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つい先日、近所の公園で遊んでいたら、上の息子が「ママ、ママひな鳥がいる!」と言うので、見に行くとスズメのひながうずくまっていた。よく見ると、パタパタとはばたく練習をしていて、少しなら浮揚することができる。でもまだまだおぼつかなくて、私も周りの子どもたちも釘づけになってしまった。どうして、こんなところに一羽だけ落っこちてきたんだろう。スズメの生態はよくしらないんだけど、近くに巣があるような気配もない。空を見上げても親鳥が探している様子もない。おそらく前日がひどく風の強い一日だったので、風で吹き飛ばされてきたのかもしれない。いずれにせよ、ひな鳥はひとりぼっちであることに変わりはない。「触ったら鳥インフルエンザになるで」「踏むな、踏むな!」と子どもたちは大騒ぎ。最近は捨て犬、捨て猫も見かけることもないので、子どもたちには珍しくて仕方ないようだ。よく見ると何とかもう少しで飛べそうな感じ。私も一体どうしたらいいものか、考えあぐねる。でも、その昔野鳥であるスズメは鳥かごでは飼えないと聞いた記憶があったので、連れて帰るわけにもいかず。暗くなってきたので、泣く泣く安全そうなところへスズメを移してうちへ戻ってきた。帰ってからも、息子はぐずぐず言っている。ひな鳥が可愛そうに思えたらしい。「自然は厳しいのよ」と言いながら、私も内心やりきれない気分だった。この「やりきれない」感じ、久しぶりに感じた。子どもの頃、私は動物が大好きだった。うちでは小さい頃から、小鳥やうさぎ、カブトムシ、亀、犬、猫と色んな動物を飼っていた。そして、私の住んでいた街では、学校の行き帰りや、友達と遊んでいるときにあちこちで色んな生き物に出会った。野良犬、野良猫や、いわゆる「捨て犬」「捨て猫」を見かけることもあった。出会ってしまったら最後、気になって仕方がない。親に隠れて牛乳を持ち出し捨て子猫に与える。でも、もうすでに犬や猫を飼っていたので、うちではこれ以上飼う事は無理だとわかっていた。夕方、仕方なく子猫たちを置いて帰る。そのときの「やりきれなさ」。友達と協力して野良犬を餌付け。小さな食料品店の裏のゴミ箱から残飯を探し、野良犬に与える。何日かそうやって、自分たちでは世話をしているつもりになっていたが、野良犬は突然姿を見せなくなった。おそらく保健所に連れて行かれたのだろう。子どもが勝手に餌付けしているのをみて、誰かが電話をしたのかもしれない。もう会えなくなった野良犬を探すときの「やりきれなさ」。子ども心に小さな生き物が可愛くて可愛くて仕方ないのに、自分たちではどうすることもできない。でも、やっぱりまた「出会ってしまう」のだ。そんな子どもだった私に、救世主が現れた。近所の動物病院の松本先生だ。自分で飼っていたインコを連れて行ったのがきっかけだが、その先生は本当に動物を大切にしてくれた。子ども心にこの人は周りの大人とは違う!と感じていた。その日私と友達は拾った猫を抱えて、四苦八苦していた。友達が登校時に見つけてきて、学校の倉庫の裏に隠しておいたのだが給食の牛乳を与えても上手く飲めない。ミャーミャーお腹が空いて鳴いているのだか、どうしても上手く飲めない。生後間もないこともあり、どうやら目もちゃんと見えてないようだ。放課後、段々弱っていく猫を抱えて、私と友達は途方にくれていた。そして私は思い出した。「松本先生なら何とかしてくれる!?かも」。早速恐る恐る動物病院のドアを開けた。もちろん、財布も何も持たずに。事情を説明すると、先生は猫を優しく抱いて、注意深く観察した後、鼻にミルクが詰まっていることを突き止めた。スポイトのようなもので、ミルクをやるとすごい勢いで子猫はミルクを飲んだ。私も友達も大喜び。先生は飼い主を見つけてあげるからと言って、猫を預かってくれた。もちろん一銭も取らずに。今まで、「やりきれない」思いで別れてきた動物だちだったが、初めてすがすがしい気持ちで家路に着いた。私たちにとってはまさに救世主だった。それから、傷ついた鳥や、こうもりなど、怪我をしているとわかった時は私は迷わず先生の病院を訪ねた。動物病院だし、さすがに元気な捨て犬を連れて行くのは、子供心に遠慮しておいた。いつも先生は嫌な顔ひとつせずに、傷ついた動物を大切に引き取ってくれた。もちろん、毎回無償で。で、子どもの私は良かったのだが、大人になった私はめでたしめでたしというわけには行かない。先生は私の「やりきれなさ」を引き受けてくれていたんだ。小さな命を大切に思う、その気持ち。人間以上に厳しい環境の中で生きている動物たちの現実。そして、人間だって生活していくことが大変なのに、その中で、自らの犠牲を払って、傷ついた動物たちの面倒を見るということの意味。子どもの私はそんなこと到底知りもせず、そのなんだか「やりきれない」気持ちを先生にぶつけていたのかもしれない。そして、先生は一人の大人として、ひとつの答えを持って小さな私の気持ちを受け止めてくれた。その意味が大人になってわかればわかるほど、先生の大きさにただただ、頭が下がる。