前回の記事
の続き。
戦後復活した職業野球は、1945年(昭和20年)11月22日、神宮球場を
皮切りに、桐生、西宮(2試合)を転戦し、つごう4試合が行われた。
■その当時のことを 青田昇
氏が『ジャジャ馬一代 遺稿 青田昇自伝』
(青田昇著、ザ・マサダ刊)で次のように記している。
「それにしても、この東西対抗戦、あの戦後の混乱期の中で、よくぞ挙行し得た
ものだと思う。東京も大阪も満目荒涼(まんもくこうりょう)たる焼け野原。巷には
浮浪児とパンパン(街娼)と復員兵があふれ、闇市に人々が列をなして、一杯
の汁を争って得ていた時代だ。 『なんとしても野球を復活させたい』という熱病の
ような思い
がなければ、実現できるものではない。」
「野球の試合をやろうにも、東京にはボールもなければバットもない。そこで
当時、一番戦前のボールを保有していた わが阪急
が、ボール4ダースを提供
することになった。しかしこのボールを東京まで運ぶのが容易ではない。今日の
ように宅急便で送れば、明日には届いているといった時代ではない。列車という
列車は足の踏み場もない超満員。タラップに4、5人がぶら下がっている、と
いった現代では想像もつかぬ風景である」
「このボール運びの役を買って出たのが 鈴木竜二
日本野球連盟会長(当時は
専務理事)だった。会長は4ダースのボールをリュックに詰め、死に物狂いで
東京に運んできた」
※ 「なんとしても野球を復活させたいといった熱病のような思い」。
その思いをもった中心人物は、 小西得郎
であり、 鈴木竜二
だった。
ボクのこれまでの認識では、小西得郎さんといえば江戸弁で名調子の解説を
する面白いおじいさんだった。そして鈴木竜二さんといえばセ・リーグの会長
として読売グループの番頭役をそつなく務めた人(多少の皮肉を込めて)としか
思っていなかった。だけど、この人たちが職業野球の復活に大きな貢献をした
ことをボクは初めて知った。
※ 「わが阪急」。
え、わが阪急? 「青田さんは巨人の選手だった」。これがボクのこれまでの認識
だった。ところが、上記のとおり「わが阪急」という表記があって、ボクは初めてこの
書籍を読んだ時には驚いたものだった。
調べてみると、青田さんは滝川中を中退し、すぐさま1942年(昭和17年)に
東京巨人軍に入団している。そして44年(昭和19年)、陸軍航空隊に志願して
巨人軍を退団。その際、時のオーナーだった「大正力」こと 正力松太郎
から、
「戦争が終わったらまた巨人に戻ってこい」と言われ、青田さんもそのつもりで
退団した。
ところが終戦後、巨人は球団の体制復帰が遅れ、逆に早期に復帰のメドが立った
阪急に声をかけられ、一時的に在籍(46年~47年)した経緯があった。そして
48年、 三原脩
監督に呼び戻され、青田さんは巨人に復帰した。
青田さん、この一時的な阪急への移籍があったため、 「戦後、チームを代わった
者は、出場資格なし」
というルールに抵触。出場が叶わなかった青田さんは
寂しくスタンドから試合を観戦していた。
◇ 三原脩
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「三原脩、職業野球選手になった頃」
(2009.7.14) →
こちら
へ。
この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。
→ (第5期) 1946年(昭和21年)、戦後、東京六大学リーグ・職業野球が復活した時以降
(第5期)に属する他の記事は以下のとおり。
◇ 「ボクの日本野球史」
(2009.7.1) → こちら
へ。
「西本幸雄、職業野球選手になった頃」
(2009.7.18) → こちら
へ。
「関根潤三、職業野球選手になった頃」
(2009.7.18) → こちら
へ。
「豊田泰光、職業野球選手になった頃」
(2009.7.19) → こちら
へ。
「戦後、職業野球の復活」
(2009.7.24) → こちら
へ。
「戦後、職業野球の復活(2)」
(2009.8.1) → こちらへ
。
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