全817件 (817件中 1-50件目)

どうやって情報を得るか・・と声高に言われる現代社会の中で、「何を言ってるんだ・・!」という声が聞こえてきそうですね・・ 夢を求め・・成功を求めて・・情報収集に奔走するのが、一般的に多くの人がとる行動です。それでも成功しなければ、まだ情報が足りないとばかりに、さらに情報収集を加速させ、いつか情報に埋もれ頭の中は収拾が付かなくなって疲労困憊し夢を断念する・・多くの人が夢を追い、夢に敗れて、疲れ果てて夢を諦めて行くパターンでもあります・・もちろん情報の収集は必要ですが・・どこからの情報を集めるのか・・という量ではなく質の問題だと思います。経済的に成功した人や何かで頭角を現した人は、情報の集め方が違います・・成功する人は、やたらに情報の量を収集するのではなく、自分が確信した一人か二人のMENTORからの質的情報を大事にします。経済的に成功している友人知人と会って話すと・・ほとんど例外なく、「この人は成功するはずだ・・」という雰囲気や考えを持っています・・簡単な言葉で表現すると・・ぶれていない人たちです。かたや、その他大勢の場合、情報量が多すぎて頭の中で収拾が付かず・・ぶれまくっている人たちがほとんどを占めています。武道武術に限らず、何かを習得しようとする時・・私の場合、時代的にまだインターネットもあまり普及しておらず、ユーチューブで達人の技を見ることもなく、それ程多くをDVDからの情報に得ることもなく、よそ見をする機会も少なく、MENTORを見本にする以外・・現代のように他にあまり情報はありませんでした。MENTOR以外からの情報は、書物からがメインの情報だったように思います・・焦点を絞った情報の集め方が一番重要ではないでしょうか・・あれもかじり・・これもかじり・と手当たり次第に情報を収集する人に、経済や芸術・・または他のことでも頭角を現した人など未だに見たことはありません・・長い人生の末に疲れ果てるだけです・・古人が山中に篭もり、一切の俗世界と我が身を遮断して修行に入ったという事も、一概に精神修養のみならず・・情報量を遮断し、自分に必要なものを探すための修行だったのかも知れません・・真の自分探しでの山篭りだったのでしょう・・結果的にゴミ情報や自分に無関係な知識を詰め込むほどに悟りや成功は遠い・・とうことでしょう・・敢えて言えば・・「情報の収集などするな!・・情報を遮断せよ!」ですね=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?3月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2012/03/02
コメント(0)

何の場合でも人にものを教える・・指導するという事ほど難しいものは無いと思います・・また人に指導するには、その3倍から5倍の努力が必要と云われます・・要するに、教わる人よりも3倍以上の実力や能力を持っていなくてはならないということなのです。とは言っても・・実際はそれほど能力に差が無ければ指導できない訳ではないと思います・・ただ努力はその位はしないといけないでしょう・・いやしないと教えられないと言った方が正解かも知れません・・そして真剣に人に教えることによって自分自身も同時に成長していきます。特に武道の指導は、ただものを知っている・・知識がある・・だけでは指導は出来ません・・「やって見せて、示して見せる」の言葉通り・・体現して見せて教えることが出来なければ、武道の指導者は務まりません。スポーツでよく見かけるコーチングのように、自分は座って・・ああだ・・こうだと口先だけの指導?・・が果たして指導なのだろうかと首を傾げたくもなります・・「示してみせる」ことさえもできなくなったら、現場での指導はさっさと辞めて後進に任せるべきだと思います・・でなければ、習っている人にとても失礼なことだと思いませんか・・だから・・人に何かを教えるということは、常に自分に厳しく、また努力を惜しまず・・「示して見せられる」自分を保てなければならないのです・・先ずは、自分が模範を示せなくて本当の意味で何を指導できるというのでしょうか・・?以前、怪我をして通院していた病院に、自分の行動さえも不自由ではなかろうかと心配になるほど太った内科医がいました・・しかも糖尿病専門医だそうです・・これこそ、先ずは我が身を律しなければならないし説得力もないだろう・・という典型を見たようで、自分自身にも問い直したことを思い出しました。近頃スポーツ武道にも、これに似たような指導者が増えてきたように思います・・西洋式コーチングの指導ポリシーでは、それでいいのかも知れませんが・・武道武術として捉えれば、指導はあくまでも指し導くことで、自分が見本にならなければ本来の指導は出来ないと思います。なので私は指導者を育成する時、こういうことには非常に厳しく言います・・手本になるべき人が口ばっかりで示すことが出来なかったら・・その人に習いますか・・?手本になるべき人が陰気臭くて根暗な人だったら・・その人から習いたいと思いますか・・?手本になるべき人が傲慢で偉そうな人間だったら・・その人に着いて行きますか・・? 手本になるべき人が自分の都合でよく指導を休む人だったら・・その人を信頼できますか・・?このように逆の立場から見てみると、指導者を目指そうとする人がどうあるべきか・・自ずと自分の在り方や在るべき姿が見えて来ると思います・・なにもすべてに於いて立派な人であれと言っている訳ではありません・・そんな人はどこを探してもいる訳がありません・・そう在りたいと思い・・そうなろうと努力できるかどうかです・・その思いを保持できるか否かなのです・・すべては「思い」「姿勢」「心構え」があるか・・ないか・・ただそれだけです。=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?3月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2012/02/25
コメント(0)

武術的身体操作法で、一番最初に身に付けなければならない能力は・・一般に統一体と呼ばれている力です・・力と言うよりは、身体能力と言った方が適切でしょうか・・要するに自分の身体をある状態のまま保持する能力です。とは言え・・筋肉隆々の人でも一定状態のまま身体を保持するということは至難の業です・・と言うのも、俗に言う筋力でこれを行うと、すぐに筋肉は疲労し痙攣を起こしてしまいます・・筋肉的に説明するならば、筋力には能動筋力・・伸縮を行いながら力を出す・・それと受動筋力・・筋繊維を伸縮させず、キープして使う方法です。普通、スポーツなどで強化される筋力は、伸縮力を強化した能動筋力です・・これとは逆に、古からの武術で主に使われる筋力の使い方は、筋繊維を伸縮させない受動筋力です・・能動筋力か受動筋力かということだけでは正確な武術については語れませんが・・筋肉的に言えばそういうことです。武術は筋力的に言えば・・受動筋力ですが、受動筋力でも全身の受動筋力を統一して使う場合と、細分化して使う場合もありますので、全身を高度にコントロールする能力が必要です。受動筋力ですから、この筋力で積極的に他に働きかけることはできません・・他に作用させる力は受動筋力とは別の力を使わなければなりません・・それは重力であったり・・抗力であったりします・・このように書くと、恐らく一般にスポーツや武道をしている方には、何のことか見当も付かないのではないかと思います。そうなんです・・一般には見当も付かないもので・・力で武術は行われているのです・・一般のスポーツや武道的な考え方を、全く逆の方に切り替えなければ、本来の武術に入って行くことはできません・・最初に発想の転換が出来るか否かで理解度にも雲泥の差を生じさせることになります・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?3月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2012/02/17
コメント(0)
![]()
武道に限らず、一般の世界でも姿勢でその人の第一印象が決まります・・姿勢と言っても、単に身体の姿勢の良し悪しだけではありませんが・・先ずは身体の姿勢について、特に武道武術に関して言えば、姿勢が悪い人はそれを治さない限り武術は上達しません・・これは断言できます。なぜか・・その理由の一つは、武術は筋力を主体にして動くのではなく、重力に関する力を主力に動くからです・・重力に関する力?・・そう重力を利用するのです・・その中には言葉は違えど体重や重心もありますし、逆向きの効力や反力と言われるものもあります・・それらを体幹のコントロールでもっと強くも使えるのです。姿勢が悪ければ、これら重力を十分に使いコントロールすることができません・・私が数十年前に師匠に弟子入りを志願した時に、先ず言われた言葉は、「姿勢は良いようだな・・姿勢が悪いのは使いものにならんからな・・」のような意味の一言でした。身体の姿勢は特に武術では、平凡な武術で終わるのか・・非凡な武術を体現できるのか・・の初段階での分かれ道と言っても良いくらい大切です・・武術の技や達人の技だと言う前に、先ずは身体の姿勢を正すことが大事です。先ず、真の武道武術の世界では・・少なくとも私の武道では、このような身体の姿勢を見て、できる・・できない・・を判断しますし、才能のあるなしもこれでほぼ判断できます。そして身体だけではなく、全般的な姿勢も必要です・・取り組む姿勢・・学ぶ姿勢・・前向きな姿勢・・明るい姿勢・・などなど・・こういうもの全てをある程度クリアしていなければ、武術的に極めるという位置へ到達することはないでしょう。何も武道武術に限ることではなく、上に取り上げたことは一般的に・・また社会的に当たり前のことでもあるのですが・・例えば、仕事でも取り組む姿勢が無ければダメですし・・学ぶ姿勢も・・前向きさも・・明るくなかったら・・暗かったら・・これはもう社会で何かを成すことも困難ですし・・武術での到達など・・とてもではありません。武道武術を志すならば・・是非、人間形成・・自分という人間を改革するという覚悟を持って取り組んで頂きたいものです・・人を倒すだけが武道ならば、武道を修行する目的も意味さえも見失ってしまいます・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?2月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2012/02/10
コメント(0)

調和協調の究極の根源という太極の中に包含された、陰と陽という対立し対極するもの・・裏と表・上と下・右と左・内と外・自分と相手・心と身体・などなど、対立したもの同士でこの世の中は構成されている・・と同時に、その対立して対極にあるもの同士は融合し調和されれば一体となって太極という根源の中に包含されます。元々人間も動物です・・動物は動物の本能を持って生まれて、ほぼその本能のまま変わらずに生涯を終えます・・しかし人間が他の動物と違う点は、自己で自己を向上させ進化させて行けるという点です・・自己を進化させるということは、決して世間に慣れ世渡りがうまくなって世に出るという意味ではありません。動物は本能のままで生きる・・だから無邪気で可愛い部分もありますが、敵対視すると牙を剥く場合もあります・・人間も動物の仲間ですので、敵対視して対立することもあります・・しかし対立し、どっちが強いかという事に全ての価値観を持っている人もいます・・それを疑問にも持たないならば、それは動物と同じ進化しないまま生涯を終わる人なのでしょう。私は動物には当たり前の本能である対立する動物心を、如何に少なくして調和できるかが、人間の修業であり、進化ではないかと思っています・・その点を思うと、まだまだ動物に近い・・未熟この上ない自己であることに気付かされます・・人は如何に賢く世渡りをして、如何に世に出て金と名声を得るか・・を進化だと思う人もいるかも知れません・・それはそれでそう思っている人の価値観ではありますが、人間が作った世の中のルールや金や物などは・・自然の法則からすれば微々たる物でしかありません。武術には、相手と生死を賭して向い合う・・という究極の状況の中で自己の在り方・・心の持ち方・・心身の状態、などなどを自己コントロールする方法が隠されています・・それに気付くこともなく、どちらが強いか弱いかばかりを武術と捉えて、何時まで経っても動物の本能のままに対立を引きずって、これを武術の修業と捉えている人達も大勢おります・・力で人に勝ったから・・技で人を倒したから・・こんなものに何の意味があるのでしょうか・・こんなことのために何年も何十年も修業をしているのでしょうか・・私たち人間が地面の上のアリ同士の喧嘩争いを見て、何か感じるでしょうか・・感動するでしょうか・・天から見れば、我々人間一人の勝負争い事も、同じアリンコ同士の喧嘩と果たしてどう違うと言うのでしょうか・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?2月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2012/01/24
コメント(0)

