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あまりに良いお天気なので美ゅらSUNビーチを歩いてきました。展望台で自己ヒーリングと家族へのヒーリング。いやおう無くプラーナがみっちみちになります。地球は怒ってないですよ。マザーアースはおおらかな魂です。私たちは赦されているのですが多くの人は自分をなかなか赦すことができません。「内なる神とひとつになる許可を自分に与える。」今日も感謝とともに。
2012.01.28
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昨日は劇場版テンペストを観てきました。映画館はアバター以来。テンペストってシェークスピアでしょ、なんで仲間さんが主演なんだろ?と言うほど何も知らずに観ました。ぶつぎれ、こまぎれみたいな演出やぎりぎりセーフなところや、アウトなところも多々ありましたがところどころのいいセリフや、沖縄の文化や歴史への興味共感、一部のいい演技などに救われて楽しめました。終わってみたら、脚本が大森寿美男とあり、そうだったのか、と思いました。彼とは劇団300(さんじゅうまる)の「1の1の6」という芝居の公演で役者として一緒に出ていて3ヶ月という長丁場で最後は山形公演まで行ってその後もしばらくとても仲良しだった記憶があります。大所帯の中で、当時仲良しクループだったのが大森くん(もりもり)と後にテツandトモでブレイクしたトモと多分今でもショービジネス界で活躍している成瀬海彦(なるなる)でした。トモなんて確か19歳だったと思います。大学生で、優しくていい子で、山形なまりで、詩吟がうまくて、あほでかわいかった。宇梶(剛士)さんもご一緒だったのですが、宇梶さんをすごくしたっていましたね。宇梶さんはものすごくいい人で私も大好きでした。私は彼を確か「ボス」とか呼んでいました。テレビで拝見するとよくわからないのですがどまっすぐでスケールが大きく純粋な方だったと感じました。旅中はよく、宇梶さんにマッサージをお願いされました。「あなたのはマッサージなんていうちゃちなものとは違う。頼む、俺の腰を何とかしてくれ」とか言われて。当時からヒーリングのできる手だったようですね、私。なるなるは同じ年でインテリで、ものすごい美形で、気品があって大好きでした。座長の渡辺えり子さんにはあまり認められていなかったようだけど。後におかまとしてブレイクしたのをみつけて、なるほど~でした。もりもりは、一歳違いでお誕生日が一日違いで当時から自分の劇団を率いていて詩的でちょっと薄暗い脚本を書いていました。その薄暗さは純粋で好きでした。闇ではなく美しい薄暗さで。渡辺えり(子)さんは当時から売れっ子だったけれど彼女の世界はおおざっぱで場当たり的でひとりよがりであまり好きじゃなかった。もりもりの繊細さは、当時ではまったく売れそうに無かったけど後に脚本家として有名になってその脚本は社会派ドラマなんかが多かったりしてそれでもところどころにきりっとした切り替えしがあり「この言葉でなくてはあらわせないんだ、この悲しみは・・」という風に言葉が並んでいたりして嬉しく思ったりしています。20年以上が経っています。でも本当に、20年くらい経たないとわからないことってたくさんあります。この言葉は大学の演劇専攻の同級生でずっと役者をやっている子の言葉。20年くらい経たないとわからないことってあるよ、なぁ~。20年くらい経って深く思い出せるような出来事や思い出を共有できる仲間ってその時はわからないけれどただならぬ縁とつながりなんだろうなぁと思います。
2012.01.24
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私は自己紹介などでスピリチュアルの実践を始めたのを27歳のお誕生日から、と言っていますが求めていたのはもっとずっと前からのことです。27歳で何が起こったかというと、真理の後姿を見つけたのです。何度か触れていますが「人類を救う治療法」という本に引き寄せられその中で「4段階の意識」という記述があって顕在意識、潜在意識、超意識、宇宙意識(=神)つまり意識の深いところへ行くほどそれは純粋で高い神の意識へと近づくとされていて「これはきっと真実だ」という風に感じました。そのほかにも真実を感じさせる様々なポイントはたくさんありましたがそれまで神を探していてみつからなかった私にとってこれで神がみつかるかもしれない、という信頼がそこに生まれたのです。