードがあってひくと大体何か払わされるという仕組み。しかもスペイン語なので、良く読まないといい事なのか、悪い事なのか一瞬では分からないので、スリルがある。国際機関で働く当事者のメンバーも多かったこともあり、中南米諸国の気持ちが分かる、一ひねりあるルールで、面白かった。誰かが儲けて勝つ、のではなく誰かがIMFに対して借金が払えなくなって終わり、みたいな少し後ろ向きな感じもあるけど。。。アルゼンチンの債務が膨れ上がって、最後にもうどうやっても返せないのだからどうでもいいや、というようなヤケになっていく気持ちが理解できるゲームであった。(アルゼンチン人が作っただけある?)それにしてもこのゲームのようにBIDは中南米で有難い存在として本当に思われているとしたら、ちゃんとこのような期待に応えていかなくてはなりませんね。。。
2005/01/17
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年末年始、もっと大きく言えばクリスマスからずっとパーティー、忘年会、新年会、鍋、会食・飲み会イベントがここアメリカでも日本と同じく私の周りで繰り広げられてきた。言わばずっと「毎日フェスティバル」状態が続いていた。結構社交生活が忙しいと楽しいのだが運動を普段通りするヒマもなく、こんなに本能のままに美味しいものを食べたり飲んだりしていて、エクササイズしていなくて良いのか、と自分を責める日々が続いていた(ちょっと大げさ?)。年末は前回日記の通り、案件が二つ急ぎでクローズしたり、理事会承認に持っていかないといけなかったので、究極に忙しいから時間がない、という自己正当化できる理由があった。でも、今週末は連休。いよいよ言い訳がなくなって、今日は久しぶりに以前の習慣に戻る努力をした。習っているカンフーの学校に久しぶりに行ってみたら、先生達に前から「最近来ないけどどうしたのか」と心配されていたので、少し遅れていったにも関わらず、「よく来た」と言われ、特別に忘れかけの連続技の型を個別に見てくれた。めったに普段のクラスには出ていらっしゃらない一番偉い香港人の「Sifu」(中国語で師匠のこと)までが「久しぶりじゃないか」と声をかけて下さった。この先生方の親切さ、寛容さが実は大きな魅力の一つで、私はこの学校のユニフォームのダサさには目をつぶって(?!)でも通っているのである。ユニフォームは蛍光黄色のTシャツに学校名が漢字で書いてあって、下はブルースリーみたいな黒いダボパン。靴もカンフー用の布靴で、その中は白い靴下を履いてしまう。それに等級別の色の帯を腰に巻く。私は今のところゴールドベルト。この色彩感覚はお洒落コンシャス(笑)な私には許せない。こんな格好は普段の知り合いには絶対に見せられない。でも、ジムに行くよりもずっといい汗が書けるのと、先生方が初心者にもとても親切で、活気のある学校なので行くことにしたのだ。今日は練習以外でも、中国正月パフォーマンスに向け、有志の生徒達が太鼓を手作りで作っていた(作れるものとは知らなかった)。久しぶりに運動したら気持ちがよくなって、調子に乗って、付近にある以前クラスに通っていたゴルフセンターに寄り、100球位練習ボールを打った。こちらもブランクのせいで最初どうしようもない位駄目で嫌になりそうだったが、根性で続けてみたら、最後の方は一応アタリが良くなってきた。最初はボコッとか周りの人に恥ずかしい位の打ち方だった一番ウッドも最後になんとか普通に飛ぶようになって嬉しかった。きっとこれも継続しないとコースに出て発揮できるようにならないだろうなーと思う。帰りはContainer Storeに寄り、いろいろな大きさ、形のハコなどオーガナイズ・グッズを一杯買った。私は家の中の整理に役立つグッズが一杯のこの店が結構気に入っていて、行くと必ず予想よりたくさん買ってしまう。その他2-3箇所買い物などの寄り道をした。という訳で運動すると元気が出てエネルギーが増して行動力が増す、ということが実証された日だった。これからまた普段の運動ルーティーンに戻ろうと誓うゆったんだった。(突然一人称を昔のニックネームにしてみたくなった)