張子の虎・・「張子で虎の形を作って首が動くようにした玩具・・転じて、外見は強そうだが実は弱いものをいう」辞書によると、この様な意味を言うのだそうです。猫の妙術の中の一説・・後は只、自ら省みて己に求めることだ・・師はその技を伝え、その理を悟すだけだ・・その真を得るのは、我にある・・これは自得という会得である・・あるいは”以心伝心”ともいう・・禅学だけではなく、聖人の心法から芸術の末に至るまで、自得のところはすべて以心伝心である・・教えるというのは、己に有っても自ら見ることのできぬところを、指して知ら示すだけである・・師からすべてを授かろうなどと甘えのある者は道を去れ・・ 現代に生きる私たちは、生活すべての面で便利で豊かに生きています・・蛇口を捻れば水もお湯も使い放題・・日本中何処へ行くにも速やかに楽に移動できる交通機関・・欲しいと思うものは金さえ出せば手に入らない物の方が少ない・・なのに・・私たちは幸せだろうか・・反面、生活の利便さゆえに失ったものも少なくない・・便利な生活ゆえに、辛抱することや我慢すること・・他を思いやる心・・敬う心を失くした・・不便だったがゆえに身に付いた集中力や到達するまでの試行錯誤する力・・またそのプロセスでの学びもあった・・平和ということは、非常に素晴らしいことだという前提の基で言うならば、また平和がゆえの反動も出る・・平和にしろ、正義にしろ・・陰と陽が自然の原理にある限り、すべて100%良い事ばかりとはいかない・・暴力を肯定するものでは決してないのだけれど・・平和過ぎる今の世の中の反動として、礼節を無視した・・恐れを知らぬ不届き者を量産する事態となってはいないか・・平和がゆえに、世の中を軽んじる者・・人の生命や尊厳を卑しめる者・・如いては世の中や人生を舐めてかかる者が増えた・・平和がゆえの現象だけではないかも知れないが、原因の一端は共有していると思うのだが・・人間はそれほど立派でも崇高でもない・・環境や体験に影響され感化されて、自分自身を形成して行く・・なので環境や生活が平和過ぎると、危機感を失い平和ボケになり、世の中に無頓着になり、すべてを舐めてかかる者を輩出してしまうのだ・・警察もマスコミの唯我独尊的な行き過ぎ報道を恐れてか、はたまた人権、人権と過剰に捲し立てる者たちを恐れてか・・威厳を失ってしまった・・その結果・・犯罪を犯す者は、警察も含めた世の中すべてを舐めきってしまっている・・逮捕されても命までは取られないと開き直る・・誤解を恐れずに言うならば、世の中が平和がゆえに平和ボケした人間・・神をも恐れぬ傲慢さや愚かさが浮き彫りになっている・・一人一人の人間に、大いなるものの存在・・大自然や神や人を敬う心を教育の中に組み込まなければ、今のこのままの教育では・・この荒廃した思考環境の中では人は変わりはしない・・私は思う・・諸外国に徴兵制度があるように、日本もある期間奉仕の意味も含めて、自衛隊のような組織で訓練させる制度があってもいいではないかと・・恐れおおき者・・大自然の恐れ・・神への恐れ・・これらを人間が捨てるとどうなるか・・人間は傲慢になり、暴走し、取り返しの効かない致命傷を負うことになる・・今回の地震も津波も原発事故も人間の暴走に、大自然が警鐘を鳴らしたとは思わないか・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?2月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2012/01/17
コメント(0)

五輪書 地の巻にある「目に見えぬをさとって知る事」・・目に見える事、目に見えたことは全て結果であり、過去になる事象である・・今突然現れて見えたように見えるものも、現れる前の見えない原因があるということです・・武術は、見える現象だけを見て判断して動いても、もう既に遅いという事です・・武術でいう「先」は、厳密に言うと相手の初動を動体視力で捉える・・というようなものではありません・・相手の意識の起こり、また相手の無意識の起こりを捉えて動くのです。外部の動きを必死で捉えようとしても、捉えて見えた時は既に結果になって入る訳です・・結果が出てから動いても、もうこれは後手の動きに他なりません・・これには特殊な修業を要します・・「内観」という修業です。「内観」とは、外部で起こる事象を全て捨てて、自分の内部にだけ心を置く修業です・・「そんなことをしたら斬られてしまうじゃないか!」と思いますよね・・我々凡人は・・しかしその外部への恐怖や不安がある内は、まだ内観が出来ていないという事です・・外部の事象を感じなくなるまで修業をするのです・・何も、山に篭ったり、滝に打たれたりすることが修業ではなくて、こういった目に見えない、内なる扉を開けるまでの試行錯誤を「修業」と呼ぶのです。「来る者は拒まず・・去る者は追わず」も、この道を信じて思慮深く探求し続ける者を道は嫌わず・・疑いながら、見える物事に囚われ、信を持たない者には道は自ずと行く手を閉ざす・・と解釈もできます・・単に人に付いて来るか否か・・を言っているのではないという事です。自然の法則は、人智を超えたものであって、我々人間が関知できるレベルにはありません・・しかし、その道を信じ切って探求するならば必ず扉は開くという事です・・逆に万事に疑心を持ち信を貫けない人は、人智を超えた自然の原理が永久に道を閉ざすという事です・・目先しか見えない人は、対人間、対外部にばかり目をやりますが、そこから脱しない限り人智を超えたものは味方をしてくれないという事でもあります。もう一つに「礼を知らぬ者に天地は道を譲らず」も、同じことですね・・自然に対し、また全てに対し敬意を示せない者・・礼は心を示す事ですから、心の通じない者、心が解らない者にも、自然の原理は道を開きません。=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?新春1月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2012/01/09
コメント(0)

直心影流剣術の「後来習態の容形を除き・・本来精妙の恒体に復す・・」の意味は・・我々人間は個々に育って来た環境や生活の中で、様々な心身のクセをそれぞれが身に付けてしまっている・・先ずそのクセを除き、型稽古に依って本来の癖の無い心身に戻さなくてはならない・・その心身のクセを取り除くのが一番難しい・・精妙なるものを得るためには、己が身に付けたものを取り除かねばならないのです。さて入門は許されたものの、中々容易に正しい道には入れそうにもありません・・ある日、白井亨はそのことを師である寺田宗有に訴えると・・「君は二十幾年も邪道を修業して、邪気が心身に充満しておる・・先ずそれを浄化せねばならぬ・・それには酒を断ち、冷水を浴びること日に二~三百杯もするがいい・・それだけ自分を律して取り組む覚悟が必要なんだよ・・」後に直心影流の山田次朗吉に、二百年来の名人と云わしめた天真一刀流の天才白井亨を以ってしても、こういう修業時代を経ているのです・・ここから見えてくるものは、我々凡人が、これを修得しようとする時の心構えであり覚悟であると言えます・・が、しかし「本来精妙の恒体に復す・・」であるから、元々、私たちの中に存在する物を引き出すだけなのです・・捉え方に依っては、凡人にも決して不可能ではないはずです・・だが・・何れにしても、楽して己に何を律する事も無く、容易く得ようなど甘い考えでは、これは夢のまた夢に終わるのが関の山です。毎朝毎夜冷水に打たれ、滝に打たれ己を律して修業したのが先達であるなら・・現代に生きる私たちは自分をどう律して修行に臨めばいいのでしょうか・・普通に日常的に酒に浸かり・・欲するままに飯を食らい、一旦道場や修業場に入った間だけ修業をしている気分になる・・これで会得できると本気で思っている人も結構多い(笑)・・これはただのストレス解消のカラオケと何の変わりも無い事に気付く事です・・健康のために、週に一度ジム通いをして、それ以外の日は腹一杯飯を食らい、常に車を使って歩かず楽をする・・欲望のままに生活をして、週一のジム通いで運動不足を解消していると思い込んでいる人たちと、差ほどの違いは無いのです・・先ず己を律する姿勢を見せよ!・・しからば自ずと極意も観えて来ようぞ・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?新春1月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2011/12/31
コメント(0)

算数は二元論的であり、数学は陰陽説的である・・陰陽説や二元論というのは、例えば心と体、善と悪、神と悪魔、表と裏というように世界に存在するものを二つに分けて捉えていく考え方です。二元論的な考え方には明らかにキリスト教的価値の優劣が存在します・・では陰陽説の場合はどうでしょうか・・確かに世界を二つに分けて捉えているのは同じですが、二元論のような価値の優劣や対立は存在しません。むしろ、陰と陽を対立させるものではなく、表裏一体のものと捉えています・・太極(ゼロ)を中心として・・陰=マイナスと、陽=プラスが円環さながらに連なっていきます。こうして考えてみると、数学とは意外に東洋的な学問のようです・・因みに、今世界中で使われている数字の基礎的発想は東洋で発見されたということを知る人は意外と少ない・・参考「陰陽説」キリスト教的西洋式の価値の優劣を意味する二元論・・反面、東洋の儒教的陰陽説は相対的世界は存在するが、価値の優劣や対立はない・・これから見ても、今の日本は西洋的二元論が幅を利かせている様子が分かります。武道武術の世界も、西洋的訓練方式を濃くした現在のスポーツ競技は、対立し優劣の競い合いが目的となっていますが、本来の武道武術の考え方、捉え方は陰陽説が基になっていると思われます・・相対する二つを対立して争うのではなく、相対する陰と陽を統一して一体化し太極とする・・即ち、異なった二つが対立して争うのではなくて、融合して一つに成りなさいよ・・という事です・・相対する陰と陽も結局は一つの円に包含されているということです。ですから、両極が相対して対抗するということは、身体の部分である「心と体」が敵対してバラバラに動いている心身分裂状態と同じだということです・・心と体を統一して一つにして使った方が健康的でもあり、総合的に強いということは誰の目にも明らかです。相手の動きや力に抵抗するのではなく、相手の力と一つになり融合して動きなさいよ・・それが一番強いんですよ・・と武道は教えているのですが、簡単で単純な勝ち負けの競技の方が面白いのでしょう・・本来の武道的修行は難し過ぎて取っ付き難いのだと思います。それは私も解ります・・何十年も修行している者からしても、一般的な、いわゆる現代武道を稽古している方が簡単ですし楽なのです・・しかし、根本的な武術の稽古に携わってからの数十年は、毎日が新たな発見と感動の連続だったよう思います。歳を取れば取るほどに磨かれる自分を感じます・・数十年前にこの武道に出会い、気付いていなければ、今はきっと年齢の衰えを感じ、武道とはほど遠い存在になっていたかも知れません。「武道武術を志す者たちよ、極意は誰の手にも届く近い所にあると思うべからず・・我が内界の奥深くに存在しているのである・・それを理解することも無く、さも解った振りをして武道武術について未熟な意見を述べるものではない・・それは武道武術の精神を冒涜するものである。」 参考・・王宗岳=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?新春1月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2011/12/27
コメント(0)