そうです。信頼です。当時は今のようにスピリチュアルという言葉が一般用語ではありませんでした。自己探求したくてもその方法は宗教か、自己啓発セミナーなどが一般的でどちらにも決して純粋にひきつけられることはありませんでした。大学ではクリスチャンの教えを学び、礼拝も賛美歌も、司祭の前島誠先生も大好きで(ちなみにRuach[ルーア]は前島先生の礼拝の講話のなかで初めて耳にした言葉です。ヘブライ語の発音で「ルアハッ」という音を前島先生の声で記憶しています)信仰、つまり神を一番のお手本として生きることにはまったく異存はなかったのですが肝心の神がなんなのか、どこにいるのか、神の真意とはなんなのかまったくわからず、それは学ぶほど、知識を得るほど、遠くなっていくように感じられていました。実際に私は、心が引き裂かれそうに辛くなると神に見捨てられたような気持ちで泣きました。もし神が「すべての子らを愛している」ならなぜに自分はこのような心境に追い込まれるのだろうとまさに神をも呪ったこともありました。そんな時に4段階の意識、という記述を見て私は信頼する気になったのです。神は天のどこか遠くにいる外人みたいな人ではなく私たちの意識の一番奥、中心にある、という真実を私は直覚で真理だと感じ「信頼できる」と認識したのでした。私のスピリチュアルの実践というのはその信頼のもとに、自分を変えるワークに取り組むことにあります。自分を変えるというのは簡単に言えば真の自己(内なる神を核とする自己の魂)の周辺に表面的にくっつけた癖や習慣、思い込みを取り払うことです。その癖や習慣や思い込みは、この肉体に深く刷り込まれていて時にはその肉体を生かすために使ったりしていますので簡単に取りはずして捨ててしまうのは難しいのです。肉体を生かす役割はそれらの表面的な癖や習慣ではなく真の自己のパワー=神=宇宙の根源の生命力=愛・叡智が持っています。ですが、そのことを思い出し真の自己のパワーに依存することを思い出すには古い乗り物を捨て、その席から立ち上がって去るための信頼が必要になるのです。たとえその姿が見えなくても声が聞こえなくても証明をすぐにしてもらえなくてもなんの確証もないまま何も持たないままそこに飛び込むことが信頼です。信頼をもって飛び込んだとき着地したあたたかい大地こそがその懐です。懐で寝起きしているうちにやがて「あれ?もしかして私は救われているんだろうか」とじんわりとその大きな愛がわかり始める。神の愛はそんな感じのものです。
2012.01.20
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今日はてまえみそのようですが、主人の全身調整(鍼灸・推拿整体・レイキヒーリング)のこと。はたしてマッサージ師の奥さんがだんなさんにどれくらいマッサージしてもらえるか?料理人はおうちではまったく料理しない、なんていうお話があります。うちは、幸せなことに、主人は可能な限り私に施術してくれます。私に鍼するために鍼灸師をやっているようなものだ、と言ったりしています。嘘ではないのだろうけれど(冗談の可能性はある)それほどたくさんはやってもらえません。一日に何人もの患者さんを診て疲れている人にお願いできるのは緊急時くらいです。私はしろうとながら、幼いころからマッサージをしていましたので私がだんなさんにしてあげることのほうが圧倒的に多いと思います。でも先日、だんなさんに余裕があって、私は受けたいなと思うほど疲れていない時にだんなさんから「やってあげる」というお申し出があったので私は美容鍼をお願いしました。これは知っている人は知っていると思うのですがとびきり細い鍼を顔にたっくさん刺す施術です。鍼には細胞を直接活性させる働きがあり、また、気・血を流したり排毒するする作用があります。さらに主人のレイキは私に言わせると、どんとグラウンディングさせるような強いリセット力があるので、強制的なリラックス作用があります。そしてもちろん、美容のためには健康あってこそ、であってポイントを押えた全身の調整もしてくれます。結果、私はものすごい深い瞑想状態のような丹光とめくるめく光の中でエネルギーをぐるぐるこねて一掃されるような全自動いのちの洗濯機にかけられたような状態になりました。それで、思ったのは多くの人は何か問題が生じないと対処しないのだけど本当は積極的に自分へのエネルギー投資すべきなんだな、ということでした。