セレナアデ
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隣家の老猫がうちで黄昏て?いる。具合でも悪いのか?近くにいたのが私だったからか逃げようともしない。妻だったら飛び去っているところだ。右から振り向いて私を確認する。生垣に何かいるのか?とも思うが飛び掛かるふうでもない。今度は左に振り向いたところで・・眠くなったのか?眠くなっただけなのか、痛みを堪えてでもいるのか?正面を向くと又、ひたすら生垣に向き合うのだった・・。ところで、二カ月くらい前だったか鹿児島出身の阪大の先生が鹿児島のローカル紙にエッセイを書かれていたのを妻が兄貴のところから切り抜いて持って帰ってきた。タイトルが「長〇の女たち」となっていた。石牟礼道子の研究者で、天草に行く為にこちらを通過された時の思いを書かれたものだった。当地に触れて、石牟礼道子の小説に出てくるこちら出身の女二人に思いを馳せたものだった。その小説に出てくる女二人は家が貧しく風俗に売られる事になってしまっているのだが、エッセイには「他所からやってくる娼妓たちの多くは天草や長〇の生まれ」と書いてある。これではまるで娼妓の供給源の島のようではないか?まず、このタイトルについてこの先生に一言云うべきではないかと思い至ったのだが・・。しかしながらまずその小説を読んでみてからにするか!という気になる。という事で「椿の海の記」を購入して読んでみるが一人の女(ぽんた)しか出てこない?しかもあっけなく学生さんに殺される・・。またエッセイをよく読んでみると「十六夜橋」も書いてありこれも購入!第四章みずなのところに詳しく出ている。二人目の女の父が借金して船を造るがすぐ遭難してしまい・・というそういう流れだ。その後その女の弟も目端の利く存在として小説の中に現れ第四章は良い感じで終わる。家が極貧となり女の子を売るという事は全国的に昔からあったことで今回のエッセイのタイトルに違和感はあるが鹿児島出身のその阪大の先生にとって、石牟礼道子の小説に出てくる娼妓二人の存在・境遇がよほど印象深く残っていたんだろうとも思える。そう言えば、エッセイの最後は彼女らに寄り添う思いで終わっていた。今回私が石牟礼道子の本を二冊買い読んだ事も、今回の先生のエッセイの狙いだったのか?こちらでも鹿児島全体でも石牟礼道子に初めて触れた人がけっこういたかもしれないのだ。(兄貴のところで漏れ聞いたが、親戚のある方も購入して読んでいるとか^^)という訳でタイトルはもうどうでもよくなったのだった!
2025.11.14
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