信じることの強さは、誰もが疑う余地のない程の圧倒的な強さを持っていると思う・・自分を信じる・・自分が進んでいる道を信じる・・人の愛を信じる・・逆に信じることが出来なければ清く正しく、また強くは生きて行けないと思います。信じ切れない人・・言い換えれば、常に世間や人に疑いを持って生きている人・・こういう人は同情に値する人かも知れません・・という私も若い頃を振り返れば、このような同情に値する人間だったような気がします・・人に騙されたり裏切られたりすれば、人を信じられなくなるのはよく分かります。人を信じられない人は、こう言います・・「自分しか信じられない!」と・・でも人を信じられない人というのは、本当は自分が信じられないのです・・自分を信頼していないから、周りのものが信じられないのです。「信」の無い人は、やたらと色んなものに手を出します・・が、一つも自分のものに出来るまで信じて続けられません・・これは自分の心の中にいつも不安と不信があり、自分に自信を持てないのが一番の原因だと思います。自分を本当に信じ切れるなら、よそ見をする暇はありませんし、外部や他に惑わされることもありません・・今自分が進んでいる一本の道を信じて歩いて行けます・・昔の人は外部に誘惑するものが少なかったということもありますが、ひたすら自分の信じた道を歩き続けた人が歴史に残った、何かをやり遂げた人たちでしょう・・でも、現代に生きる人は、外部に気を取られて自分に集中できず、自分を信じられなくなってしまっています。武術では、外部に向かった気を内部に収める修行をします・・これはプラティヤハーラというインド哲学から学んだ、心を外界から完全に切り離して自分の内界に向ける・・という武術では最高峰に位置する修行法とされています。所詮、人間は数十年の命と覚悟を決めて、周囲にキョロキョロと気を散らさずに、この短い命の中で、たった一つのものを完成させて死んで行けばいい・・あれやこれやとかじっている時間など、この人生には決して残されてはいないということに早く気付くことです。この道を行くと決めたら、決めた自分を信じて脇目も振らずに進めばいい・・覚悟を決めた自分を信じて・・良かれ悪しかれ結果は自ずと付いて来る・・もしも悪しき結果が出たとしても、これも進む道を決めた自分の力・・それを含めて己を信じ切るという生き方です。師弟の関係もそうです・・お互いの信頼が無ければ師弟ではありません・・また師は自分に全信頼を傾けてくれる弟子にだけ全てを伝えます・・そこにだけ損得抜きの信頼関係が生まれるのです・・最近は、この人に付いて行ったら得だから・・損だから・・と考えて、くっ付いたり離れたりする人が多いように感じます・・損得抜きの信頼の中にこそ真の大輪の花が咲くのです。たかが数十年の人生・・あれやこれやと惑う時間は無い・・すべては我が心の決めたままに・・一途に、しかし拘らず・・ただ一本の道を貫かば、他も自ずと観えてくる・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?新春1月度「体幹操法」セミナーへどうぞ!
2011/12/04
コメント(0)

↑(心身武道空手の内面操作 三角帯横の法)福岡ソフトバンクホークスが日本一になって、福岡の街はお祭りのような盛り上がりです・・さて、街のお祭り騒ぎには関係なく、今回は「気」に関することを、小生の理解する範囲で書いて見たいと思います・・私は長い間、「気」という言葉にアレルギー反応を示すほど気が嫌いでした・・というのも、必死に取り組んだ修行時代に、この”気”という言葉をそれこそ耳にタコが出来るほどに聞かされて、何でもかんでも気で済まされてしまう世界でした・・鼻に付く胡散臭い言葉だと感じていたからです・・しかしそれは気というものに関する理解に乏しかったからだと思います。ですから、自分の無能を棚に上げて、暫くは気という言葉を自分の中で封印していたようです・・しかし、その後それらを指導する立場になって・・体幹操作法→身体操作法→心身操作法とレベルを上げて来る弟子に対して、もう「気」という言葉を使わないでは説明できない・・無論、気の実態をすべて説明できる訳ではありませんが・・それでも最初の初心者から「気」という言葉を使って指導することは今も避けています。それは一般的にも未だ「気」の理解は乏しく・・誤解を招く恐れがあるからです・・突き、蹴り、投げなどの身体操作は、いわば単なる技であり、枝葉末節的な部分です・・しかし、世にいう達人と呼ばれる人たちは、それらの技が卓越しているだけではなく、その枝葉末節的な技を出す以前に、内面の操作によって既に技を掛けている・・と言った方が解りやすいと思うし、正解だと思います。しかし、それは見えない所での操作ですので、外から見ると普通の技とあまり区別が付かない・・これを見て学ぼうとすれば非常に難解極まりない・・先ず指導も受けず、ただ見ただけでそれと気付く人は余程の天才と言ってもいいでしょう・・何人かの武道の師に学び、また凄いと言われる沢山の武道家の先生諸氏を長い間眺めてきましたが、これら内面の操作を使っている先生方はほとんど存在せず・・全体でもわずか一握りの達人のみが知る世界の秘術と云えると思います・・「気を出せ!」「気を通せ!」などと言われても、普通・・目には見えず・・実態がないだけに何をどうすれば「気」を出せるのかさえ解らず戸惑うでしょう・・しかし我々武道武術を志す者には、気を出せる・・気を通せる・・人間になることが大きな目的であり、達人という目安になると言ってもいいと思います・・この気を出す・・通す・・という感覚を自在に自分の中でコントロール出来るということが、自分自身を制御できる人間的な成長へと繋がるのです・・気の出ている人間か・・否か・・それが最重要なのです・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?12月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/11/21
コメント(0)

一般的なものの見方は、肉眼の視力だけで見る見方・・例えば、動きが速い、もしくは遅い、蹴りが速い等など、このように肉眼で見て動いた後に、速いか遅いかを頭で判断して、それからそれに対応する・・事後の対応。スポーツ科学に基づくトレーニングでも、動体視力などで、いかに早くそれに対応するかを説く・・事後対応に終始しているスポーツの世界・・これを「見の目」と云う。武道武術は、コンマ1秒でも遅ければ、それはそのまま死に繋がる・・なので、肉眼で、動体視力で相手の動きを捉え、スピードだ、タイミングだと言って事後に対応しても間に合わない。相手の動きを目で追って、その動きを見て始めて技を出す事後対応に慣れてしまった現代のスポーツ化した武道の世界だから、身体の大小・・筋力の強弱に依って勝敗が決まってしまう・・身体の大きい者には歯が立たない世界なら、強さを求めて別に武道をする必要も無いし、武道自体の存在理由も無いことになる・・精神修行の目的だけなら、他にも道は山ほどある。実は武道武術では、スポーツのように肉眼で見る「見の目」だけで相手を捉えてはいないのだ・・肉眼で捉えようとすると、いくら動体視力が良くても、相手の動きが起こらないと対応できないが・・武術は起こる前に既に相手を捉えている・・これを「観の目」と云う。最初から相手を捉えた上で、相手の起こりに合せて「先の先」「後の先」を取るのである・・また「先に相手を捉える・・」というが、言い方を変えれば「先に相手を気で押さえる・・」「先に相手に入る・・」と、このような言い方もできる・・一生涯を「見の目」だけに頼って趣味レベルで武道やスポーツを続けるのならばそれでもいいが、本気で極めようと思う人なら「見の目」レベルでは、武術に一生を費やしても武術の真髄の修得は難しい・・ならば「観の目」の世界に気付いて発想を切り替えられるか・・否か・・これによって武道もスポーツも、人生そのものにも大差が生ずるに違いない・・よくよく吟味されたし・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?11月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/11/08
コメント(0)

何の世界でも、一流と二流または三流を分ける大きな違いは「備え」にあると私は考える・・当然ながら・・・本人の持つ能力や才能というものが一つの要因であることには間違いないだろうが、仮に同じ能力とした場合「備え」の有る無しでは、決定的な差を生じる。目的が無いところに、「備え」ることは出来ない・・一年先・・五年先に自分はこうなっていたい・・十年後にはこれを完成させたい・・その何年か先の目標を、現実のものにするために・・今、自分は何をしなければならないか・・?これが「備え」である・・結果を創るのにも「備え」が大きなカギを持っている。毎日、通勤時に駅まで歩くことを心掛け、日々適度な運動を心掛けて生活している人・・片や、どこへ行くにも車を使って、ほとんど毎日歩くことも少なく、運動もあまりせずに生活をしている人・・彼らの5年後、10年後の結果には大きな差が生じるだろうことは、恐らく誰の目にも明らかであろう。もし、後者の生活を続けて、10年後に生死を分けるような病気をした時・・果たしてその人は後悔もせず、当然と思い素直にその病気を受け入れられるだろうか・・「何で自分だけが、何も悪いことはしていないのに・・」そう思うかも知れない・・でも果たしてそうだろうか・・?「備え」とは、日々の生活の在り方・・とも言える・・5年後・・10年後・・生涯・・すべては今の備えがカギを握っているのである。武士は、一生涯一度も抜かないかも知れない剣を、日々磨き、日々振って技を練る・・万に一つの有事に備えて・・武道は、人を斬り、人を倒し、殺傷する道具に非ず・・武道は、日々の在り方、今をどう生きるかを教えてくれている・・武道は、人生の道しるべでもあり、生き方も、死に方も示してくれている・・私にとっては人生の師とも言える存在である。今の西洋文化に塗れた日本には、残念ながら武道武術への理解は非常に薄い・・世界にも類を見ないほど洗練された日本武道は・・日本の誇りでもあるのに・・今こそ、日本が世界に誇れる武道の精神に、我ら日本人が目を向け大事に受け継いで行こうではないか・・・今こそ日本人よ・・サムライの魂を呼び戻せ・・!今こそ日本人の誇りを取り戻そう・・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?11月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/10/31
コメント(0)

この世はすべて陰と陽・・表があれば裏がある・静と動・光と影・苦あれば楽あり・・生と死・等など・・我々は大方の場合、場面場面でどちらか片方だけを見て物事を判断し決断して生きている・・まったくの無風状態では、どの方向から強い風が吹いて来るかなど期待することなどできはしない・・偶然が重ならなければ、平穏無事の中からは、大きな風は吹かないし、空高く舞い上がる力も望めない・・波風立てず・・平穏な生活が一番平和で平凡で幸せな生活であることは確かだろう・・しかし、その幸せを得るためには日々、日向ぼっこをして幸せを待っているだけで叶うだろうか・・?その一瞬の日向ぼっこでさえ、長く続く保障などある筈もない・・それでいいと思う人は、そうして待ち続ければいいだろう。陰と陽という真逆のものが存在する以上・・決して我々は自分に都合のいい片方だけを経験して生きることなど出来ない・・万に一つ出来たとしても、バランスの悪い不安定な人間が育ち、相対するこの世界で逞しく生きて行くことは非常に困難になるに違いない・・真逆のものを別々に捉えるのではなく、一体として見ることによって、自分や人、周囲・・世の中までも違って見えてくる・・武道武術では、この相反するものを一体にして上手く技の中に活かされている・・自分の中の相反するもの・相対する相手・内と外の関係・・これらを一つにした時、自分を含めた世界が一変して見えるのだ。今一度言う・・表があるから裏があるのだ・・向かい風が行く手を阻むから、追い風が起こるのだ・・逆風が吹くから、順風が吹くのだ・・しかし・・どちらも一つの風なのである・・無風の中では、逆風も順風も存在しない・・私は、向かい風だろうが・・逆風だろうが、風が強く吹けば吹くほど、大きく羽ばたくチャンスに観えて来る・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?11月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/10/25
コメント(0)