私は基本的に節制した生活をしていますのでやっぱり何事にも控えめなところがあります。きびしめ、なんですね。だから、自分のクライアントさんにも「積極的に来て下さい」とはなかなか言いません。自己管理の範疇でできるならそうしてください、という感じです。人はちょっと疲れたりすると肉体的な欲求を満たすことで補おうとしますが例えば疲れたから甘いものを食べると体の中は、さらに疲れやすいほうへと傾いてしまいます。心が苦しかったり重かったり痛んだりすると人はお酒を飲みます。その時は一瞬マヒしますが、焦点がぼやけてしまって本当の対処は先延ばしに遅れていき、さらに、何が問題だったのか、本当に気づくべきことは何かということさえあやふやになってしまいます。本質的な対処、対処というより、本質的なエネルギーチャージは平常時からすべきことであってそうするほどに人間としてのちからがつくんだという風に実感しました。瞑想も本当にそうなんです。苦しいときにやろうとしても、座っていることすら苦痛なのです。でも平安時にするとぐんぐん深く入れるのがわかります。苦しいときにはまず痛みをとること、重荷を軽くすること、という対処が必要です。これは心身ともに同じと言えます。ですから、重荷や痛みが軽減したらもういい、というのは西洋医学風の考え方なのですが(ですよね。お薬は予防には使わないのが普通です)予防医学や心の養生は、元気なときこそ習慣となるよう身につけるべきものですね。世の中では鍼はぎっくり腰やとか肩こりの対処法程度の認識かもしれませんが間近に見ていると本当に人間の生命そのものを扱った医学だということがわかります。私は主人と出会う以前から、風邪をひいたら鍼灸院へ行っていましたし歌のライブの前日に腫れた扁桃腺も喉に刺す鍼で奇跡的に回復した実体験から鍼灸のすごさを知っていました。でもそれ以上に、特に不調が無い場合にはさらに大きなチャージができることをとても実感しています。
2012.01.17
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お正月2日に行ってきましたと記事を書いたのに写真を撮ったことをすっかり忘れていましたので改めましてアップします。青森の恐山に行ったとき、あの世を感じましたがここもあの世でした。沖縄ではあの世はぐそーといいます。ここがウバーマです。船でいうと舳先のようなところ。とても神聖な場所です。人が映っていますが、あの世の人ではなくうちの主人です。瞑想でプラーナをいっぱいいただきました。ニライカナイですよね。まさに。
2012.01.15
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OSHOもゆうとられました。Osho, 創造性のどんな余地も残っていないように思える掃除のような仕事をしているあいだ、どうしたら創造的でいられるのですか?《このページへ直接のリンクが貼れないようです。左のボタン[ライフスタイル]をクリックし、そのすぐ下に出る[今月の講話]へどうぞ》もしお掃除が創造的な作業でないなら毎日真の喜びの中でそれを行うことはできないでしょう。やがては飽きて、退屈して、その作業が無意味で虚しい行為だという理由をあなたの思考は探し続けることでしょう。飽きる、退屈するのは、心のなせる業。心は移り変わり実態がありません。心の表層の波ではなくその下に潜む大海に居るということは表層のあらゆる波にも動かされること無くその奥に横たわる真実とともにあること。「どこでなにをしていても本当の自分でいることができる」というのは、そのことです。なにかをしているときだけはスピリチュアルで「スピリチュアルなことかかわっていないとき」はスピリチュアルではない、ということが起こりうるとすれば表層の波に気をとられているときはスピリチュアルではありません。どのような善行をしても神の教えやスピリチュアルな仕事と言われているものに属しているとしても。いかなる行為の中でも行為者である自分に毎瞬気づき意識の内側からそれを観るのであればスピリチュアルです。真実があなたとともにありますように。
2012.01.14