2005/01/16
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金曜日は職場の機関の日本人の為の新年会があった。ワシントンにいると、日本人同士の親睦会が余計に大事になるのと、美味しい日本食が出る新年会は喜ばれる。特にお寿司が大人気。同僚のKさん(お隣のオフィス)は私より先に職場から出発する時に張り切っていたのか「先に行ってウニのお寿司を全部食べちゃうぞ」と言いながら出て行った。それを聞いてのんびり仕事を続けていた私も、少しだけ急いだ方がいいのかしら、と思った。でも大分開始時間より遅れて到着。幸いまだウニも残っていた。ひとしきりご馳走を食べたり、いろいろな人とお話をした後、毎年恒例のビンゴ大会。リーチがかかると「リーチ!」と叫んで皆の前に出るルール。私はトリプルリーチになった後、なんと一番でビンゴに!去年はツイテいなかったので、今年は「どうせ何もあたらないから」と無欲で全く期待せず望んだのが功を奏したらしい。ビンゴになった最初の10人位には商品がある。私は一等でシャンペンだった!しかも理事会承認の時にマネジャーにご褒美にもらうのと同じものだった!(以前の日記にも書いた)その場にいらっしゃった部署の方達から去年からシャンペンを取りまくっているね、よっぽどお酒好きなんじゃないの、とからかわれた。でも、案件でもらったのは全部部署のパーティーに寄付したので、上司の方から今度は自分で味わって家で飲んだらと言われた。何か特別なお祝いの時のためにでも取っておこうっと。でも年始からツイているのは嬉しいことだった。この調子で行きたいものです。
2005/01/14
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年末は忙しくてあまり計画をたてられなかった(というか直前になるまで決められない私)。でも大晦日直前になって友人のMさんと相談し、やっぱりカウントダウンはNYで!ということになり、NYの知り合いと合流することになった。DCの親切な知り合いの方からNYのことは何でも知っているという単身赴任中の商社マンのHさんを紹介してもらった。Hさんは偶然大学の一個上の先輩で、しかも同じ指導教官のゼミ出身で、共通の知り合いも何人かいると知り、世の中は狭いと驚いた。今回NYで合流したHさんは噂通りの豪快、気さくで親切な楽しい方、Sさんは前回NY訪問から知っていたが、落ち着いた理知的な雰囲気でありながら、時々ぽろっと言う発言がとても面白く、好感の持てる大手証券会社に勤める女の子だ。二人ともマンハッタンに住んでいる。31日はMさん、Hさん、Sさん、私、Hさんの同僚とその彼の6人でマンハッタンの人気クラブのニューイヤーカウントダウン・パーティーに参加。タイムスクエアほどではないにしろ、チケットを持っていても入る前から長蛇の列で、ようやく中に入れたのは11時過ぎ。カウントダウンに間に合って良かった。という訳で混み合う中をなんとか皆で一緒に踊りながら年始を迎えた。おかしかったのは、Sさんが途中で知らないアジア系の女の子!に連れて行かれたので、皆何かと思っていたら、その人がSさんに「あなたの踊りにあまりにパッションがなかったから教えてあげたかった」と言われたそうだ。一瞬、その人に誘われたのではと思って心配したが違っていてよかった。クラブから出てからタイムズスクエア方面でお茶をしようと歩いたが、数時間踊っていたのと、DCで普段車生活を送っている私がマンハッタンをヒールで大分歩いたので、足どりはかなりおぼつかなくなっていた。歩きの限界に達し、その後はHさんの提案で知り合いの日本人鍋パーティーに合流することになった。銀行に勤めるOさんのお宅はマンハッタン超高層マンションで、夜景が一望できるところだった。日本人らしくお餅やおうどんを食べながら、初日の出が出る直前位まで皆で新年を祝った。Hさんのお陰で初対面の方のお家で初対面の方々たくさんと新年の初日の出まで祝う不思議な、でも楽しいひと時だった。日本の銀行やNYの銀行に勤める人達とお話するのは分野も近いだけに興味深かった。カウントダウンの前は洒落な創作和食レストランでお任せコースも味わえた。俳優のディカプリオもパーティーで使ったというだけあって、雰囲気がお洒落で料理も凝っていた。という訳でとても盛りだくさんの2004年大晦日だった。