型は、不変を守り・・それを破って形となる、形は、それを離れて術となる。 「守・破・離」武道武術には、「型」という変えられない不変の基になるものがある・・物を作る時の雛型のように、何千何万作ろうと、一つも違った物が出来ないのが「型」である・・いや、違う物が出来てはいけないのが型なのである。現代伝わる武道には、脈々と受け継がれて来た型を全て捨て、全く違う型に、自己流に都合のいい型を作り替えたり、伝統の型を自己流に変形させたりと我流が横行しているように思う・・しかし、型は誰がやっても同じように出来て、一切の変更があってはならないのが「型」である。型は不変を守り・・それを破って「形」になる・・鋳型ともいうべき型を反復する内に、その型が自分の身体に刷り込まれ、いつか画一的な鋳型だった型を破って「形」になって行く・・この形こそ、その人独自の個性を持った「形」になるのである。誰もが画一的に出来る鋳型から、人それぞれの個性を持った「形」への昇華であるが・・決してこれは我流ではなく、鋳型の練磨から絞り出される独自の「形」なのである・・そして、いつかその形からも離れて「術」になって行かなければ本物の武術にはならない・・術とは、人知を超えたわざ・・型から形に昇華させたその形が形だけで終わっても「術」にはならない。「形」をさらに進化させ、相手へ作用させ得る「術」となって武術になるのである・・そして、鋳型である型は、寸分の狂いもない再現性を持つ指導システムの教科書でもある。逆に型のない武術は、形にもならず、術にもならない再現性のない・・行き当たりばったりで先の読めない博打のような、そんな勝負に命を懸けねばならない・・ということである。もう一つ付け加えると、型や基本の身体動作に見える身体の操作は、わずかに2~3割であって残りの8割近くは、心を含めた見えない内側の操作なのだということも知るべきである。目に見える身体の動作のみを全てと捉え、型は実際には使えないという”武道愛好家”もいるが・・これは真の”武道家”にも、中々見て取れぬもの・・とても”愛好家レベル”に見える筈もない・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?11月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/10/02
コメント(0)

沖縄古流空手の伝書には、入門を志願する者の心を審査して、適否を判断するための師である者の心構えについての記述もある。昔は唐手を習おうにも、今のように誰でも入門することは出来なかった・・数年間は、師の身の回りのことや掃除、洗濯などの雑用をした後、師より修得させるに値するか否かの判断で入門が許可された。武術の極意の伝授は、その者の人格によっては兄弟、身内であっても入門を許されなかったようだ。ましてや他人の場合・・粗暴の者、礼を知らぬ者は問題外であったのだろう・・糸東流の開祖、摩文仁賢和が琉球唐手(那覇手)の中興の祖である東恩納寛量と首里手の糸洲安恒より、それぞれ唐手を学んだ頃のこと・・摩文仁賢和が、それぞれの師に入門を乞うたところ、幾度も入門を断られ追い返されたが、最後には熱意に負けて入門を許された・・という伝記を昔読んだことを思い出している。私は今・・・伝える者の一人として、深く考えさせられる事柄だと強く感じている・・金さえ出せば何でも手に入る時代・・悲しいかな・・心が失われて行くような思いがしてならない・・伝える側の私も然り・・もっとよく人選をした上で、このような武術的極意は伝えて行かなければならない・・それが伝える者の責務のような気がする。継承される側も、その重さを生涯背負い次に伝えて行く志のある者か・・それともその意志が無い者に無理に押し付けていないか・・よくよく見極めなければ将来に禍根を残すことも有り得るかも知れない・・今一度伝える側の自分にも、それを継承する側の者にも、再度問うて吟味しなければならない問題なのかも知れない・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?10月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/09/20
コメント(0)

私は昔、毎日数十人の子供が餓死する国にいたことがある・・餓死した子供の遺体が道に無造作に転がっているのも見たことがある・・それに比べれば、今日本の景気経済が低迷しているとはいえ、食べて行くのに不自由するほどではない・・そんな豊かな生活しか知らず、それに慣れてしまうと、より便利な物、より美味い物・・というように際限なく欲望が膨らんでいく・・その結果として、運動不足、栄養過多が増えて生活習慣病と呼ばれる病気で、健康を失い病床に臥せる人々が急激に増え続けている・・長寿大国ながら、寝たきりの長寿も多い・・どんな形でも生きていれば長寿なのか・・同じように、教育現場や塾など人材を育てる場所でも、お客様は神様・・的な商売的教育をするところが、残念なことに非常に多い・・まるで画一的マニュアル人間製造システムだ。それを習いに来る生徒は、金を払っているから当然の如く、まるで殿様気分で、手取り足取りの授業を受けて、知識だけ、マニュアル通り習得して、自分の力で考えることの出来ない大人に育って行く・・一から十まで、こと細かに具体的に教わって育った反動が、自分で考える力・・感じる力・想像する力・イメージ維持力などに深刻な影響を与え、それらの弱体化が多くの大人にも蔓延しているように感じられる・・昨今である。昔から武道武術は、自然界の在り様から己の生き方を学び、師の後姿から人としての在り方を学んだ・・また、師の動作や一言から何かに気付き、己の稽古の指針としたのである・・そして自然の法則に自ら気付き、実践していく者にのみ、秘伝の相伝が行われた・・・現代では、難しいことではあろうが、この程度の志と覚悟も出来なければ、自分の中の潜在能力など引き出せるはずが無いではないか・・!生半可な考えで極意を得ようなど、むしが良すぎる、そんなむしのいい話が、この世に存在するはずもないことは、誰もが知るところであろう・・・己に厳しさを持て! 自分自身に甘えは無いか・・君等は、そこにある平坦な道を歩もうとしているのか・・普通に、楽しく、平凡に生きたくば・・その道を生きればいい!さもなくば深く思考せよ!脳に汗をかいて心を練磨せよ・・ 「我が師より」=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?9月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/09/12
コメント(0)

極意と呼ばれるものを考えて見ても、そこに特別な法がある訳ではなく、要するに相手の好むように操作して行って、勝ちを得る所に極意がある・・相手の好むところとは何か・・・?一旦剣が相対すれば、そこには必ず相手を攻撃しようという気が生じる・・その時、我が身を全て相手に任せてしまうのである。そして相手の好む瞬間を待って相手を打つ・・これが真の勝ちである・・「山岡鉄舟 剣禅話」相手を打とうという気も無く、相手に打たれるという気も起こらず、すべてをその瞬間に身を任せてただ相手の前に立つ・・言葉というものは簡単に、名人達人の技を解説できる便利な道具だが・・口から吐いた言葉をその通りに実践できる人はそう多くはいない・・ただ茫然と相手の前に立ち、何をしようとするでも無く、ただ茫然と相手の前に立ち続ける・・なす術も無く、ただ相手の前に茫然と立ち竦む素人と外観上は何の違いも変り様もない・・しかし初心者は成す術も無く立ち竦むのに対し、もう一方は、ただ茫然と立ち竦んでいるかの如く、外見からは到底計り知れぬ集中で立つ・・内側では心身を統一し、コマが高速で回転するが如き静中の動があるのだ・・そのための修行もまた独特である・・これはただ単に立つだけの修行のことである。ただ立つ・・もう一つは、ただ単に座るだけの修行もある・・ただ座る・・両者とも、外の世界と縁を切る修行なのだが、逆に言えば、内の世界との交流を深める修行でもあるのだ・・何でそんなことを・・?と思う人もいるだろう・・ここでその必要性を解説する気は毛頭ないが、一般的に言えば、自分を見つめるということのもっと深いものとご理解頂ければ結構だ・・己を探求する者のみが生涯背負わねばならない己との戦い、そして己との融合・・今、私もこの相対する矛盾を背負って・・長い求道の旅へ出た・・今その道の途中・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?9月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/09/06
コメント(0)

NO SIDE~皆さんご存知、ラグビーの試合終了後のことをノーサイドというらしい・・試合が終われば、敵も味方もないよ・・ということなのだそうだ。日本の武道精神にもNOSIDEは存在する・・日本人は、古から道徳や人が生きる道を宗教に求めるよりも、武士道精神に求め、これに影響を受け、人としての道理を自然とこの精神に学んだ。武士道が目指した「忠誠、勇敢、自己犠牲、信義、礼節、名誉、質素、情愛」などは日本人の他を敬う精神を養い、敗者を労わる精神を育んだ。武道精神は、本来、己を練磨し高めることにあり、人を殺傷する目的にはない。結果として、止む無く人を傷つけることになったとしても、最小限に抑える高度な術技が必要であった。「勝負は鞘の中」で決まるのであって無闇に武器を振りかざし、また無用に我が力を人に見せびらかすものではない。「知る者は言わず、言う者は知らず」の言葉の如く強がって罵声を発する者ほど実力は無い・・逆に、平然と構えもせず黙してたたずむ人の方が、出来る!・・と読むべし・・・しかし、これもこういう状況になった時のことであって、武道は本来、自分を高め人間を磨き心身を一如にして動ぜず、自然の法則と一体となることにある訳であり、相手との争いはあくまで避ける精神が無ければならない・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?9月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/08/31
コメント(0)

体を液体として使うか・・固体として使うか・・ここに武術修行の大きな鍵が隠れている・・地球上の大多数の人間は、無意識ではあるが・・体幹を一つの固まりとしてしか使っていない。言い換えれば、人体の約70%は水分であるにも関わらず、ごく限られた人たちを除いたほとんどの人間は身体を固め、固体として使っているのだ。それは現代の武道武術でも、同じことで、身体を流体(液体)として使う術を修得している武術家は非常に少ない。体幹トレーニング・・なるものがクローズアップされている昨今だが・・内容は体幹の内部にあるインナーマッスル(深層部筋)を強化して体幹のパワーアップを計る・・云々同じ体幹トレーニングでも、少し上級であれば、骨盤周辺に位置する深部筋である腸腰筋郡を強化するとともに、胸郭部周辺に位置するローテイタ・カフなども強化し、それらを連動して使う・・筋肉運動学的には非常に正しいのだが、それ以上の理論、説明をするものは、皆無と言っても過言ではない。確かに・・それから先は、言葉では説明ができないのかも知れない・・が、たまにそのような術理を扱っていそうな書物を見つけても、結局は宇宙エネルギーだの・・気だの・・に終始する。それを以ってしか、言葉では説明が出来ない仕方のないことかも知れない。これは身体を通して学ぶしかないのだろう・・飛鳥塾 「身体理論」を幾つか記すと・・1、体幹を筋肉の連動により操作する・・2、体幹を流体として操作する・・3、体幹を軸として操作する・・4、体幹を波として操作する・・5、体幹を球体として操作する・・などなど・・まだあるが・・基本的には、実際、順を追って訓練して行くのだが、この中の一つでも完全に習得できれば、恐らく一歩ならずとも、何歩も何十歩も達人に近づくだろう・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?8月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/08/22
コメント(0)