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いったん心の浄化が始まると当然のことですが取り巻く世界には変化が起こります。(内面が変わるのでスクリーンに映るものが違って見えます)ヒプノセラピーでもレイキヒーリングやアチューメントでもだいたい同じことが起こり得ると言えます。(これらは潜在意識に高いバイブレーションを通して浄化します)最初は詰まっていた排水溝のごみがとれたようにすっきりした、軽くなった、ということが起こることが多いようです。視界が開けた感じがしたり、からだが伸びてまっすぐになったりまた、マッサージの後のだるさのようなことも起こります。これまで縮まったり歪んだりしたまま固まっていたエネルギーやからだがほぐされることで、ぐらぐら揺れる感じやどっと疲れが出るように感じられることもあります。眠気はよく起こります。それから、心の浄化が進むにつれ以前よりも心が敏感になる、と感じられる方は多いようです。以前だったら気づきもせずに通過していたことが心にとまるようになる、という感じです。そうすると、気になることが一時的に増えますので結果として以前よりも感情が揺れやすいとかまた過去の忘れたかった記憶などが思い出されて動揺するようなことも起こりえます。極端なときは長いこと握り締めていた感情が噴出するようになり涙が出て仕方ないとか、過去の怒りを手放した反動で罪悪感が強くなったりすることもあります。多くの人はこの段階で非常に恐れを感じます。悲しみと怒り、そして罪悪感というのは多くの人が忌み嫌う感情や感覚です。そういったことから逃れたいがためにスピリチュアルに取り組んだのに前よりもひどくなったように感じる、というのは大きな混乱を招きます。けれどそれは恐れるべきことでは決してありません。そこで焦って抵抗したり、元の古いやり方でそこから逃れようとしたり(例えば飲酒だとか、快楽的で、自分の波動を下げるような行為などで)元の習慣に戻ろうとするのはとてももったいないことです。せっかくお掃除した排水溝に水が勢いよく流れるのが恐いからもう一回古いごみを持ってきて詰める、というようなことになってしまいます。詰まっていた配水管から水が勢いよく流れるようになったら最初はその状況に慣れなくても、それがとても自然で気分のよいものだということがしばらくしたらわかります。ですから、流れ出ていくものはそのままにしておいてください。それで、もしかしたら「これは流したいけれど、これはとっておきたい」という気持ちが出てくるかもしれませんがそういう区別をしていると流れるべきものもうまく流れません。そのときに「流れを信頼する」という必要が出てきます。ですから、一度私のセッションを受けていただいたら変化の道のりを経て安心という領域に着くまではご質問やご報告いただくようお願いしています。変化のときを、大船に乗ったつもりで過ごしていただきたいのです。その大船は、私ではなく、神さまの大船です。信頼していただくのは本当は私ではなくて内なる神です。浮上してきたごみや汚れは、神が引き受けてくれます。安心して預けてください。そのように意識して過ごしていただくことで信頼や安心の中で過ごすという訓練も進みます。私たちは起こっていないことを恐れるという習慣によって身を守ってきたと信じています。それを信頼という習慣に乗り換えます。未知の領域に踏み込んだらこれまでの規範は役に立ちません。というより、新たな規範に出会うために古い規範を手放すことがその時行われている最も重要な作業です。新しい規範というのが、愛の法則です。愛というのは二元性を超えた、ひとつであり、最強で最高の法則です。愛は誰かに差し出しても減ることなく、双方に満たされます。心の浄化が進むと、この法則があなたを統べるようになるのです。疑いと恐れという古い規範から、愛と信頼という規範への壮大な乗り換え作業が進むということです。こういったことがスピリチュアルの根幹だと考えています。
2012.01.07
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お掃除が波動を上げるということにいつ気づかれたんですか?と、ご質問をいただいたことがあります。私は「貧乏だったときです」と答えました。以前はあまりに貧乏だったので人生に対して有益と思えることに対して積極的にに取り組むことが難しい時期がありました。それで、自分に投資できることは古本屋さんで本を買うこととアパートの部屋を掃除すること自分の部屋と心の中を常に点検して把握しておくことくらいでした。経済が立ち行かないと、最低限の生活のサイクルから抜け出すのは余計に難しく見えます。