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調和協調の究極の根源という太極の中に包含された、陰と陽という対立し対極するもの・・裏と表・上と下・右と左・内と外・自分と相手・心と身体・などなど、対立したもの同士でこの世の中は構成されている・・と同時に、その対立して対極にあるもの同士は融合し調和されれば一体となって太極という根源の中に包含されます。元々人間も動物です・・動物は動物の本能を持って生まれて、ほぼその本能のまま変わらずに生涯を終えます・・しかし人間が他の動物と違う点は、自己で自己を向上させ進化させて行けるという点です・・自己を進化させるということは、決して世間に慣れ世渡りがうまくなって世に出るという意味ではありません。動物は本能のままで生きる・・だから無邪気で可愛い部分もありますが、敵対視すると牙を剥く場合もあります・・人間も動物の仲間ですので、敵対視して対立することもあります・・しかし対立し、どっちが強いかという事に全ての価値観を持っている人もいます・・それを疑問にも持たないならば、それは動物と同じ進化しないまま生涯を終わる人なのでしょう。私は動物には当たり前の本能である対立する動物心を、如何に少なくして調和できるかが、人間の修業であり、進化ではないかと思っています・・その点を思うと、まだまだ動物に近い・・未熟この上ない自己であることに気付かされます・・人は如何に賢く世渡りをして、如何に世に出て金と名声を得るか・・を進化だと思う人もいるかも知れません・・それはそれでそう思っている人の価値観ではありますが、人間が作った世の中のルールや金や物などは・・自然の法則からすれば微々たる物でしかありません。武術には、相手と生死を賭して向い合う・・という究極の状況の中で自己の在り方・・心の持ち方・・心身の状態、などなどを自己コントロールする方法が隠されています・・それに気付くこともなく、どちらが強いか弱いかばかりを武術と捉えて、何時まで経っても動物の本能のままに対立を引きずって、これを武術の修業と捉えている人達も大勢おります・・力で人に勝ったから・・技で人を倒したから・・こんなものに何の意味があるのでしょうか・・こんなことのために何年も何十年も修業をしているのでしょうか・・私たち人間が地面の上のアリ同士の喧嘩争いを見て、何か感じるでしょうか・・感動するでしょうか・・天から見れば、我々人間一人の勝負争い事も、同じアリンコ同士の喧嘩と果たしてどう違うと言うのでしょうか・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?2月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2012/01/24
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張子の虎・・「張子で虎の形を作って首が動くようにした玩具・・転じて、外見は強そうだが実は弱いものをいう」辞書によると、この様な意味を言うのだそうです。猫の妙術の中の一説・・後は只、自ら省みて己に求めることだ・・師はその技を伝え、その理を悟すだけだ・・その真を得るのは、我にある・・これは自得という会得である・・あるいは”以心伝心”ともいう・・禅学だけではなく、聖人の心法から芸術の末に至るまで、自得のところはすべて以心伝心である・・教えるというのは、己に有っても自ら見ることのできぬところを、指して知ら示すだけである・・師からすべてを授かろうなどと甘えのある者は道を去れ・・ 現代に生きる私たちは、生活すべての面で便利で豊かに生きています・・蛇口を捻れば水もお湯も使い放題・・日本中何処へ行くにも速やかに楽に移動できる交通機関・・欲しいと思うものは金さえ出せば手に入らない物の方が少ない・・なのに・・私たちは幸せだろうか・・反面、生活の利便さゆえに失ったものも少なくない・・便利な生活ゆえに、辛抱することや我慢すること・・他を思いやる心・・敬う心を失くした・・不便だったがゆえに身に付いた集中力や到達するまでの試行錯誤する力・・またそのプロセスでの学びもあった・・平和ということは、非常に素晴らしいことだという前提の基で言うならば、また平和がゆえの反動も出る・・平和にしろ、正義にしろ・・陰と陽が自然の原理にある限り、すべて100%良い事ばかりとはいかない・・暴力を肯定するものでは決してないのだけれど・・平和過ぎる今の世の中の反動として、礼節を無視した・・恐れを知らぬ不届き者を量産する事態となってはいないか・・平和がゆえに