人間を鍛える・・体を鍛える事ではなく、人間を鍛える・・体よりむしろ内面を鍛える。厳しい修行と言うが、肉体的な厳しさよりは心を如何に修行したか・・これはその人の内から滲み出てくる。その人の品格となって強さと優しさに現われる。私の修行時代・・その時には気付きもせずに「どうしてこんな細かい事を・・」どうして、どうして、どうして・・の疑問ばかりが心を巣くっていた一時期、不満だけが頭を満たし、そんな日々があった瞬間を思い出す。しかし今思えば、あの修行が無かったら、私は今、強さばかりを追い求め、礼を知らず、わきまえず、力だけ強い、思慮の浅い粗野な只の愚か者になっていたに違いない。厳しさの中に、自ら足を踏み入れて行くのが修行であって、厳しさを避けて通る道を探して生きるのも同じ人生だけれども、どう生きたら損とか得ではなくて、その人間の生き様の問題なのである。人は誰も、弱くて愚かで品格も持たずこの世に生を受け、世の中という大海に放り出され、自分の脳に刻まれたセルフイメージに沿って生きている。私は思う、人は厳しさの中に自ら身を置いて鍛えられてはじめて人間に目覚めるのだと・・厳しさを知る人は、しばらく接すると解る・・人間の味だろうか・・人間の深みだろうか・・何か匂い立つものがある・・覚悟の出来た人・・深みのある人・・自然体の人・・私はこういう人に成りたい・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?8月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/08/14
コメント(0)

「郷に入らば郷に従え・・」皆さん良くご存知の有名な言葉であり教えである。新しい場所に行ったら、その場所の習慣や生活に合わせて生きた方がいいよ。その場所には、その場所のルールがあるし、そのルールに順応しないと生きて行けないよ。と言うような意味である。郷に入らば郷に従え、「郷に従う」という意味は今まで自分が身に付けた習慣や知識などを、一旦白紙にするということでもある。世の中には、時々外で得た知識や情報を得意気に場所が変わってもペラペラと喋る人間がいる。このような人は、非常に損をするタイプの人なのだが、至って本人は気付きもせず、得意気に喋り続ける・・「口叩きの手足らず」の如くに・・自分の知識や技量を人に見せないと気が済まない、こういう人は、胆に納めるということを学ばなければならない。孔雀が羽を広げて雌にアピールするように、外部に認めて貰いたい!自分はこんなに優秀なんだよ!と訴えているようにも見える・・「郷に入らば郷に従え」~自分を白紙に戻して、今いるこの場所からスタートして、新たに学べ!とも言える・・逆に言えば、「郷に従わない人」は、ここで学ぶ気がない人なのか・・それより先に、学ぶ姿勢を学ばねばならない人なのだろうか・・また、抽象的表現で気付く人と、気付かない人がいる・・具体的に詳細に説明しても解らない人・・一を聞いて十を知る・・十を聞いても一しか解らない人もいる・・この差を才能と見るか・・能力のあるなしと見るか・・はたまた集中力の欠如、やる気の無さと見るか・・何れにせよ外部にばかり心を置く人の定めである。=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?8月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/08/11
コメント(0)

斬り結ぶ太刀の下で、その刀を見て「来た!」と思えば、その刀に心を引きずられて、我が自由を失い斬られてしまう。斬り結ぶ太刀は見ても、どうかわして、どう打ち込もうかなどと思慮分別を一切心に持たず、つまり少しも心が囚われることなく、ただ只相手に応じて無心に動けば勝機も出てくる。 不動智神妙録より相手から腕を掴まれる、胸倉を掴まれる、今まさに殴り掛かられようとしている・・こんな時、人間は皆それを見て感じて、その事に執着してしまう。そして体を固め身構え、心弱き者は金縛りに会って身動き一つ出来なくなってしまう。ある程度修行を積んだ者でも、筋肉を収縮させ緊張のあまり、身体は固い動きになって居着いてしまう。これはもう、身体の鍛錬やトレーニングを山程積んだとしても何一つ解決される問題ではない。だが只一つ解決できる方法があるとすれば、それは心を強くする修行をするしかない。心を強く・・内側を観る修行をするのである。逆に言えば、外側を見ない修行をするのである。もっと言えば、肉眼に頼らない修行をするのだ・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?8月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/08/06
コメント(0)

「恐驚疑惑」これは剣術や古流武術で云われている武道に於ける四戒である。以前書いた「一眼 二足 三胆 四力」の四要素とは逆の教えである。要するに、やっちゃいけないこと。武道の四戒を絶ち、心身を一如にしなさい。という崇高な教えなのであります。会津藩武士の子弟教育に「什の掟」というものがあったが、什の掟七項目の後に・・・「ならぬことはならぬものです」とある。一々ならぬ理由を説明し、納得して貰おうとする現在の「屁理屈人間製造教育」で、屁理屈人間を量産し続ける現代日本に失われたものは、会津の「什の掟」や、薩摩の「郷中」のような武道教育だろうと思う。ならぬものはならぬ・・・これでいいのである。厳しさの中に咲く一輪の優しさ・・何でもかんでも理屈をくっ付けないと納得しない人間。理屈で教えないと理解できない思考回路の貧弱さ・・・感じ取る・読み・想像する・立体思考・これらは理屈人間の思考では捉えきれない。このような感覚が鈍化したために、屁理屈が口を開いて軽々しい言葉が飛び出してくる。屁理屈人間は、何かを学ぶ姿勢も知らない。厳しさの中に身を於いて修行をしたこともないために世の中を舐めてしまう大人になってしまった。叱られもせず、叩かれもせず、誉めて育てろとばかりに育てられた子供が、誉められないといじけ、頭に乗らせると人を舐め切った大人になって行くように・・こういう人間は、屁理屈をいう前に、有無を言わせず叩きのめされる道場の理屈抜きの修行を体験した方がよろしいようだ・・「什の掟」「郷中」などのような理屈ではない教育こそ生きた人間教育だとしみじみ思う昨今・・◇会津藩「什の掟」一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ 二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ 三、虚言をいふ事はなりませぬ 四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ 五、弱い者をいぢめてはなりませぬ 六、戸外で物を食べてはなりませぬ 七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ ならぬことはならぬものです◇薩摩藩「郷中教育」1、武士道の義を実践せよ2、心身を鍛錬せよ 3、嘘を言うな 4、負けるな 5、弱いもの苛めをするな 6、質実剛健たれ 7、たとえ僅かでも女に接することも これを口上に昇らせることも一切許されぬ8、金銭利欲に関する観念を最も卑しむこと =達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?8月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/07/31
コメント(0)

「心頭滅却すれば火もまた涼し」織田信長に火責めにあった時に、甲斐恵林寺の快川紹喜が残した言葉であるようだ。心頭滅却できればそうかも知れない。しかし、心頭を滅却して無念無想の境地には、我々凡人は中々なれない。しかし、心頭を滅却せずとも・・・「心頭を没頭すれば苦もまた楽し・・」なら、できるかも知れない。生涯、自分が火の中に入るという確立は極めて少ないだろう。だから、心頭を滅却できる程の人物になれなくても大丈夫である・・でも、この人生、苦難には幾度となく遭遇するだろうと思う。それじゃ、心頭を滅却する程のことはなくても、心頭を何かに没頭しながら生きればいいじゃない?人は没頭するとき、苦痛や痛み、悲しみなどを抑える脳内物質が活発化するらしい。確かに・・不平不満を言わず、黙々と取り組んでいる人は「心頭を没頭して苦もまた楽し・・」という顔付きをしている・・逆に、不平や不満ばかりを口にする人は、集中できず、没頭できず常に外が気になるようだ・・人生・・一生を通して「心頭を没頭・・」して生きられる人は、それだけで最高の人生を活きているのかも知れない・・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?8月度「体幹操法」チャリティーセミナーへどうぞ!
2011/07/22
コメント(0)

「一眼 二足 三胆 四力」いちがん にそく さんたん しりきと読む。古流剣術や武道武術の大切な四要素として、重要な教えである。一番先に挙げている「一眼」とは・・これは肉眼で見ると言うより、一言で云えば相手を心の眼で観るということである。勿論、肉眼で見ないと言って目を瞑ることではなく、相手に目を停めないと云うことであり、心眼で観るということである。「観見二様の目付け」といい「観の目強く、見の目弱く」と武蔵は云う。次に「二足」であるが、打撃にしても掴みにしても、素人ほど手先で打ち、掴もうとして、足の動きが定まらない。「立合いは刀で打たず手で打たず、腰を極めて足で打て」との教えもあるように、腰を基盤とした足運びが根本である。三番目が「三胆」である。 胆は腹、骨盤・・臍下丹田の位置を云う。どれほど素早い技や、どれ程の剛力があったとしても人体の中心であるこの胆力が創られていないと、イザという時に腰が抜けてしまう。合い抜け覚悟で前に出る決断と度胸がなければ技量も役に立たず。 最後に「四力」であるが、一つには力=筋力なんてほんの少しあればいい。という意味でも解釈できる。とは言っても、最後の最後には体力勝負になる場合もあるので、筋力は全くいらないと間違って解釈してはいけない・・摩訶不思議な力を得たいがために机上の空論になって、現実から目を背けてはいけないという事である。吾 事に於いて後悔せず 独行道=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?7月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/07/19
コメント(0)

第三種のテコの原理は、発生源の最小の動きが末端では大きな動きへと変換し拡大する。と定義すると、釣竿の動きにヒントが隠されている。手元”力点”の小さな動きで、竿の先端、もしくは釣り糸や釣り針”作用点”には、数メートルの大きな動きを作り出すことができる。これを人体で考えると、単純に先ず、力点となる体幹操作の小さな動きで、作用点の手先には大きな力となって伝わって行くことになる。しかし、身体の場合、単純に支点、力点、作用点だけでは説明をするのには多少無理がある。釣竿のように素材自体が、力を伝えていくように作られていればいいが、人間の体は人によってまちまちであって、また釣竿のように一定した動きをしない。まず、力点からの小さな力を、作用点になる手や足の末端まで拡大しながら滞らせずに連動しなければならない。そのためには素材である身体を、力の流れを抵抗なく連動する素材に作り変える必要がある。それが私どもが基本にしている「体幹操作の基礎練習」であり、先ずは、意識や力やエネルギーの通り道である身体内部を整えて、連動し易いように改造して行くことが前提であると言えよう・・・地面から足首・・・・・作用する手先まで、スムーズに連動できる身体能力を開発することが必須である。☆心常に兵法の道を離れず☆ 宮本武蔵 独行道=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?7月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/07/13
コメント(0)

力を入れることは老若男女、誰に習うこともなく誰にも自然にできるものである。力を入れたり、力んだりすることは、人間誰でも容易にできるのだが、逆に力を抜く、脱力をする・・となるとどうだろうか・・ここで言う、力を抜くとは無駄な力を抜くということなんだが、そもそも無駄な力と無駄ではない力の区別さえできないのが一般の人なのだ。力を抜く、脱力するということは、いつか自然にできるようになると言うものではなく、力を抜くことに特化した訓練修行があって、初めてできることなのである。人が地面に立てば、地球の中心に引っ張る重力と同時に、それに反発する抗力という逆の力が発生しているのである。体重70キロの人は、70キロ分の重力が地球に引かれている訳だが、同時に反発抗力が逆方向に向って同じ重力分だけ働いている理屈である。その拮抗状態(バランス)が、保たれているからこそ、我々は地面に叩き潰されることもなく天空遥かに弾き飛ばされることも無く、地球上に普通に立って生活ができているのだ。しかし一般の人は、地球の中心に引っ張られる力・・重力に負けまいとして、無意識に必要以上の力を入れて立っているので、それが力みとなる。力を抜くこと、脱力状態を修得すると地球の重力に抵抗する最小限の力「抗重力筋」だけを使って立ち、行くも止るも座るも立つも、すべては必要最小限の筋力を使い、その他は重力や抗力を利用して行動できるのである。これらができるには、自分の体の内部で脱力状態を自由にコントロール出来なければならない。言わば脱力は、人間離れした神技や魔術的な技を使うために欠かせない基礎的身体能力になるのだ。全ての人間、ほとんどのスポーツ選手、武道家が力を筋力の強化に頼り、それを最強と信じているこの世界で、我々は敢えて真逆の真理を貫く。外界に影響されるのが強い人ほど、脱力とは無縁の存在と言える。要するに、格好ばかり気にする人である・・真の威力を得たくば力を捨てて脱力を修得せよ!悟れ!力を抜けば抜くほど強くなるということを・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?7月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/06/30
コメント(0)