でも実際はそのことはそれほど問題ではないと今ならわかります。私たちが人生を有益に生きること、幸せへの道のりを歩むことへの転換は私たちが本当にそうなりたいと願いそうなることを求め実際にその道を歩むことそれだけです。多くの人は、幸せになりたいに決まっている、と思っていることでしょう。求めているけれどなかなかそうはならない。きっとそうなるには何かを手に入れたり会得したりしなければならないに違いない。もしくはそう願ってそれを手に入れられる人は限られた少数の運命に選ばれし人なんだろう、と。私も少なからずそう感じていた時期がありました。でも今は違いがはっきりとわかります。私たちがもし本気で幸せになりたいのであれば心を変えることに取り組むべきだということです。よく「幸せかどうかは自分の心が決める」という言葉を見かけますがそれを知っていても多くの人は「自分は必要なものをなんでも持っていて与えられているのに感謝できない。幸せを感じることができない。きっと私の中の何かがおかしいんだ。」とか「私が幸せでないのはあれやこれが足りないからだ。それさえあれば幸せになれるのに。」という風に思うでしょう。でも、そう感じるのは無理もないことです。なぜなら私たちは無数の無意識の記憶を基準にしながら良い悪い、快不快、価値が有る無いなどを決めていてその基準は刷り込まれた習慣や印象などというとても曖昧で本質的な根拠を欠くものだからです。そういった記憶の巨大な貯蔵庫を潜在意識と言っています。その潜在意識の中にある習慣から来る欲求、欲望に動かされながら私たちは普段生活しています。理性によって食い止めようとしてもなかなか思うようにならないのです。幸せへの道を実際に歩むこと、というのはこの潜在意識をお掃除してさらにその奥にある真の自己=内なる神を感じその中心とともに生きることです。でも多くの人はそこでこう思うでしょう。私は生き方を変えたくない。ただ、今より少しだけ、幸せになりたいだけだ。みんなが持っているものを私も持ちたいだけだ。私よりお金持ちはたくさんいるのだから今よりもう少し持つことができて恋人や結婚相手がいて仕事がそこそこ成功していて余暇には旅行に行って世界を見たり趣味を楽しんだりそういう普通の生活を望んでいるだけ。だから自分の内なる神のことなんて今は考えたくないんだ。もう少し欲望が満たされて満足したらそういうことを考えてみようと思う、などという風に。つまり、自分が変わるのはいやだ、というのが多くの人の考えなのです。癒されたいけれど、変わりたくはない。これまでの生き方で、自分は勝利したい。認められたい。自分の間違いを認めるみたいで変わるのはいやだ。それ以外のやり方がわからない。(それは、知りたくない、受け入れたくないだけですが)だから、普通の人みたいに、みんながやっているみたいに自分は成功して幸せになりたいんだ、という風に。もしそれが本当ならそうなっている人に教えてもらったらいいと思うのです。でも実際はそんな人はいないでしょうしみつかったと思っても、人の持っているものや条件などが違いすぎてきっと参考にはならないでしょう。本当のところそうやって、条件や持ち物などによって幸せを測定することは不可能です。私は人生をかけてそのことを学んでいます。条件や持ち物などに関わり無く誰もが自分の人生の幸せに取り組めるようなやり方を求めそれを見つけられたと思っています。何の秘密もないのでかえってそれを伝えるのは難しいのですができる限り工夫しながら伝えていけたらと思っています。もし人生の中に不充分だと感じる部分があるのであれば自分の心の点検を始めることをお勧めします。方法はたくさん地上に用意されています。誰にも知られずにひっそりとそれを始めることもできます。スピリチュアルに興味があって何かを見つけるために奔走している人も多いかと思います。紆余曲折して見つけるのは楽しい冒険ですが私たちが見つけたいのは真理だということを忘れないでください。真の魔法は内側にあり、外側からやってくるものではありません。外側からやってくる惑わしと決別し、目覚めることでしか真理と出会うことはできないのだということから私は惑わしの世界へ誘惑するものに警笛を鳴らす姿勢を取らざるを得ません。スピリチュアルのデパートに並んでいる商品を残らずゲットすれば自分が覚醒したように感じるのは更なる迷妄に陥ることになる可能性が強いでしょう。どんなときにも真理に向かうかどうかの分かれ道となるのは「気づき」により「心が変わるかどうか」です。気づきというのは小さな悟りのようなもので意識の目隠しを取り去ります。これが心のお掃除です。目隠しという隔たりが外れると私たちはより広く高くまた細密に世界を見渡せ全体性を理解できるようになるのです。2012年がスペシャルなすばらしいときになるかどうかは私たちの気づきにかかっています。それはどんなときでも変わりありません。今日もすばらしい一日でありますように。