これはなんとしてもお礼を言わねば、と思っていたら、先生が亡くなったとの知らせを聞いた。先生はその後もずっと「儲け主義」とは程遠く慎ましやかに動物病院を続け、まだまだ若くして亡くなられたという。ああ、なんとういういことだろう。いい人に限って、早く亡くなるのが世の常。私は先生の影響で、「獣医師」になりたいと子ども心に思っていたのに、結局その道には進まず。今日だって、スズメのひなを公園に置いてきた。それでも、私が小さいころから沢山出会ってきた無数の小さな命は、私の心を充分に揺さぶったし、やっぱり地球で人間が偉そうに振舞っていていいのかといったら、そんなはずはない。色んな命のなかで、もみくちゃにされながら生きていくしかない。だから、「やりきれない」気持ちは当然で、それくらいはしっかり噛み締めて生きていかねば・・・と思うのである。ああ、だからこそ、松本先生の存在は私にとって救いだった。本当に感謝感謝なのである。ご冥福、心からお祈りします。
2009年05月25日
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世間をお騒がせしているとおり、私の住んでいるI市も一躍有名になってしまった。今週は学校、幼稚園なども一週間休校。地元のドラッグストアではマスクは売り切れ。この子どもの多い街でも公園ですらひっそり。店もいつもより人気が少ない。なんだか、ちょっと不気味。でも、静かで落ち着くのも事実。私は正直、公園でちょこっと遊ばせるくらいええやん、と思っていたのだが、この子どもの多い街。子どもが皆出てきたら、公園だって人だかり。ということは、うちの庭か、どこか他の場所か。お友達誘って・・とか思ったけど、そんな雰囲気でもない。ということで、近所の子と家の前でちょこっと遊ばせる以外は、べったり親子三人の時間となる。さてさて、何をしよう。この非日常な感じ、なんだかわくわくしてきた。時間も使うし子どもは喜ぶし、一番お手軽なのは「手作り」もの。とりあえず、「パン」や「餃子」など作ってわいわい。あと、創作もの。新聞敷いて、工作資材(ガラクタ)と画用紙、画材を与えて後はお好きなように。でもやっぱり、「外に出たい」と。とりあえず庭で家庭菜園の世話。そして砂場で砂遊び。そんなこんなで、一応子どもたち飽きずに遊んでる。(あ、勉強忘れてた!)庭で作業していて、ふと思い出した。そういえば、前からやりたかったことが。そうそう、庭に小さなビオトープ(自然生態系のある池)を作ろう!計画があった。この際、それをやってしまおう。というわけで、マスクしてホームセンター(外出してるやんか)でプラ船(左官の人がコンクリート混ぜる入れ物)や水草、などを購入。幸いうちにはカルキ抜きしなくていい雨水がたっぷりあるので、それと庭になぜか転がっている大きな石を組み合わせて少し高低差のある池をレイアウト。水草を植えて、藻類も浮かべて。周り静かなのに、うちだけ庭で異常に盛り上がる。なぜかこの一連の作業がとっても楽しい。「池」を作るってわくわくする。理由なんかない。本能的に。で池ができたら、そりゃ生き物。ということで、またこそこそと人のいない田んぼへいって、メダカ(許可もらってマス)を取りに。田んぼの泥も生物の宝庫なのでバケツで持って帰る。近くの公園の池でも、エビ、小魚(ハゼ類?)をゲット。沢山動植物とは接触してるけど、人とは接触してないからいいでしょ??ということで、うちに「池」ができた。小さな四角い池だけど、なんだか見てるだけで癒される。これから、この池のなかで、どんなミクロのドラマが繰り広げられるのだろう。気がつけば、また一番興奮しているのは私。ところで、来週からは一体どうなるんだろう。近所のママたちもそれが気になる。働くママにとっては死活問題。感染者じわじわ増えているから(きっと明るみに出ていない感染者莫大だと思う)、学校再開したらあっという間に広がるんだろうなあ。でも、このまま休校続けるのも、実際無理。もうこれは避けられないんだよね。しかし「新型インフルエンザ」(旧姓 豚インフルエンザ)なんて命名するからなぜか怖がるんだけど。専門家いわく、いつものインフルエンザと「ほぼ同じ」。皆免疫持ってないし、ワクチンもまだだから、そもそも防ぎようがないのでは。かかるときはかかるし、大丈夫ならラッキーだったと。そうやって受け入れるしか、方法ないのでは。皆してウィルスと闘ってるのが、どうしても滑稽に見える。共存するしかないのにね。だって、タミフルだろうが、リレンザだろうが、消毒液だろうがウィルスを全滅させることは不可能なんだから。共存とはつまり、いつものインフルエンザと同じということ。熱が出たら休み、タミフル飲みたい人は飲み。それ以上に何がありますか?専門家の方々。もちろん、予防できる限りはするけれど、「毒性が弱い」というのは付き合える相手だというメッセージなのでは。私、もう新しいウィルスと付き合う覚悟出来てる。皆もそうだと思うんだけど、違うかな??
2009年05月19日
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