捨てて見て初めて得られるものは非常に大きい。脱皮を繰り返して自分を進化させて行くように、人も過去に身に付けた鎧を捨てなければ、大切なものは何一つ得ることはできない。今、「仁」というドラマが人気を呼んでいる。医は仁術と言うが、「ドラマ仁」の主役のように、現代にも仁を持つ医者がどれだけいるだろうか?以前にも書いたが、私が半世紀以上も生きた人生の中で、たった一人だけ、「仁」を持ってた医者を、いや、人間を知っている・・それは今は亡き私の一番弟子である。外ばかりを飾って生きて行ける人は、それでいいだろう、そうではない私たちが人生で何かの役に立ちながら生きるには、外部をできるだけ捨てて、内を修行するしか道を見だすことはできなかった。武道の世界でも昔〇〇空手にいた、〇〇流にいた、そんなプライド?・・を捨て切れない人が多い。私に言わせれば、そんな屁の突っ張りにもならんようなプライドは今すぐ捨てろ!内側を修行しろ!そうすれば、そんな見栄で生きなくても、外の事も気にならなくなるから・・武道武術の世界に限らず、有名大学、有名企業を経て、そのプライドを捨てきれない人たち・・そんな人は独りでは何にもできない人が多い。鎧を捨てて生きて行くには、内側の強さと優しさ・・そして、内から出てくる微笑みと愛が本当の強さに変って来ないと、人の為?誰の為?どころでは無い!先ずは自分の内側にフォーカスして見ることだね。内を観ないと外の真実は見えない!自分の人生、どう生きるかは本人の勝手だが・・内を極めると外がよく見えるのも事実・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?7月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/06/26
コメント(0)

錐体外路神経系・・と言ってもほとんどの方は何のことか、聞いたこともない言葉かも知れない。解剖学を学んだことのある医師や医療関係者の方はお解りになると思うが、錐体路神経系に対する逆の意味を持つ医学用語である。その医学用語が、武道武術に何の関係があるのかと思う方もいると思うが、人の命に関わるという意味でも、医術と武術には多くの関連が見られる。というより、人体を対象にする、という観点からも特に、明治に入るまでの医術と武術には、切っても切れない密接な関係にあった。武術を深く探求している人には、当然の如く関係性は否定できるものではないが、現代スポーツ武道の中にはいくら探してもどこにも見当たらなくなってしまった。私も若い頃、師匠から常々言われていた言葉の中に・・「人を倒す術と、人を救う術を同時に習得した者を武道家、武術家と呼ぶ。」また「人を倒すことだけを習得した者は格闘屋、喧嘩屋と呼ぶのである。」と・・・話を元に戻そう、錐体外路神経系は高度な武術の技の中では、非常に重要な要素であり、相手の心理をコントロールするためには欠かすことのできない原理の一つである。簡単に言うと、バナナの皮を踏んで滑ったとき、人は意識せずに、とっさに何かを掴もうと無意識的に行なう動作を「錐体外路神経系」といい、自分の意識下で動くことを「錐体路神経系」と呼んでいる。古の武術の技は、自分の命か相手の命のどちらかが確実にこの場で失われる状況の中で、確実性の無い身体の動きに任る一か八かの博打的な技は恐らく使えなかったであろう。命の遣り取りの中に於いては、心術・今で言う行動心理学的要素、まず心の読み合い的な見えない勝負があった後に、実際の勝負が行なわれるのか、どちらか心の勝負に負けた方が、斬り合う前に「参りました」と殺し合いを避けたのだろうと思われる。今の試合のように、危なくなったら審判がストップして、命の保証をしてくれる勝負でなかったことは確かである・・続く・・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?6月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/06/17
コメント(0)

生涯、この身の果てるまで修行は続くのだが、今日まで続いてきた、武道武術の修行の中でも今でも強烈な記憶として刻まれ続けているいくつかの出来事がある。まさに6年前の今日、私は生涯不世出の一番弟子を喪った。彼は医師という多忙な職業の中、私の武道を変革し、進化させていくさ中に絶対に必要な存在であったし、唯一、私の武術修行を信じ、支え続けてくれた最初で最後の気が通じ合える愛弟子だったのかも知れない。6年前の今日・彼は多忙な海外出張から帰国した後、33歳の若さで突然この世を去った。今の私の武術への思いと情熱は、彼が残してくれた形見ではなかろうかとさえ思う。生前何度となく二人で取り交わした会話の中でこの純白の道衣は俺たちの死に装束だよ。との言葉通り、最後に彼は私と共に修行した道場の刺繍の入った、白い道衣の死に装束を纏って逝った。毎年この日になるとそうだが、6年目の今日も、彼は私の近くに来てくれているはずだ。今宵、酒でも酌み交わしながら武道談義でもしながらお互いの近況を報告し合おうぜ。いずれ俺もそっちへ行ったら、その時はどれ程腕を上げているか試してやるから、その日を楽しみに修行に励んでおけよ。今日は私の個人的な修行の追憶を書き綴りました。彼の命日に免じてお許し願いたい・・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?6月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/06/12
コメント(0)

我々が住んでいる現実はすべて相対的世界である。常に「陰と陽」相対する二つのものを一体として捉えることで完成形となって行くのである。個人的にも「心と体」全く別物同士が同じところに旨くバランスを取って存在する。心には、形も無ければ臭いもないし、目にも見えない。体には、形も有るし臭いもあるし、目にも見える。心は捕まえることも出来ないし、一瞬にして遥か遠くへ飛んで行くことも出来る。体は捕らえることも出来るし、動こうにも制限だらけで自由にならない。このまったく違う相対するものが、同じ所に存在するのには、きっと何か大きな意味があるに違いない。心であそこへ行こうと思って、その後体が付いて行く。心が動いて、その後に体が動くという法則。武道武術は、この法則を巧に活用して技を掛けるのだ。本来、身体の動きは心の命じるままに正確に動くのだが、現代人はその能力を失ってしまった。目に見える物しか信じない、現実にある物しか信じない。確かに現代社会ではこれはもう常識化してしまっている。そして自分の心さえも、自分の未来さえも信じられない人々で溢れてしまっている。しかし、この度の大震災を機に、日本人はきっと心の存在に気付き、心を信じ自分を信じ切れる自分になっていくことを願いたい・・心と体を一つにして使えば、自然の原理に沿った自然の力が蘇える。心身を統一した人間本来の能力が全開する。=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?6月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/06/06
コメント(0)

空手と柔道はどっちが強いか・・・?ボクサーとレスラーはどっちが強いか・・?あれとこれはどっちが強い・・?巷でよく聞く、結論の出ない話であります。誰が強かろうが弱かろうがどうでもいい話だが・・空手のルールでやれば空手が強いだろうし、柔道のルールでやれば柔道が強いだろうし。じゃー、ルール無しでやれますか?ルールなし、と言うけれど・・実際,殺し合いです。素手より刃物、刃物より銃、銃よりミサイル、ミサイルより核兵器、というように強さを他と比較すれば切のない話で、また意味のない話なのです。要するに、誰が強いか?という話は、誰が、どういう条件下では強かった。という話に過ぎないのです。ボクサーはリングの中でボクシングが強いだけの話、シャバでやれば刺し殺される可能性大です。この法治国家の日本で・・勝っても負けても法に裁かれ犯罪者の烙印を押されるのが関の山です。・・割りに合いませんね。他と比べ競うのではなく、自分の内部と戦って見たらいかがでしょうか。自分の内面をコントロールすべく、自分と戦って競い合ったらどうでしょうか。こっちの方が遥かに面白いし、遥かに強敵ですよ。(笑)内部と戦い続けた結果として、自分自身が強く大きく成長していくのが自他共に感じ取れるようになります。前回の静動一致と同様、すべては陰と陽の関係であり、今回も内と外、相反するもの同士が一体になったとき、すべては調和され、統一され自然の原理に沿って行くのであり、一番無理のない姿でもあるのです。=自分が自分を信じきれる強さを求めよ!=ではまた・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?6月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/05/29
コメント(0)

静動一致・・コマが高速度で回るとき、コマはまるで静かに止まっているように見える。これこそ静動一致である。外側からは静止しているように見えるが、内側には大きなエネルギーが満ち溢れている状態である。まさに心身をコントロールする理想の状態でもある。一般に、スポーツ的身体の使い方やあらゆるトレーニングは、この動の動き、動の訓練がほぼ全てである。しかし、人の身体の生理機能もすべては静と動との関係と同じく相交わることのない陰と陽の関係で生かされているのである。呼吸も吐く息と吸う息、血流も動脈血と静脈血の如く相対するもの同士が一体として動くとき生命が営まれる。陰と陽を一つにした時に、自然の大きなエネルギーをコントロール出来るのである。陰陽一体化・・一年中雨だけ降り続けば、恐らく地球上の多くの生命は生存できないだろう。また、晴天だけでも多くの生命を存続させることはできない。陰と陽・・静と動、裏と表、心と体、相対するもの同士を一体にすること、これは武道を追求する者にとっても一つの大きな関門であろうと思う。人生も同じく、山あれば谷もある、しかし雨が降って地が固まるのであって、今苦しみがあるから明日を見よう!と思うのである。苦も楽も皆ひっくるめて我が人生なのだ。真の武道を極めんとする者、これらをしかと心得るべし!続く・・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?6月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/05/16
コメント(0)

相手の力を吸収する・・どうやって?前回の力のベクトルを変えて相手に返す、というのも、実はベクトルを変える前に、と言うか、相手と接触した瞬間に相手の力を吸収しているのです。力を吸収するためには、まず脱力して体を柔軟にする必要があります。体が固いと吸収どころか、力に反発してしまいます。脱力したら体幹で接触部を操作します。 ・・・?これで解る人は天才かも知れませんネ(笑)我々「達人養成教室」でいう体幹操作法の中でいう車軸を使い、体幹の波で中・下丹田を瞬間に連動させます。この使い方は、他でも多く応用しますが、少々高度な体幹操作になりますので、今すぐにはできないでしょうが、体幹操作の基礎を、脳と身体に刷り込んで行けばいずれ相手の馬鹿力を、簡単に吸収して相手に返して崩せるようになります。ではまた。=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?5月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/05/02
コメント(0)