2012.01.05
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今年の三が日は沖縄聖地詣で三昧となりました。我が家の休日ははほとんどいつでもノープランなのですがだいたい終わってみるとなるようになっていた、ということが多いです。昨年は琉球八社を巡りましたが今年は初心に還って斎場御嶽と久高島、首里へと参りました。聖地と言われているところは地磁気の高さのためなのかバイブレーションの体感がとても強く感じられます。パワースポット、というのはこのように地磁気と人々の祈る心のパワーが相まって波動調整されるのだろうな、という風に感じます。久高島は、沖縄移住の準備で来たとき以来でした。何度も行ったような気がしていたのですが3年ぶり2度目の巡礼でした。斎場御嶽は最近とても人気があるようで観光客の方が大勢みえていました。沖縄以外の方は多分、斎場御嶽などの御嶽や拝所を過去に珍重されていた遺跡だという風に認識なさっているのだろうな、といつも感じます。私も東京に居たころは、遺跡と名のつく場所や神社仏閣を訪れるとき少なからずそういう風に体感していました。でも沖縄へ来て実感したのは沖縄ではリアルタイムでこういった場所での祈りやご先祖さまへの法要が行われているのだ、ということです。遺跡とか遺産というのは仮の名で実際は今も祈りが日常捧げられています。観光地として入場料を払って入るような場所も別の門や入り口があって神んちゅさんやユタさんや祈る人々のための通り道がちゃんとあります。ほとんどの人が、切実に、というのか普通に、というのか、見えざる神の息吹やご先祖の思いや大地自然に宿る精霊の声に耳や心を傾けながら生活しています。決して観光客のマナーが良くないとかそういうことではなく体温の差みたいなものをリアルに感じて、いとおかし、という気持ちになります。久高島では島の突端のカーベル岬まで歩いてきました。これも地磁気の高さなのか歩いてもあまり疲れません。沖縄の景色にはだいぶ慣れてきましたがそれでも何度となく息を飲むほどの美しさでした。ニライカナイが何度も視界に重なって見えました。ウバーマの近くのビーチの真っ白い石(珊瑚)に腰掛けてしばらく瞑想しました。いつまででもそうしていられるほどの心地よさで目を開けると砂浜がゆらゆらと歪んで見えるほどでっかくてたくさんのプラーナに囲まれていました。SF映画なんかでのタイムスリップする直前のCG画像みたいで笑えました。さて、スピリチュアル界では今世紀初頭から噂の的だった2012年が来ました。いろいろと言われていますが何よりも多くの人が自己の内面、真の自己に目覚めることができると世の中の波動もぐっと上がっていいと思います。地球の磁場が後押ししてくれてそういった作業のしやすい時期だと思います。でも人間としてすべきことは特別なことは無いと思います。瞑想、内観、内省、こつこつと意識と向き合いお掃除を欠かさないことだと思います。人生はお掃除だと思っています。(生まれて)来たときよりも(潜在意識を)きれいにして、帰ればいいのです。ピクニックの極意と同じですね。この極意さえ掴めると、存分に人生を楽しみ、醍醐味を味わうことも容易になります。2012年はお掃除のはかどるときです。みなさんご一緒に、はりきっていきましょう。
2012.01.04
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新年のお歓びを申し上げます。地上のおひとりおひとりのすべてに祝福がありますように。地上のおひとりおひとりのすべてが祝福を受け取られますように。地上のおひとりおひとりのすべてがひとつとしての喜びを分かち合うことができますように。今年も精進いたします。どうぞよろしくお願いいたします。感謝とともにAZU
2012.01.01
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