、世の中を軽んじる者・・人の生命や尊厳を卑しめる者・・如いては世の中や人生を舐めてかかる者が増えた・・平和がゆえの現象だけではないかも知れないが、原因の一端は共有していると思うのだが・・人間はそれほど立派でも崇高でもない・・環境や体験に影響され感化されて、自分自身を形成して行く・・なので環境や生活が平和過ぎると、危機感を失い平和ボケになり、世の中に無頓着になり、すべてを舐めてかかる者を輩出してしまうのだ・・警察もマスコミの唯我独尊的な行き過ぎ報道を恐れてか、はたまた人権、人権と過剰に捲し立てる者たちを恐れてか・・威厳を失ってしまった・・その結果・・犯罪を犯す者は、警察も含めた世の中すべてを舐めきってしまっている・・逮捕されても命までは取られないと開き直る・・誤解を恐れずに言うならば、世の中が平和がゆえに平和ボケした人間・・神をも恐れぬ傲慢さや愚かさが浮き彫りになっている・・一人一人の人間に、大いなるものの存在・・大自然や神や人を敬う心を教育の中に組み込まなければ、今のこのままの教育では・・この荒廃した思考環境の中では人は変わりはしない・・私は思う・・諸外国に徴兵制度があるように、日本もある期間奉仕の意味も含めて、自衛隊のような組織で訓練させる制度があってもいいではないかと・・恐れおおき者・・大自然の恐れ・・神への恐れ・・これらを人間が捨てるとどうなるか・・人間は傲慢になり、暴走し、取り返しの効かない致命傷を負うことになる・・今回の地震も津波も原発事故も人間の暴走に、大自然が警鐘を鳴らしたとは思わないか・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?2月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2012/01/17
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五輪書 地の巻にある「目に見えぬをさとって知る事」・・目に見える事、目に見えたことは全て結果であり、過去になる事象である・・今突然現れて見えたように見えるものも、現れる前の見えない原因があるということです・・武術は、見える現象だけを見て判断して動いても、もう既に遅いという事です・・武術でいう「先」は、厳密に言うと相手の初動を動体視力で捉える・・というようなものではありません・・相手の意識の起こり、また相手の無意識の起こりを捉えて動くのです。外部の動きを必死で捉えようとしても、捉えて見えた時は既に結果になって入る訳です・・結果が出てから動いても、もうこれは後手の動きに他なりません・・これには特殊な修業を要します・・「内観」という修業です。「内観」とは、外部で起こる事象を全て捨てて、自分の内部にだけ心を置く修業です・・「そんなことをしたら斬られてしまうじゃないか!」と思いますよね・・我々凡人は・・しかしその外部への恐怖や不安がある内は、まだ内観が出来ていないという事です・・外部の事象を感じなくなるまで修業をするのです・・何も、山に篭ったり、滝に打たれたりすることが修業ではなくて、こういった目に見えない、内なる扉を開けるまでの試行錯誤を「修業」と呼ぶのです。「来る者は拒まず・・去る者は追わず」も、この道を信じて思慮深く探求し続ける者を道は嫌わず・・疑いながら、見える物事に囚われ、信を持たない者には道は自ずと行く手を閉ざす・・と解釈もできます・・単に人に付いて来るか否か・・を言っているのではないという事です。自然の法則は、人智を超えたものであって、我々人間が関知できるレベルにはありません・・しかし、その道を信じ切って探求するならば必ず扉は開くという事です・・逆に万事に疑心を持ち信を貫けない人は、人智を超えた自然の原理が永久に道を閉ざすという事です・・目先しか見えない人は、対人間、対外部にばかり目をやりますが、そこから脱しない限り人智を超えたものは味方をしてくれないという事でもあります。もう一つに「礼を知らぬ者に天地は道を譲らず」も、同じことですね・・自然に対し、また全てに対し敬意を示せない者・・礼は心を示す事ですから、心の通じない者、心が解らない者にも、自然の原理は道を開きません。=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?新春1月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2012/01/09
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