一般的な身体の使い方としては、押された方向に対抗して押し返す、引かれた方向に対抗して引き返す、というのが、ほとんどの人が行なっている身体の使い方です。しかし、いつまでもこのような使い方で、身体を使っていると、力の強い人にはより強い力で、というように筋力を鍛えて行かなければなりません。それと、このような体の使い方は、不自然で無理な使い方ですから、当然怪我や故障をし易くなりますし、体にも良い事ないでしょうね。では、鍛えても強くならない人や元々体が小さい人は、大きくて強い人には何もできません。諦めるしかないのでしょうか。いえ、そのために武道武術の身体の使い方がある訳で、小さくても力が弱くても大きい人にひけを取らずに対応できるのです。簡単に言うと、力勝負をしないということです。勝負を避けるのです、と言えば逃げるのか!と思うでしょうが、実戦の勝負に勝つためには相手の土俵で相撲をとらないということが鉄則です。鋼鉄のような体には、真綿のような柔かさで、岩のような大男には、水のように流れるように。相手の力に対抗せず、一旦吸収して方向を変えて相手に返して上げます。ぶつからなければ、水のようになれるのです。色々な言い方があります、相手を無力化するとかゼロ化するとか、表現は違いますが、原理は全て同じものです。要は、相手の力とぶつからず、ベクトルを変えてそのままの力を相手に返してやればいいのです。「これはあなたの力でしょ!お返しします。」そしたら、相手の方は非常に喜ぶと思いますよ・満面の笑顔でネ・・ではまた・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?5月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/04/27
コメント(0)

フィジカルコントロールの基本の操作になる体幹操作ですが、体幹操作の基本になるのが感覚と意識のコントロールだと思います。感覚の中の触感を見ても、手首を持たれた力の強さや弱さは、一般の人達にも案外容易に感覚できると思いますが、握られた腕を相手の意識で感じられないように、数ミリ単位で動かして、相手の錐体外路神経系に働きかけて崩すという、僅かな動きの感覚を養成していく必要があります。一般的には、腕を掴まれてから、それを目で見て、視神経を通って脳の視覚野に送られて、脳から運動神経を介し、腕の筋肉を収縮させ腕を動かすという動作的回路です。が、皮膚や筋肉,筋膜への接触感覚の精度を、高感度に上げて行くことによって、目で見て動くという動作の数倍~数十倍速く動けますし、また身体能力を高度に使うことも可能になります。フィジカルコントロールと言っても単に身体をどう動かすか、と云うことだけではなくて皮膚や筋肉を一つのセンサーとして使う感覚も、フィジカルを高精度にコントロールするということに繋がっていきます。そして接触感覚から、接触しない空間感覚へと高度化して感覚を磨いて行くのです。感覚と意識でフィジカルを導いて行くようになれば、かなり精通した、武道武術の達人と言われるようになるのではないでしょうか。続く・・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?5月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/04/25
コメント(0)

フィジカル・コントロールとは、身体操作法のことですが、武道武術の高度な身体の使い方には身体のみならず、意識や気といった目に見えない部分の心や思考などを同時に使います。同時にと言うより、見えない意識や気というものに導かれて、身体が動き、他に作用すると考えた方が正解ではないかと思います。が、しかし高度の心身の操作法を修得するにしても先ずは、フィジカルの操作法を習得することが大切になります。フィジカル操作の中でも、体幹の操作法はすべての基礎になりますので、この地道な体幹操作の訓練が疎かなままでは、次のステップの意識や心で身体を導く段階で、身体が意識に導かれ正確に動くことができません。また、間違った自分勝手なフィジカルコントロールを身に付けてしまうと、修正するのに再たび多くの時間が必要になります。なので定期的に検証、確認の場が必要になるのです。体幹やフィジカルコントロールを、正確にマスターするだけでも、普通では考えられない程の能力を引き出すことができるようになります。まずは、フィジカルや体幹操作法を正確にマスターすることが、達人の道への最速最短の方法だと認識することが大切です。逆に言うと、体幹操作が中途半端ですと、先ほども書いたように、達人の道などまた夢の夢ということになります。達人的な技の部分だけを取り出して、その部分だけを方法論でインスタントに教えたとしても、見世物にはなったとしても、実際には全く使えるレベルには到底ないことは言うまでもありません。続く・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?4月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/04/16
コメント(0)

「直線と円」・・武道武術の高度な技には、これらの理解と会得が必須であり、これらの深い理解無しに武道武術の上達は有り得ないと言えるでしょう。昔から伝わる空手では、円の動きも多く存在しますが、どちらかというと直線を多様するようです。現代の空手は海外の格闘技などの技術の影響を受け、回し蹴りやフックなどを多用しますが、元々の空手には、直線的な前蹴りと足刀蹴りしかなく、直突きと鉤突きが主でした。鉤突きは現代のフックに似ていますが、実際は直線的に使います。なぜ直線なのか・・? これにはかっての武術の根幹とも言える生命のやり取りが関わっています。命が掛かっている勝負の中では、直線の最短距離の技を身に付けることは、的確に敵を仕留める最善で且つ確実な方法だったのです。とは言っても、すべての武術は好んで人を殺傷するものではありません。すべての解決の道が閉ざされ、自分の生命と、人の生命を守る時に、止む無く使われるのが、武道武術の技なのです。「武士の刀」・・これは一生涯一度も、人に向けて抜かないかも知れない刀を、有事の際にはいつでも抜けるように、刀を日々磨き手入れをし、技を磨き心を練って準備を怠らない。ということです。直線に対して円の動きは、合気道などに多用されていますが、合気道の考え方の根本には、和合の理があって相手を殺傷するのではなく、相手と一体化し相手を導き相手を最小限のダメージで取り押えるというものです。一般的にも武道では円の動きということをしきりに言っていますし、教えていますが、果たして真に円の動きを深く理解し、また体現できる方が、どの位いらっしゃることでしょうか・・・直線は、最短最速・・より致命的な殺傷能力を持ち且つ寸前で止めることも可能である。円は、柔かい動きで相手を導き・・最小の力で相手をより最小のダメージで取り押えることができる。続く・・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?4月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/04/08
コメント(0)

↓日本を救う男たち/Team Japan歴史的な大震災と同時期に生きている私たちにこの大自然の脅威は果たして何を教えようとしているのだろう。直接、震災の影響を受けていない場所に住み普通の生活をしている私たちは、ただ被災地を見守り祈るしかないけれど、日本人すべての人が今この震災で大切な何かを学ぼうとしている。普通に過ごしていることって、実はすごく幸せなことなんじゃないだろうか・・・震災に遭遇した人たちは、一瞬にしてさっきまで普通にあった「普通」を失ってしまった。何が幸せなのか? どういうことが幸せなのか?自分はどのように生きるべきなのか?自分は何のために働いているのだろうか?私たちは、世界中でも有数の豊かな国に生まれてこの未曾有の大震災でも直接被害を受けなかった。そんな恵まれ過ぎている私たちは、一体何をするべきなんだろう?被災地に向けて、私たちは何ができるのか?自分の今やるべき使命は何なんだろうか?ただ言えることは、震災の犠牲になられた大勢の方たちのことを思えば私たちは普通に与えられた時間を無駄に生きてはいけないということだろう。普通に今ある時間に感謝しながら・・一心に取り組み自分を高めてくれるものに感謝し目の前に普通にある一日を懸命に生きることが私たちがこの震災で学ぶべきことだろうと思う・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?4月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/04/04
コメント(0)

「相手との融合・・相手と一つになる・・相手との一体化」上のどの言葉も、武道武術ということからは到底かけ離れている言葉にしか聞こえませんし、武道武術とはまるで真逆の意味のように思われます。武道武術といえば、格闘技・喧嘩・殺し合いなどと一緒くたにし、人と一体化という言葉の意味など、どこを探しても見当たらないと感じている方が多いのではないでしょうか。武道武術の「武」の字は、矛を止めると書きます。矛・・は戦ですから、戦を止める術、または争いを止める道という意味でもあるのです。相手に憎しみを持ったり、恨んだり、殺意があったりという気持ちや心の状態では、武術の真の技は相手に掛りません。相手と一つになって一体化して初めて相手に技が掛ります。これはウソのような信じられない話だと思われている方が、多いと思いますが、真の武道武術の技はそうなのです。私も格闘技的武道・・?をやっていた時期は、そう教えられても全く解らないどころか、無礼にも、「ウソだろ!!」と内心では思っていました。でも真の武道武術を知った今、当時の未熟者の自分に只ただ赤面するしかありません。武術の技を掛けるためには「相手に入る・相手と融合する」ということが大前提になります。恐らく真の武道武術に熟練された達人名人の方が、もしこれを読まれていれば、「当たり前のことを書くな!」と思いながら読まれているかも知れません。解る人は解る、解らない人は解らないまま批判をする。自分の無知を顧みることもなく・・解る人、解ろうとする人たちと、共に志を持って前へと進んで行きたい! そう私は思っています。=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?4月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/03/31
コメント(0)

「一瞬相手を固める・・?」・・なんのこっちゃ・・??恐らく多くの人はこう思われたことと思います。逆にこの意味をすぐに理解した方は、武術の身体操作を熟知された達人か、もしくは本格的に修行中の方だろうと推測致します。武術の極意とも云われる身体の操作術を修得する為には、このことを避けては決して通れませんし、解らないままでは相手に技が掛かることも決してありません。一般的には、自分の方に向ってくる力、もしくは攻撃に対して、後へ引くか下がるか逃げるか避けるか、いずれかだろうと思いますが、武術の技はこれでは掛りません。相手との接触技であろうと、間合いのある空間であろうとその攻撃から逃げるのではなく、相手に入って相手を一瞬固めてしまわなければなりません。先の攻撃だろうと後の先だろうと逃げては技は掛りません。注意すべきは、この意味を理解せず、只無闇に前に出たり下がらないだけですと、恐らく一撃もしくは一斬りに終るのが関の山です。相手と拮抗させる感覚・・ある程度解る方には今書いてる意味は重要な極意へのヒントになるでしょう。「臥竜会教室」の生徒の皆さん、これ読んでますか?ちょっと内容が中級レベルに近くなりますけど、次回の教室で、この話と説明をしながら稽古をしましょう。お楽しみに・・但し、体幹操作がほぼ体現できてたらの話、これが前提です。休むと損しますよ。今度いつ取り上げるか未定ですから。=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?4月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/03/21
コメント(0)
3月11日、未曾有の大地震と大津波が東日本を襲いました。お亡くなりになった方のご冥福をお祈りしますと共に、被災された方々へ、心よりお見舞いを申し上げます。私達にはテレビの報道を見ながら皆様のご無事を見守ることしかできませんが、ほんの心ばかりでも、同じ日本人として被災地の方々のお力になれればと、募金の呼びかけをさせて頂いております。是非よろしくお願い致します。 飛鳥塾/中山インターネット募金「緊急災害募金」 - Yahoo!ボランティアhttp://bokin.yahoo.co.jp/donation/detail/1630001/index.html3月11日、東日本の大震災、大津波でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りします。また、家やご家族、ご親族を亡くされた方々に心よりお見舞いを申し上げます。私がこの未曾有の大惨事の一報を知ったのは患者さんを施術中にいつもBGMで流しているFM放送でした。最初は「またどこかで地震があったのか・・」程度の認識でしたが、施術が終わってテレビを点けると何とそこには今まで見たこともないような大津波で、町が流されている後景でした。関東までも被害があったことを知り、すぐに関東に住む子供たちや知り合いなどの安否を確認しましたが、一時電話が不通になっており安否確認が取れませんでした。暫くして、無事であることが分かり一安心しましたが、昨年末に挙式を挙げたばかりの次女の夫(消防士)が、地震発生当日の夜、緊急救援第一次隊で被災地に向け出発しました。恐らく今も、消防士や自衛官、警察官の方々は瓦礫の下から一人でも多くの方を救出すべく活動されていることを思えば、私たちは何をすればいいのか、と自問せざるを得ません。関東にいる警察官の長女夫婦も緊急事態の勤務に従事している模様ですが、子供たちの心配もさることながら被災された方々の深い悲しみを思うと、今自分にできる事はなんなのかと今も考え続けています。しかし今、全国の日本人が自分のことはさて置いても、何か被災された方たちのために、何をすべきかを考え行動し始めています。本来、日本人は自己を滅しても他を助けるという精神を持っている国民だと思います。たぶん日本人のDNAの中には、敗者を労う精神、勝って奢らぬ精神、自己犠牲をもって他に尽くす精神などの武士道精神が脈々と受け継がれているのだと思います。今こそ、我々一人一人が自分は何ができるか!を考える時だと思います。きっと私たちが熟慮して行動した結果が、被災された方たちの大きな力になるのだと信じています。
2011/03/15
コメント(0)