2005/01/01
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今日は今月クローズした輸出金融リージョナルファンド案件の第一貸し出しが無事終わり、ここ数週間の全くcrazyな慌しさが一件落着し、またウルグアイ案件の理事会承認されたことをクライアントに報告して喜び合う、おめでたい日となった。現地銀行の頭取からも直接お礼の電話があった。プレスリリースが昨日出たせいで、ウルグアイの新聞にもこの案件のことが出たらしい。年内に2件とも奇跡的に片が付いた。一緒に頑張った人達で祝い会い、成果について労い、お礼を言う作業はとても気分がいい。昨日はグループの打ち上げパーティーがあり、理事会承認がある度にマネジャーからご褒美で頂いたシャンパン12本をチームメンバー、グループの人達で全部飲み干した。このうち、5本は自分が担当した案件2件分から寄付したものだ。気分がもちろん開放的になっているのと、大量のシャンパンがあったことで、当然ふらふらに酔ってしまって、自分でも最後の方は訳の分からない話題ですごい盛り上がっているのに気が付いたので、家に帰ってすぐ昏倒(?)した。その後、友人が親切に理事会承認を祝ってくれるため、それと先月の誕生日プレゼントを近くまでわざわざ持ってきてくれましたが、電話があった時は完全に夢の中状態。折角の訪問だったので更に飲みすぎないように!お茶をして、いろいろプロジェクトの話などをして帰った。今日もこれから別機関のクリスマスパーティーに呼ばれたので、行くところ。理事会が終わってからというものの、毎日いろいろな種類のアルコールを飲んでいる形になる。(ワイン、シャンパン、日本酒、ビール) あたかも飲んだくれているように聞こえますが、ま、年末だからいいですよね、、
2004/12/17
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ここ2年間、ずっとウルグアイの輸出金融の案件の交渉、立ち上げ組成を続けてきていた。プロジェクトサイズは50億円位で期間は5年間。計10回位今までウルグアイの首都モンテビデオには足を運び、現地の金融機関の人達などに会い、最適のストラクチャーを目指し交渉し続けてきた。顧客がマンデートにコミットして調印するまでが1年半かかった。その後、数々の委員会を急ぎで通過してきた結果、ついに今日、勤務している開発機関の各国代表の理事会発表の日に目標の年内になんとかこぎつけた。この理事会の承認を得ると、ようやく案件の契約書に調印することが出来るので、私の過去2年の集大成とも言える。幸いに、問題なく各国のサポート、賛同を得ることが出来、数々の案件及び趣旨への賞賛のコメントも頂いて、承認を得ることが出来た。顧客企業も良い知らせを大変喜んでくれて、来週はウルグアイで祝賀会も開かれる。自分の立ち上げた案件は自分の子供のように可愛く、手がかかった分、大事に思えるし、順調に育ってくれたらと思う。回復基調にあるウルグアイで、この案件で農産物、畜産業を中心とした中小の輸出業者が援助され、経済成長に少しでも貢献できるといいな、と心から思う。自己満足も多分にあるかもしれないが、自分が立ち上げたプロジェクトを年内に目処をつけ、完遂する日をずっと夢見てきたので、ほっとした一方、それが適った今日はまだ実感できない位不思議だ。でも、少なくともここ数ヶ月の慌しさ、忙しさから少しは開放感を味わってもいいかな、と思う。明日はグループの人達と理事会承認の際にマネジャーからご褒美にもらうシャンパンで打ち上げパーティーがある。
2004/12/16
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