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連載4回目(最終回第1章)
炎の画家 ゴッホ終焉の地
オヴェール シュル オワーズへの旅
le petit voyage de Auvers sur Oise
今日は彼の最後の65日間を追ってみたいと思います。

1890年5月17日、南仏のサン・レミ病院を去り、ゴッホはオワーズ川沿いの小さな村、オヴェール・シュル・オワーズに移り住みました。
その前にはパリのテオの家にも一時滞在しています。
テオ「 兄さんだいぶ良くなったね!元気そうだ!
あ、フィンセトの顔を見てよ。会うの初めてだろ。 兄さん の名前をつけたんだ。」
ゴッホ「 そうか、ありがとう。おやヨハンナも顔色が悪いじゃないか。病気なのかい?
お前も すいぶん疲れてるみたいだが・・。」
テオ「 そうなんだ。子供たちは流行り病で病気ばかりするし、この家の問題も少しあって・・・。
兄さんには 黙っていようと思ったんだけど、実は仕事のことでもいろいろあって。」
ゴッホ「 ・・・!。私のせいでなにか問題があるのか?」
テオ 「 そうじゃないんだ。兄さんも知ってるとおり、パリではサロン画がもてはやされてるだろ。」
ゴッホ「 ああ。印象派達の絵がコンクールでことごとく無視されているという話は聞いている。」
テオ 「 そうなんだ。みんなちっともわかっていない。
会社の上司が嫌がらせで新人のような仕事ばかりこちらにまわすんだ。
僕が印象派の絵をたくさん仕入れた ものだから。。。」
ゴッホ「 ・・・・・。」
テオ 「 兄さんには関係ないんだ。だから、大好きな絵をいつものように書いてて欲しい。
兄さんの絵はやっと認められはじめたんだ!それに、あの村の夏の 風景は最高だよ!
あ、それに今夜は兄さんが来るのを聞きつけてロートレックがご飯を食べにきてくれるんだ !
会うの久しぶりだろう? 」
ゴッホ「 ・・・・・。(耳に入らず考え事をしている。)」
注:この会話は大体の内容は事実に基づいていますが、あくまで筆者の想像によるものです。
ゴッホの家をでたすぐの階段につづく小道
この風景も、
村役場(Mairie)
この風景も、
ノートルダム教会
この風景も、
教会の裏、墓地の前に広がる麦畑
この風景も、私が描けば!!
ゴッホは毎日思い画材を抱え、オヴェール中のあらゆる風景を描いていきました。(実際歩いてみましたが、ポントワーズに近い農家の家はかなり遠いです!バス停4,5つ分はあったと思います。)油彩がかわく時間も惜しむように。移り住んで75日の間に70点以上の作品を残したといいます。およそ一日に一枚半というペースになります。とくに、テオが大変だと知った7月以降の作品だけでも25点も残しています。





ゴッホの部屋の戸棚。絵の具のあとが生々しい。
この村出身のコロー(バルビゾン派)がこの間亡くなったと聞いた。
死後、彼の絵の値段は上がり、代表作「晩鐘」には
すごい値段がついたと聞いた。
テオは私に十分良くしてくれた。
かわいい子供二人も持ったというのに、まだ援助を続けて くれている。
しかし、もうこれ以上彼を苦しめてはいけない。
私が死ねば、この絵はもう少し高く売れるだろう・・・。
麦畑の上の空
7月27日。ピストルが彼の胸を撃ちぬきました。
これは完全に計画され、発作によるものではありませんでした。
場所は絵の舞台にえらんだ教会裏の麦畑あたりだろうと言われています。
ゴッホの部屋
しかし死に切れず、自力で3階の部屋までたどりつき、ベッドの上で2日間もだえ苦しみました。隣の住人がその苦しみの声を聞いたと語っています。主治医であり、親交もあったガシェ医師が治療にあたりました。
7月28日。パリからテオが駆けつけます。ゴッホはもしかしたら弟を待っていたのかもしれません。
7月29日。早朝。
こうして死にたかった
ゴッホの最後の言葉。37歳4か月
テオに看取られながら息をひきとりました。
ぼくは生きている限りこの悲しみを決して忘れないでしょう。
ただ一つ言えることは、彼が自分の望んでいた休息を見出したということです。
しかし、今となって、よくあることですが、
誰もが彼の才能を盛んに誉めたてています......。
ああ、お母さん、彼はあんなにも、ぼくの、ぼく自身の兄さんだったのです。
テオが母へあてた手紙より
ゴッホ(左)とテオ(右)の墓。
最終回第2章へつづく
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