私も例外に漏れず強さに憧れて武道武術の世界に足を踏み入れた一人です。しかし「強さ」?・・とはなんでしょうか。誰か人と比べて強いということでしょうか?また別の何かと比べて強いということなのか・・?K-1選手に勝ったら強いのか?プロレスラーに勝ったら強いのでしょうか?もしそうだとしたら、強さとはどこまで行っても際限のないものにならないでしょうか・・?スポーツではなく勝負ならば、プロレスラーに勝つためには、機関銃を持って行けば勝ちます。そうすれば負けた方は、恐らく戦車を持って来るかもしれません。際限なく・・広大な宇宙の視野に立って見れば人間同士の強い、弱いというのは、きっと、アリンコ同士が闘って「俺の方が強い!」「お前の方が弱い!」と、言い合ってることと果たしてどれ程の違いがあるのでしょうか?私は強さに憧れて武道武術を志しました。そして初心の頃はどうしたら人に勝てるかばかりを追い求めていましたが、自分を知り自分と戦うことに目覚めると、いつしか自分の・人間の弱さを知らずには済まなくなるのです。人との優劣ばかりを追う間は、自分に強いという鎧を無理にきまとおうとするので、本当の自分の弱さを見ようともしないし理解もしてません。自分の内側を覗き戦い始めると、自分の弱さが嫌という程に身に沁みてきます。そして打ちひしがれ絶望し逃げ出したくなります。実際はここからが「本当の強さとは何か」を知り、また本当の強さを得ることができる好機なのです。本当の弱さを知って始めて本当に強い自分に生まれ変わるチャンスなのです。しかし、多くの人はこの手前で色んな理由を付けて諦めて行きます。だからこの世は何かで成功する人の方が圧倒的に少ないのです。恐れずに自分の内側を直視し、自分と闘えない人はその他大勢の骸の中で夢を諦めるしかないのです。外部に向って何かを求めてばかりいる人は、自分の中ですでに完成された"もの"を見ようとしません。自分の内部に、しっかりと目を向けられない人は、外の状況ばかりを気にしながら一生を終えます。天から何かが舞い降りて来て、突然ある日スーパーマンにあなたがなることは決してありません。外部に期待してばかりいても、誰もあなたに強さを授けてくれる人はいません。言い訳ばかりせず、自分の内側を見ることです!現実逃避ばかりせず、自分の内側と闘うことです!「覚悟」「決意」 これらの言葉には沢山の重みが詰まっています。決して・・軽々しく口に出せるものではありません。これらに付いてはまた次回・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?4月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/03/08
コメント(0)

「そこに山があるから登る!」山とか登山に興味がない人にとっては「山があっても登らない!」のです興味のない人にとっては、それがどれ程凄かろうが、素晴らしかろうが、「ああ、そうですか・・」で終り。ですから、その価値が分からない人に何かを伝えようとしても、まず無理なんですよね。猫に小判を与えるようなものです。「3年掛けて師を探せ!」「3年掛けて弟子を探せ!」これは武術の世界で云われる言葉ですが、武道武術の世界も同じなんですね。本当に自分に価値を与えられる師は、そう多くは存在しないでしょうし、また逆に言えば、本当に伝えたいと思う価値を理解し受け止めてくれる弟子もそう多くはいないでしょう。家庭もビジネスもすべて、価値観を共にするお互いの「信頼」があってはじめて成り立つように、師弟の中でも互いの価値観という「信頼」があって初めて極意の受け渡しが完了するのです。猫は小判の価値など解りません。そんな猫に小判を押し付けても無駄でしょう。昔からその価値を理解する人にだけ極意が伝承されたのです。そう、人が自分に好意を持つ人にだけ心を開くように、神も信じる者にのみ福音をもたらすのです。昔から武道の四要として「一眼 二足 三胆 四力」と云われますが、逆に武道の四戒として云われるのが、「恐 驚 疑 惑」恐れるな,驚くな,疑うな,迷うな、ということです。人生でも、恐れず、疑わず、自分の選んだ道を信じて生きて行け!ということでしょうね。=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?3月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/02/23
コメント(0)

意識が鮮明になると人はどう変わるのか・・?我々はある動作を行なう時、例えばどこかに出かける時、またはもっと身近な動作で、頭を掻く・・なども無意識に行動して勝手に手足が動いているように思いますが、実は無意識がきちんと手足に命令信号を送っているのです。ただ我々は身体が勝手に動いているように錯覚してるだけであって、身体内部では脳から中枢神経、中枢神経から末梢神経へと信号が流れて手足が動く、というように常時忙しく働いている訳です。しかし、人は無意識という自動運転に身を任せてしまっていると、車のようにオートマに慣れてしまい、マニュアル車は運転できなくなってしまうのと同じように、身体の脳や神経の伝達回路も細くなったり、断裂したりする箇所が増えてきて、本来又はそれ以上の機能を出せなくなります。そのため敢えて意識的に意識を使う訓練をすると、意識が鮮明になり、太くなり、道路が広くなるのです。人間は身体だけで動いている訳ではなく、また心だけで動いている訳でもありません。心身一如・・常に一体となって動いているために、心が病めば体も病むし、体が痛ければ心も滅入ってきます。ですから、心身を一体にして使うことを学べばいい訳です。心身一如と言っても、心と体が同時進行している訳ではなく、常に心がリードして、その後に体が着いて行くという関係です。ですから、無駄なく間違いなく体を使うためには、意識の力を鮮明にする訓練が必要不可欠なのです。特に武道武術には、直接的に生死が掛っている訳ですから身体の精密な動きが絶対に必要であったのです。「形無きものは常に形あるものの主である」ということです。早くここに気付くことが極意への近道ですネ・・・=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?2月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/02/11
コメント(0)

意識を流す・・? 武道武術は高度になればなるほど、意識を自在に使いこなして、物理的な技となって相手に作用する力に変わります。私は「意識」という言葉で表現していますが、一般的に武術の世界では、「気」という言葉を使う場合が、多いようです。私も意識では表現できないような場合は「気」という言葉を使うこともありますが、しかし何でもかんでも「気」という言葉で、核心をぼかすのは好みません。初段階の意識の訓練は、自分の身体を力が連動して上下するような単純な稽古をしますが、上級になるに連れ、体内に波を創ったり、螺旋状に流したりして手足に重みという力を伝えます。それらの稽古を通して意識をより明確にしていきます。意識が明確になるに連れて、自分の体内のみならず、相手の身体にも複雑に自在に流せるようになります。意識を流せるようになったらどうなるの・・?というお話は・・次回をお楽しみに・・こっちも見てネ↓=達人養成塾=☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?2月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/02/02
コメント(0)

我々が生きるこの相対的世界には作用と反作用が必ず存在しています。70kgの人が地球上に立てば、同じ重さで抗力という反作用が重力と逆の方向に向って働いています。ですから我々は吹き飛ばされることなく、地面に押し潰されることなく自由に立って動けるのです。作用と反作用は、あらゆる所で働いていますが、我々は、ほとんどそれには気付かずに当たり前のように生活しています。押せば同じ力の反作用が押したのとは逆の方向に働きますし、引けば引いただけの反作用が、引っぱり返しているのです。我々の周りでは、普段の生活の中でも様々な場面で作用反作用は働いています。例えば、怒っている人に会うと自分も腹が立ってくるし、笑っている人に会うと自分も笑顔になることなどは皆さんも経験していると思います。相対的なこの世界では、作用反作用は自然の法則であって、必ずそうなるように自然界で決まっているのです。ということは、人や周りが変わるのも自分が作用を起せば変わるということになります。自分の在り方で自分の周囲は変えることができるということになります。武道武術でも、この作用と反作用を巧に活用しているのを皆さんご存知ですか・・・?一般的な並のレベルの武道では、動きの速い相手には速い動きで対抗しようとしますが、もっと武術が高度になると、相手の速い動きに反作用を起してより速く動くのではなく、極限までスローな動きで対峙するのです。高度な意識的制御でスローな動きが出来れば相手も速く動けなくなるし、力も出なくなります。これが意識を極める!と書いて「極意」を修行するということです・・。 次回に続く・・こっちも見てネ↓☆体幹操作法の習得は諸芸全般一流の登竜門!☆「極意」とは意識を極め自在にすること!☆一瞬にして相手の力を無力化する技法とは・・?2月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/01/25
コメント(0)

透徹力とは、突き貫いていく力のことですね。武術武道では、スポーツ武道や格闘技の試合のように表面を打つ叩くの力を強化するための筋力トレーニングは行ないません。筋トレで肉体の筋力を強化する代わりに意識の強化を徹底して行ないます。と言っても、透徹力と意識が何の関係があるの?と思う方も多いと思います。例を上げれば、目の前の物を取るとき皆さんはいちいちこれを今から取るぞ!と思って取る人はいないと思います。しかし武術の訓練では、実際に手が動く前に先ず意識でそれを取る訓練をするのです。あえて意識を使って物を取り、その後に実際の動きを意識の後を追うように行なって、意識と動作を一体化させる訓練を積んだ上で、実践的に使う時には意識を消し無意識に使えるようにします。そのためにも、意識的に動きが意識に導かれるように動く訓練を徹底して行なわなければなりません。攻撃も防御も実際にいる相手の体や突きや蹴りを意識で突き貫き、直後に実際の攻防を行うのです。この面倒臭い修行を征した者だけが、世間で云う達人という称号で呼ばれるのです。 次回に続く・・こっちも見てネ↓☆体幹内インナーマッスルの操作法!☆コア感覚の養成!☆一瞬で貴方は無力化を体験します!1月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/01/12
コメント(0)

明けましておめでとうございます!と言っても もう明けて6日目です・・(遅)正月気分はそろそろ抜けてくる頃ですが、中々まだ抜けない・・というか、現実の忙しい日常に戻りたくない! と思っているあなたに気合を入れる意味でこちらをどうぞ。会津藩士の子弟教育「什の掟」1、年長者の言ふ事に背向いてはなりませぬ。2、年長者には御辞儀をせねばなりませぬ。3、虚言を言ふ事はなりませぬ。4、卑怯な振舞いをしてはなりませぬ。5、弱い者をいじめてはなりませぬ。6、戸外で物を食べてはなりませぬ。7、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。ならぬことはならぬのです。今こそ日本人は武士道精神を思い起こせ!・・・と、独りでそれ程大きくもない声で叫んでます!!今年もよろしくお願いします。 次回に続く・・こっちも見てネ↓☆体幹内インナーマッスルの操作法!☆コア感覚の養成!☆一瞬で貴方は無力化を体験します!1月度「体幹操法」を体感するセミナーページへどうぞ!
2011/01/06
コメント(0)
全817件 (817件中 1-50件目)


![]()